やっぱり「空気」で決まる

重大なことが、「その場の空気で決まる」というのは、あんがいと日本人が自覚していない「日本人らしさ」のひとつである。

「その場の空気」だから、別の日や別の場所、あるいは別のメンバーだと、「別の空気」になって、前に決めたことと別のことが決まると「大迷走する」ことになる。

それで、「責任者でてこい!」となると、「空気」なのでだれも表にはでてこなくて、事務局が弁明してお茶を濁したりする。
これを、「日本的無責任」というけれど、責任者たちにはあんがいと自覚がないという特徴がある。

いつからこうなったのか?

誇り高い武士が治めていた時代には、良くも悪くも責任をとっていた。
その究極が、切腹だった。
「詰め腹を切らされる」理不尽もあっただろうけど、それはそれで遺族に補償があったし、なかったとしても庶民には関係なかった。

もしも、切腹ではなくて、「お役御免」なら、それは「武士を辞めること」にもなって、関係者には大騒ぎになる。
武士を辞めることとは、「扶持」を失うことなので、一族郎党が失業する。
「扶持」自体が相続対象だから、どんな下級でもお家断絶だ。

その意味で、「浪人」というのは気楽な稼業にはならない。
いまの学生が「浪人」するのとは、意味がちがう。
むしろ、政治家が「落選」してただのひとになることに似ている。

武士が「家」に縛られながら、「家」にしがみついたのは切実な現実があったからだ。
そして、武士には権力が与えられたけど、財力は与えられなかった。
こうして、「天道」としての政治は、必然的にその前提に「現状維持」があったのである。

だから、江戸時代の「改革」は、ぜんぶ失敗した。
現状維持の前提に負けたのである。
そうやって、社会の発展圧力と政治のバランスが崩れて、内部から崩壊したともいえる。

しかしながら、明治近代が完全なる成功を収めたわけでもない。
長く安定していた、「家」による縛りからひとびとが解放されたのではなかった。
これを島崎藤村が、『家』で描いたけれども、いまだに引きずっている。

つまるところ、日本人という人間は「家」という「社会」で生きている動物なのだ。
だから、「家」という概念よりも「個人」が先に立つひとたちとは、文化があわない。

けれどもだからといって、欧米人が皆「個人」を優先させているかといえばそうではない。
王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」は、かつての日本的な「縛り」が生きている。

すると、「個人」を打ち出した、「啓蒙主義」の意味するところとは、いまさらになんだったのか?
ジャン・ジャック・ルソーがいう理想の、「アトム」とは?あるいは、個人のあるべき姿とした「アトム」のことである。

もちろん、「隠れ(共産)党員」といわれていた、手塚治虫の『鉄腕アトム』の「由来」のことだ。
鉄腕アトムは小型原子炉内蔵のロボットだから、「原子(アトム)」から名づけたのではなくて、最初から「個(アトム)」としての原子をもじったのだ。

これは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」という、為政者側からしたら、被支配者の結束を解く(溶く)という意味で有用な「思想」なのである。

だから、対抗するための「団結」を説くことをはじめたが、その団結とは、「個(アトム)」の団結であって、「家」という社会の団結にはわざと触れないばかりか、「家」への再結束は「反動」だとして、かえって「アトム化」の推進をした。

つまり、「同類」だったのではないか?
あるいは、王侯貴族から新興ジェントル層といった、経済的に成功した「家」にとって都合のよい、プロパガンダが啓蒙主義ではなかったか?

そんなこんなで、「空気」がわが国を支配するようになったのは、明治の近代化が作り出した「同僚」という「仲よしクラブ化」による居心地のよさがあるとかんがえられている。

しかし、「これだけ」ではなく、さらに3つの理由が挙げられる。
・サンク・コスト(埋没費用)の処理にたいするまちがい
・「未解決の問題」への心理的重圧から逃げたい心理
・人事評価制度の欠陥

選挙になるとウィルスの感染力が弱まって、選挙が終わると猛威を振るうという現象にあてはめれば、「PCR検査の精度調整」という人為があるのでは?と疑いたくなるほどに、諸外国でとっくに「終了:収束」した病気が未だある状態でもいえないか。

それで、いつもの政府委員たちが集まって、なにやら「対策」を練っている。
この対策が、いったいなんの「対策」なのか?

上記事例にあてはめたくなるのである。

それでもって、やっぱり「空気」で決まるなら、それはそれで「空気感染」なのだとおもわれる。

だから、サングラスでも眩しい炎天下に降り注ぐ、凄まじい量の「紫外線」で、1秒すらコロナウィルスが存在できない「科学の知見」をもってしても、呼吸が苦しいマスクをしても、手が荒れようがアルコール消毒をしても、「感染者」という「PCR陽性者」が減らないのである。

こうしたことの原因は、「その場の空気」を「悪くしない」ための精神的努力であるからだけど、それは、決して強い精神ではなくて、「優しさ=弱い精神」だから、犬に首輪をせずにハーネスを装着するのが流行るという現象にもなる。

首輪が可哀想で、ハーネスなら苦痛がないだろう、と。

しかし、コマンドを入れることができないので、飼い犬をコントロールすることがたいていの飼い主はできないために、優しさが犬を不幸にしている。
そんなわけで、現代日本人の「弱い精神」が、社会にサイコパスをはびこらせ、サイコパスたちに支配されるということにも気づかないのだった。

その場の空気をコントロールできないのは、精神の弱さと、目的合理性の欠如なのである。

政治家リズ・チェイニーの爪の垢

16日(日本時間17日)、全米でもっとも人口が少ないワイオミング州で今回中間選挙の予備選で「最大の山場」となる選挙結果がでた。

それは、リズ・チェイニー候補の落選である。

彼女は、連邦下院共和党のNo.3で、ブッシュ息子時代の副大統領だった、ディック・チェイニー氏の長女という血筋からも、将来の共和党大統領候補にもなり得る人物だ。
その証拠に、前回の中間選挙では、70%の得票で「圧勝」している。

しかしながら、2020年の大統領選挙で、「トランプ離れ」を始めて、2021年1月6日の議事堂暴動事件の責任を追及する、下院委員会の副委員長にペロシ議長からの推薦を受けて就任し、「反トランプ」の急先鋒を務めることになった。

舌鋒鋭いトランプ批判は、共和党内でもっとも過激で、とうとう地元ワイオミング州共和党から「除名」されることにもなった。
なので、今回の共和党予備選出馬は、「無所属」から、ということになる。

このあたりが、予備選挙がない日本ではなじみがなく、また、どうして政党内の予備選挙に無所属で、しかも、除名処分を受けた人物が立候補できるのかも、日本的潔癖症からはかんがえられないことである。

