パーキンソンの法則がマイナーなニッポン

パーキンソン病のことではない.欧米では「常識」になっているほど有名なのだが,なぜか日本では今ひとつ受けが悪い.

パーキンソンの法則とは

1958年にロンドン・エコノミスト誌上で,英国の政治学者シリル・ノースコート・パーキンソンが発表した論文にある.

「役人の数は仕事の量とは無関係に増え続ける」

この「役人」とは,もちろん国家・地方公務員のことであるが,民間企業にも適用できる.社内の事務屋の数は仕事の量と無関係に増え続ける,と読み替えれば簡単だし,社内の事務屋は(ムダな)仕事をつくりだす,と言ってもよい.役人がムダな仕事を忙しそうにやっているのは古今東西共通である.

パーキンソン氏は英国人だから,強烈なユーモアを飛ばしている.有閑マダムが朝食中に姪に手紙を書こうと思いつく.食事後,住所録が見当たらないので探し回るうちに昼食になる.昼食後,やっと手紙本文を書き始めるが,なんで手紙を書こうと思いついたのかを忘れてしまい,悪戦苦闘して書き上げたのは夕食前だった.ベッドに休むとき「ああ,なんて忙しい日だったことでしょう」とつぶやくのだ.有能なひとなら,ものの15分で終えることも,一日仕事になると書いている.この話で納得できない人向けに,第二次大戦後,海外領土がほとんどないのに「植民地省」の役人の数が最大版図だったときの二倍いることや,海軍省の話題で証明しているのだ.詳しくは本を手にして欲しい.

以上が,欧米で「常識」になっているから,入社したばかりの若者でも,自社があるいは自部署がパーキンソンの法則におかされていないかチェックしている.わたしは,外資系の社員になってから,同僚に教えてもらった.そして,ミーティングの場でもしばしば,上司との議論になるほどであった.上司が認めれば,その仕事は消滅するのだ.

自動車完成検査における「不正」とは?

徹頭徹尾パーキンソンの法則の通りに行動するのが役人である.その中の国土交通省(旧運輸省)が定めたのが今般話題の「偽検査員」問題だ.日産,スバルとも30年来しでかしていたと告白しているし,ほとんど罪の意識がなかった様子だ.「悪法も法なり」だから,もちろん褒められたことではないが,この問題で「事故」となった事例もなさそうだ.

喧嘩両成敗が武士の掟

両社はたいへんな損出を覚悟して,リコールに踏み切った.ならば,国土交通省も,制度の見直しあるいは廃止をしなければならないだろう.これを相変わらず上から目線でいるのはどうしたものか?選挙で大勝したばかりの与党の大臣こそ,ここで有権者側の発言をすべきなのに,役人にまるめこまれた低能さをさらけだして,巨大企業の社長が頭を下げる姿をみて自己の優越性にご満悦でいる.この両社の5百億円にのぼる損は,最終的に消費者が負担することになる,という経済原則もしらない.経済原則をしらないのは役人の常だから,これをもって役人にまるめこまれたと証明できるのだ.そもそも,30年間もこの状態を放置した監督官庁はなにをしていたのか?(なにもしなかった)ということを言いだす,専門の評論家もいない.

お役人様はどんなに悪いことをしても,あるいは見てみない振りをしてきても,だれからも罰せられない.容赦なく責め立てられるのは民間企業なのである.これでは,徳川身分社会そのものではないか.

そう,この国は身分社会なのである

幕末の志士たちの必読の書で,思想的影響力が計り知れなかったのは,水戸学のエース,会沢正志斉の『新論』である.このなかで,倒幕後の新政府も引き続き武士階級が支配すること,を前提としているのだ.もっといえば,武士階級以外の階級がこの国の支配階級に入ってはならないし,そんなことは考えられない,ということだ.だから,「下級武士」も活躍できた.全国諸侯がいっせいに藩政改革に取り組むときのベストセラーなのだ.これで,家格が高い上士たちも下級武士たちの活動をながめていられたのだ.

明治維新で不思議なことが起こるのは,水戸学の否定なのだ.いまも東大教授たちは,明治期になると水戸学は捨てられたといっている.なにしろ「四民平等」なのだと.本当だろうか?

明治の官僚制は,はじめ薩長両藩からの登用,そしてそれがだんだんと各藩に広がる.しかし,廃藩置県で圧倒的に役人の数が足りなくなる.しかも,単純事務ではなく高級官吏が足りないのだ.そこで,政府は大学を設置する.のちに,軍も陸軍大学校や海軍兵学校を設立し,文官は大学卒,武官は陸と海それぞれの卒業生を「幹部要員」とした.つまり,ここに身分の読みかえをしたのだ.これらの卒業生を「武士階級」とみなし,支配階級とした.これが,連綿といまに続いているのだ.これを隠したい人たちがいるらしい.

本物の支配階級を追放した戦後の混乱

華族制度だけでなく,皇族の臣籍降下によって,本物がいなくなった.これは静かな革命だったのではないか.皇族の臣籍降下は,法理ではなく大蔵省役人による予算削除だった.「削減」ではない.生活できなくなった「宮様たち」は,家土地を売却して退出した.これをまとめて購入した跡地が「宮様(プリンス)ホテル」になった.

だから,有閑マダムがいない国になった.一通の手紙に丸一日かけられるおばさまは,もういないだろう.いるのは,本物の役人と,役人根性をもった社内官僚たちである.

どちらが強欲か?

最近報道された,浅草仲見世商店街の家賃問題.歴史的な背景もあって,ちょっとした物議をかもしている.意外だったのは,10㎡あたり15,000円という現状の家賃である.これを近隣相場の25万円にしたいというのが家主である浅草寺の主張である.当然,商店街組合は「家賃高騰による廃業」と「浅草らしさがなくなる」といった理由で反対を表明している.この騒動の発端は,東京都が所有していた長屋建物を浅草寺に2,000万円ほどで売却したことだという.それにしても,都が破格で賃料提供していたのは,寺の土地を無償で借りていたからだ.この土地自体も,明治政府の寺社領没収にさかのぼるらしく,都が建物を建てた後に,土地は国から寺に返却されている,という事情もある.さらに,寺が建物を購入したのは,非課税だった土地の固定資産税の見直しがあったというから,これも都と台東区という役所の事情だ.

