「夜の街」はいけないのか?

過去に、こんな「弾圧」をした為政者はいたものかと思う。
いま、コロナ禍をいいことに、「夜の街」に対する行政当局による弾圧が、あたかも合法的に行われているけれど、いったいどこに正当なる法的根拠があるものか?

未熟な人間が為政者になって正義を振りかざすと、世の中は暗くなる。
熟した人間というのは、むかしから「清濁併せ呑む」ことができるひとをいうのである。

なぜならば、ふつう人間は、それぞれに「清」の部分と「濁」の部分をもっているからである。
聖者とは、これを超える修行をなしたひとをいうから、聖者は他人の「濁」を責め立てたりはしないで、むしろ「ほどほどに」と鷹揚なのである。

「ほどほどに」とは、禁止ではない。
自分で「抑制」、「制御」しなさいということだ。
これを、「セルフコントロール(自制)」という。

そもそも「自粛要請」とは、「自制を促す」ということのはずだったのに、いつの間にかに「命令」となって、あらゆる「禁止」が奨励されるようになっている。
もはや、「立ち入り禁止」の看板が目立たないほどだ。

むかしよくあったのは、「小便するな」という手書きの看板だった。
つまり、そこでしてしまうひとがたくさんいる、という合図でもあった。
塀や電信柱に貼るのが典型だったのは、たいがい道路も舗装されていなかったからである。

それでかんがえついたのが、赤い鳥居のマークである。
これは、いまでも有効なのだが、外国人には通じにくい。
やっぱり、鳥居に向かってするのは憚れるのが日本人だからである。

すると、「禁止」ばかりを命ずるのは、なんだか日本人ではないのではないか?という気がして、このことも違和感の原因なのである。

いったい、こうした禁止をいうひとたちは、自己抑制が強いひとなのだろうか?
もしそうであっても、人間理解というものがどの程度あるのだろうか?

自己抑制ができる自分と、自己抑制できない他人とを比べて、自己抑制できない他人を見下すことの自己抑制ができないことを、おそらくかんがえたこともないのであろう。
結局、自己抑制できない人間から見ても、このような為政者は自己抑制ができていないと判断できるのだ。

このギャップ。
自己抑制ができている自分は正しいということの怪しさに、ぜんぜん気がつかないで、知事などといった上位の立場から命令を下すのは、専制君主とおなじなのである。
まさに、「君臨」している状態だからである。

しかし、このような未熟者を選挙で選んでしまったことが「厄災」の原因だ。
愛知県知事のリコールが成立するかしないかは、この意味で全国的な注目に値する。

さてそれで、夜の街である。
規制・禁止の対象のほとんどが「飲食店」である。
けれども、飲食店というくくりはたいへん大雑把だ。
それに、営業時間を短縮するとどうして感染症の予防になるのかの根拠も希薄だ。

このブログでは、いま流行っている「感染症」は「幻」であるという前提があるので、より過激に「無意味」を主張するだけでなく、行政による「営業妨害」にどう対処すべきかをかんがえたいのである。

「幻」であることの根拠は、「コッホの4原則」に適合していないからだと書いた。
存在するのは発生地での「論文」しかなく、誰もこの論文を疑わず、驚くべきは、誰も「今回の(新型)コロナウィルス」を特定していないから、見たこともない。

だから、「幻」なのであって、社会は恐怖のメルヘンにおびえている。

けれども、こんなことに構わず夜の街を弾圧するのは、肝心の病気のことを無視してでも、君臨したいという願望・欲望があるからである。

人間には息抜きが必要だ。
だから、余暇や娯楽が商売になる。
その娯楽のなかに「観光」がある。
つまり、夜の街の弾圧は、観光の弾圧にもなるのである。

これが、お盆の時期に帰省するなという知事たちの命令になって、PCR検査陽性者=感染者=幻、が村八分になる原因なのだ。
江戸時代より理不尽なのである。

地元に帰省することは、もちろん、「観光」ではない。
けれども、都会から観光目的でやってくるひとたちと区別がつかないから、という理由で拒否しているのである。
つまり、地方出身者で都会に住むひとたちが、ふるさとを喪失して「浮き草化」をさせる意味もあるのだ。これを「分断」といわずになんというのか?

人類が「観光」を楽しむようになったのは、労働者という身分が生まれたことによる。
つまり、産業革命と近代工業なくして「観光客」は存在しえない。
わが国近代の、地方出身者こそ、近代工業の担い手だったのである。

すると、夜の街の弾圧とは、近代の否定運動なのである。
近代の否定とは、資本主義社会の否定に通じる。
すなわち、いま夜の街の弾圧をしている確信犯たちは、社会主義・全体主義を志向していると断定できるのである。

人間理解が「物質レベル」なら、これを「唯物論者」というからである。

果たして、リコールの対象なのではないのか?

古い本を読む

社内コンサルタントから卒業して、他社さんのコンサルをすることになってから、俄然と読書の量と傾向が変化した。
もちろん、量は増えたのだけれど、問題は質なのである。
最初は気がつかなかったのだが、振り返るとはっきりとした痕跡が見えてきた。

それが「古い本」なのである。

どのくらい古いかといえば、現代語で読める範囲をいうけれど、おおよそ80年代から90年代にピークがある。わが国の経済絶頂期こそ、出版においても絶頂だったのだろう。時代にたえる図書は、後に「古典」といわれてもおかしくない要素を持っている。

それは、深い思索による発露を意味するので、著者自身もその瞬間にしか書けない文章かもしれないという緊張感がある。ただうまい表現ということではない。私が選んで読むのは、小説ではないからである。

もちろん示唆に富む小説だってあるのは知っている。だが、文壇ではなく論壇での議論を優先して読みたいという願望が強いのは、不遜にも他人様にアドバイスをするということの不安を消しこみたいからであった。
できるだけ「正解」に近づけたい。そのための抽象(哲学)が欲求の対象になったのだ。

しかし、過去形になっているのは、このところの10年以上、あるいは15年か、わが国の論壇の議論における劣化を感じるようになったからである。そこにかつての論客達による深い思索の発露を感じないばかりか、「薄さと軽さ」が読むに耐えなくなったのだった。

これは何故なのか?

