FAXがほしい

電話機についているのがFAXなのか、FAXに電話機がついているのか?
通信手段として、固定電話とセットになるFAXは、前世紀の遺物、と世界的に評価されるなか、どっこいわが国ではいまだ「現役」だ。

もうずいぶん前になるが、ヨーロッパのとある先進国にある、とある先端企業は、自社の技術がとあるアジアの国に盗まれていることに気がついた。
どこから、設計図が漏れたのか?を社内の極秘調査チームがさぐったら、ネットからだったことが判明した。

この企業でのこの「事件」は、ネットの脆弱性を世界に知らしめたものだった。
それで、どういう対策をとったのか?といえば、いそぐばあいはFAX、そうでなければ郵便ということになった。

どちらさまも「サイバー空間」における「情報争奪」に熱心なので、アナログ回線における通信が、かえって安全だという皮肉である。

ましてや、郵便とは?
かつての冷戦期、郵便物を開封して撮影し、再度封をするスパイ小説や映画のようなことは、じっさいにはもっと巧妙にやっていた。
その筋のプロでもわからないようにする「職人技術」があったのだ。

ところが、冷戦の終了とインターネットの普及という新技術の登場に、これらの職人たちがお払い箱になってしまって、郵便における安全性が急に復活したという事情が説明されてもいた。

前にふれた映画『オーケストラ』(2009年、フランス)は、かつての「ボリショイ交響楽団」の仲間たちでつくるコンサートを成功させる物語だった。

ロートルのひとたちがドタバタしながらなんとかする、というはなしだが、諜報の世界のロートルのひとたちがドタバタしながら、重要な郵便物を盗み見る、なんて映画ができてもおかしくない。
なにせ、もはや後継者がいない、からである。

いまや、固定電話契約は、個人の信用を証明するような「機能」になってしまった。
固定電話番号をもっていることは、「家がある」という意味になるからである。

しかし、ひとり暮らしならずとも、携帯電話があれば固定電話はひつようない。
それで、NTT東西あわせると1997年をピークに「7割以上」も減って1,700万件ほどになってしまったから、年間800億円以上の赤字事業になっている。

ざっくりいえば、毎年150万件の契約解除が発生していることになる。

国家は国民から合法的に掠奪する。

むかし電話を引くときに強制購入させられた「電話債権」とは、いわゆる「電話加入権」のことだが、これが「価値をうしなった」のは、2006年に提訴された損害賠償裁判で、控訴審でも請求棄却が確定したことがきめてになった。

わが国に「三権分立が存在しない」ことの証拠にもなった。
裁判所は、行政府を擁護するために存在しているからだ。
よって、企業にはこの債権価値について「無形固定資産」としての「簿価」をどうするのか?という問題となり、「時価会計」による「減損」するしかないという理不尽も発生している。

客室数に応じて、それなりの契約回線数をもっているホテルや旅館には、想定外の災難なことであったが、これに「業界」が「沈黙」したのも「椿事」ではある。
よく「しつけられた」ものだ。

「パソコン通信」がはじまる前、文書はFAXで送受信する、ことになっていた。
いまだに「パソコンがない」ときに、FAXをつかうのは、「情弱」だけが理由ではない。

コンビニにも、複合機としてのFAXがあるのは、通信手段としての選択肢を確保しているからだろう。

けれども、さいきんは「パソコンがあっても」FAXをつかうことがある。
これは、「PCファクス送受信」という機能があるからで、この機能つきFAX機を介せば、パソコンから直接FAXの送受信ができる。

電子メールに文書を添付させるために、パスワードをかける方法がビジネスの場面でつかわれることが「常識」とさえいわれているが、専門家は「無意味」と批判的である。
サイバー空間をつかうから、悪意があれば盗まれる。

ならば、メール添付ではなくFAX送信してしまうことを通知すれば、手間はおなじでありながら、じつはよほど「セキュア」なのである。
相手も、この機能があるFAX機を介せば、紙に印刷して受信するひつようもない。

わが家のFAXには、メモリーカードを介してパソコンに文書を取りこんだり、返信文書をパソコンでつくってメモリーカードに保存すればFAX送信できる機能があったのだが、このところその機能がつかえなくなった。

どうしてなのかいろいろしらべたら、メーカーのHPに、この機能を提供する独自アプリが「最新のOSに対応しておりません」とあった。
ご丁寧に「この情報は役に立ちましたか?」という選択肢まであるのは、ありえない「ムダ」だ。

要はつかえない、と宣言しているのに、役に立つもない。
最新のOSにいつ対応するから待て、ならまだしも、たんなるユーザの「切り捨て」であるし、製品特性として宣伝し販売した責任の放棄である。

わが国を代表する「経営の神様」とまで崇拝された創業者の、「ユーザを大切にする精神」の微塵もない。大赤字に転落したのは、新興国の猛追が原因ではなく、経営者の身から出た錆である。

仕方がないので、コメント欄に「別のメーカーのFAXを購入することにした」と記入したのは、故人へのリスペクトからである。
そうでなければ無言でいなくなる。改善のためのヒントをあたえるような殊勝なことはしてあげない。

こういう状況をどこかで見聞きしたことがあるとかんがえたら、地震がおきてマンションの建築構造に手抜きがあるのがわかっても、施工者や販売者が逃げ回るすがたに似ていることに気がついた。

無責任な企業には、しっかりした制裁をあたえることが必要で、それをするのは政府ではなく、市場でなければならない。
ただし、わざと倒産して逃げる道もあるから、倒産前と後の両方に、逃げられない道をつくるのは政府の役割だ。