知りたいことがわからない

いったいいつからいまの家賃,15,000円になったのかがわからないし,なぜ都は家賃改定をしなかったのかもわからない.ただ,10㎡あたり15,000円というのは,周辺の「青空駐車場」としても格安であろう.また,そもそも寺が返還されて所有した土地の固定資産税が,なぜ非課税だったのかの事情もわからない.ちょっとした「行政の闇」がここにもある.

適正家賃

近隣の相場から算出した,という寺の主張はもっともである.しかし,その前に,収益性から算出したらどうなるか?が気になる.反対する商店街側は,収益性についての分析を公表すべきである.高額家賃になったら「廃業」というのは脅しになる.しかし,おそらく,商店街側の言い分にうそはないだろう.収益性が高いだろうとおもわれるお店は,失礼だがみあたらないからだ.それを「伝統」とか「浅草らしさ」といって保存の対象とするか否かは,別の議論になる.本来,適正家賃とは,収益性との合致がなければならないし,既得権益化を許すこともあってはならないからだ.

行政介入の可能性

都は,建物譲渡にあたって条件をつけている.参道の景観を維持せよ,というものだ.「景観」のなかに「店舗経営」が含まれるとはおもえないが,なんでも口実にして介入したがるのが行政である.小規模でかわいそうな商店主たちをいじめる悪辣な寺院,という構図にしたがる筋もあるだろうが,既得権益を守りたい商店側と,それを壊して新しい可能性を入れたいとする寺院側,と言い換えれば,どちらが強欲なのかが見えてくるだろう.もし,都や区などの行政が介入して,商店側を守るのであれば,寺院側はその穴埋め分を「補助金」として請求するだろう.すると,一種博物館化した商店街を,税金で支えることになってしまう.浅草寺エリアの年間観光客は述べ3,230万人という数字だ.一日で88,000人になる.その中心地における適正家賃として,どうすべきかを市民目線で考えないと,知らないうちに負担させられることになる.

逆シンデレラ症候群

シンデレラ症候群とのちがい

シンデレラみたいに素敵な王子様が自分にも現れると信じ、ずっと待ち続けることを「シンデレラ症候群」と呼ぶらしい。
再生の仕事をしていると、自社をたすけるためにやってきた投資家(ふつう「スポンサー」という)がいるのに、そのスポンサーの意向に従いたくない「症候群」を発症することがある。つまり「反抗」・「反逆」してしまうのだ。スポンサーを王子様として認識できないばかりか、現状から変化を求めるスポンサーが「魔女」だったり「敵」にみえてしまう病気である。これをわたしは「逆シンデレラ症候群」と呼んでいる.

この病気の原因は、おおくのばあい「自分かわいさ」という心理である。もっといえば,この期に及んでの「自己保身」だ.自分がやってきた「仕事」すなわち「業務のやりかた」を、ついさっき出現した人物から否定されることは、自分の人生が否定されていると勘違いしてしまうからだ。
では、その勘違いの原因はなにか?とかんがえると、自己のパーソナリティーと「仕事」すなわち「業務のやりかた」が一致していることにある。これは、伝統的な「職人」の思考方法とにているとおもわれるかもしれない。しかし、現代の「職人」が本当にそのようにかんがえているかは疑わしい。名人とか名工とよばれるひとほど、さまざまな工夫について積極的であるからだ。

味をかえるから味がかわらない

たとえば、いまも「むかしからかわらない味」で人気の老舗の料理店では、じつは昔からくらべるとずいぶん「味をかえている」ことがある。この意味は、「お客様の食生活がかわってしまった」から、その味付けに対抗できるよう微妙に店の味を変化させてはじめて「味がかわらない」と評価されることにある。だから、長年にわたってすこしずつ変化させた結果、先代や先々代の味付けとくらべると、驚くほどちがっているのだ。それでも、その店の昔からの顧客は「昔からかわらない味」と評価するから、昔をしらない新しい世代の新規顧客は「この味が昔からの味」とすりこまれる。この状況がおりまざって、全体がまごうことなき「むかしからかわらない」という評価が確定するのである。だから、ほんとうに味をかえない店は淘汰されてしまうことすらある。そして、かならず「あの店の味がかわった」とか、「むかしとちがって味が落ちた」などといわれてしまう。現代人の好む味に変化させないことで、じじつは顧客自身の味覚が変化しているにもかかわらず、その責任はなんと店に押しつけられるのである。
このようなことは、おおくの伝統的な物作りの世界で起きている。だから、本物の職人は変化を畏れないし、むしろ積極的に変化をもとめることすらあるのだ。

「仕事」は二種類に区分できる

一つは、「作業」である。「定形業務」と呼ばれることもある。いわゆる手順がきまっている仕事で、結果であるアウトプットも一定になるのが特徴だ。この手の仕事で典型的な単純作業は、真っ先に「流れ作業」になったり「自動化」の対象になった。
しかし,「作業」すなわち「定型業務」の組み合わせだけで、もとめる製品やサービスが完成すればよいのだが,現実はそう簡単にはいかない。

そこで、二つ目の「仕事」が分類できる。「非定形業務」がそれだ。
ところが,これは「定形業務のなかにも」発生する。たとえば、ネジを絞める作業をおこなう機械がこわれてしまったとしよう。今月は二度めで、前回の故障から一カ月経過。修理に四時間を要するとすると、これによる製造できなかった分の売上げ減少による損失はすぐに計算できるし、故障発生頻度から、なにをしなければならないか優先順位もきまる。だから、故障原因の特定と対策は重要な業務になる。この業務は非定形業務だ。だんだんと故障発生対応から「予防」の概念がでてくると、当初は非定形業務だったことが定形業務に落ち着くことがある。これが業務における「進化」と「深化」である。
こうして、「進化」と「深化」の大系が、ノウハウになるのである。

さて、もともとの「非定形業務」がある。商品企画とか設計、アフターサービスなどだ。ところが、「非定形業務のなかに定形業務」もできてくる。「いつものパターン」というやつだ。ここにも、ノウハウの要素がある。
このように「仕事」を二種類の「業務」に分けると、職業人生における一体化がありえるのは「ノウハウ」に集約されることになる。
つまり、「仕事をおぼえる」とは「ノウハウの修得」という意味になることを強調したい。

ところで,「逆シンデレラ症候群」を発症する素地として,自己のパーソナリティと仕事の一致と書いた.これは,上述のような業務の分析をしないで,毎日を過ごしたということである.つまり,意識して仕事のミスを改善したのではなく,発生した問題をその場その場でなんとかしたにすぎない,という人生だということだ.だから,ノウハウらしいノウハウが積み重なっているわけではなく,「昔からやってきたこと」が堆積しているだけの状態になっていることがおおい.