ついぞ気がつかないできてしまったけど、コロナ禍という「社会現象」を目の当たりして、ますます何故か?についての答えの欲求が高まってきた。すなわち、日本社会がコロナ前の元に戻れそうにないからである。
その理由と、先の何故か?が同じ答えにあるのではないかという気がしてきたのだ。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、これは「わが国近代の終焉」なのかもしれない、という予感である。
近代は、資本主義の工業化を生みだし、その結果「大衆」をつくった。
大衆とは、自分からかんがえないひとの集団を指す。

その大衆がつくりだした社会を「大衆社会」といい、大衆社会は大衆によって崩壊すると予想されている。
コロナ禍は、ウィルスがもたらす病気によるのではなく、かかって死にたくないという大衆の心理がつくりだした「禍」だ。

すなわち、大衆が大衆社会を崩壊させている歴史的場面を、いま我々は目撃しているのである。

オルテガ・イ・ガセットの名著『大衆の反逆』(1930年)では、労働者という意味で「大衆」を批判したのではなく、専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判をしている。

まさにいま、国や都道府県が招集している、「専門家会議」という場で、役人が恣意的にあつめた「科学者」を自称する、「近代の原始人、近代の野蛮人」たちが、専門家たる研究の成果からの見解を述べるのではなく、自身の気分で意見を述べて、非専門家に命じることを使命にしてしまった。

かつてのソ連に生きていた、ルイセンコが蔓延っているのである。
エセ遺伝学者の彼は、スターリンやその批判をしたフルシチョフという時の権力者におもねった学説をとなえ、ソ連科学アカデミーの議長にまで上り詰めた。一方で、正規の科学者たちは多数、よくてシベリア送りになったのだ。

いま、わが国は、ひとりではない、多数のルイセンコが蔓延っている。
そして、これを批判する者は、研究予算もなにも奪われるのである。

上に書いた経済の絶頂と出版における絶頂期が同じ80年代から90年代にピークがあるということの裏に、ソ連東欧の体制転換という歴史的大事件が隠れていることに気づくのである。
この時、わが国では「たまたま」バブルだった、のだ。

つまり、世界の大変化に気がつかず、文字通りの井の中の蛙たちが絶頂を謳歌していた姿が浮かび上がってくるのである。
それにしても、なぜこうした歴史的大転換に気がつかなかったのか?いや、今現在だって気づいているといえるのか?

価値基準が違うという認識があったから、無視できたのである。

それは、バブル後にしきりにいわれた「自由と民主主義という同じ価値基盤の上に立って」という政治家達が発信した言葉にヒントがある。
ひとは、本当に同じ価値基盤があれば、それをわざわざ言葉にはしない。違うけど「同質」といって確認し合う必要があるのは、そうしないと友好国でないとされて不都合だからである。

詰まるところ、「日本の異質性」こそが、日本人の価値基盤だったということである。
それは、日本人は特別だという傲慢な発想を、だれもがしていたということで、まさにコロナにかかる数が欧米に比して少ないことの理由になっている。

では、何が「異質」なのか?

今更ながら、「自由」と「民主」の概念なのではないかと疑っている。

本人のせいではまったくないけど、韓国の俳優名はカタカナで表記することになっている。それで、「ハン・ジミン」というひとをテロップで見て笑ってしまったことがある。

問題なのは、「ハン」ではなくて「ジミン」の方だ。政治用語なら「ジ・ミン」にしないといけないけれど、日本人には「自民」であって「自由」と「民主」は切っても切れないという感覚がある。けれども、世界の常識は、「自・民」なのである。

わかりやすいのはやっぱりアメリカで、二大政党のゆえんは、民主党が「民主主義重視」の政党で、共和党が「自由主義重視」の政党だからである。実はこのバランスが難しい。

民主主義が強くなりすぎると、多数の暴力となって少数が排除されるし、自由主義が強くなりすぎると、他人を無視し、とうとう個人が絶対になって無政府主義になる。

ふつうの国は、これらが牽制しあってバランスを保つようにできている。

わが国の異質は、自由と民主主義が一体だから、牽制の方法がないことだ。
それで、たまたまコロナがきっかけになって、特に民主主義が強くなりすぎて暴走をはじめたのである。自由と民主主義が一体だから、この暴走を止める手段がない。それで、社会自体が崩壊を開始した。

大衆民主主義社会の自壊である。

民主主義の暴走を止めるには、自由主義が頑張らないといけない。
ところが、民主主義をやめろとは誰もいえない。却って、民主主義の名のもとに為政者達が命令する社会になっている。まさに多数による暴力がはじまって、自由の圧殺となっているのである。

つまり、いまのままでは「コロナ禍」は永久に終わらないということだ。
「感染」と「PCR検査陽性」を一致させるという、現代のルイセンコ説を「まちがっている」といえる政治家がいない。
責任をとりたくないからである。

だから、決して「一過性」ではなく、むしろ延々と続くのである。
それは、コロナ禍が原因で社会的に生きていけなくなったひとの数が、コロナに感染して亡くなるひとを上まわっても終わらない。

小室直樹は輪廻転生のごとく、この暴走によって傷めつけられた国民が自ら気づくまで、何度も傷めつけられることを覚悟せよといっていた。
西部邁『大衆への反逆』(文藝春秋)も、1983年出版の「古い本」であって、これから35年後の2018年に自裁して果てた。暗に小室のいう輪廻を自ら断ち切って「おさらば」を告げたからだと思われる。

民主主義と自由主義、この本質を熟知する二人の碩学の結論は、期せずして同じなのである。

これから生きていくには、自分自身にも、コンサルタントとしていえるのは、過去を棄てて、あたらしい仕事を見つけるしかないということである。

施餓鬼会のないお盆

お盆だって、ほんとうは「盂蘭盆(うらぼん)」で、これを「裏」と書いたから「表盆」はいつだ?ということになる。
サンスクリット語という古代インド・アーリア語が仏教典のオリジナルだ。
これを三蔵法師が漢語に訳して「お経」になった。

外来語を表記するのに、わが国ではふつうカタカナが使われる。
集合でいうと、外来語∈カタカナ語、と書けて、外来語はカタカナ語に属することを意味する。
りんごの英語Appleをふつう「アップル」と書くけれど、「あっぷる」とも書くこともあるからややこしい。

アルファベットを使う国や地域では、オリジナルの発音に真似た表記で外来語も書くしかない。
この意味で、漢語をつくる漢字でも、外来語はアルファベットと同様にオリジナルと似せた発音の文字を使う。

