「要素価格均等化定理」再考

前にも書いたけど、書き手のわたしに「埋もれた感」があるので、再考して更新としたい。

新年早々に書いた、2022年ノーベル物理学賞の驚愕が、これからどんどん一般に広がると、哲学や宗教までもが、「書き換えられる」ことになる必然がある。

しかしながら、「書き換えられたら困る」ひとたちが、既存の支配層だったり、超富裕層だったりするから、一般人に知られないように例によって例のごとく、「報道しない」、「報道させない」という手段を用いるのである。

報道しないのは、このひとたちが主要報道機関を所有しているからで、報道させないのは、このひとたちが主要スポンサーとして、広告出稿費をコントロールするぞと脅すからである。

この二つの手法で、ほぼ全世界の報道機関が、プロパガンダ機関への変換を余儀なくされた。

その上手の手から水が漏ることになったのは、「裏切り者」イーロン・マスク氏による、Twitterの「無検閲」だ。
なので、いま、みえないけどバーチャル言論空間の「出島」としての価値を唯一提供する媒体に、逆変貌したのである。

このために、Twitterでの爆発的な情報拡散があっても、主要メディアやその他のSNSが、一切無視することが、かえってあからさまになっている。
それでもグーグルの検索機能に依存すると、人生を間違えるけど、多くのひとが人生を間違えても気づかないほどに、飼い慣らされてしまった。

これを、「奴隷の幸せ」と書いた。

さてそれで、要素価格均等化定理である。
かんがえだした、ヘクシャーとオリーン両氏の名前をとって、「ヘクシャー・オリーンの定理」ともいう。

1977年のノーベル経済学賞だ。

この時期は、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」の論争が盛んで、情報統制されたソ連圏のプロパガンダが功を奏して、「ソ連脅威論」を背景に、あんがいとマル経が頑張っていた。

反体制派のサハロフ博士の活躍や、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞(1970年)をとっても、マル経のひとたちは、これを無視できる精神構造があって、いまも健在なのである。
学問を装った政治が優先されていた。

それで、数学者あがりのポール・サミュエルソンが、「数理モデル」という新機軸で一世を風靡していたけれど、数理モデルでマル経を語ると破綻する(ミーゼスが1920年代に数学的証明をしている)のに、サミュエルソン自身が、「新古典派総合」なる、「実質マル経」を考案したのである。

そんなサミュエルソンの、『経済学』が、日本におけるマル経の看板学者で、各種「学会」を牛耳った政治家でもあった、都留重人が翻訳して、これを岩波書店が出して、「主流派一流大学」のスタンダード教科書にせしめた。

この教科書のベストセラーぶりは、初版が1948年で、最後の13版がでたのが1985年だったことでもわかる。
なお、日本語版の初版は、1966年で、原書第6版からである。
ちなみにわたしは、原著第9版の日本語新版(1981年:旧版は1974年)を所蔵している。

すると、学者として40年ほどを過ごすとすると、この教科書で学んだことの影響力がわかるというものだ。
つまり、世界が左傾化(グローバリズムに染まった)した原因のひとつに挙げていい。

だから、いまでも評価が高いのは、そうでないと人生の否定になるひとたちが多数になるからだ。

要素価格均等化定理を、ヘクシャーとオリーン、それにサミュエルソンの三人が追及して、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソン・モデル(頭文字から、「HOSモデル」という)ができた。

それでもって、要素価格均等化定理が、世界でみごとに「効いている」のが、日本経済なのだ。

資本、土地、労働のそれぞれの「価格」が、貿易を通じて相手国と「均等化する=等しくなる」が、この定理だ。
資本とは、資金の移動に関わるコストだけでなく、調達コストのことだし、土地は、土地そのものの地価だけでなく、農産物の価格にも変換される。

わが国の賃金が30年間も横ばいか、あるいは減ったのに、わが国以外の世界では上がっていることの原因はなにか?がずっと議論になっていて、たいていが政府に依存して、日本政府(予算)だけが肥大化した。

それでもぜんぜん経済はよくならないばかりか、生活はどんどん厳しくなっていて、また政府になんとかしろと依存している。
しかし、ここまで依存させることに成功した政府は、「増税」を掲げてビクともしない。

要素価格均等化定理が「発動する」ことの前提に、「仕事のやり方がおなじなら」という「仮定」があることが、もっとも重要な条件だ。

これには、当然に企業努力もあるけれど、政府依存という他人まかせの努力が、「仕事のやり方を変えない」ことの最大要因になっていないか?
つまるところ、徹底的な現状維持の努力が、世界で唯一、「要素価格均等化定理」が効きまくっていることの原因なのである。

しかし、利権にむらがる政治家も、天下り先でおいしいおもいをしたい役人も、政府依存させることにこそ、旨味があるから、国民には甘言をいって、これをぜったいに手放さない。

そのために、都合のいい理屈が、「新古典派総合」という、社会主義・共産主義の経済理論なのである。

郷愁の「肉野菜炒め定食」

日本における「中華料理」のおおくが、「町中華」という進化をとげて、いかにも和食化したのは、外来文化を消化・吸収してしまう、おそるべき日本文化のなせる技でもある。

これは当然に、「洋食」というジャンルでもおなじで、「本場」にない料理があたかも外国発祥として扱われながら、じっさいは和食化しているのである。

たとえば、スパゲッティ・ナポリタンは、来日したイタリア人には「初見」となる料理で、ケチャップでパスタを炒めることの無謀に、最初は愕然としながらも、一口ほおばれば、その味の虜になりながらも脳内では混乱がしばし続くようである。

ぜったいにイタリア料理ではない、と。

これは、海外の日本料理店でも、あるある話になっているけど、たいがいの日本人は、それをけっして「うまい」とは感じないことに特徴がある。
「やっぱりちがう」ということに、妙に安心感をえるのだ。

しかも、海外で成功している日本料理店は、どういうわけか中国人とか朝鮮人の創業オーナーで、ほとんど日本人オーナーがいないのも、「テキトー」な料理を提供することに躊躇する、日本人の律儀さだと分析されている。

その原因の最たるものが、食材になる。

流通の発達が、昭和50年代程度でとまっているのがあたりまえの外国では、ということもあるけど、まず不可欠な新鮮な魚介類の入手が困難だし、鰹節や昆布といった日本料理の命となるダシの材料もない。
厳密には、「硬水」がふつうの外国でダシもうまくとれない。

ようは、食文化の素地がぜんぜんちがうので、ダシにいたっては、カツオ風味とかいう化学調味料を用いるしかないという妥協すら、日本人の料理人には許しがたいことなのである。

ところが、日本食の料理人の需要が高まって、賃金水準が格段にちがうようになったので、和食料理人の海外流出(出稼ぎ)が話題になっている。
年収にして5倍はちがうとなれば、たしかに、となる。

あたかも「出稼ぎ」といえば、短期のイメージだけど、あまりの賃金格差から、いったん出たら、めったに帰国できないことになる。
おなじ仕事をしても、日本では「喰えない」からだ。

ために、職人ほど英語やらの外国語習得が必要になっていて、文学や論文を読むのとはちがう、現場会話力の語学力なのである。
この需要に、わが国の学校教育は応じるはずがない、というへんな義務教育になっているし、「TOEIC」にはまるサービス企業も気づかないのは間抜けなだけか?

