加工用トマトの闇

2018年4月をもって廃止された法律に「種子法」があった。
農産物とは、わたしたちが口にするものを意味し、農産物のすべては、「タネ」から育てるものなので、食料の根源的な法、という意味がこの法律にはあった。

つまるところ、一般家庭であれ、プロの料理人が調理する食堂やレストランであれ、あるいは、高級ホテルであれ、元をたどって行き着く先には、かならず畑だけでなく、タネがある。

しかしながら、あんがいと話題になるのは「栽培方法」であって、なかなかタネまではいかない。
有機であろうがなんであろうが、「タネ」こそが根源なのである。

日本人が伝統的食べ物だと思ってきた食品には、「遺伝子組み換えではない」ということでの「こだわり」があったけど、2023年の4月1日からは、事実上の表記がなくなることが決まっている。

「消費者庁」が決めたことだ。

もう40年前にもなるベストセラー『選択の自由』(ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン、1980年)には、「消費者を守るものは誰か」と「労働者を守るものは誰か」という章が続いていた。
どちらも、消費者団体でも労働組合でもない、という結論だった。

だから、フリードマン的論理でいえば、消費者庁が消費者を守るものではない、というのは至極当然な結論となる。
これが、「産業優先」という、明治以来の「国是」と重なり、「戦時体制」としての「総動員」が終わらない理由である。

どうして遺伝子組み換え表記が「なくなる」のかといえば、「基準が厳格化される」からである。
現在の基準では、許容範囲を5%以下としているが、これを0%とせよ、ということになった。

なお、対象となるのは、小麦とトウモロコシと大豆「だけ」である。

これらの「穀物」栽培では、遺伝子組換えをした種子を栽培する畑と、そうでないものとの区分が厳密にできていない。
隣接した畑からの花粉が、風とかで交わるからである。
そこで、許容範囲が設定されている。

ちなみに、この手の話ではたいがいが厳密なヨーロッパ基準では、9%と日本より「緩い」ことが意外だ。
さほどに、区分が「困難」ともいえる。
それを、ゼロにせよとは、「無理難題」を消費者庁は言っているのだから、事実上「表示不可能」になるのである。

「コロナ撲滅」という潔癖主義の無理難題と、自然としての「コロナとの共存」という正反対が、「タネ」でもある、ということだ。
病的な潔癖主義が優勢なのは、ふだん「自然は大切」というひとも含まれるご都合主義があるからである。

もちろん、「遺伝子組換え」の方がはるかに原価が安くなるので、今度は一斉に「コスパ」を優先すると役人は予想している。
消費者庁は、暗にそうしろ、と誘導しているのだ。
豆腐も納豆も、遺伝子組み換え大豆が当たり前になる?

買い物の現場での、買い物行動で「所得格差」がわかるようになれば、見栄でも遺伝子組換え原料の食品を買わない、とするのか?
それともみんなが買っているからと、遺伝子型ワクチン接種と同じで、「感覚麻痺」させるのか?の攻防があるのだろう。

「安いが一番」の勝利となるかが、注目される。

さてトマトである。
こちらは、「生食用」と「加工用」に大別される。
加工用トマトは、長細くて皮が固く、水分が少ないから「生」で食べてもおいしくない。ハッキリ書けば「まずい」のだ。

一方で、日本人がイメージする生食用の丸いトマトは、料理用にしたら水っぽくておいしいトマトソースにはならない。
そこで、「缶詰」が重宝される。
この缶詰の中身は、加工用トマトなのだ。

トマトジュースも、トマトピューレも、もちろんトマトケチャップも、缶などの容器にパッケージされているものは、みな加工用トマトの「製品」なのである。
そして、これら加工用トマトは、ほぼ全部が遺伝子組み換えされたタネから育ったものだ。

そのタネは、ケチャップの世界最大手、ハインツの研究者によって作られた。
「濃縮」するために水分のない品種で、煮詰めるための燃料費を節約し、なによりも収穫しやすい、ポロリと取れる「額」の形状にしたのだった。

いまや加工用トマトの産地として、新疆ウイグル自治区は世界第二位となっていて、三倍濃縮された「原料」がヨーロッパ(ほぼイタリア)に輸出されている。

不思議なことにEUは、ヨーロッパ域内で再加工された製品の「原産地表記」を曖昧なままに放置している。
それで、新疆ウイグル自治区からの「輸入品」を、EU域内(ほぼイタリア)で再加工(二倍濃縮:三倍から希釈)したら、これを「イタリア製」としても合法なのである。

ご当地で「合法」だから、これをそのまま日本に持ち込んで「イタリア製」と表記しても文句をいう筋はない。
トマトの缶詰がスーパーで「100円しない」ことの大きな理由がここにある。

いま、新疆ウイグル自治区といえば、話題がありすぎる。
「ナイキ」や「アディダス」がやり玉にあげられて、ユニクロや無印良品にシフトした。

でも実は、「トマト缶」がもっと「やばい」のだ。

「一帯一路」で、ヨーロッパ側の終点になっているイタリアの事情も、トマトでつながる。
二次加工には、東ヨーロッパやアフリカからの(不法)移民が奴隷的労働に従事させられていて、これをマフィアが囲っている。

数百円でおいしいピザ(トマトソース)を食べられるのも、こうした人たちの血と汗の賜なのだった。

さて、「業界」として、スニーカーやアパレルメーカーの他人ごとでは済まない話が出てきたのである。
コロナでは政府に隷従したけれど、トマト缶を使っているなら、どうするのかをいまから考えて、対策をとっておいた方がいい。

トマトが南米からヨーロッパに運ばれたのが16世紀。
地中海地方では「伝統的食材」と思われているけれど、当初は「観賞用」で、「食用」として普及したのは19世紀だ。
たった200年ほどの歴史しかない。

日本では、戦後の「食の洋風化」の時期とおなじに普及したのでせいぜいここ半世紀のことだ。

さりげなく存在するトマトなのではあるけれど。

「わたしたちには丁度いい」

久しぶりに「居酒屋」に行ってきた。

何度か同じ中年女性のスタッフに注文をしていたら、あるメニューを注文したとき、おもわず出た言葉である。
「わたしたちには丁度いい」
「もたれませんから」

世に「共感の戦略」なる理屈があるけど、「これぞ」という一言である。

この店を案内してくれた同席の知人は、「こういう一言がうれしいね」と微笑んで、40年前の出来事をふり返って話してくれた。
ここは新入社員のころに、会社の先輩が案内してくれた店だけど、ついこの間、「焼き場」に張り付いている店主が初めて声をかけてくれたという。