「ノウハウ」は資産である

わたしは「ノウハウ」というものは、ひじょうに高い価値があるとかんがえている。だから、本来は「資産」としてとらえたいものである。議論を拡散させないために、ここでいう「資産」は企業会計上の「資産」とは切り離す。
個人がもつ「ノウハウ」と、会社や組織が持つ「ノウハウ」があろう。どちらでもポイントになるのは、「ノウハウ」はそれ自体「無形」であるから目に見えないことだ。だからこそ、なんらかの方法で「見える化」させることは、重要だ。
企業組織内のさまざまなルールや規定は、「ノウハウ」を見える化した一部の姿であるといえよう。

それらを体系的にまとめたものを,「マニュアル」という.しかし,「マニュアル」は,現状をまとめればできるというものではない.いま考えられる最高・最善のやり方が示されるものだからだ.「マニュアル」は「見える化したノウハウ」そのものだから,民間企業では外部に対して「秘密」扱いになるのである.

「自己保身」がうまれるワケ

さて,「マニュアル」にひそむ大きな誤解がある.それは,上述したようにマニュアルとは,「ノウハウを見える化したもの」であるから,「進化するはず」のものなのに,現状の仕事のやり方を書くモノと思い込んでしまうことだ.そして,一度完成したマニュアルは,その後放置され,「改訂」はめったにされない.だから,現場での仕事の改善結果も,マニュアルには反映されないから,新入社員以外だれも見なくなる.「本当のマニュアル」では,マニュアルが先に開発されて,業務はそれに従うものなのだ.この原則的行動に,人知の最先端のはずだった,福島第一原発*で,津波後,誰も(事故現場,東電本社,政府の役人)従わなかったから,「本当のマニュアル」を理解し,業務に応用している日本の組織は,おおくはないだろう.

*(注:詳しくは,齊藤誠『震災復興の政治経済学』日本評論社,2015)

こうした誤解に気がつかない会社は,残念だがたくさんある.そして,こうした会社組織における従業員は,それぞれの職場における「ノウハウ」を入社後から漠然としながら体得するしかない.そして,いつしか従業員から経営者(管理職も含む)になると,個人が漠然と体得した「ノウハウらしきもの」を「ノウハウ」と信じるしかなくなるのだ.このような環境では,「社歴の長さ」だけが有利になる.これが「年功序列」の本質ではないだろうか.

社歴の長いひとは,この有利さに,これも「なんとなく」気づくのだ.だから,自分が歩んできた「漠然とした」環境が維持されることが望ましくなる.それが,いまの自分の立場を守るからである.資金提供者がおこなう,「本来のノウハウ」を追求しようというたくらみは,こうして「反抗」・「反逆」という行動を誘発するのだ.

「現状維持こそがしあわせ」,これが,「逆シンデレラ症候群」に罹患した症状なのだ.

従業員教育に悩む経営者は犬を飼うとよい

犬の躾といってもさまざまなやり方があるらしい.いろいろと調べてみると,たいへん納得できる方法と,「芸」と同レベルの方法まである.
ここでは,わたしが納得した方法をイメージしながらコメントしたい.

「人間」とは,教養あるひとを指す

ひとが犬を飼うということの歴史は,たいへん古い.まさに,太古の時代からであったろう.
しかし,犬の飼い方や犬の躾についての情報が「商品」となったのはいつからであろうか?
案外,最近のことではないかと疑っている.

長い時間,犬の役割は猟犬や番犬だった.
それが,いまでは家庭犬という愛玩を目的として,人間の子どもの数よりも多くなったからだ.
屋外で過ごす猟犬や番犬と,屋内で過ごす家庭犬では,飼育目的がちがうから,育て方もことなることになる.

その日本では,子どもに対する「躾」がたいへん重要視されてきた.
そもそも,「躾」という漢字自体が,武家から発生した国字だという.
分かりやすい構造の文字だ.
この文字から想像すると,しつけられずに自然児として育ったものは,人間ではないという区別があったのだろう.

これは武家に限ったことではない.身分社会だったのだから,その身分それぞれに応じた「躾」がなされなければ生きていけない.
百姓が武士の躾を受けても,武士が百姓の躾を受けても,その本人は不幸になるからあり得ない.
つまり,「躾」とは,社会化教育のことであって,それは教養の基礎をなしたのだと理解できる.

舶来の『社会契約論』で有名なジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』に日本人が違和感をもつのは,武家の伝統があるからではなく,不幸を生み出す狂気があるからだろう.
ルソーは,自身の子どもを真冬の路上に放置して死なせている.
「この子が生きる自然の力があるか」を確認するためだというが,それで5人が犠牲になっている.

ルソーの『エミール』が,教員育成の必読書としてたてまつられているのはわが国だけだとおもう.日本の教育界の特殊性のはじまりは,こんなところにもあるかもしれない.

 

犬の躾ができないひとたち

いま「小津映画」という名作の数々を観ていてわかるのは,戦後すぐの時代にあって,ふつうの人たちが生活している姿に対する不思議な感覚である.
それは,立ち居振る舞いの所作や,言葉遣いが,たいへん美しいのである.
これらの作品に出演しているのは,ほぼ全員が明治・大正生まれなのだ.

「団塊の世代」(昭和22年~24年生まれ)は,いわゆる小津作品ができるころに生まれている.
だから,団塊の世代のおおくは,小津作品中のおとなたちに躾されたことだろう.
ところが,この世代が成人する頃からだんだんに意識が薄まるのだ.
それは,核家族化や都市化などといった生活環境の激変と,「合理的」という名の「安直さ」の追求が背景にあったのだろう.

いつの間にか,「他人の迷惑にならなければなにをしてもいい」という風潮がうまれる.
「躾」という字の意味する,おのれから発する美しさ,とはことなる,他人からの評価という概念になるのだ.
小津世代の大人たちは顔をしかめたが,70年代の青春を謳歌した世代が従う理由がなくなっていた.

そして,人間の躾が困難になったいま,犬の躾ができない人々が大量発生しているのだ.
にもかかわらず,事故が少ないのは,幸いにも家庭犬として人気があるのは小型犬ばかりだから,飼い主以外の他人に危害が及ばずにすんでいるからだろう.
けだし,飼い主の怪我は絶えないことだろうが.

