記者会見とワイドショー

グローバルダイニング社が、とうとう東京都を訴えた。

ネット上で、評価できるのは「TBS NEWS」だけが、会見の様子を「編集なし」でぜんぶをアップしていることである。
とはいえ、33分程度の短さだから、これは業界関係者ならずとも、一般人だって「観るべき」ものだ。

その理由は単純で、戦後最大の「事件」が、コロナ・パンデミックだし、この対策にまつわるまっとうな「反抗」であるからだ。
にもかかわらず、報道他社の対応には誠意がみじんもない。
せいぜい「3分」程度にまとめているけど、「まとめ」になっていないのだ。

法律論では、憲法における「言論の自由の侵害」も提訴理由に挙げている。
このことに「言及しない」のは、報道の対極にある「ワイドショー」であった。

「損害賠償」という狭い世界でのはなしにしたい。
そんな「要望」が、出演者たちに指示されて、「敗訴」をにじませたムダな抵抗にしたいらしい。
「支持」ではなくて、「指示」である。

だから、日本人は、ぜったいにワイドショーを観てはいけない。

あいにく、テレビがないから、念のためにチェックしたワイドショーも、そのままぜんぶを編集なしでネットにアップしているのを観たのである。

誰かが録画してネットにアップをしても、すぐさま削除させるから、NHKの放送はネット上でも観ることはできない。
受信料を払っていても、オンデマンドだって有料なのだ。
二重請求ではないのか?

グローバルダイニングの社長は、業界仲間と一緒に訴えることも模索したらしいけど、かなわなかったという。
ある意味、業界の「ふぬけ」を曝露した。
しかし、かれのいう業界とは、飲食業界のことだろう。

6万円/日のお金がもらえて、「助かる」お店と、「はなしにならない」お店がある。
経営規模による対応策に差がないのは、行政側が仕組んだ「わざとの分断策」であるのに、「緊急で時間がなかった」という言い訳がまかり通っている。

日本の官僚がその気になれば、どんなに細かいことだってやり遂げるのに。

飲食店よりもっと「密」な、理美容やマッサージなど、いっさいの補償がない業界は、じっとガマンするしかない。
「中小零細企業」が、どんな就業分布なのかを政府がしらないはずはない。

つまり、見殺し、という結論を導いたのである。

それは、ウィルスに罹患することでの「見殺し」ではなくて、社会的抹殺という意味での見殺しである。
今回の提訴理由で、トリガー(引き金を引いたきっかけ)となったのは、「時短命令」発令理由として都が文書でしめしたことが、言論の自由に抵触するのである。

SNS等で、「時短要請に応じない」ことを拡散し、他社に悪影響(応じないことの拡散)を及ぼす恐れがあるから、当該店舗を経営する会社に発令したのだ、と。
すなわち、社長がいう「みせしめ」なのであって、これは、「見殺し」ではなくて、積極的に営業妨害する、という権力の濫用のことだ。

そこで、社長は、命令の「科学的根拠の提示」も求めている。
「立証責任」は、命じる側にあるからである。
このことは、重大である。
なぜなら、科学的根拠はほぼない、とかんがえられるからである。

すると、都は国への責任転嫁を図ることになるだろう。

しかし、国は国で、都がいう「病床の数」が、国家基準でなく都の独自基準だったことを盾に、言い逃れを図るにちがいない。
緊急事態宣言の発令根拠は、「病床の不足」による、「医療崩壊の回避」でしかないからである。

このことから、本提訴の「狙い」がわかるというものだ。

国と都を「分断させ」て、どちらも「論理破たん」に導くこと。
損害賠償として請求したのは、「104円だけ」なのは、こうした「狙い」からすれば理解できる。
そして、狙い通り論理破たんが明らかになると、雨後の竹の子のように、いっせいに訴訟が起きることだってありえる。

ドイツで200兆円の集団訴訟(テドロス氏ほかへの「個人賠償責任訴訟である」)が準備されていることの日本版である。
そうなると、たとえば尾身氏とか、大臣としてではなく個人としての西村氏とか、おなじく日本医師会の会長個人とか、さらにワイドショーで煽った専門家とかプロデューサーが、相手になるかもしれない。

なるほど、それでワイドショーは、この提訴をあくまでも「損害賠償訴訟」として扱って、「敗訴」してほしいと要望しているのだとすれば、つじつまがあうのである。

ならば、この裁判は、今後のニュースでもちいさく扱われることになる。
これを、「弁護団」はどうするのか?
一方で、個人賠償責任がとわれる可能性がある立場のひとたちは、とにかくパンデミックを拡大しないと自分たちがやばい。

そんなわけで、国は解除したけれど、ますます国に依存する県などは、これを援護するべく、ちいさな数字を巨大化させて、できるだけ大袈裟にしようとするだろう。
そのご褒美は、国からの「予算(予備費)」なのである。

さっそく、宮城県が?

追伸:
グローバルダイニングでは、裁判費用支援のクラウドファンディングもはじめていて、サポーターは、1800人をこえて、すでに目標額(1千万円)を達成した。
けれども受付はおわっていないので、念のため。

「やめられない」ことの本質

「惰性」のことである。
わたしはをこれを、「社会的な『慣性の法則』」と呼んでいる。

「慣性の法則」は、物理でいう「運動の第一法則」といういい方もある。
『物体に力が働かない場合、物体は静止し続けるか、等速度運動する』。

結論を先にいえば、社会的な慣性の法則がはたらいて、「自己目的化」する。
これが、「やめられない」ことの本質だ。

たとえば、わが国には「NHK問題」がある。
このための「政党」だって複数設立されて、国会議員だっている。
国営化とか民営化とか、むかしから議論はかまびすしいけれど、ぜんぜんそうならないし、NHK自体はこの間もしっかり肥大化している。

「受信料」が問題になるのは、いまでは納得できない強制ばかりか、強引な契約勧誘があるからだ。
さらに、ネット環境が「受信料請求の根拠」になりそうな雰囲気が漂っている。

しかし、ことの本質は、「存在の自己目的化」なのである。

きっぱりいえば、「廃止」がもっとも望ましい。
その上で、どうやって解体し、残余の資産を受信契約者に返還・分配するか?が問われるのである。
ために、「オークション」をすればいい。

とくに番組コンテンツは、ひとつずつオークションにかければいい。
さすれば、数年もかからずに、「NHKの番組」という記憶も消え去るのである。

こうしてかんがえると、「白紙化」という作業は、あんがいと「生産的」なのである。
この効果を狙って、「業務(仕事)の棚卸」をおこなうことがある。
そのために、「業務フロー図」を書き出すことが有効とされている。