「お客さん、もう40年のおつき合いですね」
「実は、わたしが駆け出しの頃からお客さんを見かけてましたよ」と。
すっかりロマンスグレーになっている店主は、それからいつものように「焼き場」に戻ったという。

それぞれの「人生」が、交わった瞬間だ。

この一言で、この店を利用していてよかった、としみじみ思えたら、残りの人生でも来なくっちゃ、と心に誓って今日もいる、と話してくれた。
そんな折の、女性スタッフの一言は、なんだか「凄い店」だと思わせた。

イヤー、昔は若い娘ばかりがスタッフだったから、大分様相がちがうけど、これはこれでいいね。
しかして、わたしが、もしや最初からの注文があっての「一言」では?と言ったら、まさか?という。

それで、間合いをみて聞いてみたら、「お客さんたちはわたし好みの品選びをされている」とこたえてくれた。
「やっぱりね」

そんなわけで、店員さんもわれわれと同席している気分で、注文を聞いていたのだ。
心のなかで「ナイスチョイス!」と思っていたにちがいない。

こう言う店が「名店」なのである。

若い頃、ホテルの新入社員研修で、レストランのウェイターをやった。
会社には「内緒」だけど、休憩時間に好きなものを調理場に注文できた。
それで、気になるメニューの逸品を注文したら、「おいおい単価の高いのを言うね」と笑われた。

海老フライのサンドウィッチだった。

一口食べて、世の中にこんな美味いものがあるのかと驚いた。
あの驚きは、一生忘れない。
海老の美味さはもちろんだが、ソースの味が絶品だった。
それがほどよく焼けたトーストの香ばしさとからみあう。

なかなかの「高額商品」なので、めったに注文は入らないけど、もちろんゼロではない。
それで、お客さんがこのメニューを注文すると、自分も嬉しくなった。
その雰囲気で、「初めての注文」だと感じたら、召し上がるときの「反応」をウォッチしたものだった。

一口食べたときの「驚きの表情」が、自分の反応と一緒だから、心のなかでガッツポーズをしていた。
「リピーター」だと、注文に迷う同席のひとに、「これ絶対に美味しいから」というのである。

一瞬、値段に躊躇をみせるのも観察するのである。
しかし、決心したかのように、でも半信半疑で、「じゃあ」と言って注文する。
こうしたお客は、わたしの「餌食」のようなものだ。

最初の一口の反応を確認したい。

こうした欲求が、自分の中で高揚するのである。
そして、ほぼ確実に、「なにこれ、おいしい~」になって、期待を裏切らない。
そして、かならずお客さまは「破顔する」のだった。

期待を超えて美味いものを食べる喜び。
「幸福」のなかの一つの「幸せ」のとき、ひとは笑顔にならざるを得ない。

いつぞやの「結婚記念日」に、横浜元町のフレンチ・レストランで祝ったときは、「ワインのチョイスが完璧だ」と、食後に黒服がやってきて告げてくれると同時に、「よくご存じで」と店内に通る声で言われたことがある。

このひとも、「観察」していたのだ。

それを、これ見よがしに他の客に伝えた意図は、それなりの客が来ているのだ、ということのアッピールだったかもしれない。
わたしが選んだ理由は、ハーフボトルからの選択で、「記載があるものだけ」だったのである。

昔から「美味いものがない」と言われている、神奈川県の小田原は、超貧乏藩になっていたけど、歴代「老中」を輩出した「名門」、大久保家の所領だった。有名な彦左衛門は、親戚だ。
その藩財政を立て直して有名になったのが、二宮尊徳である。

「美味いものがない」のは本当だったけれど、西湘バイパス小田原インター出口に、店主が「変態廻転寿司屋」と自称する「ビストロ」がある。
ここは、予約ができないので週末ともなれば3時間待ちのような状況になる。

店内は廻転寿司のレールがあって、ちゃんと寿司が廻転している。
しかし、この店は「ビストロ」なのだ。
黒板にある「メニュー」がそれを告げている。
だから、「常連」は、フレンチとワインやベルギービールを舐めながら、「箸休め」に目のまえの寿司皿を取るのだ。

あるとき、お支払いで皿数を数えに来た店長が、二人で3枚しかない皿を確認して、「正解のお召し上がり方、ありがとうございます!」と、やっぱり店内に響く声を発した。

寿司が劣るのではなく、フレンチの逸品が優るのである。
そのときの店長の顔は、「したり顔」そのものだ。
そうやって、他の客に「寿司屋じゃない」ことを宣伝している。

東京のベルギービール・バーに負けない品揃えは、小田原に泊まらないと堪能できない。

これはこれで、わたしたちには丁度いい、のである。

官営交通事業の寿命

横浜市営バスの大幅黒字路線が、民間バス会社に譲渡されたことがローカルな話題になっている。

半世紀前、大型団地ができたことで、住民がバス路線開設を陳情し、市交通局がこれを受けて開業した。路線の距離はわずか1.4キロメートルだが、横浜にありがちな「急な山坂」を登るため、利用客の数は多い。
団地住民の「高齢化」で、ますますその需要は高まるというよりも「死活問題」になっていた矢先の民間への譲渡となったのである。

路線が譲渡されたとはいえ、運行ダイヤに変更はなく、さらにバス自体が「大型車」になったのは、民間のバス会社に「中型車両」の保有台数が少ないことによる。
つまり、住民にはメリットになっている。

しかしながら、「市営」でなくなったことを「惜しむ声」が絶えないのである。
この意味は何か?が本稿のテーマである。

実は、横浜市民にとって、市営交通は「誇り」でもあったのである。それは、「市電」に遡る。
市中心部を縦横に走っていた「市電」は、「ちんちん電車」として愛されていた。
また、横浜駅を発着する循環路線には、「トロリーバス」が採用されて、市電と並行する道路の空中は、双方の「架線」がひしめいていた。

ベイブリッジも、首都高も「なかった」時代、すなわち「高度成長期」とは、第二次性徴期の「急速な伸び」で、皮膚が痛いほどに内部の成長と表面の成長速度が一致しないように、「世界一」の港湾があった横浜市内の交通渋滞が深刻になった時期でもあった。

簡単に言えば、道路整備と実態がぜんぜん一致していなかった。
これは、「都市計画」すら間に合わなかったことと関係している。
関東大震災と横浜大空襲という、2度にわたる市域の「大規模焼失」があったけど、名古屋のような都市計画をしなかったことの「つけ」でもあった。