もっとも、民主党も「無所属」のバーニー・サンダース上院議員が、2度も民主党大統領予備選挙に出馬して、2020年には党指名直前までの快進撃をしていたら、民主党本部から超高級別荘を受けとるかわりに立候補を取り消した。

彼の「凄み」も、支持者を前に、堂々と貰った別荘のことを披露してはばからず、立候補を取り消す理由として、「貰ってうれしい」とも述べたことにある。

これには、驚きを禁じ得ないが、これでバイデン氏が党指名を受けることになったから、さしものアメリカ人も懲りたかと思いきや、すでに高齢のサンダース氏が2024年大統領選挙の有力候補になっている。

要は、アメリカ人と日本人の「正直」の定義がちがうのである。
この意味で、どんな方法であろうが「勝てば官軍」を強くイメージしているのは、白人文明なのであった。

そんなこんなで、リズ・チェイニー氏は、除名されても選挙資金集めには余念がなく、候補者のなかでダントツの資金をもって臨んだ選挙だった。
さすがは、「RINO(Republican In Name Only:名ばかり共和党)で、資金提供者は民主党とおなじ大富豪が中心だ。

そして、彼女の戦略は、なんと州内民主党員に共和党へ鞍替えさせて、彼女に投票させるという「画期」があった。
日本だと住民票を移して、応援選挙区をテコ入れするのが問題になったことがあるけれど、発想がちがう。

しかしながら、ワイオミング州は、前回の大統領選挙で、70%がトランプ氏に投じた実績があって、そもそもが「共和党の州」なのである。
だから、共和党を除名された彼女に、今回ははじめから「勝ち目はない」のが、データでもしれる。

それでもなんでも、とにかくなにがなんでも、「反トランプ」なのである。

結局、トランプ氏が推薦状をだした新人の対抗馬が、40ポイント弱の差をもって圧勝するという「歴史的大敗記録」も提供した。
「敗戦の弁」においても、つぎは次回大統領選挙にトランプ氏を出馬させないために全力をつくすと宣言したのである。

これは、FBIがフロリダのトランプ氏別荘を捜査して、刑事事件の立件による「阻止支援」をいっているのだろうけど、合衆国憲法第2条第1節にある、大統領被選挙権の規定に、刑事被告人や有罪確定者の記載はなく、過去には収監中の人物も立候補している。

だから、なんだかチェイニー氏の主張はズレている。

軍産複合体を代表する「利権第一主義」が、かつては「共和党主流派」といわれてきた「名ばかり共和党」だし、いまでは民主党もおなじだ。
すなわち、共和党ブッシュ親子、クリントン夫妻、オバマ、バイデン一家のひとたちで、チェイニー父娘もバリバリの「利権保守」なのだ。

本稿では、この利権第一主義と、真っ向逆の「共和党トランプ派(国民第一主義)」が、どんな闘いをしているのかには言及しない。
ただし、徐々に「潮目」が、共和党トランプ派に傾いていて、すでに中間選挙の共和党トランプ派候補者のほとんどが、党内予備選を制している。

それゆえに、彼女の孤独な闘いが、妙に潔いのである。

もちろん、彼女は「旧態依然とした利権の権化」だから、そんな人物に投票しないのは有権者の多数として「当然」だという意見もあろう。
しかし、「前回」は、「圧倒的勝利」だったのだから、票が圧倒的に浮動しているともいえるのである。

果たして彼女は、信念のひとなのか?それとも、単なる頑固者なのか?

どちらにせよ、こんな政治家が絶滅した日本から見たら、彼女の爪の垢でも煎じて、わが国の政治家たちに飲ませたいものである。

参政党初提出の国会質問主意書

いかにわれわれが「政治に無知か」を知らしめることになったのは、この間の参院選挙期間中にも参政党がいっていた「質問主意書」の意義であった。

少数の議員しかいないミニ政党が、どんなに頑張っても無駄な抵抗ではないか?という「質問」に、彼らは「そんなことはない」と反論していた。
そもそも、街頭演説で聴衆から質問を受けるというのも、なかなかに新鮮だったので、良い意味で各党がこれを真似しだした。

その反論には、既存ミニ政党と報道への批判があった。
それは、「パフォーマンス」にだけ価値を見出して、これだけを報道することの「薄さ」をいう。

ミニ政党だから、「とにかく目立つ」ことが、次の議席拡大にいちばん重要だという認識は、優先順位としていささか不満が残る。
それに、報道は、「国会での論戦」というけれど、一般人がイメージする「本会議」では、ぜんぜん「論戦」なんてやっていない実情がある。

それは、「議場の設計」に影響されている。
いまの国会議事堂は、昭和11年(1936年)11月にできているから、当然に明治憲法下での設計だ。

新憲法が発布されて、「国柄」を変えたことになっていて、いまの憲法では「国権の最高機関」としての「国会(旧憲法では「帝国議会」といった)」だけど、旧憲法ではそうではなくて天皇に主権があった。

この「違い」は決定的なのに、内部設計をいじっていない。
つまり、国会議事堂の設計思想によって、いまも物理的制約を受けているのに、誰もおかしいとおもわないおかしさがある。

それは、論戦をするための設計ではなくて、ご意見を賜るための設計になっていることでわかるし、政府側の「ひな壇」における「序列」は、ソ連時代の赤の広場での革命記念日とおなじ方式なのだ。

議長席を中心に、向かって左側が序列1位の首相、次は議長席右側のひと、と左右を順にだんだんと議長席から遠くなる。

まん中のテーブルを挟んで左右向き合う「山形」のスタンド席になっている、英国議会の風景が妙に新鮮なのは、はなから「議論」をするための設計だからである。

その英国議会の議論の様子は、どうしたことかテレビ時代になっても、音声だけしか放送できず、テレビ局は「スケッチ」で画像にしていた。
1992年(平成4年)になって、ようやくテレビ中継が許されて、BBCは別途に「BBC Parliament(BBCパーラメント)」という、議会中継専門チャンネルを立ち上げた。

わが国の「公共放送」にはないチャンネルで、地方議会の中継もやっている。

さて5日、参政党が結党以来「初」となる、国会活動として5本の質問主意書を参議院に提出したと、党首となった松田学氏がツイート等で発表した。
その項目は以下のとおり。

1. 外国資本による国土買収
2. コロナワクチンの副反応や子供への接種について
3. ウクライナへの防衛装備品の供与及び穀物輸出等の支援
4. 咲洲メガソーラーなどエネルギー供給基盤事業への中国企業参入問題
5. 拉致問題