たまにでも、定期的でも、職場ごとに「業務フロー図」を書くのがいい。
初めてのばあいには、驚くほど時間と手間がかかるので、経験者はだれもが「驚く」のである。

毎日やっていることを紙の上に書き出すだけの業務フロー図が、はたと止まって「書けない」ということの発見が、実はおおきな「気づき」になる。
これを見た経営者が、唖然とするのは2パターンある。

1:うちの従業員はバカばかりだ。
2:なんてこった。これは経営がなっちゃいないということだ。

だいがいは、「1」のパターンである。
そんなひとほど、経営者としての自分の業務フロー図をまったく書けない。
それにはもっともらしい理由があって、「ルーチン業務がない」すなわち、定式化できない、というのも「パターン化」されている。

しかも、書く気もないから、書く前に上記の理由をあげて、ぜったいに書こうとしない。
直感的に、書けないことがばれるのを畏れるからではないか?とおもわれる。

そんなわけで、ほぼほぼ確実に、業績不振が恒常化している企業や、業績は悪くないけど社内の人間関係がなんとなくうまくいかない会社の、典型となるのである。
そして、やがて悪くなかった業績に陰りがやってくるものだ。

これぞ、「惰性の経営」なのである。
経営者が会社経営に、「影響力」という「ちから」を行使しないので、物体ならぬ「組織」が、完全に「運動の第一法則」に従うことになるのである。

こうしたばあい、経営者個人のかんがえも、たいがいが整理されていない。
ようは、「なにをしたいのか?」という、運動のもとになる思想がない。

人間行動のエネルギー源は、動物としてのエネルギー源である食べ「もの」のほかに、欲求という脳がもとめる「こと」がある。

日本語だと、「もの」と「こと」が、妙に曖昧になるのは、日本語は目的語の語順を問わないからだともいえる。
この点、英語などは、日本語の「助詞」にあたることばがない代わりに、語順がその役を担っている。

もっといえば、日本語は主語からして、ぜんぜん語順を気にしない。
どんな語順であろうとも、意味がおおきく変化することはない。
ところが、おおくの外国語は、そうはいかないのであって、語順に「厳密さ」がもとめられる。

だから、「ひと」⇒「もの」という順番が固定されている。
人間が「もの」やら「こと」を、かならず制御するという、言語的な特性は、そのままその言語を母語とする人間の思考パターンなのである。

歴史学の大家トインビー博士が、世界文明の分類に、「日本文明」を独立して示したことの背景には、こうした言語特性もふくまれる。
これを、トインビー博士の日本贔屓と解した日本人学者がいたのは、悲喜劇であった。

すると、曖昧さの良い点をもっと意識していいのだけれども、その前に、他文明との「ちがい」をしっていないといけない。

どうやら、「慣性の経営」が、わが国をとりまく人たちとの競争で不利になるなら、それを改めるのはきわめて重要なことになる。
しかし一方で、上記の「2」だって、立派な気づきなのである。
江戸時代の大店の主人でも、きっと気づくことだろう。

すると、こないだ書いた、自分の考えを整理するマインドマップが、やっぱり「便利」なのである。

緊急事態宣言は解除になったけど、かならず「惰性の政治」は続くから、じっくり観察することも、マインドの整理に役立つのである。

「勇者」の登場

ここにきてようやく、勇者が登場した。

すでに、1月には、時短要請に応じない旨を公表していたけれど、グローバルダイニングの長谷川耕造社長は、「弁明書」を東京都に11日付けで提出した。
対して、都知事は16日、「命令に関する事前通知」をだして、「命令」発令を予告した。

大バトルの開始である。

そして、タイミングを計ったかのように、政府は緊急事態宣言の再度延長をせず、「解除」方針を決定した。
もちろん、相変わらずろくな「データ」も公表しないでの、「解除」だから、都を責めて国を責めないというわけにもいかない。

ただ、これまでの「文書」を読めば、長谷川社長の主張の論理は、筋が通っているのは当然だ。
なにしろ、相手は、ただの「権力行使」をしたいだけのひとたちで、科学的根拠はどこにもない。

初期のころ、「パチンコ店」がやり玉にあがって、法律もない状態で強権を発して、それがなぜか「喝采」された、弁護士出身の大阪府知事がいたけれど、いまだパチンコ店での発症事例もクラスターもない。

もし、新型コロナというウィルスがほんとうに存在するなら、パチンコ店は、かなり「安全地帯」だ、と判断するのが科学的である。
ただし、パチンコ店がふつうに街にあるという「異常」とは、べつの議論である。

いまに至っても、「コッホの4原則」があたらない、唖然とする状況はかわっていない。

1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離(培養)できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること
※「微生物」にはウィルスを含める

この4つぜんぶを充たして、はじめて「感染症だ」と結論づけるルールがあるのだ。

今回の世界的騒ぎでは、ひとつも充たしていないという事実がある。
ようやく、1番目について、肺炎患者から採取したという「肺にたまった液」からみつけた、コロナ・ウィルスを「ゲノム解析した論文」を根拠にしている「だけ」なのである。

したがって、わかりやすい評価としては、「0.5」が妥当である。
にもかかわらず、「変異」とかいう。
オリジナルの特定も、分離もできていないで、なにが「変異」か?
もう、科学者が世界から絶滅した。

ワクチン製造には、2. が必須だから、いったいなにを「培養」してつくったものか?
ところが、旧来の方式でつくっている、アストラゼネカのそれが、各国で「使用禁止」になっている。

すると、ファイザー社製のメッセンジャーRNA阻害「新薬」が、唯一の「ワクチン」になってしまった。
陰謀論者でなくても、「あやしい」とおもってしまう。

日本政府は、アストラゼネカのものも大量購入しているけれど、「やっぱやめた」としたら、その損害はどうしてくれるのか?という、カネの問題にもなるのである。

これらは、ぜんぶ、いい加減な「病気認定」を基にしている。
ここに、科学の「かの字」もないのだ。
むしろ、「意図された情報」という、ひとびとの「脳=思考」を惑わす「情報ウィルス」が、がぜん危険な「蔓延」をしてしまった。

たとえば、温暖化だって、地球の「熱」のことだから、山本義隆『熱学思想の史的展開』といった名著を手に取って、「熱とはなにか?」ということをしるべきだ。
人類は、「熱」をとらえることに、たいへんな苦心をしてきたほどに、あんがい「熱」とは難しい概念なのである。