ときに、外国人富裕層が、健康によろしい日本食マニアの傾向があるから、お抱え料理人としての需要もある。
すると、あんがいと栄養学の知識が、料理人に求められるのは、外国人の合理主義が前提にあるからだ。

もちろん栄養学の基礎には、化学がある。

原子の組成から、電子の振る舞いを理解して、化学反応こそが料理の根本をなす。
どうやってダシをとるか?とか、包丁の技、はこれらの応用となるのだ。
すなわち、21世紀の職人とは、じつは化学や物理を基礎とする、「理系人」でないと務まらない。

そこにまた、食材という材料を供給する、第一次産業(農林水産業)の存在が必須なのである。

しかし、困ったことが二つある。

日本における第一次産業の衰退に、歯止めがかからないばかりか、促進させているのが政府だからだし、栄養学への疑問が存在する。
既存の栄養学のいう、食事療法がほとんど効かないのに、既存の栄養学を後生大事にした資格制度を維持しているのである。

これに、政治がからむのは当然で、学者のなかでの政治もふくまれる。

既存の栄養学が、既得権になれば、なにを好んで変える必要があろうか?
このとき、栄養学をべつの分野に置換すれば、たとえば、医学とか、がすぐ浮かぶのは、「公的健康保険点数制度」という共通にたどり着くからである。

ようは、料金体系が決まっているだけでなく、治療方法も決められているから、ここから逸脱することは、たとえ名医でも不可能なのだ。

それでもって、農林水産業も、先進国最低の自給率にするという政治だけでなく、肥料や農薬の原材料も外国から調達するしかないなかで、最大の供給国のロシアから敵国認定されて、行き詰まってしまった。

すると、「肉野菜炒め定食」が、食べられない、という状況になる可能性が高まっている。
定食の基本構成要素である、ご飯とみそ汁も同様だ。

価格が高騰するならまだしも、メニューから消えるどころか、町から食堂が消えるかもしれない。
原材料の入手困難と、ガスなどの不足がそうさせる。

人手を吸収している産業としてみたら、こうした政策は、底辺の劇的拡大という事態になって、世の中を不穏にするけど、それがまた、狙い、なのだ。

人間は、寝だめも食いだめもできないけれど、いまのうちに肉野菜炒め定食を気軽に食べられる幸せをかみしめておいた方がよいから、できれば小学生に教えておきたい。

しかも、栄養学的にバランスがとれた、いわば完全食なのだ。

いまの小学生に肉野菜炒め定食の記憶を焼き込めば、あと60年とか70年ぐらいは、「郷愁」として、語り継がれることだろう。
ただし、聴く側のひとたちが、それはどんな料理で、どんな味だったかを想像することもできなくなっているやもしれぬから「古代食」になるかもしれない。

「底辺女性史」の底上げはあるか?

映画やテレビドラマに出演する「女優」を「俳優」というようになったので、いまや出演者を指して、「女優と男優」という区別をするのは、アダルト・ビデオ(AV)の世界に限られるようになってきた。

そのアダルト・ビデオ業界も、いわゆる『AV新法』(22年6月23日から)によって、なんだか混乱している。

ことの発端は、新民法で決まった、「18歳を成人とする」ことだという。

要は、現役高校生がAVに出演できることが問題になったのである。
これまでだったら、出演契約を本人が単独で締結しても、親(いまでは「父兄」ともいわず「保護者」という)が、未成年を理由に契約解除を申し入れて、実際に合法的に解除させることができたのだ。

だから、製作会社側にとって、本人の年齢確認を事前にしっかりしておかないと、あとで損失になるから、かなりの出演防止のための効果があったのだ。
この自然の損得勘定による防止法に、強制を図ったのが新法なのであった。

なんだか、「家電リサイクル法」と似ているのは、どの省に属していようが、所詮は内閣法制局の目を通るので、どんな法案も「統一」される官僚制の性ではある。
自治体が始末してくれていた大ゴミやら、民間の「ちり紙交換」を絶滅させた、悪法(支配者にとってはリベート利権をつくった)とおなじなのである。

法制局にいわれなくとも、わが国の「優れた」官僚制度は、法体系の整合性をかならずとる、という掟を破らない。
なので、さまざまな法律を新規で制定するときに、過去の法律との整合性を壊さないようにも気をつかう。

このために、立法権が事実上、行政府の内閣に移転した。
その専門部署にして最強の部隊が、内閣法制局なのである。
検察官からなる、法務省ではないことに注意がいる。

内閣法制局には、各省庁からのエリート法務官たるキャリア官僚が「出向」してきて、自身の出身省庁担当者と法案の摺り合わせだけでなく、法体系上の整合性もチェックする。

これで、内閣法制局参事官以上の役職を連続5年以上務めた官僚は、退官後、弁護士登録ができるという特権までもっている。
ちなみに、司法試験を経ないで弁護士になるには、大学の法学部教授職を5年以上やると平成16年まではなれた。

それで、大問題になったのが、「2007年憲法改正に備えた国民投票法」だった。
ここで、国民投票ができる国民が、18歳以上になったのである。

どうして18歳以上にしたのか?は、よくわからない。
超高齢化と少子化という二大問題が、考慮の背景にあることは確かだろう。
けれども、この規定が通ることで、明治9年(1876年)の太政官布告以来の20歳成人との整合性が崩れたのだった。

ただし、この布告前は、武家の男子なら13歳くらいで元服式があったし、女子は初潮がきたらもう結婚適齢期だった。
なにせ、平均寿命が40歳とか50歳だったのである。

ついでに、「数え年」から「満年齢」にしたのは、明治6年の太政官布告だった。
とはいえ、これは法令上のことで、わたしの祖父(明治36年生まれ)は、生涯「数え年」がふつうだったし、メートル法ではなくて尺貫法でないとピンとこなかった。

さてそれで、ことが憲法に関することなので、成人を18歳に揃える、ということになった。
ここから、テクニカルな関係法の整備という、お役所仕事がはじまる。

つまり、「法」と「一般常識」との整合性を無視した乱暴を、いまも政府はやって恥じない。

ために、タバコとか飲酒は「20歳から」という、なんだかわからない「特例」になって、そもそも社会にとって「成人」とはなにか?の定義からぜったいに切り離せない、「責任」が曖昧になったのである。

これは、おそらく、原案を作る側のひとたちの「無責任」が表面化しただけで、こんな薄っぺらな人物たちが、知識としての法律をしっている、というお粗末になった。

だから、まさか底辺の「AV」のことなんか気がつきもしなかった、のではないか?
それでもって、慌てて「新法」をつくることにして、公聴会も1回だけしか開催しなかった。

