商品ではなく理念を売る

自社は、なにを売っているのか?

あんがいこれをちゃんと意識できていない企業はおおい。
ドラッカーは、自社がどんな価値を提供しているのかをみつけることが経営の肝心かなめだと指摘したうえで、それがなにかをみつけることの困難さ、について書いている。

つまり、自社は、なにを売っているのか?をちゃんとしっている企業は、おもった以上にずっとすくない、ということだ。

くわしくは、名著『マネジメント』にある。
大ヒットした『もしドラ』には、『マネジメント エッセンシャル版』なる「簡略版」の広告が裏扉についていたが、ひるむような大著の「原著」のほうをおすすめする。

 

 

アメリカ人の学者が書く「教科書」は、どの分野でもおおむね「大著」になっている。
その理由は、時代を代表する大学者が、懇切丁寧に説明しているからで、よってわかりやすさとページ数がトレードオフの関係になっている。

つまり、『マネジメント』という歴史的な価値もある教科書の原著は、ドラッカー自身が、かんで含めた説明をしているので、分量はあるがいいたいことが正確に表現されていてわかりやすい。
ページ数をすくなく要約した簡略版のほうが、じつは理解度という点で、はるかに難易度が高いことになるのである。

だから、「素人」ほど、簡略版にてをだすと「やけど」する。
「やっぱり、ドラッカーはむずかしい」になってしまうだろう。
そうはいっても、「原著」のボリュームはたいそうなものだから、気をいれて読まなければならない。

そこに目をつけた、いろんなひとたちが「解説本」をだしているという次第だから、ドラッカーは、くしくもじぶんの本の関連事業という分野も世の中に提供したのである。

「どうやったら売上がのびるのか?をおしえてほしい」

初対面でわたしも、何人かの経営者に質問されたことがある。
しかし、残念ながら適確なこたえをその場で提供することはできないし、もし、部外者のわたしがそのこたえをしっていたなら、コンサルタントなどという商売をとっくにやめている。

おおくの経営者がおちいっている「問題思考」は、ほんとうはなにを売っているのか?をしらないのに、売上の伸張だけをかんがえていることである。

わかりやすい説明として、ヤマト運輸を宅急便のヤマト運輸に育てた、小倉昌男『経営学』(日経BP社、1999年)がある。

この本でいう「サービスが先、利益は後」の「サービス」という用語が、ヤマト運輸のばあいにおいて、ドラッカーのいう「価値」を意味していることに注意したい。

だから、サービス業という共通項で、この用語「『サービス』が先」、と経営者がいうだけでは、残念ながら「詰めが甘い」ということになる。
自社にとっての「サービス」とはなにか?
そのサービスを購入してくれる、お客様の目的や利益とはなにか?を、自社なりに「追求しつくす」ことが必要なのだ。

「東京12チャンネル」という、地上波民放の「お荷物」といわれ、マイナー感がたっぷりあったテレビ局が、日本経済新聞社の傘下にはいって、「テレビ東京」と衣替えしたら、いまや独自番組で一目置かれる存在になっている。

ところが、例によって「免許」の関係で、関東近郊でも視聴できないエリアがある。
それで、月額500円という価格で、「オンデマンド契約」すれば、ネット配信という方法で、経済番組が見放題になる。

たとえば、新潟県。
わたしのクライアントに役に立つ番組が放送されたので、てっきりみなんさんが視聴していると思い込んで話題にしたら、「この地域では放送していない」といわれてこまったことがあった。
おなじことが、先般、伊豆半島でもあった。

今週の「カンブリア宮殿」で、回転寿司の「銚子丸」が紹介されていたが、まさに、「理念を売る」ことを実践している企業だ。
創業者の先代社長が、アメリカ視察で現地の経営者から直接指摘されて開眼したというエピソードがあった。

このアメリカ人経営者は、ドラッカーのよき読者か教え子だったのではないか?と推察する。

そのアメリカでは、とっくにテレビ受像機を製造していない。
かつての日本製テレビに市場が席巻されて、アメリカ人はアメリカ製のテレビをだれも購入しなくなったからだ。

そして、われわれ日本人は、そんなアメリカを傲慢にもバカにした。
テレビすら自国でつくれないとは、と。
しかし、アメリカではテレビよりも「進んだ」製品やサービスを売っている。
これが、「先進国」の「先進」の意味である。

なぜ、「先進」が達成できているのか?

商品ではなく理念を売ることに専念したら、いつの間にかそれが「先進」だったからである。
そのベースに、消費者の希望や要望が折り込まれているからだ。

ドラッカーは、アメリカで「生きている」のだ。

上司は「補助輪」である

春である。
進学、進級、就職と、ひとが人生のふしめをむかえて、なんだか気分がたかまるじきだ。

暖かさにつられて、そろそろ子どもに自転車をあたえようか?

しかし、あんがい悩みだすと決められないかもしれない。
交通ルールがちゃんとわかるのか?
公園での乗りまわしだけに限定しようにも、おそらくそうはなるまい。
近所の交通事情をかんがえれば、やはり危険ではないか?

そんなこんなで、わたしはとうとう自転車を買ってもらえなかった。
なぜか妹が買ってもらったから、その自転車で練習した。
高校生になって、じぶんの小遣いで、友人から中古のサイクリング車を購入して、通学につかっていた。

ひとりで乗れるようになると、補助輪がじゃまになる。
それで、かってに父親の工具をだして、補助輪をとりはずして乗りまわしていたら、帰ってきた妹と大げんかになった。
まだ補助輪がひつような妹は、わたしの自転車をどうしてくれる、というわけだ。

しかたないので、また補助輪をつける。
これを何度かくり返して気がついたのは、妹にはやく補助輪なしで乗れるようになってもらうことだった。

それで、いっしょに広場へ練習にでかけてコーチしたものだが、妹は急にやさしくなった兄をいぶかったのはいうまでもない、、、のもつかの間、すぐに魂胆を読みとられたから、子どもだってばかにならない。

わたしの魂胆がおおきくはずれたのは、妹が補助輪なしで乗れるようになったら、じぶんの自転車をひとりじめして、わたしが乗れなくなったことである。
それで、同級生の弟の自転車にめをつけた。

