フルサービスの理髪店

散髪の需要は、ひとに髪の毛がはえるかぎりなくならない。
それに、少ない資本で開業できるので、個人事業としてうってつけでもあるから、夫婦で営む店がおおいのは当然だ。
また、売上が「現金」だし、その本質は「技術料」だから儲かるのである。

理容と美容の垣根は、ざっくり「顔そり」ができるかできないかである。
ほんとうにひとがサルから進化したのかどうかしらないが、ひとの顔は毛でおおわれていないようにみえるけれど、じつはうぶ毛がけっこうはえている。

ひかりの加減で、可愛いかおをしたひとにうぶ毛があるのはまだしも、あんがい若い女性でも「ヒゲ」が濃いひともいる。
そんなひとは、理容店にいって顔を剃ってもらうとスッキリするし、化粧の「乗り」がよくなるという。
だから、理容・美容には、利用するのに男女の区別はない。

歴史をさかのぼれば、ちょんまげと日本髪だった江戸時代まで、「床屋」といえば「髪結い」のことだったが、すでに男女の区別があった。
ちゃんとしたちょんまげは、月代(さかやき)を剃らないといけない。

時代劇で、青々と剃っているかつらをつけるのは、役柄もちゃんとしたひとで、これを好き放題にのばしたままだと、浪人や博徒など、ちゃんとしていないひとのキャラクター・シンボルとなった。

だから、男性には「剃り」がつきものだったけれど、髪は女の命だった女性側は、そもそも「結う」ことはあっても切ったり剃ったりはない。
それで、女性のための髪結いは、店をもつより顧客先に出向いていたようだ。

明治になると、西欧文明的でない「日本髪」が、なんだか「恥ずかしい」ことになった。
岩倉使節団が伝統的スタイルで欧米を歴訪して、絶賛されたことは、新聞すらもなかった時代に、関係者以外だれもしらなかったのだろう。

世にいう「断髪令」がでたのは、明治4年だが、同じ年の岩倉使節団が出発する前で、これは誤解があるがちょんまげ禁止令「ではなく」髪型自由令だった。

しかし、明治6年に福井で3万人からなる「散髪・洋装に反対する一揆」がおきた。
時代の変わり目にたいする、文化のちからが、良くも悪くも「あった」ことは、あんがい重要なことだ。

いまのひとはこんな一揆を「笑う」かもしれないが、100年後の子孫たちが、いまの時代を「笑う」かもしれない。
明治だといっても「一揆」だったから、首謀者は6人も死刑になっている。

かれらが命がけで守ろうとしたものは、なんだったのか?
わたしたちが忘れてしまったものにちがいない。

牛丼チェーンのすきやには、文明開化当時の絵が壁にある。
ちょんまげに着物のひと、散髪のひと、ドレスをまとった女性。
これは、いまよりもかなり服装や髪型に「主張」があったことをしめしている。

女子大生の卒業式で定番となった「ハイカラさん」スタイルは、洋装と和装のハイブリッドであるが、日本以外ではみることができないから、まちがいなく「和装」の範疇になるのだろうが、なんともすさまじい主張の「発明」である。

ひとむかしもふたむかしも前までは、床屋談義は落語の世界だけでなく現実の、ごくふつうの風景だった。
町内にだいたい床屋は一軒あって、ご近所さんしかお客がいないから、待ち時間がおしゃべりタイムになるのである。

組合がさだめた料金で統一されていて、たいていが「フルサービス」の散髪・洗髪・顔そりをしていたから、ひとりのお客に最低30分はかかる。
子どもでも手間はおなじだから、じっと座っているのはつらかった。
だから、「運がわるいと」一時間待ちはふつうだったのだ。

ちょっといってくる、といって混みそうな時間にじぶんの家から散髪屋にきて、くつろぐ商店街の店主たちもたくさんいた。
もちろん、髪を切ってもらいながらも、会話はつづくのである。
そうかんがえると、客にも店にも余裕があった。

ちょんまげの「さかやき」は、ヒゲと同様すぐにのびるから、これを剃るのも毎朝の身だしなみである。
この「身だしなみ」という伝統で、紳士たるもの月一度の散髪は、おしゃれというより社会的義務だったのだ。

35年前、エジプトのカイロにすんでいたころ、やはり散髪はひつようだから、町の床屋へいっていた。
「へー」とおもったのは、フルサービスの中身がおなじだったからで、やっぱり「床屋談義」をやっているのだ。

かれらが床屋に足しげくかようのは、身だしなみ以前の「衛生」という需要がつよかった。
アラブ人には成人男性はヒゲをたくわえるものという常識があるから、ヒゲをそり落とすわたしは「あやしい男」だったようである。

それでか、二回目からは「顧客」になって、だまっておなじ髪型にしてくれて、それからは町や国のいろんな事情をおしえてくれるようになった。
これに、待っているお客もはなしにくわわるから、おわってもなかなか帰れない。
ちゃんと紅茶もだしてくれて、くつろげるのである。

最近は外国人旅行者に、日本の理容・美容室が人気だという。
日本的なこまやかなテクニックが話題になるが、会話「こそに」魅力があるのではないか?

じつは、いろんな事情をしることができるから、理容・美容室は「情報産業」なのである。

日本の中途半端なやさしさを否定したWTO

日韓関係は「最悪」になっているが、政治ではなく「科学」でかんがえると、本件はまっとうな判断なのではないか?
むしろ、これをそれぞれの政府が政治に利用したがるだろうし、それを支持するひともでてくる。だから、やっぱりまっとうなそれぞれの国民には迷惑なことだ。

日本では相手が韓国だからという理由なのか、このたびのWTOの「逆転敗訴」が、あたかも「不当」のような主張がなされている。
しかし、福島原発事故による八県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物輸入にかんして、いまだに禁輸措置をしている国・地域は23もあるのだ。

ほんとうに「不当」なのであろうか?