そんなわけで、いまのところ町内会の連絡にしかつかわないけど、あたらしいFAX機を購入しないと、面倒なことになっている。

紅葉の河口湖に行ってきた

秋の紅葉シーズンである。
さりげなく、どこかに行こうということになって、途中河口湖に行ってきた。
河口湖の観光関係者に申し訳ないが、ぜんぜん目的地ではなかった。

この湖にやってくるは何年ぶりだろうかと、かんがえてもはっきり記憶にないのだが、だいたい10年ぶりぐらいだとおもう。
その前も10年ぶりぐらいだとおもうから、10年周期で訪問している。

そんなわけで、印象にのこる記憶があまりない。
前回は、湖畔の美術館をめぐる、という目的があったから、美術館のことは記憶しているが、それ以外はないし、その前の訪問は理由すら忘れてしまった。

富士山に傘がかぶるように雲がかかっていた。
もしや天気がわるくなるかも、とおもったら案の定。
しばらくして雷をともなう激しい雨になったが、それは東富士に移動したときだから、現地がどうだったかはわからない。

湖畔にはたくさんの外国人がいた。
東南アジア系のひとびとは、団体ツアーなのだろう。
うれしそうに御山と湖を背景に記念写真にいそしんでいたすがたが、なんだか半世紀近く前の家族旅行を思いださせる。

ちょうど、「紅葉まつり」開催中とのことで、現地にいって気がついたのは、たくさんの屋台とひとだかりに後からコンビニでみたポスターだった。
わざわざ混雑のばしょに行くのが面倒なので、このエリアは通過したから、なにが?どんな?祭りだったかはさっぱりだ。

このあたり、興味がないと徹底的になってしまうのは、これまでの経験則による。

ポスターには、しっかり「富士河口湖町観光課」と記載があるから、とたんに事前期待値はマイナスになった。
イベントがどうして「猿まわし」と「ジャズ」なのか?
きっと「猿の脳」でかんがえたのだろう。

そして何よりも、「無料」という料金設定が、「発想の貧しさ」の象徴なのだ。
行政が主催になると、「儲けてはいけない」ということに自動的になるから、「やりたいこと」ではなくて「低予算でできること」になってしまう。

わが国にはどうも「無料信仰」がある。

「無料」だから、サービス品質がひくくても誰からも文句をいわれない。
この「ノー・リスク」こそが、役所のねらい、なのだ。
たとえわずかでも「有料」にしたとたん、利用者からのクレームをいわれる「可能性」が生まれるのを極端にきらうからだ。

じつは、この「可能性」こそが重要なのだ。
クレームを受けないようにするにはどうしたらよいのか?
それには、きっちりとした「計画」と「準備」それに、当日の「現場体制」を構築しなければならない。

それで、やっと「有料」にできるし、客の満足もたかまるものだからだ。

しかし、客側もこれまでの人生で、「有料」の祭りなんて経験がないし、無料の、サービスとはいえないサービスになれている。
このばあいの「サービス」とは「奉仕」の意味だが、「奉仕以下」のサービスになれているから、無料があたりまえなのである。

ここで、もう一方の主催者をおもいだすと、たいがいが「観光協会」なる民間団体が存在している。
つまり、こちらが「有料」のチャンスをもっているはずなのだが、予算を自治体に依存しているため、なにもできないのだ。

ほんらいなら、無料と有料の「棲み分け」は可能なのに。

けっきょくのところ、なにをもって祭りが「成功」したのか「失敗」したのかがわからないから、集客した人数という指標しかない。
儲けてはいけないから、指標が「売上」にならないのである。

梅棹忠夫先生はかつて1970年に、観光業を「掠奪産業」と呼んでいたが、なにをかくそう、観光課が地元民の税金を「ドブに棄てている」。
そして半世紀を経ても相も変わらず、観光地にやってきたひとびとから、価値のないものを買わせることでの「掠奪」がおこなわれているのである。

つまり、掠奪のための計画をたてて、実行しているのが「実態」となるようになっている。ノー・リスクはすなわち、自動的に「ノー・リターン」になるからである。
「投入した資源の見返りが、ない」ものを役所用語で「事業」というのだ。

これは、なにも河口湖だけのはなしではなく、全国津々浦々でやっていることなのだ。

これをもって「観光立国」とは笑止である。
せめて「山賊の国」と自己批判もできない脆弱ぶりは、行政依存のみじめがさせる。

しかし、もっともみじめなのは、そんなことに気もとめず、「楽しい」とかんじるように訓練された観光客のほうである。
ということで、じぶんがみじめになってきたから、湖畔の散策と地元野菜を買って、30分ほどの滞在で立ち去ることにした。

帰路の山中湖畔は、日曜日の混雑が「うそのよう」な閑散だ。
しかし、日曜日の混雑が「うそ」で、平日のこの閑散がほんとうなのだろう。
別荘地の合間を抜けつつ、管理費用があたまをよぎれば、「ああ欲しくない」と、またまたいけないかんがえがうかぶ。

富士山が湖面にうつる美のポテンシャルを、関係者が努力して「減価」させるのは「マンガ文化」でもわらえない。
河口湖も山中湖も、おそらくわが家の「目的地」になることはないだろう。
ぜんぜん残念でないのが、残念だ。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。

観光協会を株式会社にして上場したい

先日、スイスの話を書いた。
かれらが、行政組織に「観光課」を持たないのは「ムダ」だと承知しているからだ。
それは、住民たちの出資よる「観光会社」を持っているので、組織がダブルからである。

もちろん、この住人たちの組織だって「行政」とはさいしょから縁がなく、自発的に設立された歴史経緯がある。
それは、町や村の住人たちが、自分たちで出資した会社を自分たちで運営し、自分たちでリスクを背負っているのである。

