CDCのPCR検査中止 

CDC(アメリカ疾病対策センター)が21日、PCR検査の年内中止を発表した。
理由は、PCR法に代わる新しい検査方法にする、ということもあるものの、「PCR法では、インフルエンザと区別できない」という、重大なこともサラッと述べている。

それなら、世の中からインフルエンザがなくなった、ということではなくて、多くの患者(発症者)が、インフルエンザではなかったのか?という「疑問」の解答にもなるし、いよいよ無症状の「陽性者」を「感染者」ときめつける愚の告白でもある。

わが国では、29日、政府が首都圏三県(埼玉県、千葉県、神奈川県)と大阪府、それに沖縄県を「緊急事態宣言」の追加として、8月31日までの発令を決めた。
これは、政府による「経済破壊工作」であるということの意味を深めている。

例えば、沖縄県は、知事が「まんぼう」への格下げを要望した矢先であった。
沖縄経済を支える「夏の観光」が、壊滅的となることが自動的に決定した。
それは、基地問題等で政府に従わない、沖縄県(庁=知事)への、「経済制裁」ではないのか?という疑いを濃くする。

対する沖縄県議会や県内各自治体が、どのような反応なのか?
本土に住む我々には知る由もないのは、報道機関が死滅したからだ。

逆に、県独自の緊急事態宣言をすると宣言した神奈川県の場合は、法的根拠を得て、胸をなで下ろしていることだろう。
これで、県内の納涼に関する営業を正々堂々と規制できて、営業だけでなく経営をあきらめた店舗を、外国人が購入しやすくなった。

住宅業界では、新規のマンション建設が活況だけど、「外国人仕様」というトレンドになっていて、街の中心部の想定客はすでに日本人ではない。
こうした建物の、維持管理に係わる業務は、ビル管理上も生活上も重要事だけど、「管理費」を負担しないひとたちが続出して、事実上のジャングル化が最初から懸念される。

そもそも、どういう事情で購入可能なのかもわからない。
つまりは、住宅ローンの出所のことだ。
もしや「ただ」で入手しているかもしれない。
それが、外国の「政策」の可能性だってある。

であれば、毎月の管理費を負担しないで、マンションビルそのものを劣化させる意味も見えてくる。
日本人住民を追い出して、価値が下がったところで全部を建て替えてしまえばよい。

そうすれば、土地ごと「領土」になる。

現実に、営業自粛に応じない飲食店は、概ね外国人オーナーの店になっていて、当局の取締もない。
日本人オーナーの店には、警察官が訪問して、営業許可証の提示その他の「嫌がらせ」を行っている。

まさかと思われる、外国人優遇と日本人いじめの実態は、この国が誰によって牛耳られているかを明らかにしてきている。
国会議員を輩出している公党の多くには、外国につながる「バックドア」があるとみてよい。

そうなると、年内に予定されている衆議院議員選挙での投票には、おそらく乱立するであろう弱小政党をせめてもの希望にするしか手がないのである。

ときに、CDCがPCR検査中止を発表した2日前の19日には、投資家のジョージ・ソロスとビル・ゲイツの二人が、英国の民間医療検査会社を買収すると発表している。
この会社の新しい検査法が、次の世界的コロナ検査になるのではないか?とすぐさま「うわさ」がたっている。

これが本当になったら、我々は、正々堂々と支配されていることに気づくのだけれど、こうした買収をすでに正々堂々とやっていることが、もう支配されていることになっているのである。

つまるところ、「二元論」の世界が織りなす絨毯の模様のようになっているのである。
「善と悪」が入り交じって「糸」を作っている。
これらの糸が、複雑に絡み合っていた世界が、突如、整列をはじめて、縦糸と横糸になりだしたようである。

これは一体何を意味しているのか?を考えると、ソ連崩壊がもたらした衝撃に生きのこった「共産主義思想」が、かえって万遍なく世界を凌駕し、それぞれの独自文化を侵蝕したということだろう。
これらの人々が「敵」とした、共通点が「新自由主義」だった。

ところが、彼らの言う「新自由主義」とは、「グローバリズム」のことであって、その権化が「共産主義」だから、自分で自分を貶める用語を用いて、ついにホンモノの「新自由主義」を葬ろうとしているのである。
まさに、肉を斬らせて骨を斬る方法を見出した。

これの道具に、PCR検査も使ったのだ。

インフルエンザと区別できない、という決定的なことを平気で言える神経こそ、二元論における悪魔の一言である。

日本人もかつての日本人でなくなって、こうした世界的二元論に巻きこまれ、なお、新自由主義を憎むように仕込まれたのは、恐るべき企みであることに気づくひとが出てきている。

もはや悪と結託したのが日本政府になったのだ、と。

「夏休み価格」の宿泊施設

今年の夏は暑い。
梅雨明け宣言が出たとたんに、猛暑がやってきた。
家にいると暑いので、ショッピングセンターのフードコートにある電源席にたたずむことにした。

近所ばかりでは飽きるので、いろんな「センター」に行ってみたら、「系統」によるそれぞれの特徴がみえてきた。
ショボいところから、贅沢なところと、バリエーションも豊富だけれど、利用者数のバラツキも観られるので、「地域特性」と客からの「選択」があるように感じる。

近隣に学校がある場合は、当然に生徒・学生が放課後にやってくるから混雑して、皆さんそれなりに「勉強」している。
このとき、電源をひつようとしない傾向があるパターンと、電源席から埋まるパターンがある。

いまどきは中学生も、iPadとiPhpneを駆使して各科目の勉強に勤しんでいるのを見かけるけど、一発で「眼精疲労」に苦しむことになったおじさんとしては、「若い」と感心しながら、「目を大切に」と思ってしまう。
あの姿勢で、数時間もやっていてよく肩こりにならないものだ。

もう自分にはできない、と思う侘しさもある。

いくらショッピングセンターに隠って、涼しい環境に身を置いても、帰宅すればタップリ蓄熱したコンクリートのわが家は、即座に冷房を稼働させないといけない。
夕方のそよ風を感じる外の涼しさとは無縁なのだ。