横浜を走る「国道」は、東海道の「1号線」と、首都圏の境界となる「16号線」がメインである。
なお、郊外には246号線がある。

1号線の海側に京浜工業地帯の産業道路として、15号線ができて、これを「第一京浜」と呼んだ。
それで、1号線を「第二京浜」、さらに陸奥に、「第三京浜」を作った。
大阪と神戸の関係に似ているのは偶然ではない。

それでも混雑がおさまらないので、「第一京浜」の頭上に、首都高「横羽線」を作り、まだまだとして「湾岸道路」を作った。
しかしながら、これらの道路は、「京浜間の東西交通」に対応したものだった。

南北を走って、東名高速道路に接続する道が、国道16号線「しか」なかった。
しかも、上下二車線なのである。
元は、東海道から分岐した「厚木街道」であった。

それで、「保土ヶ谷バイパス」を作った。

この高規格道路は、あくまでも国道16号の「バイパス」であって、開業当初から「無料」の道である。
よって、「旧道」となった16号の交通は、画期的といえるほどに混雑緩和されたのだった。

さて、はじめ横浜市が交通局を作ったのは、民間の事業体が未発達で、市民の足が不便という事情を優先させたからである。
だから、民間事業者が発展すれば、交通局事業を縮小するのが筋であるけど、民間への「変換」の仕組みをあらかじめ用意していなかった。

今回の「路線譲渡」は、不採算路線とバンドルして処分する、交通局側の「赤字」という事情がある。購入する民間側は、不採算路線を受け入れる条件に、トップクラスの黒字路線を手に入れたのである。
だから、「経済取引」なのである。

にもかかわらず、この黒字路線を手放したことだけがひとり歩きした。
交通局の説明は、バスの車庫がある営業所から、この短い路線は「回送」車を走らせないといけないけれど、国道16号線が混雑して、今回譲渡した「相鉄バス」の許可エリアを走行しないといけないから、効率が悪いという「詭弁」を述べた。

市内きっての黒字路線に、何おか言わん。
「効率」がいいから、黒字なのだ。
保土ヶ谷バイパスが存在しないならまだしも、いまさら「混雑」をいう。
「赤字路線」を売り飛ばすための「飴」だといえばいいのである。

こうした販売方法を、「バルク」といって、大手旅館チェーンやホテルチェーンが、事業をスリム化する際にやる、「売却手法」とおなじだ。
すると、問題は、「国鉄」のように過半を占める「赤字路線」をどうするのか?という根本問題が、先送りされていることだとわかる。

これをそのまま信じてしまうひとがいるのは、コロナを信じるも同然の、知能が比較的低くてマスコミ報道に影響されやすいひとたちだ。

さらに横浜には、「バス・カースト」と言われる「処遇制度」がある。

最下位が「神奈川中央交通」で、その上が「相鉄バス」、最上級に「市交通局」がある。
退職後の年金も含めて、「バス運転手」という職業に、事業体による「階層」があるのだ。

だから、神奈川中央交通に入社して、それから相鉄に転職し、さらに交通局採用になれば、「エリート」とされる。
「路線譲渡」がスムースにできたのは、「人員」の譲渡はなかったからだろう。

そんなわけで、市交通局の赤字を最後は市民が負担することになるから、ノスタルジックになれる人は、「幸せ者」である。

感染対策認証日本一の山梨県

何が何でも「日本一」は「凄い」ことだ。

これで、「空き家率日本一」から脱却できれば、なおおめでたい。
しかし、なんといっても、飲食店に対する「ウイルス対策都道府県認証」という「お上依存」が、あたかも「感染を減らした」というのは、ばかばかしい。

単に、PCR検査を受けなければいい「だけ」なのである。
それに、この検査キットの中身を調整をすれば、増えたり減ったりを調整できる。
まるで、期日前投票の投票箱ごとすり替える不正をするようなものなのだ。

だから、ボールペンやマジックペンを投票所に持ち込んで、名前を書いても無意味なのである。
もちろん、選挙の立会人は、地元町内会からやってきて、その町内会の役員が選管の仕事をやっている。

もしも不正を暴いたら、もうその地区には住めなくなるのだ。

さて、念のためランキングトップ10は、山梨県98.8%、東京都79.2%、福井県72.6%、埼玉県72.0%、岐阜県64.7%、千葉県64.0%、徳島県63.8%、熊本県57.3%、兵庫県55.4%、茨城県53.8%となっている。

これを、「奴隷化率」と呼びたい。

すなわち、山梨県が日本一奴隷化(共産主義化)を達成して、どうにもならない「衰退」を、またぞろ全部行政におんぶに抱っこしてもらえば、なんとかなる、という「洗脳」も完璧になったというべきだろう。
別な言い方をすれば、役所の監視網が全県に及んだということだ。

おそらく、中国より凄い。

「ワースト」ランキングでは、島根県の0.3%がトップで、北海道、青森、秋田、岡山、高知、鹿児島を含む7道県が10%を下回ったという,「立派な成績」である。
なお、飲食店の数がわからないという、もっと素晴らしい石川県は、集計に入っていない。

しかも、この「制度」は、なんと「基準」がはっきりしないのだ。
認証を得るための「チェック項目数」では、福井県と鳥取県が60を超しながら、岐阜県は4、徳島県は5。
それで両県とも、ちゃっかりランクインしている。

めんどいから無視する、というのが鳥取県だったのか?
いや、鳥取県は44.2%と健闘したから、やっぱり島根県とは人種がちがう。

すると、福井県が3位にランキングされているのは、別の意味で「異常」である。
「コロナは茶番」と主張する、自民党福井県議の言動は、ぜんぜん県内に浸透していない、という意味だと思われる。

テレビの娯楽番組を真に受けて、「県の認知度ランキング」で全国最下位になったのを、突如県知事様が「訴えてやる」と叫びだした群馬県は、3022軒21.6%の「成績」だった。
「まぁまぁ」ではないか。

下に、20もの府県がある。

でも、おそらく、群馬県知事は、納得していない。
山梨県みたいになりたい、と。
つまりは、全体主義者なのだ。
このひとがいう「県民のため」は、「自分のため」という政治用語である。

興味深いのは、10%にギリギリ乗せた、安倍一家の山口県。
その「長州」とひっついているのが、ワーストにランクインした「薩摩」は鹿児島だ。
これに、龍馬の高知はもっと頑張って、4.9%。

