実務者ほど哲学を

経営者が経営者の役割を放棄して,ただの社内発注者に成り下がり,その発注根拠すら部下に丸投げするから,部下は発注そのものの意図から紐解かなければならないことが見られる.
大企業病のなかのひとつの症状だが,中小中堅企業が,これをまねてしまっていることがあるので,ウィルス性の伝染病かもしれない.

罹患した経営者の治療方法は,本人の気づきをきっかけにして,自己免疫作用の発揮しかないのだが,そもそもその才に欠けるから罹患するので,あんがい治療は難しい.
そこで,気の毒な部下が奮起するしかなくなるのである.
しかし,こうした部下にとっては,将来の反面教師として,また,問題解決の経験が職業人生に重要な示唆をあたえてくれることもある.

「こともある」というのは,確率のはなしである.
マイナス評価を企業文化にする体質なら,波状攻撃のなかのひとつでもしくじれば,かなりの確率で裏街道にまわされる.
「プラス評価が基準です」と声高の企業ほど,実際はマイナス評価をするから,なかなか一筋縄ではいかないのが現実である.

これは,評価をする側の裁量範囲と能力の不一致からくる.
結局,上司次第,という他力本願が部下に生じるのだが,一方で,その上司も部下を選べないことがあるから,はなしが複雑になる.

「適材適所」ほど困難なものはない.

「適材」とはどういうことで,「適所」がどこかを深くかんがえ,今だけでなく将来まで,自社の人員をどう配置するのか?をまともにかんがえると,まさに夜も寝られないことになるだろう.
だから,一貫してちゃんとできている企業はすくない.

そんなこともあって,経営者の集団は「優秀な人材」をもとめるのだが,困ったことに,この国の経営者の集団は「優秀な人材」とは,安易に偏差値によると理解しているから,大学から順番に高校,中学へと「偏差値『偏重』」が伝染し,ついに逆流し,果ては幼稚園から大学という順番に変化した.
その結果生じたのが,「教育問題」である.

答がきまっているから採点できる.だから,「偏差値『偏重』」のエリートは,答がきまっていない問題を解けない,とずいぶんまえから指摘されている.
これは、重大な問題で,ビジネスシーンにおいては,答がきまっているものなど存在しないし,そもそも「正解」すら,だれにもわからない.

ある課題を解決する方法をみつけて,それを実行したら業績が改善した.
それならば,その「解決方法」が「正解」かといえば,確実にちがう.
「おそらく正解に近い」としかだれにも評価のしようがない.
なぜなら,もっとうまい方法があるかもしれないからだ.
「経営活動」とは,正解の「近似値」に近づける活動のことである.

だから,成功体験が豊富な企業ほど,貪欲に「もっとうまい方法」をいつでもかんがえている.
残念ながら,成功体験がすくない企業は,かんたんに「正解」と決めつけて,改善案を拒否するから,たいがいが「ジリ貧」になるのである.

経済界が「学校教育」に口をだすのは理解できる.
社会人になるための準備をする機関であるからだ.
ところが,どうもわれわれは「教育」を勘違いしているかもしれない.

日本の「教育」は,江戸時代の寺子屋以来,「教え諭す」という概念で一貫している.
だから,いまだに教師を「教諭」という.
ところが,「エディケーション」は,「可能性を導き出すのに手を貸す」というニュアンスが強い.

この違いは,決定的だ.
しかして,わが国に「エディケーション」の文化も伝統もなく,「教え諭す」が行きついた先が「偏差値『偏重』」だったのは必然でもあろう.

すると,社会にはいってからの「エディケーション」しかチャンスがない.
「かんがえる訓練」を,最新のIT企業が重視して,新入社員からベテランまで一貫して社内研修のテーマとしているのは,しごく当然なのだ.

「二進法」でしられるコンピュータを扱うには,「ロジック」がなければならない.
だからといって,小学校から「プログラミング」を「教え諭す」のは,「エディケーション」になるのか?といえば,残念ながら,そうはいくまい.
順番がちがう.「エディケーション」のなかに「プログラミング」がなければならない.

かくして,企業内で問題解決をはかる「部下」にとって,もっとも重要なのは,「哲学」のリテラシーとなる.
若くて経験が浅いうちは,「ノウハウ本」でもなんとかなるが,中堅以上になると行き詰まる.
職業人生で40代がピークであると,なかなかわからないものだが,ピークを越えたら「維持」だけでも大変なのだ.
だから,入社から20年でどこまで経験を積み上げ,経験という「資産を増やす」かが,その後を決める.

「自己啓発」のおおくが「かんがえ方の伝授」なのも,この理由による.
すなわち,実務家にもっとも重要な基礎をなすのは,「方法」ではなく「哲学」なのである.
それは、経営者に「哲学」がなくなったからでもある.

「魔法使い」になった経産相

このたびの北海道地震で,道内ほぼ全域が停電となった.
対して,6日,経産相が「数時間以内に電力復旧のメドを立てるように指示をした」.
一方,今回の停電は「ブラックアウト(全系崩壊)」が原因であった可能性が指摘されている.

ブラックアウトだとすれば,わが国で「初めて」という事態である.
これは,震源に近い発電所が運転を自動停止したのをうけて,周辺の発電所がバックアップをしようにも,みずからのシステムを守るために,安全機能が作動して連鎖的に電力供給が遮断されることをいう.

また,本州からの給電をえるために用意がある送電網(直流)も,これを交流に変換作動させるために電力を必要とするから,なんと給電をえることができない.
これは、どこかで聞いたはなしである.
福島第一原発における,「全電源喪失」と似て,北海道全域という「系」のなかで,「全電源喪失」という事態となった.

「電力業界」は,言わずと知れた「経産省管轄」だから,ここでもまた「官僚の落ち度」が厄災の元凶となった.
そのアリバイのために,高飛車な態度をとって,能なしは電力会社であるという責任のおしつけを図ったのが,大臣の発言主旨だろう.

もしそうではなく,この大臣のみずからの意思による発言だとすれば,命令すれば何でもできる,という精神構造があきらかとなって,物理科学的な現実を無視した「魔法使い」をまじめにやろうとしているから,まさに「ファンタジー」だ.
この国の「大臣」は,政治家ではなく「官僚」のトップに成り下がってしまった.どっちを向いて話しているのか?

どちらにせよ,被災者にとっては唖然とするはなしで,どうでもいいから電気が欲しい.
原発事故の教訓が,相変わらずまったく活かされないのは,その原点にある「想定」がまちがっているからだ.
これを,あたかも責任回避する便利な用語の「想定外」という一言で,役人はだれからも処分されない.

近年まれなる破壊力が予想され,さかんに事前警告があった先週の「台風」で,関空が機能不全になり,8千人の利用客が人生の記憶に残るだろうひどい「おもてなし」を受けた.
はたまた,京都の山奥では宿泊研修中の小学生160人が孤立したさわぎとなった.
どちらも責任者は「想定外」というが,これがほんとうに「通じる」社会なのだろうか?