また,殺処分数は近年は10年前の1/5程度に減少して(昨年度で犬1万,猫1万5千:環境省)いるものの,引取制度が変更されたことで発生している,引取業者による劣悪環境下での飼い殺し問題も含めると,実態はわかりにくい.
ドイツ,スイス,オランダは,「0」であるから,国際的には恥ずかしい状態であることにかわりはない.

社内教育の放棄が意味するもの

新入社員を教育するのは,企業としては常識だった時代があった.
躾教育も,ある意味,企業内研修ですませていた.
ところが,企業にそんな余裕がなくなってきた.教育経費や時間コストの負担だけが理由ではないだろう.

犬の躾ができないのだ.
パワハラの発生背景に,躾問題が見えかくれする.もちろん,パワハラを肯定しているのではない.本来の躾の意味が「社会化」だったことを思いだすと,その「社会化」が不完全な人間が身体だけ大人になっているということである.

犬の躾も「社会化」を前提としている.
現代社会で生きる犬すら,人間社会のルールを学ばないと不幸になる.
犬は群れの序列をつくる習性があるから,人間がリーダーであると認識すれば,あとは人間の命にしたがう.

だから,犬の躾のポイントは,飼い主である人間をリーダーとして認めさせることにつきる.
ところが,その犬も,暴力による方法では従わない.
リーダーを尊敬する心を育まなくてはならないのだ.
いまいる企業人は,後輩から尊敬を得ることができるだろうか?
また,それを奨励する経営をしているだろうか?

「職業人生を預かる」という感覚

「不確実性の時代」といわれて久しい.
前ぶれもなしに突然,株式市場が大暴落したり,天変地異があったり,はたまた交通事故があったり,まさにこの世は一寸先も闇なのだが,21世紀のわが国では「確実」なことがひとつある.
それは,若年層の激減と人口減少である.

前回2015年の国勢調査で,5年前の2010年の調査から約100万人の減少が確認されたし,いま生きている女性人口からの出生推計では,7年後の24年には2015年比で390万人の減少が予想されている.
これは,自治体最大の横浜市の2017年人口373万人を上回るのだ.

昨年,2016年には出生数が100万人を割り込んだから,あと20年でこの子たちの企業における争奪戦が起きるだろう.
つまり,いまいる従業員の満足度を高めないと,すでに起きている人手不足どころではない事態が確実にやってくるのだ.
それは,原点にかえって,企業は他人の職業人生を預かっている,という感覚で経営しないと,次世代の人材から見放されてしまうことになって,残念ながら企業活動の終わりを意味するのだ.
この不足分を,移民やAIで本気で乗りきることができるか?という問いでもある.

あなたは,犬を躾けることができるだろうか?

犬の躾ができなくて,人間の人生を預かれるだろうか?

築地と豊洲で話題にならないこと

「自慢」することの疑問

築地から豊洲に移転しようとしまいが,どちらにしても「世界最大の海産物市場」だとして自慢しているけれど,本当に自慢できるのか?
欧米の外国人が,早起きしてマグロの解体や競りの見学にこぞって出かけるのは,「珍しいから」にちがいないが,この「珍しさ」には二つの理由があることを知らない振りをして「自慢」していないかと疑うのだ.

まず築地を「自慢」する誰もがおもうのは,確かに市場の大きさと働き手の機能的な動き,そして何よりも取り扱われる大量の「鮮魚」が「すごい!」とウケているであろう,と.これらが,渾然一体となっている光景は,生魚を食する文化が希薄な国からきた人々にはまさに新鮮な驚きだろうと容易に想像できる.わたしも,この理由しか知らなかった.
ところが,ある外国人に築地の歴史的説明や見学におけるマナーを話していたら,ふと「なにがそんなに珍しいのか」という話題になった.すると,その人は真っ先にわたしにとって意外な理由を教えてくれた.

「公設」という罠

それは,築地が「(自由)世界最大の『公設』市場」だということだった.一瞬,わたしは何を言いたいのか混乱したが,その人の次の言葉で理解できた.「わたしの国には『公設』市場なんてありません.公務員が流通のかなめをおさえていることが,自由主義で経済大国の日本にあるのがたいへん珍しいのです」と.そして,「かつての社会主義国に少し残っています」といいながら軽く片目をつぶってみせた.

アメリカでは,1970年に『公設』市場は廃止になっている.つまり,流通は民間部門の仕事になった.当然,各地の市場で働く公務員たちは大反対した.まさかの失業をしてしまうからだ.もちろん,公設市場の廃止は「安定供給をそこなう」から「食卓の危機」という主張が優先されたが.ところが,いざふたを開けたら現実はまったくちがっていた.民間の流通業者の熱い視線が,これらの公務員争奪戦に発展したのだ.いわゆる「目利き」と「仕組み運営」の能力が高く評価され,発展途上だった自社内の体制整備に大活躍の場が用意された.そして,会社は急速かつ巨大な発展をし,彼ら元公務員たちの給料は数倍になった.公務員だったらあり得ない収入になった彼らは,最初から民間人だった振りをして生活している.「悪い過去は忘れよう」というわけだ.日本では,もちろん天下るのだが.

米騒動からの「統制」が21世紀にも続く

日本の公設市場の歴史をたどると,大正時代の米騒動がでてくる.瀬川清子の『食生活の歴史』(講談社学術文庫,2001年)によれば,日本人は「米を食べてこなかった」.

人口の8割を占める生産者である農民は,自分がつくった米をめったに口にできなかった.年貢米を食べていたのは,支配階級の武士と都市住民の商工業者であった.この構造は明治になっても基本的にかわらない.かわったのは,工業化であった.工場労働者の供給源は農家だったが,農業では次男以下は「食えない」から工業化は口減らしに都合がよい.そこで,幕藩体制下で開墾されつくした農地面積は増えないのに,米を食べる人口が増えてしまった.明治の軍隊が,たっぷり白米が食べられる,という条件で兵を募集したのも,「食えない」農家があってのことだ.