これが「戦後の日本方式」とまったくことなる点なのだ。

わが国だったら、資本金を注入するのが政府か自治体の補助金になってしまうから、拒否しようにも役人が役員(経営者)で送り込まれる。
これは、「観光協会」やひいては「農協」の構造とおなじである。

あの阿波おどりでもめた徳島県の徳島市は、累積赤字を理由に観光協会を破産させたが、去年と今年でその額を超える赤字をだした。
市長が実行委員長だったので、この赤字は結局税金で補填されることにになるのだろう。

徳島市で住民監査請求がされたことを寡聞にして聞かないのは、愛知県における美術展とそっくりだ。
元の木阿弥どころか、なにをしたいのか?混迷は深まるばかりである。

ところが、全国をみわたせば、このような「赤字問題」はいたるところに存在する。
青森の「ねぷた」しかり。仙台の七夕しかり。
万人単位の観客動員をしているから、さぞやとおもえば、だれも資金の提供などしていない。
さいきんでは、花火大会が資金不足で中止になるというブームになっている。

地元の祭りだって、金の切れ目が縁の切れ目。なのである。

「住民のため」と理由をつけたり、他県からの観光客が見込めることを「地域おこし」といったりして、甘い言葉で自己弁護しながら役所しか資金を提供しない。
だから、地元の住民だって、じぶんのお金が使われているという感覚がマヒするのだ。

こうして赤字が「ふつう」になるのである。
だって、行政の事業なら、基本的に利益をだしてはならない、ということになっているではないか。

けれども、行政の収益事業が収益事業にならないのは、「収益」をあげるまえに「平等」を追究する「原理」がはたらくからである。
これは、「四民平等」ではなくて「市民平等」のことで、関連する「業界」を平等にあつかおうと努力することが、「収益」を無視する結果につながるのである。

「協賛金」をちょっとでも提供すれば、「協賛企業」としての扱いをうける。
住民の町内会が供出するのは「寄付金」なので、意見をいえないのに現場での下働きはさせられる。

ところが、わが国は資本主義の理解ができていないので、「出資」という概念が薄く、金額の多寡において平等でなければならないのに、いくらでもいいから出資さえすれば「平等」になる。
これは、多額の出資者からしたら、「不平等」きわまりない。

オーナー経営者なら、自分で経営判断ができるけど、地元にある大手企業の判断は、かならず「横並び」になるのも日本的特徴だ。
突出した額の提供を「社内決済」では提案すらできないのは、提案するのがサラリーマンだからだ。

こうして、「創業の地」とか「創業者の生地」なのに、どうでもいいような扱いになるのは、企業が成長して大企業になると、経営の「判断能力」が低下するようになっていることに理由がある。
トップダウンではなく、ボトムアップを「是」とするためだ。

もちろん、株主のお金をかってに使っていいということは「資本主義」の本義に反するが、横並びでないと株主の理解が得られないという理由もない。
絶対値でみて判断できないということほど、株主利益を毀損する。

その「株主が住民である」のがスイスの事例である。
資本主義だから、住民は株主として振る舞うのが「正義」なので、組合員が自分たちの出資金でつくったはずの農協組織から疎外されても文句が言えないわが国とは「真逆」ができるのだ。

たとえ、素人の住人がつくったとはいえ、ちゃんと収益があがる事業なら、その事業を評価して、スイスの地元銀行は融資するばかりか出資もする。

日本の地元銀行は、資金管理と称して「預金通帳」をだすだけで、一般の預金者とおなじあつかいだ。
これは、事業評価が「できない」というよりも「してはいけない」という重い理由がある。

私企業であるはずの銀行が、バブル崩壊以来30年かけて、国家管理されるようになった。
むかしの「頭取」は自分で判断したが、いまの「頭取」は金融庁にお伺いをたてるのだ。

そんななか、ロンドン証券取引所と東京証券取引所が共同出資してできた『東京証券取引所プロ市場』という「市場」がある。
これは、「一部」「二部」「マザーズ」「ジャスダック」につづく5番目の市場で、「上場基準のハードルが低い」ことが特徴だ。

とはいえ、「東証上場」ということになる。

各地の観光協会は、ここに上場して、資本主義で「儲ける」ことを決心したらいかがかと、おもうのである。

地域振興は、国のアリバイ的政策である「地方創生」などという子どもだましでできるはずもなく、その補助金目当ての自治体にも能力はない。

結局、住民が自分たちでリスクを背負う方法が、もっともうまいやり方で、ほかにないのである、と世界一の観光事業国「スイス」がおしえてくれている。

客数が減る

自社の客数が減っている。
第一に、この状況に気がつかない企業がある。
第二に、気がついてもどうしたらいいのかわからいから放置している企業がある。
本当は「放置」ではなく、悶々としているのだけれども、なにもしないから他人からは放置にみえるだけだ。
第三に、すぐに手を打つ企業があるのは、まともな企業だ。

第一のタイプと第二のタイプはふたごの兄弟のようなもので、なにもしない・なにもできないという点で共通している。

だれにだって、お金は大切である。
「放蕩」ができるのもどこかにお金があるからだし、放蕩しているひとは、そもそもそれが「放蕩」だとは気づいていない。
名作といわれている『夫婦善哉』における、主演のご両人・森繁久彌と淡島千景は、みごとな「放蕩」ぶりを演じたものだ。

この映画の「欠点」は、とうとう生活経済が破たんしても、なんだか幸せな二人を描いたからで、これは現実を無視したファンタジーだったが、もちろん当時の観客はファンタジーだと承知で観ていた。
いまなら、壮絶なバトルになるはずなのは、それはそれで現実がファンタジーを超えている。