ここに、いい悪いが逆転した、「優しさ」(の押しつけ)が、見え隠れする。

とにかく、AVに出演する女性は売春婦同様の保護が必要で、こんなものに出演していい気になっている男優は男の風上にも置けない愚か者だ、というエリート男性目線だけが見て取れるのである。
なお、エリート女性にもこの男性目線をもっているひとがいることがある。

すなわち、これは、いまどきの「底辺女性」対策法、なのだ。

しかし、とっくに社会は成熟から爛熟に移っていて、一つの価値観でしか行動できない政府の限界と、それがまた、弾圧になることの恐ろしさも気づいていない。
そして、わが国には「伝統的左翼」すら、雲散霧消したのか?と疑わざるをえないことにもなった。

伝統的左翼には、「労働」の概念に、売春もあったのだ。

これは、社会が総じて貧しかったことからの、「わかりやすさ」でもあった。
よくいう「女工哀史」がまだ高級(恵まれていた)だったのは、ふつうに「身売り」があったし、下手をすれば「間引き」されたからである。

その傑作ルポが、山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(1973年大宅壮一ノンフィクション賞)だった。

なお、このおなじ年には、いまでは入手困難な、『明るい谷間 赤線従業婦の手記』(新吉原女子保健組合編、土曜美術社)という名作もある。
ただし、こちらは吉原の最後のときだったので、「遊女」たちの教養はいまの国文科女子大生の比ではない。

この意味で、いまどきは風俗業勤務だからイコール底辺といえるのか?という問題にまでなっていて、かつての宿場町にふつうにいた「飯盛(めしも)り女」やら、江戸の共同浴場にいた、「湯女(ゆな)」と単純比較することはもうできない。

それでも、「新カラユキさん」や「新大久保のたちんぼ」が話題になるのも、昨今のわが国の貧困化の姿でもある。
しかして、人類最古の職業とされるものが、どこまで底辺なのか?という問題は、あんがいとあたらしいのである。

そんなわけで、とりあえず先進国の看板がまだあるわが国が、先進国で最大のエイズと梅毒の流行国になっている。

凄まじきは、そんな女性を保護する風情で、じつは利権の食い物にしている?ことが、ジワーッと話題になっていることだ。
こちらの悪質は、過去の悪の上をいく。

これを左翼がやっているらしいから、左翼も地に落ちたものだと感心するのである。

国家主権の放棄がESG投資

各国政府というのは、古い概念になってきている。
つまり、世界政府への主権の移動がはじまっている。

これが証拠が、ESG(E:Environment:環境、S:Social:社会、G:Governance:ガバナンスを意味する)で、国連で決まったSDGsの企業経営版にあたる。

SDGsの下に経済活動としてESGをおこなうことが、事実上義務づけられたのである。
国連加盟各国が、これに承諾して調印をした。

このことは、一部のひとしか指摘していないけど、国家主権の放棄を意味するほどの重大事だ。
この重大事が、あたかもなかったこととか、関係ないといった態度でスルーされている。

関係ないとは、国民の生活に関係ない、という意味にまでなるのだけれど、関係ないはずがない。
それどころか、直結していて、個人として逃れることができないし、個人がルールづくりに関与しないという意味でしかない。

かんたんにいえば、あきらめろ、ということの命令なのである。
誰からの命令かといえば、国連から、だから、国家主権の放棄なのである。
すなわち、国家は国連の下請け行政機関に成り下がったのだ。

これは、巨大なEUで、EUのEはヨーロッパのEだが、文字どおりUNの国連がその本性をあらわにした。
選挙を経ない官僚機構が、選挙で選ばれた各国政府に指令を出すのだから、これを世界共産化政府の樹立というのである。

北朝鮮は金日成バッジの着用を義務づけたけど、いまは、ESGに賛同する企業の社員たちがSDGsバッジを着用させられている。
これは、ESGを表明しないと、国際取引での排除を意味するからである。

つまり、ビジネス契約が継続もしくは、新規にできない。

あたかも、排他的な事業組合を、全産業に強要しているのである。
だから、全体主義である。
これら国際間取り引きのある企業の従業員は、この強制から逃れられない。

ここに、外国人も宿泊する旅館やホテルも含まれるし、外国人の利用がある国内交通機関も含まれる。
また、外国から肥料や飼料を買い付けている農業も、逃れられない。

賛同しない限り、売ってくれないし、買ってくれない。
とにかく、全産業、なのである。

それだから、投資会社は証券会社も、ESG関連株とかと称して「将来性」を謳って販売している。
「持続可能ですよ」と。

しかしてその「持続可能」とは、世界政府のことである。

国家主権を放棄したくない国や、いったん政権によって放棄した国でも政権交代したら主権を取り戻す動きになるはずだ。
このとき、国連はこうした国々に「制裁」をするのだろうか?

じっさいに、常任理事5大国のひとつ、ロシアは主権の放棄をしていない。
英国とフランスは放棄した。
中国は微妙で、アメリカはオバマ政権が放棄したのをトランプ政権がちゃぶ台返しをやった。

その恨みが、トランプ追放を画策したバイデン政権で、しつこくも共和党(トランプ派)は再度取り戻そうとしている。

EU内では、ドイツが放棄したけれど、ハンガリーは放棄を拒否した。
イタリアの現政権は、フランスを植民地支配を続けていると名指し非難して、いまや両国はにらみ合いを続けているけど、マクロン政権の基盤が揺らいでいる。

イタリアがいう、植民地主義とは主にフランスのアフリカ支配のことを指す。

1884年(明治17年)11月15日から翌年の2月26日まで開かれた、「アフリカ分割会議(「ベルリン会議」と誤魔化すこともある)」で、ヨーロッパ列強が、アフリカ大陸の分割を「決めた」のである。
仕切ったのは、ビスマルクで、当時のドイツは「第二帝国」だった。

もちろん、アフリカ人はひとりも参加していない。

これで決まった「分割地図」をみれば、どうしてベルギーがチョコレート大国なのかもよくわかる。
カカオ豆の産地をベルギーが抑えたからだ。

日本人も、チョコレートを食べるときにはアフリカ人の血と汗の苦味を感じるくらいの感性がほしい。

じっさいに、いまフランスが原子力発電大国なのも、フランスがとった北西アフリカがいまでも天然ウランの産地だからである。
イタリアはリビアとエチオピア・ソマリアの一部をとったが、この中心が「白地」なのは、ヨーロッパ人に免疫がない疫病の発生地帯だったからだ。

ムッソリーニのイタリアのリビア支配に反旗を掲げたオマー・ムクターとの死闘の実話を描いた一大歴史絵巻が、『その男ゾルバ』や『アラビアのロレンス』で有名な名優、アンソニー・クインが演じている。
けれども、ムッソリーニだけを非難してもはじまらない、全ヨーロッパ人の強欲がこの大陸を支配していたのである。

 

そんなわけで、いまどきはEUの統一だって、不安材料がたっぷりで、ことしはスペインで総選挙が予定されている。
昨年の2月の地方選挙で、いわゆる「極右」が大躍進して、ラテンの兄弟イタリアと歩調をあわせている感があるからどうなるか?