ふだん聞き慣れない「質問主意書」とは、議員が議員名で提出するもので、弱小政党にとっては国民代表としての大きな権利行使でもある。
議院での質問の回数や時間が、大きな与野党からしたら大幅に制限されるけど、書面による質問としての「質問主意書」に、提出本数の制限はない。

そして、政府からの「回答」(立法府からの質問に対する行政府からの回答)には、かならず「閣議決定」を経てのことになるのだ。
もちろん、国会質問におけるあらかじめ提出の「質問主意書」も同様に、閣議決定を経ている。

つまり、口頭か書面かのちがいにすぎないので、議員としては重要な業務といってよい。
なにも、ひとりだからといって、なんにもできない、ということはない。

もちろん、参政党は、政府からの回答書についても全部公表することにしている。
なので、ダラダラとやっている委員会中継をずっと観ているよりも、あんがいと効率がいい。

選挙中にもいっていた、「質問主意書をバンバン出す」という「公約」は、ずっとやるにちがいないから、なんだかワクワクするのである。

そんなわけで、「閣議決定」をするための「閣議」は、開始前に閣議室前に集まった大臣たちが懇談している風景をテレビに撮っているけれど、閣議室にはカメラは入れない。

国民として、いったいどんな議論がされているのだろうか?と期待できないのは、徹底的なる「サイン会」になっているからである。
つまり、内閣の事務局が用意した、様々な書類に、総理から順にサイン(花押:日本古来のデザインした毛筆サイン)を書きまくるのである。

だから、初入閣しそうだったり、急遽決まるかして、自分の花押を持っていない議員は、あわてて専門デザイナーに注文して、お手本をみながら練習しないといけないのである。

もしも、NHKが閣議の様子を中継したら、国民はその実態に驚き、かつ、なにをやっていたのかがバレるから、絶対に見せないのである。
また、よくいう「持回り閣議」とは、内閣事務官が各大臣のもとにおもむいて、書類にサインをもらうことをいう。

企業なら、「稟議」であるし、「持ち回り取締役会」ともいう。

なので、参政党の質問主意書が「バンバン」出ると、閣議が「忙しく」なるのであった。

6÷2(1+2)=?の大論争

答は、1なのか?9なのか?
これが、大論争になった。

計算の基本の最初は、おなじ式のなかに掛け算や割り算部分があれば、それから先に計算する。
だから、たまに、2+3×4=14を、20と答えるひとがいるのは、式の順のまま2+3=5に4を掛けてしまうからである。

次に、おなじ式のなかにカッコで括った部分があれば、その部分を先に計算する、がある。
上の例なら、(2+3)×4=?となれば、20が正解になる。

それで、「問題の」6÷2(1+2)=?はどうなるか?
算術としては、頭から素直に、6÷2=3を計算して、次にカッコのなかの1+2=3を前の3と掛け算すれば、答は9になる。

しかしながら、数学としては、カッコのなかの1+2=3を2で掛けて6を算出して、冒頭の6と割り算するので、答は1になる。
どうしてこれが、「数学として」になるかというと、「6÷2a:6/2a」としてカッコのなかをイメージするからだ。

そんなわけで、1なのか?9なのか?という、ふたつの答えに対する、自分が正しい論争になったのである。

さて、わたしは1だと答をだしたが、読者はいかがだったろうか?

ちなみに、前に書いた数式をそのまま入力する、TI(テキサスインスツルメンツ)の小学生用関数電卓『TI-30XB』とか姉妹機「XS」でやってみると、答は9になった。
ちゃんと「算術」をやっている。

日本製の数式入力式の関数電卓で、どんな答えになるのか?も、やってみると楽しいのは、設計思想がわかるからである。
スマホに入れている数式入力関数電卓では、1になったから、こちらの開発者は「数学」をやるようにプログラムを組んでいることがわかる。

ほんとうの「正解」には、どのようなルールで計算するかの「定義」を示さないといけない。
つまり、この混乱は、出題者の方に問題がある、というわけだ。
すなわち、2(1+2)の取り扱いについての「定義」だ。

しかし、電卓を購入する側は、その電卓がどのような「定義」でプログラムされているのかをあらかじめしることはできないので、計算結果のちがいに戸惑うことにもなる。

実務では、こんな単純な計算はあまりない、というよりも、四則演算が絡み合うような計算は、企業会計ではないだろう。
もしも、そんな計算をしないといけないなら、結構な注意がいるのである。

さてそれで、「定義」の問題は、実務では逆に重要だ。

なんの議論をしているのか?ということすら、白熱するとズレていることがある。
わたしの経験で、レストランのメニュー改訂会議をしていたら、サービス側と料理人側とで意見が真っ向ちがうことがあった。

どうも変なので、途中で議長役に質問したのは、いまやっている議論は、朝食メニューの話か?ランチメニューの話か?なにが対象なのか?と。
すると、参加者が皆笑い出して、なにを急にいっているのですか?といい、サービス側は「当然、ランチメニューです」といったら、調理側から笑いが消えたのである。

これは、「定義」というよりももっとゆるい「前提」のことではあるけれど、放置すると怒鳴りあいになるかもしれないほどだった。
あんがいと、「おとな」ほど、曖昧さを許すことがあるから、この場合は笑い話になって助かった。

しかし、こんな「すれ違い」は、世の中にたくさんある。

トラブルの多くは、たいがいが「よかれ」とひとり合点したことが原因だったりして、「悪意」が原因だということは少ないのが日本社会の特長だった。

「だった」というのは、もちろん、「過去形」だ。
いまは、政府すら国民には悪意によっているように見える。
おそらく、政策の前提や定義が、枕詞としての「国民のため」があったとしても、その「国民が誰か?」に狂いが生じているからだろう。

一部の業界人だったり、あるいは外国勢力の隠れ簔を着たひとたちか?