だから、経済破綻には悲劇がやってくる。
そのはじまりが、客数減少という現象なのである。
すると、これを「放置」できる神経とはなにか?というはなしになる。

圧倒的な「そのうちなんとかなるさ」という甘い見通しを信じるこころなのか?
いや、それならこころが悶々とするはずがない。
たんなる「現実逃避」であって、根本には「無責任」がある。
くわえて、企業一丸となって「現実逃避」していることで、あえて「かんがえない」すなわち組織をあげて「思考停止」しているのだ。

けれども、不思議なのは経営者ではなく従業員である。
従業員もいっしょになって「思考停止」しているからだ。
じぶんはどうなるのだろう?と不安はないのか?
ここに、決定的な「他人依存」がある。

職場の仲間は、しぜんと友人になる。
その友人が不安そうではない、と思いこむことでじぶんも安心し、かんがえないことにする。
一方で、その友人もおなじことをかんがえている。
これは、自立心の欠如だ。

自立心の欠如を推進しているのは、とうとう文部科学省という役所になった。
だからか、自立心を高めるような映画がつくられなくなった。
補助金も出ず、「文部省推薦」もえられない。
しかし、これらは国民がもとめている結果なのだ。

自立心といえばわが国ではアメリカ合衆国を例にするが、強烈なのはスイスである。
観光カリスマの称号をもつ、山田圭一郎氏のはなしを聴いてきた。

「永世中立国」だからさぞや軍隊なんて、ということとは真逆に、「永世中立国」だから国民皆兵・徴兵制の独自軍をもっている。
それに、スイスの主たる産業は、精密機械や金融で、その精密技術をいかした兵器の一大輸出国である。
こうした産業基盤の上に観光産業がある。

誰がいったのか「観光立国」なんてことはあり得ないのだ。

しかし、スイスの歴史をみればわかるが、ふるくはたいへんな貧乏国だった。
山国の典型でもあるが、その山々が「アルプス」なのである。
険しさは一等だから、ちいさな国でいて山の反対側の村との交流すら困難だった。

美しい山々をわざわざ観に来る物好きは、すくなくてもスイス人ではなかった。
美しい山々から、お金が稼げるとはだれもおもわなかった。
けれども、産業革命でヨーロッパの列強には、たくさんのお金持ちが発生して、様相が変わった。

険しい山の中の村に、観光客がやってきたのである。

そして、このひとたちが「わがまま」だったのである。
その「わがまま」を実現してあげると、たいそうなお金をくれた。
こうして、村人たちは知らず知らずと「マーケティング」を体験で学んだのである。

あるときに、客の「わがまま」を実現する努力をするのではなくて、自分たちで要望を先回りして「提案」するようになった。
こうして、「スタイル」をつくったのだ。

全世界共通で、全産業で共通なのが「売上の公式」である。

客数(数量)× 単価 = 売上

険しい山に平たい土地はすくないし、まわりに住んでいる住人もすくないから、巨大なホテルをつくらなかった。
それだから、受け入れられる客数には上限がある。
ならばと、単価をあげる方法に智恵をしぼった。

すると、低単価客は断ればいいことにも気がついたのである。

こうして、客数を減らす取り組みと同時に稼ぐ方法を考案した。
それが高額運賃の登山電車であり、自家用車の交通規制をして、馬車か電気自動車に強制的に乗り換えさせて料金を取り、さらに村人に仕事をつくったのである。

ところが、これが観光として受けた。
環境保護は、あとからやってきた理屈である。

いま、スイスの山中で、観光客をあいてにはたらくひとたちは、典型的な宿の従業員で時給で円換算すると、3000円をとっくに超えている。

客数が減ったら、単価をさげるわが国とは、どこまでもことなっている。
そして、こまったら役所からもらえる補助金を頼りにするのとは、発想自体が真逆なのだ。

もっともスイスには、連邦政府に文科省にあたる役所もないし、村役場にだって観光課はない。

住民が自分たちでやることをしっていて、それをほんとうに自分たちでやっている。

その意味で、国や自治体という「行政府」に、おいしいところはやらせないのである。

サービス業はユーザ工学も参照せよ

以前「感動工学」について書いたことがある。
「工学」がつくから理系だし、基本的に「モノ」が対象である。

だから、サービス業の従事者は「自分たちに関係ない」と思いこむ傾向がある。
いまだに、サービス大手企業の経営トップが、製造業を評して「ベルトコンベア」というほどの「時代遅れ」にだれも反論しないのは、そのひとが「偉い」からだが、しゅうへんに「えらい」迷惑を拡散していることにも気づいていないから深刻なのだ。

「おもてなし」を重視するサービス業は、製造業なんかとちがうと自慢するのは「高度な産業」なのだといいたいのだろうが、いいかたの比喩が完全にまちがっているから、従業員にあらぬ誤解を埋めこんでしまうのである。

たしかに「高度な産業」である。
しかし、「高度」という理由は、相手が人間だから、なのであって、それ以上のことではない。

戦後のモノがない時代は、たとえ粗悪品でもそこそこ売れた。
それは、人々の所得も低かったからである。
だから、社会全体が豊かになる(所得もあがる)と、粗悪品では満足できず、高品質なモノを要求するようになって、工業はこれにこたえてきた。

じつは、宿泊業だって、モノがない時代に粗悪な宿しかなかったのは、主たる都市が空襲で焼けてしまったし、焼け残った上質な宿は「接収」されてしまったから、ふつうのひとは利用できなかった。