外国人が珍しがるから,ある種の「観光資源」にもなっているのが「電柱と電線」である.
ようやく「簡易型の埋設方式」が,一部で「実験」対象となっている.
なぜ,電線は電柱が常識で,埋設がいけないのか?
せっかく,大金かけて埋設したのに,なぜ「トランス」は地上に鎮座しているのか?

「想定」の前提が,「産業優先」の「産業政策」という枠内にあるからである.
端的にいえば,「利用者優先」や「消費者優先」になっていない.
もっと深くいえば,民主主義でないのだ.

どうして「野党」がこの点を重視しないのか,まったく不思議である.
「支持率ゼロ」の政党が存在する不思議があるが,その政党も,あろうことか別の方向をみているようである.
これは、マーケティングがめちゃくちゃであるという証拠である.

そんな具合だから,科学にうとい「高等文官」たちが跋扈できるのだ.
電力会社は,電気を起こして配電して販売するという商売だ.
地震で発電所が停止したらどうなるのか?「大損」である.
地震や台風で配電のための,たとえば電柱が倒れたらどうなるか?「大損」である.

利用者には,電気がない生活はありえない.
それで,なにがあっても電気があることを前提にするから,電力会社の安定供給のための投資を負担するのは仕方がない.
だから,インチキがないように会社は活動内容を正しく公表する義務がある.

これに,命令して歪めるのが役所である.
電力会社にも,利用者にもためになることは「想定」しない.
その余計な分まで,利用者は負担させられるから,二重に損をする.
学業で勉強できたひとたちが,自分以外はバカだと信じているから,電力会社も利用者もだまって命令に服せばよいと思考するのだ.

しかし,その命令は,魔法使いの魔法である.
科学技術の知見をこえた法律をつくって,それを守れと命令すれば,世の中は法律どおりになるというのはどうかしている.そうかんがえるのは「凡人」だ.
日本のエリート官僚は,できないといえば,法律違反だとして罰をくだす.
それでもやっぱりできないと,民間はバカばかりだと内輪で満足する.
「いえいえ,そんな技術を人類はまだもっていません」といって許してくれるひとたちではない.

利用者は,なんと「魔法」の分まで負担させられている.

被災者には衷心よりお見舞い申し上げる。

奴隷労働の譜系

以下の話題がバラバラだが連続してはいってきた.

1.希望する高齢者が70歳まで働けるよう、現行65歳までの雇用継続の義務付け年齢を見直す方向で、高年齢者雇用安定法を改正するという.
2.また,地方自治体で,非正規職員の比率が財政難で上昇していて,50%をこえる自治体も相当数(九州では10市町)ある.
3.さらに,福井県9市町で「総合行政情報システム」が,システム障害をおこし,管理しているシステム会社に「契約違反」として,50万円の損害賠償をもとめるそうだ.

これら一連のはなしには,かんがえない,という思考停止の「奴隷化」という共通項が「譜系」になってみえてくる.

「働き方」の話題で,切っても切れないのが,「労働市場」というもののかんがえ方である.
欧米的な労働市場が「ない」ということを,このブログでくりかえし指摘した.
わが国の専門家はなぜか,「労働市場の流動化」がもっと必要だというが,そもそも「労働市場」が「ない」のだから,「流動化」もなにもない.

労働者は自分の「労働」という「行為」を売っている.
「行為」だから,「人格」ではない.もし,「人格」も含めてしまったら,それは「人身売買」になってしまう.
だから,「労働」とは労働者にとって「商品」なのである.

「商品」には,ふつう「スペック」がある.
この「スペック」が労働のばあいふつうの商品とちがうのは,みがけばみがくほど価値が上がるという性質があることだ.
自分でみがく場合と,雇用主がみがく場合と,両者でみがく場合がある.

いずれにしても,「労働」は商品価値が「成長する」という特性をもっている.
だから,価格が上昇傾向で変動する可能性がたかい.
物質的商品は,物質だから自分の意志がないので,需要と供給によってのみ価格がきまる.
「労働」という商品には,労働者の意志があるので,「成長分」についての「相場感」があって,需要と供給によって価格がきまるものの,交渉で折り合いをつけるのである.

この「価格がきまる」過程を,ふつう「市場(しじょう)」と呼んでいる.
物質的な商品であれば,たんに「商品市場」といい,労働という商品であれば「労働市場」という.
わが国に「ない」,といったのは,このような意味でのはなしである.

静岡県御殿場市にある,大規模観光施設の創業者は,
「雇用延長でも,給料はおなじ.だって,仕事がおなじで,おなじようにやってくれれば,おなじじゃないとおかしい」と言いきっている.
ちゃんと「労働市場」があるひとの発言である.

この発言が,「珍しい」のがおおかたの「常識」だから,わが国の企業組織は「労働」を理解しているか?が怪しい.
つまり,「本当は『定年退職』したから,継続して雇ってやるなら年収で半額でも多いぐらいだ」という発想には,「労働市場」の原理がどこにもないということだ.

これには,当然,「現役」の給料にも「労働市場」がないことを意味する.
雇われる側の「労働者」も,自分の給料の価値が自分の労働の価値と一致している,という感覚は皆無だろう.
これには,戦後の「生活給」という日本独自のかんがえ方が,いまも生きているからだ.

「年功序列」や「終身雇用」が日本的経営といわれてきたけど,もっとも重要で基礎になるのが,給料は「生活給」である,という概念だ.
ひとり暮らしの若者の給料は,生活にそんなに費用がかからないから安くていい.
でも,結婚したら,奥さんの生活分をどうする?子どもができたら,その分の教育費もどうする?
これが,年功序列の原点だ.

「終身雇用」は,寿命がみじかかったらで,年齢によって強制退職させられるという理不尽に,あんがい誰も不満がない.
「退職金」という「生活給」によって,その後の人生も支えられてきたからだ.
だから,転職は不利になる.退職金の計算根拠「勤務年数」がリセットされる.

日本企業と外資系が,相も変わらず「分類」されるのは,外資系に「生活給」という概念がないからだ.
外資系の賃金体系は,「労働市場」を原則とする.
日本に「労働市場」がない,というのは「日本企業」のことを指す.

改めて本稿冒頭の3点をみてみよう.
1.の雇用延長をたんに「延長」するだけ,だから,自分の価値とはことなる労働条件を強いられる理不尽も「延長」されてしまうし,収入がふえると社会保障負担額もふえるから,踏んだり蹴ったりになる可能性がある.

2.自治体の非正規雇用の実態は,「身分」と連結している.かんたんにいえば,正規職員はとにかく働かない.非正規職員に押しつければ,業務は遂行されるからだ.
ならば,正規職員を廃止してしまえばよい.「その程度」の業務レベルと業務量なのだ.
AI時代の職業予想で,公務員がいらなくなるのとおなじ理屈である.