植民地主義を肯定するマスコミが書く「極右」とは、民族自決をいうひとたちで、アフリカ人の自立を認めて支援する側をいうから、やっぱり主要マスコミこそ過去の植民地主義が忘れられない邪悪で強欲なのだ。

3日に招集されるアメリカ連邦下院では、議長が誰になるのかの混沌があるように、主権を取り戻す共和党トランプ派と、主権を放棄する民主党と共和党のネオコンの争いが、内戦勃発を予想させるほどの緊迫を帯びてきた。

わが国は敗戦で、とっくに主権を放棄したので、誰が首相になろうが、なんど選挙をやろうが変わらない。
ただし、国民にも奴隷にされることに抵抗する小数派がいるので、すでに「奴隷の幸せ」を享受しているひとたちとの対立はこれから起きるだろう。

その奴隷になることの幸せ(な心理)を描いたのが、作者不明の『O嬢の物語』だった。
一応、ポリーヌ・レアージュ作となっているが、誰だか不明のままなのだ。

作品はあたかも「エロ」をもって表現しているけれど、自由を奪われることから積極的(主体的)に奴隷になることを選ぶ。
それこそが解放なのだという逆説の帰結は、あまりにも衝撃的で理解困難であった。

いま、人類はその理解困難な心理に落とし込まれる瀬戸際にある。
そして、『1984年』の主人公同様に、死を許可されることが示唆されて物語は終わるのである。

 

破壊工作は旅館業法へ

全体主義は、忍び足でやってくる。

日本人が、かくも政府を信用するのは、それが民主主義だからとかいうものではなくて、おそらく朝廷と徳川幕藩体制の完成度の高さがそうさせているにちがいない。

つまり、中央と地方という近代の視点ではなくて、各藩の独立経営が、しらずと「善政競争」を促していたことのメリットが資産化されて、それを食い潰してきたのが明治以降から現代なのだ。

なにしろ、藩内(これを「御領内」といった)で、一揆とか打ち壊しがあって、これを公儀隠密にでも暴かれたら、その藩をあずかる大名家が「お取り潰し」という目にあったのだ。

いまでいう「倒産」とか、「失業」どころの騒ぎではない、絶望の淵に追いやられるのが家臣一同一族郎党にまで及ぶ悲惨な運命になるので、「お家のため」という言い分で、無謀な殿様(主君)の「押し込め」がどちらの藩でも行われたのだった。

当然ながら、そんな殿様になっては困るので、幼少時より厳しい躾が養育係によって行われて、藩主こそが「滅私を強制されていた」のは、なにも大名家だけのことではなかった。

なので、庶民が滅私奉公に文句をいえなかったのは、将軍や殿様こそが「滅私」だったからである。
これを支えた哲学が、朱子学という「儒学」で、宗教としての「儒教」ではない。

あまりにも自分の好みをいえない殿様の窮屈な暮らしが、お笑い話になったのが、『目黒の秋刀魚』に代表される。
こうした話が欧米にないのは、「滅私」どころか、権力者ゆえの「好き勝手という意味の自由」が許されたからで、『シンデレラ』がその典型になるのである。

支配者になればなんでもできる。
これに一石を投じたのが、シェイクスピアの史劇『ヘンリー8世』で、元の題名は『All is True(すべて真実)』だった。

この英国史上最悪の王は、さいきんの研究で脳に障害があったというが、歴史を引きずる被害者たる国民の溜飲は下がらないし、納得は得られそうもなく、いま起きている歴史的インフレの人災も「伝統」なのか?と疑いたくなる。

また、欧米人の思想の原点に、旧約聖書があるけれど、全知全能の神に近づくことが、じつはこれらの宗教を信じるひとたちの欲望に転化したとも解釈されている。

なので、禁断の木の実を食べたがゆえに、楽園を追放されて一生労働しないと生きていけないようにされたことへの反動として、一生働かないで済むことが、「勝者=勝ち組」という思想になるのである。

さらに、これが強化されて、とうとう勝ち組が負け組を支配して当然、という発想になって、いまは、この発想で大富豪たちがまとまっている。
その根本となる、「勝ち組」を日本で宣伝する邪悪は、まったく日本人の伝統思想に反するものだ。

バブル真っ盛りの時期は、「楽しくなければテレビじゃない」と豪語して、これを、「ブランド化」したフジテレビが、テレビ業界に君臨するまでになったのは、教養もなにもかなぐり捨てて、すべてがエンタメだという割り切りに、国民が同調した「悲劇的な世情」をうんだ。

それで流行ったのが、『ラブユー東京』の替え歌、『ラブユー貧乏』を、とうとうご本家のロス・プリモスが録音するに至っている。
「おカネだけが生きがいなの~♪」に込められた真実とは、まさに、現世だけの刹那なのである。

つまり、「道義」を旨とした、日本文明が自殺した驚くべき軽薄が定着した証となった。
なお、「日本文明」は、トインビーあるいはハンチントンといった博士が指摘した、人類の至宝ともいえる文明のことをいう。

この知の巨人たちそれぞれが、「日本」について語ってもいる。

   

このブログでは、何度もハイエクの傑作、『隷従(属)への道』を紹介しているけれど、およそ宿泊業やら旅行業の経営者は、ハイエクの存在すらしらない知的レベルに堕ちていると断言できるのは、その「政府依存」を当然とする態度でわかるのである。

この知的怠慢は、まさに致命的で、別にハイエクは、『致命的な思い上がり』を書いている。
いま、この本の価格は、40万円を超えているというよりも50万円弱という方がただしい。

これこそが、需要と供給のバランスを視覚的情報とする「価格」の妙なのである。
これだけの金銭を出しても、欲しい、というのは、いったい誰なのか?

どうかんがえても、観光業(旅行、宿泊、飲食など)に関係するひとたちではなさそうなのだ。

それゆえに、政府の致命的な思い上がりは、とうとう「旅館業法」に、その魔の手を伸ばしてきた。

これが、「下地」は、「政府による旅行支援策」という名の「愚策」である。

旅行会社を通じて予約すれば、宿泊施設の宿泊料が「割引」になって「お得」です、ということの欺瞞は、平等を旨とす憲法に違反する。
似たものに、「地域お買い物券」もある。

こんな愚策よりも、少額・小率でいいから、「減税」をすればいい。

これをしないで、一定の国民・市民だけを対象にすることの意味は、政府に従った者への「ご褒美」だからである。
こうやって、餌付けして奴隷化を推進するのである。
だから、一方でムチとしての「増税」をすると、平然といえるのだ。

利用者は、自分の財布からでる金額しか興味がない。

政府の支援に有り難みはなく、むしろ、提示された割引後の金額が、その宿泊施設の価値だと擦り込まれるのだ。
しかし、損益計算書しか観ない愚かな経営者は、政府からの補填でなにも変わりはないとかんがえさせられていることに、疑問すら感じない。

最初は安く泊まれたとおもっていても、それが繰り返されれば「ふつう」になるものだ。

だから、政府の予算が尽きたり、政策としての賞味期限がきたら、宿泊施設の事情とは関係なく補助が終了する。
すると、消費者は、やたら高い宿泊料金だと認識することになるのを、経営者はどうかんがえているのか?