高度成長期に、観光ホテルが有名温泉地を中心に新築されて、画一的な施設とサービスをもって、大量生産大量消費がおこなわれた。
「大きいことはいいことだ」ったのは、なにも工業だけのはなしではない。

一泊二日で宴会付というスタイルは、「流し込み」状態だったから、ベルトコンベアとかわらない。
唯一のちがいは、施設のなかにベルトコンベアがあるのではなく、「お客の動き」自体がベルトコンベアだったのである。

ところが、70年代に「高度」成長が中折れして、低成長時代に突入した。
当時の月次統計をみれば、石油ショックが原因ではなく、田中角栄内閣の経済政策失敗がそうさせたということも前に書いた。

つくれば売れるの終焉でもあった。
ここから、製造業はがぜんと「高品質」にむかうのである。
しかし、サービス業のおおくは、この変化に対応せず、「守旧」したのである。

その理由は、哲学しなかった、に尽きる。

それで、時代の対応として、カラーテレビと冷蔵庫を各部屋に配置し、それぞれに「料金課金」できるようにした。
つまり、サービスではなく「モノ」の購入で時代を乗り切ろうとしたのである。

そして、その「モノ」自体の品質にたすけられた。
なるほど、「高度」なわけである。
つまり、たまたまだが、「他業種の製品の上」にあるのがサービス業であることがみえてくるのである。

しかして、この構造をいかほどの業界人が意識しているのだろうか?

意識できていれば、「モノ」の選択における「センス」が重視されるようになるはずだが、いまだに「価格」が重視されている。
「低価格」でなければならない。

にもかかわらず、食事のメニューにはやたらとこだわるから、バランスが崩れるのだ。
この崩れたバランスを、利用客が敏感にかんじとれるのは、利用客の生活水準が高いからである。

そんなわけで、わざわざバランスの崩れた環境に身を置くことを避けたくなるのは人情かつ合理性があるので、目的地の旅館ではなくビジネスホテルを予約するのだ。

『ユーザ工学入門』(共立出版、1999年)は、「ユーザ工学」について書かれたわが国で最初の書籍である。

ここにおける「モノ」のはなしは、ものづくりのこだわりがわかるだけでなく、「サービス」に応用できる。

「こだわりのサービス」とはいうけれど、おおくは提供者側の自己満足がみえかくれして、利用者側にそのこだわりが遡及しないばかりか、かえって不便さまで感じさせることまであるのは、ユーザの使い勝手を軽視しているからである。

つまり、「販売」を重視した結果であり、「使用」や「利用」を後回しにしているのである。
だから、たとえばHPに「女将こだわりのウェルカムドリンク」がうんぬん、といった記事をみるのだ。

売りたいのはわかるけれども、それが「前面に露出」すると、押し売りになる。
すると、それが利用者からすれば「嫌われる努力」になるのである。

世の中のトラブルのおおくは、さいしょから悪意があることはすくなくて、「よかれ」としたことが原因であることのほうがはるかにおおいのは、「よかれ」が「押しつけ」になって、しまいには「命令」に変化するからである。

「よかれ」の実行のまえに、一拍おいて相手の「利用」と「使用」を自分で実験するのがよかろう。

紙の辞典

わざわざ「紙の」といわなければならなくなった。
「電子辞書」か「紙」なのか?
論争はつづいている。

電子辞書派はもちろん、一台に数十、ときに百をこえる辞書コンテンツが収録されていることを「便利」だとしている。
もはや「紙」ならとうてい持ち運べない量の出版物に相当するし、「検索方法」も進化している。そして、なによりも、写真や音声も収めているからこれぞ「マルチメディア」なのである。

「紙派」は、この点において分がわるいのは承知している。
それに、「電子辞書」だってなにも「単独機器」である必要もなく、スマホの検索ですましているいるひとだっておおいはずだ。

つまるところ、昨今は、あらゆる「検索」が、スマホ中心の時代になっている。

それでも、「電子辞書」批判派の指摘に、「ページ」をながめることができない、というものがある。

「検索」には二種類あって、「アクティブ」と「パッシブ」がある。
「アクティブ」は、じぶんから獲りに行くイメージだから、まさに、電子機器による「検索」はこれにあたる。
「パッシブ」は、じぶんはじっとしているけど相手からしらせてくれるイメージだ。

まちを歩いていて店舗やカンバンを見ることで得られる情報もこれにあたる。
書店でばったり人生をかえるような本にであうのも、アクティブな検索ではえられない情報なのだ。

「ページ」をながめる、とは、自分がしらべたい物事とは関係のない情報がでているけれど、ちらりと見て「気づく」ことがある重要さを指摘している。

電子辞書は、ずばりその検索結果にフォーカスするから、周辺の情報が得にくいというのはたしかである。
ピントがあいすぎてしまうから、カメラまかせの素人写真のようになって味わいがない、とでもいうか。

しかし、情報をもとめる人間のがわの事情は、ときと場合によっておおいに変化する。

ピンポイントでもいいから、はやくしりたい。
しかも、複数の辞書を串刺しできる複合検索の便利さは、紙の辞書なら冊数分の倍数以上な手間をかんがえると、その便利さは文明の利器としての価値になる。

ところが、なんだか余裕があって、教養として辞書を読んでみたい、などということをおもいつくと、電子辞書では物足りないのである。
活字の海に点在する見出しの妙。
また、その解説をあじわう。

その題材として、「新解さん」がある。

  

もちろん「新解さん」とは、

 

のことである。

かくも「イジられる」辞書があるものか?
けれども、御大ふたりの「イジり方」の妙は、そもそも『新明解国語辞典』が、イジられるべき内容になっているからである。
つまりは「発見の妙」。