これは、擬人化してかんがえると、上司と部下の関係にも読もうとおもえばよめるはなしになる。

わたしという人間が、だんだんと補助輪と一体化していくのである。
そして、部下がひとりだちできるようになると、わたしという「上司」が部下の成長に,こんどはじゃまになるのだ。
それでまた、あたらしい部下がやってくる、という循環である。

もちろん、ひとりだちできた「部下」も、あたらしい「部下」を得るようになって、じぶんが補助輪の役になる。
ところが、ここで「DNA」のコピーミスが発生することがある。
それは、「補助輪になる」ということを、本人が承知していないことが原因である。
つまり、さいしょの上司が、部下の卒業時に「上司は補助輪だ」という種明かしをちゃんとしていないことがいけない。

それで、「じぶんが」という主張がさきにでて、できない部下をなじれば、一気に「上から目線の立場」が確立するのである。
それで、一歩まちがえば「パワハラ」になってしまう時代になった。
部下育成には、上司の献身的な努力がひつようなのだということを、わすれてしまった「上司」と「部下」の悲劇である。

そうしてかんがえると、じぶんが補助輪ではなく、「じぶんが」だけしか認識できていない人物にとって、部下の育成とはナンセンスなものになる。
第一に、部下はかってに成長するもので、それは不断の自己研鑽による、という理屈である。
第二に、できない仕事をできない部下のせいにすることができる。
第三に、部下だって「おとな」であるという都合のよいいいぶんがある。
つまり、部下は上司をもり立てるべき存在である、という認識だ。

これは、封建時代の「大将」の発想のようでもある。
「会社は学校ではない」という経営者も存在する。
当然である。
しかし、「社員教育」が機能として内在するのが会社であるから、一刀両断で決めつけることはできない。

「スピードがもとめられる時代」
これは、部下の育成もおなじで、あるレベルまで、いかにはやく育成できるか?という意味になる。

じつは、ここに「人件費」も関連する。
「一人前に『なる』のに10年かかる」というのは、「一人前に『する』のに10年かかる」というのとおなじで、会社組織なら「なる」のではなく、意志として「する」からである。

これまで、10年かかっていたなら、なんとか9年でできるようにする。
一人前になるのに1年はやくなれば、1年分の「差額」を企業は手にすることができる。
5年ならどうだ?

これを実現させる方法のカギは、おそわる側よりもおしえる側にある。
いかに上手におしえることができるのか?
という研究なくして、達成できない。
すると、どんなに業務に精通しているベテランでも、その「やり方」を他人に、ましてや「素人」に教え込むのは、じつはたいへんに難しいのだ。

だから、ふつうはできない。
それで、「10年」ときめつければ、楽ができるのだ。
しかし、「スピードがもとめられる時代」に、会社はそうはいかない。

上司が「補助輪」になれる組織風土が、これを達成するのである。

「感動工学」の教科書

人間を科学する、といえば、まず「人間工学」がうかぶ。
これは、人間という動物の骨格やら筋肉のつきかたから、どういう座面にすると疲れずに長時間快適にいられるか、といった側面を「工学」したものだから、物理的なのである。

大学の学部には、「人間科学部」というのもできて、こちらは心理学などを応用して、感情を科学するというアプローチもくわえている。
現代では、いかに人間をストレスから解放するか?という問題は、社会的ニーズがたかくなっているし、「心とからだ」を「総合・統合」しないとわからないことばかりだと気がついた。

もちろん、むかしからある「医学」も、人間を科学する学問だし、経済学や政治学だって、人間がわからなければこたえがみつからない。
そんなことをいったら、文学も芸術も、法学も、どれもこれも人間を理解しないとつうようしないから、哲学はむだではないこともよくわかる。

いまは、どの学問分野も専門によって細分化されてしまった。
だから、伝統的な学問分野の名前だけをみると、おそろしく深い世界にはいりこんでいるようにみえるが、ひとりの偉大な人物がその深堀をしているわけでも、指揮をしているわけでもない。

無数の「専門家」が、その専門部分をまるで一本の針でつついているような姿でいるのに、おおざっぱな目には、ある分野の深掘りがすすんでいるようにみえるだけだ。
つまり、新聞などの写真印刷のように、部分ではちいさな点(ドット)でしかないものを、遠目からみれば画像として認識するようなものである。

ほんらいの「教養」が「教養」でなくなったのは、こうした細分化が原因で、専門家には、専門外のことになると、とんとわからぬ世界になってしまった。

さらに、わが国の教育には、世界に類例をあまりみない、「系」という区別があって、「普通科」の高校生を「文系」と「理系」にきめつけて「専門化」させているのは、「総合・統合」への「反逆」をつづけていることとおなじだ。

オルテガがいう「大衆」とは、そんな「専門家」のことを指す。
だから、いわゆる労働運動などでいう「大衆」とは、ぜんぜん意味がちがうから、このちがいを意識しないと議論が混乱する。

むかしのテレビCMで、「わたしつくるひと、ボクたべるひと」というのがあった。
当時ですら、決定づけられた男女の役割分担に批判があったものだが、企業活動が「モジュール化」した現代では、すでに役割分担がはっきりしてきている。

たとえば、店舗づくり、という場面では、それが「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、コンセプト・メーキングにあたっての自社社員が「いない」ということがおきている。

典型的なのは、いまなにかと話題の「コンビニ」で、はたしてオーナーがどれほどじぶんの店の「店舗設計」にかかわれるのか?ということすらかんがえることもないだろう。
それがまた、「本部」の存在意義にもなっているからである。

上述の、「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、というのには、大手であろうが個人経営であろうが、も条件にくわわる。
つまり、たとえ「改装」や「改修」であっても、設計を他人に丸投げして、できあがった店舗を「運営」するだけ、ということができるようになっているのである。

ところが、ここにおおきな落とし穴がある。
店舗の工事「設計図」が他人まかせということには、まさに、「営業コンセプト」もふくまれるから、コンセプトから設計まで一貫しての「他人依存」という意味になる。

