「出エジプト記」のニッポン

旧約聖書をどのくらいの日本人が読んだことがあるのかといえば、あんまり読んだことがあるひとはいないだろう。
日本でも、高級ホテルのナイトテーブルやベッドボードに、聖書と仏典が置いてあったものだが、それらホテルの経営者が、これらの「本」を読破したはなしを聞いたことがない。

経営者にとっては「インテリア」のひとつなのかもしれないが、これで「思いとどまる」ひとがいるのは事実のようだから、客室管理者からすると重要な「本」なのだ。

もちろん、「本」を寄贈してくれる団体は、それが布教活動の一環でもあるし、すでに信者になっているひとへのアフターケアでもある。
厳しいビジネスの世界にいきるひとたちが、高級ホテルの顧客だから、つまずいたとき、自室で「本」を手にしてこころを落ち着かせるひともいることだろう。

そんな信仰をもったひとが、ある意味うらやましいとおもうこともあるが、まず、日本人のおおくは外国人のいう「信仰」を意識的にもってはいない。

娯楽と教育がむすびついて、映画全盛期にはいろいろな「名作」がうまれたが、なかでもこの手の作品のトップは『十戒』(1956年、アメリカ)であろう。

63年前の大スペクタクルは、いまでも一見の価値は十分すぎるほどある。
この作品を鑑賞してから、「本」を読めば、よりいっそう理解がふかまること、まちがいない。

わたしは、この作品にでてくる「モーゼ山」に四回ほど登ったことがあるけど、映画で描かれている山のかたちがおなじだったことに感動した。
ふしぎと、「モナ・リザ」の背景も、モーゼ山にみえるのはなぜだろう?

聖書では、この山頂で「十戒」を授かる。
ところが、下山してみるとエジプトからいっしょに逃げてきた人びとが、浮かれて好き勝手なことをやっていた。
それで怒ったモーゼは、神が十戒を書いた石板を投げると、そこから大地が裂けて、わるいかんがえの人びとを滅ぼすというシーンになる。

まったくおそろしい神様で、創世記の「ノアの箱舟」もそうだったが、全滅させられるのである。
日本映画だと『大魔神』が1966年からの三部作であるが、こちらは、わるいひとだけをやっつけるから、人間に奉仕する神様だ。

これが後世「予定説」となって、カルヴァンが提唱することになる。
つまり、決めるのは「神」であって、ひとではないから、生前に善行をつもうが、最後の審判に影響しない。
そのひとが生まれたときに、神は天国か地獄行きを「予定」したからだ。

ここから、マックス・ヴェーバーの世界的に有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が構成されていく。
ところが、大権威のマックス・ウェーバーのこの説をひっくり返したのが、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊-』だった。

 

そんなわけで、資本主義はどうやってうまれたのか?
ということが、いまだにわからないことになっている。
人類史の不思議のひとつに、「資本主義の成立」があるのだ。

この「よくわからないもの」を批判したのがマルクスたちだったけれど、こんどは未曾有の厄災を人災としてまねいてしまった。
けれども、伝統的に日本のエリートはマルクス親派だから、よくわからないままの資本主義が大嫌いなのである。

エリートとはどんなひとたちなのかをかんがえると、ちゃんとしたひとたちのはずなのだが、その思想基盤にマルクスへの親近感があるから、じつはちゃんとしていない。
このなんちゃって状態につけこんでいるのが、お笑い芸人たちで、マルクス親派の発言をするとそれっぽくきこえるようになっている。

これを、マルクス親派のマスコミが電波をつかってたれ流して、国民のおおくをマルクス親派に仕立て上げている。
これは、国家をあやつる官僚たちにも都合がいいから、放送法で放送局をイジメたりしない。

これは布教活動なのだろう。
けれども、その対象となる「神」は、聖書の神ではなくて滅ぼされる人びとが信じた「神」だろうから、あぶないのである。

どんな饗宴や狂宴をしていたのか?
映画『十戒』のシーンがおしえてくれる。

あたらしい経済学?MMT

あまりにもわが国の経済に、むかしからのアメリカ主流派経済学のセオリーが効かないものだからかしらないが、かってに向こうで「すでに日本はMMTの実験をはじめている」と信じているようだ。
そうではなくて、わが国経済モデルがすっかり社会主義経済になったから、資本主義の主流派経済学が通用しないだけだろう。

