「感動工学」の教科書

人間を科学する、といえば、まず「人間工学」がうかぶ。
これは、人間という動物の骨格やら筋肉のつきかたから、どういう座面にすると疲れずに長時間快適にいられるか、といった側面を「工学」したものだから、物理的なのである。

大学の学部には、「人間科学部」というのもできて、こちらは心理学などを応用して、感情を科学するというアプローチもくわえている。
現代では、いかに人間をストレスから解放するか?という問題は、社会的ニーズがたかくなっているし、「心とからだ」を「総合・統合」しないとわからないことばかりだと気がついた。

もちろん、むかしからある「医学」も、人間を科学する学問だし、経済学や政治学だって、人間がわからなければこたえがみつからない。
そんなことをいったら、文学も芸術も、法学も、どれもこれも人間を理解しないとつうようしないから、哲学はむだではないこともよくわかる。

いまは、どの学問分野も専門によって細分化されてしまった。
だから、伝統的な学問分野の名前だけをみると、おそろしく深い世界にはいりこんでいるようにみえるが、ひとりの偉大な人物がその深堀をしているわけでも、指揮をしているわけでもない。

無数の「専門家」が、その専門部分をまるで一本の針でつついているような姿でいるのに、おおざっぱな目には、ある分野の深掘りがすすんでいるようにみえるだけだ。
つまり、新聞などの写真印刷のように、部分ではちいさな点(ドット)でしかないものを、遠目からみれば画像として認識するようなものである。

ほんらいの「教養」が「教養」でなくなったのは、こうした細分化が原因で、専門家には、専門外のことになると、とんとわからぬ世界になってしまった。

さらに、わが国の教育には、世界に類例をあまりみない、「系」という区別があって、「普通科」の高校生を「文系」と「理系」にきめつけて「専門化」させているのは、「総合・統合」への「反逆」をつづけていることとおなじだ。

オルテガがいう「大衆」とは、そんな「専門家」のことを指す。
だから、いわゆる労働運動などでいう「大衆」とは、ぜんぜん意味がちがうから、このちがいを意識しないと議論が混乱する。

むかしのテレビCMで、「わたしつくるひと、ボクたべるひと」というのがあった。
当時ですら、決定づけられた男女の役割分担に批判があったものだが、企業活動が「モジュール化」した現代では、すでに役割分担がはっきりしてきている。

たとえば、店舗づくり、という場面では、それが「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、コンセプト・メーキングにあたっての自社社員が「いない」ということがおきている。

典型的なのは、いまなにかと話題の「コンビニ」で、はたしてオーナーがどれほどじぶんの店の「店舗設計」にかかわれるのか?ということすらかんがえることもないだろう。
それがまた、「本部」の存在意義にもなっているからである。

上述の、「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、というのには、大手であろうが個人経営であろうが、も条件にくわわる。
つまり、たとえ「改装」や「改修」であっても、設計を他人に丸投げして、できあがった店舗を「運営」するだけ、ということができるようになっているのである。

ところが、ここにおおきな落とし穴がある。
店舗の工事「設計図」が他人まかせということには、まさに、「営業コンセプト」もふくまれるから、コンセプトから設計まで一貫しての「他人依存」という意味になる。

すなわち、じぶんの店の「根幹価値の創造」を他人にまかせることになっている。

もちろん、優秀な「請負人」は社内や社外にいるもので、こうした「プロ」にまかせれば、じぶんや自社での負担がないようにみえるから、まるで「リスク軽減」ができているようにもみえる。

しかし、この店舗で「稼いで」、その結果として生きていかなくてはならないのは、あくまでも「じぶんたち」なのだから、どうやって「コンセプト・メイキング」をするのかは、そのときに専門家におしえてもらっても、次からは自分たちでやる、という気概があっていい。

にもかかわらず、それも面倒だとすれば、それは、自社で不動産を所有する意味がないビジネスモデルになりさがる。
これを、「経営と運営の『分離』」というなら、おおいに異議のあるところである。

毎日、お客と接しているので、その声からどういった店づくりがよりよい価値をつくるのかを検討するのは、当然すぎることなのに、それを放棄しては元も子もないはなしになるとおもうからである。
つまり、前述したオルテガのいう「大衆化」が、ここでもおきているのだ。

そんなわけで、上に紹介した書籍は、情報通信という業界のはなしを例にしているが、「統合化」という方向に逆ブレしていることに注意したい。

具体例が、ハイテクのむずかしい産業だから、じぶんたちとは関係ない、とかんがえるのも「大衆化」である。
主張の「パターン」を読みとれば、じぶんたちに「おおいに関係がある」のものだと気づくはずだ。

すると、本業はなにか?
という「原点」にかえれば、お客を「メロメロにさせる技術」が、問われるというあたりまえにもどることになる。

個々のサービスの瞬間は録画でもしないと記録できないが、そのための「舞台」となる施設や設備が必要になるのは、サービス提供をおこなうものの宿命である。
だからこそ、これを他人まかせにする、ということの「あやうさ」をいいたいのだ。

そこで、そんなかんがえをたしなめるためにも、『感性商品学-感性工学の基礎と応用-』(海文堂、1993年)あたりをご覧になってはいかがかとおもうのである。
バブル崩壊後の苦しい時期に、王道追求の教科書がでているからである。

あたかも、ものづくりのメーカーさん向けにみえるかもしれないが、はたしてそうなのか?

この春の、サービス業の新入社員にもよい教育カリキュラムになるはずなのである。

安くしないと売れない

日本がいまだに「先進国」といえるのか?といえば、2008年通常国会における大田弘子経済財政政策担当大臣の「経済演説」で、「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と認めたのは、歴史の転換点であった。

それでも、いまだ、先進国クラブである「OECD」のメンバーには一応とどまっているのだとかんがえた方がいい。
つまり、建前上は先進国だが、実態は「ふつうの国」になって、もう10年以上が経過しているということを、ちゃんとしっていた方がいいという意味だ。

それに、デフレ脱却をするために白川総裁を事実上更迭して、あたらしく日銀総裁になった黒田氏は、「2%のインフレ目標」を異次元政策で達成するといい放ったが、とうとうさいきん、あきらめたようである。
ならば、みずから辞任するのかと思いきや、ほかにやるべき手段をわかるひとがいないからではなく、だれも引き受けないから続行するしかないのだろう。