皆さんどうしているのか?
この団地に越してきてから、毎夏の疑問だ。
昨夜はとうとう、隣の棟に救急車がやってきた。
「室内熱中症」を即座に疑ったのだった。

数年前の猛暑では、あんまり暑くて耐えられないので、横浜中心街のビジネスホテルに避難したことがあった。
横浜公園で友人にバッタリ会って、「避暑にきた」と言ったら笑われた。
冗談だと思ったらしい。

まだ7月なのに、もう耐えられなくなってきたから、やっぱり「避暑」をしたい。
そこで、宿を探すことにしたら、目を疑う「夏休み価格」になっている。

まあ、コロナにやられて大変だったろうから、ここで取り返さないと、という事情もあるだろう。
一応、旅行やら移動制限による宿泊施設の「倒産」や「廃業」は、数百軒といわれている。

それに、東京を中心にすれば、まさかの「無観客」となったから、どういうわけか「オリンピックのために」ということで建てたホテルも当てが外れたことだろう。
ただし、たった二週間あまりの「大会需要」を見込んで、ホテルを建てる、という理由が信じられない。

一度建てたら、耐用年数は半世紀はある。
そんな長期的な営業をする宿泊施設が、オリンピックの「特需」だけの理由で建つものか?
デリバティブの対象としての、「紙の上の案件」になっているとしか思えない。

さすれば、これを、「転売」するのも「紙の上」になる。
そうやって、利用客や従業員は「二の次」にされるから、転売価格の査定が怪しくなるのだ。
なので、こだわった建築になることはなく、内装デザインがものをいう。

いつだって、文字どおりのスクラップ・アンド・ビルドの対象になる。
これが、街に与える影響も大きく、「エリア」という発想がない、わが国の都市計画とマッチして、遂にただのオフィスビルに建て替わったりするのだ。

そんなわけで、警備だけが厳しく、高速道路も割高(「来るな」というメッセージ)な都心には行きたくないから、どこか別の場所を探すことにした。

さてそれで、今度は古い避暑地のホテルである。
こちらはこちらで、「メンテナンス」という発想がなく経年劣化してきた「典型」と思われるところを発見した。
周辺の価格帯とはちがって、ずいぶん「安い」のだ。

一般に、宿泊施設は、目に見えない「サービス」に重点をおいた議論が盛んだけれど、それは、「ちゃんとした建物」があってのことである。
この「前提」を議論しないのは、「建築」とか「設備」とかの「理系」の話になるからである。

しかし、「経営」の話になれば、全部をひっくるめることが当たり前なので、なんだか偏った感じになってしまう。
それでか、なんでか、新築したホテルのオーナーは、メンテナンス予算とか、長期あるいは超長期の維持計画を作らないでいたりする。

今どきに「老朽化した宿」は、わが国が「工業大国」だった頃に建てられたものだ。
工業大国の工業大国たるゆえんは、「品質」にあったとはよくしられることである。

すなわち、新品ピカピカの建物に付随する「設備」は、たいがいが「工業製品」なので、その「品質管理」の徹底から、一斉に壊れるという傾向を最初からもっている。
例えばテレビとか、蛍光灯など、同時期に壊れたり切れたりするのは、稼働時間が同じなら、同じ品質なので壊れる時期も同じになる。

その巨大なシステムが、たとえば「空調」と「水回り」なのだ。

はてさて、「避暑地」なのだから、「空調」の不安はどうかはわからないけど、どんな「設備」が傷んでいて、これが資金不足という無計画のためになったのかを観察に行こうかと思う。

嫌な客である。

『自発的隷従論』を読む

人間がかんがえることは、かなりのことが昔にかんがえられていることがある。
どうやら人間は、衣食足りるとかんがえだす傾向があるのだけれど、果たして現在はいかがか?

「ギリシャ哲学」という古代ギリシャでの哲学は、「市民」という閑人たちが日がな一日広場に集まってそこでの議論で生まれたと習う。このひとたちはどうやって生計を立てていたのかといえば、奴隷制があったからだった。
戦争による掠奪には、敗者を奴隷にして当然という合意が人間にあった。

イタリアオペラの傑作のひとつ、『アイーダ』は、古代エジプトを舞台にした、若きエリート将軍と元エチオピア王女で奴隷にされたアイーダとの悲恋物語である。
そうかんがえると、奴隷というのは歴史が古く長いものだ。

政府や為政者(ときに「独裁者」)に従属するひとたちを蔑んで「奴隷根性」ということがある。
こうした「根性」がどこからやってくるのか?を「解読」したのが、16世紀半ばで夭折した法務官、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530年~1563年)であった。

彼が残した『自発的隷従論』は、なぜに人間は政府や為政者に隷従するのか?という問題に、「隷従はいけないこと」という観点ではなく、ただまっしぐらに、「構造」を解明したことが「新しい」のである。

それは、為政者の「取り巻き」たちが、権力の恩恵にあずかろうとするからであって、これが、「ピラミッド型社会組織」として入れ子型に成りたっていると分析した。
つまるところ、支配と利権の構造なのである。

トップの取り巻きだけでなく、その取り巻きをトップにした、下の階層にも取り巻きがいて、さらにまた、、、、、と続く構造だ。
これを、「自発的隷従」と定義した。

改めて読んでみれば、いま、彼の住んだフランスはもとより、世界同時に起きた「コロナ・パンデミック」で、それがどんなに「茶番劇」であっても、ひとびとは「自分の生き残り」を信じて、政府が言う「ワクチン」を接種し、また、政府がこれを「強制」していることの「本質」がみえてくる。

もちろん、政府は「安全策」として、決して「安全」とは言わず、むしろHPや「官報」における「告知」では、「緊急性」を前面に出して「治験中」とか「承認薬ではない」ことをちゃんと書いている。
それでもって、自己判断としながらも、あたかも接種しないのは「悪」だと誘導しているのである。

これは、業界にも適用されて、政府専門家会議を代表するひとが、公共放送を通じて「エビデンスはない」と明言しながら、「飲食店の営業時間短縮」とか「酒類提供の禁止」を助言し、政府高官が推進していることに「隷従」することでも現れている。

言い過ぎたとして、前言を撤回した、とはいっても、ぜんぜん撤回などしていなくて、事実上の「禁酒」が実行されている。
飲食店で飲めない、という事情から、「家飲み」というふつうができて、「ビン・カンもの」のゴミが急増している。