「保守の星」、高市氏のお膝元奈良県は、11.0%で山口の上。
関東では、「謝謝」茂木外務大臣の栃木県が11.8%で頑張ったのが「妙」だ。

なんだか、「民度」がわかるのである。

もちろん、「低いほう」が民度は「高い」ということだ。
その意味で、超巨大都市の東京が、全国2位の79.2%というのは、まるで民主党の牙城、ニューヨークのような民度の低さを露呈した。
なるほど、まともな「知事」を選んだことがない、という理由が分かる。

かくいう、我が神奈川県は、40.1%という、恥ずかしい値になっている。
東京ほどではないことに胸をなで下ろしたい思いだが、せめて群馬以下につけて欲しかった。
長崎県20.1%、香川県20.0%がうらやましい。

先日の市長選挙で、「佐賀の乱」に失敗した、佐賀県は、やっぱり30.1%という微妙な数字で、行政依存症という病気が発症しているだけはある。

それにしても、「基準」が違う「数字」を発表してあたかも全国ランキングの記事にする、という報道機関の編集トップは、一体なにを言いたいのか?と、よく読めば、全国統一という全体主義を進めたいらしい。

テレビの娯楽番組に噛みついた知事は、こちらの方に噛みつくべきだった。
「営業の自由を奪う」として、大反対の気勢をあげて、群馬では営業規制はしないと宣言したら、たいしたものだ。

群馬県民は、とんだ「間抜け」を選んだものだ。

そんななか、JR東海は、東海道新幹線の社内販売(「こだま」は営業していない)で、酒類の販売を25日から「再開」するという。
駅構内の売店はどうなのだろうか?

風が吹くと桶屋が儲かる、という詭弁に、21世紀の人類は「バカバカしい」とおもわなくなった。
電車の車内でビールを飲むと、どうして感染症になるのか?
しかも、改札の外で購入すれば、ふつうに車内でビールは飲める。

乗客への「いじめ」を、まじめにやって「いいこぶる」JR東海は、国民資産の新幹線を私物化しているにすぎない。

もうすぐ2年になるのに、相変わらず「感染経路」がわからないのだ。
だから、ワクチンを接種しようがマスクをしろという。
風邪だから感染経路がわからないのか?

感染症なのに、しかも「2類」という「大病」なのに、感染経路が判明しないという不思議。

総選挙になったら、急激にウイルスも活動をやめてくれる都合のよさは、偶然とは思えない。

ワクチン中止請求裁判で

ニュースにならない「事件」は、世の中で「起きていなかった」とする錯覚は、「知らない」から発生する当然である。
とはいえ、「本日の出来事」を全部ニュースにすることは不可能だ。
だから、「話題の選択」という「編集」が、ニュースにはつきものになるのである。

それだから、ニュース報道は活字になったものも、音声や映像付きのものも、「パブリッシング」として扱われて、「著作権」が付与される。
誰かが「ニュース原稿を書いた」ことでの著作権とは、区別しないといけない。

インターネットから生まれた、SNSという「サービス」は、「投稿をそのまま上げる」という意味で、これまでの「編集」とは違うからと区別して、さまざまな「特権」を付与したのは、「著作権」とは別のことである。

これを、「プラットフォーム」と認定して、「パブリッシング」とは別にした。
しかし、いまは、そのプラットフォームの提供者が、「投稿の削除」を行うようになって、事実上の「編集」をしている。

その「編集方針」が、前からあった報道機関と思想的な足並みを揃えているので、特定分野の情報が、漫然としている受け手には一切届かないことになって、「知らない」ことがこれらの企業によってつくられるようになった。

これを、「情報統制」というのだけれど、「知らない」ひとには、情報統制されていることすら「知らない」状態になる。

監禁状態にあれば、外部からの情報が遮断されるので、自分はいまなにも知りうることがない、という状態を認識することができる。
しかし、生半可な状態で、SNSのサービスを楽しんでいると思って、データ通信料金が高いと思っているひとの中には、あんがいと「自分が統制の対象になっている」ことを知らないでいられるのである。

これを上に書いた、「漫然としている」と分類できる。

また、このようなひとは、ちゃんと配信される無料の「ニュース記事」やテレビのニュース番組を観ていて、情報の「バランス」をとっていると自覚していたりする。

まさに、「パブリッシャー」からしたら、「予定通り」のことなのだ。
同じ「編集」をした記事を、違う出所だからと鵜呑みにしてくれる。

つまり、情報を全部出すのではなくて、小出しにすることでの水準が維持できれば、その小出しがいつかは全部に思えるようになる。
しかし、その小出しに疑問があって、これを自分からリサーチすると、思わぬ姿が浮かび上がってくることがある。

そうやって、漫然としている「多数」と、手間をかける「小数」が生まれるけれども、「パブリッシャー」は気にしていない。
「自由」で「民主主義」を基本にするなら、かならず「多数決の原理」が作動して、少数者を事実上無視できるからである。

そんなわけで、ニュースにならなければ、あるいは、ニュースにしなければ、漫然としている多数をコントロールできるのである。

ついでにいえば、漫然としている多数に、「憎悪の感情」を呼び起こさせるような「演出」は、特に効果的なコントロール法である。
この意味で、思想的に潔癖症で正義感の強い日本人の多数は、「白か黒かの二元論」的な誘導による情報統制が、特に「効く」ようになっている。

その一部が、「マスク警察」とか「他県ナンバーへの嫌がらせ」のような社会現象になるのである。
いまだに「マスク着用」を半強制的に行っているのは、まさに「情報統制」の「成果=洗脳」なのだ。

さてそれで、7月末に東京地方裁判所に提訴した、ワクチン中止請求裁判の第1回口頭弁論が12日にあった。
ちなみに、「ワクチン中止請求裁判_東京地裁」でググっても、検索に「ヒットしない」という、「編集」による「なかった」を確認できる。

それに、13日付け日経新聞では、「マスク着用せず東京地裁に数百人 ワクチン訴訟で騒然」と、あたかもマスクをしないことに「憎悪」を起こさせる「セオリー通り」をみることができて、「どんな訴訟なのかの原告の訴えを無視」していることも意図的だといえる。

裁判冒頭、開廷にあたって裁判長は傍聴席に向かって、「マスク着用」を要請した。
すかさず、原告側弁護人が「法的根拠」を質問すると、裁判長は「任意です」と答えたのだ。

にもかかわらず、再度裁判長がマスク着用を要請したのであった。
しかしながら、「任意」という「判断」を再び得たため、傍聴人たちは「安心して」マスク着用をしなかった。

「法の番人」は、いったい何をやっているのか?というお粗末を、弁護士は終了後の記者会見で、「マスク着用の法的根拠はない」と東京地裁が認めたことを「本日の成果」だと語った。
こんな会見しているのに、記事にならないことも注意したい。

さて、実はもっと重要なことは、「ワクチン接種」について、「裁判で係争中」という事実である。
従業員らに、ワクチン接種を推進した企業経営者は、「この事実」を「知らない」で済ませられるのか?