けれども、我々もよくしる漢字には、「表音」だけでなく「表意」の機能もある。
それで、発音表記のために書いたものに、なんだか「意味」があるように思えてしまうのだ。

ようは、当て字に意味を見出すという効果が発生する、ということである。

だから、「名訳」は、オリジナルの意味に合致した漢字をあてて、その発音までオリジナルに近いと、まったく自国語のようにすることを意識したものだ。この確率はかなり低いだろうけど、当て字に意味があると思い込むことになる。

日本の高校で習う漢文の「読み下し」とは、もっとすぐれた方法で、オリジナルの漢語で書かれた文章を「レ点」をつけて後から、とか、「而」の文字を目印に、そのまま「訓読み」すなわち、日本語にして読み進むという恐るべきものである。

漢語という外国語を日本語に翻訳するのではなく、日本語として直接読みこなすのである。
この読み下しのための「行ったり来たり」を、英語の長文読解でもやるというのは、江戸から明治の「漢籍の素養」があるひとの英語習得法を、現代の漢籍の素養がないひとにもやっているということである。

まさか、英語を読み下そうとしたのではなかろうか?

さて、「盂蘭盆会」には、「施餓鬼の法要」がおこなわれる地域がある。
地域と宗派によるのだけれど、これに「新盆」も含まれる。
亡くなったひとの初めての「盂蘭盆」のことである。

そもそも「お盆」とは、先祖の霊をお迎えしてこれを祀ることをいう。
迎え火でキュウリを馬に、送り火は茄子を牛に見立てるのは、早く来てゆっくりお帰りいただくための風習である。
有名な「大文字焼き」や盛大な夏の「花火大会」は、迎え火と送り火の「過剰」な形なのである。

また、「施餓鬼」とは、ご先祖には関係ないが、無縁仏などの不幸な魂を供養して、善行を積むことでいま生きているひとの魂を磨き、それで将来自分が死んだとき、成仏しようという儀式である。

生まれたからには必ず死ぬ。
だから、仏教徒のばあい、人生の究極目標は、成仏すること、一点に絞られるのだ。

だいたい、8月15日を中心に前後の日にちを「お盆」としていたけれど、大戦争の停戦日が同じになったので、戦争犠牲者たちの「鎮魂」も兼ねるようになった。
国際的に正式な戦争の終結日は、降伏文書に署名した9月2日である。

そんなわけで、毎年8月は、わが国が宗教国家であることを世界に知らしめる。それは、「お盆休み」という長期休暇があって、近代化や工業化のために集団就職やらで地方から出てきたひとたちが、ご先祖様のために帰省する「大移動」が風物詩にもなるからであった。

「夏休み」=「お盆休み」が、外国の「バカンス」にならない理由がここにある。

これを破壊するのが、わが国「保守政治」なのだからどうかしている。
さらに、既存宗教がなんの役にもたたないばかりか、そんな政治に異議も唱えずひたすら追随するのはいかがなものか?

わが家に届いたお寺からの案内に驚愕した。
今年は盂蘭盆会も施餓鬼の法要も新盆も中止します。
理由は、「三密」がいけないからだとあった。

おいおい、わが家の宗派は「密教」でなかったか?
比叡山参拝はなんだったのか?

本来の「三密」とは、「身密:手に諸尊の印相を結ぶ」、「口密(語密):口に真言を読誦する」、「心密:心に曼荼羅の諸尊を観想する」の「身・口・心」(しん・こう・しん)のことなのである。
「信仰心」という漢字が浮かべば、完璧な漢語の翻訳者だ。

なお、ここでも「密」という漢字は「表音」のために使われているのであって、漢字がもつ意味とは関係ないことに注意を要する。
コロナ対策の「三密」は、対策としての意味はないが、「密」という漢字の意味は有効である。

物質的な今般流行のウィルスに感染・発病予防のために、無理にご参集いただくことはありません。
宗教行事ですので、檀家各位がご判断ください。
寺としては、毎年同様の法要をいたします。
ご参集いただけなくても、同日・同時刻に、ご自宅の仏壇にてご供養をされますようお勧めいたします。
なお、当日はユーチューブでのリアルタイム配信をいたします。

こんな案内ならまだわかる。

果たして、わが国の宗教は、人間を幸せにしてくれるものなのか?
過剰な社会に警鐘を鳴らせない宗教にもこまったものである。
宗教国家なのに宗教が弱体化するなら、本格的な衰退といえよう。

「統計」のセンスがないと欺される

「統計学」と聞いたら、なんだか難しそうで面倒に思える。
でも、世の中にあふれている「数字」の多くが、統計処理して出てきたものを「装っている」。
「装っている」のだから、本当はまちがっているかもしれない。

小学校でならう、「平均」が統計のはじまりである。
テストの平均点の出し方がわからないと困るし、理科でならう「開花時期」だって、年毎の平均から予想する。
そのために、グラフを描いて数字を視覚化する工夫もならう。

だから、難しく「統計処理」といったところで、中身は「平均の計算」のことだったりする。

日常生活の場面でも、何気なく「平均」を使っている。
今日は大根が安いとか、豚肉が安いとか、あるいは、電気代が高くなってきたとか。
何に対して安い・高いの判断をしているかといえば、「だいたいこのくらいの値段」という経験からの「平均値」を基準にしているのである。

生活の数字にうといひと、たとえば、ふだん自炊をしないでいるひとが、たまにスーパーに行くと、安いか高いかの判断がつかないことがある。
これは、買い物経験からの「平均値」がわからないことが原因だ。
それで、やけに高い買い物になって、外食の方が楽で安いと確信したりするのである。

主婦や主夫から笑われそうだが、生涯独身者が増加すると、あんがいこうした「外食派」が多数になる世の中になるだろう。
すると、「基準」というものの重要性がみえてくる。
自炊があたりまえのひとの基準と、そうでないひとの基準は、ぜんぜんちがう。

これが顕著になると、「価値観」ということになって、そのちがいは「相容れないレベル」にまで発展することがある。
そして、「個の尊重」と結合すれば、あらゆる分野での「多様化」が発生し、とうとう収拾がつかなくなって「発散」する。