  

ちなみに、山本氏には、『磁力と重力の発見』という、これまたすごい解説がある。
「魔術」だった磁石が、物理現象の「磁力」として解明されていく。
ましてや、「重力」を意識することの困難さは、現代人だってかんたんに説明できやしない。

これを、「専門」というのである。
難しいことを、易しく説明してこその「専門」であって、難しいことを難しく説明することではない。
ましてや、ごまかして説明したら、専門職の倫理にもとる。

グローバルダイニングの長谷川氏は、ここを突いているのだ。
「似非科学」を基礎とした、驚くべき「茶番」が世界で起きた。
けれども、「論理」を基にすれば、その「邪悪さ」が解明できて、反抗もできるのである。

これこそが、「職業倫理」というものだ。

つまり、今回のバトルは、職業倫理と政治倫理との激突なのである。
これに、業界人は一斉蜂起しないのか?
労使ともども、「職業倫理」をかざすことで、世界にアピールするチャンスであるし、客たる一般人も同様だ。

まさに、日本政府も東京都知事も、グローバリズムをむき出しにしている、「DS(ディープステート)」の側に立っていることが判明した。

化けの皮がはがれたのである。

アメリカでは、3人の大統領経験者がそろって「ワクチン接種キャンペーン」をやっている。
クリントン(民)、子ブッシュ(共)、オバマ(民)だ。

子ブッシュは、「ネオコン」である。
「新しい保守」とは、武器商人と結託した、という意味だから、民主党の主流とおなじで、戦争をしたいひとなのである。

ここでも、化けの皮がはがれたと話題になっている。

社名にある「グローバル」が、玉に瑕ではあるけれど、このバトルは、国内だけの小さなものではない。
たとえば、ドイツとか、国際連携を視野にいれて、おおいに闘ってほしい。

「有隣堂」の辛口動画

横浜に住んでいて、「有隣堂」をしらないといったら、まちがいなく「もぐり」である。

伊勢佐木町が第一の繁華街で、横浜駅西口に砂利の山があったころ、「本」やら「文具」を買うなら、「有隣堂本店」が当たり前であった。

小学校に入学したときは、「お祝い」で、叔母さんから「コーリン鉛筆」を何ダースかもらったけれど、全部に自分の名前がひらがなで刻印されていて特別感があったのも、有隣堂で買って依頼したものだった。

この古いビルは、エレベーターが1台しかないから、上階にある文具売り場にいくのに、すこし息が切れる。
また、1階を見渡せる中2階は、そのむかしは専門書ばかりだった記憶があって、いまのような文庫や新書になったとき、ちょっとがっかりもした。

「いつかは、中2階」とおもっていたからである。
なんともいえぬ、図書館とはちがう「紙の匂い」が、空間全体に漂っていた。

世の中から「書店」が消えてきて、きっと「有隣堂」さんも経営が大変なのだろうけど、買った本にいまも変わらぬ紙カバーをつけてくれないと満足できない。

ネット書店をしのぐポイントなのである。

このブログでも書いたことがあるけれど、ユーチューブが突如「お勧め」にする動画がある。
これをだす、「アルゴリズム」はわからないけど、「へぇー」があるのは事実である。

そこで、突如『有隣堂しか知らない世界』がでてきた。
クリックすれば、驚きの「登録者数」であった。
その数、千数百人「しか」いないではないか?
なぜに、横浜人からしたら「天下の有隣堂が?」となった。

ちなみに、いまは2万8千人ほどだから、もう少しで3万人になる。
でも、少ない!
横浜市、370万人の人口が、いったいなにをしているのか?
と、自分だって突如「お勧め」されるまでしらなかったことを、棚に上げたくなる。

サムネイルをみれば、「フクロウの人形(「R.B.ブッコロー」という)」がキャラクターとして全面に露出している。
あゝ、子どもだましを有隣堂がやるなんて、と嘆きたくなるのを抑えて、まずは観てみた。

それはそれは、「超辛口」どころか、自社をディスっていないか?
しかも、この人形が「番組MC」なのである。
「R.B.」とは、「リアル・ブック」の意味とのことで、なるほどリアル書店の意地がみえてくる。

それに知の象徴、フクロウをキャラにした。
「ミネルヴァのフクロウは黄昏に羽ばたく」とは、ヘーゲルの『法の哲学』序文の言葉である。

 

さすが、有隣堂。
されど、このフクロウのセリフはぜんぶアドリブなのか?なんなのか?

商品説明にあたっては、有隣堂バイヤーからメーカー担当者に電話をさせて、日本人なら聞けない強烈な質問や、タブーに匹敵する感想を連発する。

どの商品で、どのメーカーかは伏せたけど、相手の「拒否」という事態まで発生したのは「事故」なのか?
果たして、この相手との商取引は収録後も継続しているのかさえも気になるところだ。

書店のなかにカフェがある、ということが、すでに新しいことではなくなってきた。
この「多角化」を「多核化」にするために、「多核家」を採用するという人事戦略も紹介されている。

そのひとつが、「料理」だ。
小説などの作品中に出てくる料理を再現して、実際に食べさせてくれる。
これを、「書店」がやるのは、新しい。
従来ならば、ホテルなどが企画したことである。

すると、ホテルなどの発信力が低下している隙に「つけ込んだ」ともいえるから、なかなかに戦闘的なのである。
しかも、書店の広大な守備範囲をもってするから、「料理だけ」が商品ではなく、作品との一体感を得る体験が商品になっている。

たとえば、『オバケのQ太郎』で独特の立ち位置にあった、「小池さん」がすする「ラーメン」を再現してみたり、『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンを改心させた司教が提供した「スープ」など。

その食べものの、食材や時代背景、作者の意図などを、ある意味自由に解釈して作る工程も価値のひとつを形成している。

 

極限状態におかれた人間が、「ほっ」として人間性を取り戻すことができた「スープ」とはいかなるものか?
それを、このフクロウは味見で、「おぇっ」と表現し、つづく有隣堂社員も「おぇっ」という。

なんなんだ?
この「ゲテモノ」感。

ある種の「ゲテモノ」的としてしられるのは、やっぱり、「新解さん」である。
昨年11月に、9年ぶりの全面改訂がされていた。

 

上の画像ではわからないけど、左と右ではサイズがちがう。
右の小型版との値段差があまりないのは、老眼にはうれしいけれど、携帯となると、やっぱり「電子版」が気になる。
しかも、AndroidかiOsあるいはiPadOsかで悩むのである。