問題の核心は、「安全性」にあるのは当然だが、「日本政府が『安全』宣言している」から安全だということは「科学的」にいえない。
さらに、日本政府は「科学的」だと一審で事実認定されたこと自体は維持されているともいっている。

「科学」にもとづいているから、「安全なのだ」という「主張」なのであるが、今回の上級委員会は、「WTOでは食品の安全性について科学的証拠が不十分な場合、暫定的に規制を認めている」との韓国の主張に対し、日本は反論しなかったとも指摘」しているのだ。

すると、あたかも「反論しなかった」日本側の落ち度が「痛い」ことに矮小化されそうだが、「反論『できなかった』」のではないか?という疑問すらうまれるのである。

なぜそんな疑問がうまれるかというと、日本政府は事故以来一貫して(民主党政権から現行政権になっても「一貫して」)、放射線物質による汚染状況をほとんど発表していないどころか、隠蔽しつづけているからである。

この態度は、100億円以上かけて開発していた「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information、通称:SPEEDI)」というものの存在すらひろく国民が認知していたわけでもなく、しかも、「試算」であって「誤解をまねくおそれがある」という理由で、事故後に計算結果の発表もしなかった。

のちに、政府は発表もしなかったことを「謝罪」しているが、放射線による影響という問題だから、「ごめんなさい」ですむはなしではない。
国民の「被爆」について、まったくの無責任を貫いただけであった。

さらに、愕然とさせたのは、事故後、放射線の安全基準が「変更された」ことである。
「一年間に1ミリシーベルト」まで、を金科玉条のごとくまもってきていたはずなのに、なんの根拠かわからないうち(いまだにわからない)に、「20ミリシーベルト」になった。

この根拠不明のあたらしい基準で、ものごとがかたられるようになったけど、国内では「基準内だから安全」となって、マスコミもこの情報をたれながした。

いわば、「大本営発表」になったのである。

むかしの戦争の「反省」などぜんぜんしないで、ただ「戦争はいけない」と唱えれば戦争にならないという「宗教」だけでやってきたから、あっさり「大本営発表」にのってしまうのは、脳の劣化である。

日本政府は国内がおさまれば、あとは関係ないという「鎖国」をモットーとしているから、国内情報操作に成功してホッと息をついたら、おおくの外国が「安全性に疑問がある」と、「禁輸」の措置をとったので、あわてて国内での「成功体験」で押したのである。

それで、とうしょ禁輸を54カ国がしたが、上述のようにいまは23に「おさまって」いる、という具合である。
大親日でしられる台湾すらいまだに禁輸していると、韓国を前面に出すマスコミは「そっと」伝えるのも、いかがなものか?

そんなわけで、われわれ日本国民は、どんなふうに「汚染」されているのかもしらず、基準値の「科学的根拠」もしらず、政府や農協が「安全」というから「安全」なのだ、といってWTOがおかしいといっているのだから、冷静にみればどちらがおかしいのかはあきらかだろう。

これは、中途半端な「やさしさ」が諸悪の根源なのである。

漁業従事者の生活をどうする?
農業は?水は?なかんずく除染ができない山中の山菜や野生動物は?
そもそも、ひとが住みつづけていいのか?

事故後のネット上のニュース番組で、保守系論客を自認している有名女性ジャーナリストと、自由な報道をめざす若いジャーナリストとの対談があった。
若者が、「放射能の影響を報道しないのは犯罪的だ」と発言したら、「そんなことをいったら当人たちが可哀想だから、ぜったいに報道してはいけない」といいきって、若者が絶句していた場面がある。

すくなくても第一次産業はなりたたないとか、もう住めないから永久避難だとかいったら、可哀想だということだ。
それに、汚染でどこまで「放棄」しなければならないかを「厳密」にしめしたら、東日本全体になるかもしれないし、そうなったら「パニック」になって国家がもたない。

この有名ジャーナリストは、政府のお先棒をかつぐのが「『保守系』ジャーナリズム」だと自己定義しているにちがいない。
それなら、わが国の報道機関のありようが、たしかに見えてくるから「失言」ではないが、こんな人物の発言をありがたがることはない。

可哀想なのは、なんにもしらないで発病してしまうひとたちである。
もちろん、このなかにわたしもふくまれる。
かつての「水俣病」や「イタイイタイ病」の教訓が、ぜんぜんいかされていないどころか、ガン無視されているのだ。

こころを鬼にしてでも、事実を事実として伝えるという愚直さがなければならないが、もうそんな気概すらないのだろうか?
最初から無責任な政府に期待はできないが、気概をもって国民が求めないからこうなるのだ。

健康な国民がいるかぎり、国家がもたない、という理屈はないのだ。

ことばだけで科学をいう国が、これからの将来、「科学技術立国」などできるはずがない。
そんな基盤がない国で、もっと高度な「観光立国」など、夢のまた夢である。

Capitalization Rate がしめすバブル

金融における異次元緩和という「麻薬」をたっぷり吸い込んだために、じぶんでかんがえることができなくなった日本の経済は、財界もなにも、こぞって政府依存していると批判をくり返してきた。

日銀の金融緩和「しか」中身がない、「アベノミクス」なるものは、たんなる「イリュージョン」であるし、むしろ政府が富を分配する役割を負うことを推進するから、社会主義経済を強化する「トンデモ」政策である、と。

だから、アベ左翼政権が、「一強」になっているのだとも書いた。
もともと左翼政党しかない「野党」にあって、かれらの主張を丸呑みしているのがアベノミクスだから、政権批判の対象がスキャンダルしかなくなってしまうのだ。

そういう意味で,「野党はアベノミクスにかわる経済政策をしめせ」という、もっともらしい有名評論家の「評論」は、的を外している。
野党の本音は、アベノミクスの「もっと強力な推進」になるからである。

すなわち、もっと「麻薬をくれ」という、悲劇的な叫びになる。
だから、野党の支持がぜんぜんない、ということになって、まるで自民党の一人勝ちにみえるが、単純に「選択肢」がない、というだけの、やっぱり国民には悲劇的な現象なのだ。

アベノミクスの「イリュージョン」は、おカネを市場に大量供給すれば、デフレからインフレになる、という説明だが、この目的にみあった現象が実現しないから、いつのまにか看板をさげた。