それでもって、政権が圧倒的な多数で維持できているのは、なんと全有権者からの20%から30%程度の得票での結果なのである。
つまり「棄権」が、この状況をつくっているけど、「棄権したひと」が自分のせいだとは認識していない。

あるいは、わが国の伝統主義としての「保守」を標榜しているひとたちがまつりあげている政治家について、その「素性」を語らないという不思議もまかり通っている。

ただし、最近になって一部のひとたちが「怪しい」と、指摘しているのは、その本人の「政見に関する」定義を試みた結果からの結論だというから、信用に足りるのではないかとおもわれる。

小学校で算数を習うのは、義務教育として本人が社会人になっても、生活上の計算ができることを目的にしている。
それが、中学に入ると数学になるのは、論理思考の訓練のはずなのだけれど、その説明を中1の最初の授業でいわない。

こうした「定義」の手抜きをやることが、非難されることもないのは、「目的がなにか?」という定義を曖昧にして受験に仕向けたいからだ。
そうやって、「定義」にこだわるおとなを作らないのが、「棄権」になって、小数なのに多数がとれる為政者に天国を提供している。

おなじ式の答えが1か9?には、こんな意味も含まれている。

意識と肉体を分化させると

幼児が不思議な絵を描いたうえ、その絵の説明で「輪廻転生」を語るのは、まるでチベット仏教でのダライ・ラマとかパンチェン・ラマとかの高僧を、「生まれ変わり」として選ぶときの話に似ている。

たとえば先代のダライ・ラマが亡くなると、全土に「捜索」が開始されて、生前の記憶がある幼児たちから「本人」を割り出す作業がはじまるのである。

さらに、似たような話として、前世は「火星人だった」という記憶がある幼児がみつかった。

これらの子供たちは、言葉が話せるようになってから間髪を入れない「質問」で発見されることもあれば、とにかく自ら「前世」を語り出すこともあるというし、それが特殊ではないのは、おおくの場合、幼児期までは前世の記憶があるとの研究もあるのだ。

成長と共に「忘却して」しまうから、おとなが聞くと驚愕するのである。
なぜならば、それがまた具体的で、かつ、幼児がもっている知識を超えているとしか思えない表現をするからである。

ある子の証言は、自分が死んで火葬されたとき、爪や髪の毛が透明になってしまうけど、そこから「魂」がでて空中を上昇し、星を目指す。
すると、その先にある雲には神様がいて、それは「今回」たまたま「阿修羅」だった、と。

その雲には「転生」の順番をまつひとたちがいて、望遠鏡で「母」を探して、自分で選んで母の胎内に入るのだという。
そのときの母の絵は、色彩がはっきりした着衣だけれど、聞いている本人が、妊娠時によく着ていた色の服だといって色めくのである。

まったくの他人が、このやり取りを不思議に思うのは、子供の口から出る言葉の「語彙」が、ぜんぜん子供の年齢とあわないことなのである。
これは、「火星人」だった子供の話も同様で、この子は地球人の寿命が短いのは、酸素を呼吸しているからだというのである。

一方の火星人は、二酸化炭素を呼吸しているから、体内が「酸化」されないために、地球人の10数倍も寿命がながいのだ、と。
それで、火星人は地球人よりも一世代で多くの知識を持つことができるから、科学の進歩も著しく高度だという。

実際に、20世紀まではひとりの「天才」が、大発見や大発明をして、人類史を変えることができた。
ニュートンしかり、アインシュタインしかり、ホーキングしかりエジソンもである。

しかしながら、彼らの業績の積み重ねの上に現代科学があるので、現代科学をひとりの研究者が大発見によって変えることは、困難になってきている。
それは、過去の業績を理解するのに、「天才的頭脳」でも、ざっと30年の予備的勉強期間を必要とするまでになってしまったからだ。

ところが、人間の「脳のピーク」は、20歳代だとわかってきたので、まったく追いつかないのである。
しかも、寿命が80歳だとすれば、50年間しか「研究の時間」がない。

そんなわけで、画期的発見には、寿命の延長という方法か、予備的勉強期間の圧倒的短縮という方法をかんがえないといけなくなっている。
この寿命の延長方法に、酸素呼吸をやめる、ということも含まれているというけれど、酸素があふれた地球では困難なのである。

もちろん、CO2の「脱炭素:Cを除く」をやれば、「酸素:O2」が分離されることになって、地上は酸素濃度を増して「酸化」するのに、それが「道徳」だというのは、やっぱり、マッドサイエンスだ。

太古の地球には酸素はなく、最初の生命も酸素を必要としなかったのは、そこに酸素がなかったからだった。
ところが、なぜか突然、光合成によって酸素を吐き出す「藻類」が海中に誕生して、億年をかけて海が酸素で飽和するとそれが大気に拡がった。

この時点で、酸素が猛毒にあたる生物が絶滅して、耐性をもったものだけが生き残ったのだった。
それから逆転して、酸素を必要とする生物ばかりになったけれども、元火星人がいうとおり自分の身体も酸化させてしまうから、寿命が短いのだ。

このときの超悪玉が、「活性酸素」なのである。
酸素が体内で、電子を1個失った状態が「活性酸素」で、周辺の分子から足りない電子を1個奪うのである。
これが、「細胞」からならば、そこに「傷」ができる。

その「傷」が、たくさんできたら、生体にはダメージになる。
だから、活性酸素を作らせない方法が、寿命を延ばすことになって、それが「脱酸素」になから、「脱炭素」と矛盾するのだ。

一方で、「テスラ社」やなにかと話題のイーロン・マスク氏は、脳から「意識」をとりだして機械にコピーさせる『Neuralink』社への研究投資でも有名なのだ。

すでに、彼本人が実験台になって、とりだした自分の意識と本人が対話することまで成功させている。

なんだかだんだん、映画『マトリックス』が現実化している。

あの話は、コンピュータが人間に反乱したという設定だったけど、現実は人間が求めてコンピュータとの連結を現実化させようとしている。
しかも、マスク氏が追及しているのはA.I.ではなくて、本物の人間の「脳」を利用することなのである。

脳に埋めこんだチップと通信すれば、念じただけで自動車を運転できる、と。

すると、わが国の内閣府が目標にしている「ムーンショット計画」も、この部類にあたるから、マスク氏と張り合っているのである。

人類の未来は、肉体がない「意識だけ」になるかもしれない。

しかしてこれは、マッドサイエンスではないのか?
それとも?