3.上記2に関連して,直雇いなら2のとおり.これに「業務委託」が加わったのが3である.
ようは,丸投げなのであって,ふだん「委託」した業者には無関心なのだが,役人に不都合が生じると,相手のせいにする技術に長けているというだけのことだ.
この前提は,「指定業者」になりたいのが世の中にたくさんいるから,だめなら別の業者に指定をかえればよい,という安易さがみてとれる.
人口減少時代,地元でそんな都合のよい会社がいつまでもあるのだろうか?

役所もいれた日本企業の奴隷になりたくなかったら,どうすればよいか?
自分でかんがえなくていけない時代になっている.
労働側にも,「生活給」を棄てるための研究が必要だろう.

財政難は「救い」となるか?

福井県の県庁所在地である福井市が,財政難から396施設の廃統合と,補助金の一律10%カットを検討する,というニュースがはいってきた.
「箱物」である「施設」は,来年10月までに廃統合と民間譲渡がきまり,譲渡先がないばあいは廃止して土地を売却・返還する方針だという.

一目見て,たいへんよいことであると感心した.
高度成長期,全国で一斉に公共施設が建設されたから,だいたい「更新時期」もおなじだろう.
すると,このニュースは,決して「ローカル」ではなく,かなりどこにでもある話だ.
その地域しか見なければ「寝耳に水」かもしれないけれど,そんなことはぜんぜんない.

しかし,一方で,福井「県」は,福井市を「中核都市」にすることが「悲願」だとして,「突き進む」というニュースもあるから,どうもチグハグしている.
だいたい行政の「悲願」というもので,住民によいことはないからだ.

上述の廃統合と補助金カットの件は,市議会でも質問が相次いでいるという.
役人側は「無い袖は振れない」という答弁だろうし,議員のほうは「存続が地元の悲願だ」と言っているはずだ.

しかし,報道されている396施設がどんな施設なのか詳細がわからない.
福井市のHPをみたら,「福井市施設マネジメント計画」(素案)平成26年11月,という文書があった.
それと,今回の「福井市財政再建計画」平成30年8月があった.
便利な時代である.ご興味のある向きは,一読されたい.
似たようなことが,読者の地元でもかならず検討されているはずである.

さて,もっともらしくまとめるのが役人の仕事だから,細かく指摘はしない.
これは,地方官僚がかいた「官庁文学」で,要は「こんなに使ってお金がないの」と言っているだけだ.
経営破綻した「宿屋」と,ほとんどかわらない分析と方策なのだ.

なんのことはない,だって人口も収入も減っちゃうから,しょうがないじゃないか,と.
それに,東京とちがって,大企業もないし,しょーもない中小企業ばっかりだから,ろくに税収もあがらないしぃ,である.

この国は中小企業でできていることをまだしらないふりをする.
補助金漬けでしょーもなくしているのはだれなのか?
それを「産業政策」だというから,思考回路は昭和のままで停止している.
こんなことを飽きずにつづけたから,お金がなくなったのだ.

こういう役人の大軍と,「無い袖でも振れ」というしかない無能な議員ばかりだから,住民はとにかく我慢するしかない.
市長だって,「なんで自分の時代に」とぼやくしかないだろう.

くわえて,「県」と「国」という上位の行政組織からの命令がある.
つまり,経営破たんした「宿屋」の再生に,損益計算書しかみれない「自称」投資家が乗り出すようなもので,ろくな再生もできないのとにている.
抜本的な対策が,後手後手になるのだ.それに,けっして再生を成功にみちびかない「経費削減」しかしないから,基礎体力も消耗する.

「今のままならいまのまんま」
危機感の欠如である.

「業務の評価」を避けて,経費削減に邁進すると,民間企業でもかならず「一律カット」という手法しか選択肢がなくなる.これを企業内官僚は「事務屋の敗北」と認めている.
このばあいの「業務の評価」とは,キャッシュを産むか産まないかであって,「必要の有無」ではない.
「外資」なら,当然の検討手順である.

だめな日本企業のおおくが「必要の有無」という泥沼議論にはまって,時間を浪費し,結果的に自己判断ができなくなっている.
行政の補助金なら,「一律全額カット」が望ましい.そうして,浮いた財源を,住民税で「寄付金控除」に振り替えてこそ,民間活力の活用になる.

住民が「必要」とする事業だから,そんな乱暴なことはできない.
かならずそういうが,誰も「必要」となんかしていない.
くれるというからもらっている.いや,もらえというからもらっている,程度である.
しかも,いちど補助金をもらうと,もらった側の魂が抜かれるから,もらいつづけないとやっていけない.
そんな,「補助金依存」こそ,世の中に必要がないのだ.
有力閣僚経験者も地元にいるから,所得税「特区」にでもしてもらって,寄付金控除を国税にも適用できないものか?

本来は,「財政再建のため」ではないが,オリンピック「のため」ならなんでもできるように,利用するなら利用すればよい.
そういえば福井県は,ことし「国(民)体(育大会)開催県」だったから,「国体のため」といって,いろんなお金を「必要だ」といって使ったろう.

オリンピックはたまたまだが,国体は確実に50年にいちど順番がくる.
「国」がオリンピックにことよせていろいろ使うなら,「県」だって負けてはいられない,という住民からしたら意味不明の理屈が役所にはある.
次回の50年後,住民の人口がどうなっているかをかんがえたら,おぞましいだろう.

大きくいえば,行政と民間の「棲み分け」をすることが「必要」なのだ.
「行政にしか」できないことはなにか?
じつはほとんどない.
バッサリ切り捨てれば,そのうちこの国でもっとも可能性にあふれ活気のある「市」になるだろう.
そうすれば,自然に中核都市に「なっちゃう」のである.

わたしが尊敬してやまない,橋本左内を産んだ街である.
日本中がびっくりするような「妙策」を,深くかんがえて実行されることを切に願う.

不祥事の連鎖

組織トップによる不祥事がつづいている.
猿の行動にみられる連鎖に似ていて,群れをこえて伝播しているようだ.
これらの一連の不始末の特徴は,突出したトップの暴走,というパターンである.

役員会はブレーキをかける役目をはたせず,むしろ補助して理不尽を加速させる体たらくである.
まさに,「頭から腐った」という姿だ.

なぜこんなことになったのか?
いくつかの理由がかんがえられる.

第一は,理念の欠如である.
その組織の存在理由が理念である.なんのために存在し,なにをもって社会に貢献するのか?が「文章」になっているのがふつうだ.
これを「あってなきもの」とすると,組織は糸が切れた凧のごとく迷走をはじめる.

この究極が,「俺が理念だ」のパターンである.
これは、「独裁」を呼ぶ.
白紙の理念にその都度書き入れては消すから,だれにもわからない.
この疑心暗鬼が,組織の運動になってトップ崇拝を促進すると全体主義ができあがる.
トップからみたら,子犬をしつけるがごとくの組織になる.

第二は,理念の目的合理的な追求をする活動の欠如である.
さいきんはこれを「◯◯ファースト」と言っているが,そうではない.「合理的な追求」という行為である.「◯◯ファースト」は,標語にすぎない.行為がないから,都政も標語だけになった.