いまは、価値の多様化をこえて、価値発散の時代といわれる理由である。

なんだか、「超新星爆発」に似ているのである。
水素の核融合によって何十億年も輝いていた星が燃え尽きるとき、自分の中心に向かって崩壊し、自重に耐えられなくなって大爆発を起こす。残った星屑は、とてつもなく小さいのに、とてつもなく重いか、元の星が巨大ならブラックホールになる。

いわば、この星屑になった状態が「オタク」であるし、SNSで「いいね」を大量にかせぐなら、それはブラックホールに例えられるのではないか?
「いいね」の集まりとは、「他人の欲望を欲望する」からだと東浩紀が『観光客の哲学』で解説している。それが、わたしには「ブラックホール的現象」に思えるのだ。

さてそれで、「基準」に話をもどす。
平均を出すばあいでも、大根なら大根の、豚肉なら豚肉の値段を基準にしないとおかしなことになる。

今日の大根は安いとか、高いと思うのは、大根の購買経験からいうのであって、豚肉の値段から大根のことをかんがえることはない。
ただし、豚バラの大根煮がどうしても食べたいとか、今夜のおかずはブリ大根しかないと想ったら別である。

だから、集めてくる元の数字が、おなじルールによっていないと、平均ということをかんがえるにもまちがってしまうのだ。
ふつうなら、このようなまちがいをするひとはいない。
けれども、なんだか世の中には怪しい数字がたくさんあって、それが「もっともらしい」形で並んでいるから欺されるのだ。

たとえば、しつこいが「感染者」と「PCR検査陽性者」が、いつの間にかに「イコール」の関係になってしまっている。
「感染とはなにか?」、「この検査の陽性とはなにか?」という「定義」を、曖昧なまま放置したから、ヘンテコな基準になってしまった。

このヘンテコな基準をもとに、飲食業とかに行政があれこれ命じたり、そうしたことを一般人が正当だと信じ込まされてしまったから、どうにもこうにもならなくなってしまって、「こっくりさん」が仕切る社会になった。

レジ袋の有料化が地球環境のためという理由も、「プラスチックは悪だ」という粗っぽくてヘンテコな基準があるために世の中にまかり通っている。
世の中のプラスチックはレジ袋だけではないし、プラスチック全体のわずかな部分でしかないのがレジ袋なのだから、論理破綻もはなはだしいのに、罰則付きなのである。

これらは21世紀の「生類憐みの令」だから、未来の人々からわれわれは「令和時代の愚か者」との烙印を押されること確実である。

すると、あろうことか気象庁が、昨日7月31日より、大雨特別警報の「基準を変える」というから要注意である。
つまり、一昨日までとはちがう基準となるのだから、おなじ「大雨特別警報」でも意味がちがう。

変える理由は一見もっともらしいけれども、ほとんど国民をバカにしている。
発端は、2013年の伊豆大島の大雨で、死者・行方不明者が多数でたのに、「大雨特別警報」を出さなかったことにあるという。

こんな警報が出ようが出まいが、そこにいるひとならどんな状態の雨がどのくらいの時間降っているかぐらいじぶんでわかる。
むしろ、そんな状況で避難しろといわれても、かえって危ないとかんがえるのが人間だし、避難させる側だって躊躇する。

「予報」でなんとかしろ、というのが筋であるし、逃げ方の研究と逃げる先の確保がよほど重要である。

基準を変える理由は、観測機器に予算を大枚つかった後の責任回避だけだとおもわれる。

再度の緊急事態宣ってなんだ?

以下は、国内に限った話なのであらかじめご承知おきを。

緊急事態宣言とは、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』の「等」にあたる「新型コロナウイルス」に対する措置として、内閣総理大臣が「宣言」すると、大幅に都道府県知事へ権限が委譲されることになるものだ。
この権限を、市町村長にもよこせと知事たちが「経済再生担当大臣」に要求している。

すっかり、この病気の「担当大臣」になった感があるけれど、緊急事態宣言を出すのは内閣総理大臣であるし、内閣は国会に報告の義務を負っている。

以上の文から、問題点が3つ出てくる。
・前回の緊急事態宣言と終息宣言の期間と終わってからの今までについて
・地方自治法における知事の権限と市町村長の権限の曖昧さについて
・そもそもの「病気蔓延の根拠」が不明なことについて放置されていること

3番目の「そもそも」が、一番の問題である。
「病気蔓延の根拠」とは、ふつうは「患者数」のことをいう。
もちろん、「患者」とは、「発症して医師から当該の感染症だと診断をうけたひと」を指す。

これが、厳密に行われなければならないのは、社会に広がる病気の蔓延について識ることができる唯一の方法だからである。

その仕組みは、従来のインフルエンザと同じで、現場の医療機関が「診断」した報告が地元保健所に届き、これを地方上部機関がとりまとめ、さらに国ベースでとりまとめるのである。
もちろん、現場の医療機関には「報告義務」があるから成立している。

今回の場合、この仕組みが無視され、なぜか「PCR検査」による、「感染者」を根拠にしてしまっている。
これが、感染症に対して、「意図的」で「悪質」な方法であるのは以下の2点がある。

・感染がはじまった初期の頃、今回のウィルスの遺伝子解析ができていないのに「PCR検査」を基準として、「陰性」と「陽性」の混乱が起きた。
・遺伝子解析ができた後の「PCR検査」の精度は向上したが、「感染」の概念が曖昧なまま放置されている。

特に後者には重要な問題があって、一般に細胞にウィルスが付着した「だけ」の状態を「感染とはいわない」のに、最新のPCR検査では「陽性」になってしまうのだ。
したがって、発症もしていないひとを「隔離する」という、過剰なことが行われている。

人間が発症に要する、ウィルスの数は10万個とも100万個ともいわれているけど、付着しただけの状態では自然免疫が働きだすので、その後の攻撃で何事もなく済む場合だってある。
もちろん、本人も自分の体内でなにが起きているのを知る由もないままだ。

これだけのウィルスが、細胞に付着したあと、細胞に侵入し増殖を開始したとき「感染」という。

しかも、PCR検査を実施するひとたちをどうやって選んでいるのか?という問題もある。
たとえば、豊島区はローラー作戦、新宿区は夜の街作戦という違いがある。
よって、感染者「数」の数字だけをみても意味はないし、検査数との比率も公表されていない。