宗教弾圧とガーシー曝露砲

「檀家」としていえば、わが家の「お寺(菩提寺というほどの家ではない)」から、どうしたことか今年の8月15日は、「施餓鬼法要の中止案内」がやってきた。

どうしたことかというのは、昨年は2年ぶりに実施したからである。
いまさらだけど、今年の中止の理由がわからない、のだ。
もちろん、表向きも裏向きもなく、お寺さんとしては「感染予防」という世間体への大義名分があるのだろうけど。

こうしたことの「決定」は、当該寺院の住職による「職権」なのか?それとも、本山からの「指示」なのか?あるいは、本山への「報告事項」なのか?末端の檀家にすぎないわが家では、なにもわからないのである。

ちなみに、わが家の「お寺さん」は、本山の直轄末寺であって、県下における「宗務所」でもあるから、神奈川県における当該宗派の寺院は、ぜんぶ施餓鬼法要の中止をするのか?も気になるところではある。

なお、昨年には、「ウィルス退治の祈祷」をなぜやらないかと書いたのだったけど、もっと前に「宗教の復活はあるか?」とか、「宗教が死んだ日本に再生は?」とかと書いてきた。

わたしは自分を、「信心深いことはない」とおもっているけど、宗教は重要だとかんがえている。
だから、戦後の洗脳で、自分を「無宗教」というひとの「軽薄さ」は、なんだかなぁとおもうのである。

祖父母の時代より前の日本人は、総じて「熱心」な信仰があって、なかでも「日本教」という最重要を、戦後は「国家神道」として完全否定したのである。

これらが、みごとな「洗脳」であったのは、「日本教」にも、「完全否定」にも、どちらにも「共通」しているからややこしい。
ただし、「日本教」の「発明」なくして、明治以降の近代化も、戦後の経済復興もなかったとおもわれるほど、超重要なのである。

ここで注意がいるのは、戦後の経済復興(バブル前まで)を成し遂げた「人物たち」は、ぜんぶが「明治教育」を受けたことだ。
その後の「絶頂と衰退」は、国民学校世代以降のひとたちという「特徴」があるから、その「成果」のちがいに気をつけたい。

ならば、「日本教」とはなにか?
その本質は、天皇をキリストと同位置においたことによる、国民平等と自由の基盤づくりにある。
まさに、みごとな「倒置」を日本社会に埋めこんだのだ。

しかし、現実社会に「平等」はなく、しっかり「身分制」があった。
けれども、社会の「建前」として、天皇の下にある国民平等と自由のかんがえは、やがて自由経済体制の下地となったのである。

いやむしろ、下地とすべく発明したのだった。

その根本が、『五箇条の御誓文』と『教育勅語』にほかならないし、戦後とは、これらの「完全否定」なのである。
国民(臣民)は、天皇の「赤子(せきし)」としたことで、政府はサンドイッチ状態にもなった。

上のパンは天皇で、下のパンは臣民としたから、挟まれた政府は天皇の意向に従えば、自動的に臣民の声を聴かねばならないという、たとえ「架空」といえども言葉にした「言霊信仰の構造」によって、ほとんどの臣民は政府を信頼したのである。

この「惰性」が、いまでも続いているので、わたしは「慣性の法則」だといっている。
しかし、天皇の権威が戦後の「努力」によって、弱まったので、政府への信頼が揺らぐという、ブーメランが生まれてきた。

日本教の弱体化努力が、日本人の信仰心を限りなくゼロに近づけたために、たまたまのきっかけによって、特定宗教団体が「やり玉」どころか、反社的扱いとなったので、宗教弾圧がここまできた、とおもえるのである。

ちょっと前のむかしなら、他の宗教団体は、「自分たちとは関係ない」として、問題ある「新興宗教」への弾圧的攻撃をせせら笑う余裕があったろうけれど、いまのわが国にも通じるものか?と疑う。

それが、伝統的既存宗教の、施餓鬼法要の中止にもなっている。
一般的に、「お盆」というのは、「盂蘭盆会」のことで、原語の発音上の「ボン」を「盆」の字で表記しただけだ。
施餓鬼法要は、その中心にある宗教儀式である。

だから、施餓鬼法要の中止とは、まったくもってわが国伝統仏教の自殺なのである。

これを、政権与党を支持する各宗教団体に影響しないはずがない。

さて、この「タイミング」で、「ガーシー」が参議院議員になったこともつながってくるとおもうのである。
彼の「当選」を、「革命的」というひとがいるのは、外国に滞在したままで選挙戦を国内でやらなかったのに当選したことと、彼の「暴露」が票をえたということの2点をさす。

これぞ、「ポピュリズム」といわずしてなにをいうのか?

精神的、哲学的支柱を失った、現代日本社会の「顕在化」なのだ。
一方で、「参政党現象」なる社会現象もあって、両者は二分しているのである。
それが、ガーシーによる与党有力政治家の「下ネタ暴露」と、参政党がさっそく参議院に提出した「質問趣意書」の内容なのである。

参政党は選挙期間中も、「下半身は別」と訴えていた。
良き政治家の定義とその人物の下半身は別だということだ。
個人の性癖とかも含め、国民のための政治をするなら、下半身はあくまでも個人の問題だという主張である。

一方のガーシーは、この意味で「道徳的」なのである。
一国を率いる政治家たる者は、清廉潔癖でなければならない、と。
彼のいう「べき論」は、日本教があった時代には通じるが、いまでは単なる「ゴシップ」である。

だから、典型的週刊誌ネタの「文春砲」を文字って「ガーシー砲」といい、これをタダで見物できる大衆が喜ぶのである。

この「末法の世」の現実が、ガーシーの価値は、議会で1票の役割しかないタレント議員よりは「マシ」にみえる理由である。

堕ちるところまで堕ちれば、あとは上昇しかないから、いまは「墜ちるまで墜ちよ」という坂口安吾の言葉が頼りなのである。

思考させる教育と暗記させる教育

国家であれ企業であれ、はたまた個人の人生で、人材育成には、教育が必要だということに反論はないだろう。
しかし、どんな人材を育成したいからこの教育をするのだ、という「関連付け」ができていることの方が「稀」なのである。

これは一体どういうことか?

前に書いた「無能」が無能を再生産する「連鎖」が効いてくるのである。

ゆえに、このような組織は、なにも特定の企業だけではないけれど、組織のトップが自ら「教育に関与せず」、むしろ、担当者に「丸投げ」する傾向が高くて、その担当者が、組織目標の達成について強い意識を保持していればまだしも、これが抜けると「担当者の趣味」が反映されることになる。

それで、その担当者が無能なら、似たような組織やライバル企業でやっているから、とか、研修を販売している企業の「既製品」的な教育プログラムを、そのまま購入することが「業務」になって、パンフレットにある「目的・効果」もコピーして決裁書に貼り付けるのである。

そんな決裁書を決済する無能な上司は、自分の組織の目標もなにも意識しない無能があるから、部下がコピペしてつくったことすら「目的合理的」だと判断して判を押し、こんな無様をトップは気づきもしない無能がある。

こうした「連鎖」の背景にある共通点は、テストの点数だけで生きてきたことがあるので、「答がおなじ」ならばそれでいいのである。

このようにして、どんな人材を育成したい、が永久にないものを採用できる基盤が完成すると、その組織には「慢性的」に人材不足が発生する。
このことが、あたらしいビジネスを生みだして、いま流行の「転職あっせん」になっている。