生産性の向上が追いつかないのに,消費が増大すれば起きることは決まっている.価格の上昇である.慢性的な米不足状態で米騒動の起爆剤となったのがシベリア出兵だった.それで,大阪の商社が米を買い占めたというニュースが引き金となった.
日本人はなにがあっても秩序があり,暴動なんて起こさない,というのが「神話」にすぎないのは,たった二・三世代前に,しっかり暴動を起こしていることからもわかる.しかも,全国規模に発展したのだ.
あわてた政府が例によって「統制」したのがはじまりだ.そして,特別扱いになった米は,米穀法となり,その後「食糧管理法」へとつながっていく.その他の生鮮食品は『公設』市場を通過させなくてはならなくなった.

だから、世界的に「珍しい」のだった

いまも米の輸入保護統制は続くが,食糧管理法は1995年に廃止された.この流れからすれば,公設市場法も廃止されるのが筋というものであろうが,そんな議論はどこにもない.
すでに大手流通業の発展とネット社会の到来で,公設市場のシェアは4割程度に低下している.「4割もある」と考えてはいけない.本来は,全部が公設市場のシェアにならなければおかしい.なにしろ「法律」があるからだ.とっくに公設市場法も有名無実化しているのだ.

別の言い方をすれば,日本の「法治」が成り立っていない.法の廃止も立法府の仕事だが,司法府が無言のままなのはどうしたことか.「三権分立」すら怪しい国なのだ.中央に意見する都知事は勇ましいが,原理原則からはずれては元も子もない.それが,こないだの衆議院総選挙であらわになった.21世紀になっても,大正時代の統制を維持すると発想すること自体が不思議なのだ.ダミ声の築地の競り人が公務員だということを思いだせばよい.

外国人観光客の「ツキジー,サイコウ!」に浮かれている場合ではない.

高校生マーチング・バンドから見える日本の驚異

ビジネス・モデルが完成している

毎年11月になると,大阪城ホールは壮絶な演技で盛り上がる.チケットは発売とほぼ同時に完売するから,一般人では入手困難だろう.

県大会→地区大会→全国大会(大阪城ホール)と関門を突破した強豪校が激突する,といっても野球やサッカーのように「誰が見てもわかる点数」を競うのではない.それぞれが,それぞれのスタイルで完璧さを表現するのだ.

チームの中の自分の位置が決まっている

マーチングの基本は,5mを8歩で進むことだという.つまり,1歩は62.5㎝でなければならない.各人がこれを習得しないと,隊列が必ず乱れるから,県大会も突破できないであろう.当然,楽器を演奏しながらの行進になるから,楽器における演奏のパートと,行進の立ち位置というパートの両方を一致させなければならない.つまり,この二つの一致とは,他人の介在する余地がないので個人の責任範囲になる.

最初から理解している

マーチング・バンドに新加入する個人は,最初から以上の原理を知っている.だから,あたえられた楽器とそのパートの練習は当然だし,歩数を習得する練習も当然である.加えて,地元でのパレードなどのイベントにも多数参加することも知っている.大規模なパレード・イベントだと数キロメートルを行進しなければならない.息を吹く楽器ばかりで演奏しつつ,複雑な隊列変化を魅せるのだから,おそろしく体力を要するのだ.そんなことも新入生は知っている.

労働市場が存在している

自分が果たすべき役割をあらかじめ意識するのは,自分が持っている能力を売る,という行為と同じことだ.つまり,下級生には自己の演奏とおそろしく体力をつかう行進という役割を提供する義務が自動的に発生するのだ.これは労働市場成立の一つの条件である.労働市場が人身売買とちがうのは,自分のすべてが売買の対象ではなく,自分が提供する行為の範囲と質があらかじめ決まっていることが重要なのだ.一方で,その労働を買う立場にある経営者は,やはり提供者と同じに購入する役務を定めている.ここで,需要と供給の原則から価格が生まれる.これをふつう「賃金」という.高校生だから「賃金」はない.しかし,部員が不足すれば勧誘活動で,上級生はさまざまな特典を提示するかも知れない.一方,部員が増えすぎたら,冷たい態度になるかも知れない.

そんなわけで,自分の立ち位置を習得した上級生には,下級生をマネジメントするという役割も必ずまわってくる.だから,下級生だから上級生のマネジメントをただ受身でいれば済む話ではない.必ず,自分たちもマネジメントする側になるからだ.学校生活における一年はとてつもなく大きな段差にみえる.たった一年の差でも,絶対的に立場がちがう.しかし,上級生の引退がスケジュール上ではっきりすれば,いやがおうでも,順番がやってくることは誰だってわかるものだ.

完璧な年功序列と容赦ない定年制

高校生なのだから,一般的には,16歳で入学し18歳を終えると卒業する.中学校を卒業したばかりの新入生が,たった三年で「引退」しなければならない.つまり,実社会の10倍以上のスピードで,労働者から経営者に昇格するという経験を積むことになる.ここで,もっともつらい想いをするのは,大人である指導教諭たちだろう.手塩に掛けて育成したメンバーが,たった三年で定年退職してしまうのをただ見ているしかないのだ.しかし,よく考えれば,大会に出場してくる学校名と指導教諭たちは同じでも,中身である演奏者たる生徒たちは,一年毎に新陳代謝して,三年後には全員が入れ替わってしまう.

自分の立ち位置もなければ,入れ替わることもない

実社会を見てみよう.日本企業のばあい,労働力として自分が提供する行為が入社前からわかっているわけでもなく,採用する企業からの要求もない.あるのは「新卒」ということだけだ.だから,「中途採用」がないから「途中入社」もない.新入社員として配属された部署における立ち位置も,とにかく漠然としていることだろう.つまり,このことからわかるのは驚くべきことに,日本という国に「労働市場がない」,ということだ.

すなわち,「社畜」になるしかない.

人生50年が80年になって,強制退職制度だった「定年」が,60歳なのか65歳なのか,はたまた「70歳まで働きたい」となって,いつまでも「上級生」がいるのだ.さらには,年金支給開始年齢の上昇から,75歳までは会社にいないと生活できない可能性もある.「定年」して「再雇用制度」に頼ると,年収はほぼ半減するだろう.労働市場がないからできる荒技だ.自己が提供する労働と会社が購入する労働の間に,市場がないための理不尽である.近年,どちらさまでも「能力主義」とか「成果主義」が導入されたが,そもそも労働市場という基盤がないから機能しない.労働市場がもともとある欧米諸国の表面的まねをしても,すぐにペンキがはげてしまうだけだ.専門家を代表する学者は,ただの翻訳者になっている.