第三は,上記二つを組織の構成員が全員共通認識として共有していることの欠如である.
「牽制」が効くのは,目的合理でないことがあれば,たちまちにして組織内で「異常」と認識されるからである.免疫システムの抗体が,異常を正常にもどすのとおなじ機能がはたらく.

さて,上記三点は,健全な組織では,ふだんはあまり意識しないものだ.
ただ,自分たちの「使命」については,意識が高い.
それは,理念とその合理的活動から,「使命」が生まれるからである.
「使命」とは,じつは上記の三点を包括している.
つまり,「使命」の欠如,という問題が露呈しているのだ.

相撲,柔道,レスリング,アメフト,ボクシング,チアリーダー,バスケ,体操と,スポーツ系がつづいている.おそらく,まだまだあるのだろう.
一流選手だったものが,一流の「経営者」とはかぎらない.
スポーツの企業支援は,お金もさることながら,マネジメント層の貸しだしのほうが重要なのかもしれない.もちろん,儲かっている企業からの,である.

これら団体の共通項は,文科省の子会社スポーツ庁の管轄にみえる.
しかし,そもそもスポーツ庁なる役所ができたのは,サッカーくじの管理だった.
くじで稼いだお金を,補助金にしてばらまく,という機関だから,不祥事に対して対処するという想定がなかったろう.

長官が言う「厳しく対処する」とは,「補助金をあげないよ」という意味だ.
それでは困るから,とにかく頭をさげる.
とりあえず,頭をさげればなんとかなる.
この「形式主義」は,封建時代とおなじである.
ちがうのは,本当に斬首されはしないことだ.もちろん,栄誉の切腹もない.

いかに補助金をもらわずにマネジメントできるか?
「寄付」がしづらい国は,ソ連型国営スポーツに成り下がるしかないのか?
ナチスもソ連も,スポーツ振興に予算をつぎ込んだのは,劇場国家にするためだ.
パン(年金)とサーカスを与えれば,国民は満足する.

企業の不祥事も続いている.
大手運送会社の不正請求は,組織ぐるみだった.
わが国に「宅配便システム」を普及させたこの会社の名経営者は,「サービスが先,利益は後」という信念を強く表明していたが,2005年に亡くなってわずか13年にしてこの体たらくである.十三回忌の法要の意味は深い.

人間の行動は,母国語を中心とした言語によって「制御」されている.
日本語しか自由に話せないなら,その人の行動は日本語によって制御される.
思考,すなわち,かんがえるときも日本語だからである.
おおくの日本人は,日本語しかできない.だから,日本語の「言語空間」が,わたしたちに決定的な影響を与えるものなのだ.

そこで,日本人はどんな「哲学・思想」を持っているのか?をあらためて(日本語で)考えると,近代思想のほとんどが輸入品で,そのまたほとんどが「ヨーロッパ」を起源にする.
現代のローマ帝国である,アメリカ合衆国も,ヨーロッパ起源の人造国家だ.
「資本主義の思想史」-市場をめぐる近代ヨーロッパ300年の知の系譜-という大著が今年,日本語で出版されている.

せっかく良書が日本語で出ているのに,「ブーム」にならないのはなぜだろう?
約600ページもある「大著」だからだろうか?
わたしたちは,ほんとうに近代ヨーロッパ思想を「消化」できているのだろうか?

1980年(昭和55年),この年のベストセラーはなんといっても,フリードマン「選択の自由」だった.この本も500ページをこえる大著であった.

フリードマンといえば,今では(日本語で)大批判されている「新自由主義」のなかでも強硬的な「自由放任主義」の大家で,ノーベル賞もさることながら,レーガノミックスの考案者である.
同時期に,サッチャーの英国は,やはりノーベル賞を受章したハイエクの「自由の条件」を下地とした政策が打ち出され,英米ともに新自由主義が与野党共通の「思想基盤」になって現在にいたっている.与野党共通である.

東ヨーロッパの「民主革命」では,ポーランドとスロバキアから分離したチェコが,社会主義からの脱却にハイエクの思想を最初から導入して,ソフトランディングに成功した.
なんと,社会主義時代から,「敵」の研究としておこなわれていた経済理論で,研究者をして「敵が正しい」と納得せしめたのがハイエクだったのだ.

この両国では,その時の研究者が,チェコでは首相に,ポーランドでは中央銀行総裁から大蔵大臣になっている.
ポーランドのバルツェロビッチ氏は,中央銀行総裁当時,EU内で最高のバンカーの称号も受章しているのだ.氏はいまでも健在で,ワルシャワ経済大学の教授である.なお,この大学は経済単科大学として,一橋大学と提携しているが,習うべきは日本側ではないかとおもう.

つまり,なんといっても「思想」が大事なのだ.
相変わらずマルクスに脳髄を犯されたままで,世界潮流の思想を拒否する国.
それがわが国である.

80年代のサラリーマンは,よく読書をしていた.
すでに「ハウツーものばかり」と批判はあったが,フリードマンがベストセラーになったのだ.
ただ残念なのは,「自由」を「自由放任」と勘違いしたことであった.

この勘違いが,組織を腐らせている.

米国製の教育用電卓

ずいぶん前にこのブログでも関数電卓について書いた
あいかわらず,日本製の「教育用電卓」が国内で売られていないから,外国旅行でみつけて購入するしかなく,なんと国内では米国製のものしか手に入らないという逆転がおきている.

そういうわけで,日本製の教育電卓をさわったことがないから,コメントができない.
しかたがないので,今回も米国製のはなしになる.
「電卓」で米国製とは?とおもう向きもあるだろう.
もちろん「MADE IN CHINA」である.しかし,電子回路のロジックは「米国製」だ.

国内で売られているものは,どれもTI(テキサスインスツルメンツ社)のもので,小学生用の関数電卓,高校生用のグラフ電卓が二種類の,あわせて三種類になっている.
ここでは,わたしも愛用している小学生用の関数電卓にはなしを絞る.

「小学生用」といっても,計算機能はあなどれず,分数(約分も通分もして帯分数もできる),三角関数,べき乗・べき乗根,対数にも対応している.
これにメモリーが7個もあって,方程式の代入計算ができる.

「経営」に三角関数はまず使わない.けれども,べき乗・べき乗根は,複利計算に必要だから,「経営者」で日本製のふつうの関数電卓も持っていないなら,かなり危険とかんがえてよい.
これも前に書いたから本稿冒頭のリンクを参照されたい.
いま,量販店なら,980円でべき乗・べき乗根が計算できる関数電卓がてにはいる.

もちろん,すすんだ経営者は「金融電卓」を愛用しているかもしれない.
TIも製品があるし,やはり米国のHP(ヒューレットパッカード)のものが有名ではある.
これらの電卓のつかいかたに間する,「ドリル」も日本語になっているものがあまりないから,日本の金融マンのレベルがしれる.
だから,日本の銀行マンの前でこの種の電卓を使いこなすのは嫌みになるかもしれない.

