生命と魂と人生

よくよくかんがえると、「世の中」は、たまたまそのときに生きている人々の「集合体」である、ように見える。

自分が生まれたときに70歳のひとがいれば、年齢差は70年ということになるけど、子供が社会を認識するようになるのに10年かかれば、おなじ年齢差でも80歳になっているひとの人生は70歳のときからさらなる経験を積んだことになる。

むかしは寿命がいまよりもずっと短かったので、「同時代人」の「幅」も少なかった。
しかし、人間という生き物は、社会の中で生きるしかないので、その社会の成り立ちに影響されるのは当然だ。

すると、いまの社会を生きている、といっても、いまの社会がいつから「いま」なのかをかんがえたら、おそろしくゆっくりに見えながら、じつは確実に変化していることに気づくのである。

たとえば、60歳になって、5歳のときやら10歳のときの記憶をたどれば、それはもう「別世界」だったことがわかるし、当時のおとなはすでにほとんど物故していて、この世にいない。

それは、自分がおとなになって就職したときの記憶もおなじで、おなじ会社とはおもえない「変化」を確認することができる。

およそ人間は、自分のことを変わらない自分だと思いこむ習性がある。
しかし、全身の細胞が半年あまりで全部入れ替わることがわかってきて、1年前の自分とは「別」の状態になっている。

このとき、遺伝子の僅かなコピーミスがあることもわかっているので、入れ替わりを何度もやっているうちに、ちがう自分になっているのに、それを本人が自覚しないで生きていることもわかっている。

こんな状態を「生命」といっているのである。

細胞の入れ替わりには、脳細胞も含まれるから、コピーミスは人格への影響も無視できない。
これに、社会自体の状況と変化が加わって、「意識」が形成される。

そしてこの「意識」の深層に、「民族の記憶」という歴史の織りなす感覚があるから、これを、「魂」というのである。
この「魂」を、「霊魂」としたときには、まったく別の最新研究があって、それが「量子力学」の分野での議論になっている。

ニュートン力学やアインシュタインの相対性理論も超越している量子力学では、物質の成り立ちである「素粒子」の振る舞いが、生活感とはぜんぜんちがう。
それで、脳とは量子コンピュータであるとして、「霊魂」の研究になっている。

人間は臨終の際、脳から量子が飛び出して、宇宙へと放出される。
それが、エネルギー体として宇宙空間をさ迷うというのだ。
このエネルギー体を、ふつう「意識」と呼んでいる。

大ベストセラーになった、分子生物学の福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』(2007年)で、生命の定義がされている。
それが、「エネルギーの流れ」であったから、「意識」が生命体として宇宙にあるというのは、奇天烈なことではない。

すると、エネルギー体としての「意識」の、過去から未来への「蓄積」が、「魂」になるとかんがえられているのは、宗教を超越した最新科学が導いた仮説になっていて、一部の科学者はこの研究に没頭している。

先日、小惑星探査機「はやぶさ」が採取した「砂」から、「アミノ酸」が検出されたことがニュースになった。
生命宇宙起源説の証拠として論じられているけれど、意識が宇宙にあるとすれば、「唯物論」として騒ぐ意味もないのである。

個体としての人間には、個体としての人生がある。

しかしそれは、個体として「だけ」ではない「社会」となるから、個体が物質的に社会を造っているのではなくて、「意識」もそこになければならない。

すると、「意識」の集合体ができるはずで、これが、「普遍的価値」をつくりだすのだとかんがえられる。
大正の世に、内村鑑三は『後世への最大遺物』として講演し、これを弟子たちが書きとめて今でも読めるようにした。

この弟子たちの「想い」も、いまでは「遺物」になっている。
テープレコーダーもなかった時代の、一言も漏らすまいと必死に書きとめた気持があふれ出ているからである。

「いまの社会」にある、「気分」がその一つで、ずっと前からある「民族特性」に吸収されるのだろう。
だから、ずっと前からあるのが先にくるのは当然だ。

そしてこれを、「意識的」に「破壊しよう」とする者たちがいる。

本来これを「新人類」と呼ぶべきなのだ。
しかして、多数の「普遍的価値」からしたら「敵」となる。
それがいま「勝負」を仕掛けてきた、「グローバル全体主義」で、あらゆる分野で野心をむき出しにしている。

わかりやすいのが「国連」であり、「WHO」だ。
なんと、ジュネーブ本部にある、「(核)軍縮会議」の議長に、北朝鮮が就任した。
おなじく、「人権委員会」の理事国に中国がなっている。

わが国では、国連憲章に「敵国条項」があるままで、「安保理常任理事国」を目指すという「世迷い言」に、多額の国家予算をつけている。
むしろ、おなじ「敵国」のドイツや意識がある国とはかって、「第二国連」を創設するくらいの意地があっていい。

いまを生きる人生で、そんな「遺産」を残したいものである。

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