これらは、国連・各国政府が推進する「SDGs」の流れに逆行するから、そのうちまた国民を痛めつける、レジ袋有料化などの「政策」をかんがえだすだろう。

それにしても、飲食店やら宿泊・旅行業界が「黙っている」のはどういう「利権」があるのかと疑えば、積極的利権ではなくて、消極的利権の存在が見えてくる。
それは、政府による「いじめ」が怖いからである。

先進国の先進国たるゆえんは、政府機構や機能も先進的だからである。
つまり、あらゆる分野を法で支配していて漏れがない。
だから、政府に逆らうということの「報復」が、どの方面の法律執行からやってくるのかわからないという「恐怖」が「経営リスク」となるのである。

「法」ならば、立法府と司法府の出番、ということに「ならない」のは、法の下にある「政令」、「省令」、「規則」に「通達」といった、「行政」からの各種命令が、行政官によって発令されるからである。

これが、「業界」をがんじがらめに縛っているのだ。

さらに、「縦割り行政」が、面倒を生む。
もちろん、面倒なのは政府の側ではなくて、支配される業界の側である。
ある意味、どこから弾が飛んで来るのか、わからないからである。
それで、担当部署の責任の大元を見つけだすこと自体が、面倒を生む。

「雲隠れ」するという、忍法までも駆使してくるのだ。

個人の世界では、エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』がある。
このような外国の「解説」が、わが国でも「有用」になったのは、わが国がわが国「らしさ」を失った証拠でもある。
これが、「グローバル化」ということなのだ。

外国旅行に一回も行ったことがないからといって、グローバル化とは関係ない、にはならない。
むしろ、外国がすすめる「ワクチン・パスポート」がなくては、外国旅行に行けないとなれば、ワクチン接種をしたくなくともしないといけない。

フランスや英国では、飲み屋にも提示がないと入店できないと提案されて、大規模デモになっている。

これを、直接的な「強制」とは言わせない努力も政府は仕掛けるのだ。
これこそが、「同調圧力」の応用なのであって、個人の精神を痛めつける社会的恐怖なのである。

ならば、「夏休み」に、遠藤周作の代表作『海と毒薬』でも読んでみるのがいいだろう。
この「実話」が、これからの「実話」になる努力が政府によってされている。

 

神奈川県の自爆

神奈川県が、「県独自の緊急事態宣言を発令する」と決めた。
どこにそんなことができる「法的根拠があるのか?」を、だれも質問しないばかりか、口にもしない。

「法治」とは、「丸投げ放置」のことだった。

なってはいけない人、選んではいけない人に、なさせてしまった「罪と罰」が、神奈川県民にブーメランの刃が刺さる。
黒岩知事と県会議員たちのことである。

黒岩祐治というひとの「無能」については何度か書いた。
とにかく、最初の選挙では、神奈川県の全戸に太陽光発電パネルを設置すると公約して、当選して予算がないと知ったら早々に撤回した「実績」をもつ。

これを「元政治部記者」があっさりとやってのけたのだ。

それなのに、さらに二回も当選して、三期も知事をやっている。
選んでいるのが県民だから、ひどい目にあっても責任は県民にある。
しかし、首長には「リコール」という手段もあるから、窮鼠猫をかむ県民はこれをやるのかやらないのか?

さらに、どうにもならない「議会の無能」がある。
いったい何人の議員がいるのか?
さらにさらに、県下の各自治体の首長もそれぞれの議会も無反応だ。
「県知事さま」のご意向は、かくも絶大だったのか?

「官選」の知事ならまだしも、なんのための「民選」なのか?
まったくもって、理由から問われる大問題だ。

元を正せば、昨年の「特措法改正」が主因であった。
この法律で、「緊急事態宣言」が合法化されて、とうとう発令したからである。
つまりは、安倍内閣の時代であった。

日本国憲法に抵触するおそれがあるばかりか、自治体が「藩化」して、都道府県知事が「藩主になる」可能性があると書いたけど、その通りになった。
そして、幕府たる中央政府はコントロールを失うと。

理由は明白で、「宣言の発令」は、中央政府の権限を大幅に都道府県知事に渡すことが「主旨」だからである。
それで、こんどは、「収束宣言」をだしたら、「元に戻る」と考えたのは、役人国家の役人の頭脳が「単純」の上に「傲慢」だからである。

権力を持つ人間が、一度権力の味を知ったら、元には戻れない。
古今東西、そういうことを繰り返してきたのが人間の歴史なのだ。
わが国エリートの中のエリートたる、「官僚」の浅はかさこそが、知事たちをモンスターに変身させた。

命令一下、中央政府が与えた権限を返納する「はず」にはならず、これを「保持」することに全能力を使い出す。
まことに、人間らしい態度をとっているともいえるけど、その権力を住民のために使わないで、権力者の自己陶酔に使い出すから始末が悪いのだ。

これを「やらせた」のも、安倍内閣の時代である。
なにせ、第一回目の緊急事態宣言をやめるとき、都道府県知事に権限を戻すように「言わなかった」からである。

犬を躾けるときに、飼い主が曖昧な態度をとれば、もはや「躾」どころか「勘違い」を助長して、かえって飼い主を下にみるように「訓練する」ようなもので、このときの内閣の曖昧な態度が、知事たちの「権力本能」を活性化させてしまった。

なぜに「言わなかった」のか?
それは、「いい子」になりたい志向が強力だったからである。
誰も敵にはしたくない。
もちろん、このときの内閣の要、「官房長官」は菅氏だった。

いま総理になって、「嫌われてもやるべきことはやる」と発言したのは、まさにこのことの「反省」かもしれないけど、残念ながら、「犬と同じ脳」しかない「権力志向」の本能をむきだしにした人間を躾けるには、もう遅いのである。

その典型が、都知事であり、大阪府知事であり、とにかく東京都知事に「勝手に」ライバル意識を持っている神奈川県知事なのである。
このことは、間違った「ベンチマーク」を設定することの不幸でもある。

神奈川県知事は、社会的に何もしない、という選択をして、実質的に「成功」した、スェーデン式をベンチマークにすべきだった。
当初いろいろいわれたけれど、「今」となっては、その政治選択の「正さ」は完全に証明されたからである。

さすれば、神奈川県「独自」の緊急事態宣言とは、「何もしない」ということに尽きる。
すなわち、「飲食店の営業自由」を宣言することで、「酒類販売の自由」はおろか、「マスク着用をやめる」ことなのだ。

しかも、ワクチン接種中止も宣言すれば、おおいに「男が上がる」はずなのに。

こうしたことを「させない」議会は、なにをやっているのか?
地方議会とは、「立法府なのだ」という意識がないのではないか?と今さらに確認できる無惨である。

まったくもって、嘆かわしい、としか言いようのない出来事である。

外国から批難される日本

「よい子」でいたいだけなのに、どうしてこんなに批難されるのか?