経営者は、「やめないで、捨てないで」と政府にすがって依存するようになる。

史上最大の「薬害」になるやもしれないなかで、パンデミック対応のワクチンパスポートを事実上導入しようと図る、旅館業法改定とは、移動の自由を制限する、全体主義の第一歩なのだ。

こんな憲法違反が、堂々と推進されることに、恐怖を感じるひとが少ないことに、よほど恐怖を感じるのである。

原点を確認する作業の重み

企業経営の原点はなにか?を問えば、それはかならず「創業の精神」にぶちあたる。

よく「精神論」をバカにするひとにであうけど、人間は言語(ふつうは母語)をもって思索し、その結果として行動することを社会的活動としている動物なので、思索の最深部にある、「精神」がこわれると、人格もこわれる。

それに、たいがいのことはひとりではできないから、分業社会になっていて、食料をつくる農業やらを専門にするひとと、鉱工業を専門にするひととかが、それぞれの分野で別々のものをつくることで、現代文明社会もできている。

そのどこかの一翼をになうのが、「会社」と呼ばれる組織で、個人事業者もこれにふくまれる。
なんにせよ、だれかと協力し合っていかないと成立しないのは、取引先も組織にふくまれるからである。

ふつう、自社の組織図をもって、自分の組織範囲とかんがえる傾向があるけれど、取引先の要望をすりあわせしてこれにあわせないと、得意先になってくれない。
だれもが、得意先をふやしたいとかんがえるのは、収入源がふえるからである。

だから、取引先とは、自社にとって組織の一部どころか、最重要な組織となっている。

このようにかんがえると、収入源がふえて利益もふえることをかんがえる「だけ」では、すまないことがわかる。
得意先が欲しがっているのは、そもそもなにか?をかんがえればわかる。

つまり、大袈裟ではなくて、自社の仕入れもしかりで、どちらさまも、「社会的価値」を欲しがっているのである。

製品やサービスとしての「商品」を買っている、というだけでは、追及があまい。
相手が自社の製品やサービスを買っているのは、自社でそれを内製するよりも、専門の他社から購入した方が「価値」があると判断しているからである。

その「価値」の測定方法が、「価格」という情報なのだ。

だから、自由競争社会での「価格」は、とてつもない情報を社会に提供している。
その「価格」をつくりだすメカニズムが、需要と供給だという原理は、なにも資本主義体制だけで機能するものではなくて、はるかむかしの物々交換の時代からあったろう。

みんなが欲しいとおもっているのに、その欲しいものが希少なら、かならず「価値」があがるばかりか、極端になれば、争奪戦がほんとうの戦争になって、なんと殺し合いになってしまう。

それが典型が、最初は「コショウ」だったし、おかげで原産地たる東南アジアは、ぜんぶ肉食の白人たちによる植民地にされた。
つぎが、「石油」で、同様にアラブやペルシャの産油国が平穏でいられなくなって、それがまたロシアになった。

いまは、「産業のコメ」といわれた、半導体もあるけれど、かつての覇者だったわが国が日米半導体協定なる罠にかかって、台湾企業の進出をしていただく状況にまで落ちぶれた。
おかげで、ひとりあたりのGDPで、とうとう台湾の後塵に拝するまでになったのである。

それで、最後の牙城が「自動車」だけど、日本の内燃機関の最高水準に対応できない欧米が、「EV」なるルール変更を仕掛けてきて、これに売国の与党が応じる展開になっている。

どこまでも、「敗戦」して衰退させたいひとたちがいる。
そんなわけだから、いまや政府のいいなりになっていると、潰される。

これに、産業界(財界)の気づきがどこまであるのかわからない、という不安がだんだん恐怖になって、子供をもつ母親世代とその予備群たる若き女性たちが「歴女(歴史ファンの女性)」になっているとおもわれる。

つまり、「原点探し」をはじめたのである。

必然的に、歴史を学べば「そもそも」をしることのおもしろさになって、それがまた「社会構造の理解」へとみちびく。
なので、そのうち歴女たちは、「神話」から、レヴィ・ストロースにたどり着くにちがいない。

この動きに、いまの浅はかで教養なき財界人は、おそらくついていけない。
政治家の絶望はいうまでもない。

『アマテラスの暗号』を書いた、伊勢谷武氏は元ゴールドマンサックスのトレーダーで、数々の社内での「世界的ルールづくり」を目撃してきた人物だ。
これをするひとたちの「頭のよさ」が、日本人の想像を超えるのは、「(ユダヤ人の)歴史の重みのちがい」だと気づいたいう。

生来から発想の鍛えられ方が、受験エリートとはぜんぜんちがう訓練なのだ、と。

さかのぼれば、明治維新の裏にある当時の外国金融機関の狙いをみたくなるし、豊臣秀吉がやったバテレン追放令の意味もしりたくなる。
わが国の戦後高度成長も、もしや奇跡ではなくて、何人かで描いた巨大な物語の一部にすぎず、なにもバブルだけで踊らされたのではないような気がする。

伊勢谷氏の次作は、聖徳太子を題材にするとの予告は、ペルシャとの関係(といってもユダヤ)が織りなすそうだから、いまから楽しみだ。
もはや、ペルシャもので古典になっているのは、松本清張の『火の路』がある。

一方で、『レイライン』三部作を書いた、榊正志氏は、いまでも現役エンジニアだ。
「草薙の剣」と「邪馬台国」のありかを、大胆にえがいている。
ところどころに、エンジニアとしての「科学的アプローチ」が見え隠れするのは、読者のわたしがエンジニアではないからわかる。

おふたりとも、よくぞここまでお調べになった、とおもうのは、戦後の歴史学会のポリコレを無視できる、部外者ゆえの功績だ。

「日本の原点」にまではなしがすすんで、これを歴女たちはしっかり受けとめるにちがいない。
それが、自身の子供の未来へとつながることを、もうしっているからである。

このことが、人間の精神をつくりだすのである。

いつまで経っても、自社の原点すら無視できることの浅はかを、主婦や若い女性に見破られることの恐怖をしらないでいることの平穏が、どれほどまずいことなのかは、経営危機におちいっても気づかないのだろう。

このおそるべき鈍感が、未来をスクラップ・アンド・ビルドするスピードを速めるのである。
もちろん、気づきのないひとはスクラップにされるのに。

国際スタンダードの偽善

世の中おかしな事ばかりが起きている。

日本政府のおかしな事は、ずいぶん書いてきたけれど、これは「自公政権」であろうが、「民主党政権」であろうが、大差なかったことへの国民の反省がぜんぜんないことに原因がある。