なんだか、颯爽と現れた天下の財務省「財務官」が、いまは焦燥して目の下のクマがめだつようになったようにみえる。
それは、インフレ目標が達成されれば、金利が上昇してたっぷり買い込んだ国債価格が暴落してしまうし、すでに日本株の5%ほどを保有するのが日銀だから、それをきっかけにした信用不安から株価暴落ともなれば、なんと前代未聞の「日銀が倒産」の危機をむかえる構造になっている。

だから、金解禁に邁進して昭和恐慌をひきおこした汚名をいまだに払拭できない井上準之助のように、末代までの恥辱をかぶる総裁にだれもなりたくないだろう。

日本経済は、「日銀天狗」という大天狗さまが一本歯の超高下駄をはかしてくれているが、その下駄の歯が折れたら大崩壊がやってくるようなおそるべき脆弱性があるのである。

日本銀行の資産は、昨年でわが国のGDPをこえてしまっているのだ。
じっさいに、日銀はじぶんで決めた方策で、インフレ目標を「達成してはいけない」状況をつくってしまった。

まさに、「八方ふさがり」なのだ。
これにくわえて、さいしょから現在まで一貫して「出口戦略」がまったくない。

真珠湾攻撃と構図がおなじなのである。
はじめたものの、終わり方をかんがえないのは、歴史に学ぶ謙虚な姿勢がないからだ。

黒田氏は3月4日の参議院予算委員会の答弁で、金融仲介機能の低下や金融システムの不安定化に関して、先行きの動向に十分注意していくと述べている。
精いっぱいの「他人ごと」にしてみせたものの、背中には大量の冷や汗がながれていただろうと推察するが、同情はできない。

金融仲介機能の低下、とは、おカネがまわらないという意味である。
つまり、経済の血液といわれるおカネがまわらないとは、たんに血行不良というものではなく、深刻な「貧血」になっているから、突然卒倒してもおかしくない。

それを、民間に「資金需要がない」と民間のせいにしてうそぶくが、そんなことはない。
内部留保を溜めこむのは、将来があぶないと予想しているからで、その元凶は政府の経済政策そのものからのリスクであるのに、しらないふりをするたちの悪さだ。

税引後利益が内部留保にまわるのに、内部留保はけしからんから課税せよ、とは、むちゃくちゃな二重課税のはなしだと気がつかない国会議員は、次期選挙でちゃんと落選してもらわないといけない。
マスコミは、こうした人物のリストをつくって報道する義務がある。

需要があっても借りられない。
不動産担保を要求しながら、静岡県の銀行不祥事で、全国に不動産「事業用」に貸し出すなというマッチポンプをやったから、おカネの行き場所が「個人用住宅」だけになってしまった。
人口が減少して、世帯数も減っている。

にもかかわらず、ついに、新築戸数が、世帯数をこえてしまった。
いったい誰が購入し、誰が住むのかしらないが、つくるだけつくる、という無責任が、将来の廃墟を建設している。
これは、すでに、「住宅を建てるだけ『バブル』」になっているということだ。

それではこまるから、移民を受け入れるはなしになって、日本の大学を卒業した留学生が国内企業に就職したなら、本国から家族も呼んで永久に日本に住める「告示」を改正するという。
「告示」をだすのは役人なので、国会議員も介入できない、と青山繁晴参院議員がネットニュースで暴露した。

金融機関は国内に投資先が「ない」から、資金を海外資産にかえていて、それが円安原因になっている。
生活者にとってみれば、原油や食料品など輸入物価が下落する「円高」がむしろ望ましいのにだ。

原発を稼働させたい希望から、もう稼働したものとして、輸出中心の経済なら望ましい円安を誘導するのは、3.11前からの「惰性」でしかない。

ほんらい、新規事業に挑戦したくても、金融庁のあらっぽい一括した管理で、それぞれの金融機関の機能に差がなくなった。
メガバンク、地銀、第二地銀、信用金庫、信用組合、どちらをみても特徴がなくて、顧客のビジネスをみきわめる能力もない。
これに、恣意的な政策投資銀行や機構が、さらなる余計なお世話をするという、政府のでしゃばりが経済を機能させない。

まさに、未来の人類のための痛い教訓になる「政府の失敗」の教科書のためにやっているとしかおもえない。
しかし、そんな教科書は、20世紀の終わりのソ連崩壊でだれでもしっていることだから、たんなる二番煎じにすぎない。

経済学は科学なのか?という批判があるなかで、もちろんマルクス経済学は文学かつ宗教学だったけれど、日本の政策に利用されている経済学も、データをつかわないという点において、いかがわしいものだ。
本来は、日銀や金融庁が主役なのではなくて、規制改革会議が主役にならなければならないのに、あいかわらず地味な脇役になっている。

そんなわけでわが国は、魅力に乏しいので、外国資本も流入しないから、海外からの直接投資(対内直接投資)が他国に比べて極端にすくない国になっている。
かつて、英国を復活させたサッチャー氏が、強力なリーダーシップで当時好調だった日本企業からの投資をあおいだのと対照的である。

これは、投資をしてもリターンがすくないと判断されているからだ。
このリスクは、ジャパン・プレミアムとなってはねかえる。
邦銀によるドル調達にかかわる金利に上乗せ分(プレミアム)がつくことをいう。

お金持ちの外国人が訪日してくれればいいが、そうはいかないとすると、「高級」を柱とするサービス業が疲弊する。
それが、「安くしないと売れない」になってしまうのだ。
これを「デフレ」と呼ぶのか?

「デフレ」とは、ものに対しての貨幣価値が高くなること=価格下落のことをいい、それは、個別の物価・価格「ではなく」、全体を総合した物価・価格の下落を指す。
高級旅館が安くなったのと、石油価格や電気代や水道代が値上がりするのを「総合して」どうか?だということに注意しないといけない。

だから、あの旅館が安くなったのは、デフレだ、といういい方はちがう。

あえていえば、外国人であろうが日本人であろうが、日本に投資すれば儲かる、という、そういう「政策」がもとめられている。

そんなわけで、日銀の黒田総裁だけではなく、彼に命じたひとがいる。

あしたは、それを書いておこうとおもう。

バスで河津桜を観てきた

何年ぶりかわからないが、バスツアーに申し込んで「河津桜」をはじめて観てきた。
季節ものの観光地には、いきたい気持を萎えさせる「混雑」がつきもので、マイカーがあっても躊躇してきた。