元日本人の岩里政男(李登輝)氏は生前、(自分と同じ)むかしの日本人には「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の区別がちゃんとあって、家の玄関から先にある世間のことは「公」を優先させるのが当たり前だと考えていたが、いま(戦後)の日本人は、「私」を優先させることに重きをおくようになった、と述懐していた。

だから、なりたい「よい子」とは、「公」からみての「よい子」ではなくて、「私」からの「よい子」になる。
その端的ないいまわしは、いまどきの子どもを諭すときの「他人に迷惑をかけなければ、なにをしても自由だ」に集約できる。

この言いかたの問題点は、最初の「仮定」にある。
「他人に迷惑をかけなければ」の、意味だ。
つまり、他人が迷惑とおもうかおもわないかを、他人からみた他人である自分が決めていることになる。

これを、「唯我独尊」だといって、なんだか「お釈迦様」と同格になるずうずうしさまでが「おまけ」になってまとわりついている。

個人の巨大な集合体が国家になるし、個人の「気分」が官庁や政治家に伝染するのは、官僚も政治家も「国民の一部」であるからで、むしろ、都合がよい「気分」なら、率先して採用することが、より「国民への奉仕」感を高める効果を発揮することを熟知している。

そんなわけで、一部のひとたちの都合に合わせた政策や施策が、なんだか「国益」のように一般人にもみえてくるのは、「よいこと」しかマスコミが宣伝しないからである。

本来の「IT化」とか「情報化」なら、既存マスコミに対抗するはずの「ネットの力」があったはずだけれども、肝心の「プラットフォーム提供会社」が、自分たちの都合を優先させる「検閲」実施の事態となって、だれもが予想した「未来の民主主義」が、一気に「全体主義」へと変貌しようとしている。

もちろん、わが国の「伝統」には、外国からの強制を伴う「大転換」がある。
「黒船来航」と、「占領時代」という二大転換が、すっかり民族の「トラウマ」になって定着している。

黒船は1853年のことで、占領時代とは1945年から52年までの7年間をいう。
すると、黒船来航から99年後にわが国は占領時代という「国家改造期間」を終えたことになる。

なので、1952年を起点にすれば、2051年が99年後ということになるから、あと30年(一世代)は、「よい子」でいる時代を続けようと努力することになるかもしれない。
ただし、その運命は「破綻」なのであるけれど。

こんな「体制」はおかしいのではないか?
「公」を重視する立場のとっくに小数派は、忸怩たる思いでいる。
それでも世は「私」を重視するひとたちの天下なのだ。

そこへもってきて、昨日(2日)、立て続けに二本のニュースが外国からやってきた。

先ずは「おフランス」(AFP)から、新疆ウイグル自治区における少数民族の強制労働で人権を侵害し「暴利を得ている」として、日本の「ユニクロ」現地法人、米スケッチャーズ、仏SMCP、スペインのインディテックス4社への検察による捜査が始まったという。

次は、アメリカ合衆国(ワシントン共同)からで、1日、国務省が発表した「人身売買報告書」に、わが国の「技能実習」が指摘されたとある。
つまり、「奴隷の疑い」を、あろうことか「奴隷制度」をめぐって内戦までやったアメリカから指摘されたのだ。

実際に、この「制度」で入国した「実習生たち」は、実習期間中に「脱走」して行方不明になっている者が多数いて、およそ年間7000人にのぼるという。
何年もやっているから、万人規模の「不法移民」が日本のどこかに住んでいる。

一部の実態を伝える「ルポ」もあるけど、(他に情報がないから)これをそのまま信じれば、本人たちのパスポートは、実習受け入れの日本人が「保管」することになっているので、たとえ「脱走」しても帰国どころか第三国の外国に移動することもできない。

パスポートという最高レベルの身分証明書を所持しないで、わが国で(潜伏)生活するとはどういう方法があるのだろうか?
犯罪組織の臭いがプンプンする。
政権交代によって、大問題化したアメリカ・メキシコ国境の「混乱」とおなじ状況がひそかにうまれている。

もちろん、「制度」をつくって「運用」しているのは、政府だ。
だから、アメリカ政府からの指摘は政府を直撃する。
一方で、おフランスの検察捜査は、民間企業に対するものだ。
「嫌疑の重さ」という点で、はるかに政府の方が重いけど、だからといって「民間だから軽い」というものでもない。

さらに、「ユニクロだけ」ということもなく、ネットにはさまざまな有名企業の名前がそのままに、「一覧表」で表示もしている。

日本だから「正義」なのだ、ということがいえなくなったのは、次元が高すぎる「文明国」から、改造によって低くて卑しい次元の文明国に落とされた「改造の成果」なのである。

だから、いまのわが国の「エリート」こそ、「卑しいひとたち」だと断定して差し支えない。
そのひとたちに、黙って従う一般人は、「ふつうに卑しい」といえる。

この二本のニュースが、爆発的な反応にならないのがその証拠なのである。
明治・大正期だったら、次元が高いために怒った国民による対象企業の「打ち壊し」が起きるはずと思われるからである。

「官僚たち」の正しさ

むかし、日本興業銀行(興銀)というエリート集団がいた。
おなじ業界(いわゆる「銀行業界」ではない)には、日本長期信用銀行(長銀)と、日本債券信用銀行(日債銀)という会社もあったけど、ぜんぶ潰れた。

興銀には東大卒、長銀には京大卒が多数いて、とくに業界筆頭の興銀は、「東大にあらずんば人にあらず」という、まるで「平家」のような「社風」にまみれていた。
なので、いつ、どんなことを理由として滅亡するのか?と思っていたら、バブルの泡に露と消えた。