夜の街の一部で、積極的にPCR検査を受けるひとがいるというのは、新宿区が「陽性者=感染者」と決めつけて、10万円の見舞金を支給するからである。
さらに、「陽性者=感染者」がその後どのくらいの数と比率で、「発症した」のかも発表されていないし、それから重篤化したのかもわからない。

つまり、「砂上の楼閣」、あるいは「幻(まぼろし)」なのである。

われわれの社会は、幻を見て大騒ぎしている。

今般の知事たちの要請が、さもありなんと思えるのは、冒頭の問題点の2番目、地方自治法における知事と市町村長の権限の曖昧さという点である。
法律に曖昧さがあるなら、これを放置しているのは「国会の怠慢」なのだが、三権分立をしていないわが国では、総務省の役人の怠慢となっている。

でも、ぜんぜん「怠慢」なのではなく、その方が総務省の役人にとって都合がいいからである。
そこに、介入の余地ができるからだ。
こうして、総務省の役人は、全国の「自治体」という組織から「自治」を骨抜きにして、命令できるのである。

冒頭の問題点の1番目は、緊急事態宣言発令中よりも、解除された後の方が「厳しい強制」になっていることだ。
終息解除となれば、知事に与えられた権限もなくなるはずなのに、おおくの知事はこれを返上しなかった。

少なくても、『新型インフルエンザ等対策特別措置法』に「違反」している。
ましてや、「県からの指示」と称して、店内マスク着用義務なぞは、「憲法違反」の誹りを免れない。

これを、三権分立していないわが国の「司法」は、やっぱり「無関心」を装って、なにもしないのである。
最後の砦、裁判所の無作為は、犯罪的なのである。

そんなわけで、権限を返さない知事たちを叱るでもない担当大臣は、盗人に追い銭のごとく市町村長にも権限をよこせと追求されているの「図」なのである。

「命令できる」って、こんな気持のいいことはない。
もはや、国民も市民も憲法もない。
だから、国会も「報告待ち」でぜんぜん攻めないどころか他人事だ。
司法の堕落は国会よりも悪質かもしれないのは、「国民生活の自由を奪う緊急事態宣言は憲法違反の可能性がある」とひと言いえばすむからである。

香港よりも酷い国にわれわれは住んでいる。
なるほど、香港人の移住先に選ばれない理由がこれだ。

国民の祝日に関する法律の特例だってさ

7月なのに4連休になったのは、コロナのせいではなく、オリンピックのせいだったことを覚えているだろうか?
こうした、「祝日」を定めているのが、『国民の祝日に関する法律』(昭和23年法律第178号)である。

あっさり読み飛ばしてしまうのが、( )の中なのだが、わざわざ( )で括る意味もある。
昭和23年とは、いわゆる占領中にあたるので、何気ない法律だけれど
GHQの意向をたっぷり忖度している法律とも読める。

わが国の適当さ、あるいは、当時のおとなの事情があって、占領が終わって独立を回復したとき、占領下での法律の根本的見直しを「しなかった」ので、そのまま占領されっぱなし状態が続いている。
もちろん、このなかには『日本国憲法』もある。

どうして「祝日」にならないのか不思議だが、日本が「主権を回復した日」が忘れられている。
それは、1952年(昭和27年)4月28日である。
ふつうなら「独立記念日」なのだけど、自助努力で独立を勝ち取ったというよりは、なんだか「許可された」感がある。

念のためだが、安倍内閣は2013年(平成25年)に、閣議決定という形式で「主権回復の日」を定めたが、国民の祝日に至ってはいない。
主権回復=独立国、になるのが嫌なひとがたくさんいるからだろう。

ただ、日本人としての矜持をみせたのは、戦犯の身分回復であった。
これには4回も国会決議がなされていて、ぜんぶが「全会一致」であった。
昭和27年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
同年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
昭和30年7月19日「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

そんなわけで、法的にわが国には「戦犯:戦争犯罪人」は存在しない。
「戦犯」についてこのような根性ある決議がなされたのに、そのほかのものが修正もされないで今日に至っているのは、これもGHQ(=アメリカ)の意向が反映されているからとかんがえるのがふつうではないのか?

裏返せば「戦犯」という概念のつくりかたに無理があったことをアメリカ側も知っていて、「やりすぎ」だと思った可能性があるし、冷戦による味方としての日本の取り込みのための方策だったのかもしれない。
戦犯の名誉回復は、あたかも主権を回復したという、本当は方便にすぎないものを信じ込ませる心理戦の一環だったとも思われる。

だから、正々堂々と今日も『国民の祝日に関する法律』なるものが存在し続けているのだろう。
戦中・戦前期にあった「祝日」と「祭日」の区分がなくなったことをかんがえてみればよくわかる。

『皇室祭祀令』廃止という前提がある。
皇室が行う神道の大事な行事(祭祀)の日を「祭日」として、それ以外の「祝日」と分けていた。
つまり、『皇室祭祀令』が廃止された理由である、「占領」ということがここでも首をもたげるのだ。

だから、接続的な意味として、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」に言い改めためて、明治6年以来の11月23日と定めたのだ。
しかし、『国民の祝日に関する法律』では、「ハッピーマンデー」と称して連休化させるという「飴」の改正を用い、徐々に「その日」の意味を薄めることを謀っている。

すなわち、物理的な「休日」としての意味しかないような、薄っぺらな日にすることを推進しているともいえる。
たとえば、今年から「体育の日」はなくなり「スポーツの日」へと名称が変わるけど、とっくに「体育の日」は10月10日ではなくて、10月の第二月曜日になってしまった。

前回の東京オリンピックをいつ開会するのか?という問題は、「快晴の秋晴れの日にしたい」ということから、観測以来の「晴れの得意日」として、10月10日に決めたのだ。
その甲斐あって、当日は青空のキャンバスにブルーインパルスが描く五輪が映えたのだった。

開会日を自分たちで決められる。

この何気ないことが、じつは「主権回復」に対する当時の国民の喜びと合致しているのだ。

果たして、今回のオリンピックは、だれが開会日を決めたのだっけ?
延期になっても、やっぱり「酷暑」にやるという。
わが国衰退の象徴的イベントに成り下がっている。
二次関数のグラフのように、昇りと降りの局面がイメージになっている。