もちろん、「治験中」にすぎないという状態も含めて、のことである。

「編集」を旨とする報道機関が報道しない自由を行使しているけれど、原告勝訴となった場合、企業はどうするのか?労働組合は?
あるいは、「原告敗訴」となった場合、原告は控訴する可能性がある。
なぜなら、「強制」につながるからだ。

15日、政府の分科会で「動き」があった。
「心筋炎」の増大という事象を受けて、モデルナ製の接種をやめる方向での検討がはじまったのだ。

岸田内閣は、裁判や報道とは関係なく、「どうする?」という問題が突きつけられている。
「CHIPAN」にしたいのは山々だろうけど。

企業が自由を破壊する

外国、特にアメリカの「大統領発言」を機に、航空会社のパイロットたちが、どうやら「集団罹患」して、「病欠ばかり」となり、運航不能で欠航があいついで数千便にものぼっている。
これが、「仮病」なのか?どうなのか?は、わかっていない。

しかし、「同時期」にパイロットばかりが「病欠」しているのである。
さてはパンデミック?ともなっていないのは、「ストライキ」ではないか?との疑いに、労働組合が否定している「だけ」だからである。

問題の「大統領発言」は、今年の9月9日のことだった。
突如、民間も含めた「ワクチン義務化」を「発表」したのだった。
それで、大手航空会社は、ワクチン未接種者あるいは拒否者への「解雇予告」を「強化」したのだった。

これはなにも航空会社だけでなく、全産業をカバーするから、学校では、「最後の授業」が頻発している。
ワクチン未接種あるいは拒否した、教師があいついで「解雇」されているのである。

「生粋のフランス人」アルフォンス・ドーデの作品で、最も有名な『最後の授業』は、普仏戦争(1870~71年)で敗北したフランスが、その領土「アルザス・ロレーヌ地方」(ドイツでは「エルザス・ロートリンゲン」)をドイツに引き渡す直前の「その時」を描いたものだ。

なお、第二次大戦後は、フランス領になっているけど、とにかく「何回」も行ったり来たりしている「係争地」なのである。
この地方は、フランスにあって「ビール」の産地で、ビール醸造所が「直売」するときに出した「つまみ」ごとパリに進出したのが、「ブラッセリー」という「ビアホール(居酒屋)」であった。

「戦争」という、目に見える「勝敗」の結果は、どんなに理不尽であっても受け入れざるを得ない。
それが納得できなければ、再度戦争をして「取り返す」というのを「野蛮」というが、残念ながらいまだに「戦争のルール」なのである。

だから、いつ何時、また奪われるかもしれない。
「領土」は変わっても、「人間」を変えてなるものか、という精神から、この「小説」は、この地方の小学生の「必修の暗誦」課題になっている。
つまり、この地方に住むひとで、この小説を暗誦していないひとは「いない」ということなのだ。

子供からはじめれば、半世紀もすると完全に「社会の常識」になる。
これが、「初等教育」の効果であり、恐ろしさでもある。
わが国では、GHQに禁止された『教育勅語』がこれにあたる。
初等教育を舐めてはいけない、重要な事例なのだ。

戦後の日本人の子供は「必修の暗誦課題」を受けていない。
このことの「不幸」は、郷土愛を含めて「持たせない」ことの決心が、おとなの側にあったということによる。

それは、一種の「精神的被害者」を生産するという意味でもある。
伝統的・精神的価値観を子供に「移植しない」まま、集団に隷従するように「しつける」ということの、「設計」とは、その意図を隠せる立場からしたら、こんなに有利なことはない。

これが、現代の「支配の構造」を支えているのである。

精神的・思想的支柱がないまま、集団には盲目的に隷従するなら、まったくもって為政者たちには都合のよい「国民」になるからである。
これが証拠に、選挙権を18歳に引き下げても、若者は選挙に行かず、興味もない、のは、まことに「教育成果」というしかない。

さてそれで、アメリカ大統領の「発言」は、企業経営者を「その気」にさせて、「解雇」という伝家の宝刀を抜かせている。
ところがまったく不思議なことに、この大統領は、本発言後に「大統領令」すら発していない。

つまり、「言っただけ」の状態なのである。

だから、「解雇された」ひとたちは、連邦政府に「法的根拠」を求めることができず、個別に雇用主を訴えるほかない。
それで、共和党のテキサス州・フロリダ州知事は、「ワクチン強制による解雇禁止令」で対抗している。

ところで、ワクチン強制による解雇を順調に進めているアメリカン・エアーと、大量病欠で欠航が相次ぐサウスウエスト航空は、両社とも本社をテキサス州に置いているから、これからどんなことになるのかが注目されている。

なかでも、サウスウエスト航空のパイロットが投じた動画は、再生回数が驚異的な伸びになっている。
彼の主張は、「選択の自由」を失うことの「恐怖」なのであり、アメリカ建国の「歴史否定」だ、と。

さて、わが国に目を移せば、「ワクチン強制による解雇」には至っていない。
けれども、旅行業界とその周辺は、「ワクチン・パスポート」への期待を露わにしていて、「間接的に強制」を示唆するばかりか「期待」しているようだ。

これぞ、「自由思想」という「芯」がなくて、学校集団のなかで勉強エリートというだけの人生が醸し出す、「隷従」であることすら気づいていないことの証拠だ。

もはや「企業の社会的責任」に堂々と抵触しても、我関せずでいられるのは、「政府がいう空気」に隷従しているからだ。
そして、その隷従を、従業員ばかりか消費者にも、強制しようとしている。

自由経済に立っているはずの企業が、自由を破壊する。
もう、政府はなにもしなくてもいいのだ。
むしろ、国民を痛めつける政策を堂々と推進できると考える。
これが、「岸田政権」の本質だ。

ただし、アメリカ人が目醒めると、日本政府にも影響するから、全く情けないけど、「自由を希求するアメリカ人」に、日本人全体も依存しているのである。

女性優先温浴施設の快適

「エステティック」を「エステ」と略す日本語にしたのは誰なのかを知らないけれど、まずは「女性向け」というイメージがある。
もちろん、「男性エステ」というのも人気があることは承知している。
しかし、その場合は、「男性」を付けて区別するのである。