その前に、あまったおカネで株価があがって、株式投資しているひとたち「だけ」が、得をしたようにみえた。
ところが、いろんな事情から株価が「やばく」なって、株価を支えようと大量買いして、とうとう日銀が日本株の「大株主」になってしまった。

こうして、市場に供給された、ヘンテコなおカネが、企業の設備投資ではなく、例によって不動産にむかっている。
しかし、静岡の銀行がしでかした「不正融資」で、事業用不動産に貸し出すな、という命令を金融庁さまがだしたから、居住用不動産に集中しているのである。

人口が減るトレンドが消えるわけもないわが国で、とっくに新築住居が世帯数を超えているのに、みなさまのご近所では住宅建築のつち音も消えていないだろう。

自動車に次ぐすそ野が広い産業は、住宅産業である。
家具などの動産をふくめ、さまざまな物品の需要がうまれるからだ。
それで、これが「景気対策」になっている。
「空き家」には、目もくれないのが特徴だ。

Capitalization Rate というのは,いわゆる「キャップレート」といわれるもので、不動産投資の利回りをしめすものだ。
用語として、「還元利回り」とか、「収益還元利回り」とか、「期待利回り」ともいうが、みな「キャップレート」のことである。

計算方法は単純で、純利益(年間) ÷ 不動産価格、である。
これを、逆算して、年間「期待」利益 ÷ キャップレート、で「収益から見込んだ不動産価格」が計算できる。

なお、「純利益」とは、必要経費を差し引いた利益のことだから、あいてが不動産だと「管理費」や「修繕費」などの大物経費を引き算する。
これらは、人手不足の昨今、増加傾向にあるから、いくらぐらい稼げるのか?という「期待」との関係では、マイナス要因になっている。

いま、東京の居住用不動産のキャップレートは、リーマンのころから半減して、おおむね3%台にある。
これだけ金融緩和してもインフレすなわち物価があがらない、物価のなかには「賃料」もふくまれている。

つまり、賃料はかわらないかむしろ下がっている状況にあるから、キャップレートが下がっているということの理由は、不動産価格が上昇している、という意味になる。
すなわち、バブルではないか?

政府がバブルをつくりだす、というのはあんがい伝統的な政策手法だから、いまさら感があるのだが、昭和の終わり=平成のはじまりの「バブル」をおもいだせば、この「政策のワンパターン」に、あきれるほどのお気軽さを感じずにはいられない。

令和における「バブル崩壊」は、どんな事態になるのだろうか?
もはや余裕のない金融機関が、はたして耐えられるのか?どころか、日銀すら耐えられるのか?

ちなみに、キャップレートをもちいる「収益還元法」は、投資家にとっての正攻法だから、不動産売買の対象ににもなる旅館やホテルにさんざん適用された。

いまどき、自社ホテルが、簿価で売れる、とかんがえる経営者はいないだろうが、純利益がいくらだから、いくらの不動産価値になるという計算はたまにでもやっておくとよい。

周辺のアパートやマンション賃貸業より利回りがわるいなら、よほど経営がうまくないという指標になる。
また、簿価が現実に役に立たないことをしれば、なんのための「簿価」なのか?ということにも気がつくものである。

「人材」がいないことの驚き

議席占有率で、衆議院の61%、参議院の約半分を占める与党自民党の議員数は、284名(衆議院)+65名(参議院)=349名 となる。

制度がぜんぜんちがうし、陳腐な比較ではあるが、アメリカの連邦議会は、上院が100名、下院が435名=535名が「議席数」である。
わが国は、衆議院465名+参議院465名=930名 である。

人口は、アメリカ合衆国3,272十万人、わが国1,268十万人だから、ずいぶんと議員数がおおいのはわが国のほうになる。

ただし、上述のように政治制度がぜんぜんちがうのは、「州」というほとんど「国家」といえる地域の「連邦」がアメリカ合衆国だから、単純比較がむずかしいのである。

たとえば、日系移民だけでなく、さいきんのシルバー移民に断然人気である「憧れのハワイ」州をみると、下院51名(任期2年)、上院25名(任期4年)で、人口は13十万人ほどである。

これは、山口県、愛媛県、奈良県、長崎県とほぼおなじ人口数である。
「州」はふつうの「国家」に相当する権限をもっているから、中央政府のいいなりが原則のわが国「都道府県」とは、単純比較はできないことを強調するが、念のため各県議会の議員数をしめす。

山口県:47人
愛媛県:47人
奈良県:44人
長崎県:46人 となっている。

市議会ならどうか?
ニューヨーク市の人口は86十万人だから、わが国最大の横浜市37十万人と比べるべくもなく、しっかり倍以上あって、わが国都道府県3位の大阪府の人口に匹敵する。

ニューヨーク市議会は、定数51名(任期4年)だが連続3選禁止になっているから、2期務めた議員は4年間以上議員をはなれないと再び選出されることはない。
高校生のマーチング・バンドが、コンテストでの「全国大会金賞」受賞校が、3回連続して大会出場できないことにている。

なお、議員の基本給もきまっていて、年給で112,500ドル(約12,375千円)で、委員会の役職などで追加になる。

「市」といっても、やっぱり日本のような「弱い」自治体ではないから、単純比較はできないが、議員数と民主主義の成立には、数がおおければよい、ということではないとおもえる。
大阪府の議員数は、88名、二重行政が話題の大阪市は、86名なので、あわせるとニューヨーク市の3倍以上の議員がいる。

もっとも、議員報酬にかんしてはさまざまで、ヨーロッパにはほとんど「無報酬」ということもある。
これは、議員というものが職業ではななく、職業人が議員になる、という発想があるからである。

働かざる者喰うべからず、を追求したというより、効率に関係なく全員をなんらかの職につけた社会主義国では、職業人が議員になる、のは当然だった。

そんなわけで、むかしは、社会主義国の入国審査(イミグレーション)で、入国審査官から「職業は?」と質問されて、「議員」と胸を張ってこたえたら、入国拒否されたという笑えないはなしがあった。
「議員」は「職業」ではないという「建前」からである。

わが国に議員はたくさんいる。
国会からして、学校なみにいる。
だから、人材がいるのだろうとおもうと、そんなわけではなさそうだ。

「大臣」や「入閣」ということが、こんなにも軽いものになっていいのだろうか?
あるいは、こんなにも緊張感がなくていいのだろうか?