たまたまのタイミングで、地元ローカル旅行社のバスツアーがあったので申し込んだという経緯である。

「観桜」ということでいえば、死ぬまでに奈良県の吉野の桜は観てみたいとおもいつづけてはや何年。日帰りできる距離でなし、ましてや、宿もふくめ、その混雑ぶりを想像するだに気が引けて、とうとういまだに実現していない。

河津桜にかんしては、ちょっとむかしに旅番組で特集されていて、そのときの旅人は、加藤茶と左とん平、そして若手の女優の三人という設定だった。

みごと満開の桜並木を愛でながら歩いていると、加藤茶が「あと何回この光景をみられるのかなぁ」とポツリと言った。
若い女優は吹き出してわらったが、左とん平の目は真剣だった。
その左とん平も、もういない。
あらためて、御大二人のきもちがわかる歳になったと実感した。

沼津から天城をこえて河津にでて、それからは相模湾沿いを小田原に向かうコースだ。
「半島」の「半分は島」という略語をかんがえなくても、道路事情がいいことはない。

平日で順調にみえた道路が、河津の手前で渋滞になったのは、なんと道路工事による片側車線規制のおかげだった。
よほどの緊急工事なのだろう。そうでなければ妨害行為かともおもえるが、他県ナンバーがおおいから、個人客もかなりの数になるはずだ。

「駐車場」は、町をあげての盛況で、「シルバーセンター」紹介のみなさんが誘導係としてはたらいていた。
おびただしい数の「係」が配置されているから、乗用車なら一日700円、大型バス3000円の駐車料金も、人件費でおおかた消えていくかとおもえた。

これが、世に言う「イベント疲れ」なのだろう。

同乗した女性客が、「ここに住んでいる一般人には迷惑千万な『桜祭り』でしょうね」といったのは、言い得て妙ではあるが、その迷惑の原因に自分もなっている。

河津桜は、オオシマザクラ(大島桜)とカンヒザクラ(寒緋桜)の自然交配種として命名されたいわれどおり、緋桜のDNAがあるので、うすいピンクのソメイヨシノにくらべてずいぶんと赤みがつよい。
それに、ゆっくりと開花するので、葉もいっしょにでる特徴がある。

赤と緑のバランスが、なかなかにきれいなのである。
この「派手さ」が、好みなのか、中国系の観光客がたくさんいた。
さいきんはどこにいってもみかけるとはいえ、なかなか熱心に写真撮影していて、おもわず「牡丹好き」ゆえの共通点をかんじた。

河津川の堤防土手に植樹されている。
なので、土手にさまざまな露天がならび、まるで夏場の縁日のさきどり状態なのだが、ゆっくり休める場所はすくない。
そんなわけで、立ち食いや、歩きながらの「ながら食い」になる。

こんなところに日本の貧しさがあるといえばそのとおりなのだ。
それは、投資をしない、という意味である。
一方、観桜客も、それでよしとする無頓着がある。

だから、提供者・消費者双方の合意で成り立っている。
みごとな調和的貧しさ、になっている。

たまたまかもしれないが、白人客よりも犬連れがめだった。
べつに白人がすばらしいと言いたいのではないが、かれらの貪欲は、景観と飲食とに、快適性をもとめる。
こうした場所に、かならず「ちゃんとした」オープンエアーの店舗をつくるのは、そうした欲求がつよいからだ。

犬についても、犬を着飾ってやるのではなく、人間社会に適応した「しつけ」が完了していることが「自慢」であり「常識」なのだ。
それは、けっして虐待ではなく、落ち着いた気分でいられる犬に育てることが、人間の義務だとするかんがえによる。
だからこそ、公共交通機関に犬と乗れたり、公共施設に一緒にいけるのだ。

しかし、日本人のペット・オーナーには、そうしたかんがえが浸透しているとはいえない。
「観桜」の場で、犬どおしのうなり声があちこちでするのは、歩行者にとっても迷惑なのだ。

すでに昨日で「満開」におもわれたから、今週末の混雑は今シーズンのピークになるだろう。
運転手の立場からすれば、バスツアーで行くべき場所だ。

参加者たちはおおむね高齢者だったが、その慣れた行動に感心もした。
狭い車内での手荷物を、シートにかけられるフックの普及率は8割ほどであった。
立ち寄るポイントの売店に、こうしたグッズがないのは、こうしたお店の店主たちがバスツアーの客になったことがないからだろう。

車内で配布されたツアー案内は、おもに4月催行のものばかりだが、年金の受給月にあわせているのだろう。
この場での申込みには、ポイント特典が追加される仕組みにもなっていた。

なるほどが満載の現場がわかる。

「効率」をかんがえる

世の中は人手不足である。
景気がとりわけいいわけではないのに、こんな人手不足はかつてなかった。
むかしは、景気がいいと人手がたらなくなるから、むやみに新入社員も採用した。

新卒の就職・採用も、景気に左右された。
これを不思議におもうひとがいないのが不思議だった。

「景気」とは、「フロー」の出来事である。
「浮いている」のだから、いつどうなるかわからない。
しかし、採用する社員は、フローではなく「ストック」(資産)である。
すくなくても、定年までは景気がどうなろうと在籍するとかんがえるからだ。

だから、自社にどんな仕事があって、それが将来どんなふうになると予想するからここで採用して補充や育成しようとかんがえることが、本来の企業側の「需要」である。

「景気」によって、採用数を増減させるというやりかたは、いわば「需要」を無視した方法であった。
もっといえば、自社内の人材需要予測をしないで採用活動をすることであった。

自社内の人材需要予測とは、経営計画における「人事計画」の骨格である。
これをしなくてよかったのは、「骨」がない。
つまり、軟体動物的な企業であるとの告白でもある。

現代の「経営の神様」的存在のひとりである、稲盛和夫氏は「アメーバ経営」を標榜されているが、上述の「軟体動物」とはいみがぜんぜんちがう。

だから、あんがい社内でつかわれる言葉に、深い意味がないことがある。
「効率」もそのうちのひとつだ。

「効率」をかんがえろ、とか、「効率」をよくしろというけれど、「現状の定義」があいまいなままだったり、「効果を測る方法」をかんがえずに実施することに上層部がなんの抵抗をしめさないことがままある。

これをふつう「文学」という。

製造業を中心にした、「理系」のひとたちの集団では、会社の決定をするにあたって、「文学」ではなく「事実」を重要視するから、そのようなひとにはバカげたことを書いているようにみえるだろうが、理系人がたくさんいる企業だからといって、社長や経営陣が「文系」であることはたくさんある。