男女の「中性化」というのは、体内ホルモンの分泌が影響するとしても、どうしてそういうホルモンが出てくるのかは、素人にはわからない。
「清潔感のアピール」という社会的要素もあるだろうけど、だんだんと「アンチエイジング」の要素も老化を意識すると涌いてくる。

もちろん、「若返り」を図りたい、というほどではない。
むしろ、若いときのことを「思い出す」という記憶が、老化しいる現実の自分に「おののく」のである。
これには、個体差はあまりないのではなかろうか。

とはいえ、それが「ふつう」のことで、ムダな抵抗であると割り切れば、なにもすることはない。
「ムダ」だから、なにもしない、という選択が無意識でとられるのも、別段批難の対象にはならない。

けれども、興味本位というきっかけであろうがなんであろうが、「ムダ」を承知で「体験する」と、その場限りの刹那とはいえ、「ほう」と思うことがある。
ましてや、「偶然」ならなおさらだ。

そんなわけで、「偶然」にも複数の地元民の男女から、「この辺の温浴施設でお勧め」と言われたから、素直に行ってみた、だけのことではある。
ただし、とある初老の男性は、「自分にはどうもしっくりこない」と言って、別の「温泉」を勧めてくれた。

だから、先に書いておけば、その温泉にも行く予定を立てたい、と考えている。

さてそれで、勧められた施設は、有名エスティシャンの名を冠した「お風呂」なのである。
料金は聞いていた値段から「やや高め」の、1500円だった。
しかし、タオルや部屋着までがセットになっている。

持ち込みタオルの想定はないらしい。
これはこれで「発見」である。
余計な荷物がいらない。

エントランスからして、豪華さがあるけど、フロントも「その辺のお風呂」とは違う。
脱衣所も、「きれい」だ。
あかすりやカミソリも別途用意されていた。

驚いたのは、「洗剤」で、ボディーソープだけでなく、シャンプーやリンスが「豪勢」なのだ。
「液状」ではない、「泡タイプ」のシャンプー、リンスを、温浴施設で初めて見た。

しかも、わたしが愛用している「泡シャンプー」は、「炭酸洗髪」をうたったものだから、「香料」はない。
ここのものは、「ユニセックス」なのだろうけど、甘いフローラルな香りがするのである。

そして、泡立ちがよい。
ふだんリンスはつかっていないけど、似たデザインのボトルには、「1」、「2」と書いてある。
老眼には小さい文字は困るけど、この「数字」で意味を理解した。

「2」をつかってみたら、こんなものがあったのか、と感心した。
さすがは、有名エスティシャンの名前がついたお風呂である。

男性の浴場にあるのは、バブル風呂と人工炭酸泉、それと「日替わり」という露天風呂の三種類、これにサウナと岩盤浴もある。
しかし、家内によれば、女性の浴場は五種類の浴槽があるという。

わたしの問題は、「温度」だ。
「ぬるゆ」にたっぷりと時間をかけて浸かることに幸福感を見出した。
いつもの「山梨の温泉」には、2時間半は入っている。
「熱い湯」では、ぜったいにできない。

初めてのここは、どんな温度なのか?
人工炭酸泉に入ると、ギリギリの合格温度であった。
もっとぬるくていい。
けれども、しばし居眠りできたのであった。

「日替わり」の湯は、雨の中の露天(風呂には屋根はある)だ。
ここはいい感じでぬるい。
入ってから気がついたのは、なんだか肌がスベスベではなくて、ヌルヌルするのである。

それに、風の具合から、「いい匂い」がする。
てっきり、シャンプーとリンスの匂いが強いのかとも思ったけれど、そうではなくて、「お湯の匂い」なのだ。
しかも、心なしかお湯に「粘度」がある。

背にあった表示版には、「ヒアルロン酸の湯」とあって、「香り」についても記載があった。
あゝ、ここにずっと入っていたい。
温泉ではないのに、珍しくもそう思った。

脱衣所に戻れば、ここにもエステティック・サロンを彷彿とさせる、化粧品類が置いてあった。
悪いが、よくある「スーパー銭湯」の、無名メーカーのそれではない。
「オリジナル」のそれ、なのである。

これも「ユニセックス」なのだろうか?
ちょっと違う気がしたけれど、せっかくなので試してみたら、「香り」以外に違和感はない。

念のために言えば、やっぱり甘いフローラルな香りなのである。
嫌ではないが、シャキッと感がない。

ここは一体どんな施設なのだろう?
フロント横では、母娘が「エステ」の予約待ちをしていた。
あくまでも「女性優先」なのである。

しかし男性でも、1時間半の滞在では「短すぎる」のだった。
「次回」は、「宿泊」もできるので、そのつもりで再訪したい。

7~8時間待ちのレストラン

「静岡県内限定」をうたうレストランが、圧倒的な県民の支持を得て、コロナ禍をものともせずに大盛況である。
そんな人気レストランの店舗でも、首都圏にもっとも近い「御殿場店」は、入店不可能レベルの「7~8時間待ち」となっている。

その名も『炭火焼き さわやか』だ。
「げんこつハンバーグ」が、店名の代名詞ともなっている。
選べるソースは3種類。
オニオン、デミグラス、オニオンとデミグラス。

常連によると、オニオン一択。
店員さんが半分に切ってくれるので、もう一方は「塩コショウ」でいただく、というのが「通」らしい。
なお、ライスではなく、ライ麦パンがお薦めだと熱く語ってくれる。

開店は11時だけれど、店頭だけでの予約受付は10時から。
「昼」の予約もできるのだけど、「どうせ待つ」から、夕食の予約をするらしい。
予約票には二次元バーコードがあって、スマホと連携して入店時間のリアルタイム案内をしてくれる。

よって、予約さえしてしまえば、あとは「観光」に集中できるのだ。

それにしても、「県内限定」という設定が気になる。
ハンバーグなどの肉を、質と量で安定供給するには、「県内限定しかない」と決めたそうである。
でも、静岡県は、やたら「東西に長い」のだ。

御殿場店が東の果てなら、浜松店だってある。

東名高速道路だって、じつはほとんが静岡県内を走行することになる。
だったら、ちょっとぐらい「はみ出して」もいいのではないか?
と、ふだん神奈川県民を意識しない横浜市民が文句を言いたくなる。
たとえば、大井松田インター側、とか。