インフレがおこらなければ、政府債務はいくらでもふやせる、とういうのがMMTの基本的なかんがえかただ。
アメリカの左翼経済学者が主張しいるのは、ケインズを前面に出せなくなっても公共投資の強化に便利だからだろう。

日本では、アベノミクスによる日銀の金融緩和で、おそるべき資金を市場に提供してきたが、ぜんぜんインフレにならない。
日銀による資金の提供方法とは、日本国債の買い入れ、とか、日本株の買い入れ=購入分のおカネを市場へ提供するものである。

これでどんな「効果」がうまれたのか?
日本国債の市場が、日銀の買い入れを前提とした「市場」になった。つまり、自由な取引がほとんどない、という状態になった。
また、同様に、日本株の市場も、事実上日銀が買い支えているから、株価が経済状況をモニターするものではなくなっている。

だから、あいかわらず「日経平均が」どうのこうのといっても、そのどうのこうのは、「日銀さま~、おねが~い」としかきこえない。
これに、黒田総裁が目の下にクマをつくって、まだまだ緩和しま~す、というのだから、もう病気だ。

こんなになんかいろいろやっているつもりでも、新築の住宅にしか資金供給しないから、とっくに住宅バブルが発生している。

金融危機を始末したけど、フラフラになったアメリカ経済を立て直したのは、日本のマスコミはいいたくないがトランプだ。
かれの経済政策は、あんがい的を射ていて、就任してすぐさまやったのが「大規模減税」と「規制緩和」だった。

アベノミクスの学問的指導者だった浜田宏一先生も、とっくに「金融緩和」より、「減税」がきくと転向してしまった。
これには前例があって、大幅減税と規制緩和も、次元をこえたレベルで=過去のしがらみにとらわれず、実行したのは、トランプとおなじく共和党のレーガン政権だった。

けっきょくのところ、民間の力を信じるかそうでないかで決まるのだ。
民間の力を信じるアメリカと、ぜったいに民間はバカばかりだと信じる日本のちがいが、ここにきてはっきり勝負がついてきた。

ほんとうに日本経済をよくしたい、というなら、財務省を解体するしか方法がない。
ところが、税務署がこわくて野党もこれが言い出せない。

政府は民間がうごきやすいようにする計画をしろ、といったのがハイエクで、政府は経済運営計画をたてて民間に命令しろという社会主義とは真っ向180度のちがいがある。

これが、バブル崩壊から30年もの停滞をつくった原因の本筋だ。
なのに、まだこれをつづけようという安倍政権のかわりがないという無様で、それは野党の無様でもある。

国民はあたらしいか、ふるいかにかかわらず、もうかる仕組みがほしいのだが、それは、単純に、政府=役人がもっている数々の権限・規制を撤廃してほしいにつきるのである。

消費税率をあげるか現状の維持なのか?がいろいろいわれているが、このさいMMTでいけば、消費税をゼロにしたっていいのである。
同時に、政治家は、社会保障費の構造にたいして、従来の制度が適用されるひとたちと、そうでないひとたちとにわけて、そうでないひとたちには民間の保険やじぶんで積み立てることを利用するように仕向ければよい。

デジタル決済を利用するなら、消費税の減税分を自動的に積み立てるような金融商品ができたっていい。
こうしたサービスの導入しか、わが国でキャッシュレス決済が普及しないのではないか?

ぜんぶを国家が面倒をみるというイリュージョンを、はやく「できない」と表明することが、この国を救うのだ。

けれども、それができない。
国民を「国家依存」させることこそが、国家権力のエネルギー源だったからだ。

すると、国民側は、いつ何時でも、国家をたよらないで生きていけるように自己防衛していないと、平気で「棄民」されてしまうリスクがあることに気づかなければならない。

妙な損得勘定しかしないやからが、イギリスのブレグジットを「大損だ」というが、誰にとっての大損なのかという主語が抜けている。

すくなくても、英国人が損をする、といいたいのだろうが、それなら「ブレグジット党」の支持が既存政党をはるかに抜き去っている現象をどうやって説明するのか?