それで、現場レベルでは「理系」の発想をしているけれども、だんだん上層に書類がはこばれていくうちに「文学」の視点からの添削がはいって、当初の提案がめちゃくちゃになるようなマンガ話は、どちらさまにも日常化している可能性がある。

これに、「絶対安全」の四文字がはいると絶望的で、その提案はしないほうがましになるが、いったんやった提案が添削されてかえってきたら、どうにもならない事態を覚悟しなければならない。

提案書を放置するというやり方も、すこしは効果があるが、不思議とそうしたばあいは「うえから」督促されるもので、なにか適当に書きたして「再提案」したことにしなければならない。

これ自体が「効率」の逆をいく「ムダ」なのだが、「文学」がすきなひとには、「ムダ」が「効率」にみえるという共通の特徴がみられる。

季節ものの「牡蠣」が原因の食中毒が発生したというニュースをうけて、むかしからシーズンになればレストランの目玉メニューにしていたある高級ホテルで、「安全性」が議論になったことがある。

それで、「生」の取り扱いの全面中止がきまったが、余計なことをいうひとはいるもので、「加熱」ならいいのか?となった。
「絶対安全」をトップが口にしたからである。
結局、なんであろうが「貝類」の提供を全部やめたことがある。

たしかに、仕入れもしないし提供しないのだから事故はぜったいに発生しない。
だから、事故対策という仕事のムダがなくなって、「効率」がよくなった。

ところが、毎年たのしみにしている顧客が置いていかれた。
「本年は『貝類』のご提供はございません」
から、すぐに主語が「当レストラン」になって、やがて「当ホテルは」に変わった。

これいらい、斬新な食材も御法度になったから、「効率」は確保されたが、魅力がなくなる、という問題が放置された。

しかし、その「効率」をはかる方法が用意されていない。
各部署の人員数はかわらないから、事故対応という発生ベースの部分が削除されただけである。

以上の例は、リスクのかんがえ方にかかわるものだが、景気がいいと新規採用をふやす話と構造がよく似ていることがわかるだろう。

メーカーならば、仕入れた牡蠣の安全性をいかに担保し、自社検査体制の確立をはかるだろう。
しかし、それが「ムダ」にみえる経営陣なら、商品ごと「廃番」にするのも経営判断ではある。

ところが,この論法が確立すると、「廃番」が拡大する。

「効率」の追求とは、広い視野をもたないと自分を痛めつけることにもなる。

帽子をかぶらない有名コックたち

ずいぶん前から違和感があった。
テレビの「ご長寿有名料理番組」がはじまりだった記憶がある。
講師役のシェフが、帽子をかぶっていなかった。
いや、むしろ、帽子をかぶっていないプロの料理人をはじめて観た、といったほうがよい。

これが放送局へどのくらいの苦情電話になったのか?わたしには知る由もない。
放送局は、苦情電話などの報告番組をうそいつわりなく定期的に放送すべきだ。

むかし、帝国ホテルの総料理長だった村上信夫氏が講師をしていたとき、料理の途中で味見をするのに、鍋に直接指を入れてそれを舐め、満面の笑みで「グッドですね!」といって指でOKマークをつくったら、とてつもない数の苦情があった。
味見は小皿をつかってするものだ、と。

それから、テレビ出演だけでなく、ホテルの調理場でも、味見には小皿をかならずつかっていたのを目撃したことがある。
謙虚さが、この偉大な料理人にはあったのだ。
帽子をかぶらない姿をみるのは出退勤時と事務所だけで、現場ではかならずかぶっていた。

だから、帽子を料理人がかぶらないで、テレビに出演するのにたいへんな違和感があったのだ。
インタビュー番組なら、帽子をとってよこにおいてもいい。
しかし、料理をしてみせる、という行為でこれをしないのはどういう魂胆なのか?
また、それをよしとした放送局は、もしや演出として要求したのか?

それからだとおもうが、帽子をかぶらない料理人がふえた。
それは、本場フランスでもそうで、コック服は着ていてもコック帽をかぶらないで撮影に応じ、じっさいに料理をしている場面がふつうになってきた。

こういうことは、伝染するのか、見習いでも帽子をかぶらないでいるから、職場全体に蔓延しているのも画像でわかる。
それを、国を超えてわれわれも観ているのだから、これを気にもしないシェフとはなにものか?

なぜ料理人が帽子をかぶるのか?は、日本人だったら給食当番をやるから小学生でもしっている。
髪の毛その他が、混入しないようにするためである。
その他には、ゴミや汗などがふくまれる。

火をあつかう厨房内はあたりまえに気温が高いだけでなく、蒸気によって湿度も高い。現場のコックは厳しい環境下での重労働をしているのだ。
それで、厨房全体にエアコンをきかせるのは効率がわるいから、煙突のようなパイプで、とくに過酷な場所をスポットで冷房する方法がとられているのが一般的だ。
だから、じっさいにエアコンは、ほとんど気休め程度でしかないのである。

とある会社からレストラン事業の委託をうけて、料理人とサービス要員を配置した。
建物が、当初の設計上、そこに調理場を想定していなかったので、配管をするために床を上げることになった。
すると、身長があるシェフの長い帽子が天井にあたる。

このため、そのひとは、ひとり帽子をしないで仕事をしていた。
それで、事情を確認して、食品工場のように、野球帽の形をしていて、耳までカバーするタイプの帽子を着用するようにお願いした。
店内にでてお客様に挨拶をするときには、シェフ用の長い帽子をかぶるようにした。

このシェフも一瞬身を固めた。
あとで、帽子をかぶらない自分は特別なのだ、という感情があったときいた。
しかし、プロを標榜するなら、他人に見えない厨房という職場で、食品工場として頭部を完全にカバーする業務用の帽子が望ましいとして、これを職場全体のユニフォームにした。

衛生環境も料理とおなじで、つくるもの、なのだ。
こうして、ふつうより不格好にみえるかもしれないが、これが日常になるとだれも気にしないばかりか、他に衛生上の問題はないかと気にかかるようになる。
このレストランは、表向きも高級店だったが、それは料理だけでなく、店舗の裏の厨房の衛生も高級だった。

星がいくつあるかで価値をきめるなら、それはそれで個人の自由である。
フランスの有名タイヤメーカーが、レストランのガイドをつくったのは、そこまで自動車で移動してくれればタイヤが減って、交換需要があると見込んだからである。
だから、本来はドライブガイドだった。