さて,小学生用の計算機が「教育的」だという第一の特徴に,正と負の符号入力がある.
ふつう,身近にある日本製の電卓は,引き算のマイナス記号「-」と,負の数をしめす符号の「-」を区別しない.
ところが,この「教育電卓」では,これを区別する.

(-3)+(-4)=-7
を計算するとき,「-」の入力に,引き算の記号をつかうと「エラー」になるのだ.
別途用意されている「(-)」という符号キーで入力しなければならない.
計算機への入力工数はおなじだが,キーがちがうことで,ややこしくなる「負の数」と「引き算」を分けている.

小学校では「算数」だったものが,中学以降は「数学」になるのは,「算数」は計算方法を習い,「数学」は問題を解くための論理を習うというちがいがあるといわれている.
その最初,中学1年生の数学では,「算数」から「数学」への橋渡しとなる「負の数」が,いきなり立ちはだかるようになっている.算数では,「正の数」しか扱わないからだ.

引き算の記号であるマイナスと,負の符号であるマイナスがおなじ扱いになると,足し算の記号であるプラスと,正の符号であるプラスもおなじ扱いになるから,
(-3)+(-4)=-7

(-3)-(-4)=+1
(-3)+(+4)=+1
がグチャグチャになって混乱する.
これを区別のない電卓で計算してみればよくわかる.

面倒だが,メモリー機能をつかわないと正しい答がでないのがふつうの電卓だ.
「+M」と「-M」をつかいわけて,「MR」キーで答えが出るけど,混乱がスッキリするだろうか?といえば,はっきりしないだろう.
上述した例題は単純だけど,ちょっと複雑になったら,おとなでも混乱するはずだ.

これだけでも,教育用電卓の教育効果はおおきい.
中学2年になろうが,高校3年になろうが,符号と計算記号の区別はつづくから,電卓のボタンを押すたびにこの違いを体に教えこむことになる.

小学生がつまずくのは,計算の順番だ.
2+3×4=?
2+3=5 ⇒ 5×4=20 ✕
と,式の頭から順番に計算すると,一つ一つの計算は正しいのに答をまちがえる.
おなじ式のなかに掛け算や割り算があったら,そちらを先に計算しないといけない.
3×4=12 ⇒ 2+12=14 ◯
が正解となる.あんがい大人もまちがえる.
この電卓は,数式どおり入力すれば,正しい答をだす.

もちろん,小学生の「九九」を軽視しているのではない.
むしろ,頭脳が発達中の子どもには日本では「珠算」をさせるのがいいだろう.
しかし,学習の補助として,分数の確認にもってこいなのが最初のころの魅力だったらしい.
アメリカでは両親がそろっていないことがあって,家でひとりでやる宿題のために電卓を貸し出したら,有意で成績があがったという.

いま,日本の高等教育は,分数ができない学生のおおさに悩まされている.
工学部の学生が,分数の割り算ができない.
さすがに入試で分数の割り算を出題するのは,学校側が恥ずかしくて出題できないというが,どうやら本音は,少子化の中,合格者が減ってしまうということではなく,分数を出題したら,できない学生の受験数が減る畏れがあるらしい.

それで,入学後,強制的な「補講」を実施している大学が,文科省の「モデル校」になっている.
大学教師は高校教師に,高校教師は中学教師に,中学教師は小学校教師に,「なんとかしろ」と言って,もうかれこれ30年つづいているから深刻だ.
しかし,こんなにつづいている理由はかんたんで,解決法がだれにも見出されていないからなのだ.

この状況,どこかで見たことがある.
「だめな組織」にそっくりである.
「だめ」が長くつづいて解決できないのは,たいがい「コンセプト」に問題がある.
つまり,数学教育にかぎらないだろうが,「なんのために」「誰のために」といった,根本的な見直しが必要なのだろう.

「子どものために」「将来の稼ぎために」,これに「しつけ」も親が学校に丸投げしたから,学校現場は文科省の役人がかんがえるほど甘くない.
そもそも,文科省の高級官僚は,大学を卒業して一度も教壇に立ったことがないから,現場を知る由もない.いまどきの小学生にからかわれる環境で,自分の授業が成立しない経験もない.
だから,文科行政が「しっかりする」ほど,わが国の教育が劣化する仕掛けになっている.
「祭り」の疲弊とよくにているのだ.

その文科省の管轄ではない,どこかの塾講師のだれかが,「数学ができる」と,「年収が100万円」もできない人のうえをいくという統計があるから,40年勤務すれば単純に「4,000万円」ちがう,と言っていた.
ただしい表現であると感心した.
こうしたことを「言うな」と役人は言うだろうからダメなのだ.

「稼ぐ」ために役に立つ,これである.

ほんらい,義務教育が終われば「稼ぎに」でて,人生が自立できるようでなければならない.
「職人」には,数学は一般人より必要なはずだ.
つまり,動機づけにすら失敗しているのではないか?

教育用の電卓は4,000円しないのだから,なんて安い投資だろうか?
肝心なものをケチると,貧乏になる.
「必要経費」を削ってはいけない.

自由に考えろと自由にいうけれど

「自由勝手」を略して「自由」というから,「自由だけ」の「自由」がなんだかわからなくなる.
このブログで何度もふれているけれど,資本主義社会の「自由」とは,「自由放任」の自由ではなく,「他人から強制されない」自由をいう.つまり,「自己決定権」のことをさす.

だれにも強制されず自分で決めたのなら,その「結果責任」は自分にあるのは当然だ.
だれかに強制されて決めざるをえなかったのなら,その「結果責任」は「無効」判断されて消滅するのも当然だ.これをふつう「脅迫」や「詐欺」というからだ.
自分で決めた「結果」が,よくなかったから「結果責任」をとりたくないというのはわがままである.カジノのルーレットで負けたのに,チップを取られるのが嫌だというのにひとしい.

とにかく資本主義とは「悪いもの」と決めつけて信じているひとは,もはや「世界の常識」になった「新自由主義」を批判して,「自由放任」の「強欲資本主義」だと攻撃する.
これに日本国内ではだれも反論しないから,新自由主義は「いけないもの」と一般人は擦り込まれるが,自由放任を「明確に批判」しているのが「新自由主義」の立場であるから,大嘘もはなはだしい.これを「デマ」という.

こうした「デマ」を平然といってはばからないひとが,「結果責任」にも攻撃して,「冷酷だ」という.それで,発言者の自分は「心温かい善良な人間」だとうそぶくのは,悪魔の所業ではないか?
ほんとうの善良な人間なら,「決める前によくかんがえろ」と相手に注意するものだ.

いま,おおくの企業のトップは「自由にかんがえろ」と組織に「命令」している.
それで,うまくいかない理由がわからないから,「うちの社員の頭はかたい」と嘆くのだ.
こうした経営者は,創業者ではなく,新入社員から社内昇格してなったサラリーマン経営者におおくみられる.
つまり,「自社しか」しらないひとである.