「あなたのキャリが意外にも他社では高く評価される」

この「意外」なキャッチフレーズは、無能と有能の狹間で揺れ動いたひとへの「オファー」になるらしいけど、自分の評価を自分で出来ないのも、テストの点数だけでの評価の延長なのである。

それで、どんなデータをあらかじめ入力するのか?への思考が抜けていて、その程度の自分のデータだけをみてオファーをする相手先の無能を見抜くことができない。
あるのは、「年収」と「肩書」という「餌」しかないのだ。

すると、この程度の餌に釣られる人材を、採用する側はどうみているのか?となれば、そこにはもう、「ユニット」としての扱いでしかないので、むかしの「組織の歯車」よりも、もっと明快な「道具」として扱われることの無感覚がみてとれる。

そんなわけで、「教育」は、社会の根本的な部分を担っていると、あらためて確認できるのである。

さてそうであるなら尚更に不思議なのは、江戸幕府も平安朝も、国民教育を「放置」していたことにある。
律令制における「式部省(のりのつかさ)」配下にあった「大学寮」も、元から官位を持つものに入学を許された官員養成校でしかなかった。
ちなにみ、この式部省が「文部省」に名前を変えたのは、758年から764年の間だけだった。

なので、一般人の教育レベルは「高いはずがない」状態だったはずなのに、『万葉集』などの歌集に応募するひとがたくさんいたことは驚きに値する。
しかも、それは誰からの強制ではなくて、自主的だったろうから、もっと驚くのである。

結局のところ、身分制における上位だけに高等教育を施したともいえるけど、それがいかほどの「高等」だったかは、いまと単純比較できない。
それは、いまよりもしっかりしていた面があることは明らかだからだ。
しかも、寿命が圧倒的に短かったことも、考慮しないといけない。

だとしたら、やっぱりいまは、政府によって意図された教育がされている。
それが、暗記させる教育なのだから、余計なことはかんがえさせない、がその意図になる。

そうやって、周りからつくった各種制度のなかに国民活動を閉じ込めたら、政府の意のままに社会を誘導できるので、少しだけ自分でかんがえるひとは、その制度を利用するか、反発するかに二分する。

もちろん、利用する側が圧倒的な「お利口さん」であるから、これが社会の主流派となって、反発するものは「ばか」だとして脇に置かれる。
けれども、だんだんと政府の邪悪な意図が見えてきたら、ごくわずかだけれども「ばか」が増えてきている。

そしてこれが、民間のなかで広まり出すと、あんがいと強敵になってくるのは、自分でかんがえるひとたちだからである。
それがいま、「ナショナリスト」という括りになって、世界潮流になりつつある。

この理由は、政府の意図通りにしていたら、困窮化するのがみえてきたからである。
しかし、世界政府をつくりたい「グローバリスト」は、世界的飢餓をつくって、それをもって最終的な「支配の構図」をつくりたい。

なので、「貧乏」が、これからの対立軸の「接点」になる。
いうがままの貧乏に甘んじるか、反発するかだ。
そこに、民主主義という制度がどのようになるのかもあるから、世界は「政治の時代」になるのである。

人生は砂時計

ガラスで出来た砂時計はどうやって作るのか?
けっこう大変な作業だろうと容易に想像できるのは、手早くしないと砂の量とくびれの細さの関係調整が、加工できるガラスの温度管理とからめて、難しいとおもうからである。

時間の設定には、ストップウォッチを使って、砂の量を決めるから、最初にくびれを作る手順になる。
まさに「職人技を買っている」のが、砂時計という商品なのだ。

「時間とはなにか?」をかんがえだしたら、夜も眠れなくなりそうな難題で、とうとう『時間は存在しない』(NHK出版 、2019年)が、「最新」の議論になっている。
書いたのは、ホーキング博士の再来というイタリア人、カルロ・ロヴェッリ博士だ。

前に書いた、「人間は臨終の際、脳から量子が飛び出して、宇宙へと放出される」という話は、『ペンローズの量子脳理論』(ちくま学芸文庫、2006年)だった。

もちろん、ペンロース博士も、アインシュタインの再来ともいわれる大学者で、生前のホーキング博士との「対談」は、有名だ。

そうはいっても、一介の文系素人には、わかったようなわからない話で、とても「理解できた」と自慢できるものではないし、かえって、なにがなんだかわからないのである。
つまり、宇宙規模の世の中は、「わからない」というのが、まちがいなく現時点での「答え」なのである。

そこで、さらに「素人」がこまるのは、「わかっていること」との「境界」がどこにあるか?がわからないので、なんだか狐につままれたような話になる。
だから、いきなり「時間は存在しない」といわれても、なんのこと?になるし、なにいっているの?になって、生活者は相手にしないのである。

ここに、専門家と生活者との「断絶」があって、それは、「ガリレオ裁判」にもつながるような、「無関心」なのであるけど、「そのうち」世間の常識に変化するものだ。

いまはだれにとっても、1日は24時間で、砂時計でも時間が計れる。
むかしは、1日はあってもそれが24時間だったわけではない。
「24時間の定時法の時計」を伝えたのは、あのザビエルだった。
しかし、日本人は「不定時法の時計」という発明をした。

日の出と日没を基準として、「昼の時間」、「夜の時間」のそれぞれを「均等割」にしたものだ。
明るくなったら活動して、暗くなったら寝る。
この生活のために、「不定時法」が重宝したのである。

だから、夏と冬とで1時間の長さが変わった。

対して砂時計は、一定の時間を計るのに役立つ。
砂粒の大きさの一定が精度に影響する。
それに、「素粒子の流れ」をもってしたら、時間もこれに当たるという話があったので、砂時計はおそろしく「量子論的」な「時計」なのだ。

「粒が流れる」という意味で、おなじだからで、粒の数をカウントしたら「デジタル」なのである。

それゆえに、量子の粒はいつどこから生まれてどこへいくのか?も「砂時計」を作るときの発想だと思えば、いつどこから生まれたのか?は、砂時計でいう「上」の空間で、それが「下」の空間に流れたら、どこへいくのか?という話にもなる。

この上・下が、「ループしている」としたら、「永遠」あるいは「永久運動」になるから、「時間は存在しない」というのだろう。
すると、わたしたちが「時間」を感じているのは、通過点の「くびれ」に住んでいるからだとも思える。

しかし、この「くびれ」の部分が、宇宙なのだといわれて途方に暮れるのだ。
せめて太陽系に限定するとかならば、なんとかついていけそうだけど、そのそも中心にあるはずの太陽すら、「公転」しているという驚きもある。

計算上の「真の中心」から太陽がズレるのは、系の惑星たちの重力で太陽もブレるからだ、と。

もちろん、地球だって太陽の周りを素直にスムースになんて回っていなくて、月とダンスを踊るようにブレながら周回している。
その月も、年に3センチほど地球から離れているから、億年とかの単位でいえば、地球は月を失う可能性があって、そうなれば、潮の満ち引きもなくなる。

これがどんなに地球に影響するかは、少なくとも「人類」には、厄災がやって来ることまちがいない。
それまで人類が存続していれば、だけれど。

一個の個体として、もちろんそんな長生きの人生はないので、かんがえるこすら生活には無駄である。
ならば、どこまで先をひとはかんがえるのか?