でもやっぱり、この辞書は、パラパラと紙をめくって「読む」楽しみが優先される。
それでもって懲りずにまた、三省堂書店の部長に電話をするのだ。
このインタビューでは、より欲しくなる内容でよかった。

書籍仕入責任者の、「わたしたちが売るんです」が、ずっとよかった。

たくさんの「マインド」アプリ

人間は選択肢が多すぎると、選択することができなくなる、という特徴をもった動物だ。

過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。

「心理学」がなかった時代に、よくぞ気がついたものだと感心する。
生活の中での「観察」があって、これを「発見」して周辺に話たら、「あるある」だったということだろう。

いまのように「情報」があふれかえっていなかった時代、「健康」についての知識も曖昧で、医者から「豆腐がいい」と勧められて、豆腐ばかりを食べていたら体調が悪くなって、調べたら「栄養失調」になっていた、という落語のようなことも聞いたことがある。

しかし、こんどは、情報がありすぎて、あれもこれもと試してしまうから、どれがよかったのかもわからないでいる。
ドラッグストアに並ぶ、「サプリメント」の種類の多さに、なんだかなぁとはおもうけど、サプリだけの食事が「未来」だとした映画もたくさんあった。

デカルト的「機械論」のいきつく先でもある。

それで、サプリだけの食事はダメで、食物繊維が大事だとなったら、つぎはそれを摂取するから、やっぱり「機械論」のままなのである。
これを、「思想」として推し進めると、どうしても個体ごとではなくて、集団としてのかたまりでみたくなる。

数万羽を一カ所で飼育して卵を得る、ケージ型の養鶏場がひとつの究極でもある。
これを、人間に当てはめると、それはそれで、「合理的結論」を得ることができる。

しかし、こうした「合理性」が、「狂気」とされたのは、対象が「人間」だからで、じぶんはそんな扱いをされたくない、という「拒絶」の意味が「総意」としてあったからである。

いま、その「総意」が崩れてきているから、「危機」という危険がせまっている。
しかも、「新型コロナ・ワクチン接種」という「具体」が、目のまえの選択肢になってきたのだ。

接種後の異常が報告されている、というニュースに「主語」がない。
「誰が」ということだ。
いま、接種しているのは、「医療従事者たち」だから、一般人よりも、医学的専門知識があるひとたちなのである。

では、医療現場ではどうなっているのか?
「自主的な選択」という「建前」しかなので、じつは「本音」が隠されていないか?
なにせ、ワクチンの「定義」も変わってしまったのだ。

鶏卵をつかって培養した、不活性化させた「抗体」を接種して、あとは自己免疫システムに任せるものだったけど、いまの「mRNA阻害薬」は、人類初のメカニズムを「ワクチン」と呼んでいる。
「抗体」すら、体内合成させる薬なのである。

では、「mRNA」とはなにか?
高校の生物で習う、「メッセンジャーRNA(リボ核酸)」のことである。
だから、この「新薬」のことは、高校時代に生物を履修したものしか理解できないのだけれども、忘れてしまっているひとも多いにちがいない。

ならば、書店の生物の参考書(古書でも)が昨年から特別に売れている、のだろうか?
ぜんぜん聞かないし、まず参考書売り場におとなの客がいない。
大量に「検索」をしている、という話もない。

これはいったいどういうことなのか?

おそらく、論理を重視しない習慣があるのだろう。
もちろんこれには、日本語の情緒重視も影響しているにちがいない。
さいきんの中学校1年生向けの「英語授業」動画では、英語のもつ言語としての「論理性」が、日本語との「ちがい」としてしっかり説明されている。

また、その理由も、「争いごとが絶えなかった」という、インド・ヨーロッパ語族の「歴史」にも踏み込んで説明しており、「のんびり平和」に暮らしていた、日本人とのちがいなのだと。

すると、論理構成を補助するための、「マインド・マップ」が、インド・ヨーロッパ語族のひとによって「発明」されたのは、論理のための「強化」だったのだろう。

逆に、こうしたものを日本人が「発明しなかった」ことが、「事件」ではないのか?
いや、「KJ法」という誇るべきものがある。
ただし、「KJ法」と「マインド・マップ」は微妙にちがうのではあるけれど。

そんなわけで、紙をつかわない便利さをデジタル機器にもとめれば、「マインドのマップ化」という「アプリ」が、日常生活でも役に立つこと、うけあいなのは、日本人には、「特に」なのである。

さてどれにしようかと選ぼうとすると、あまりにも種類豊富なために、クリックする手先が止まる。
「無料」だけでもたくさんあって、「有料」となると、その支払形式は、流行の「サブスク:サブスクリプション」が「買取」を圧倒している。

ところが、あんがいと、マルチプラットフォームに対応したアプリがすくない。
ブラウザ式ならこれを克服するけれど、サブスクでの課金をどうかんがえるかと悩みどころ満載なのだ。

どのアプリが自分の用途に適しているかを選ぶために、マインドのマップ化をしたいというループができる。

そして、それなりの料金を支払うことになるのである。

幻の「卵サンド」

ふとした場所で、意外なものを売っていることがある。

その意外なものが、驚くべき実力であればあるほど、次は「目的地」に変わるのが「世の常」なのである。
もちろん、「立地」としてみたら、「最悪」の場合もある。
自動車以外の交通手段がほぼないからである。

ところが、地方ほど自動車が普及した。
これゆえに、地元民にとっては、そこにある、という情報さえあれば気軽に買い物できるようになったのである。
すると、情報をしらない地元以外の者にとっては、単にスルーするだけとなる。

どこに何を売っているのか?
加えて、それがどれほどの専門性で、ふつうには入手できないという「もうひと味」が情報に加わると、「最強」に変化するのだ。

神奈川県民であることをふだん意識しない特徴をもつ、横浜市民は、自動車のナンバープレートにある、『横浜』がやっぱり好きな傾向があるらしい。

横浜市からの「脱出」をかんがえて、県央の不動産屋にいったら、唐突に『横浜』ナンバーでなくなりますけどいいですか?といわれたので逆質問したら、たったそれだけで居住を「断念」するお客がいるといって笑っていた。

管轄陸運局の所在地ということの表示にすぎない、という無機質な発想が「法学」役人の矜持でもあったのに、妙な大衆迎合をして、ナンバープレートに「地元愛着」をさせるための「改正」をした。