でも、興銀のなかのひとたちは、興銀が潰れるときは日本経済が潰れるときだ、とおもっていたので、自分たちは「絶対安泰」だと信じていた。
つまり、これぞ「エリート(選民)意識」の塊だった。

しかし、「バブル経済の崩壊」とは、「日本経済の崩壊」であったので、彼らがいうことは「正しく」て、それで自分たちも潰れた。
それから、「銀行再編(このときの「銀行」とは、「市中銀行」)」になって、あろうことかずっと見下していた富士銀行と第一勧業銀行に合併させられた。

わが国の商業銀行は、渋沢栄一が設立した「第一国立銀行(その後「第一銀行」)」をもって始まりとする。
「国立」が名前についていたのは、「発券機能」があったからである。
つまり、「お札を刷れた」のだ。

いろんな意味で「統制」が強化されている香港には、お札を刷っている銀行が二つある。
「自由経済」なら、もっとたくさんのお札を刷っている銀行があっていいけど、たいがいは「国家」がこれを独占して、配下の中央銀行にやらせている。

その点で曖昧なのがアメリカ合衆国で、「連邦準備銀行」という「民間事業者」たちが、各地で「ドル紙幣」を印刷している。
本当は発行元がちがうのに、印刷するお札のデザインはまったく同じ、という奇妙なことをやっているのだ。

そんなわけで、天下の興銀も、大蔵省銀行局には逆らえず、東京都の金庫番だった富士銀行と、ただデカくて宝くじをやっている第一勧業銀行とに吸収させられたのであった。

想像するに、なかのひとたちは、おそらくこの逆で、自分たちが富士銀行と第一勧業銀行を合併したのだ、と思い込んで威張っているのだろう。
これが、「システム問題」になって、いつまでたっても解決できないことの根源なのである。

しかしながら、上にも書いたように、東大の同級生だった「大蔵省銀行局」にはかなわない。
じつは、「同級生」といっても、「学年だけ」のことで、かたや「経済学部」かたや「法学部」ということになっている。

もちろん、「東大経済学部」で習う「経済学」とは、基本的に「マルクスのそれ」だから、世界の「実経済」を相手にしたら、ぜんぜん役に立たない。
それに、「東大法学部」で習う「法学」も、基本的に「マルクスのそれ」だから、国民に「奉仕する」のではなくて、あくまでも「統治する」ための方法になる。

なんだ、それなら「興銀マン」の自負とは、井の中の蛙そのものではないか?といえば、まったく正しい。
しかも、「ゆでガエル」なのだから、やっぱり「平家」なのである。

東大受験で「平家」のことを暗記したのは、どんな人物と年代「だけ」だったのか?源氏に負けたのは、戦闘力のちがい「だけ」だと思っているやもしれない。

このことは、「法学部」だって同じなのだけど、大蔵省に入れば、もっと強大で巨大な「井の中」に入り込む。
一般的にこれを、「タコツボ」という。

そんなわけで、若くして官僚を途中で辞めるばかりか、最近では、そもそも応募しない、という現象があるのは「希望の光」となっている。
「優秀な人材」は、価値生産的(=クリエイティブ)な職につくことが、経済の繁栄の役に立つ。

価値「非」生産の典型が、いわゆる「民間部門」に対する「政府部門」であるから、政府が巨大化することは、そのまま国家の衰退を意味する。

わが日本政府も、とうとう牙をむきだして国民を支配する方針を露わにしている。
たとえば、昨夜(23時59分)に締め切られた、「ワクチン・パスポートに関するパブリックコメント募集」だって、何人の国民が知っていたものか?

こっそり募集して、アリバイをとりたい。

こんな姑息な方法を、東大法学部のだれが教えているのか?
それとも、受験テクニックで習得するものなのか?

情報化社会にあって、政府がパブリックコメントを募集していることを知らない国民が悪い、という理屈なのだ。
ただし、「政府広報」という「撒き餌」にむらがるマスコミは、「募集中」だということを一切報じない。

さてそれで、政府の官僚たちが「正しい」のは、「国民はバカだ」という一点にある。
この一点にも気づかないでいるから、「国民はバカ」なのだ。
だから、どんなふうに痛めつけてやるか?をかんがえるのが楽しいのだろう。

もはや、日本国憲法なんて関係ない。

国民からの命令である、憲法を無視する態度の一般化は、国民国家の終わりである。
わが国は、すでに「人民共和国」に移行して、「官僚たち」による集団指導体制が完成した。

ここには、「政権党」たる政党すら無用なのである。
選挙がむなしい理由でもある。

医師・議員450人の声が

6月24日、医師・歯科医師、地方議員450名による、「新型コロナワクチン接種中止」の嘆願書を厚労省に提出後の記者会見が、参議院議員会館で開催された。

趣旨説明と質疑応答にそれぞれ1時間ほど、合計2時間をかけている。
また、ほぼ全部を動画配信もしている。

それで、「記事」として報道したのは、サンケイスポーツ1紙のみで、電波による、テレビもラジオも一切無視を決め込んだのだった。
すなわち、この「事実」は、明確に「中立」を規定している放送法違反である。

とくに、受信料で成立しているNHKの罪は重い。

本嘆願書は、上述のように限られた職域のひとたちによったものだけど、「日本国民10万人の嘆願書」については、ネットでの署名募集がはじまった。
おなじく、「新型コロナワクチン即時接種中止を求める嘆願書」だ。

非常にひっ迫した状況にあるのは、「ワクチン大臣」が表明しているように、若い世代への接種を開始する準備が進行しているからである。

若い世代で、コロナによる死者は希少なうえ、20歳以下にいたっては「ゼロ」である。
したがって、リスクをともなう接種は、現状の「ゼロ」を上回るので、「危険」ということになるのがふつうの考えである。

ワクチン大臣は、数度もテレビ放送で「デマ」だと発言したのは、「医師でさえもワクチンに対して批判的なことをいっている」ことについてであるけれど、今般の説明では、すべての根拠は厚生労働省が発表した数値による、と反論している。

また、おかしなことをいっている専門家とは、「40万人が死ぬ」といった国立大学の教授職のひとなどのことではないか?との反論に、会場からは爆笑をかった。

会見中の「白眉」ともいえるのは、ちゃんとした医師による「学術的な説明」である。
この「ワクチン」のなにが問題なのか?を明確に、わかりやすく説明している。

さらに、現場医師の「常識」は、全ての種類のワクチン接種には、「インフォームドコンセント」が求められ、医師は接種者にリスク説明をしたうえで、本人の同意を得ることが「条件」になっている。
しかし、今回、ほとんどが医師からの説明ではなくて、省略された「文書への署名」をもって、代用していると指摘している。

接種希望者は、自分の体でどんな作用が働いて、それがどういう意味なのかを理解している、とはいえない。
もしきちんと理解したら、はたして「希望」するものか?
説明を聞いているうちに、「お断り」になるのではないか?