社歴を重ねれば,マネジメントする立場になるはずだが,労働市場もなく弛緩した社畜に,マネジメントとはなにかをかんがえる気力はない.だから,仲間うちで楽ができればよい.ほとんど日本向けかとおもわれるガルブレイスの『新しい産業国家』(1968年)に,書いてある.

せめて学者なら

たった三年で労働市場とマネジメントの本質を習得してしまうマーチング・バンドの高校生を,将来の実社会での指導者にするべく教育する方策を提言してほしいものだ.

もっとも,学者先生ほど実社会でのビジネス経験がないから,何をか言わんや.

カジノ考

本年早々1月12日に、さいたま市の中学校で女子中学生が飛び降り自殺したニュースが衝撃的であった。
遺書には、「楽しいままで終わりたい」とあったという。
わが国の実態を思うと、実に胸が痛む。
いったいこの国はどこへ向かうのだろう?

とにかく楽しい場所

カジノ=統合型リゾート(IR:Integrated Resort)は、情報産業(感情産業)である。
複合施設(CF:Composite Facilies)とは根本的に異なる。
CFが、個々の施設をかけ算によって面積を求め、それを合計して同一区域に納めるイメージなのに対し、IRは、目的合理的に施設配置をする。すなわち積分(integral)なのだからCFとの違いは「次元が違う」という認識が必要だろう。
にもかかわらず、「賭博場がやってくる」程度にしかかんがえていないのであろうか?
誘致を推進する側は、わがまちの「観光の目玉」という認識らしい。それは、従来型のCFのことであろう。
なぜなら、CFであれば、既存の周辺施設にも「あわよくばおこぼれがあずかれる」可能性があるからだ。
しかし、「目的合理的」なIRで、それが通用するのか?はなはだ疑問である。IRには,統一テーマがある.

IRは情報産業である

IRが情報産業のなかでも感情産業に進化したものであるという理解のためには、1994年の文化勲章、2010年物故、梅棹忠夫が半世紀前に発表した「情報産業論」(1962年)収録は『情報の文明学』(中公文庫、1999年)が重要な資料になる。
やや荒っぽいが、梅棹先生がいう「情報産業」とは、なにもコンピュータ関連という狭い範囲だけではなく、現在の脳科学や発生学などを先取りして、特に「観光産業」や「宿泊産業」「飲食産業」がそれにあたると主張されている。それは、人の体験型産業のことである。人は脳によってすべて理解する。その脳は電気信号によっている。だから、これらの産業を「サービス業」とか「接客業」というのは間違いであるという。半世紀も前に「情報産業」として事業を再構築するしかないと強く激励しているが、当人たちはいまでも自らを「サービス業」「接客業」と定義し続けている。

サービス業の強制的な産業転換

政府はずいぶん前から、これら「サービス業」の生産性の低さを問題視してきた。製造業の生産性はいまだに世界トップクラスであるが、全産業で比較するとわが国はOECD諸国で中位クラスに転落する。この大きな原因が「サービス業」である。驚いたことに、わが国の「サービス業」の生産性は、OECD諸国で「ほぼビリ」なのである。(これが、おもてなしの国の実態である)
すなわち、「サービス業」の生産性の低さとその改善にしびれを切らした政府が、外から黒船を引き込んだともかんがえられるのである。
かつて、石炭から石油への転換を図ったときには、大変な痛みを伴う争議となったが、今回の「サービス業」から「情報産業(感情産業)」への転換は、どういうわけか当人たちも「期待している」ようである。しかし、残念ながら、その本来の意味を理解せずに、むしろ誤解しているのではないかと懸念する。
「カジノ」としてやってくるIRが「感情産業」であるというのは、人間のもつ「欲望」や「快楽」を「目的合理的」に産業化したものだからである。

投資額ではない,投資期間が問題なのだ

彼らが予定する投資額は1兆円規模なのだ。(2016年12月3日、日経記事)
それでは、彼らがかんがえる投資の回収期間は何年なのだろうか?
わたしは、ベストパターンで5年とかんがえる。
つまり、年間2,000億円のリターンを目指していると推測する。10年としてでも年間1,000億円だ。
しかも、この数字は、「キャッシュで」である。外国人投資家は、投資先の税制など気にしない。キャッシュでのリターンしか見ないからだ。
この規模の利益を吸い取ることの意味は、「地元観光の『台風の』目玉」となって周辺で既存の観光・宿泊・飲食事業を吹き飛ばすということにならないか?宇宙的にイメージすれば「ブラックホール」である。既存事業をすべて吸い込んでしまう。
つまり、IRの地元は、まっさきに自らを「感情産業」のレベルに引き上げて対抗するか、換金できるうちに廃業するかの選択になる。
アメリカのIRは、ラスベガスもリノも、砂漠の中にある。日本では、IRの周辺が砂漠になりかねない。
しかし、この試練は、結局は(IRの地元以外の)業界人の目を覚まさせることになる起爆剤になるかもしれない。だから、一概に一方的に「悪い」ことではないかもしれない。資本主義では、退場も悪ではない。
一方で、わたしの懸念は、キャッシュで残ったものが「円」として留まるのだろうか?ということだ。
これだけ巨大な金額が、「ドル」として流出するということの意味の方が問題だろう。「円安ドル高」だから輸出産業にとっては確かに追い風であるが、果たして為替レートはいかほどになるのだろうか?
輸入品物価の高騰から、制御できないインフレに陥ることはないのか?
日銀が倒産するかもしれないという環境で、日本経済は耐えられるのか?

IRのテーマは欲望と快楽の追求

「欲望」や「快楽」の提供という目的合理性をもつ「カジノ」であるのに、国内の議論であまり耳にしないもう一つのポイントは、「売買春」の問題である。
世界のカジノで、売春婦がいないところはない。この点は、「個人事業」として放置するのだろうか?
もし、日本経済のコントロールが効かないという状況になったとき、日本女性の職場としての確保ということなのか?この分野でも、確実に外国勢との国際競争になるだろう。
経済社会学的には、日本の資本主義(=前期資本制との「混沌」経済)がいよいよ産業資本主義の本格的攻勢をあびるきっかけになることも間違いないだろう。対象となる「サービス業」「接客業」こそが、前期資本制の巣窟だからである。
IRという近代産業資本の権化が、日本の(欧米先進産業資本国から見て)後進的な資本を洗い流してくれるなら、超長期的には悪いことではない。
しかし、もし、今は「誘致」を決め込んだ、業界人たちの悲鳴が嵐となったとき、まさか政府が規制に動くという事態になることはないか?そのとき、日本政府が「事情変更の原則」を理由としようものなら、外資の国内直接投資に大打撃になるだろう。
すなわち、サッチャー女史が英国病克服のために取り組んだ諸政策のうち外資の導入策が、日本病克服に使えないオプションになってしまう。これぞ、日本の自殺行為である。だから規制はできないだろう。
すると、為替の問題に戻ってしまう堂々巡りである。

政府依存の世論調査結果

10月3日の日経朝刊

優先処理してほしい政策を複数回答で聞くと「年金・福祉など社会保障改革」が53%でトップ,続いて,「消費税など税制改革」と「景気対策」が35%だから,なんと88%もの人々が「政府」にこれらをおねだりしているのだ.