その「自社」のもつ「文化性」が,はたらく人々を支配する.
だから,新入社員からその文化に「漫然」と浸ると,しらないうちにその文化に染まるのが人間である.
社会をしらない新卒新入社員に,企業ごとの独自文化にたいする免疫なぞあるはずもない.だから,しっかり心の奥まで染まってしまう.

よい文化ならそれでよいが,よくない文化なら変えなくてはならない.
しかし,サラリーマン経営者の心の奥まで染まってしまっているものを,なにがよくてなにがよくないかというのはすぐには区別することすらできない.
結局,面倒だから放置する.
こうして,めにはみえない「社内文化」の支配は温存され,新しく入社するひとびとの心を染める.

銀行支配の時代,銀行幹部が取引先企業の経営者に天下って,傾いた会社をみごと復活させ,「名経営者」ともてはやされたことがずいぶんあった.
彼らは,たいがいこの「企業文化」から手をつけて成果をだしたものだ.
外部からやってきたからこそ,よい文化とおかしな文化のちがいに気づいた.
そして、人間は心を持っていると識っていた.

これをみて安易な役人は,外部なら誰でもよいとして,社外取締役「制度」をつくった.
それより前に,金融検査マニュアルで「担保価値」の確保を命令された銀行経営者は,金融業とはいえ「質屋」になったから,以前とちがって「企業文化」の重要性をしらないひとでも銀行幹部になれた.

むしろ,検査マニュアルに「したがうだけでよい」とする目先の「合理主義者」しか高級幹部になれない.
そんな「質屋」が天下って,いまはやりの「経費削減」をやっている.
銀行出身「名経営者」絶滅の理由である.
「経費削減」で復活をとげた企業など存在しない.

これを,池井戸潤氏が「半沢直樹」シリーズに書いた.
「半沢直樹は実在しないが,彼と内部で敵対する人間ならいくらでも実在する」とは現職メガバンカーの本音である.
もちろん,そういう本人も自分が「半沢直樹」になれないと識っている.
企業文化がゆるさないからである.

人間心理の集合体が「文化」を形成するから,「企業文化」は怪物にも変身できる.
社会契約論で有名なジャン・ジャック・ルソーは,人間を「原子」の「アトム」として位置づけた.
社会のあらゆる関係から断ち切られた人間は,「アトム」になる.
手塚治虫の「鉄腕アトム」こそ,ルソーの理想的境地だろう.
つまり,人間のロボット化である.
手塚は共産党員だったから,わかりやすい.

これを,ヒトラーとスターリン,毛沢東が実践したのは偶然ではない.
この三人も,じゃんけんの「グー・チョキ・パー」のようで,バラバラな対立関係であった.
ほとんどおなじ思想背景だから,近親憎悪だったのだろう.

つまり,人間には「拡散」と「集約」という心の運動があって,アトムを拡散すればバラバラになるし,集約させれば一点集中になる.宇宙のビッグバンの前後のようなものだ.
上記の三人が意図した,アトムを拡散してバラバラにさせ,人間をロボット化したからこそ,全体主義が完成した.ハンナ・アレントの「全体主義の起源」に詳しい.
「総統」「書記長」「主席」以外,家族も友人もだれも信用できない社会にすればよい.

だから,社内文化のベクトルを「集約」方向に修正するのがただしい経営者の役割なのだが,これを「拡散」させる手もあることに注意が必要だ.
あんがいさいきんの大企業のオフィスでは,「拡散」があるのではないか?

東京丸の内の文化をあつかったCMで,飲み会に呼んでいない上司がやってきて「呼ばれてないけど(参加していい?)」に対して「呼んでいません」と手で制止する場面をどうかんがえるか?
部下がするから意味が深いが,不快になる心理もある.
これをCMとした制作意図は,「自由が主張できる文化の街」かもしれないが,それはルソーの「自由放任」の自由ではないか?

底知れぬ人間関係の断絶にともなう冷たさが,最新の都市の価値感だとすれば,無機質な新築ビルの街並みとあわせて,とうとうひとの心まで無機質をよしとするというのは,やはり不気味である.
日本を代表する不動産事業者のこうした価値感の表明は,日本という文明の終わりの始まりの絶望的な合図なのかもしれないとおもう.
これがわたしの「不快」の原因だろう.

自由に考えろと自由にいう経営者が,どちらを向いて言っているのか?
自由に考えた結果を,採用するかしないかにある.

はじめから採用する気がないなら,「文化」への意識がない.そんな思考の程度だから,本人は無責任ともおもっていないはずだ.
こんな企業は,将来経営問題が噴き出す可能性がある.

でてきた提案にいちゃもんを付けるだけも同様だが,あきらかに不信を組織に蔓延させるなら,「拡散」方向である.
もし,これに「恐怖」も付随させるなら,「君臨」を意図していることになるから,早期の転職を検討したい.かならず「破滅」が待っている泥船である.
長居は無用,逃げるが勝ち.

げに文化とはおそろしい.

資生堂の業務用品撤退の意味

今月はじめ,表題のニュースがあったが,ホテル・旅館業界の反応がいまひとつみえてこない.
月代わりするまえに,コメントしておこうとおもう.

あらためて,報道によると,資生堂が「業務用」の化粧品事業から撤退する.
具体的には,1992年(平成4年)に設立された,「資生堂アメニティグッズ」が年内に営業活動をやめる.売上高は年間数十億円だったというから,小さすぎて詳細はわからない.
これで,ホテル・旅館業界は,ポーラなど,他社への取引先転換をすすめることになる.

さて,ここで最初に注目したいのは,設立年である.
まさに,バブル経済の崩壊期である.
だから,「資生堂アメニティグッズ」側からみれば,会社設立の営業開始以来ずっと,納入先から「理不尽」な値下げ要求ばかりだったと推測する.

なぜ「理不尽」かといえば,商品に不備はないのに単純に「安くしろ」という要求であったろうからだ.
こうした要求ができる理由は,以下のようなものだろう.

老舗旅館の経営者のおおくは,若くしてそのまま家業を継ぐばあいと,いったん大手ホテルなど宿泊関連企業に就職して,しばらくして退社し家業を継ぐというパターンがある.
また,大手ホテルのばあいは,「サラリーマン」としてのホテル勤務をしていて,社内昇格によって幹部になるパターンである.

こうしてみると,経験は,家業か大手ホテルのサラリーマンかに絞られる.
いわゆる,「利益」や「経費」の本質について,恒常的に儲かっている企業がどのような判断をしているのかしらない,という「ビジネス経験」になってる.
簡単にいえば,日本を代表するメーカーや商社の出身者がいない,ということだ.

それで,「経費削減」が至上命令になるのである.
このブログで何回も書いたが,「経費削減」で業績向上を成功させ,企業の復活を果たした事例はない.
むしろ,理不尽な要求で,自社の評判を落とし,ついには「信用」をなくすことすらある.