どうやら政府は、「お断り」されたくないらしい。
なので、きちんとした説明をしない、という行動をとっている。
「HPに掲載した」ということでの「説明責任は果たした」といいたいのだろう。

しかし、そのHP(厚生労働省)にも、「きちんとした説明」はない。
あっても、素人(国民は素人である)には難しいのは、「文章表記」の「責任回避技術」に優れているからである。

これは、1949年のジュネーヴ4条約における、「国民への教育義務」について、わが国では防衛省HPにひっそりと掲載していることの問題とおなじである、

つまり、情報を自分から取りに来ない国民が悪い、という意味だ。
たしかに、いえない理屈ではないけれど、ならば「広報活動」はどうした?ということになる。
「ぜひこちらをご覧下さい」ぐらいは「いえ」といいたい。

スイス政府が全世帯に無料配付して、条約の「義務」を果たしたパンフレットの邦訳がある。
憲法論議の前に、国民は目を通しておくべき、「有事の国際常識」なのだ。

そして、問題の本質を隠すから問題になる。
いま国民に接種しているワクチンを、正規に「認可」している国はどこにもないのに、厚生労働省は「諸外国で認可された」ことを根拠に日本国民に接種している。

いま打たれている「ワクチン」は、すべて「治験中」すなわち「人体実験中」の「新薬:劇薬」なのである。
この「事実」すら、接種者に説明しているとはおもえない。

「お国」からの要請だからという理由で、自社従業員に接種をしている企業経営者だって、この「事実」を知らないのか?それとも知っていて従業員の体を差し出しているのか?

「企業の社会的責任」がおそろしいことになって問われることになる可能性も、このワクチンの「リスク」なのである。

そんなわけで、「特効薬」についての質問と回答があった。
もっとも「有効」とされるのは、「ビタミンD」である。
これは、「日光浴」によって増大することがわかっているビタミンだ。

つまり、「ただ:無料」で入手できる特効薬なのである。

季節は夏になる。
じつは、「海水浴」や「プール」での日光浴で、コロナウィルスは2分で消滅することもわかっている。
にもかかわらず、海水浴場やプールを閉鎖する「愚挙」が、昨年全国で実施された。

国民を病に追いやって、いじめることが「上級者」の仕事になった。

沈黙する「ひつじ」ではなくて、意見する者にならないと、政府による「薬殺」はとまらない。

「布団」の価値

日本化した、「自然主義文学」の代表作に、田山花袋の『布団』がある、と学校で教わる。
教えている先生が、はたして読んだことがあるのかも疑問だけれど、「ご本家」のエミール・ゾラだって読んだことがあるのだろうか?

 

作家名と作品名(できれば年代)を暗記すればいい、という点数主義にたてば、優秀な大学への受験を目指した学生の「あるある」で、入学後にとった「弛緩」の4年間を想像すれば、なるほど、先生自身の読後感想を聞かされない理由がわかるのである。

田山の小説における「布団」の女々しさを、自然主義として、島崎藤村の姪との関係を土台にした告白をもって完成したのが、日本版の自然主義なので、ちょっと「いやらしい」のである。

その意味でいくと、谷崎潤一郎の文壇君臨とその妻の佐藤春夫との「憂鬱」に続く「実際」が、ぜんぶ「文学」になっている。なかでも『方丈記訳』が傑出している理由だろう。
永井荷風の『墨東奇譚』とか、檀一雄の『火宅の人』も、その一線上にあるようにみえるのも「いやらしい」からである。

   

すると、これらの話に、わざわざ表現する材料ではない、「布団」にフォーカスした田山のセンスは秀逸だ。
田山がいたせいで、後の小説家は「布団」を登場させることができなくなった。

人間の生理としての「睡眠」は、人生の時間の3分の一にあたるので、寝て喰うために起きて活動しているともいえるのが人生なのだ。
そこで、重要な「器具」としての「寝具」が登場する。
つまり、寝具の贅沢こそが、人生時間の割り振りにおいて、もっとも重要ともいえる。

しかしながら、起きている時間の「意識」が人間の認識なので、寝ているときの「無意識」についての優先順位が下がるという「認識」をするのが一般的だ。
ここに、寝具メーカーと消費者の葛藤がうまれる。

すなわち、寝具メーカーの主張は、しごくごもっとも、なのであるけれど、消費者には「高価すぎる」ということになるのだ。
しかも、寝入ってしまったら「わからない」という主張になる。

けれども、「寝てみればわかる」という順番になるのが寝具メーカーの主張なので、ここでも消費者と「順番」がちがう。
だから、攻防戦の最先端は、この順番のちがいに集中する。
「お試し」をいう理由がそれだ。

販売の現場では、5分や10分、寝てみる、ということになるけれど、8時間寝ないと本来の「機能」はわからない。
ここが、一番の「やっかい」なのである。

さて、「高価すぎる」という点についても、ギャップはおおきい。
たとえば、10年間使えるとすれば、10万円の寝具も、年当たりでは1万円になって、1日当たりだとわずか27円あまりという「安さ」になる。

しかし、消費者の目には「10万円」が飛びこんでくるのだ。

これは、「旅館」もおなじで、初期投資額が部屋数掛ける定員という計算になるから、投資金額としては「耐えられない」とかんがえる経営者は多数どころか「ふつう」だろう。

旅館はなにを売っているのか?という根本問題を追求すれば、はなしは早いが、根本問題だから答えを出すには時間がかかる。
そんなかで、ビジネスホテルの一部が、アメリカ製の「超高級ベッド」を導入しはじめた。