「五輪相」の辞任と就任は、こんな素朴な疑問をつよくする。
世間から、かくも浮き上がったひとが、国民の代表だということのいいようのない閉塞感は、「不安」という感情をよびおこす。

しかして、千葉県の当該選挙区の住人も、選挙で人材を選べない、という閉塞のなかで、だれかに投票せよといわれてしかたなく、があったのかもしれない。

ニューヨーク市のように、多選を禁止するのはよいことだ。
「休職」しているあいだによいひとが立候補してくれるかもしれない。
しかし、個人的希望をかけば、選挙で「不信任」の意志表示をしたいのだ。

信任された数と、不信任の数をくらべればよい。
トップ当選のひとが、不信任になれば、選挙はやりなおし、というルールはできないものか?
次点が当選ではいけない。

こうでもしないと、緊張感がまるでないことがどうしてもつづくだろう。
それは、人材の「枯渇」ではなくて「埋没」を促進させるのである。

企業組織においても同様の現象がある。

ひとがいない、とぼやくなら、「埋没」している人材をさがしだす努力をしなければならない。

適当なコストコの勝ちかた

国内では「消費不況」といわれて、小売業の軒並みの不振がつたえられているけれど、巨大なアメリカのスーパーというあたらしい概念で成功しているのが「コストコ」である。

年会費という入場料をあらかじめ納めないといけないから、厳密に安さ「だけ」をかんがえると、あんがい元をとるには大量買いがひつようになる。

それに、しらないうちに、年会費が値上げになっているし、提携カード会社も勝手に変えて、さんざん入会キャンペーンをやっていたカードすら使用不可になった。

日本的発想なら、顧客からのクレームがこわくて、こんな一方的なことは極力避けるか、社内で提案しようものなら「バカあつかい」されそうだ。
じっさいに、どのくらいのクレームがあったのかしらないが、店内でトラブルめいたことを目撃したことはない。

これは一体どういうことなのか?

消費者は直接的な価値を買っているの「ではない」、というマーケティングのセオリーをあらためておもいだせば、ふと気がつくのだ。
アメリカの生活という「疑似体験を買っている」のだとおもえば、それはもう「アミューズメント・パーク」だからである。

東京や大阪にある、本物のアメリカのアミューズメント・パークの入場料は、べつに消費者の意見をきいて決めているものではないし、支払方法だって一方的でも文句をいわない。
客が文句をいうのは、「陳腐化」に対してだろう。
つまり、事前期待値が達成されないときに発生する。

ふつうの主婦なら、コストコの商品が「すべて」どこよりも安いとおもっていない。
それよりも、「アメリカらしさ」がうしなわれたら、たいへんな不満がおきるはずなのだ。

ヨーロッパを制したはずのカルフールが、日本の西友を買収しても、そこに「ヨーロッパの香り」はなかった。
おそらく、これがカルフールが不振の原因だとおもうのだが、実際のヨーロッパのカルフールの店舗も、日本の大型スーパーとあまり変わらないから、もともと「ヨーロッパの香り」なんてものはなかった。

「旧大陸」のふるい流通、そして、日本のふるい流通という古いものどおしが「近代的合理性」を追求したのが共通にある。
だから、もはや「新味がない」ということになったのだかんがえれば、これはもう「文化論」になる。

日本にきたときのコストコは、世界ランキングではそんなに目立った存在ではなかったけれど、「アメリカの消費文化伝道師」として、圧倒的な支持をえることに成功し、会社も急成長した。

それは、「大雑把なアメリカ」というイメージと、「個人の大量消費」とがむすびついた、常識破りの「物量」が、細かいことに気を配る、わるくいえば「ちまちました」日本文化との対極にあったから、はじめてこれを体験した日本人は「ぶったまげた」のである。

みたこともない巨大なパッケージの洗濯洗剤や、牛肉のかたまり。
なによりも、ショッピングカートの冗談のような巨大さが、まるで別の世界を演出した。

それは、従業員たちの「人種」もふくまれる。
日本人だけで構成される売り場しかみたことがなかったから、外国そのもので、しかも、かれらの胸には「ファーストネーム」だけが大きくアルファベットで印字されている。

こうなると、細かいことに気をつかうことがすっ飛んで、「大雑把」のお気軽が快適になるのだ。
そうなれば、「個人の大量消費」にはしって、巨大ショッピングカートが満杯になるまで購入する。

スロープ状のエスカレーターでは、みせびらかしの消費に満足するひとたちを見つめながら、これから売り場にむかうひとたちが他人のカートの中身を無言で評価するのだ。
そして、自分たちも一杯になったカートでエスカレーターに乗る姿を想像している。

おどろいたことに、コストコでは「欠品」がふつうにある。
それで、ヘビーユーザーたちが、かってに情報サイトをたちあげて、お勧めの品と、欠品・入荷情報を提供してくれる。

これが、どのくらいコストコ本体の業務量を削減させているのだろうか?
かつてのアップルコンピューター「マッキントッシュ」が、純正品だけではなく、ぜんぜん関係ない「サードパーティー」というひとたちが、欠けている機能を埋めていたような現象とおなじなのだ。

コアなファンを満足させれば、あとからいろんな価値がついてくるのである。
コストコは、この構造をポーカーフェイスでつくりあげているのであって、もはや簡単に他社がまねできないレベルになっている。

適当な大雑把さが周辺を巻きこんでうまれた、あたらしいビジネス・モデルである。

「おもてなし」文化に依存する、日本のサービス業にはできない、と言い切れる。
ということは、「おもてなし」文化に依存するのをやめたら、できるかもしれないことをおしえてくれている。

これは、製造業でいう垂直分業ではなく、水平分業に勝機があるのとおなじことなのだ。
つまり、なんでも自社でかかえこむ従来型のビジネス・モデルを継続することの困難さをしめすのだ。

おしえ方をならわない教職課程

そういえば、教職課程というものが大学にあった。
ふつうの卒業単位とは別に取得しなければならないけれど、教育実習もちゃんとこなせば、学士卒業といっしょに「教員免許」がもらえる制度である。

この免許があれば、一般大学出身者も、中学校や高等学校の教員に採用される可能性がある。
小学校は、教育学の専門学部や専門大学出身者になるから、別扱いにする。

免許があるからといって、教員に採用されなければ教師にはなれないから、自動車運転免許があってもクルマを運転しないのと同様に、「ペーパー化」することだってある。
むしろ、生徒数も減っているから教員採用数もすくなくって、「ペーパー・教員」はふえているのではないか?