こないだ全線開通した、中部横断自動車道だって、山梨県の中央市まであっという間だ。

北関東を中心に展開しているレストラン・チェーンで、神奈川県に進出しているところはない。
なんだか、北関東のひとは「南関東」という言い方をするけれど、神奈川県に住んでいると「南関東ってどこ?」なのである。

いわゆる、群馬県、栃木県、茨城県を「北関東3県」というけれど、埼玉県も一緒にイメージするのが神奈川県民で、東京から「北」のことをいう。
問題は、千葉県で、こちらはただ「千葉」なのだ。
東京湾の対岸、というイメージになる。

東名高速道路の厚木ジャンクションから、圏央道がつながって、相模川の西岸の神奈川県民には、埼玉県が近くなった。
しかしながら、相模川の東岸には、その相模川を渡る橋が少ないのだ。
平日の朝の通勤時間帯、相模川をすぐに渡る方法は有料で、海老名インターから圏央道で厚木南や伊勢原で降りるとよい。

現代に「渡河料金」があるのだ。

川で分断されているのが、神奈川県である。
ただし、「神奈川」という川は(いまは)ない。
千葉県は本州から川で分断されているという説があったけど、流山のあたりで本州と陸続きになっている。

そんなわけで、『さわやか』に入店すること自体が、えらく特別なのである。
仕方がないから、食事後に帰宅することがままならないので、周辺に宿をとることになる。

このあたりが、「日本的」なのである。
「寝るだけ」のビジネス・ホテルという規格が成立するのは、よほどの田舎でないかぎり、周辺に食堂やレストラン、あるいは居酒屋が点在するのが「ふつう」だからだ。

「コロナ禍の旅行」ということをやってすっかり気づいたのは、その町のこれはというお店でテイクアウトした料理を、「部屋飲み」という方法で、一遍に何店舗もの「味」を楽しめる、ということだった。
これはこれで、「贅沢」なのだ。

料理付きの「旅館」に泊まらないのは、得体の知れないというほどではないけれど、専門店には及ばない中途半端な「会席料理」を食べたくないからである。
しかし、「専門店」とはいえ、全部のメニューが「優秀」なのではない。

だから、「つまみ食い的」なテイクアウトで何店かを回ると、低予算の割にすごいことになるのである。
ちなみに、各種調味料は持ち歩いている。
醤油は、御殿場の二段仕込み。わさびは三島の田丸屋とか。

この分野から離れるのが、『さわやか』である。
あるいは、汁物や麺類もやっぱり店内で味わうのがよい。
そうなると、現地に「泊まる必要」が生まれるのである。

この需要を、宿泊施設側がどう見ているのか?

かつては、自社敷地内から外にださない「囲い込み」で収益を確保したビジネス・モデルが通用していた。
しかし、周辺飲食店の進化もあって、選択肢が広がり、却って「囲い込み」が非効率どころか不効率となったのである。

そこで問題になるのが、部屋のレイアウトと設備だ。
どうやって、部屋飲みが快適になるのか?
テーブルとイスは?コップは?氷は?冷蔵庫は?ゴミ箱は?
それが、「選ばれる宿」の条件になってきている。

この条件が満たされた宿は、めったにないから印象に残る。
それで、必ずリピートするのである。

富士山の水道水

富士山には、「川」がない。
自ら噴出させた、「溶岩」や「火山灰」で覆っているので、雨が降っても雪融け水でも、「地下水」になってしまうからだ。
イメージとしとはスポンジのような山なのである。

「貯水量」はというと、およそ「琵琶湖ほど」という研究がある。

なので、重力でスポンジの水が湧き出るように、富士山の山腹から涌き出る水を水源として、この山の周辺都市の「水道」になっている。
もちろん、瓶詰めすれば「ミネラルウォーター」として販売できるので、山梨県と静岡県は、あわせて全国シェアの半分を超える「二大産地」となっている。

都道府県別で水道料金をランキングにすると、最安は神奈川県になるけれども、市町村別にすると様相が変わる。
トップ10に、静岡県(長泉町、小山町)と山梨県(忍野村、富士河口湖町)それぞれ2町村がランクインしているけれど、神奈川県の市町村はひとつもない。

統計における「平均」の妙である。

富士河口湖町と忍野村との間には、富士吉田市があって、「吉田のうどん」が名物とされている。
「腰がある」というよりも、かなり「堅い」うどんだけれども、「水のよさ」あっての名物にちがいない。

忍野村には有名な「忍野八海」がある。
富士山の伏流水の湧水池が並んでいる。
この地の奥と山中湖を水源にする「桂川」は、富士吉田市の溶岩流脇を下って、大月市で大きく曲がって相模湖に向かう。

山中湖の反対側、道志山塊を水源にする道志川も、山を夾んで桂川と並行しながら相模湖に向かう。
道志村の村域の8割が、横浜市水道局の水源管理山林として、横浜市が所有している。

山中湖から篭坂峠を越えれば、御殿場市で、途中、小山町を横切る。
御殿場から国道246号線を下って裾野市の隣が長泉町。
それから、うなぎと柿田川湧水群で有名な三島に至る。
西となりの沼津の先は富士市で、豊富な水をつかった製紙業が栄えた。

富士市から北上すれば、焼きそばで有名な富士宮市。
さらに北上すれば、本栖湖で山梨県に戻る。

これらの町の水道は、ぜんぶ富士山の水なのだ。

ときに、「静岡ラーメン」というローカルなジャンルがあるけれど、「水」に注目すると納得できる。
麺をこねる水と、スープも水から作るものだ。

地元のひとたちの「当たり前」は、水道による。
だから、水道料金が安いことも「当たり前」になっている。
すると、いつの間にか「当たり前」は意識しないレベルでの「当たり前」になるので、その「恩恵」も意識しないで生活している。

この人たちが、「当たり前の恩恵」に気づくのは、富士山から離れた地域に移動したときに気がつくのだ。
それは、「旅行」レベルになったとき、なのである。
案外と、生活圏としてみれば、富士山の周辺にまとわりついているからだ。

ところで、富士山の水とは、「軟水」なのである。
「軟水」と「硬水」のちがいは、ミネラル成分(主にカルシウムとマグネシウム)の含有量のことで、「軟水」にはミネラル成分がほとんどない。
逆に、ヨーロッパの水の多くは「硬水」だ。

有名な銘柄の「ミネラルウォーター」を、テフロン加工などがされた内側が黒い鍋に入れて煮立てると、鍋の周辺に白い物質がこびりつく。
これが、「ミネラル」だ。

日本の水は、ほとんどが「軟水」なので、「硬水」のミネラルウォーターだけを飲み続けると、日本人はお腹をこわしたり、「石」ができる。
ところが、肉食の人たちには、「硬水」が料理を美味しくさせる秘訣になっている。