スプリングの構造がちがう、いわゆる商用車でいう「独立懸架方式」で、その耐久性もちがうので、「高価」のなかでも「超」がつく。

人間、40歳を超えてくると、そこそこに柔軟性を欠くので、旅先の宿における「寝具」が劣悪だと、次回の選択肢から外れる。
とくに、ヘタってしまったベッドでの睡眠は、気がつけば「腰痛」を発症して治癒には時間とお金がかかる。

すると、それが「大きな損失」に感じるから、その施設そのものを敬遠するのである。
もしや、「その部屋だけ」だったとしても、である。

和室で布団を用いる旅館なら、敷蒲団のサイズが小さくて足が出てしまったり、枕のサイズや高さがあわないと、翌朝には「肩こり」に襲われて、数日間の難儀がある。
すると、やっぱり、次回の選択肢から外れるのだ。

もちろん、おなじ地域に上述の「超高級ベッド」のビジネスホテルがあれば、まずは予約サイトで空室確認をするのである。

人的サービス業のサービス改善の王道は、人的訓練に尽きるけど、ハードウェアとの連携が重要なので、ハードウェアを軽視することはできない。
その典型が、「寝具」なのだ。

ときに、寝具の価値は、「食」を超える。
いまどき、「おいしい」から外れる料理を提供したらどうなるかより、朝が辛い宿は評価外とされるだろう。

これが「高級」を任じる宿ならば、そこを目指す利用客の自宅には、どんな寝具があるものか?
お金持ちだけでなく、健康重視の層ならば、寝具の価値をしっている可能性が高いのである。

さてそれで、寝苦しいからエアコンをつける季節がやってきて、タオルケットでは「寒い」ことはわかっている。
薄手の「羽毛」か、それとも「真綿」か?

羽毛なら、2枚で1万円。
真綿でも生地が絹なら、2枚で40万円。

さぁさ、どうする?

飛行機に乗れない?

クルーの病欠が相次いで、アメリカン航空では百便単位での「欠航」が相次いで話題になっている。
疑われているのが、ワクチンの副反応だ。

前に書いたように、ブリティッシュ・エアウェイズ(英国航空)でも、ワクチン接種後一週間で4人のパイロットが、それからユナイテッド航空では3人が急死して、現地では騒ぎになっているというから、世界規模で起こりうる。

ただ、幸いなことに、フライト中の発作による重大事故は起きていない。

わが国でも二大航空会社が、職域接種を開始したので、これからどうなるかが注目される。
不謹慎の誹りを免れないけれど、ひたすら「問題がない」ことを祈るばかりだ。

すべての副反応の疑いに、各国全ての政府は「関連性を否定」しているので、「正式」に副反応だと発表もできない。
しかし、パイロットだって所詮は個人の健康に係わる問題だから、接種をしたひとの不安は高まるばかりである。

乗客側にも、ワクチンパスポートの提示をもとめて、接種していないと「乗れない」ということがいわれたけれど、これも以前書いたように、逆転して「血栓のリスク」のために、ワクチン接種者「こそ」が搭乗拒否される可能性も否定できない。

まことに残念なのは、接種をしたら、「元には戻れない」という冷厳な事実があることだ。
どこまで、副反応が解明されるのか?
解明したくない政府との衝突が発生すること、必定となった。

このことの重大性は、わが国こそ深刻だ。
従順なるわが国民は、国民と政府は一体であると信じてきたのだ。
しかしあたかもグローバリズムの浸透で、企業経営における資本と経営の分離、が「正義」とされたように、政府と国民の分離が起きる。

じつは、自由と民主主義を歴史上最初に「勝ち取った」英国は、名誉革命において、国民が勝ち取ったのは、王権やその政府からであったから、自由と民主主義を推進することの「前提」には、国民と乖離した政府がある、という建て付けになっているのを承知していないといけない。

それでこその「三権分立制度」がうまれたのだ。

明治維新を遂行した、重臣たち(なかでも伊藤博文)は、明治憲法立案において、「徹底的な分権」を発想し、これを埋め込んで、しかも憲法においてすら超法規的存在の「元老院」を設けたのだ。
憲法に一切の文言がないのにふつうに存在して、内閣を牽制し、牽制される内閣も文句を一言もいわなかった。

これはいかなるメカニズムなのか?
日本には、国民と共にある天皇がいることに、欧米諸国とは決定的な違いがある。
世俗権力とまったくちがう権威としての存在で2千年も続いてきたのは、人類の奇跡なのである。

そこで、英国発祥の「国民と政府の分離」が、わが国では江戸時代にかなり歪んで、「国民と政府の一体」が信じられるようになってしまった。
もちろん、「信じ込ませた」のは幕府すなわち政府の側である。

「お上」からの押しつけに内心は反発しながらも、貧乏すぎる庶民は黙って従うもの、となった。
けれど、幕末には、それまで散発していた百姓一揆が常態化すると、マグマのごとくのエネルギーの上昇があった。

これが、下級武士に伝染した。

そうやって下級武士による政権ができたけど、「自由民権運動」という「意外」が、自然発生して、建前をつくった下級武士たちに本音をぶつけた。
明治・大正期とは、こういう時代だった。

それで、昭和の大戦争に負けたら、噴火のエネルギーがおさまったようにしぼんで、おとなたちは「政府との一体化」の安逸に逃げ込んだので、若者たちが「政府との分離」を開始した。
これが、「全共闘」だといえる。

いま話題の映画、「三島由紀夫VS東大全共闘」で、議論の「焦点」が「天皇」になる所以であり、全共闘が折れない所以でもある。

その「全共闘世代」が、後期高齢者になったら、ワクチン接種に熱心かつ積極的な、「政府との一体化」をやっている。
まことに、興味深い現象になっている。

さてそれで、後期高齢者がどのくらい飛行機に乗る需要があるのか?と、パイロットの突然死、そして乗客乗員双方に可能性がふくらむフライト中の「血栓リスク」の問題をかんがえたとき、「自動操縦」のレベル向上という技術開発が気になるのだ。

離着陸のリモート化をふくめて、地上からの操縦がどこまでできるのか?
遠隔手術の技法をつかえば、できないことはないのではないか?
鉄道の安全(自動停止)以上のレベルができれば、とにかく操縦士の「もしも」による墜落のリスクは軽減する。

ならば、機長と副操縦士のコンビは必要か?
「訓練」と「人材育成」以外の理由がなくなる。

航空会社の狙いはここか?