多少割り引きできるのは,税制改革を望むことか.アメリカのトランプ政権が大幅な法人税減税を打ち出して実効税率でアメリカが日本より低くなるから,日本の財界が「空洞化」懸念であわてているらしい.日本が追随しようにも,かわる財源がないと,民間人が政府の財源を心配している.

政府には日銀券発行と国債の日銀引き受けという,打ち出の小槌があるじゃいないか!と,いいたいのではない.むしろ,まともな財源のなかでしかまずは活動を制限しろといいたいのだ.

そんなことをしたら,年金支給がなくなって生活できない老人がたくさんでる.これまでの政府の嘘を信じたのがわるいのだが,路頭に迷うのは気の毒だ.そこで,一刻も早く,政府には,万歳宣言をしてほしいのだ.

もはや子孫も,ましてや他人を頼れない

人口が減るのが決まっているこの国で,政府に依存し続けることは,自殺行為である.その威力と無残さは,われわれも戦後の経済混乱で「戦時国債」が紙切れになる経験をし,インフレによる「新円切替」では「預金封鎖」も経験したが,その記憶がある世代ももはや風前の灯火となっている.インフレでは,政府の借金が消えるのであるが,その負担はすべて国民がかぶることになる.

厚生年金危機は,戦中につくられた「積立式」が,敗戦によって崩壊し,「賦課方式」に転換されたことによる.賦課方式は積立ではなく,いま給付を受ける人に,いま働いているひとが差し出す方式だ.わが国の社会保障制度は昭和36年に完成している.この当時は定年が55歳だったから,昭和36年時点で定年退職した明治39年生まれより前の世代は,「掛金」という負担なしで年金を手にしているのだ.

つまり,いまの年金危機の重要なポイントは,我々の祖父以前の世代が先取りした分を忘れて「権利」になってしまったことである.しかし,わずか数年先には,年金原資を払い込む若い現役世代の人口がいなくなるのである.それでも欲しいというのは単なる強欲である.だから,政府は早く年金制度をやめる方法を検討しなければならない.

企業の依存体質も

今朝の記事では,財務省と経産省は来年度に,賃上げした企業と事業継承した企業に税優遇するという.国家がなんでこのような介入をするのか不思議だ.つまり,国家権力が民間企業をコントロールしようという魂胆なのだ.財界は,法人税減税についての財源など余計な心配をせずに,このような国家の介入にこそ懸念を表明すべきだ.国への依存が平常であるということ自体が,日本経済のダイナミックさを奪う元凶である.

混沌経済体制の国ニッポン

「混合経済」という言葉は,かのサミュエルソンが言った.
資本主義自由経済と社会主義経済を混ぜ合わせてできる,一種の理想型であったし,それを実現しているのは唯一日本だと思われていた.
しかし,明治以降の日本の歴史をみれば明らかなように,日本はそもそも完全に資本主義自由経済を基盤とした国にはなっていなかった.つまり,前期資本と資本主義が共存するレベルだった.
そこに,マルキシズムが注入された.
70年代の日本の成功は,混合経済だったからではなく,単純に冷戦構造と安い石油のおかげだった.
しかし,専門家には混合経済が魅力にみえたのだろう.
バブル崩壊後の日本だけが,世界経済のお荷物になってしまったのは,前期資本が温存され,さらに,役人主導の混合経済の成功体験という幻想に惑わされた結果だとかんがえられる.
昨今話題の「ブラック企業」の所作は,あきらかに前期資本的であって,これを行き過ぎた資本主義だと批判するのはそうとうにお門違いである.行き過ぎたのではなくて,あまりにも古くさいのである.
それは,従業員を使用人だとかんがえるパターンが共通に見えることからもわかる.
これは,江戸のお店(おたな)における使用人と同じで,身分意識にもとづいているからだ.
つまり,資本主義になりきれない経営感覚が,ブラック企業を作りだしているのだ.
あまりにマルキシズムの影響を強く受けたため,資本主義が嫌いという社会が日本であるが,資本主義になりきれていないという観点から見れば,実は,日本人は資本主義とは何かを学ぶ必要があるのだ.
すなわち,ベースに前期資本がしっかり残り,その上にマルキシズムの薄い層が広く塗られ,一部にシミのように資本主義自由経済が浮かんでいるのが日本経済の構造ではないか?
マルキシズムの薄い層が広くあるというのは,官僚支配のことである.
すると,これらをまとめれば,混沌経済国であるという結論になるのである.

大企業の不祥事を予言したガルブレイス

不正が企業文化になるということ

2017年、日産自動車で全社をあげての完成車検査においての不正が発覚し、それからしばらくして、神戸製鋼でも品質検査における不正がグループ会社を含む全社をあげて発覚した。
さらに、この二社に共通していたのは、発覚後、企業トップすなわち社長による謝罪会見で適正化を約束したにもかかわらず、不正を継続していたことが再び発覚したことである。

マスコミは一斉に「日本のものづくりの劣化」とし、神戸製鋼の「手口」が記事となって報道されている。(*注:産経,2017.10.2)
問題なのは、手口ではない。「なぜ不正が行われたのか?」につきる。
神戸製鋼では、40年以上にわたって不正がおこなわれ、手口については先輩から後輩へ申し送りされていた、というから、まさに不正が企業文化になっていたといえよう。つまり、不正してできた製品が、社内では「正規品」になるということだ。このことは、不正がJIS規格品にまで及んでいたことからも明らかである。
日産の場合は,「社内資格者」とはどんな「資格」なのかがわからないが,組立工程ごとに品質管理されているのが日本のものづくりの常識だから,そもそも「完成車検査」とはどんな専門知識を要するのか?外部からは不明である.また,輸出向けでは問題になっていないことも不思議である.
すると,もしかしたら,機械(メカニズム)主体だった時代の尾てい骨のような義務が国内販売だけで適用し続けていることなのかもしれない.