そうすると、高学歴化と「ペーパー・教員」の関係はどうなっているのだろうか?
つまり、教員免許をもっている親が、学校にたいしていろいろ発言するのと、なんらかの関係があるのだろうか?という疑問である。

その目線で、世の中の話題をながめると、学校と保護者との問題で、「授業でのおしえ方」が話題になっているのを聴かないことに気がついた。

教職課程では、専門の「おしえ方」をおそわらないのだ。
だから、授業参観でも、授業のテクニックについて話題にならないのではないか?

すなわち、教員オリエンテッド(志向・優先)なのである。
これは、以前に「教え諭す」と書いたとおりだ。
つまり、教師 → 生徒 という一方向の矢印であらわせる。

おしえ方を大学でならわなかった新任教師は、どうやってじぶんの専門授業をするのか?
それは、教師用の教科書である「手引き」がおしえてくれるようになっている。

学習指導要領と教科書検定は、セットものの定食のようになっていて、どの出版社の教科書を選定するのか?が新聞ネタになっている。
しかし、新聞ネタになるような、たとえば「近現代史」では、なにが教科書にかいてあろうが、授業ではどうせやってもせいぜい昭和のはじめまでである。

授業での場面でしか、生徒のほとんどは教科書を読まないから、日本国民のおおくが、近現代史の「戦中と戦後」をしらないで、とにかく「戦争はいけない」とおそわるのである。

だから、セットものの定食の中身はどうなっているのか?について、たとえ議論されても「教科書」のほうだけで、「学習指導要領」とその「手引き」が話題にならない不思議がある。

ここにも、教員オリエンテッド(志向・優先)が存在している。
すなわち、先生用の虎の巻には、なにが書かれているのかを保護者も、世間もしるよしがないのだ。

無気力な教師がいるのはむかしからだが、無気力でもいちおう授業が成りたったのは、この「虎の巻」のおかげではないのかとおもえば、やはり気になるのは人情だ。

しかし、一方で、上手の手から水が漏るような情報をえることもある。
来日したオーストラリア人一家が、日本でみつけた珍しいものの筆頭に「鉛筆」があったのだ。

母親は、オーストラリアの学校では、全員がタブレットをつかうので、ペンや鉛筆すら子どもは持ち歩かないし持っていない、という。
ましてや、もう店で鉛筆を売っているのをみたことがない、と。
それで、「懐かしい」といっていたのが印象的だ。

道具(ハードウェア)が問題なのではない。
だから、日本ではいまだに黒板と鉛筆がつかわれていることが、「遅れている」といいたいのではない。

これは、何度か書いている「教育用電卓」の授業での活用が、先進国で日本だけ導入されていない、ということの本質である。
なにをおしえ、理解させるのか?
についての「研究」とその「成果」が気になるのである。

つまり、生徒にぜったいにわからせる、という決心の表現なのだ。

子どもへの教育は、その国の将来をきめる。
官僚になれ、などという野暮なことではない。
よきクリエーターであり、ビジネスマンたるには、よき教育が必要不可欠だからである。

わが国がアジアのなかで唯一の成功体験ができたのは、教育にあったとはだれでもしることだが、明治期からのほとんどおなじ教育方法で、21世紀にも成功体験ができるとはかんがえられない。
これには、学校制度もふくまれる。

なのに、あいかわらずの変わらない発想で、プログラミングを重視するというのは、あまりに貧弱すぎる。

もはや、学校はレジャー化がすすんで、小学校までもレジャーランドになっている。
一方で、学力のほうは、民間の「塾」がたよりだ。

さらに、ネット空間では、動画再生回数が報酬をきめるというルールで、すぐれた「教員」が、免許の有無にかかわらず、すぐれた「授業」を制作して無料視聴できるようになっている。

そこには、ぜったいにわからせる、という決心にあふれているから、生徒が陥るだろう「わけわからん」の分岐点を先回りして、しっかり捕捉し、すっきりと「わかった」に導いている。

おしえ方がわかるのは、わからないがわかるからだ。

ネット動画の「ぜったいにわからせる授業」が、教育分野における「イノベーション」なのであって、学校でおこなうパソコンをつかったプログラミングの授業なのではない。

おとなはこのちがいを、ちゃんと認識しなければならない。

ひな祭りの桃

昨日の日曜日が旧暦の3月3日だった。
つまり、ほんらいの「桃の節句」である。

桃が開花しようはずもない「新暦の3月3日」にひな祭りをやるのは、強引で無粋であるのに、すでにそれに疑問をかんじるひとがいないほどに、日本人から季節感がうすれてきている。
あるいは、「変だ」という感覚の鈍感さをいう。

ことしは桜の開花がはやかった。
「桃源郷」の山梨では、ぼちぼち「桃のみごろ」のようだ。
桃畑では、桃の花見にやってきたひとたちを相手に、夏の桃の予約受付もやっている。

ここぞと咲き誇る桃の絨毯は、圧巻である。
咲いていない場所は、ブドウ畑である。
桜とはちがった花見を満喫できるから、春の山梨はすばらしい。

山梨の桃には、果肉が硬い種類がある。
ふつう桃といえば触っただけで指の跡がつくほどに柔らかく、ねっとりした果肉をイメージするから、はじめていただいたときには驚いたものだ。
しかし、これがうまい。