法律だから、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)の特例、として、「海の日」が23日、「スポーツの日」を24日にすることで、4連休をつくったのが平成30年6月20日(施行日)である。
こんな前に決めておいて、まさかの延期に、対応できない。

この機動力のなさこそが、国家衰退の原因なのである。
これぞ、国民主権なき国家依存の強烈な副作用なのだ。

果たして、昨日、初めての「スポーツの日」を消化したから、ことしの10月に祝日はない。
だから余計に10月10日が、今年も晴れるのか?に興味がわく。

国家主権の源泉に国民主権があるものを、外出するなという為政者に、今日はなんの日?と聞く気もしないのであった。
スポーツの日に外出するなとは、ブラックジョークにもならない。

科学からの提言はシンプル

ようやく「科学」からの提言がでてきた。
発言者は、京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授である。
その提言とは、「100分の一作戦」だ。
先生は3月から提唱しているというけれど、ようやくしることができたので書いておこうとおもう。

ウィルス感染の仕組みのなかで、肝心要なことは、「一個」だけではぜんぜん感染しないという事実である。
ではどくらいの数かといえば、1万個とか100万個なのである。
これだけの数のウィルスに私たちの細胞が触れることで、「感染成立する」という。

さて、ウィルスや細菌などが原因となる感染症には、「再生産数」という「感染力」を示す数値がある。
面倒なのが、二種類の「再生産数」があって、省略して使われると、素人には混乱が生じやすい。

経済でいわれる「生産性」は、「労働生産性」とも「付加価値生産性」ともいうけれど、略して「生産性」といっても混乱が少ないのは、意味が同じだからだ。
しかし、感染症の「再生産数」はそうはいかない。

「基本再生産数(R0)」と「実効再生産数(Rt)」の二種類である。
基本再生産数は、「感染者が、まだその感染症の免疫を1人も持っていない集団に混じったときに生み出す新規感染者数の平均値」のことで、その病原体が持つ「素」の感染力に相当する。

「実効再生産数」は、「現実に起きている再生産数」のことだから、「対策」の効果によっても変化するし、そもそも全員の感染状況の把握も難しい。
なので、感染力をみるには「基本再生産数」が重視されるのである。

また、感染には三系統がある。
・空気感染
・飛沫感染
・接触感染 である。

空気感染と飛沫感染の区別はあんがいと困難なので、専門家でも厳密な区分をしないことがある。
空気中に浮遊している病原体から感染するのが「空気感染」なのだけど、空気中にある「飛沫」で感染したら「飛沫感染」になるからである。

今回のウィルスは、「飛沫」という意味の空気感染に意味があって、さらに、物に付着したのを手で触って自分の目や口などをこすることで感染するのが「接触感染」である。

はしかウィルスの空気感染力は12~16というほどの威力がある。
しかし、今回のウィルスの基本再生産数は、1.4~2.5という値で、はるかに低いし、法律にもなった新型インフルエンザウィルス(およそ2.0~2.4)よりも小さいといえる。

そんなわけで、今回のウィルスは、「数で勝負」することが、生き残り戦略になっているといえそうだ。
特徴的な疫学データも揃ってきていて、ウィルス数は、発症前1日~2日から他人に感染させる能力を持ち、発症後10日でウィルス数は100分の一になって感染力がなくなることがわかってきている。

ところが、発症前でも発症後10日の感染力を消失した状態ても、PCR検査をすれば「すべて陽性になる」から、ただ「陽性だから」ということだけでは、過剰な=ムダな心配なのである。
すると、ピーク時の10分の一程度でも、他人に感染させる能力を失っている可能性がある。

石鹸で手を洗うのは、100万個をゼロにするやり方だけれど、1万個にするだけでも感染は防止できる。
それは、流水だけで15秒の手洗いですむし、接触感染の危険部位は特に「指先」なので、ここを重点的に洗えばよい。

飛沫感染からは、本来、咳やクシャミをしている発症者がマスクをすれば防止できる。
それに、電車などの公共交通機関で感染したという事例はない。
無言でいれば、飛沫も飛ばない。

その意味でいえば、居酒屋などで感染するのは大声による飛沫もあるが、手洗い後にトイレのドアを触ってしまうことの方が可能性としては大きいだろう。

また、重要な知識のなかに、「免疫」があることも忘れてはならない。
われわれ人間には、三重の免疫システムが用意されている。
先天性の免疫として、「自然免疫」がある。
異物を検知したら、自動的に発動するかわりに、その異物に対しての「記憶」はしない。

二つ目が「抗体」をつくる能力。三つ目が「細胞性免疫」である。
あわせて「獲得免疫」という。これらは、生後に獲得する。
たとえば、ワクチンはわざと低毒化させた病原体を注射して、むりやり体内に抗体をつくらせるしくみである。

第一段階の自然免疫は、あらゆるウィルスなどに対応して、体内で攻撃してやっつける仕事をするから、自然に治ってしまう。
そのかわり、抗体も細胞性免疫もつくらないので、いつでも何度でも登場している。

この自然免疫という防御システムを突破されてできるのが、第二段階の「獲得免疫」である。敵にあわせて抗体をつくったり、細胞までもあらたにつくりだして攻撃し、ときには食べてしまう。

今回のウィルスに対応する抗体や免疫細胞がつくられるスピードが遅いのは、おそらく、「弱毒」だから、とかんがえられているのだ。

「頭で考えることによる感染防止」こそが重要である。
100%を目指す必要がない、ということが精神を安定させるのだ。

心の健康=レジリエンスの科学

刺激であるストレッサーが原因となって、ストレスがうまれる。
身体的な痛みもストレッサーだから、連続して受ければストレスになる。
けれども、あんがい人に影響があるストレッサーとは、社会だったりするのである。

人は一人では生きていけない。
つまり、人間社会、という集団のなかでしか生きられず、組織という特定集団こそが自分の居場所になるから、それ自体がストレッサーになってしまうことがあるのだ。

その最小単位が、家族だったり職場だったりする。
しかし、これらの身近な人たちから受けるのは、なにも悪いことばかりではなく、むしろ「幸福感」だってある。
すなわち、「相互作用」なのだ。

さまざまなストレッサーからうまれたストレスに、対処できる能力を「レジリエンス」という。
はね返す能力のことだ。
だから、レジリエンスがある人を、ストレスに強いとか、タフという。