「怖い」とおもったら、飛行機には乗れない。

禁止のオリンピック

「筋」が悪いことをやると、どんどん「筋」が悪くなって、とうとう「破綻」するものだ。

今回の「筋の悪さ」とは、「科学の無視」という一点に集約できる。

ネックになっているのは、ただひとつ。
「新型コロナウィルス」による、「パンデミック」になっている。
けれども、「科学」はそうなっていない。

そもそも、この1年半、「パンデミック」の原因とされている、「新型コロナウィルス」は、世界の研究者が誰のひとりも「存在を確認していない」のだ。

これは、本年4月22日、国立感染症研究所所長名で出された、「行政文書不開示決定通知書」に明記されている。
行政文書公開法による開示請求(新型コロナウィルスが病原体であることを証明する論文)をした個人への回答書である。

その「不開示理由」とは、「開示請求に係わる行政文書を保有していなかったため」だ。
早い話が、「証明できない」ことを「証明した」のである。

いいだしっぺの上海の研究者グループが、武漢の病院に入院していた「肺炎患者」の「胸水」に、「新しいタイプのコロナ・ウィルスがいた」という論文を書いて、これを国際論文データベースに登録したこと「しか」ないのだ。

しかも、論文執筆に要した日数は、わずか10日。
そして、データベース登録した翌日に、「研究所ごと閉鎖」されている。

どういうわけか、WHOは、最初から「PCR検査」による「診断」を各国政府に通達した。
それで、この論文にあったコロナ・ウィルスといわれているものの、遺伝情報をもとにつくった「PCR検査キット」が、即座に世界中に流通したのである。

元の「胸水」は、とっくに廃棄されているし、見つけたという「ウィルス」も、保存などされずにおなじく廃棄されている。
よって、よりどころとなる「もの」は、その論文に掲載された「遺伝子情報」の「主張」しかない。

それで、第三者による「存在確認がない」というのが、上述の「証明」なのである。

最初からあやしげな「PCR検査キット」をつかった「PCR検査」では、さらに、「Ct値」を膨らませたので、いったい何を「検査」しているのかわからない状態で、「陽性」と「疑陽性」、「偽陰性」と「陰性」がこんがらがった。

わが国では、昨年12月2日の参議院特別委員会で、「PCR検査の確度」についての質問に、厚生労働省統括審議官が「確度はない」と答弁した事実があるけど、ぜんぜん報道されなかった。

ちなみに、立法府でありわが国「国権」の最高機関である「国会」での答弁は、裁判所の「判例」どころではない「法的根拠」をもつことを確認しよう。

つまり、法的根拠をもって、PCR検査は意味がない、とした瞬間である。
ならば、PCR検査による陽性者を感染者として2週間もの期間、隔離するというのは、「人権侵害」にほかならない。

ついでにいえば、無症状者が他者を感染させる、という論拠になる研究も、論文も世界に存在していない。
テレビに出ている、「専門家」の完全なる「私見」であって、これをあたかも「科学的事実」として放送するのは、「デマゴーグ」である。

いまさらながら、マスクの必要性が医学会から否定されているものを、同調圧力して、科学的根拠はないと明言した政府の専門家会議の長がいう、飲食店の営業自粛と酒類提供の自粛も、まったくの「やっている感」だけの演出でしかないことがわかってきている。

当然だけど、「三密の回避」すら、ナンセンスのキワモノだった。

どこからどこまでが、IOCの管轄で、どこからどこまでが、組織委員会の管轄なのかが説明されていない。
もしや、当事者も、わからないのではないのか?

大手術を職業とする「外科医」なら当然という事柄に、手術成功後の「精神的発散欲求」としての「性欲の高揚」があることは公然たる事実である。

したがって、アスリートにとって世界の檜舞台であるオリンピックという場での「競技の後」にやってくる精神的発散欲求をどうするのか?について、コンドームの支給は当然とされてきた伝統がある。
そこで、今般の大会でも15万個が準備されていた。

しかし、「濃厚接触の容認だ」という「いちゃもん」が入って、とにかく役人主導で「いいこでありたい」を最優先させるから、「帰国時に配付」という、目的合理性を無視した決定がされた。
選手の生理的欲求を、なかったことにする、という決定は「人権侵害」ではないのか?

さらに、選手村での「飲酒可能」が、飲食店に酒類提供の自粛要請という「無謀」をしている手前、「禁酒」どころか「選手村からの外出も禁止」という、事実上の「監禁状態」とすることが決定された。
選手の行動を制限する、禁止のオリンピックになったのだ。

世にいう「人権派」も、沈黙せざるをえない状況は、もはや後戻りができない強権となったことを意味する。

なにもかも、「狂った前提」のなせるわざであって、前提が狂っていると発言することも許されないのは、全体主義だ。
もちろん、過去からすべての全体主義は、その強制の根拠をかならず「正義」におくことも常套手段なのである。

たとえば、フィリピン大統領が、ワクチン拒否者を逮捕せよというように。
そんなわけで、歴史的に選手にとって不快な大会になることが確実となった。

近代オリンピックとは、誰のための競技大会なのかをもすっ飛ばして、単なる「国威発揚の場」と定義するなら、まったくもって「オリンピック憲章」の精神も何もない、ただの「利権大会」だし、「見世物」(選手は芸人)だと主催者が認めたに等しい。

日本人は精神世界での霊魂を信じるが、物質世界では科学を信じる、として、新型コロナウィルスは「悪い冗談だ」と笑い飛ばした大会としたならば、世界が驚愕するほどに「元気が出る」オリンピックになったものを。

このチャンスを、永遠に自ら葬った現代日本人の「愚」が、日本衰退の祭典として歴史に刻まれることになった。
「中止論」を支持する一般人の気持とは、コロナが怖いではなくて、コロナ詐欺との決別だったのである。