すなわち、じぶんの店の「根幹価値の創造」を他人にまかせることになっている。

もちろん、優秀な「請負人」は社内や社外にいるもので、こうした「プロ」にまかせれば、じぶんや自社での負担がないようにみえるから、まるで「リスク軽減」ができているようにもみえる。

しかし、この店舗で「稼いで」、その結果として生きていかなくてはならないのは、あくまでも「じぶんたち」なのだから、どうやって「コンセプト・メイキング」をするのかは、そのときに専門家におしえてもらっても、次からは自分たちでやる、という気概があっていい。

にもかかわらず、それも面倒だとすれば、それは、自社で不動産を所有する意味がないビジネスモデルになりさがる。
これを、「経営と運営の『分離』」というなら、おおいに異議のあるところである。

毎日、お客と接しているので、その声からどういった店づくりがよりよい価値をつくるのかを検討するのは、当然すぎることなのに、それを放棄しては元も子もないはなしになるとおもうからである。
つまり、前述したオルテガのいう「大衆化」が、ここでもおきているのだ。

そんなわけで、上に紹介した書籍は、情報通信という業界のはなしを例にしているが、「統合化」という方向に逆ブレしていることに注意したい。

具体例が、ハイテクのむずかしい産業だから、じぶんたちとは関係ない、とかんがえるのも「大衆化」である。
主張の「パターン」を読みとれば、じぶんたちに「おおいに関係がある」のものだと気づくはずだ。

すると、本業はなにか?
という「原点」にかえれば、お客を「メロメロにさせる技術」が、問われるというあたりまえにもどることになる。

個々のサービスの瞬間は録画でもしないと記録できないが、そのための「舞台」となる施設や設備が必要になるのは、サービス提供をおこなうものの宿命である。
だからこそ、これを他人まかせにする、ということの「あやうさ」をいいたいのだ。

そこで、そんなかんがえをたしなめるためにも、『感性商品学-感性工学の基礎と応用-』(海文堂、1993年)あたりをご覧になってはいかがかとおもうのである。
バブル崩壊後の苦しい時期に、王道追求の教科書がでているからである。

あたかも、ものづくりのメーカーさん向けにみえるかもしれないが、はたしてそうなのか?

この春の、サービス業の新入社員にもよい教育カリキュラムになるはずなのである。

「勉強法」をおしえてほしい

学校のときの成績や受験による学校選択で,人生がおおきくかわる,というのは,国・地方どちらにせよ高級官僚になるならまだしも,専門職で生活しようとしたらほとんど関係ない.

むかし,法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」がわが国には三行あったが,ぜんぶなくなってしまった.

これらの銀行は,旧帝大出身者だけが事実上の幹部候補で,あとは切り捨てていたが,その特権をもった「幹部」のひとたちが「患部」になって,会社を潰してしまったという共通点もある.
それに,法律でまもられていたのに破たんしたから,法律ごと吹っ飛んだ.

ところが,こんな事実をしっていても,おおくの親たちは「いい学校」に入学させたいとかんがえている.
それは,漠然と「高級官僚」の「安定」が,子どもの将来に望ましいとかんがえているからにちがいない.

役所がダメなら大きな会社,いわゆる大企業志向はつきない,というわけである.
ところが,バブル前というずいぶんまえから,本当に優秀な学生は「起業」を目指していた.

エスカレーター式の「年功序列」のなかでは,飽き足らないという発想である.

しかし,日本企業の「年功序列」がほんとうに「年功序列」なのかというと,あんがいそうではなく、それなりに「実力主義『的』」なこともあって,在職年数をかさねながら,先輩後輩のあいだの縦の「序列」と,同期のなかでの横の「序列」が,本人のしらないところでさだめられていく.

これに,最後はトップ層の「好み」というおビックリが,年次の序列を無視して,「何人抜き」のおビックリな決定をくだすのである.
なんのことはない,「好き嫌い」ということが,最終決定要素なのだが,その決定リストに載らないと,はなしにならない.

そんなわけで,部長の声がきこえだすころには,本人たちもだんだんと「序列」がみえてくるようになっている.
民間なら一線をこえるのは,「取締役就任」ということになる.
取締役は,経営者になるから,使用人である従業員とは身分がちがう.

会社登記も必要なので,印鑑証明と実印を会社に提出することになる.
それで,晴れて就任すれば,まず一回目の退職金(割り増し)を手にする.
割り増しになるのは「会社都合」で従業員を辞めてもらって,経営陣に採用された,という手順だからである.

二回目は,役員退職慰労金,ということになる.
だけど,子会社がいっぱいある大企業なら,本社の役員を辞めても子会社の役員の口があるから,民間でもちゃんと「天下り」できるようになっている.
じつは,ここに役員の「年功序列」がある.

学校で成績がトップだった人物が役人になって,かれらが役所でやることのコピーが民間にされるという流れは,「予算」がはじまりかもしれない.
国家予算の編成を,民間企業がまねたからである.

それで,「天下り」も,企業がまねた.
日本の大企業が,ことごとく活力をうしなっていることの原因のひとつに,「安泰」という勘違いがあるからだとうたがう.

法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」は,潰れるはずがない,という「安泰」で,なんでもかんでも貸し込んで,ありえないほどの回収不能におちいったからだ.
ふつうの料亭の女将の投資に入れ込んだスキャンダルも,「安泰」こそが原因だ.

神ならぬ人間が,どんなに優秀ともてはやされようが,しょせんは程度がしれているものだ.

そうした「安泰」のなかに,学校教師たちもいる.
起業しようという方向とは真逆の,安定志向がえらばせる職業になっている.

しかしながら,当然,いまどきもしっかりした「先生」はいるのだが,彼らの抜きがたい壁は,教育委員会という官僚機構で,そのトップは教師ではない「事務官」なのである.

もちろん,その上には「文部科学省」という官僚機構があるから,教師は教師ではないひとたちから支配されていることになっている.
それで,あいかわらず「何をおしえて何をおしえないのか」をきめるのも官僚だという,国民学校時代からの「戦時体制」が継続している.