それで、神奈川県にはあらたに『湘南』という表記ができて話題になったものである。
なぜなら、いわゆる、明治の文人がいった「湘南」と、『湘南』は、エリアがちがうからで、この強引さこそが役人の文化破壊工作でもあった。

じつは『横浜』は、横浜市だけではなくて、三浦半島を網羅する。
横須賀市、三浦市、葉山町、逗子市、鎌倉市もみんな『横浜』をつけている。

それだから、横浜から三浦半島方面にいくと、「地元」に混じってしまうので、土地勘のない狭い道でウロウロ・アタフタしていると、なんだか恥ずかしいのである。
ちなみに、「純血」なのは川崎市「だけ」の『川崎』である。

『横浜』の登録台数は、約140万台。
『相模』は、約61万台(横浜から1964年に分割)。
『川崎』は、約37万台(横浜から1980年に分割)。
『湘南』は、約63万台(相模から1994年に分割)。

ナンバープレートには、番号表記の組合せに限界がある。
それなのに、なぜか巨大な横浜市だけでなく三浦半島も『横浜』で、ポツンと単独の『川崎』がある不思議。
台数分布の標準偏差(42万台)が大きすぎるから、事務量もこれに準じるだろう。

横浜市とそれ以外で分割すると、どういう分布になるのか?
平準化という意味では有効になるはずだけど、役所が増えるのでいかがか?というせめぎ合いなのか?
それとも、『横浜』でいたい、という住民要望の政治利用なのか?

ふと、横須賀の小泉さんの顔が浮かぶ。

さて、もちろんこんなことだけが理由ではないけれど、「半島」という「袋小路」に向かうなら、電車がいい、と発想するので、自家用車での行き先方向は、妙に「西」の『相模』エリアとなるのである。

おなじ「西」でも、『湘南』の海側にならないのは、前にも書いた、神奈川県の名産が、もはや「海産物」ではないからである。
今年もまもなく解禁(11日)の、「しらす」を除くと、ほとんど見る影もなく、他には海藻の「アカモク」だけとなってしまった。

そんなわけで、畜産品が「名産」なのである。
なかでも、特記すべきは、「豚」と「鶏」で、豚は「モツ」、鶏は「卵」だ。
なお、「牛」は、葉山と足柄がそれぞれ産地となっている。

「モツ」は、屠殺場があるから新鮮なのだ。
エージングを要する肉と違って、内臓は新鮮さが重要だ。
『相模』の「シロコロ・ホルモン」は、前に書いた。

卵は、こんなところにという場所に、「卵サンド」の「研究所」がある。

わたしは、卵サンドといえば「京都」を連想していた。
これは、「卵焼きサンド」で、その焼き加減が絶品なのだ。
むろん、京都はパンの街で、古都とはイメージがことなるけれど、米の消費量はすくない。

京都からの帰りはかならず、新幹線口の「志津屋」で卵サンドその他を購入してから切符を買う。
先に直前の切符を買うと、レジの混雑から乗り遅れるリスクがあって、購入をあきらめるはめになるからである。

『相模』の卵サンドは、ゆで卵を潰してつくるタイプである。
しかも、パンもサンドウィッチ用の薄切りではなく6枚切りほどの厚みがあるのに、これでもかと卵がはさんである。
だから、大口を開けないと食べられない。

ネット動画でずいぶん話題になっていたけど、どこぞのテレビが紹介したようである。
神奈川県内ナンバーとはぜんぜんちがうナンバーの自動車が、列をなしていた。

広いはずの駐車場にも入れないのだ。

しばらくの間、「幻」となることが決定した。
おそるべし、テレビの力。
他県ナンバーに敏感なのは勘弁してほしいけど、自動車での行動力は結構なことではある。

なにかに「とんがる」と、大ブレークするのである。

「自動車工業会550万人」CM

テレビを「持たない」「観ない」をやっているので、「気づかない」となった。

とつぜん、ネット動画に現れたので驚いたのがこの「CM」である。
しらべたら、正月の「箱根駅伝中継」の合間が最初に放映されたものだという。

それから1月8日に、自動車工業会の豊田会長がおなじ主旨での「年頭メッセージ」を発表した。

この「作品」を観た駅伝の視聴者には、「感動した」というコメントをあげるひともいるなかで、「何をいいたいのかわからない」というひともいる。
おそらく、「情弱」だとおもわれる。

まず、「自動車」について、象徴的なことをメッセージとしている。
これは、トヨタ自動車の「社是」からともおもわれるけど、「ヒトとクルマの生活」がイメージされる。
現代社会の「あたりまえ」のことである。

それから、自動車をつくるひとたちが表現されるけど、さらに、自動車にかかわる仕事をするのは、つくり手だけではなくもっとほかにもいる、というメッセージになっている。
たとえば、サービス分野でいえば、自動車保険とか、自動車ローンとかだ。

こうして、550万人が関与しているのだ、と。
わが国の「総労働人口」は、ざっと6000万人だから、およそ1割ものひとが、自動車にかかわる何らかの仕事で生計を立てている。

これは、まぎれもない「事実」である。

当然ながら、「金額」にすれば、巨額になる。
人数とおなじ自動車関連産業で算出すれば、わが国全体の「2割」となるのだ。
1割弱のひとたちが、倍の数字をたたきだしている。

これも、まぎれもない「事実」だ。

ではいったい、自動車関連産業とは何者か?
かんたんにいえば、わが国産業における「最後の砦」なのである。

第一の砦だった、鉄鋼と造船は、造船から先に陥落して、自動車がこけたら鉄鋼もこけるのは子どもにもわかるだろう。

第二の砦は、家電だった。
エースはテレビ事業で、これを、「白物(冷蔵庫、洗濯機、エアコンなど)」あるいは、「生活家電」が脇を固めていたのだが、ご存じの「陥落」をした。

第三の砦は、パソコンと半導体だ。
「産業のコメ」といわれた半導体は、かつて世界シェアで圧倒したし、それをつかったパソコンも、家電メーカーのほとんどが参入して淘汰された。NECも富士通も東芝も、すでに「日本製」のパソコンメーカーではない。

第四の砦は、携帯電話と後続のスマホである。
携帯電話が、「ガラパゴス化」して、「ガラケー」が一般名詞になったことで、世界市場から完全離脱した。

いわば、わが国産業の盛衰というレベルのはなしではなくて、「死屍累々の敗残状態」なのである。
気がつけば、自動車関連産業「しか」残っていない。
これが、「わが国の現実」だ。