それがレストランガイドとして独立して発展したのだ。
けれども、ほんらいの「タイヤが減る」ことを望んでいることはまちがいない。
タイヤメーカーだから、利害関係はうすい、として厳密な評価なのだという評判も、この会社が「つくった」ものだ。

コック帽には形こそいろいろあるのは、料理がいろいろあるからだ。
イギリスパンのような中華料理のコック帽、日本料理なら俳人がかぶる形で白い生地をつかう。
日本の家庭なら、三角巾。
髪の毛があって、汗をかくから、人類共通の機能性帽子になったのだ。

そういうわけで、わたしは、コック帽をかぶらないでテレビにでてくるようなひとの店にはいかない。
さいきん、パリのレストランの荒廃ぶりがつたわってきているのは、カット野菜や冷凍食材のつかいすぎということの前に、コック帽をかぶらなくてよい、という心の脇の甘さが原因ではないかとうたがっている。

プロとして、なにを優先させるのか?ができていないなら、料理の味にあらわれて当然なのである。

不気味なマスクの着用

風邪のシーズンだ。
インフルエンザは空気感染する伝染病だが、いわゆるふつうの風邪はじっさいに治す薬はない。
どちらも、ウイルスが原因の病気であるが、それぞれ種類がちがっている。
風邪ウイルスは、種類が豊富なのが特徴らしい。

ウイルスというのは,生物なのか生物ではないのか?
この議論は、生物の定義とはなにか?につながる。
つまり、生きていること、の定義だから、裏返せば、死んでいること、の定義にもなる。

ベストセラーになった、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)は、まさに「生命の神秘」が語られていた。
しかし、はなしはつづいて、中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書、2016年)がさらに奥深くわけいっている。

 

発表当初、噴飯物といわれた、「インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説」も、いまでは最先端で注目される研究分野になっている。
吉田たかよし『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』(講談社現代新書、2013年)がある。

インフルエンザ・ウイルス宇宙飛来説は、シベリアにたくさんいる渡り鳥に入りこんで、それが「渡り」によって南にはこばれ、飛来した渡り鳥→鶏、鶏→豚、豚→人間という経路なのではないか?というはなしだった。
それで、パンデミックだった「スペイン風邪」も、温かい地方からはじまる、という説と一致する。

だったらスペインやラテン系の国々で、防御のためのマスク着用が風習になりそうなものだが、ぜんぜんなっていない。
ましてや、世界の常識からすれば、マスク着用という風習そのものがほとんどない。

話題のPM2.5という汚染物質によって、東アジアではマスク着用がはじまっている。
しかし、ちゃんと防御しようとしたら、簡易型のものでは効果がうすい。
マスクにも、基準となる規格があって、最高レベルは外科手術用になる。

しかし、マスクには、それ以外の効果があって、どちらかというとこちらの方が着用のインセンティブになっているのではないかとおもわれるのは、吐息からの湿度を得て喉を潤わせること、さらに、化粧なしのスッピンをカバーできることだ。

すなわち、じぶんの顔を隠すことができる、文字どおり「マスク」という機能がでてくる。

マスクを着用すると、別人格になれる。
あるいは、正体不明、になる.
それで、ヒーローたちもマスクをつけるのだ。

日本なら、「能」から郷土芸能まで、戦後は、「月光仮面」や「仮面の忍者 赤影」など、別人格になったり、「異能」さを仮面の着用が象徴する。
お祭りの夜店にある仮面も、「祭り」という非日常の境界に入りこむためのアイテムだったのではないか。

先日、男性の「髭」にかんする裁判での判決が大阪地裁であった。
かんたんにいえば、無精髭はいただけないが、現代的に整えている髭であれば自由、ということだ。
現代的とは、歴史上の武将や明治の元勲たちのようなデザインではない、ということ。

使用者が労働者に、「業務上の身だしなみ規定」を提示してこれを守らせることは合法である。
しかし、ベースには「個人の自由」があるということを失念してはいけない。
社会通念上のマナーやエチケットに合致していれば、命令やそれを理由とした本人に不利な人事評価をしてはならない、とかんがえればよい。

だから、身だしなみ規定を守らないひとには、早期に勧告して納得してもらうことが重要になる。
それで、もっとも効果があるのが、「採用条件」とする方法である。
採用決定前に、本人の了承を得るのである。
雇用契約の条件の一部にする。

わが国は一般的に、マスク着用が「異常」とはされない社会になっているが、だからといって、採用面接でマスク着用をしたまま、では不採用になってもしかたがない。

第一に、面接官という初対面のひとに自分を買ってもらうのが目的だから、自分をみせなくてはならないという目的に合致しない。
顔をださない、というのは、顔を隠す、ということだからである。
もちろん、挨拶としても、初対面でマスクを着用したままなら、マナー違反になる。

ということは、面接官側がマスクを着用したまま、というのもありえない。
面接者という応募者に、会社を代表して面接されるのも面接官だからである。
将来、もしかしたら同僚になるかもしれない面接官の顔が見えない会社に、就職をきめるのは勇気がいる。

およそ接客業で、マスク着用したまま、というのがゆるされるものか?など、ちょっと前ならかんがえる必要もなかっただろうが、いまはちゃんとかんがえておかないといけない。
医療機関や食品衛生では別だが、接客の最前線でのマスク着用は、ナンセンスなのである。
公共の交通機関の職員に、マスク着用を散見するが、「髭」よりよほど深刻な問題だ。

ウイルス対策なのであれば、会社はマスク着用を容認するより、機能性が認められている製品を支給してマスクにかえるべきである。

マスク着用の習慣がないおおくの国で、マスクを着用したまま、ホテルにチェックインしようとしたら、断られる可能性がふつうにある。場合によっては強制退去させられても文句はいえない。
理由はふたつ。
・顔を隠しているのは、「犯罪者」をうたがわれるからである。
・衛生のためならば、本人が「伝染病に罹患」しているとうたがわれるからである。

どちらも、日本の旅館業法でも数少ない宿泊拒否理由として合法だ。

よほどの事情がないかいかぎり、公共の場にマスク着用をしたままで出かけるのは、「不気味」なことなのだ、と認識したい。
外国人をあいてにする接客業なら、これは「基本」である。

接客サービス研修はムダである

新入社員や初心者ならまだしも,経験者に向けて「接客サービス研修」をおこなうのはムダである.