じつは,高級官僚になるひとたちは,学校時代に「勉強法」を修得している.
いわゆる,いまどきでいう「効率的な勉強法」である.
この勉強方法は,効果があって,勉強を難行苦行にしないから,ちゃんと成績優秀という結果がでるようにできている.

それで,この方法をみんなにおしえると,エリートがいなくなる可能性があるから,なるべくおしえないように努力する.
その結果が,「学習指導要領」という「命令書」で,ここには勉強法をおしえることなど書いていない.

その文部科学省の命令にしたがう必要のない「学習塾」という業界は,自由競争下にあるから,塾生の成績をあげる結果をださないと逃げられてしまう.
すなわち,「結果にコミットする」のは必定なのである.

各科目の授業の内容以前に,「勉強法」というノウハウの有無が,それぞれの科目の成績に決定的なインパクトをあたえるのは,当然なのである.

じつはこれ,企業業績の改善でもおなじなのだが,気づいている経営者はすくない.

安くしないと売れない

日本がいまだに「先進国」といえるのか?といえば、2008年通常国会における大田弘子経済財政政策担当大臣の「経済演説」で、「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と認めたのは、歴史の転換点であった。

それでも、いまだ、先進国クラブである「OECD」のメンバーには一応とどまっているのだとかんがえた方がいい。
つまり、建前上は先進国だが、実態は「ふつうの国」になって、もう10年以上が経過しているということを、ちゃんとしっていた方がいいという意味だ。

それに、デフレ脱却をするために白川総裁を事実上更迭して、あたらしく日銀総裁になった黒田氏は、「2%のインフレ目標」を異次元政策で達成するといい放ったが、とうとうさいきん、あきらめたようである。
ならば、みずから辞任するのかと思いきや、ほかにやるべき手段をわかるひとがいないからではなく、だれも引き受けないから続行するしかないのだろう。

なんだか、颯爽と現れた天下の財務省「財務官」が、いまは焦燥して目の下のクマがめだつようになったようにみえる。
それは、インフレ目標が達成されれば、金利が上昇してたっぷり買い込んだ国債価格が暴落してしまうし、すでに日本株の5%ほどを保有するのが日銀だから、それをきっかけにした信用不安から株価暴落ともなれば、なんと前代未聞の「日銀が倒産」の危機をむかえる構造になっている。

だから、金解禁に邁進して昭和恐慌をひきおこした汚名をいまだに払拭できない井上準之助のように、末代までの恥辱をかぶる総裁にだれもなりたくないだろう。

日本経済は、「日銀天狗」という大天狗さまが一本歯の超高下駄をはかしてくれているが、その下駄の歯が折れたら大崩壊がやってくるようなおそるべき脆弱性があるのである。

日本銀行の資産は、昨年でわが国のGDPをこえてしまっているのだ。
じっさいに、日銀はじぶんで決めた方策で、インフレ目標を「達成してはいけない」状況をつくってしまった。

まさに、「八方ふさがり」なのだ。
これにくわえて、さいしょから現在まで一貫して「出口戦略」がまったくない。

真珠湾攻撃と構図がおなじなのである。
はじめたものの、終わり方をかんがえないのは、歴史に学ぶ謙虚な姿勢がないからだ。

黒田氏は3月4日の参議院予算委員会の答弁で、金融仲介機能の低下や金融システムの不安定化に関して、先行きの動向に十分注意していくと述べている。
精いっぱいの「他人ごと」にしてみせたものの、背中には大量の冷や汗がながれていただろうと推察するが、同情はできない。

金融仲介機能の低下、とは、おカネがまわらないという意味である。
つまり、経済の血液といわれるおカネがまわらないとは、たんに血行不良というものではなく、深刻な「貧血」になっているから、突然卒倒してもおかしくない。

それを、民間に「資金需要がない」と民間のせいにしてうそぶくが、そんなことはない。
内部留保を溜めこむのは、将来があぶないと予想しているからで、その元凶は政府の経済政策そのものからのリスクであるのに、しらないふりをするたちの悪さだ。

税引後利益が内部留保にまわるのに、内部留保はけしからんから課税せよ、とは、むちゃくちゃな二重課税のはなしだと気がつかない国会議員は、次期選挙でちゃんと落選してもらわないといけない。
マスコミは、こうした人物のリストをつくって報道する義務がある。

需要があっても借りられない。
不動産担保を要求しながら、静岡県の銀行不祥事で、全国に不動産「事業用」に貸し出すなというマッチポンプをやったから、おカネの行き場所が「個人用住宅」だけになってしまった。
人口が減少して、世帯数も減っている。

にもかかわらず、ついに、新築戸数が、世帯数をこえてしまった。
いったい誰が購入し、誰が住むのかしらないが、つくるだけつくる、という無責任が、将来の廃墟を建設している。
これは、すでに、「住宅を建てるだけ『バブル』」になっているということだ。

それではこまるから、移民を受け入れるはなしになって、日本の大学を卒業した留学生が国内企業に就職したなら、本国から家族も呼んで永久に日本に住める「告示」を改正するという。
「告示」をだすのは役人なので、国会議員も介入できない、と青山繁晴参院議員がネットニュースで暴露した。

金融機関は国内に投資先が「ない」から、資金を海外資産にかえていて、それが円安原因になっている。
生活者にとってみれば、原油や食料品など輸入物価が下落する「円高」がむしろ望ましいのにだ。

原発を稼働させたい希望から、もう稼働したものとして、輸出中心の経済なら望ましい円安を誘導するのは、3.11前からの「惰性」でしかない。

ほんらい、新規事業に挑戦したくても、金融庁のあらっぽい一括した管理で、それぞれの金融機関の機能に差がなくなった。
メガバンク、地銀、第二地銀、信用金庫、信用組合、どちらをみても特徴がなくて、顧客のビジネスをみきわめる能力もない。
これに、恣意的な政策投資銀行や機構が、さらなる余計なお世話をするという、政府のでしゃばりが経済を機能させない。

まさに、未来の人類のための痛い教訓になる「政府の失敗」の教科書のためにやっているとしかおもえない。
しかし、そんな教科書は、20世紀の終わりのソ連崩壊でだれでもしっていることだから、たんなる二番煎じにすぎない。