版をかさねても、この「発見」があるのだから、「新解さん」は革新的というより「確信的」な執筆・編集がされているのはまちがいない。

帯には「日本で一番売れている国語辞典」とはあるけれど、けっして子ども向け「学習辞典」ではない。
洒脱なおとな向けの辞書なのだ。
しかし、そんな「新解さん」にも電子版がある。

上に紹介した「新解さん」たちと、ぜひとも出版社の垣根を越えて、複合検索ができるようにしてほしい。
三省堂、文藝春秋、角川書店のコラボとなるか?
出版不況を蹴飛ばす気概でやってもらいたい。

ところで、わたしがカバンにしのばせているのは、学研の『ことば選び実用辞典』である。

PCをもたずに外出したとき、ふと浮かんだことばを調べようとしたときに、スマホをつかうと「メモ」が同時にできないし、WiFiルーターも手許にないと、気になるのがパケット通信料になるのだ。
ケチくさいが、しかたがない。

この辞書はコンパクトサイズ(重量も)にして、まさに「実用」にみあう内容になっている。
意味と用例、それに「そのほかの表現」や「⇒この項目も」という参照が「実用」なのである。

ところが、「売れている」という理由からか、この辞書はシリーズ化されて、とてつもない数の「姉妹版」がでている。

        

さらにおなじ内容で「大きな活字」という、老眼組には魅力的なシリーズもある。
たくさんあると選べない、という法則がはたらくか、えいっとおとな買いするか?

ぜんぶ揃えると、とてもじゃないが持ち歩けない。
ならばと串刺しできる複合検索のために電子化したら、なんのためかがわからなくなる。

書店にいって手にしてみるのがいちばんよい。
ピンとくるやつはどれなのか?
さてさて、その「書店」が消滅しているから困ったものだ。
電車に乗っていかないといけなくなった。

これを退化というのか?

味のある旅館で、地元のローカルテレビを観るのか、いつもの全国放送を観るのかはひとそれぞれだが、せっかくやってきたのなら、むかしなら一句ひねりたいところだ。
あるいは、知人宛でなくても自分宛にはがきの一枚書いてみる、というのも「粋」ではないか?

そんなとき、気の利いた辞書があると、気の利いた旅館だとおもうものである。
そんな旅館は、いまいずこ?

全国通訳案内士の規制緩和

外国人向けの「国家資格」であった。
「あった」というのは、いまでも資格制度は「ある」のだが、なぜか昨年「規制緩和」され、資格のない誰でもが「通訳案内」できるようになったのだ。

「通訳案内」とは、外国人向けの「ガイド」である。

「規制緩和」においては、「利権」の有無が重要で、なんのための規制なのか?ということをないがしろにするのがわが国の特徴である。
もちろん、役所と役人に利権があれば、それは「岩盤」になったり「テッパン」になったりする。

だから、通訳案内士の規制緩和がされたということは、通訳案内士には「利権」がない、という意味である。
ならば全面的に廃止すればいいのだが、中途半端にしてできないのは、独立行政法人国際観光振興機構(日本政府観光局)が試験事務を代行しているからである。

つまり、観光庁が影響をすこしでも残したい、という「利権」が尾てい骨のようにあるからだろう。

一方で、全国に2万5千人ほどいる「有資格者」は、なぜ「規制緩和反対デモ」をしないのか?
泣き寝入りなのだろうかと心配する。

「観光立国」と、聞き心地のよいことばをろうしても、そんな気はぜんぜんありませんといっているようにしかおもえない。

通訳案内士とは、外国語の通訳をして観光ガイドをする、語学系唯一の国家資格であった。
この資格が、二本柱からなっているのは、上述のとおり、外国語能力とガイドとしての知識である。

また、地域限定の通訳案内士としては、2007年から、6道県(北海道、岩手県、栃木県、静岡県、長崎県、沖縄県)で始まったが、10年後の2017年時点で、実施しているのは沖縄県のみになったので、あらためて2018年から「地域通訳案内士」資格ができたという体たらくだ。

民間ではあたりまえの、継続性の原則「ゴーイングコンサーン」が、成立しないのは「地方だから」ではなく、資格の設計が甘いからである。

そういうわけで、国家資格として「全国バージョン」と「都道府県限定バージョン」の二本立てになっているが、冒頭のごとく、この資格をもっていることのメリットがよくわからない「死角」にはいってしまっている。

「士(師)業」という分野は、たいがい「資格保持者」しかできないという制約があるのは、「資格試験」というハードルをこえる能力があると認められるからで、ほんとうにそれを認めているのは管轄の「役所」ではなく、市民である国民が認めているからである。

そういう意味で、通訳案内士の試験の「科目免除」をみると、語学についてはそれぞれに具体的な水準がわかるものとなっている。
しかし、地理や歴史という「ガイド」の分野では、急速にあやしくなってしまうのである。

地理では、旅行業務取扱管理者や地理能力検定日本地理2級以上が科目免除になるし、歴史では、歴史能力検定日本史2級以上の合格者もしくは大学入試センター試験「日本史B」60点以上取得者が対象となって、一般常識では、大学入試センター試験「現代社会」80点以上取得者となっている。
つまり、大学入試センター試験は、社会人が受けても価値がある。