自社製品になんの落ち度もないのに,取引先から「値下げ要求」をしつこくされたらどう思うか?
なんで,こんなひとたちの要求を飲まなければならないのか?と思うのがふつうの反応だ.
「買ってやってる」という一方的な上から目線は,互いに同等の立場である正常な取り引きではない.つまり,略奪的なのだ.

大袈裟にきこえるかもしれないが,資本主義的ではない.
だから,独占禁止法でも,有利な立場を利用して支配的な取り引きを強要することは禁止されている.それは,資本主義のルールではない,ということだ.
前資本時代の取り引きになってしまう.

今回の,資生堂の判断は,ホテル・旅館業界への決別である.
「もう知ったこっちゃない」とか,「無理やりおつき合いする道理はありません」と.
すくなくても,わたしにはそう見える.
残念だが,これに一方のホテル・旅館業界は気づいているのだろうか?と問えば,「否」であろう.

それが,前述した「ビジネス経験」のなさが原因だとおもうのだ.
そして,外国人観光客のおかげで単価も稼働も上昇したが,経営の意図として達成したものとはおもえないことにつながる.

お客様がつかうシャンプーなどを,とにかく安く仕入れたい,という発想は,裏返せば,お客様へのサービス水準も安くて(チープで)いい,ということに等しい.
もっと満足度を高めて,もっと利用頻度をあげて,もっと単価を上昇させたい,とかんがえるなら,もっといいシャンプーはないのか?になるはずではないか.

何度も書くが,損益計算書のとおりに世の中はなり立っていない.
損益計算書は,ただの「計算書」である.
だから,売上-経費=利益 は計算式であって,実際は,
経費の支払⇒売上の入金⇒キャッシュの増減 である.

すべて,経費の支払いからビジネスははじまる.
だから,どんなものを「買う」のか?は,ビジネスの結果に影響するのは当然である.
「安いものがいい」では,ビジネスは成長しない.
自社の目的にきっちりかなったものだけを適正価格で買う,これがビジネスである.

単純だが,上述の重要さがビジネス経験を積まないと理解できない.
だからこそ,理不尽な要求ができるのだ.

売上高1兆円を突破した資生堂の業績は,いま「絶好調」である.
一方のホテル・旅館業界の業績は,果たして「絶好調」といえるのか?

「なぁに,資生堂なんかなくても他社があるさ」と,どんなにうそぶいても,見捨てられたのはどちらかはあきらかである.
こうして,一切の反省なく他社にも理不尽な要求をつづければ,そのうち取引先がなくなって,とうとう独占的な一社の支配下に置かれてしまうかもしれない.

もっといいものを,ちゃんとした値段で買いたい.
そういう業界になってほしいものだ.

魂を売った「祭り」の後始末

日本の「祭り」がかまびすしい.
徳島の「阿波おどり」の騒動がまだ尾を引いているなか,兵庫県芦屋市の「だんじり保存会」が,文化庁から受け取った補助金の「返還命令」を受けたという.
金額は,1,480万円というからバカにできない.
「修理費」の補助金を,「新調」したと「認定」されたのが理由という.

むかしは「写真」を撮られると魂が抜けるとして忌み嫌った時期があったというが,いまは「補助金」をもらうと魂が抜かれるのである.
むかしのは「迷信」だとわらえるが,いまのは「事実」だからわらえない.

中央政府の国や,地方政府の自治体からお金をもらうと,なぜ魂が抜かれるのか?
それは,麻薬患者がとうとう「廃人」になるように,公金をもらった側の「自主性」をうばうからである.

封建時代のお殿様からの「下賜金」であったなら,うやうやしくいただけばよかった.もちろん,断れない.
その金はもともと我々が支払った「税金」だから公平に分配すべきだ,などと文句をいうものなど存在しない.
税として取り立てた財貨は,基本的にお殿様のものである.
だから,そんなことをいったが最後,捕まって処罰されるのがオチである.

ただし,もらった側は,お殿様からの「下賜金」をすきなように使えるわけではない.
「下賜金」をくれた理由のなかにある,「使い道」に沿っていないといけない.
家臣の武士とても,なにかの褒美に下賜された「お宝」には,近代の「絶対的所有権」があるわけもなく,もしそれが何代かのちの子孫が傷をつけようものなら,直接的に「お家断絶の危機」になる.
夏にふさわしい,怪談「番町皿屋敷」のはなしも,以上の前提あってこその物語展開である.

こうしてみると,「補助金」というものの性質に,「下賜金」の概念がいきている.
使い道を限定されても「申請」というお伺いをさせるから,あたかも「申請」した側のためになるという構図だが,もともと使い道を限定した条件をだしているのは「行政」の側である.
だから,行政の掌のうえで踊らされるのは,かならずもらった側になる.

つまるところ,お殿様からの「下賜金」とかわらない.
21世紀の「奇跡」のひとつである.
日本という国の伝統に,いまだしっかり封建社会がいきている.

ところが,はるかむかしより現代は始末が悪い.
むかしは,お殿様からの「下賜金」だけでは足らないから,村々の住民が全員で不足分をなんとかした.
お金で払えなければ,現物を用意したり労働を提供した.

そうして住民全員が「祭り」を準備し,実行し,後片付けをしたから,住民が主催者で,お殿様は余計な口出しはしなかった.
もちろん「祭り」を楽しむのも住民である.
お殿様は,せいぜい遠目でながめて満足するしかなかったろう.

いまは,行政が命令して口も出す.
ところが,住民も負担をいやがり,準備も実行も後片付けも手伝わない.
一部の「お祭り好き」の趣味になった.
それで,資金が足りないと補助金に手を出すのである.

一部の趣味に,みんな平等の行政がなぜお金をだすのか?
「観光」になるからである.
これを「わがまちの『観光資源』だ」といえば,とりあえず反対はいなくなる.
そして,かならず「経済効果」が行政によって計算される.

こうしてついに,村人全員の「宗教的行事」が,「観光」という名の「見世物」になって,「祭り」ほんらいの宗教性が「薄め」られる.
なるほど,憲法の「政教分離」の精神がここにある.
宗教性がない「祭り」だから,公金がでるのである.

つまるところ,たんなる「イベント」にすぎなくなった.
これをはじめたのが,宮田輝アナウンサーの「おばんです」ではじまる,NHK「ふるさとの歌祭り」(1966年~1974年)だった.
「郷土芸能の保存」を番組趣旨にしたというが,テレビに出るという「イベント化」でもあった.

それで,有名な祭りが巨大イベント化した.
地元企業の協賛から,やがては全国規模の大企業が資金を提供して,まさにコマーシャル化した.
駅前商店街がシャッター通りとなって,いまや「イベント地獄」になったのが「祭り」である.
年に数日の「祭り」が,地方を活性化などしない.むしろ「疲弊」させていないか?