経済学は科学なのか?という批判があるなかで、もちろんマルクス経済学は文学かつ宗教学だったけれど、日本の政策に利用されている経済学も、データをつかわないという点において、いかがわしいものだ。
本来は、日銀や金融庁が主役なのではなくて、規制改革会議が主役にならなければならないのに、あいかわらず地味な脇役になっている。

そんなわけでわが国は、魅力に乏しいので、外国資本も流入しないから、海外からの直接投資(対内直接投資)が他国に比べて極端にすくない国になっている。
かつて、英国を復活させたサッチャー氏が、強力なリーダーシップで当時好調だった日本企業からの投資をあおいだのと対照的である。

これは、投資をしてもリターンがすくないと判断されているからだ。
このリスクは、ジャパン・プレミアムとなってはねかえる。
邦銀によるドル調達にかかわる金利に上乗せ分(プレミアム)がつくことをいう。

お金持ちの外国人が訪日してくれればいいが、そうはいかないとすると、「高級」を柱とするサービス業が疲弊する。
それが、「安くしないと売れない」になってしまうのだ。
これを「デフレ」と呼ぶのか?

「デフレ」とは、ものに対しての貨幣価値が高くなること=価格下落のことをいい、それは、個別の物価・価格「ではなく」、全体を総合した物価・価格の下落を指す。
高級旅館が安くなったのと、石油価格や電気代や水道代が値上がりするのを「総合して」どうか?だということに注意しないといけない。

だから、あの旅館が安くなったのは、デフレだ、といういい方はちがう。

あえていえば、外国人であろうが日本人であろうが、日本に投資すれば儲かる、という、そういう「政策」がもとめられている。

そんなわけで、日銀の黒田総裁だけではなく、彼に命じたひとがいる。

あしたは、それを書いておこうとおもう。

太陽が弱っている

黒点がたくさんあると、それは、活発な活動の証拠となっている。
ところが、先月の2月、太陽の黒点が観測されたのは二回だけで、10年ぶりのすくなさになったという。
太陽の活動は11年周期といわれているから、これから一年はもっと弱くなるかもしれない。

わたしたちが住む地球は、太陽系第三惑星という位置で、第八惑星の海王星にくらべれば、おそろしく太陽に近い。
そうはいっても、光の速度で8分ほどもかかるというから、わたしたちは現実の8分前の太陽光線をあびていきている。

ふだん意識していないが、太陽からの恩恵はまさに「お天道さま」にふさわしく、はかりしれない。
植物が光合成で育ったものを、動物は食糧とするから、その動物をたべることも、太陽があってこそである。

エネルギーだって、なにも「太陽光発電」だけではない。
雨が降るのも風が吹くのも、太陽からのエネルギーあってこそだから、水力だろうが風力だろうが,広い意味では「太陽発電」になっている。
もちろん、古代の植物が炭化したのが石炭であり石油だから、なんのことはないぜんぶ「太陽発電」の範囲から、はみだしてはいない。

火星への移住という壮大な計画のために、巨大な温室で植物をそだてる実験をした。
「温室」にしたのは、地球環境から切り離すためであった。

それで、いろんな条件をかえてみたところ、二酸化炭素濃度を現在の数倍にしたら成長が促進されることがわかった。
これには、植物の種類で結果がことなるので、すべての植物にいえることではないが、地球上で大部分をしめる26万種の植物は、いまよりも濃い二酸化炭素濃度が好ましいのである。

ということで、農業分野では、ビニールハウス内の二酸化炭素濃度をあげる「二酸化炭素『肥料』」があたえられて、生産性に貢献している。
わかりやすい例では、メロンやイチゴといった園芸作物に応用されている。
つまり、糖度があがって甘くなるから高価な取引価格になるのである。

火星には大気がないから、人工的につくる環境下では、むだなく食糧の自給を実現しないと、とうてい「移住」などできない。
しかし、地球よりも太陽から遠い分、エネルギー確保のほうが深刻になるのである。

地球にはなしをもどすと、ロンドンのテムズ川が凍結して、ひとびとがスケートを楽しむ絵画がのこっているように、17世紀からの小氷河期では世界各地で飢饉が発生している。
これが原因で、他国に攻め入ることもあったから、太陽活動は地上に物騒な問題を引き起こす。

田家康『気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年-』(日本経済新聞出版社、2013年)には、日本の事情が解説されている。おなじ著者の世界史版や文明史もある。

  

自然を崇拝してきた日本人だったが、どういうわけかいまは、自然を支配できると思いあがっている。
そのはじまりは、日本庭園にあるのではないかとうたがう。

西洋の庭園は、植物を幾何学的に刈り込んでみせ、支配力を露骨にみせつけているが、あたかもそこが大自然のなせる芸術的ワザであると仕立てる日本庭園こそ、じつは高度な「仕事」になっている。
その究極は、島根県安来市にある「足立美術館」だろう。

人工的につくっておきながら、みるひとにそれを感じさせないばかりか、最初からそこに存在していたようにみせるのである。
これを商業的に成功させたのは、熊本県の黒川温泉である。
「雑木林」という変哲もないとかんがえられていた「すがたかたち」を、意識的にとりいれて造園したら、「本物の自然」になったのである。

自由に自然をつくれるという技術が、人間は自然を支配できるに転換して、それが地球規模でコントロールできるという「誇大妄想」になったのだろう。

自由に自然をつくれるという技術には、科学的根拠がある。
だから「技術」なのであるが、「誇大妄想」になったら科学的根拠をうしなう。

地球環境に絶大な影響をあたえているのは、惑星としての地球自身の活動と、それを支配する太陽なのである。
人類はいま降っている雨も、いま吹いている風も、コントロールすることすらできない。

太陽活動が弱まることは、他人ごとどころではない。
まんべんなく、かならず影響してくることである。

「お天道さま」を甘く見てはいけないのである。

バスで河津桜を観てきた

何年ぶりかわからないが、バスツアーに申し込んで「河津桜」をはじめて観てきた。
季節ものの観光地には、いきたい気持を萎えさせる「混雑」がつきもので、マイカーがあっても躊躇してきた。