しかし、よくかんがえなくても、これで「ガイド」が務まるのか?
という素朴な疑問には、おそらく耐えられないだろう。

つまり、「ガイド」とはなにか?
というもっとも基本的な定義が、国民が納得するかたちでなされていないということだ。

だから、国家資格はあるけれど、だれでもやっていい、ということになったのだ。

本物の「観光立国」の国では、観光ガイドは「尊敬される職業のひとつ」になっていて、その知識を応用した案内が「プロ」として国民から認められている。
べつのいい方をすれば、「品質保証」されているのである。
それが、有償ガイドの有償である理由であるから、時間を有効につかいたい客は、無償ガイドを頼むことはない。

これまで、観光客は基本的に現地で有名なガイドを「指名」することができなかった。
それで、言語別のガイドを依頼することになるが、ガイドの内容が「品質保証」されているから、おおきなトラブルはない。もし、トラブルがあるとすれば、「品質保証」があいまいな途上国でよく起きる。

わが国製造業は、「ジャパン品質」というブランドを打ち立てたが、観光におけるガイド業でこれができなかったし、今般の規制緩和で今後改善される余地をうしなってしまった。
すなわち、わが国はこの分野で完全な「途上国」なのであって、しかも「発展」の可能性がないのである。

地域のボランティアガイドという「素人+アルファ」が案内するさまは、ほほえましくはあるけれど、ちゃんとした観光(学習)がしたい、という要望にこたえることはできない。
しかも、廉価とはいえ有償のばあい、「ボランティアだから」という言い訳は本来できない。安かろう悪かろうの再生産になるのだ。

日本を深くしりたいというニーズをもつひとほど、じつは高額所得者であることがおおく、ガイド料を節約しようという発想はしないし、そのエリアで消費する用意もしているのだが、「無料」や「廉価」こそが価値であると自分たちの価値観をスタートラインにおくから、結局「退屈なニッポン」と評価されるのである。

適正なサービスには適正な料金を支払う。
それにはなによりも「サービス品質管理」が基盤となるのである。
日本人がつぎに学ぶべきことであろう。

「しんがり」意識

戦闘において退却をはかるとき、本隊を温存するため最後尾になってこれを防御する部隊を「しんがり(「殿」と書く)」という。
日本史だろうが世界史だろうが、自軍大将から「しんがり」を命ぜられたら、ふつうは生きて帰れないことを意味した。

敗走する自軍にあって、自らも逃げながら敵軍からの追撃を受けとめ、自軍本隊が逃げるための時間稼ぎをするのが役割だ。
したがって、おのずと「援軍」はいっさい期待できないから、全滅を覚悟する。

信長の敗戦として知られる「金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)」は、越前の朝倉義景攻略のはずであったが、義弟で盟友の浅井長政の裏切りで戦況は一変する。
このときの「しんがり」で大活躍し、その後の織田家中で一目おかれる存在になったのが秀吉だったと伝わっている。

アメリカで「サービス革命」を引き起こしたという伝説の図書は『逆さまのピラミッド』(1990年)である。
この年は、サービス業界むけにもう一冊の伝説的著作『真実の瞬間』も出版されているから、めずらしい「当たり年」だった。

 

『逆さまのピラミッド』は、よくある企業の組織構造で、社長をトップにおいたピラミッド型を、そのままひっくり返したのだから「革命的」だったのだ。

すなわち、なぜかサービス提供企業は、顧客接線(現場の最前線)に若いスタッフが配置されていて、ベテランになるにしたがって後方に移り、直接お客様との「接線」どころか「接点」もうしなうようにできている。

経験のうすい若いひとたちが、常に最前線にいるのである。
そして、肩書きがつけば、だんだんと後方に移動するが、なぜか顧客からみえないところで「指示・命令」をくだしている。
その意味で、経営トップである、例えば「社長」は、もっとも顧客から遠いところに座っていることになる。

ところで、サービス提供企業の収入は、すべて利用客から得るという構造だから、もっとも若いスタッフが「もっとも稼いでいる」のにもっとも賃金が安く、もっとも顧客から遠いひとがもっとも高い賃金を得ている、ともいえる。

これはいったいどういうことか?
サービス提供企業は、その組織のすべてのエネルギーを、もっとも若い最前線のひとたちが、もっともうまいやり方で行動できるように使わなければならない、という結論が導かれるのだ。

この意味で、社長はビジネスモデルとして「しんがり」なのである。

ところが、自分が「しんがり」だと自覚している経営者はかなり少数派だ。
おおくのばあい、現場長が「しんがり」になっている。
そして、こういうばあいほど、利益がすくない事業だといえる。

なぜなら、このようなばあい、つまり、ふつうのピラミッド型の組織をそのまま疑念なく信じるひとが社長のばあい、その社長は「お飾り」にすぎないから、とうぜんに組織のパフォーマンスは低下してしまうからだ。

しかし、こうしたパフォーマンスが低い状態が「ふつう」になるので、その組織はいつまでたっても「低い」ことを自覚できない。

これが、わが国サービス業が、先進国でほぼ「ビリ」という低生産性のほんとうの理由である。

そして、このようなばあい、生産性が低い理由を、現場の最前線に問題があると決めつけるのも、とうぜんの帰結である。
トップみずからの生産性がほぼ「ゼロ」あるいは「マイナス」なのに、じぶんからじぶんの生産性が「ゼロ」だと気づくこともできないのである。

現場での問題を解決するためにどんな戦略をめぐらすのか?
これは、そのときその場での戦術しかできない現場にあって、とうぜんだが、ふだんかんがえることではない。

もし、現場に戦略もかんがえろ、と命じるならそれはそれでトップの意志だが、それではやっぱりトップの存在意義がない。
トップみずからの役割は、仕組みをかんがえることであって、そのためには現場最前線での状況をくわしく把握するひつようがある。

だから、社長室に引きこもっているようなトップでは、トップとしての「しんがり」の役割を果たしようがないのである。

そんなわけで、トラブル発生となって、トップ自らが動かなければならなくなったとき、どこか他人ごとになるのは、ふだんから「しんがり」だとおもっていないからである。
そして、このようなトップほど「犯人探し」がだいすきなのだ。

自分の顔に泥を塗ったやつは許せん!