この政党は、「合意なき離脱」をうったえて、それが国民にひろく支持されているのだ。
保守党の「玉虫色の離脱案」や労働党の「離脱反対」が、まったくの支持をうしなってしまった。

来週22日のEU議会選挙にイギリスは参加を表明せざるをえなくなったが、7月に下院が議決をめざすというから、「リーマン級」のショックがおきる可能性がある。
それは、「合意なき離脱」を意味する。

こうして、わが国の秋の消費増税が見送られるとしたら、根性ある英国人のおかげである。

とうとう、課税問題までも「他人まかせ」になってしまう国になった。

20Wで一本5000円の蛍光灯

年末の大掃除からずいぶんと季節はずれの話題だが、リビングの蛍光灯を1年で交換する家はおおいだろう。
電気屋さんにはふるい管の回収箱があるから、棄てるのと購入が同時にできて便利だ。

たいてい「白昼色」だろうが、「電球色」をえらんでいるひともいるだろう。
じつは、こだわると、蛍光灯はけっしてあなどれないほど種類が豊富なのである。

さいきんはLED照明がノーマルになってきて、ちょっと肩身の狭い蛍光灯である。
日本政府は例によっての上から目線で、白熱電球の生産をやめさせた。
こんなことは、作り手のメーカーがじぶんで決めればよいことだから、お節介ではなくて、たんなる余計なお世話である。
どうしても、民間に「命令したがる」習性がかわらない。

白熱電灯を伝統の吹きガラスでつくっていた会社は、倒産の危機をのりこえて、いまでは「うすはりガラス」としてグラス類で有名になったけど、このグラスの愛用者なら吹きガラスの白熱電灯をほしいとおもうが、なにせ「つくってはいけない」と役人がきめた。
まったく自由がない、変な国にわれわれは住んでいる。

あるとき、むかしからつかっていた電気スタンドの電球がきれてしまった。
白熱電球なら百均にあるけれど、たしかに「熱」を発して熱いから、なにげなくLEDに交換してみた。

すると、本の余白が「まぶしい」のである。
しばらくすると、目が痛くなる。
どういうわけかと調べたら、「波長」の問題がみえてきた。

「白」にみえるLEDの光源は、あんがい「青色LED」がつかわれていて、それを黄色蛍光体にあてて白くしているものがある。
つまり、眼精疲労で話題の「ブルーライト」が光源だということなのだ。
どうりで、目に突き刺さるような光である。

さいきんの自動車のヘッドライトも、LEDが採用されているので、夜間の運転にはそれ用のサングラスを着用している。
JIS規格に、夜間の運転に適合したサングラスがあるから、それなら違反にならない。

それでもこのところ運転免許の更新講習で、ハイビームの活用が指導され、ひとの話を早合点したり、応用がきかなくなったひとたちが、都市部でもハイビームのままにして対向車の運転手を幻惑させている。
夜間運転用サングラスをしていても目がくらむから、警察はこの指導をやめてほしい。

それにくわえ、LED照明はほとんど熱を発しないから、冬場の降雪がヘッドライトに付着しても熱で溶けない。
そのまま付着すれば、とうとうライトの役にたたなくなるから、寒冷地では敬遠されているという。

「適材適所」は、こんなところでもただしいのだ。

人間の目には、「虹彩(こうさい)」があって、人種によって目の色がちがう原因だし、その模様のかたちが一生変化しないから、セキュリティ・ドアなどにも応用されている。

この機能は、目にはいってくる光の量を調節することだ。
白人の目が黒くないのは、虹彩がそうなっているからで、かれらは強い光に弱い。

暗くて長い冬がある緯度の高い地域で何世代も暮らしていたり、土地は平坦なのにおそろしく深い森のなかにいれば、うっそうと茂った緑で薄暗い環境にずっといることになるからだろう。