世の中の全員にレジリエンスがあればよいが、そうはいかないのも人間であって、あえていえば、「個体差」がある。
生まれつきか、育ちによるか、それとも性格か?あるいは、社会経験も影響するので、おとなになっても変化する。

たとえば、この流行病では、意外と高齢者に強いストレスとなって、著しい行動変化をみることができた。
ふつう、人生経験豊富な高齢者は、社会的なストレッサーには対処能力が高いと考えられてきたからである。

しかし、高齢者ほど重症化する、という情報によってまったくちがう様相を示したのである。
あれだけいわれた、病院通いがパタッと止まった。
待合室における三密のリスクを避ける行動が、自身の病気リスクを上回ると判断したからである。

これによって、医療機関が受け取る報酬がどのくらい減ったのか?
もしや、わが国における「医療崩壊」とは、医療機関の経営難から発生するかもしれない。
近所のクリニックが倒産して、かかりつけ医がいなくなる意味での「崩壊」だ。

すると、こうした目にあった医師や看護師などに、かつてないストレスがかかることになるから、その精神的な影響はいかなるもので、さらにまた、こうしたことが社会へフィードバックされていくと覚悟しないといけない可能性もある。

もちろん、問題は医療機関だけではなく、これからはじまる「不況」における被害予測というストレッサーがある。
悪いことが予測されるだけで、人はストレスになるのである。
これは、人に思考能力があるからで、負の思考を繰り返すと病的な状態に陥ってしまうのだ。

レジリエンスの科学でいう、楽観的な人ほどレジリエンスがあるのは、楽観的な思考をするからである。
正負を決める恐るべき違いは「自身の思考」による。
だから、他人の思考にあわせる必要もない。

なにがサバイバルになるのか?

自分でかんがえ、行動するしかないという、「当たり前」が、ほんとうに当たり前になる時代がやってきた。
これは、歴史の変わり目なのである。

過去の歴史を振り返って、その時代に生きていた人々は歴史的大転換の時代をどう思って生きていたのか?と問えば、大多数はあんがいと気がついていないのである。
気がついた小数が、その時代をけん引してきた。

これだけ「情報社会」といわれても、現代人の大多数はまだ気がついていないのではないか?
その原因の一つに、マスコミの不安誘導がある。
視聴者の視聴率を高めることだけが、収入源になっているからだ。

つまり、テレビや新聞といったマスコミに接しないことが、心の健康につながるのである。
さらにいえば、正しい情報を自分で探すという手間をかけなければならない時代になった。

「情報社会」とは、正しい情報が向こうから自然にやってくる社会ではなかったのだ。
そして、これが情報格差をつくる。
格差社会の本質がこれである。

テレワークが人々の心の健康にどのような影響を及ぼすのか?
レジリエンスの科学における、長年のテーマが、いま現実として研究対象になっている。
想像で語っていた状態が、現実になったのである。

社会実験が実社会で行われている。

果たして、人が他人と分断されたとき、つながりがないというストレッサーにどう対処して心の健康に役立つのか?
それが「テレワーク」や「リモート」でカバーできるものなのか?
カバーできないとしたら、それはどんなことなのか?

レジリエンスの科学の進展に注目したい。

詳細は、『日経サイエンス8月号』をご覧あれ。

雇用調整助成金という麻薬

あと3日。
「休業日の初日」が4月1日から、7月23日までだと適用される。
つまり、適用のリミットが迫ってきている。

適用されるとなっても、「休業規模要件」があって、中小企業なら休業等延日数が所定労働延日数の1/40以上、大企業なら1/30以上ないといけない。
計算方法の詳細は、別途お調べいただきたい。

そして、あんがい重要なのは、助成金の休業手当の額は、「労使協定」で決める必要があるということだ。
この労使協定が「ない」企業が、これまた「あまたある」ことをずいぶん前に書いた。

「36協定」を主に意識して書いたものだったけど、労働組合がなくても「従業員代表」をえらんで、協定を結ぶこと「すら」しないのは、使用者が警戒してしまうことがあるだけでなく、そもそも働くひとたちが、働くことの仕組みをしらないからなのである、と。

これに、「岡っ引き」の伝統がわが国にはあって、各「士業」がこれにあたるとも書いた。
資格制度を担当し、合格した「士」たちを管轄する役所の岡っ引きに、いやおうなくさせられるからである。

そんなわけで、社会保険労務士というのは、労働省管轄だったから、いまでは厚生労働省が担当の「士業」になっている。
学校を出て、すぐさま役所に就職するのが役人の「ふつう」なので、民間で労働組合の組合員や執行部になったことがないひとたちがこの「士業」をつかっている。

この国の基本、明治以来の「産業優先」が21世紀のいまだに守られている。
だから、名前に「労働」がつく役所がみている角度には、産業界とか企業があって、働く国民をみてはいない。

こうして、働くひとたちが、自分たちの労働を正当化できないで放置されても、「労働基準法をしらないで働いている方が悪い」といえるのである。
よほどのことがなければ、社会保険労務士が企業内の働くひと向けのセミナーなんてやらないのにだ。

おカネとしての「報酬」をくれるのは、企業経営者たちである。
だから、岡っ引きは、企業経営者たちと結びついて、得た情報を「同心」である役人に報告する。
この逆が、各種補助金の支給の仕組みなので、経営者たちはしっていても働くひとたちが、詳しくなることはない。

それに、無邪気にも、会社を過剰に信用したりして、気がつけば奴隷のようになってしまっているのである。
けだし、気がつくひとも小数派である。
学校生活における「集団主義」が、気がつかせない訓練を施すからである。

金の切れ目が縁の切れ目。
雇用調整助成金による「助成」という名のおカネが切れたら、無能な経営者は安逸な判断としての、「解雇」を選択する。
経営者の役割をしらないから、「無能」というのである。

このご時世をどう読んで、どのような経営を将来にわたってするのか?
果たして、「観光業の未来」のことである。
そして、いかなる「手を打つ」のか?
そのための資金や人的資源は?