というわけである。

これを第三者の他人は、その無責任さに呆れながら現場の苦悩を想像するのである。
そして、自分の子どもに、こんな会社にはいっちゃダメだよ、と諭せれば、将来その親に感謝することにもなるだろう。

こうして、わが国サービス業界は今日も人手不足にあえいでいるのである。
募集しても募集しても、だれも応募者がいないのは、そんな会社で働きたくないからで、どうしてそう思われてしまうかをかんがえない。

トップこそ「しんがり」なのだとかんがえる癖をつけよう。

外国の高級ホテルにアメニティはない

一般に「五つ星」以上のホテルを「ラグジュアリー・クラス(高級ホテル)」といって、それ以下のクラスとグレードにおける区分をする。
わが国の業界はこの区分導入に失敗しているから、「公式」に星の数を自分から表示する宿泊施設は存在しない。

どうして失敗したのか?
ホテルのサービス水準と経営者の質を混同したからである。
だから、外国ならビジネスホテルクラスの「四つ星」にガマンできず、「五つ星」でなければならないという話がでる。

出張族に人気で御用達ともいわれたホテルほど全国展開していて、企業規模としては、よほど高級ホテル単体の企業よりもおおきく、またそのおおくは上場企業でもある。
それなのに、「四つ星」となったら「経営の恥」と思考したひとたちが経営していた。

つまり、どこにも「おもてなし」の精神などないのだが、そんな程度で成りたっていたのは、ある意味しあわせな時代ではあった。
当時、「外資」といえばヒルトンホテルしかなかったからである。

船をつかった外国旅行といえば、週単位、月単位での船上生活を余儀なくされるので、とてつもない荷物をともなったのは、不便さの裏返しである。電気洗濯機やガス乾燥機がない時代だから、着替えだけでもたいへんだ。

それに、嗜好品ともなれば、自分の気に入った所持品を持ち歩かないと、旅行先では手に入らないとかんがえるのがふつうだろう。
女性なら化粧品、男性ならひげ剃り用品は、紳士淑女の身だしなみとしてこだわらないわけにはいかない。

とくにむかしの紳士は、髭を蓄えることが身だしなみとしての常識だったので、各自そのスタイルは権威の象徴的な意味まであった。
また、長距離航海の船上では真水が貴重品になるから、乗客といえども使い放題ではない。

体臭と身だしなみとのバランスで、やはり香水に依存することになる。
だから、自分の分身としてのオリジナル調合が、紳士淑女につよい需要をもたらしたのだ。

こんな文化的素地があるなか、アジアのホテルにおけるアメニティが発達したのは、ヨーロッパ・ブランドを用意することで、顧客層の趣味に近づく心構えの表明だったのだ。

すなわち、むかし気質だけでなく、じっさいにいまでも自分用の調香を依頼しているようなひとは、どんな短い旅にでも自分用を持ち歩くから、ホテルに用意されているアメニティをつかうことはない。

さらに、男性のおしゃれは毎朝のひげ剃りに集約されるので、シェービング石鹸とローション、これにシェービング・ブラシとカミソリという「四点セット」は、あたかも書家における「文房四宝」のごとくこだわり抜いた位置づけがある。

男女の共通は、オーラルケアである。
これにも、現代の紳士淑女は、「自分用」にこだわっていて、おいそれと一般市販品をつかわない。
高所得者ほど、歯科におカネをつかう傾向があるのは世界共通だ。

体液から感染する病気が発見されて、欧米人の一般人まで、旅行には普段づかいの「自分用」をかならず持ち歩くようになった。
ホテルでは、感染の心配がないシャンプーやリンス(コンディショナー)ぐらいしかつかわない。

そんなわけで、アジアの高級ホテルでは、ずいぶん前にアメニティの設置を廃止している。
これは、1992年の地球環境サミット「前」からだから、いわゆるさいきんの「エコ」や「持続可能性」の議論とは一線を画する。

ところが、そんな高級ホテルを利用したがる日本人客には、上述したこだわりが、とくに男性客にすくない。
自分用のカミソリも持ち歩かず、ディスポーザブルのカミソリで気にしないばかりか、アメニティの持ち帰りを「土産」として楽しみにしている。

だから、客室にアメニティが「ない」と、とたんに清掃不備と勘違いして、フロントにクレームがはいるので、「日本人セット」という特別サービスを指示して、日本人客がチェックインする予定の部屋に、あらかじめ設置するようになっている。

おそらく、ホテル側の「イヤミ」なのだが、そういったアメニティが入っている袋には、日本語だけの表示があるものだ。
「あんたたちだけだよ」という意味である。

いまや飛行機で移動する時代に、セキュリティから液体の扱いが厳しくなってきた。
自分用にこだわると、没収の憂き目にあいかねない。

ところが、プライベート・ジェットという手段なら、とことんこだわれるから、とうとうそういう所得層は、公共の航空機にも乗らない時代になっている。

もちろん、こうしたひとたちは、高級ホテルにも泊まらない。
「超」高級ホテルというグレードができたからだ。

さて、超高級ホテルでは、アメニティはどうしているのか?

資生堂が撤退して、お困りモードになった日本の宿泊施設は、すでに周回遅れになっているけど、遅れているのは利用客の方なのだ。

貧乏根性では、優雅なひとときは過ごせない。