だから、照明にどんな灯りをえらぶのかは、われわれ日本人にはかんがえられないくらい敏感かつ慎重なのだ。
このあたりまで気配りできている宿泊施設は、白人客からかなりの好印象をえるはずだ。

一個の裸電球の下で、一家が夕食をとる光景は、電気から灯りができるという世界史的状況下では、あんがい全世界共通だった。

電気のまえは「ガス」で、横浜の馬車道には、わが国最初のガス灯、として記念碑と復刻したガス灯二本に灯がともっている。
周辺のあかりがあるから、夜になってこのガス灯をみても、いまでは感動の一かけもないだろうが、当時は「昼のようだ」として、見物客があふれ露店がたったという。

若いころ電気工事をしていた父のはなしでは、東北のいなかにはじめて電気がとおって、各家に配線工事をしていたら、ある家の当主から、娘をやるから村で一番最初に電灯をともしてほしいといわれたことがあったといっていた。

35年以上まえになるが、エジプト最大のオアシス「シワ」を冒険したことがある。
カイロから自動車で二日がかりの場所で、クレオパトラがはいったという温泉跡があったけど、ちょうど、この地に電気がきた時期だった。

住人たちは、夜になると煌々と灯りをつけて、まぶしいほどの明るさをたのしんでいた。
毎夜22時に当局が街の電源をおとしたので、暗闇になれてくるにしたがって見えた天の川がわすれられない。

一個の白熱電灯のあかるさが、いかほどのものだったかを感じていたひとたちは、しあわせであったろう。

蛍光灯が発明されると、日本人は消費電力のわりにあかるい蛍光灯をこのんで、どの家も蛍光灯が白熱電灯にとってかわった。
しかし、蛍光灯のあかりを「まぶしい」と感じる目をもった白人は、これを嫌って室内に設置しなかった。

夏になると、太陽をもとめてやってくる北欧のひとたちは、とにかく「太陽光」がだいすきなのだ。
どうやら白人のDNAに、太陽光への欲求がうめこまれているようだ。
それで、太陽光とおなじ波長の蛍光灯をつくりだす。

これが、20Wで一本5,000円の蛍光灯だ。

読書用電気スタンドでもつかえる、同種のグルグル巻きの蛍光管を買ってつけてみたら、すこぶるよい。
まぶしくないから、本が読みやすいのである。
それで、わが家はリビングの器具にこれをつけた。

命令したがる「習性」の経産省が、白熱電球の製造をやめさせて、つぎは一本数百円の蛍光灯をターゲットにしたようだ。
未来の世の中は「LED」を大量生産させれば、付加価値もつくだろうという、あいかわらずの産業優先である。

この発想が、集積回路やパネルで大失敗したことをまだわからないらしいから、おつむのいかれ具合は深刻である。

個人優先で、とっても「高い」蛍光灯をアメリカの会社が東ヨーロッパの国でつくらせていた。
これを輸入して買うから、うそみたいに高価になるが、欲しいものはほしいのだ。

日本メーカーにも、「博物館・美術館用」とか、「色評価用」、「高演色」という種類の蛍光灯があって、ふつうのものより高価である。
目に悪くてものすごく高価なLEDなどつかうのをやめて、こうした理にかなったそこそこの値段の「蛍光灯」を情報強者層はえらんで自宅でつかっている。

つくるときの材料や工程を無視して、LEDの「省エネ」をおしつける経産省の法学部出は、どうしても科学となじめないようだ。
ハイブリッド自動車も、燃費はよいがその前にあるリチウム電池の製造と廃車後の回収を考慮して「エコ」だと定義しているとはおもえない。

「上質な」蛍光灯も輸入品をつかわないといけないのか?
それとも、国産のメーカー在庫があるうちに買いだめしておくか?

どうやら製品をつくることはできても、マーケティングができない無様が日本のようだ。
企業がマーケティングに疎いのではなく、役所がそもそもマーケティングをしらないからだ。

個人優先の思想体系がマーケティングだからである。

このようにしてソ連は滅んだ、を地でやっている。

市議会の改革者か?ただのピエロか?