さらに、仕組みが巨大すぎて、なかなか全体像が見えない、ということも遠因にある。
その仕組みとは、人間の脳内にある「思想」を源泉にしてつくられるのもだから、目に見える事と、見えない事が混在するので、大きさだけでなくもっと見えにくい。

それが、何度もいう「グローバル全体主義=世界共産化」という思想で、むかしは貧乏を嫌った、でも自分で労働しない知識人たちが勝手に自己洗脳して、革命を夢見たものだけど、この中に、とんでもない大富豪たちがいたのである。

そのひとたちが、革命家に資金を提供したことが、眉唾でも陰謀論でもなく、証拠文書がでてきた。
なので、いまでは、ただ革命家というのではなくて、「職業人」としての革命家を指す。

すなわち、自身の思想はもとより、これで生活の糧を得るので、確実に「保守化する」というメカニズムが働く。
これをふつう、「保身」という。

なので、革命が成就しない状態が望ましいことになる。

しかし、それでは納得できないのが、資金だけなく組織やらも提供する、スポンサーとしての大富豪たちだ。
その「富豪」度合いが、グローバル化した世の中になって、過去にない巨大な資産と化した。

その中で、表に現れるのが「年収」という基準である。

日本で起きたバブル経済とその崩壊も、いまでは「シナリオ」を指摘するひともいて、それがまた、まんざら嘘とは思えない節がある。
一方それとは別に、世界の「富裕層」には、いつの間にか基準ができていて、それが「年収30億円以上」というものになった。

失われた30年を過ごしてきた日本人一般には、想像もできない金額だけど、このレベルのひとは、世界に万人単位で存在するのは、とっくに知られていたことだ。

それで、だれに言われたのかしらないが、日本政府も気がついたらしく、年収30億円を基準に所得税増税をすると決めた。
対象者は、たったの三ケタで、200~300人しかいない。
かつての実力からすれば、2万人ぐらいても不思議はないのに。

問題なのは、「増税」というペナルティーをかけることが、一般人への金持ちに対する「憎悪を煽る」ことをやって、その感情がどれほど卑しく、共産主義的かを隠すのである。

つまるところ、ジャパニーズ・ドリームは「悪」とする教育を行うのである。
だから、アメリカン・ドリームをいうトランプ氏が憎しみの対象になっている。

イーロン・マスク氏が解放した、Twitter社がやってきた情報操作のやり口が、つぎつぎと公表されて、とうとう、FBIとか、その上の司法省との結託が暴かれて、言論の自由を保障した憲法違反の事態だったことがアメリカ人に衝撃を与えている。

何度も書くが、憲法が規定するのは、「国家が対象」だから、FBIとか司法省の関与が、違憲となるのである。
これが、トランプ政権下でも実施されていたことに、驚きを禁じ得ない。

つまり、「政権を無視」する、官僚群の存在も確認されることになった。
この官僚群とは、日本の官僚制を手本にしてつくった「終身制のSES」のことをいう。
政権交代で数千人が入れ替わる政府職員を監督する立場の、超高級官僚群である。

もちろん、EUも、日本の官僚制を真似たし、中共も同様である。

歴史的には、「科挙」がオリジナルだけど、江戸期まで科挙を一度も採用しなかった歴史のあるわが国で、「近代化」の名の下に「高等文官試験」という科挙制度を導入し、これを常態化させた。

しかしながら、科挙に合格した超高級官僚群は、「国際機関」という名の「役所」にも入り込んで、国家群を支配するのである。

これが典型は、EUだけれど、すべての国際機関がこれにあたる。

たとえば、IATA(International Air Transport Association:国際航空運送協会)は、「One ID」なる、デジタル統一書類を導入して、搭乗の便を図るとしたけれど、一方で個人情報の統一管理につながる重大事にもみえる。

これが、デジタル・ワクチン・パスポートと連携して、さらに、本物のパスポートもつながれば、はたして「旅行の自由:移動の自由」を制限できるようにも応用できる。

そして、究極が、デジタル・通過だ。
国家などによる個人の生殺与奪が、うそみたいに容易になるのだ。

そんななか、ノー天気なわが国財界は、二度目の「酒屋」をトップにするという人材不足に苛まれている。

最初は、アサヒビールの樋口氏だった。
けだし、世界的に有名なシェア奪回の立役者は、樋口氏の前任だった村井勉氏だと、ハーバード大学ビジネス・スクールの有名な教科書「ケース・スタディ」にある。

樋口氏や村井氏を、あるいは新浪氏を云々したいのではなくて、どうして財界代表が「酒屋」なのか?をもっとかんがえたほうがいいといいたいのだ。
この人事をよろこぶひとは、たぶん「偽善者」なのである。

日本経済は大丈夫なのか?
いまの子供は、遠くない将来、どんな就職をするのか?

田舎の料理動画の共通

アゼルバイジャンの田舎でひたすら食事を用意している動画が、すさまじい再生回数を稼いでいる。
しかも、撮影者は家族とおぼしきひとで、その4K映像の美しさもさることながら、さりげない「日常」の風景が絶妙なアングルで撮られていて、観ていて飽きない。

たとえば、窓に飾られている花とか、犬やニワトリなどの様子が、料理支度の合間合間に挿入されていて、その場の雰囲気があくまでも第三者的な目線でつくられている。
そのセンスが、素人とはおもえない。

ただし、ひたすら料理を作っている映像なのに、どういうわけか、「生活感がない」のである。
それに、「せりふ」がない。
無声映画ならぬ、無言動画なのだ。

さらに不思議なのは、洗濯物がないことだ。
撮さないにしても、物干し台も確認できない。
それに、家の敷地内に、やたらと「かまど」があるのだ。

気分かどうかはわからないけど、これらのかまどを万遍なく使っているのは、回を重ねてみているとよくわかる。
最後まで観ないと、なにを作っているのかもわからない。
ただ、出来上がって食べ始めると動画は終了してしまう。

こんな動画が、どういうアルゴリズムなのかある日出てきて、何度も観ているうちに、似たような動画がまたでてきた。
それが、どうやらアゼルバイジャン国境のイラン側のものと、西に翔んでウクライナの山中に暮らすひとの「料理シリーズ」なのである。

アゼルバイジャンとは、「火の国」という意味だ。
天然ガスが岩から漏れて、これにどうやって着火したかはしらないが、少なくとも数千年間燃え続けている場所が、天然記念物として有名な観光地になっているという。

それが、人類初の啓典宗教を生みだして、「ゾロアスター教」になった歴史がある。
人間の営みは、この周辺の地形がシルクロードの要衝だったことから、住んでいるひとの都合とは関係なく国境をわけた。

それで、アゼルバイジャンよりもイラン側に住む「アゼルバイジャン人」が多いという複雑がある。

だから、動画内で「イラン」とか「アゼルバイジャン国境」という場所の表示があっても、民族としてのペルシャ人ではない、国境で分断されたひとたちがつくる料理が、観ていておなじなのに気づいた。