今年の最新型アウディは,全車がネットでドイツ本社に接続されており,不具合もドイツ本社で把握できるシステムが採用されている.つまり,メカニズムも各種センサーによって監視されているということだ.すると,一体,完成車検査とは人間がなにをすることなのか?という疑問がふくらむ.
これは,役所(国土交通省)によるムダな作業の強制の例なのかも知れない.
だとすれば,神戸製鋼の事例が,文化的要素としてはより深刻だといえよう.

ガルブレイスの「新しい産業国家」

資本主義における「成熟した法人企業」の現実の支配者は、「テクノストラクチュア」である、というのは1968年にガルブレイスが『新しい産業国家』で主張したことだ。「テクノストラクチュア」とは、高度な科学知識を持った専門家という意味である。企業内技術官僚とでもいうべきか。誤解をおそれずにいえば、日本の大企業が採用する、文系・理系を問わず「総合職」あるいは「幹部候補生」のなれの果てといってもよかろう。
ガルブレイスは、資本と経営の分離が一般化したなかでの「成熟した法人企業」が追求する企業目標は、「テクノストラクチュア」自身の安全であり、そのために成長が望まれるという。利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限をこえるかぎり、成長に次ぐ第二義的なものでしかないから、「テクノストラクチュア」の刺激誘因は金銭的なものではなく、組織との一体感とか組織を自己の目標にあわせるという適合であるという。

これは、経営と労働の対立という伝統的概念ではもう古いから「新しい」産業国家なのでろうが、そこに「テクノストラクチュア」という社内でかたまった集団による企業簒奪が新しいのだ。つまり、新しい形での企業の「人民管理」なのである。
ところで、このような大企業の形式的な経営者は誰なのだろうか?
資本と経営の分離が一般化した社会では、経営者とは、資本家すなわち株主から経営を委嘱された人々を云う。欧米企業に比して、日本企業は企業内昇格によって経営者になるのが一般的であるから、その出自はまずまちがいなく「テクノストラクチュア」ということになる。
この点、ガルブレイスは、『新しい産業国家』の日本語序文において、この本が欧米の経済学主流派よりも、「マルクス」に基盤をおく日本の経済学主流派に、より剴切(しっくりする)だろうということの一つだろう。
しかし、議論をここでとめるわけにはいかない。
冒頭の、わが国を代表する大企業二社の事例のすべてを説明できないからだ。

なるほど、「テクノストラクチュア」による企業の簒奪は、その目的が「テクノストラクチュア」自身の安全であり、組織との一体感だとすれば、不正を実行したことの動機としてあり得る。面倒な規格を遵守しなくても、厳格な品質管理を怠っても、大事なのは組織の一体感かもしれないし、「テクノストラクチュア」としての高度な知識からすれば、そんな規格や品質基準など「過剰である」と厳密に定義してしまえば、それこそ組織を自己の目標に適合させることになる。さらに、発覚リスクをかかえれば、そこに一体感も醸成できる。また,品質水準に関与できる職務は,一般職ではあるまい.つまり,社内では管理職にあたる層だとすれば,ここに自己保身と一体感が醸成されることはむしろ自然の成り行きだろう.
そして、発覚して会社が損を被っても、利潤は「テクノストラクチュア」の安全に必要な最低限を越えればいいから、経営陣による社会への謝罪会見などどうでもいいのだ。当然に、「テクノストラクチュア」の安全とは、正社員としての身分保証である。
しかし、それでは、「テクノストラクチュア」出身の経営陣の「無知」はどうしたことか?かれらは嘘をついているのだろうか?
おそらくそうではあるまい。
これは、「身分」にかかわる「断絶」が発生しているのではあるまいか?

「身分制度」こそ現代日本の姿である

会社法に定めるように、従業員と経営者では身分がことなる。そのため、大企業では、従業員から経営者に昇格すると、「会社都合」として退職金が支払われる。そして、いったん個人となってから、改めて株主総会で取締役に就任することになる。使用人の身分から、使用者への転換である。この瞬間に、高度使用人である「テクノストラクチュア」の世界から、追放されるのだ。
もちろん、社内は「テクノストラクチュア」が支配しているから、追放された経営者は、自らが欲する経営情報を得ることができなくなる。そこで、たいがいの大企業では、「社長室」、「経営企画部」などといった、選ばれた「テクノストラクチュア」たちが、事実上の司令塔になり、経営者役員たちは、彼らの手のひらの上で踊ることになる。もし、社長が何かを命令しても、その実行計画を細部にわたって策定するのは「テクノストラクチュア」たちだから、本人の意図しない結果になることもある。また、その命令の内容が、「テクノストラクチュア」の安全に抵触するなら、おそらく、経営者がおもいもつかない理由(実は説得力がある)を指摘されて、当初からすれば骨抜き案になるだろう。
こんな内部事情があるから、不正を正常化する課程を自助努力で解決できない。なぜなら、それは「テクノストラクチュア」を最低でも二分することになるから、組織との一体感を重視する「テクノストラクチュア」は動かないのだ。もし強行すれば、社内は複数の派に分裂し、統治が困難になるだろう。そこで、日本の大企業は、外部専門家に依頼するしか方法がないということになる.

神戸製鋼の社長は、すでに体調をこわしてしまったらしいが、「テクノストラクチュア」からの追放の意味をかみしめればかみしめるほど、役員就任以来の自己の人生が虚空に満ちたものであると実感するしかない。精神的なタフさが求められる正念場だ。
日産自動車の方策は、かなり強制的で、自動システムを構築して不正をなくすらしい。この「自動システム」が内製なのか外部製なのか不明だが、外部製でなければならないと推測する。内製だと、それを開発させられる「テクノストラクチュア」部隊が、将来、派閥的いじめにあう可能性がある。自動化がアウディのような仕組みだとしても,既存の検査資格者の特権が問題になる懸念である.
ちなみに,日産がルノーの支援を受け入れざるをえなくなったとき(つまり事実上の倒産),「技術の日産」がテレビのCMで流れていた.お客様目線からすれば,これは提供者の論理になると批判されたものだ.ところが最近,このフレーズが復活していた矢先の事件発覚である.「テクノストラクチュア」の復権の象徴だったのかもしれない.