北方領土のはなしから、こんどは札幌市議会での「事件」だから、なんだか北海道があつくなっている。

統一地方選挙後の初となる臨時市議会が13日に開会し、無所属の最年長議員である松浦忠氏(79歳、9期)が地方自治法のさだめによって、議長を選出するための臨時議長になったのが「事件」のはじまりだ。

じっさいに、札幌市議会では「慣例」で、事前に主要会派による「交渉会」で決めたひとに「無記名投票する」ことが慣習になっている。
それを、いきなり「立候補」による投票にするとしたから、右往左往の「大空転」となり、さいごは臨時議長の解任決議でこれまでどおりの議長がきまったという顛末である。

この「事件」をおもくみた主要会派は、松浦氏を懲罰委員会にかける方針であるという。
報道各紙の報道は、市民の声とあわせて、完全に松浦氏は「おかしい」という主張ばかりがめにつくので、ちがうことを書いておこうとおもう。

地方というものは、かならず中央をみているから、中央集権国家であるわが日本国では、議会、といえば国会を手本にする。
しかし、国会の二院制とちがって地方議会は一院制であるから、衆議院・参議院のどちらでもいいから、どっちかをモデルにした「議場」をつくる。

議長を中心に、国なら閣僚がすわる席に市長・助役と序列順に左右対称に幹部職員がすわって、その向かい側に「議員」がすわることになっていて、さらにそのうしろに「傍聴席」ができる。

国では法律を決めるから「立法府」だが、地方では「条例」になる。
この条例は、法の下に位置づけられるから、法と矛盾する条例はつくれない。
ここに、中央集権国家の中央集権があって、地方の息苦しさの原因にもなっている。

さらに、地方自治法では地方自治体の位置づけがはっきりしない、というへんなことになっていて、これを国会でいつまでも修正しないから、いつまでもへんなままがつづいている。

その典型が、都道府県と「政令指定都市」の関係だ。
今回は札幌市が舞台だから、北海「道」と札幌「市」の役割分担のことを意味する。
つまり、あいまいなので、おなじ範囲の業務を「道」と「市」の二重でやってしまうことがままあるのだ。

この二重行政を正そうとしているのが、大阪都構想、というはなしである。
だから、大阪での問題は、全国どこにでもあてはまる問題なのだが、いかんせん国会がうごかない。
それで、しびれをきらした地方選挙での争点になってしまった。

政令指定都市だと、まだ区別しやすいが、これがふつうの市町村になると、都道府県庁と各役所の仕事の範囲がきっちりきまっていないから、ほんとうはもっと深刻なのだ。
それは、都道府県庁のいいなりになるという点でだ。

具体的には、都道府県庁の議会がきめたことのいいなりではなくて、役人がきめたことのいいなりだから、選挙でえらばれた市町村長も、おなじく市町村議会の議員も、都道府県庁の役人のいいなりにするしかない。
それをなんとなく、各議会で議決されたことにして、万事がうごいているのだ。

さいきんの「ふるさと納税」のドタバタで、中央の役人によるむき出しの支配が、市長や当該自治体の議会に命令しているすがたになっているからわかりやすい。

選挙でえらばれた政治家である「大臣」が、住民をみずに役人の原稿を読むから、存在意義から問われるのである。
ただし、「ふるさと納税」という、国民を乞食あつかいにする制度自体がいかがなものか?とはおもう。

しかし、こうした「構造」に疑問がなくなって、むしろ「合理的」だから「効率」がいい、とすれば、それは全体主義に親和性をもっていることになると気がつくべきだ。

このたびの札幌の「乱」は、たったひとりで強固な岩盤に「蟻の一穴」の挑戦をしようとしたのではないかともとれる。

安定していた時代にできた、およそ民主主義の本分とはぜんぜんなじまない、議会での「談合」にたいして、ふだんうるさく報道するひとたちが、批判する相手をまちがえていないか?