数年前まであった「100年カレンダー」をすっかりみなくなったのは、その中の「ある日」が、自分の命日だとかんがえると、自殺を誘引するという危険があると指摘されて、「市場」から消えたらしい。

もっと先がある、という感覚と、先が見えてきた、という感覚は、砂時計の「残り」をみるようなのだ。
若い頃には、時間は永遠だとだれもが勘違いして、齢を重ねたら「残り時間」を意識する。

人間のそんな感覚とは一切関係なしに、「時はすすむ」から、時間とは残酷なものだ。
若い部下にこれをいったら、笑い飛ばされたことがあった。
その人物も50を迎えて、もう笑えないことをしっている。

それゆえに、先を心配してもはじまらない。
逆に、残りの一粒一粒を輝かせるには、なにがよいかをかんがえた方が「楽しい」のだ。

金銭欲、物欲、名誉欲。
はたまた、無欲の境地。
いやいや、自由なる活動への欲求だ。

それがまた、ひとそれぞれなのである。
老後の不安は、ひとまず忘れることだ。

人気のアイドリングストップキャンセル

交差点での信号待ちで、エンジンを自動的に停止させるのが、アイドリングストップ機能だ。

これが、ムダな燃料消費を抑止するので、「エコ」だという。
この場合の「エコ」とは、エコノミーだけでなく、地球環境にやさしいという意味での、エコロジーのことも同時に指すにちがいない。

義務教育における「洗脳」を、戦前の教育にはあてはめて批判するけど、戦後のことはいわないから、事実と政治思想(うそ)が混じっていても、誰もいわなくなった。

つまり、地球は人間のために痛んでいるから、そんな人間をこらしめなくてはいけないし、そうならないように自己制御することが、「道徳」だと教えている。

これは、どうしたことか欧米のキリスト教批判からきた、伝統から離れる「モダン」に対する「ポスト・モダン」とした思想ではあるけれど、実態はたんなる「左翼思想=共産主義・全体主義」の言い換えにすぎない。

つまり、ここでいう「伝統」を「個人主義」とすれば、「ポスト・モダン」とは、「利他主義」のことにもなる。
共産主義が利他主義を「善」とするのは、全体主義ゆえの「個人の否定」にほかならない。

この「利他主義」こそ、騙しのトリックつまり、手品のタネなのである。
「他人のため」という「自己犠牲の精神」は、なんだか美しい。
しかし、「自分かわいさ」ゆえに、他人も「自分同様」とする「個人主義」がややこしいので、騙されるのである。

「自分かわいさ」だけで、「他人はどうでもいい」という、「わがまま」を個人主義だと威張られて反論できない弱さがあるからである。
そんなやつには、ズバリ「ひとでなし」といってやればいいのだ。
しかも、そんなやつほど「利他主義」を口にするものだ。

みんなのためだからマスクをしなさい、とか、みんなのためだからワクチンを接種しなさいという「善意」の押しつけ(強制)は、共産主義・全体主義の「善」なのである。
だから、みんなのためだから、資本家の資産は没収していい。

没収した資産は「みんなのもの」だけど、みんなに分ける方法を決めるのは「党」であって、「党」はごくわずかな「指導者」に従う。

それでこの指導者に媚びを売らないと、自分の命の保証もないから、手が痛くなるまで称える拍手してもどうでもいいことだし、それをみなでやっていることの安心感が得られるのは、だんだんと個人の幸せにつながると思えるようにされているのだ。

ゆえに、指導者はたえず「集団心理」のコントロールに気を遣って、たえず自身や党に憎しみの矛先がこないように、外部に「敵」を作りつづけるのである。

この対象に、ぴったりなのが「地球環境保護」というキーワードで、外部の敵(外国)を自虐的に衰弱させることを思いついた。
そうやってできた、「反日政策」の究極工作が、『京都議定書』だった。

自分たちを「蚊帳の外」にして、まんまと日本だけが貧乏くじを引かされたのに、あろうことか日本人はそれを悦んだのである。

米・欧・露・中の国連常任理事国は、二度目の「大勝利」に酔ったはずだが、大酩酊していたのは、「負け戦」を引きずる日・独の2ヵ国だったわけである。
昨今のエネルギー資源不足から、ドイツはひどい二日酔いに気づいたけれど、日本はいまだに気を失っている。

幼稚園から小学校を通じて、「自然派=善」をたたきこまれて、中学になれば「テストに出る」ということでの強制で、そのままおとなにさせられる。
それでも、自立して生活をはじめるのに、自動車がないと暮らせない地方住まいなら、なんだかおかしい、に気づき出す。

しかしながら、人口密度から公共交通機関の発達がある「都会人」は、自家用車を必要としない生活をしているので、この「気づき」がなくて、「大票田」となっている。

それが、アイドリングストップ機能だ。

はじめのうちは、あたかも燃費に貢献しているようにみえて、地球環境によいことをしている気分ではあるけれど、モニターに表示される「効果」としての節約した燃料は、「リットル単位」にはほど遠い。

定期点検や法定点検にだせば、バッテリーの消耗が激しくて、高価なバッテリーを交換させられればまだしで、あろうことかエンジンスタターモーターが壊れたら、レッカー移動の憂き目もみる。
これが冬場の山中だったら、命に関わるのである。

そんなわけで、アイドリングストップをさせないための、キャンセル機がバカ売れしている。
エンジンを始動するたびに、いちいちキャンセルボタンを押さないで済むからである。

すると、消費者は、アイドリングストップ機能を買わされて、さらにこの機能をいつも解除する機能を買うという、二重の出費をさせられている。

もっといえば、公共交通網が薄い人口密度で成りたたない地方ほど、家族それぞれに一台が必須の自動車なのに、その燃料を運ぶためのコストも加算されるので、製油所のある沿岸部より高価な燃料を買わされている。

だから、都会より地方の方が、生活コストが「安い」にはならないで、むしろ、「高い」といえる。
これも、地方衰退の原因の一つで、その重みは大きいのではないか?