まず,あいてが経験者なら,「接客サービス研修の『やり方』」という研修でなければならないはずだ.
そして,その研修をする理由と効果を,あらかじめ決めておかなければならない.

「プロとして」なにもしらない新人や初心者を、「プロにする」のが接客サービス研修である。
だから、何時間でプロにする、という「きまり」がなければならない。
「する」のであって、「なる」のではない。
「なる」のは本人だが、「する」のは会社であるからだ。

ここが理解できていないサービス業の会社がなんとおおいことか。
新人や初心者をまともな研修もなく、いきなり現場配置して、いつまでたっても一人前にならないと嘆くのは、本人だけが努力さえすれば勝手に「プロになる」と決めているからである。
第三者からすれば、それは「筋違い」だといわれてもしかたがない。

何時間でプロにする、ということができる職場は、プロ意識で成立している。
どんなひとでも、ある一定の時間内でプロにする、とは、いったいどんな方法なのか?
合理的に組み立てられた「教育プログラム」が、事前にあってこそなのだ。
そして、それにしたがった教育指導をするひとが「いる」状態でなければできない。

コンビニや牛丼チェーンなどに、外国人労働者をよくみるようになった。
すでにこれらの業界では、外国人労働者なくして営業できない状態にまでなっている。
では、これらの業界に外国人労働者がおおい理由はなにか?
「単純労働だから」だけが理由ではない。

上述した教育プログラムと教育指導をするひとがいるからである。
ふつう、研修期間中の時給は最低額の設定であるから、はやく一人前になって時給が上がるのは、「稼ぎたい」外国人労働者の要求と合致する。
そして、現場をまかされるレベルになれば、深夜手当のつく勤務シフトにもはいれるのだ。

それに、コンビニや牛丼チェーンなどではたらくと、日本人の生活文化を垣間見ることができるのだ。
世界一といわれる日本のコンビニのサービスは、日本人には日常だが彼らには過剰だ。
しかし,「そこまでやる」を理解してはじめて、日本の生活文化が吸収できる。

そういうわけで、コンビニでのアルバイトは、外国人留学生にはとくに魅力的なのだ。
もちろん、就学ビザで入国した留学生が、アルバイトして生活費を稼げる、という国はめったにないから、制度としての問題はべつである。
おおくの国では、勉学だけしか入国目的にないから、就労の事実が発覚すれば国外退去処分になるのがふつうである。

これに、外国人労働者のかんがえる「労働の対価」とは、「職『務』給」のことだから、コンビニや牛丼チェーンの業務と報酬制度は、かれらのイメージに馴染めるのである。
日本的「職『能』給」は、かれらが理解しにくいから、給与体系の合理的説明をもとめられることになるが、この説明がこまったことに困難なのである。

人手不足を外国人労働者で埋め合わせようとしても、上述のポイントが満たされないと募集をしても応募がないか、採用後にトラブルことだろう。

外国人労働者を募集しなくても、サービスレベルをあげるためにおこなう「接客研修」のおおくはムダである。
サービスレベルをあげる、というのは、なにを指すのか不明なことがおおい。
しかも、対象者は新人や初心者ではなく、ベテランになる。

驚くべきことに、こうした研修をやりたがる企業ほど、自社の「事業コンセプト」をあらわしたものをもっていない。
だから、はなしがミクロに徹するしかない。
こうして、女将やらが要求する「あたらしいサービス」がくわわって、現場負担がふえるのだ。

そのふえた負担によって、単価はあがるのか?利益はふえるのか?それとも、従業員の賃金がふえるのか?
これらは、さいしょから意識されていないことがおおい。

こうなると、新人の研修もできず、ベテランの業務の目的も自己目的化して、とにかく「こなす」ことに集中する。
それで、「貧乏暇なし」のスパイラルに落ち込むのだ。

いったい、業界はいつまでこれをつづけるつもりなのか?

よろこんでムダをおこなって、業績があがるなら、だれも苦労はしない。
苦労の方向と方法がまちがっているのである。

「ウザン」ドレッシング

健康志向から、「サラダバー」があるレストランがずいぶんふえた。
野菜を食べると健康にいいというのが科学ではなく気分である証拠は、ドレッシングの選択にあらわれる。
ノンオイルならまだましだが、脂質たっぷりのドレッシングを大量にかければ、なにが健康的かがわからなくなる。

しかし、糖質と脂質という成分には、飢餓の時代がながかった人類にとって、「おいしい」という味覚の遺伝子が、ちゃんと機能するようにできている。
だから、野菜という低カロリー食品に、高カロリーの調味料をつかうのは、バランスがとれているのである。

そういうわけで、野菜を食べると健康にいい、ということにはすぐにはならない。
また、エグミというのは、からだによくない成分であることがおおい。
それで、苦く感じて注意を喚起するようにもなっているから、あんがい生野菜には温野菜にくらべて不健康な要素がある。

生野菜は基本的に食べない、というひとがいるのは、理にかなっている。
これに食べ合わせも考慮すると、食べ物というのは化学知識をようしないと理解できない。

中年をすぎて、尿管結石を何度かやったことがある。
その痛みたるや、表現できないほどのものだ。
主たる原因は、緑の野菜におおい「シュウ酸」が、血中のカルシウムと結合してできると医師から説明をうけた。

こうした野菜をとるときには、カルシウムもいっしょに食べると予防になるという。
たとえば、ほうれん草にはたっぷりのシュウ酸があるから、グラタンにして乳製品といっしょに食べれば、乳のカルシウムとすぐに結合して排出されるから、体内でわるさをしない。
伝統的な調理法には、そうとうの経験的知恵がつまっていることをしる。

「医食同源」とはよくいったものだ。
現代は、専門領域が深くなった分、範囲がせまくなった。
それで、「医」学、「薬」学、「栄養」学が、独立してしまった。
さらに、業界のためなのかそれぞれに国家資格ができたから、専門家は専門外のことをいえなくなった。

トータルで、医学の「医者」が、領域を超えても許されるようになっている。
しかし、むかしとちがって、患者の側の知識が向上した。
それで、家父長的である「ぞんざいな態度」を、医者がすることがなくなって、「インフォームドコンセント」や「セカンドオピニオン」があたりまえになった。

出版不況は深刻な状況になってひさしいが、一般人も一般書で知識を得ることが容易になったのは、なにもネットの普及だけが原因ではない。
たとえば、『マギー キッチンサイエンス』は、邦訳が2008年にでているが、アメリカでの出版は1984年である。