事前の談合(交渉会という)で、もう決まっていたなら、その人物が立候補すればよいのである。
それを、あくまで無記名投票にこだわる理由はなにか?
せめて、その理由ぐらいは報道してしかるべきである。

ここに、日本人とくゆうの「へりくだり」があって、「みなさんから推されたのでしかたなくわたしが議長をやります」というすがたに、とにかくしたいのだ、とすれば、なにかで紛糾しても、議長裁定をのみ込めるではないか、ということになるかもしれない。

つまり、「茶番劇」の準備をしているのだ。
これに、有権者が賛同する不思議。

わが国で一番部数がおおい新聞は、「そして誰もいなくなった…臨時議長『迷走』」という見出しをつけて、だれもいない議場にひとり議長席にすわる老人の写真を掲載した。
まさに、ピエロあつかいだ。

しかし、こんな集団イジメもないではないか。
市議会の慣例のほうがおかしいといったい誰がいいだすのか?

この議員がピエロなのではなく、さもしった顔でこのちいさな「挑戦」を嘲り笑う新聞こそがピエロである。
それがこの報道の読み方ではないのか?

この国は、おそろしいことになっている。

きれいごとしか言ってはいけない

国会議員とは、究極の言論人である。
したがって、じぶんの言動にはくれぐれも注意がひつようだし、その言葉にたいする責任がある。

日本維新の会の丸山穂高衆院議員が、北方領土へのビザなし交流訪問に同行して「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民に発言したことが問題になった。

それで、本人は離党届を提出したが、松井一郎代表は「離党などで許される話ではない。党として、除名を含めて厳粛な処分をする」と述べたという。
そして、ほんとうに除名された。

例によって、現地での文脈は不明のままだが、記事から「問題」を整理すると、
・戦争で奪われた領土は戦争で取り戻すべきか?
・上記の論を、当事者に質問したのはなぜか?
・本人が「不適切だった」とした理由はなにか?
・松井代表が激怒している理由はなにか?
・その他大勢も「とんでもない」と非難しているのはなぜか?
であろうか。

なかでも、さいしょにある「戦争で奪われた領土は戦争で取り戻すべきか?」が、もっとも本質的な「問題」だろう。

かんたんにいえば、「そのとおりである」が世界の常識としてのこたえだから、ふつうは言葉にしない。
ひとは「常識」を言葉にしないのが「常識」だからだ。

たとえば、人類の排便方法の歴史が、なかなかたどれない理由である。
毎日のこととはいえ、その方法は、その時代の典型的な常識であるから、だれも記録などしないからだ。

しかし、かれは国会議員という言論人だから、言葉にしないと議論にならない。
むしろ、この「常識」が、あたかも「非常識」になってしまうことが、大問題なのである。

その根拠が、わが憲法であることは、このブログでなんども言及している。
日本人は、世界のなかで非常識なかんがえを常識とする、非常識な国民なのだ。

北方領土とは、千島列島につらなる島々のうち、北海道にちかい四島をいうことになっている。

ソ連やその継承国であるロシアとの「返還交渉」において、わが国が一貫して「四島」といっているのは、ほんとうは根拠がうすい。
それは、第二次世界大戦の終結がいつか?ということと密接に関係している。

わが国でいう「終戦の日」は、昭和20年(1945年)8月15日になっている。
これは、「終戦の詔勅」が発っせられた日で、この詔勅を天皇自ら録音し放送した「玉音放送」のことである。
それで、大本営は16日全軍にたいし「停戦命令」を発している。

しかし、国際法では、わが国と連合国とのあいだで取り交わされた「降伏文書」に署名した日の「9月2日」が戦争終結の日なのである。

それで、こまったことになるのは、そもそも締結していた「日ソ中立条約」(昭和16年、1941年)をソ連が一方的に廃棄して、わが国に宣戦布告して「ソ連参戦」となったことである。

もともとソ連は「連合国」だったから、どうして「中立条約」がなったのかはさらにややこしい。
どちらにせよ、ソ連が攻めてきたのは真実で、満州での悲劇的な日本人婦女に対する虐殺蛮行とシベリア抑留は、わすれてはならないことだ。