消費税とガソリン税を二重に盗られる地方イジメが、都市部重視・地方軽視の政党になった昭和のはじめの「民政党」に似てきた自民党の姿なのである。
なんだか、東京駅で撃たれた濱口雄幸と誰かが似ている。

そうなると、自民・公明政権による「悪政」が、総合的・計画的に実施されたと解釈するのが妥当だろう。

ところで、「アイドリングストップ・キャンセル機」は、「合法的」なのである。
なぜならば、「車検」における「義務」ではないからで、燃焼効率だけの「排ガス規制」がやっぱり「税」とからんで引っかかるのだ。

この引っかけ問題をつくったのは、経産省と環境省の嫌がらせなので、メーカー系のディーラーでは販売も取り付けもやってはくれない。
しかして、「エコ」なのは、バッテリーとエンジンスターターモーターを長持ちさせるからで、こうした役所の「視野狭窄」発想が、まったく「科学を無視する」点で共通している。

もはや誰の目にも明らかな、メガソーラーの環境破壊を「推進」させているのが、これらの役所で、やらせているのが自公連立政権による「悪政」のたまものなのである。

しかし、「環境派」のはずの左翼野党も無言を通しているから、気づいた国民はあらゆる方面でアイドリングストップ・キャンセル機のような「逃げ口」を探して歩いているのである。

農業とは必ず自然破壊する

さいきん目にする、「自然派農業」という文字には、自己矛盾がある。
そもそも農業を「業」として行うとは、必ず自然破壊を伴うからである。

「エデンの園」に住んでいた人類の租、アダムとイブは、労働をする必要もなく、その辺にある果実やらを適当に採って食べていればよかった。
だから、飢餓をしらない。
なので、満腹になるまで食べることもしなかったろう。

ひとはいつでも腹が満たされる状態にあれば、しぜんと「腹八分目」にするものだ。
しかし、ふつうのひとがそんな状態に置かれたら、こんどは閑を持てあまして、ロクなことをしなくなる。

蛇に騙されたことにはなっているけど、きっとアダムとイブが閑を持てあましていたにちがいないのは、イブに少しは「智恵」があったからだろう。
すると、アダムは完璧な「愚民」だったともいえる。

それで例の「智恵の実」を食べてしまって、罰として一生労働して暮らさないといけないように、「楽園追放」の目にあうことになった。
これを、あちらのひとたちは、「原罪」と呼んでいて、彼らの子孫であるわれわれは皆その罪を背負って生まれてくる、と。

一方で、日本の神話では、米作りがすぐさま出てきて、「瑞穂の国」となっている。
それがまた、縄文遺跡からも炭化した米が出土して、いまだに日本人の半分を占める縄文人の先祖は、稲作をやっていたことがわかっている。

だから、弥生人が稲作を持ち込んだ、という説は、もはや通じない。

ここで、アダムとイブの子孫たるひとたちは、まず米を作ってはいないことを確認しておく。
彼らは、主に小麦、大麦、オリーブ、ぶどう、を作っていた。

なお、ジャガイモやトマト、トウモロコシ、ナス、それに唐辛子などは、みなアンデス原産なので、コロンブス以降のひとたちがヨーロッパに持ち込んで普及したから、ここ数百年程度の、人類の食料としては「新しい」農産物なのである。

すると、これらの「輸入品」を日本人が栽培して食べ出したのは、「もっと新しい」ことになる。
江戸期に唐辛子がやってきて、辛子に「唐」をつけたのは、南蛮人からの伝来をいったのだと前に書いた。

対して米は元来東南アジア原産で、稲という植物は、育つのにやや水没した環境がないといけないのである。
だから、米作りには、東南アジア「風」の環境を人工的に作って、あたかもやや水没させて暮らしやすいようにしてあげるのである。

これを、縄文人がしっていた。

一方のアダムとイブの子孫たちがいるあたり(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のひとたちが住む)は、もともと乾燥地帯(メソポタミア・エジプト)で、小麦栽培の地域だった。

ところが、米にあって小麦になく、小麦にあって米にないものがある。
米にあって小麦にないのは、玄米にある「必須アミノ酸」だ。
小麦にあって米にないのは、「グルテン」である。

だから玄米を食べていると、極端だが副食を要しない。
しかし、小麦ではそうはいかないから、タンパク質は家畜から得たし、脂質は家畜とオリーブオイルから、そして嚥下しやすいように飲み物を欲したけれど、清水がないのでワインをつくって飲んだのである。

それゆえに、西ローマのカソリックと東ローマの正教会(元はローマ教会)での儀式「聖体拝領」では、パンとワインをいただくのである。
なお、プロテスタントにこの儀式はない。

洋の東西を問わず人類は、農地を「開墾」するために、森を開き、岩をどけてきた。
つまり、「自然」を太古からの手つかずのままの状態だとすれば、農地とは「それだけ」で自然破壊をするものなのである。

なので、耕作放棄地の荒れ地を「自然にかえる状態」といえばいいものを、整地された「百枚田」をみて美しい自然だといって写真を撮り、耕作放棄地の草ボウボウを見向きもしない。

だから、自然派農法なる言葉には偽善があるし、「野菜工場」なる言葉もおかしい。

しかし、人間は食物をとらないと生きていけないために、農地を保持しながら農作物を育てるのであるから、農地そのものが「工場」なのである。
それが証拠に、各種肥料(いまは化学肥料)と、農薬をどのように使ったらもっとも効率がよいのか?という「生産技術」が問われる。

これらの「投入量」と「投入回数」を、人工的に少なくする農法を「自然派」というから、ふつうの農業よりもずっと人工的なコントロールを要する。

それが昔は、「厳しい農作業=労働」をもって対処したのだった。

勝手に作物ができて、エデンの園のような農業を「自然派」とはいわないのは、そんなことができないからである。
これを無理やり政府が命じて破綻したのが、スリランカ農業でのできごとだ。

しかして、われわれが「自然派作物」を求めるのは、「安全」に尽きる。
けれども、「安い」を優先させたら、そうはいかない。

さてそれで、「安物買いの銭失い」という諺は、どんなふうに作用しているのか?
それが、「健康」だとなれば、「安いは悪い」になるのだけれど、簡単ではない「深刻」がある。

いまや、せめて「旅先で」すら、ままならないのは、先年の東京オリンピックにおける選手団への食事提供だったけど、「世界規格」に合致した作物が国内になくて「輸入」に依存していたのである。

日本人はいま、なにを食べているのか?なにを食べさせられているのか?

オリンピックの「経験」は、ぜんぜん活かされていないで、たった1年前のことなのに、なかったことになっている。