そこにきて、「2030年までにEV化(内燃機関の自動車販売禁止)」を、とつじょ都知事がぶちまけた。
これに、あろうことか、経産省や環境省が大のり気だし、とっくにヨーロッパ(EU)も推進を開始した。

さらには、アメリカの新政権は、「脱石油」を政権公約にしているから、かつての三極(日米欧)の足並みがそろったのである。
そして、中東にちょっかいをだして、石油価格を上昇させている。

自動車関連産業とはちがう産業だから、じぶんのところは関係ない、にはならない。
ピラミッドのような建造物をイメージすれば、土台のようなものだから、それに乗っかる他の産業もみなこける構造なのである。

四つの砦に、自動車関連産業をくわえた「砦の厚み」こそが、わが国経済の「強み」であったから、なんという衰退かと嘆くのがふつうだろう。
家電大メーカーは、学生の採用すらやめて、主な就職先ではなくなった。では、若者はどこに就職するのか?

アメリカでは、大統領令第一号で、万人単位の雇用が失われることになって、民主党を強力に支持した全米労働組合が、いきなり窮地にたたされた、と書いた。
労働者より地球環境を大切にした、という建て付けになっている。

けれども、ヨーロッパもアメリカ大統領も、重要なのは「中国市場」なのである。
とっくに中国政府は、「EV化」を宣言しているからである。

では、どうして「EV」なのか?
もちろん、地球環境は「隠れ蓑」で、本音はそこにはない。
最先端の内燃機関自動車を、つくる技術が「ない」からなのだ。
すなわち、「ワープ戦略」である。

たとえば電話。
かつての三極は、電信の時代から全土に電信・電話のための固定回線を張り巡らせて、莫大な資本投資をしてきたのだ。
新興国はみんな、これを、「ワープ」して、無線電話網を安価に構築した「成功体験」がある。

つまり、「EVへの道」とは、かつての先進国の「自滅の道」なのである。

さらに、わが国の陥落した産業の砦たちをながめれば、その陥落が、政府による政策が致命的だったとわかるのだ。
民間の産業に「介入」して、これをかならず「衰退」させるのが、全部のパターンにあてはまる。

なぜ「ガラケー」が生まれたのか?
なぜ、半導体がダメになったのか?
家電事業を破壊した、「家電リサイクル法」とは何か?
などなど、政府の甘言に乗っかった経営者「だけ」が悪いのか?

まったく、「コロナ災害」とそっくりの、政府による産業破壊工作がある。
これに、反旗をひるがえしたのが、「最後の砦」なのだ。

それにくらべて、外食産業や宿泊産業などの、あくまでも政府への「従順さ」は、記憶にのこしておきたい。
「自滅」を道議とする、「狂気」すら感じるのは、従業員の生活や顧客の需要というリアルがなく、無難かつトップダウンの快感こそが優先だからだろう。

こんな産業に就職しても、「従業員のうち」はいいことはないと、世の中に示している。

自動車工業会の運動は、もちろん政府主導ではないけれど、全産業の労使で「国民運動」にしないといけない。

そんなに遠くない、日本人の生活の将来がかかっている。

営業自粛しない店の混雑

7日で期限がやってくるものを、延長させようとする首都圏の4人の知事は、「権力亡者」である。

こんな者に投票した住民は、どう思っているのだろうか?
念のため、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県のことである。
もちろん、対する政府の大臣と役人も、同じ穴のムジナだから、「人民の敵」といって差し支えない。

かれらに共通している、犯罪的行為は、「データの隠蔽」である。

第一に、わが国の衛生・医療の仕組みでは、現場の診療所に報告義務を課しているのだから、地元保健所を通じて生データは知事のもとに必ず届けられることになっている。
第二に、各知事は、これを国家である「厚生労働省」へ提出する義務がある。

よって、詳細なデータは、かならず知事と厚生労働省が把握しているはずなのである。
しかし、これが、1年経ってもぜんぜん公表されない。
この「病気?」の実態を、国民は知らせられていないのだ。

毎日マスコミがたれ流す、「感染者数」とは、PCR陽性者のことだから、「全体データ」としていえば、ほんの一部にすぎない。
「二種感染症」として、感染経路などのあらゆる詳細情報が収集されているはずなのだ。

上記とは別に、「事務連絡」として、厚生労働省は、「厳密でなくてよい」から、遺体にもPCR検査をして陽性ならば、「死因」として報告せよとした。
これは、データを「改竄せよ」といっているにひとしいけれど、WHOからの「通達」の忠実な実行なのであった。

つまり、21世紀なのに、科学的根拠はどこにもないから、解除基準もないことでえらいひとの気分で延長できるし、これに「議会」も反応しないで、司法は他人事である。
三権ぜんぶが、沈没したのである。

三重県が集めたデータが公表されて、驚きの結果だったことは先月書いた。
わが国で、「まとも」なのは三重県だけだから、目立つのだ。

知事のいうことをきかないと、店名を公表したり、用もないのに警察官を訪問させて店主にあれこれ質問させたりする、営業妨害を「正義」だと強弁して、憲法違反だという言論を封殺する努力がおこなわれている。

このときとばかり、知事権限をフル稼働させて、警察本部長(東京は警視総監)にも指示をしているのだろう。
それともまさか、警察庁が指示しているのだろうか?
ならば、国家公安委員長の命令か?

多くのお店が「おじけづく」なか、悠然と通常営業を貫く店が大繁盛していると聞いたから、行ってみた。

昼食ではなんどか利用したことがある店だけど、「夜」は初めての入店である。
ざわめく雰囲気もないけれど、まったくもっての「通常営業」だ。
やってくるお客さんは、そのほとんどが「常連」だとわかるのは、勝手知ったる行動をしているからである。

それに、飲酒よりも食事がメインで、みなさま「夜の定食」をしこたま食べているのが印象的だ。
この店は、「大盛り」でも有名なのである。
つまりは、庶民の「台所代わり」なのだ。

年齢層はまちまちだけれど、あんがいと高齢者も混じっていて、その「常連」ぶりは、人生の大半の夕食をこの店で済ましてきた感にあふれている。
男性ばかりではなくて、女性もふつうにいるのが特徴だろう。