1984年といえば、レーガン大統領一期目で、米英ともにスタグフレーションに悩んでいた時代であって、わが国は『ジャパンアズナンバーワン』(1979年、エズラ・ヴォーゲル)の絶頂期だった。
この本は、そんな不況期の真っ最中のアメリカで大ベストセラーになったのだが、平成不況のわが国で大ベストセラーになってはいない。

いわゆる「グルメブーム」というのは,経済成長いちじるしいわが国あって、1975年スタートのテレビ番組『料理天国』が象徴的だったが、猫も杓子もになったのは、やはりバブル時代前後であろう。
そういう意味で,『キッチンサイエンス』は、「食」を食材と調理法という側面から科学(化学)的に解説したものとしての画期があった。

しかし、わが国の「軽さ」は、たんに豪華さをくわえた「美味追求」に終始し、それが転じて「B級」という分野に発展したから、ついに現在・ただいままで、「なぜ?」の領域にふみこんではいない。

残念だが、ここに日本がアメリカをとうとう凌駕したとおもったとたんに凋落がはじまり、アメリカが復活するメカニズムの一端をみるのである。

ちょうどこの本がアメリカで出版された頃、アメリカは国家プロジェクトとして、歴史上二度目の日本研究を終えていた。
一度目は戦時中、捕獲した「零戦」の解体研究だったが、このときは「日本経済の強さの理由」だった。

それで、かれらは「品質にこそ利益の源泉がある」という結論にいたったのである。
料理についても、食材と調理法を科学するというのは,品質の追求と同様ではないか?

これを追求した国と、怠った国が、気がつけばとても「凌駕した」とはいえない差になってしまったのは、当然の帰結である。

とあるレストランのサラダバーで、ドレッシングの種類説明のシールが一部はがれて丸まっていた。
これをみた、中年男性客がおなじグループのひとに、
「『ウザン』っていうドレッシングがいちばんうまいよ」とおしえていた。

「サ」が丸まっていたのだが、それをいわれたお仲間が、「へー、『ウザン』か、めずらしい」といって選んでいたが、「なんだ『サウザン』じゃないか」という声はきこえなかった。

「定年退職」の定義変更

従来の延長線上にあるだけなら、定年退職の定義を変更する必要はないけれど、どうやらそうはいかなくなっているのではないか?
そもそも「定年退職」が日本の雇用制度になったのは、どんな理由からなのか?
切ってもきれないのが「終身雇用」であった。

雇用者の年齢によって、自動的に「解雇」される、という制度を雇用者も受け入れていたのは、「寿命」との関係がそうさせていたのである。
いま、男性の平均寿命が80歳程度だという常識があるが、かつてのわが国はけっして長寿国ではなかった。

1950年(昭和25年)の平均寿命は58歳で、定年は55歳だったから、3年の差しかなかった。
平均だからバラツキがあるのは前提だが、定年退職して隠居すると3年で、お迎えがきたのだ。
すなわち、文字どおりの「終身雇用」だったのだ。

昭和初期までの雇用慣習は、かなり欧米型だったが、国家総動員体制、という事情から、わが国は路線を切りかえた。
しかも、いまのように、大学全入などということもなく、ホワイトカラーのエリートサラリーマンすらごくわずかで、おおくが職人だった。

当時の職人は、どこでも「腕一本」で、自分の技術を発揮できるから、会社や上司が気に入らなければかんたんに転職した。
会社に用意されている機械類も、いまのような独自の専門性を要するものとはちがかったからである。

しかし、国家総動員体制、ではそれができなくなった。
そのかわり、ほとんど死ぬまでの雇用の安定と賃金が保障されたのだ。

そして、敗戦。
旧来のものと占領軍が命じる新規のものとが、強制的に転換させられた。
このなかに、労働運動もあった。
国家総動員体制で封じられていた箱のふたが開いたのである。

年率で600%ほどのひどいインフレの経済状態だったから、賃金をよこせ、という要望は、現場労働者だけではなくエリートサラリーマンもおなじだった。
それで、労働組合は経営に対抗するための手段だけでなく、本人たちの意向もあって、経営に関わる管理職まで組合員になった。

こうして、企業別、という日本独自の労働組合組織ができた。
経営情報にくわしい、あるいは経営陣に企画提案するたちばの管理職が組合員なのだから、はげしい経営側との論争になるのは必定だった。
しかし、一方で、組合内部で管理職が「君臨する」という問題が発生した。

そういうわけで、管理職が組合から脱退するためにも、また、あくまでも会社側に忠誠をつくすためにも、雇用の安定と賃金の自動的な上昇を必要とし、これが全社に拡大したのだった。
それには、日本経済全体の拡大による個々の企業業績の好調があった。
ところが、世の中が安定して、経済が好調になると、「寿命」も伸びてしまったのである。

55歳で定年しても、「老後」をどうするのか?
すぐにお迎えはこなくなった。
これに、「年金制度」という別物がセットになった。
1980年(昭和55年)の平均寿命は、約74歳だったから、定年後20年が「老後」となった。

平成不況の時代になって、平時で経済が「縮小」するという初体験をして、どちらさまも「雇用の安定と賃金の自動的な上昇」を維持できないばかりか、削減が重視されるようになった。
それで、「終身雇用制」がやり玉にあげられ、「年功序列賃金」が「実力主義」というようになったが、本質ではなにもかわってはいない。

定年が法律で定められるようになって、その決めごとまでの期間は、雇用の安定が保障されるし、ほぼ世界標準の体系である「職務給」ではなく、「職能給」と「生活給」のハイブリッド体系だから、「実力」を正当に評価する方法がないからだ。
しかも、景気変動にともなう業務量の変化を、雇用そのものではなく「残業」で調整してきたから、「働きかた改革」が「残業改革」になっているのである。

さらに、定年したひとのおおくが、「雇用延長」という方法で、事実上「再雇用」される仕組みができた。
「年金」という別物が、支給開始年齢の先送りで、定年したら年金がもらえる、ことがなくなった。

ところで、退職金は「給与」あつかいされている。
会社が倒産すると、各種負債の清算がおこなわれるが、税金のつぎに支払義務があるのは「給与」で、これには退職金もふくまれる。

退職金という一時金をもらった、再雇用の条件は、従来のおおむね半額だというから、これは「職能給」と「生活給」のハイブリッドをやめて、「職能給」一本ということなのだろうか?
それとも、突然、世界標準になって「職務給」になるのだろうか?