たまたまのタイミングで、地元ローカル旅行社のバスツアーがあったので申し込んだという経緯である。

「観桜」ということでいえば、死ぬまでに奈良県の吉野の桜は観てみたいとおもいつづけてはや何年。日帰りできる距離でなし、ましてや、宿もふくめ、その混雑ぶりを想像するだに気が引けて、とうとういまだに実現していない。

河津桜にかんしては、ちょっとむかしに旅番組で特集されていて、そのときの旅人は、加藤茶と左とん平、そして若手の女優の三人という設定だった。

みごと満開の桜並木を愛でながら歩いていると、加藤茶が「あと何回この光景をみられるのかなぁ」とポツリと言った。
若い女優は吹き出してわらったが、左とん平の目は真剣だった。
その左とん平も、もういない。
あらためて、御大二人のきもちがわかる歳になったと実感した。

沼津から天城をこえて河津にでて、それからは相模湾沿いを小田原に向かうコースだ。
「半島」の「半分は島」という略語をかんがえなくても、道路事情がいいことはない。

平日で順調にみえた道路が、河津の手前で渋滞になったのは、なんと道路工事による片側車線規制のおかげだった。
よほどの緊急工事なのだろう。そうでなければ妨害行為かともおもえるが、他県ナンバーがおおいから、個人客もかなりの数になるはずだ。

「駐車場」は、町をあげての盛況で、「シルバーセンター」紹介のみなさんが誘導係としてはたらいていた。
おびただしい数の「係」が配置されているから、乗用車なら一日700円、大型バス3000円の駐車料金も、人件費でおおかた消えていくかとおもえた。

これが、世に言う「イベント疲れ」なのだろう。

同乗した女性客が、「ここに住んでいる一般人には迷惑千万な『桜祭り』でしょうね」といったのは、言い得て妙ではあるが、その迷惑の原因に自分もなっている。

河津桜は、オオシマザクラ(大島桜)とカンヒザクラ(寒緋桜)の自然交配種として命名されたいわれどおり、緋桜のDNAがあるので、うすいピンクのソメイヨシノにくらべてずいぶんと赤みがつよい。
それに、ゆっくりと開花するので、葉もいっしょにでる特徴がある。

赤と緑のバランスが、なかなかにきれいなのである。
この「派手さ」が、好みなのか、中国系の観光客がたくさんいた。
さいきんはどこにいってもみかけるとはいえ、なかなか熱心に写真撮影していて、おもわず「牡丹好き」ゆえの共通点をかんじた。

河津川の堤防土手に植樹されている。
なので、土手にさまざまな露天がならび、まるで夏場の縁日のさきどり状態なのだが、ゆっくり休める場所はすくない。
そんなわけで、立ち食いや、歩きながらの「ながら食い」になる。

こんなところに日本の貧しさがあるといえばそのとおりなのだ。
それは、投資をしない、という意味である。
一方、観桜客も、それでよしとする無頓着がある。

だから、提供者・消費者双方の合意で成り立っている。
みごとな調和的貧しさ、になっている。

たまたまかもしれないが、白人客よりも犬連れがめだった。
べつに白人がすばらしいと言いたいのではないが、かれらの貪欲は、景観と飲食とに、快適性をもとめる。
こうした場所に、かならず「ちゃんとした」オープンエアーの店舗をつくるのは、そうした欲求がつよいからだ。

犬についても、犬を着飾ってやるのではなく、人間社会に適応した「しつけ」が完了していることが「自慢」であり「常識」なのだ。
それは、けっして虐待ではなく、落ち着いた気分でいられる犬に育てることが、人間の義務だとするかんがえによる。
だからこそ、公共交通機関に犬と乗れたり、公共施設に一緒にいけるのだ。

しかし、日本人のペット・オーナーには、そうしたかんがえが浸透しているとはいえない。
「観桜」の場で、犬どおしのうなり声があちこちでするのは、歩行者にとっても迷惑なのだ。

すでに昨日で「満開」におもわれたから、今週末の混雑は今シーズンのピークになるだろう。
運転手の立場からすれば、バスツアーで行くべき場所だ。

参加者たちはおおむね高齢者だったが、その慣れた行動に感心もした。
狭い車内での手荷物を、シートにかけられるフックの普及率は8割ほどであった。
立ち寄るポイントの売店に、こうしたグッズがないのは、こうしたお店の店主たちがバスツアーの客になったことがないからだろう。

車内で配布されたツアー案内は、おもに4月催行のものばかりだが、年金の受給月にあわせているのだろう。
この場での申込みには、ポイント特典が追加される仕組みにもなっていた。

なるほどが満載の現場がわかる。

先進的でなければならないことはない

コンピューターが普及していなかったむかし、先進的であろうとした企業が導入を急いで、大失敗したことがある。

たとえば、パンナム(Pan American Airways)。
商業航空航路の総距離で、ソ連のアエロフロートには及ばなかったが、いわゆる「西側」世界では、圧倒的な航空会社であったし、サービス水準の高さは、「東側」と比べることこそはばかれるから、名実ともに世界一だった。

そのパンナムが、座席予約システムにコンピューターを導入した。
今でこそあたりまえではあるけど、この失敗が、現在パンナムという航空会社が存在しないおおきな理由になったのだからおそろしい。

先だって亡くなった、兼高かおるさんの「世界の旅」は、まったくもって当時の日本での生活からかけ離れた番組だった。
円の持ち出し規制ではなく、そもそも、外国に個人が旅行できるなんてかんがえられない時代であった。

その遠い世界の番組のスポンサーが、パンナムだった。
それに、大相撲の幕内優勝での表彰式では、極東地区広報支配人のデビッド・ジョーンズ氏が土俵にあがって読み上げる「ひょーしょーじょー」が毎回のおたのしみでもあった。

当時のコンピューターは、100人ほどが机をならべられるようなスペースに鎮座していたが、メモリーはたったの2メガか4メガだった。
データを保存するためのフロッピーディスクとはちがうが、すでに入手困難なフロッピーディスク2枚か4枚分しかないメモリーで、よくも全世界の座席予約業務をやろうと決断したものだ。