典型的なのは、「煮込み料理」で、肉に含まれる各種ミネラルが、硬水のミネラルウォーターで煮込むことで、軟水よりも多く「しみ出る」のである。
これは、イタリア料理でも同じ。
石灰質の土地から涌き出る水には、たっぷり「カルシウム」が入っている。

パスタを茹でるときにも、「硬水」は具合がいい。
日本では、たっぷりの「塩(ナトリウムと塩素というミネラル)」を鍋に入れるのは、軟水を硬水のようにさせるためでもある。

そんなわけで、富士山の水は、フランス料理には向かない。
蕎麦やうどん、ラーメンが「名物」になるのは、「軟水」のおいしさが原因なのである。
もちろん、「うなぎ」もだ。

日本食が富士山には向いているとは、痛快だ。
忍野村には豆腐屋が2軒隣り合わせているけれど、近くに行けば必ず購入する、と地元人に語ったら不思議そうな顔をした。
「そんなに特別ですかね?」

ふだんから飲んでいる水と、豆腐を作るときの水が「同じ」だから、特段美味いとは感じないそうである。
ほとんど「水」でできている豆腐は、実は「水を食べている」ようなものだから、水の味で豆腐の味もきまる。

そこで、どこかへ旅行して豆腐を食べたら違いが分かると思う、と返したら、はたと気がついたようであった。

うらやましいほどの日常を富士山は提供してくれている。
それが「ふつう」すぎて、商売人も気がつかない。
「日常」とは、そんなものなのである。

カジノはどうなる?

全国に3カ所作るとしたなか、有力候補だった横浜が反対を公約した市長の誕生で事実上脱落したので、逆に「絞り込まれた」感がある。
どちらも関西圏で、大阪府、和歌山県、長崎県が残っている。
国への「申請」は、10月1日から来年の4月28日までだ。

もしや、東京都が突如手を挙げるかもしれないハプニングもあり得る。

しかしながら、コロナによる訪日観光客の復活の目処が立たないなかで、計画だけを先行させるのか?という疑問があるのも事実だ。
たしか、主たる想定客層は、外国人観光客だった。
このことの違和感は、その外国人とは誰か?という区分けで、「アジアの富裕層」があがっていたからである。

しからば、アジアにカジノはないのか?といえば、そんなことはなく、既にラスベガスを抜いて売上世界一位になった「マカオ」を筆頭に、シンガポール、韓国にもカジノは営業している。
つまり、これらの既存施設と、真っ向競合して「日本だから勝てる」という意味不明の自信にあふれているのだ。

「一国二制度」という、最初からのインチキがとうとう破たんして、香港の自由経済は終わりを迎えた。
それで、香港繁栄の礎である「国際金融業」はどうしたかといえば、もちろん、「東京には来ずに」シンガポールへ大挙して移転した。

東京が選択肢として、「検討すらされない」のは、日本が「自由経済ではない」からである。
だから、大阪府や市がいう、金融センターになるには、織田信長が「堺」につくった「楽市・楽座」という「特区」にしないと不可能である。

なのに、ビジネスをやったことがない役人は、見た目で立派なビルを建てると、金融資本がよろこんでやって来ると思いこんでいる。
中共の末端党員だって、こんなバカなことを言わないし、言ったら党籍を剥奪されるかもしれない。

つまるところ、共産主義者未満の資本主義理解というレベルなのである。

さらに、大阪府の知事は、「ギャンブル依存症防止」という、精神病のドクターになったような物言いをして、あたかも正義ぶる悪い思考をする癖がある。
弁護士としての訓練ができているから、他人ごとと割り切れるのであろう。

九州の候補地は、カウンターパートにオーストラリアの「国営カジノ」を選定している。
オーストラリアのひとには申し訳ないが、どうして「国営」企業が相手なのか?という日本人としての疑問がある。

国鉄も郵便も、国営でやってうまくいく事例は世界にないことを、まだ気づかないのか、知っていて選んでいるならその意図はなにか?
選定にあたったはずの「外部専門家」に聞いてみたい。

自民党幹事長にして親中派の親玉が仕切る和歌山県は、どうなっているのか?
中華系のカジノ事業者と組むなら、それはそれで予想通りではあるが、その中華系に異変が起きている。

マカオのカジノは、ポルトガル領の昔から有名だったけど、「返還後」は、香港と並んでマカオも、江沢民派の拠点であった。
これを、ぶっ壊すのが習派の政治課題だから、香港が「ああなった」のである。

それでこのほど、「新法」ができて、マカオのカジノ営業免許の「制度」が大幅に変更された。
取締役に「党」の誰かを就任させないといけないし、江派がやった免許分割での複数会社への利権(自身にも)付与が、元に戻された。

それでもって、マカオのカジノ事業者が持つ「資本」が、シンガポールに忌避して移転しているという。
だから、和歌山県がもしもマカオのカジノと組むなら、習派と組むことを意味するし、シンガポール系なら江派と組むことになる。

実に興味深い、「親中」の区分がわかる「踏み絵」となっている。

それでも江派が絶えないのは、一派に与えた利権の「うまみ」がじつに「おいしい」からである。
カジノ利権とは、「マネロン(資金洗浄:マネーロンダリング)」にある。

露骨に中央銀行を利用するようなことをしないで、「賭け」という隠れ蓑を利用した方が、よほどスマートなのだ。
しかも、「上得意客」になれば、チップを保管してもらえる。
日本のパチンコで言う、「貯玉」の巨額版だ。

そうやって、江派は13億人のうち1億人を大金持ちにした。
日本人の「お金持ち」のレベルではない富の源泉を、部下たちに与えたのである。
おそらく、教科書は「田中角栄のやり方」だったろう。

そんなわけで、和歌山県を仕切る自民党幹事長は、田中派の生き残りだという意味も理解できるのである。
対する習派は、「清貧」ならぬ「独裁」が欲しい。
そのために、経済が痛んでもいとわない。

こんなことが、「空中戦」で行われていて、わが国のカジノは習派が言う以上に、「ガチガチの規制」を課したから、ラスベガスからもヨーロッパからも、手を挙げる業者がいなくなったのだ。

すると、わが国政府は、共産党右派的な思想だと理解できる。
これを許した、「カジノ議連」なる国会議員たちの頭脳構造もかなり「やばい」のだ。

総裁候補にちゃっかり立候補しているから、神経だけは図太いといえる。