そんな「定義」はどうでもよく、公務員は7割にして、民間の手本にさせるらしい。
現役に比べて何割ならいいのか?という議論でいいのか?

現役では残業代を請求できなかった「元」管理職が、再雇用されて残業代をちゃんと請求しているのかといえば、たぶんちがうだろう。
本人のプライドがゆるさないかと想像できるが、「雇用条件」の定義が説明されているのか?という疑問がさきにたつ。

再雇用であれ、はたらいていれば「現役」なのだ。
「雇用契約」という、社会で生きていくための基本中の基本が、曖昧な国なのだ。

人口減少で人件費は上昇するトレンドにある。
「定年」と「再雇用」は、安く雇う手段でしかない、で企業は成長できるのか?

高い人件費を飲み込む、高い付加価値の事業モデル構築のためには、かえって障害になることを、みずからに厳しく課して乗り越えることが、将来戦略として強く求められている。

ガラパゴス化の「執事」1

日本にホテル学校はある。
専門学校だけでなく、大学もある。
さいきんでは、カジノ学校が盛況だという。
しかし、執事学校はない。

欧米では、いまでも執事は重要な職業で、そのニーズはたかい。
大邸宅に棲まう主人をささえるのが優秀な執事というのはほんとうで、さらに「従業員(執事)つき住宅」や、プライベート・ジェットの客室乗務員、ヨットの客室係、別荘のコックや従業員といった「細部化」した需要も当然視されている。

国王が棲まう宮殿並みのサービスレベル、あるいは最高級ホテル並のサービスレベルをもとめるなら、主人が支払う賃金も「年20万ドル」と突出する。
「執事」は最低でも年8万ドルが相場だというし、女性の主人に仕える女性の執事である「メイド」なら7万5千ドルからなので、ふつうにホテル従業員になるより、はるかに高額賃金である。

ここで注意したいのは、執事は単純労働の家事スタッフではないことだ。
「プロ」なのである。
それに、清掃だって「邸宅」ともなれば広大だから、素人がかんたんに請け負えるものではない。
だから、執事とはことなる「プロ」として優秀な家事スタッフも、年収では6万ドルから9万ドルが相場だ。

2018年から主婦のパート労働で、税金や社会保障を考慮すると「お得な上限」が年収150万円(約1万5千ドル)に増えたとはいえ、この金額の差はなにか?
国民を貧乏においやる施策のうえで、働けといわれているようなものだ。
ハワイでおきたホテル従業員のストライキは、「この仕事『だけ』で生活できる給料をよこせ」である。

雇用主からすればその負担額は、年間3万5千ドルから100万ドルを超えるひともいるという。
「100万ドル超え!」
自宅やプライベート空間への出費として、人件費だけでかるく1億円超えというのは、いったいどんなひとたちなのだろうか?

アメリカなら事業に成功した大富豪だろうし、ヨーロッパなら土地資産をたっぷり保有する貴族なのだろう。
以前、家内とベルギー旅行をしたときに宿泊した「シャトー・ホテル」は、公爵家の自宅で営業していたが、関東地方ほどの面積の国で、塀で囲われたこの邸宅内を一周する散歩コースは4時間だった。

ユーモア小説の大家ウッドハウスのジーヴス・シリーズは全14冊、英国が舞台という「典型」を世界にひろめた功績がある。その一冊がこれ。

小説にしろドラマにしろ、物語では超優秀な執事が登場して、難問をあっさり解決してしまうが、不思議なのは「労働条件」である。
劇中でこれを話題にしたらシラケるのだろうけど、読み手の「常識」を前提にしているのだろう。

わが国にも戦争に負けるまでは、貴族がいたから、執事もいたろう。
現在唯一というのが、「日本バトラー&コンシェルジュ」で、24時間3交替365日体制だと月額750万円(税別)になるというから、だいたい国際相場とおなじだ。
休日も考慮すると、3人体制ではなく4人でないとまわらない。

経済成長と共に、ほんらいは、日本人でも大富豪がもっといてよいのだが、かつて発表されていた「長者番付」という高額納税者リストには、土地を売った農家の名前がおどっていた。
宅地化のための売却だったから、その年一回だけの登場であった。

これをひとは「土地成金」といって、さげすんだ。
いまは、会社役員の「高額報酬」が怨嗟のネタになっている。
世界には、年収30億円以上のひとが5万人ほどいるのをしらないのだろう。4人家族なら20万人のお金持ちになる。
すると,一億円で高額だと批難されるものなのか?ケチなはなしではないか。

「格差」はいけないこと、という認識が強いのは「平等」意識のなせるわざだが、なにごとも「いきすぎる」と、かえってはなしがゆがむ。
「あるところからとる」のは、徴税役人の発想で、これを国民がすなおにみとめれば、金持ちになると損をする、というゆがみがおきる。

富裕層を「恨む」ようにばかり仕掛けるのは、日本も「恨の国」にしたいのかとうたがう。
そっちの方向ではなくて、どうしたらもっと稼げるのか?にいかないと、社会が二分化して固定してしまう。
「金持ちがいるから、われわれが貧乏なのだ」というのは、古典的革命思想そのものの恐ろしいかんがえかたである。

所得税をはらった後のおカネを原資に、土地と建物を担保に入れて住宅を購入する。
それで、この世を去ると、相続税がやってくるのは「理不尽である」とだれもいわない。
第一段階の所得税をもうはらって購入したのだ。「死亡」という理由で第二段階の税金を払わされる根拠はなにか?

それで、「二重課税」をみとめて相続税を廃止した国があるが、じつは富裕層が国外に逃げるのをふせぐ意味がある。ふつう、金持ちがいない国を「貧乏国」というのだ。
オーストラリア、ニュージーランド、香港、中国、シンガポール、マレーシア、タイ、ロシア、スイス、イタリア、モナコ、スェーデンがあって、金持ちがたくさんいそうな国であることがわかる。

ちなみに、アメリカには相続税の課税制度はあるが、基礎控除が6億円(夫婦で12億円)だから、ふつう一般人には及ばない。
金持ちをいじめるために増税したわが国は、3,000万円 + (600万円 × 法定相続人の数)だから、悲しくなるほどおカネを貯めると損をする。

というより、一般人がふつうに課税されるという「平等」ができた。
おめでとう。