みなさまの服装は、仕事帰りだ。
このひとたちの生活パターンからすれば、19時半ラストオーダー、20時閉店をされたら、もうコンビニ弁当しか選択肢はないことになる。

20時をまわっても21時を過ぎようが、入店および注文のパターンに変化はなかった。
まったくの「日常風景」が確認できただけだった。

この「日常」の破壊を「新しい日常」という、きもちの悪い用語もつくって強制を正当化する。
じつに、悪辣な「コロナ利用」だ。

店主にインタビューはできなかったけど、おそらく難しいことはかんがえていないにちがいない。
そんなわけで、以下はわたしの「妄想」である。

お客の日常をいつもどおりにしている「だけ」とこたえるはずだ。

こうしてみると、この店の「経営方針」の明確さがわかる。
「だけ」というシンプルさを強調することばに、「意志」があるからである。
しかし、そこに「法的リスク」が生まれた。

では、店主は弁護士に相談したのだろうか?
してはいまい。
なぜなら、いまどきのふつうの弁護士なら、「リスク回避」を最優先させるアドバイス「しか」しないからだ。

それが、弁護士稼業として、もっとも「リスク回避」できるからであるけれど、同時に、相談者の「リスク回避」だと転換できる。
だから、資金豊富な「大手」の飲食店チェーンほど、まっさきに「法的リスクの回避」を決定した。

つまり、政府に従う、という羊のような「従順」さの表明だ。

それが、業界や国民生活にどんな影響になるかは考慮しない、という意味だとも気づかない。
つまり、真の意味での、「企業の社会的責任」の放棄なのだ。

しかも、弁護士に相談したら、それだけで相談料が発生する。
お客の日常をいつもどおりにしている「だけ」なのに、どうして余計な費用をかける必要があるものか。

まともな発想が、あたかもまともではないかのごとくの「世の中がまちがっている」から、まちがっている世の中を弁護する者のアドバイスとは、「有害」なのだ。

店主の心の奥底には、こんなことが言葉にならずに渦巻いているかもしれぬ。

そして、今日も、ふつうの食事を提供する「だけ」、なのである。

コロナ後に混浴は復活するか?

何かとアメリカに対抗意識があるのが日本という国である。

前に「入れ子状態」と書いたけど、その日本に対抗意識を持つのが韓国だ。
こういう関係で、国を比較する習慣は他国にはないから、日本と韓国は世界的に珍しい。

ただ、世界の他の国は日本と韓国がそんな関係にあることもしらない。
興味がないからである。

もちろん、日本人が韓国を意識しないように、アメリカ人も日本を意識していない。
自分達の国の中で、さまざまに争っているのであるから、他の国を気になどしない。

アメリカの現政権は、進歩派だから社会主義を目指している。
徹底的に対抗した保守派の前政権を、とにかく引きずり下ろすのに成功したけど、やっぱり心配なので、大急ぎで「国家改造」に邁進している。

それが、日本人には、かの「民主党政権」を思いださせるのだけれど、トランプ氏への嫌悪感情の洗脳に成功しているので、いまの与党政権が、民主党政権よりもはるかに過激でも気づきにくくなっている。

まことに、マスコミの力は偉大なのだ。

そんなわけで、日本においても「フェミ」のひとたちが泣いて喜ぶ法律が、アメリカで成立した。

連邦法としての、「男女平等法」である。

この「法」によって、たとえば、生物学的には男性でも心が女性なら、女性だとする。
同様に、生物学的には女性でも心が男性なら、男性であるとするものだ。

すでに、スポーツ競技でこの考えが先行採用されていて、おおかた「元男性」たちに有利になっているし、女性だけの格闘技では選手が大怪我をする「事故」も起きた。

ややこしいのは、たとえば、生物学的に男性でも心が女性で、さらに女性が好きとか、生物学的に女性でも心が男性で、さらに男性が好き、といった場合である。

これで「婚姻」するとなったら、同性婚なのか?それとも?
まぁ、いちいち面倒なことは考えなくてよろしい。
本人同士がよければそれでいい、のである。
これこそが、「自然」である、と。

女性から「不平等」の声が上がっていたけど、とうとう「法律」になったのだ。

選挙結果とは、こういうものだ。

この法律で、最初の物理的な制約の撤廃が計画されているのは、「トイレ」だという。
男性用と女性用を一気に無くす、のではなくて、自分が女性だと思うひとは「女性トイレ」、男性だと思うひとは「男性トイレ」を利用することができる。

本人の意思を尊重した、実に人道的な配慮が素晴らしい。
これこそが、人間、なのである。
むろん、反論があるだろうけど、それは最初からいかがわしい邪念を持ったひとのはずだから、「恥を知れ」という罵詈雑言を相手に浴びせてもぜんぜん構わないし、むしろ推奨される。

コロナが収束して、外国への移動の自由が再開されて、アメリカに行ったら、トイレで驚く、ということではいけないのだ。

ただし、反発する「州」が複数あって、州憲法に違反するとして、連邦法や大統領令の拒否もトレンドになる動きがあるから、アメリカの分断を加速させる効果ともなっている。

明治になって禁止されるまで、わが国の公衆浴場は基本的に混浴だった。
明治の偉いひとたちが、当時ならおいそれとはいけなかった欧米を旅行して、男女を分けることを「文明」と理解してから、「混浴禁止」をした。

でも、欧米に「公衆浴場」はなかったろうから、いったい何を参考にしたのか?

そもそも、『テルマエ・ロマエ』でも紹介されたように、湯を張った浴槽に浸かるという入浴方法を習慣としていたのは、日本人と古代ギリシャ人、それにブータン人しかいないのである。

   

古代ギリシャからローマ帝国に伝播したけど、「ガリア」にはとうとう受け入れられなかった。
ようやく、イスラムが「蒸し風呂」に至ったけれど、浴槽の湯に浸かることはまずない。

アジアでは、「照葉樹林文化圏」という仮説ができたのも、入浴習慣が日本とブータン間でしかなく、「照葉樹林帯」という温暖かつ湿潤な気候帯での伝播とするほか説明がつかない、という事情がある。
熱帯になると、湯ではなく、ガンジスのように、川の水に直接浸かってしまうのだ。

ちなみに、アフリカ大陸のナイル川は、「住血吸虫」がいるために、どんなに気温が高くてもこの川で泳ぐものはいない。

とはいえ、江戸の街における公衆浴場は、基本的に「蒸し風呂」で、「湯女(ゆな)」という性的分野におけるサービスを生業とする女性も勤務していたから、「湯屋」とは「悪所」の隠語でもあるのでややこしい。

『赤穂城断絶』(1978年)の延長にして、深作欣二が映画化したのが『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年、松竹100周年記念)だった。