企業が「祭り」に協賛金を拠出しても,すぐには「寄付金」にならない.
企業名が掲示されれば「交際費」である.
そもそも確定申告を要しないサラリーマン世帯なら,「祭り」の寄付は経費処理もできないから,たんなる家計の支出だ.
「祭り」が無形文化財だというなら,「寄付文化」をそだてて税額控除をすれば,補助金なんて必要なくなる.これをしないで「お殿様」に君臨するのが役人だ.

50年に一回の,たった20日間のオリンピックが,巨大化した日本経済を復活させるはずがない.
なんのことはない,イベント化した村祭りと発想がおなじなのである.

賢い村は,祭りをイベント化せず,地味に住民だけがたのしんでいる.
そうして,村の鎮守もまもられるようになっている.
身の丈こそ,ということをわすれて,行政がいう「経済効果」や「まちおこし」という甘言に吸い寄せられると,魂が抜かれるのである.

ACPG 2018

「才能に関するアジア太平洋会議 2018」という.

わが国では,大正14年からはじまったNHKラジオ「子供の時間」が,才能あふれる子供を紹介した嚆矢であろう.国家が才能を宣伝し,国民が称えた時代だった.
「平等」が大好きな戦後の日本でも「天才」を紹介する番組はあったが,いまはみあたらくなったのは,みんな「平等」でなければならないからか.

「才能」が世の中をうごかす時代になって久しい.
わかりやすい例では,ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいて,なぜかアメリカ人がおおい.
これは,才能に「投資」する仕組みがあるからで,あいかわらずベンチャー企業に「実績」と「不動産担保」しか要求しない日本では,才能が学校で育っても社会が枯らしてしまう仕組みになっている.

日本で「才能」といえば,まっさきに芸術分野があげられる.子供からバイオリンやピアノなどの楽器演奏を中心にとらえる傾向があるが,科学技術分野においては希薄なのが不思議である.
その芸術分野でさえ,才能が海外流出してしまう.若き芸術家は,外国でキャリアをつんで有名にならないと日本でありがたがられないからだ.育てるコストを負担しないのは見る目がないからだろうから,ベンチャー企業に「実績」を要求する姿勢ににている.

表題のACPGは,ことしタイで開催された.
国際数学オリンピックで,タイはすでに日本の上位国になっている.
どの親も,自分の子どもの才能を伸ばす努力をするだろうが,日本の親がもつ熱意とはちがうレベルの熱意があるのだろう.それは,世界が才能によって動かされる時代だと識っているか識らないかのちがいにもみえる.

開催日程は1週間で,参加する各国の子どもたちは,この間,才能教育専門施設で「合宿」することになる.
この施設自体,宿泊棟は日本のビジネスホテル以上のスペックで,日中はワークショップが開催できる会場があるから,その規模は大きなものだ.

ここまでの施設と設備を整えているのは,「才能」の掘り起こしこそ,国家の繁栄につながるというかんがえがあるからだ.
これは、ふるい国家主義ではない.
才能の自由さを保障することが,才能の流出を阻止し,その才能が生みだす「価値」を,国民が享受できるという発想だ.だから,才能を国家が独占して囲い込むという発想とは真逆なのだ.

とにかく,多数の才能を育てることが重要になる.
わずかな天才だけを保護しようということではない.
社会のおおくの分野に才能が行き渡る.
これが現代の富の源泉なのである.

そのために,いかに難しいことをやさしく教えるか?
難しいことを平易な言葉に置き換えただけでは,やさしくなったとはいえない.
難しいことを興味と関心をもって,あいてに理解させる技術が必要なのだ.
だから,教える側の理解度が深く広くないと才能をのばす実践ができない.

たとえば,「スチュワート微分積分学」という教科書がある.日本語版は全部で三巻の大分冊だが,三巻目は未刊である.

監訳者の秋山仁先生によると,この本の執筆は「スチュワート教授」ひとりではなく,なんと各分野(医学,建築,経済...)の専門家が三百人も結集したという.
「謝辞」には,一貫性をもたせるための「査読者」が第8版だけで7人いるが,補助教材の査読者は39人もいる.第7版までの査読者として,173人の名前が掲載されている.
「査読」とは,内容の不備を指摘するためにある.それで,査読者と執筆者は激論をかわすという.

さらに,「補助教材の査読者」とあるように,この本には本文説明と連動したオンライン教材もあって,「紙」だけの情報でなり立ってはいない.
オンライン教材といっても,ウエッブ上のアドレスが変わってしまっては印刷教材として困るので,これを確定する作業もやっている.

日本における「◯◯学」の教科書が,本当にひとりか数人の共著であることをおもいだすとこれだけで執筆陣の規模がちがうが,ふつう教科書でオンライン補助教材など皆無であるから,それはまさに「雲泥の差」である.

このスチュワート教授の教科書は,世界のベストセラーというが,その理由は原著が「英語」であることのみならず,なによりも「わかりやすさ」にある.
つまり,執筆動機が「学生の理解ため」であって,これを愚直に追求している.

その動機=目的からみちびかれる,執筆戦略が,学生読者の脱落をふせぐために題材の「絞り込み」が意図されて,理解の発散をさせず,むしろ豊富な現実世界での「微分積分」の応用例を解説して,興味を枯らせない.これこそ、「選択と集中」である.
そのために,いろんな分野の専門家が参加しているから,この本自体が「大型プロジェクト」になっている.

つまり,執筆動機=目的=理念 ⇒ 執筆戦略 ⇒ 執筆陣の選定 ⇒ 執筆実務 ⇒ 査読 ⇒ 激論 ⇒ 修正 ⇒ 完成 ⇒ あるべき姿との比較 ⇒ 次版のコンセプト策定 というサイクルを繰り返して,いま「第8版」になったのだ.
スチュワート教授はすでにこの世にないが,この教科書は,これからも進化をつづけるのだろう.

これも,日本における「◯◯学」の教科書が陥りがちな,「いちどにたくさんの定義や概念の一方的説明」があったり,現代のテクノロジーをみとめない態度とは逆である.
すなわち,学生のための教科書ではなく,教科書「執筆者」であることの重視ともいえるのではないか.
主筆が亡くなってなお,新版がつづいてでるのは広辞苑や新明解といった辞書にみられるが,日本の「教科書」ではめったにないのではないかとおもう.

秋山仁先生によると,数学の能力は高校生までは日本人が上をいくが,大学卒業時にはアメリカの学生にはるか先まで追い越されるのが実態だ,という.
わかりやすく教える技術の差なのだろう.

書店の理系コーナーには,数学以外にもアメリカ人学者が書いた有名な「教科書」が,いずれも大分冊なボリュームで棚を飾っている.
日本人の大権威が書いた本は,薄くて難解な傾向があるのとはちがう.
上述した,執筆動機 ⇒ からはじまるサイクルの有無のちがいとしかおもえない.

ことしのACPGには,日本から「数名」の生徒が参加したという.
いずれもお茶の水女子大付属校の生徒だったらしい.
おおくのひとが隔離されて知らないうちに,区別された一部のひとたちの才能が伸びる夏休みを過ごしている.

それにしても「数名」とは.