雇用調整助成金を、単なる延命措置とかんがえてはいけない。
考慮時間をくれただけなのだ。

単なる延命措置として、無為無策のままでいたら、金の切れ目が縁の切れ目になるのは必定だ。
こんなわかりやすい「未来」もない。

そして、もっとおカネをくれ、といえば、人気がほしいポピュリズム政府と政治家は、あらたな補助金制度をかんがえてくれるかもしれない。
こうやって、おカネを得るもっとも効率がよい方法が、消費者による消費行動を促すことではなくて、政府から施されることになったら、もう「乞食」同然に陥るのである。

企業が、政府依存する。

この「麻薬」にひとたび浸かったら、経営者たちの脳髄が冒される。
これこそが、恐怖のはじまりなのである。

もはや、たとえば宿泊業だけでは立ち行かないと予測したら、どんな事業分野への挑戦をすべきなのかをかんがえなければならない。
それが、転業なのか多角化なのかも、経営者の判断次第なのである。

経営者の能力が、あからさまに要求されている、稀有な状況になっている。
業界横並びすら通用しないのだ。

ならば、働くひとたちも安逸にはいられない。
自社の転業や多角化に、自身が対応できるのか?
無能な経営者なら、解雇されるかもしれない。
だとすれば、自身の労働力をいかに「売る」のか?

じつは、働くひとたちにも、能力があからさまに要求されているのである。

この「厳しい現実」から、悪魔(メフィストフェレス)のような政府や政治家が、巧言令色をもってすり寄り、最後には「魂」が抜かれる。
まるで、『ファウスト』の物語なのである。

人間はなにを食べていくのか?

「Eテレ」なんてゆるいことをいわない、かつての「NHK教育テレビ」には、気合いの入った『人間は何を食べてきたのか』という『教育テレビスペシャル』という「スペシャルな番組」があった。

このシリーズは、なんと1985年から1994年までの9年間にかけて放送されたのだ。
中学生から視聴したら、大学を通り越して社会人になってしまうほどの長丁場である。

横浜にずっと住んでいて気づくのは、横浜中心部の衰退(たとえば全国に10店舗しかない「アップルストア」が370万都市にない)があるものの、図書館の充実(蔵書410万冊)だけはひそかに自慢できる。
ネットで予約すれば、最寄り駅の行政サービスコーナーでも受け取れて、返却場所も好きに選べる。

地方都市では、「図書館連携」という「手」があって、近隣とネットワーク化しているけれど、申し込んでから貸出までのスピードがちがうし、運搬コストもちがう。
それに、電子図書館が「著作権」によって阻まれる「愚」がわが国にはあるので、おなじ地方税を負担しても、受けるサービスは残念なことになる。

「Amazon」の電子書籍「Kindle」の「ファミリー共有サービス」は、アメリカ本国でとっくにやっているのに、わが国では許されない。
家族間の端末なら、購入した電子書籍を共有できるのだ。
個人を優先する思想がある資本主義国と、供給者を優先する思想しかない国家資本主義国とのちがいがここにある。

その、国家資本主義国の思想を地でいくのがNHKだから、ヘンテコな平等思想まであって、「アーカイブス」された番組を観たくても、「受益者負担」だといって、またまた料金を徴収するのである。
これが、独占禁止法に引っかからない政治の貧困もある。

そんなわけで、横浜にある「放送ライブラリー」が素晴らしい。
この施設は、「放送法」に根拠をおくわが国唯一の放送番組専門アーカイブ施設で、利用料は「無料」である。

図書館のように、窓口で観たい番組を申告すると、ブースが指定されて、そこで視聴できるのである。
視聴にはヘッドホンを使う。
なお、「放送」だから、ラジオ番組も対象になっている。

ここで、冒頭の『人間は何を食べてきたのか』シリーズの全編を観ることができるのだ。
しかも、無料で。
息抜きに、『ドリフの8時だよ全員集合!』を観れば、大笑いできる。

デカルト以来、「機械論」に染まった感があるのは、医学や栄養学の「専門家」がテレビに登場して、病気にならない食事や食材を語る情報番組があふれているからである。
これを食べるとこうなる、と。

でも最後にはかならず、「バランスある食事をとりましょう」になるので、観ていた時間がむだになる。

問題なのは、「バランスある食事」なのである。
学校給食で、「食育」をいうようになって久しい。
でも本当は、戦後の食糧難による、青ばな垂らした「欠食児童」対策とアメリカが持ちこんだ「パン食普及(小麦消費の習慣化)」のためだったから、いつどのタイミングで「バランスある食事」を習うかがはっきりしない。

家庭科でカレーを作るのはいいけれど、ほんとうに人生を健康に生きていくための役に立っているのか?
無理やり「禁煙条例」をつくって、大のおとなに対して「禁止ばかり」の社会にするより、よほど重要な知の注入が必要なのだ。

しかし、これがまた、ヘンテコな思想と合体して、「サステイナブル」とかとはじまるから、学校教育が信用できなくなってくるのだ。

人間を含めて、この地球上の生きもののほとんどが、主に「炭素」を食べている。
三大栄養素の筆頭、小学校の「デンプン質」とは、中学・高校では「炭水化物=糖質」になる。
その炭水化物とは、英語で「carbohydrates」つまり、カーボン「炭素:c」だ。

三大栄養素のあと二つ、「たんぱく質」と「脂質」も、分子構造の基礎をなすのはぜんぶ「炭素」である。

こんなことも無視して、「低炭素社会を目指す」とかといえる発想がどうかしている。
こういうひとたちは、「質量保存の法則」も無視しているのだから、文明人ではない。

むかしのSFでは、すべての食事がサプリメントになるという話がたいそう出てくる。
必要な栄養素だけを無駄なくとることが、未来の食事にみえたのだ。
しかし、そんなものばかりになったら、胃や腸管が不要になってしまう。

半世紀前の日本人といまを比較すれば簡単で、柔らかいものばかり食べるから「アゴ骨が退化」して卵顔になり、消化がいいから腸が短くなって「脚が長くなる」のだ。これから「うりざね顔」になるのは、ハプスブルク家の歴代当主の肖像からも予想できる。

サプリが食事になったら、想像上の「火星人」やらの宇宙人とは、地球人だったということになる。

しからば、「寸胴短足」ゆえの衣装が「きもの」だったし、寿命が短くても健康であった。
身体が健康だからこそ、精神も健全になる。
コロナで社会がめちゃくちゃくになったのは、身体の健康に自信がない「ひ弱さ」ゆえ、精神も衰弱したのである。

これからなにを食べていくのか?

キレないためには、食事や栄養に関する知識が必要な時代になっている。