メモリー不足は、パンチカードという、カード型のボール紙に穴をあけることでデータを保存し、これを読み込んで「処理」させた。
だから、コンピューターがうごくために、人間がパンチカードの穴をあけてやらなければならない。

それで、キーパンチャーという職業がうまれた。
きめられたデータを、キーボードから入力すると、穴があいたカードがでてくる。
そんなわけで、キーパンチャーがやたら必要になったから、会社はぜんぜん効率化しなかったどころか、かえって人件費がふえてしまった。

当時の先進的な企業は、「宇宙時代」に夢をはせて、こぞってコンピューターの万能性を信じてキーパンチャーを雇用し、そして、まもなく「損」に気がついてコンピューターを「廃棄」したのである。
同時に、キーパンチャーという職業人も、職場だけでなく職そのものの転換を余儀なくされた。

あの名作、『2001年宇宙の旅』では、「HAL9000」という人工頭脳よって宇宙飛行士が排除される。
パンナムの経営陣は、自社のコンピューターがそのうち「HAL」になると、一字違いの「IBM」に説明されたのだろうか?

ちなみに、アーサー・C・クラークの原作はシリーズ4冊あって、後半2作は映画化されていない。
最後の作品は、さいきんの量子論における「意識」と「生命」をほうふつとさせるから、クラークの先見性におどろくのである。

 
   

この「失敗の記憶」こそが、経営者に「コンピューターは使い物にならない」という信念に変換された。
これが、第一世代といわれる実用コンピューターのはかなくも悲しい物語であった。
すなわち、あんまり「実用」的ではなかった。

ところが,技術革新はとまらない。
しばらくして、第二世代コンピューターが登場する。
すでに、大きさも価格も第一世代の何分の一になった。しかし、メモリーは格段におおきくなっていた。
この世代のコンピューターが、業界地図をかえる起爆剤になったのだ。

第一世代で失敗した企業は、第二世代導入に慎重になったのはいうまでもないが、「使い物にならない」という「信念」になった「記憶」が、他社の様子をみる、という結論をみちびいてしまった。
この「他社」とは、ライバル企業のことを指す。

簡単にいえば、導入をきめたライバルが、過去の自社のようにコケることを「見たかった」のである。

残念だが、この「希望」はかなわなかった。
それどころか、あれよあれよと、自社の有利性が失われていく。
あわてて自社もコンピューターの導入をきめたが、おもうようにうごかない。

こうして、貧すれば鈍する、のとおり、資金が枯渇して、とうとう切り売りがはじまって、最後をむかえるのに、時間はそんなにかからない。

なにをしたいのか?という目的と、手段の選択を間違えたのが最初の失敗の原因だったが、これをコンピューターのせいにしたのだ。
だから、次世代のとき、他社がなにをしたいのか?という目的と手段の吟味の結果からコンピューターを導入したのに、このことにすら気づかずに、自社の業務の単純なる自動化をはかったからいけなかったのだ。

いまは、コンピューターの能力が人間を凌駕しつつあるから、コンピューターをつかうことが「先進的」とかんがえられがちなのは、じつは第一次世代の時代感覚である「宇宙時代」だからに、似ている。

なにをしたいのか?という目的と、手段の吟味ということの重要性が増しているだけなのだが、なんだか「先進的」なマシンをいれたら自社が先進企業になったような気がしてしまう。

ほんとうの先進企業は、そんな先進性に興味はない。
むしろ、愚直に自社の製品やサービスの価値を高める方法を吟味しつづけているものだ。

パンナムは、重要な教訓をおしえてくれた。

失敗はゆるされない

失敗をゆるさない土壌がある。
「失敗はゆるされない」ということを気楽に口にするトップがいるから、そうなる。
そして、残念ながらこういうトップは「まじめ一筋」であることがおおい。

だから、ほんとうに「失敗する」と、その失敗をした本人を責め立てる。
これが、「部下のせい」にしていることを、このひとは気がつかない。
それに、「失敗したこと」を責め立てるから、失敗の「原因」追求をしているわけでもない。

なんのことはない、自分の責任にならないように演じているだけなのだ。
これを、「無責任」というが、こうしたひとをさらに上の立場のひとが、「ごもっとも」といって納得して、「失敗はいけない」といいだすことがある。

部下からすれば、「絶望の連鎖」である。
それは、個人の資質が責められるからだが、ことが「原因」に向かないから、その部下も、「表面をつくろう」ことがよいことだと学ぶのである。
だから、本人が「絶望」を感じなくてもいい。

感じようが感じまいが、その組織は「絶望の連鎖」をうむようになる。
こうして、やがて組織全体が「腐る」のである。
「腐った組織」には、「腐臭」を感じないひとがトップに君臨する。
そして、「失敗はゆるされない」をあいかわらず、「まじめ」にかつ「気軽に」口にするのである.

ところで、そんな腐った組織でも、「原因追及」にはなしが向かうことがある。
ようやく目が覚めたのか思いきや、けっしてそんなことはなく、「悪夢のループ」におちこんでいく。

原因の「評価」と、「改善方法」が、非合理の方向へと邁進するからである。
すなわち、「過剰」な「心配」が、「過剰」な「対策」を要求するようになるのである。

そこには、「科学」がない。
畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』をみれば、その深さもわかろうというもの。

理系組織なら心得があるだろうと思いきや、じつはそんなこともないから、組織とはおそろしい。

しかし、それをするのは、えらい文系であることがおおいとこのブログでも何度か指摘した。

なぜそうなるのか?
「余計な」ことまで「原因」とするからである。
これに、組織の「管轄」もからみつくと、もうにっちもさっちもいかない。

たとえば、「津波観測」の技術で、水面の波の高さをはかるレーダー開発は、「電波法」における「免許」が取得できずにお蔵入りしたというし、海底に沈めた重力センサーで、水面の重さを測って津波の動きをとらえることも完成していた。

ところが,津波警報を発するための「観測網」の取り決めのなかに、この重力センサーをくわえることをしていなかったから、「予報」にもちいることができない。

それでも、このセンサーからのデータはモニターしていて、あきらかに大津波が発生して、海岸に向かっていることがわかっていても、他の「観測網」の反応がないから結果的に放置された。