それ以来、硬い桃がたべたくて山梨にいく。
昨夏は、五回ほども農家の直売所にかよった。
いちどにたくさん買っても、日持ちしないから、少しずつ求めるしかない。

品種といっても、やっぱりもぎたての硬い桃が、うまいのである。
この種の桃も、日にちがたてば柔らかくなる。
農家の説明では、柔らかくなるのを待つひともいるそうだ。

だったら、さいしょから柔らかい種類を求めればいいのにと早合点したら、そうした種類の桃を混ぜて購入して、食べ時の調整をするという。
柔らかいのを好むひとに、アドバンテージがある。

県内の贈答用高級果物専門店できくと、硬い桃は贈答用としても敬遠されるそうだ。
県外の送り先の受取人たちは、桃とは柔らかいものというイメージがあるから、硬い桃は熟していない不良品だとおもわれるらしい。

そのイメージが大転換したから、わたしは硬い桃のファンなのだ。
コリコリした食感でありながら、なんともいえない桃独特の甘みと香りは、そういう意味でも山梨にいかないと食べることができない。

桃はその柔らかさのために、皮をむくのがおっくうだというひともいる。
しかし、硬い桃は、流水に両手で包むようにしながら表面をなでれば、うぶ毛がすっかりとれるから、そのままかぶりつけばよい。
りんごでもない、梨でもない、軽快なコリコリをたのしめる。

どうしてこの硬い桃のファンづくりをしないのか?
なんど通っても、不思議なのである。
それはまるで、山梨県人ローカルの秘密めいた楽しみなのかもしれないが、県外客にはイメージ破壊になるインパクトではないか。

地方によくある「症状」のうち、「過小評価」が過半を占めるとかんがえている。

「田舎だから『なにもない』」

これは、全国津々浦々に浸透している、「症状」なのだ。

それに、伝統が軽んじられてきたから、その地方の独自性にそこに住んでいるひとたちが気がついていないこと、あるいは忘れてしまったことが原因だ。

「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」とかんがえないのは、昭和の高度成長を「善」として、そこから取り残された地方を「悪」とする、ポストモダンのいきすぎた価値感がベースにあるのだ。

これを、過剰な都会へのあこがれ、といいたい。
「過剰」だから、都会人はくつろげない。
「善」とされてきた都会は、ストレスが渦巻く場所でしかなくなったから、田舎に憧れるという現象になっているのだ。

ところが、その田舎に、従来の「善」の単純な延長線上として「過剰」な都会への意識があれば、都会人はそれに幻滅し、とうとう本物の「都会」になれるはずのない地方をさげすむようになってしまう。
言葉はわるいが「百姓」の発想がすけてみえるのだ。

なにも、地方は田舎のままでいろ、といいたいのではない。
くり返すが「田舎だから『都会にないもの』なら豊富にある」を追求すればいいのである。
その世界的成功事例がスイスであることは有名だ。

ほんらい、ヨーロッパ・アルプスのちいさな山国は、とてつもない貧乏国だった。
とうとう、自国でのしごとがないから、男たちは周辺国が争う戦争の傭兵にまでなって出稼ぎに精をだした。

しかし、こんなことをしていては生きていけないと、かんがえてかんがえてかんがえ抜いて、いまのような生産性でも世界一のゆたかな国になったのである。

わたしが山梨県にガッカリしたのは、前にも書いたことしの知事選挙だった。

国家の予算を県にふり向ければ、山梨県は「停滞から前進」するという主張の与党候補が当選したのは、一にも二にも残念な発想である、と。
しかし、昨日の統一地方選挙をみれば、全国で与野党に関係なくおなじ主張が叫ばれていた。

桃の花見と硬い桃を買いに行きながら、温泉にでも浸かって帰るという、あんまりおカネをつかわないちいさな旅を、ことしもくり返すだろう。

山梨県だけでなく、各地で、衰退がとまらないのは、かんがえかたがまちがっているから、につきるのだ。

レジの並び方

「待ち行列理論」という学問があった。
「あった」というのは、「完成された」という意味だ。
だから、いまは、その理論の恩恵をうけた並ぶ方法が、社会の随所で採用されている。

ひとが行列をつくって並べば、とうぜん待たされる。
この行列をいかに短くして、待ち時間をすくなくするのか?というのが、この「理論」の「命題」である。

もとは20世紀のはじめに、電話の自動交換機の開発からはじまったという。
人間のオペレーターが、ジャックにつながった線を目的の穴にいれる「交換業務」を、自動化させるにはどうしたらよいのか?

問題は「接続」それ自体よりも、つぎからつぎへかかってくる電話を、電話局として待たさずに処理する方法が一番のネックだったのである。

ところが、電話をかける、という行為は、かけるひとからすればまったくの偶然で、気分にもよるから、これを予測することはできない。
そうやってかけてきた電話を、一つずつ電話局は相手の回線に接続しないといけないから、十分な余裕をもとうとすると、おそるべき巨大な交換機が必要になってしまう。

こうした交換機を、全国ネットで展開しないと、電話網は完成しない。
すると,電話局への投資はもっと巨大になって、採算にあわなくなる。
そんなわけで、人間のオペレーターが、なかなかなくならなかったのである。

「待ち行列」は、ひとつひとつの発生理由はまちまちでも、これらをあわせて「グラフ」にしてかんがえると、量の大小が時間経過とともにあきらかになる。

それで、何日分ものグラフをかさねると、「傾向」があきらかになって、そんなに巨大な交換機でなくても処理できるかもしれない、というアイデアになった。

こうしたグラフを「分布図」という。
「山」や「谷」があらわれる「図」になるのだ。

この教科書は、けっこう数式が説明につかわれているから、「文系」には厳しいとおもわれるかもしれないが、前半の「応用事例」がたいへん参考になる。

「数式」が理解できないことは、あえて「無視」して、「なんだかわからない」けど、世の中のだれかはこれを「ビジネス」につかっている、という「感覚」だけでも体験して損はない。