ちがうとすれば、日本における郷土料理ほどもないちがいで、群馬のうどんと埼玉のうどんといった感がある。

これが、いわゆる「種(イースト)なしパン」の場合の「おなじ」にみえる。
しかし、「種なしパン」のふつうがある地域は、北アフリカのエジプトもおなじだから、おそるべき「おなじ」があるのである。
ウクライナでも、種なしパンを焼くシーンがある。

もちろん、このパンについては聖書にも記載があるものだ。

だから、地図上の平面だけではなくて、時間の奥行きもふくめて、おなじ、なのだ。

そうはいっても、種なしパンだけがパンではなくて、ちゃんとイーストをいれて発酵させるパンもつくる。
赤身の牛肉と羊のボンジリ脂を包丁で叩いてつくる、ハンバーガーは、ちゃんとバンズから焼くから、みていてぜったいに美味いとわかる。

調味料は、塩とコショウ、それにターメリックがたまにはいる。
極めてシンプルなのである。
横浜にあった、「夜逃げしたペルシャ料理店」の美味さの記憶がよみがえる。

カスピ海を東に越えて、ヒマラヤの南縁にある、ブータン料理は、塩とコショウ、これに唐辛子と山椒を組み合わせた、といってもこれだけの調味料なので、たいへんわかりやすい味だ。
ただし、唐辛子と山椒が効いているから、総じて辛い。

アゼルバイジャンでは、唐辛子がないのではなくて、いがいと多用しないのだ。
そのかわりに、ターメリックをつかうので、おそらく「やさしい味」に仕上げているとおもわれる。

一方で、戦争中であることを感じさせない、ウクライナの山中とは、いったいどこなのか?動画では一切の説明がない。
日本のような、ただしそんなに険しくはない、中腹の村といった感じの場所に家がある。

これら三カ所は、水道もない場所にある。
井戸か湧き水から汲んできている。
そして燃料は、かならず「薪」だ。
しかも、マッチ1本で薪に直接火をつける。

この大量の薪を、どうやって調達しているのかも不明だ。
ただし、「斧」は必需品なので、女性といっても扱い方に年季がはいっている。

むかし、日本に暮らす外国人が、日本のお土産を故郷に持ち帰る番組があって、モデルをしているモルドバ人が、ウォシュレットと日本製の斧を持ち帰ったのを観た。

母親の面倒をみてくれている伯父さんが薪を探しにでかけたときに、土産の斧の切れ味に驚いて、「日本人はこんなすごい切れ味の斧をつかっているのか?」という場面が印象的だった。
電気とガスの生活だといっても、想像を超えているだろうから、「そうね」といって話題を変えたこのひとは、日本人的な配慮ができるようにもなったのだろう。

それにしても、なにを料理しているのか?出来上がってもそれがどんなものなのかがわからないものもある。

まだまだ、世界は広いのだ。

二次元で生きている

ハッとする名言を、懇意にしている飲食店の社長が吐いた言葉である。

二次元とは平面のことだ。
接客サービスをする、お店の平面でしか思考がない、という意味だ。
あるいは、そんな平面での業務をどうやって廻すのか?に集中している、という意味でもある。

なぜならば、この店は、大繁盛店で、都合がいい日時を指定したいなら、ぜったいに予約しないと入店できないし、その予約も困難なのだ。
これを一家4人とアルバイト2人とでやっている。
なお、調理場の人数はべつだ。

接客要員が6人で、よくもこの席数の面倒を見られるものだと感心するが、ムダな動きがないばかりか、見事といえる阿吽の呼吸が揃っている。
短期のはずのアルバイトも、一人前の働きをするのも見事なのだ。
学生さんだから、どんなに長くても4年で引退してしまう。

つまるところ、この流れるような活気ある接客を、客は堪能しにやってくるのではないか?

ウェイター、ウェイトレスなんて、消耗品だといってはばからない経営者にであったことがある。
学校の成績が悪くて、進学できないで就職してくるのだから、我が社は掃きだめのようなものだ、と。

ならば自分でウェイターの仕事をしたことがあるのか?と質問したら、自分は経営者だから、そんなことはやったことがないと豪語した。
けれども、経営状況の改善をしたくてわたしに依頼したのだから、その原因を実態から分析するのは当然となる。

そうして、なんやかんやの後、敵情視察と称してこの社長がいう「凄い店」を見学に行った。
それはまるで、上記の店のような大繁盛店で、上記のように流れるような接客をしているのだった。

すると、この店には優秀な従業員が集まっている。
どうやって集めているのでしょうね?というから、店長に直接きいた。
「ふつうに募集しているだけ」とのこたえに、ぜんぜん納得しなかった。

それで、こんどは一番若いひとに目をつけて話をきいたら、店長や先輩たちがいろいろと細かく教えてくれるから、安心して楽しく働いているとの回答だったのだ。
しかも、ちゃんとしていて少しもぎこちなさがないのに、3ヶ月ほどの経験しかないという。

もう一度、店長に聞いたのは、社長は誰か?ということだったけど、案の定、店長が社長だった。

そんなわけで、困った社長に、接客体験をしてもらうことになった。
「接客なんか簡単ですよ」とうそぶいて、いざやってみたら、なにがなんだかわからなくなって、挙げ句にお客から煽られる始末だった。

以上は、平面にもならない、一次元の「点」の思考をしていたひとの例である。

しかし、「二次元で生きている」といった、冒頭の社長は、ほんとうは「三次元や四次元でかんがえることに憧れる」と話すのである。
当然ながら、三次元は「立体」のことであり、四次元には「時間」がくわわる。

人間は三次元で生きていて、四次元の世界はタイムマシーンがないかぎりどうにもならない。
だから、「時空を超えた」四次元は、思考の世界でしかないのである。

接客業にとって、「いま」だけをかんがえるのに、ふだんは平面しかないけれど、この世界の「いま」は、三次元だ。
たとえば、食材だけでも、地上のものと、海の中のものがあるし、高騰しているエネルギー・コストをかんがえたら、途方もないことになっている。

けれども、途方もないことだからかんがえることに意味はない、ということが嫌だといいたいのが、この社長の思考と欲求なのである。

そんな途方もないことを意識しながら、平面で生きているのだ、と。

だから、このひとは、いまの世の中が、途方もない方向へ向かって突き進んでいることを、途方もない不安の目で見ることができている。
「たかが飲食店のオヤジ」ではないのだ。
むしろ、話があうオヤジであって、なお、わたしよりまだ若い。

なにか途方もなくて、世の中がわかる話はないですか?といつも聞かれるのは、わたしにとっても、途方もない。

それで、このブログでも書いた、『ビルダーバーグ倶楽部』を紹介したのは、蔵書としている横浜市立図書館が目と鼻の先にあるからだ。
おそらく予約しても、すぐには借りられないけれど、気長に待って、忘れた頃に貸出の案内が来る方が、一層の途方もなさを理解できるだろう。