すなわち、「法治国家」とは、法によってひとが殺されることを許容する国家のことをいうようだ。
けれども、日本国憲法第十三条には、

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

とあるから、これらの技術をはねのける「法」こそが、憲法違反である。

結局のところ、「優先順位」の問題なのだ。
行政官に、この判断ができない。
くわえて、この国の司法も、おそろしく「憲法判断をしない」最高裁判所が君臨している。

立法における最終チェックは、内閣法制局になってしまった。
この部局にいるひとたちは、法学部をでた上級職の行政官たちで、各省庁から「出向」して勤務している。

法律をつくるときに、過去からある法律との「整合性」をチェックする部署ということになっているから、内閣法制局を通過しないと、国会に提出されない。

そんなわけで、各省庁のえらいお役人が、内閣法制局参事官以上の役職を「五年間以上連続」で務めると、定年退官後、弁護士資格があたえられる特権をゆうしている。
だから、みなさま5年以上の勤務を「希望」することになっている。

司法試験を受けなくても、弁護士になれるのは、「老後」を保障するから、そのへんの「天下り」よりえらいのだ。
だからこそ、失敗はゆるされない。

こうして、つくるときのチェックがきびしいから、つくった後の矛盾を「最高裁判所」が指摘しすることはむずかしい。
それで、最高裁判所は居眠りできるようになっていて、おかしな法律があっても見て見ぬ振りをすれば丸くおさまるようになっている。

どちらにしても、国民は命がけだが、そんなことはどうでもよいようにできている。

官民そろって、失敗はゆるされない、という組織文化土壌には、本末転倒という倒錯があるものだ。

信じる「理論」があるなら

子どもは自分が好きなはなしを、何度でもききたがる。
物語の読み手である親が飽きてしまうが、そこは親心でグッとがまんして何度もおなじはなしをしてあげるものだ。

おとなになると、いろんな本や情報をえて、それぞれに好みができあがる。
それで、自分が好きなかんがえ方がだんだんと自覚できるようになる。
だからこそ、若いうちにいろいろな方向のものをそれこそランダムに経験することが重要になる。

ただし、これには「育ち」という基盤があって、両親や親戚、ご近所などとの生活のなかで、価値感というものが埋めこまれていくのが最初の経験になる。
英国では「保守」の思想、米国では「自由」の思想がそれだ。

わが国ではどうなのか?
「他人に迷惑をかけない」思想になったとおもう。

これは、英国の「保守」でもなく、米国の「自由」でもない。
「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」という思想は、けっして米国の「自由」思想ではない。
米国の「自由」には、他人から命令されない、つまり、自分のことは自分できめる、という意味があるからだ。

いま、職場での不適切な動画が問題になっているが、不適切なことをしでかした彼らは、とうとうなにが「他人の迷惑になるのか?」という基準まで喪失してしまった。

彼らの「育ち」が、どうやらまちがっていたのだろう。
つまり、彼らの周辺にいたおとなたちの「育て方」のまちがいがあらわれたのである。

だから、本人たちには刑事罰が、周囲のおとな、端的には両親に損害賠償請求がされるのは、しごく当然ということになる。

ところが、これらの事象には、わが国の価値感がとっくに溶け出したことが「育ち」の問題になったのだとかんがえられるから、けっして特異な事件ではない。

つまり、職場にスマホなどの持ち込みを禁止する規則をつくったところで、防止策にはならないのである。
べつに、影像をネットにアップしなくてもよい。

もちろん、しかけた影像をアップすることが目的だともいえるのだが、価値感が溶け出したのだから、愉快なおもいはそこで終了してもよい。
行為自体の発散か収束かのちがいだけになる。

とうとう、会社が従業員の仕事ぶりを撮影して監視しないと、なにをしでかすかわからない状況になった。

これを、「サボタージュ」といわずしてなんというのか?
日本語の「サボる」ではなく、原義の「Sabotage」のことである。
むかしは、労働争議での戦術だった。
いまこの国では、価値感の崩壊から自然発生しているのだ。

一時代を区切るとき、だいたい30年を単位とする。
ちょうどよいことに、平成時代が一時代にあたる。
その30年前は、昭和34年で、さらにその30年前は昭和4年。

不適切なことをしでかしているのが、だいたいいま18歳くらいだから、この子たちがうまれたのは平成12年(2000年)だ。
そのとき親が30歳なら、昭和45年(1970年)うまれ。
そのまた親も30歳で親になったなら、昭和15年(1940年)うまれである。

典型的「戦後」がみえてくる。
この祖父・祖母が30歳のときまでが高度成長期で、40歳から50歳という時期が、バブル経済の絶頂だ。
その子の世代は、バブル入社期にあたる。

なんという時代の移り変わりだろうか。
そして、いま、平成がおわるとき、私たちは平成という時代をきちんと説明できるのか?
そうしたなか、野口悠紀夫『平成はなぜ失敗したのか』(幻冬舎)がでた。

野口先生は政権の御用学者ではなく、むしろ正反対の批判をしているが、しごくまっとうな説明を展開しているこの国では数少ない論客のひとりだ。

平成が終わってしまう前に、なにが問題なのか?という根本に気づけなければ、つぎの時代を生き抜けやしない。

世界も、周辺各国も、じつにドラスティックな変化をとげているのに、わが国だけが、30年以上前の「戦後昭和の栄光」にすがりついて、かたくなに変化を拒否している。
しかも、政府に依存して、という条件までもくっついた。

なにをもって根幹の価値とするのか?
という、おそろしく深い問いのこたえが求められているのに、目先の「利益」ばかりを気にするのはどうかしている。

「価値」がきまらなければ、実務はうごかない。
「価値」をきめないで、実務をうごかすから生産性があがらない。

ソ連末期、投入より産出される価値の方がすくなくなった。
ありえないことが起きたのである。
信じる理論がまちがっていた。

しかし、平成時代をつうじてわが国は、とうとう信じる理論すらみつけられずにおわろうとしている。
これが、個別企業にまで、もとめられることになっている。

今日は、建国記念の日。
あらためて、厳しい現実をしる。