とくに「交通系」では、応用がさかんである。
近年、路線バスでも一定時間停車して「時間調整」をすることがあたりまえになってきたのは、こうした「手間」が、全体の運行をスムーズにして、結果的に停留所での待ち時間をすくなくして、到着時間を時刻表に近づけているのである。

さいしょは公衆電話の並び方で応用されたのは、電話局の面目躍如であったが、携帯電話の普及でだれも公衆電話に並ばなくなった。
けれども、災害時に公衆電話がぜんぜんないのも社会インフラとしてこまるから、利用に便利そうな公衆電話がのこされているのも、この理論を応用して「最小化」している。

それからは、銀行のCDやコンビニのレジなどでも、並び方の工夫がされるようになっている。
こうしたことは、生活体験でいろいろある。

ところが、こまった現象があらわになってきている。
それは、上述のような「待ち行列の理論」の「さわり」もしらないで、「決めごと」として片付けるひとがいるからである。

この理論を「完成」させたのは、第二次大戦中のアメリカでのことであった。
おそるべきは、戦争中にもかかわらず「お客を待たせない理論」をかんがえていたということだ。

われわれの発想なら、いまでも「ガマンせよ」という感覚がふつうになるのではないか?
つまり、この理論の「根本」には、提供者側がかんがえるもの、という本当の「おもてなし」の発想があるのだ。

それを接客最前線の従業員におしえないで、「ルール」として従業員におしえると、従順でまじめな従業員はお客に「強要」する態度をとるようになる。
「決まりだから、この線のところに並べ」と。

はたして、この従業員はなにをかんがえているのかと問えば、「なにもかんがえてなどいない」ということがはっきりする。
「うえからいわれたことをちゃんとしています」がこたえだろう。
もう一歩踏み込んで、「どうして『この線』に気づかないお客がおおいのだろう?」をかんがえないということだ。

わたしは、このことこそわが国の生産性が先進国ビリの原因だとかんがえている。
すなわち、もはや旧ソ連圏の社会主義国にふつうにあった、「売店」になりさがっているのだ。

もちろん、品物が豊富にあることはオリジナルとぜんぜんことなるが、働くひとの発想が、社会主義だといいたいのである。

どうしたらだまってお客がスムーズに並んでくれるのか?
ということを店舗ごとにかんがえさせないと、初めての利用客は困惑するばかりで、ついには「不愉快」になってふたたび利用する気がうせるものだ。

社長が交代するというニュースもある話題の最大コンビニチェーンや、もともとソ連型コルホーズを真似た農協の直売所(自由市場)に、この傾向が強いのは、なんだかなぁ、とおもわせる。

従業員は「無知」でいい。

それは、「客」をもバカにする発想なのである。

地方移住をかんがえる

人生をどうしようかと練ったとき、地方移住という選択肢もわるくはなくなった。
しかし、「夢の田舎暮らし」が、突如、「地獄の田舎暮らし」に変わることがある。

ゴミ出しも拒否されて生活できなくなったひとたちが、裁判に訴えでて話題になった。
裁判にはならずとも、そんな事例はたくさんあって、かなりのひとが「後悔」しているというから、慎重になるのはとうぜんだ。

これをよく「地方の閉鎖性」という。
しかし、都会には閉鎖性がないのかといえば、そんなことはぜんぜんない。

たとえば、マスコミが礼賛する「下町」と「人情」をセットにした暮らしは、ご近所さんとの濃密な交流を、いわば強要されている。
これを「近所付き合い」というには、いささか「濃すぎる」のである。
二階の物干しをつたって、隣の家の夕食の席に入りこむのは、かなり日常的なことでもある。

これを一度でも「わずらわしい」と感じたら、もう「下町」には住めたものではない。
だから、「下町」地域の「ドーナツ化現象」は、単純な人口減少ではなくて、意識的な流出があるのではないかとうたがうのである。

これは、京都でも耳にすることで、中京区や左京区といった中心街の老舗の若旦那が、結婚すると伏見や宇治に引っ越す理由になっている。
東京の「下町」より、さらなる「濃密」なご近所関係が、もはや現代では「きれいごと」ですまなくなっている。

この「濃密」さは、平面的なものだけではなく、歴史という時間軸がくわわるので、「先の戦」のことを応仁の乱だとする地域性からすれば、数百年来の「しきたり」を意味する。

西と東の「都」にしてこのありさまだから、つい最近まで外部との交流がうすかった地方における「特性」は、たんなる「特性」ではなくて、かなり「土着」のイメージがたかまるのは当然だ。

そこには、おそらく「京都」における、「歴史」という時間軸に、土地所有にまつわる上下関係がくわわるはずだから、より立体的かつ複雑な様相をみせることだろう。

すなわち、島崎藤村の『家』のような、本家と分家といった関係に、庄屋と小作といった経済関係のことが混じって、一歩まちがえば、横溝正史の世界を彷彿とするヒエラルキー社会の存在である。
あたりまえだが、土豪的お武家様の存在もふくまれる。

それは簡単にいえば、「家格」のことになる。

そんなわけだから、裁判になるのは、その地域の役所の情報提供に「不備」「不満」があったことを示すのだが、お気の毒かつ残念ながら、上述の「しがらみ」について、役所で情報を得られるとおもうことから、まちがっているといえそうだ。

こうしたときに、役立つのは公式的な見解なら「寺院」が、一般的な見解なら「飲み屋」がよい。

都会のじぶんの家が、どの宗派の檀家なのか?をまず思いだせば、おおかたの日本人なら、メジャーな宗派に属しているものだ。
これらのメジャーな宗派は、日本全国に末寺というネットワークを形成しているから、移住をかんがえる地域の同一宗派の寺院を紹介してもらえば、かなりわかりやすい「公式的見解」を得ることができる。

地方の地域には、あんがいいろんな宗派の寺院が狭い範囲にあるものだが、それらの寺院の建立のいわれからして、地域ヒエラルキーや地区の対立まで物語るものである。

それに、建立時期が徳川時代よりも前なら、そうとうな実力者の庇護があったはずだし、徳川時代なら、政治的な思惑があってのこととかんがえてよい。

これに、天台・真言を頂点に、以下、鎌倉仏教の各宗派がつづき、「一向宗」だった「真宗」という構造を組み合わせればさらによい。
あまりに勢力が強大だった「一向宗」を、「浄土真宗」と改名させて「東西」に分断し内部対立させたのは徳川家康の策略だ。