もちろん、世界も日本のマスコミも、メジャーなところはほとんど、この「倶楽部」の傘下に収まっている。
さほどの「大富豪たち」が、「言論」を買い取っている。

かつてできなかったのは、「大富豪」にも限界があったからだけど、世界をまたぐグローバル大企業の出現で、金持ちのレベルが人類史級にアップグレードしたことが「原因」なのである。

ゆえに、独占禁止法が、無力化してしまった。
この法律の適用をさせないための「おカネ」が、とうとう裁判官にも及んでいる。

すると、われわれは、ほんとうに二次元の世界だけに押し込められてしまうのか?という瀬戸際に、いま、あるのである。
不思議なことに、これを求めるひとたちが、あんがい多数になっている。

「SDGsバッジ」を襟に付けて歩いているひとが、それ、だ。

きっと将来、このバッジ(あるいは生体)にチップがついて、行動を監視されるようになるのだろうけど、つけないひとは、電子通貨が使えない、という処置をうけて、社会から排除されるにちがいない。

電子通貨こそが、人類支配の最終兵器なのである。
これを、倶楽部は「公言」しているので、念のため。

「地銀」の存在価値

全国の県庁所在地に本店を置くのが、地銀:地方銀行だ。

わが国で、銀行業をはじめて始めたのが、渋沢栄一であったけど、明治政府から頼まれて設立した経緯がある。
なので、「第一国立銀行」という名の、民間銀行第一号になった。

なお、どうして「Bank」を「金行」といわず、「銀行」というのか前に書いた。

ただし、社名に「Bank」と書いていなくとも、「金融業」をやっていれば、それは「広義の銀行」だから、第一国立銀行がわが国で最初の銀行ではなく、まだ江戸時代だった横浜に開業した、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」がこれにあたる。

大桟橋の付け根、「開港広場前交差点」のシルクセンター側の角が「跡地」、すなわち、「英一番館跡」がそれだ。
当然ながら、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」が、わが国にやってきた「外資企業」のはじめてだから、「英一番」ではなくて「世界一番」だった。

とはいえ、大英帝国が「世界」でもあった時代だ。
それで、「英一番」には、「世界一番」の意味がある。

では、「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」は、どんな「金融」をしていたかといえば、「貿易決済」であって、「小切手」を扱っていたのである。
鎖国していた江戸期には、世界一「内国為替」が発達していたために、小切手は日本人にはなじまない。

いまだに、日本人になじまないのが「小切手」だから、これはもう、「文化のちがい」の典型例となっている。

それにしても、「ジャーディン・マセソン商会」といえば、「阿片貿易」が連想される、悪名高き会社である。
しかしながら、よくよくかんがえれば、「大英帝国」が大英帝国ならしめたのが「阿片」によるかんがえも及ばない「莫大な利益」なので、ジャーディン・マセソン商会とは、「大英帝国の本質」といって差し支えない。

つまるところ、よくいって「経済やくざ」なのである。

だから、横浜での事業の本業が「貿易決済」だといっても、中身については「ヤバイ話」があっても、ぜんぜんおかしくない。
そんなわけで、横浜人は、アジア人に厄災をもたらした大英帝国の本質たるこの会社の所業を決して自慢してはいけないのである。

ついでに、『ロビンソンクルーソー』も、阿片貿易で富を得て、日本を目指す旅をするけど、台風に阻まれて断念するという話になっている。
さほどに、当時の英国人は「麻薬」だろうが何だろうが、自分だけ儲かればなんでもよいという「道徳観」がふつうだった。

すると、このどこに、マックス・ヴェーバーがいう「資本主義の精神」があるのか?はなはだ疑問なのである。
これが、わたしが「資本主義は未来のシステムだ」という、アイン・ランドに同意する理由でもある。

「ジャーディン・マセソン商会」が、「物(ブツ)」を中心としたのに対して、本業で「カネ」を扱ったのが、「HSBC:香港上海銀行」である。
阿片貿易の決済は、HSBCなくして語れない。

すると、横浜にHSBCよりも早くにやってきたのは、それなりの「先見の明」だったのか?それとも、HSBCと話を付けた先遣隊だったのか?

そのHSBCも、個人相手の業務はとっくに日本から撤退した。

アジアとヨーロッパを接続する、一大国際ハブ空港になった、トルコのイスタンブール空港には、HSBCに個人口座を持つひと向けの「ラウンジ」があって、この銀行が発行するクレジット・カードを見せると利用できるようになっている。

「金商法:金融商品取引法」ができた2007年(平成19年)、この法の裏目的にある「キャピタル・フライト(円資産の海外流出)防止」のために、日本人は、HSBCのような外国銀行に、外貨預金口座を個人名義で開設できなくなったのである。

よって、空港ラウンジすら、つかう権利もない。

「金解禁」という、もっぱら国内事情(じつは「グローバリズム」)による政策で、昭和2年にはじまる「昭和恐慌」のため、だれでも設立できた銀行がバタバタと倒産した。
「世界大恐慌」は、その2年後の、1949年のことに注意したい。

これから徐々に、国家総動員体制となって、県庁所在地に一行だけという地銀体制ができて、いまに至っている。
ちなみに、東京は特殊だけれど、「富士銀行」が、事実上の都にとっての地銀で、「みずほ銀行公務部」が引き継いでいる。

「国内」ばかりか、「地域ローカル」という営業許可の範囲しか自由を与えられていないのは、トラック運送業やバス・タクシーとおなじ国による社会主義経済の構造だから、貸出先の地元に資金需要がなくなると、「貸金業」としての根本価値が危うくなる。

これが、地銀同士のグループ化になって、アメーバの結合のようなことになった。

けれども、効果が「足し算」にすぎず、経営統合の文言にしている「相乗効果」すなわち「掛け算」にならないのは、預金の「運用」ができないからである。
それで、どちらの地銀も、外国債券投資しか低リスクで高利回りが期待できないので、これに走ったのである。

バスに乗り遅れるな、という横並びを嗤えないのは、「追いつめられた」からでもある。
この「雪隠詰め」の恐ろしさを、地銀が教えてくれていて、蟻地獄のごとく脱出できないのは、かつての自由主義経済の教科書通りなのである。

といいつつ、悲惨なのは、およそ「機関投資家」として、外債の専門ディーラーも育成してこなかった「国内だけの事情」があったので、社内昇格するお偉いさんたちにも外債の知識なんかない。

だから、外国の証券会社を通じて、「投資信託を購入する」という、ほとんど個人投資家とおなじことを、ただケタ違いの多額でやっている状態になったのである。
それがいま、円安で巨大な含み損の資産になってしまった。

なんだか哀れだけれども、これをどうすることもできないのが、「金融行政」という、どうにもならないことがある。
なので、マスコミは、地銀があたかもバカのように批判するだろうけど、もっと巨大な、エリート気取りのバカがいることを書かないのである。

ジャーディン・マセソン商会がやっていたことも、大英帝国がやっていたことも、書かないのとおなじなのだ。

構造がおなじ、他業種はこれをどうみている?