 

武家の出が設定の歌舞伎とはちがって、「お岩さん」が吉良家に縁のある湯女という設定に驚いた。
討ち入りまでの経済的にも精神的にも苦しい生活が、リアルな「堕落」の物語となったのである。

そんなわけで、いまでも山奥の古い温泉湯治場の一部に「混浴」が残っていて、知らずに入って出るに出れなくなったことがある。
妙齢な方だったけど、目的はしっかり「湯治」という治療目的だと話してくれた。
「三周り(三週間の滞在)」のちょうど中間だったと記憶している。

我が国では、東大をはじめに、国立7大学の医学部に温泉医学の専門コースがあった。
指宿の砂風呂に行ったときは、鹿児島大学の診療所があったし、草津には、群馬大学の分院があった。

すべて「過去形」なのである。

理由は、文部科学省による研究予算の「独占」である。
すなわち、「温泉大国」を自称するのに、内容がないのだ。
もって、温泉は歓楽的「観光」の位置づけと、文系(法学部)の役人が決めたにちがいない。

世のトレンドは、男女の性差をなくすことだから、混浴こそが「日本文化」だと、これも役人が決めるにちがいない。

さては、こんどは、浴室を混浴化させるための「大型補助金」をもって、「Go To」の代わりにするかもしれぬ。

2021年「お雛様の日」に。
なお、旧暦の「桃の節句」は、今年は4月14日ではあるけれど。

無料の『LaTex』と『R』

『La Tex』といってもゴムのことではない。
「Tex」は、「テック」とか、「テフ」と読む。
『R』は、そのまま「アール」と読む。

これらは、知る人ぞ知る、超有名かつ超便利で、しかも、「無料」のサービスとして、おもに研究者に提供されている。
しかしながら、「無料」だからといってまったく侮れないのも共通している。

文書を作成する、というなら、だれでも思い浮かべるのが「ワープロ」だ。
パソコンの普及よりも、ずっと普及していたのが「日本語ワープロ専用機」だった。

それまでは、「和文タイプライター」という機械で、漢字もふくめた一字一字を選んで打刻(タイプ)するしか、その場での活字文書作りはできなかった。
だから、日本語ワープロ専用機の機能とセットの印字能力が価格決定と機種選びの決め手だった。

パソコンがいまいちだったのは、パソコンに搭載するワープロ・ソフトの完成度が、専用機に比して相手にならなかったからである。
この弱点をパソコンが克服した瞬間に、世の中からワープロ専用機が消滅した。

しかし、こんどは「ワープロソフト」の機能充実で、大量の文書となると動作が「重く」なったのである。
そこで、ほんらいはプログラムを書くための「エディタ」が、「軽い」という理由から重宝されるようになった。

編集機能がほとんどない代わりに、文字入力と置換などの機能が充実しているのは、まずは原稿を書くだけの目的に合致したのである。
けれども、書きおわった大量のテキストを、ワープロに流し込んで編集しようとすれば、やっぱり「重い」のである。

それに、たとえば数式や化学式などの記号を多用する「理系」の場合、複雑な式でもワープロで表現ができないと困る。
また、「文系」でも、参考文献の引用などにネットのデータベースができてきたから、そこから直接リンクさせれば、脚注番号も振り出しだけでなく修正も自動化できる。

そんなことから、便利で軽い、『La Tex』が普及してきた。
さいきんの大学では、学生に提出させる「レポート」や、「卒業論文」も、この『La Tex』記述での提出を条件にする学校当局と教授たちがいる。

これはけっして「いじめ」ではなく、入学時からスペックの低いパソコンを使っている学生のためでもある。
ワープロソフトがすぐにフリーズしてしまうので、その被害に泣く学生が絶えないのを見かねてもいる。

「修士論文」や「博士論文」では、すでに世界標準化されているから、学者が発表する論文も、論文集の編集サイドから、『La Tex』での入稿が要求されている。
すると、企業でも気が利いた新入社員は、『La Tex』での文章作成に慣れている可能性がある。

出力は、おもにPDFとなるので、若い部下の作成した社内文書は、とっくに『La Tex』になっているかもしれない。
とくに、見た目が「美文」なら、可能性は高い。
知らぬは上司ばかりなり、もありえるのだ。

また、『La Tex』の仕組みは、マルチ・プラットフォームなので、スマホでも文書作成ができる。
もちろん、データをクラウド管理とすれば、電車の中でも決裁書などの社内文書が規定書式どおり起案できるのだ。

これが、「無料」で提供されている。
ただし、一貫性のある「解説書」はそれなりの有料での提供だ。

『R』は、オープン・ソースの「統計ソフト」である。
こちらは、世界中の統計学者が開発と利用でいじっているソフトであるから、もともと信頼性が高い。

いまや、社会人なら「データ」をあつかうことが必須となったので、「文系」だからといって回避できない。
もう、この意味でも、学校制度における「文系」「理系」という、開発独裁型の、まったく日本独自の変な区分となっている。

すぐに廃止すべきだ。

現代を生きる子どもには、ちょっと気の毒な気がするけども、どうせ社会に出たら、データをあつかわざるをえないのだから、学校で訓練を受けておくべきだ。
理系はその逆で、人文学をしらないではすまされない。

しょせん、いつかは「上司」になるなら、人間をしらずに管理職はできない。

わが国で「統計の学習」には、たいがい「独習」の試練がやってくる。
それは、何度も書くが、30年間も統計を学校で教えなかったからである。

「ゆとり」の美文に酔いしれて、「ゆとり」を失ってしまった。

先進国で唯一、統計を教えない。
それでも、先進国なのは、「老害」と嫌う、高齢のひとたちが支えていたのだけれども、そんなことすら「データ」で理解できないでいたら、いよいよお尻に火がついたのだ。

あわてて、「中央教育審議会(中教審)」のえらいひとたちが、現場の事情(データ)を無視して、統計を授業に復活させた。
すると、30年間の空白で、肝心の「現役」数学教師たちが、統計を習っていなかった、というオチである。

なので、きっと教室では、おそろしくつまらない統計の授業がおこなわれているはずで、生徒たちはあくびをかみ殺すか、熟睡していることだろう。
不思議と「大学入試にでない」のだ。

「Excelで。。。」というタイトルの教科書がたくさんあるけど、じつは表計算ソフトは「統計専門」ではないので、あつかいが面倒くさいのだ。
「独習」には、専用ソフトが役に立つし、その後も、もっと役に立つ。