ご近所の飲み屋情報の重要性は、蛇足になる。
ある程度の「公式的見解」を得てからが、順番としては理想である。

地域の「しがらみ」は、どこに行ってもかならず存在するから、じぶんになじめるかが重要なのだ。
そういう意味では、新興住宅地や集合住宅のほうが気軽な傾向がある。
しかし、新興住宅地には、新興住宅地なりの「しがらみ」がある。

地方移住に失敗しないためには、事前の「調査」に手間をかけなければならないのは、やっぱり「自己責任」における必須事項なのである。

まったくもって、「経営」とおなじなのだ。

よけいな政府の景気判断

景気を「判断」して経営をするのは、民間だから、政府は正確な統計データの提供という「行政」を、粛々とすればいい。

日本政府という「開発独裁」のDNAをもった組織は、なにかとしゃしゃり出ることがだいすきで、「経済主体」は政府だとおもいこんでいるふしがある。
このとてつもない勘違いを、だれも正すことができない。

これは、裏返せば民間が政府の景気判断に「依存」している実態が、おかしいということである。
つまり、日本の経営者は、経営者の役割をじぶんで果たそうとせず、政府にゆだねてしまっているのだ。

だから、政府の勘違いを正すどころか、むしろ民間がいきすぎた政府機能の「維持」を要望してしまっている。
むずかしくてわからないなら、民間のシンクタンクが提供する情報をつかえばいい。

民間のシンクタンクが、特定会員向けとして、詳細情報を有料にしても、それを買えばすむのである。
そうすれば、政府の情報は必要なくなって、役人を民間に振り替えることもできるから、税負担も軽くなると思考すべきだ。

民間のシンクタンクはいくつもあるから、ちゃんと当たるところに人気があつまるだろう。
読みがはずれるシンクタンクには、淘汰の波がやってくる。
これは、有料になればなおさらだから、ただしい競争原理がはたらく。

いまは、民間のシンクタンクまで、政府の動向次第というエクスキューズがあって、業界のどちらさまも「救われている」から、競争にならない。
民間を見下す政府と、政府に依存したシンクタンクという、中途半端のダブルパンチで、救われないのは、おおくの民間企業なのである。

つまり、みごとなピラミッド型になっていて、政府を頂点に中間を民間のシンクタンク、そして最下層が民間企業群になっている。
その民間企業群のなかで、さらに大企業と中小企業、その下に零細企業と個人事業主がいる。

以上は、景気判断という「情報リテラシー」のことである。
けれども本当は、零細企業と個人事業主が、もっとも景気に敏感である。
だから、このピラミッド型は、ひっくり返したほうがただしい。
ところが、社会も政府も、そんな「転覆」はみとめない。

政府はなんでもしっている、ことにしないといけないとおもいこんでいるからである。
まさに、ここに「ソ連型社会」が垣間見えるというものだ。

そんなことだから、「実体経済の構造」とほとんどおなじにすることにしている。
ここでいう「実態」とは、人為的につくるものになっている。

さて、このピラミッド型にある民間のシンクタンクの位置には、金融機関もふくまれる。
それは、おおくの国内シンクタンクは、金融機関系だとおもえば納得できるだろう。

国内金融機関の能力が国際的に低く保たれているのは、系列シンクタンクの政府依存でもよくわかる。
政府の発表を「分析」すれば、ことたりるようなシンクタンクを、シンクタンクというひとは世界にいない。

国民にとって理想的な「行政」とは、どにいっても「おなじ」サービスをえられることだから、「機械的な行政」がもっとものぞましい。

しかし、日本国政府という行政機関は、法の下にある「施行令」、「省令」、「施行規則」、「通達」、「告示」といった、さまざまな手法で、役人が恣意的に命令できる権限をもっている。

だから、ぜんぜん「機械的な行政」ではない。
いったん「発令」されたら、機械的に世の中が「発令どおり」になる、という意味で「機械的」なのであって、意味がまったくちがう。
こんな「機械的な行政」を、この国では「法治主義」といっている。

しかし、こうした「法治主義」が、通じなかったのは、たとえば「原発事故」で、「法令」によって「安全が確保されている」ということが、現実の物理世界では歯が立たないどころか、イソップの寓話のようなことが現実になってしまった。

処理におカネがいくらかかるのかもわからない状態で、「兆円単位」の議論がされているが、この議論には「期間」すらも不明のままなのだ。
だから、われわれ日本人が、いったいいつまで、いくらの負担を背負っていかなければならないのかがわからない。

こうして、原発事故処理は「他人ごと」になっている。
それを意図してかしらないが、「安全が確認された原発」として、国内どころか外国にも輸出しようとして、こないだは英国で日立が大損を計上した。

勉強しすぎておつむのネジが数本どころかほとんど崩壊しているのではないかとおもわれる「頭脳」をもって、「判断」しているというのは、わるい冗談だとすますことができない。

政府は、機械的『に』行政をするのではなくて、機械的『な』行政をすべきだ。
だから、役所の統計不正は、根幹にあたる重要な問題なのである。

これは、機械的『に』行政をやりたくて、都合のよい統計結果を欲するという、統計学の初歩で最大注意される、よくある「誘惑」なのだ。

政府が景気判断をして、その結果、実体経済に政府がコミットすることが「あたりまえ」だとする20世紀型の発想をつづければ、政府は政府に都合がよい「統計」を発表するようになる。
それは、実体経済を歪めるという、まったくもっての「猛毒」が社会にまかれることにひとしい。

もし、政府の景気判断が「必要」だというのなら、それは、じぶんで判断力をうしなってなお、きがつかない「麻薬中毒」である。

規制緩和をぜんぜん進めない政府にして、政府機能の縮小はもはや望むべくもないのか?
それは、国民が麻薬中毒になったことの証拠でもある。