「北方領土」に目をやると、昭和20年2月ヤルタ会談での「ヤルタ協定」で、南樺太と千島列島をソ連の取り分とすることが当事者抜きで決まった。

それで、ポツダム宣言を受け入れるとした8月15日をすぎても、ソ連軍の侵攻はつづいて、翌16日には南樺太、28日から9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領してしまった。
残りの歯舞群島は、9月3日から5日で占領されたのだ。

だから、国際法的には歯舞諸島しか「不当」といえない状態にある。
ようは、9月2日までの「調印時間」が決定的な意味をもっている。

けだし、日本軍の軍規はかたく、停戦命令がわが方には発令されているから、一方的にやられるだけであった。
ふつうの国の軍隊なら、たとえ停戦命令があることをしっていても、敵が一方的に攻めてきたら、「正当防衛」の権利を発動して、これと対戦するのにだ。
もちろん、ヤルタの密約などとんでもないことにかわりはない。

「火事場泥棒」といわれるゆえんで、ソ連の欲望丸出しのやりかたは、歴史的不名誉な逸話だとして、世界に発信しなければならない。
が、ここで世界の常識、「戦争でとられた領土は、残念だが「次回まで」帰ってくることはない」がでてくるのだ。

そのわかりやすい例は、ドーテの短編小説『最後の授業』でしられる、「アルザス・ロレーヌ」=「エルザス・ロートリンゲン」をめぐるフランスとドイツの行ったり来たりである。

閑話休題。
卒業式や年末の日付が変わるとき、あるいは、商店の閉店時間をしらせる音楽といえば「蛍の光」である。
この曲は、文部省がさだめる「小学唱歌」だった。

いまでは一番しか歌われないが、四番まであって、とくに四番は、わが国の領土変遷とともに歌詞が変更されている。
オリジナルは「やしまの『そと』の」だったが、千島樺太交換条約と沖縄処分後に、「うち」になって、

ちしまのおくも、おきなはも、やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさをしく、つとめよわがせ、つゝがなく。

これが、日露戦争後、
たいわんのはても からふとも やしまのうちの まもりなり。
になっている。
戦前・戦中の小学生は敗戦まで、この歌詞で歌っていた。

子どものころ、紅白歌合戦を一緒にみていた明治36年生まれの祖母が、藤山一郎の指揮で「蛍の光」を出場した歌手全員で唱和するのに、「なんで一番しかうたわないんだろう?」といっていたのが思いだされる。
彼女も、昭和一桁のわたしの両親も、日露戦争後の歌詞で覚えていたはずだ。

そんなわけだから、千島樺太交換条約を基準にすれば、四島「だけ?」ということにもなるのは、国内事情としてのいきさつがある。
条約をかってに破棄して「宣戦布告」はないだろう、といってもそれが戦争だ。

プーチン氏は、一期目の大統領就任直後、「核保有国と非保有国に外交交渉はない」と演説し、「外交交渉が成立するのは核保有国どうしのばあいだけだ」と説明している。
それで、ドイツはアメリカから中距離核ミサイルをレンタルしたままかえさないでいる。

丸山議員の発言で、さっそくロシア側が不快感をあらわにしたのは、外交上当然のことで放置すればよいことだが、そのロシアを擁護する発言をしているタレントその他のひとたちは、いったいどっちを向いているのだろうか?

ましてや、わざわざロシア大使館にまでおもむいて、わびを入れる国会議員たちは、それがどれほどのトンチンカンな行動なのかさえもわからないのだから、まったく絶望的な気分にさせる。
外交オンチもここまでくると犯罪的である。

もっとも外交も喧嘩もまともにできない外務省のHPにおける「北方領土問題」をみれば、

「南樺太(=北緯50度以南)及び千島列島(=ウルップ島以北の島々)については、その領域主権を有していた日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約により、すべての権利、権原及び請求権を放棄しました。サンフランシスコ平和条約上、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっており、それまでは、南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定であるというのが従来からの日本の一貫した立場です。」

そして、ちいさく「注」に「ソ連・ロシアは(講和条約)締約国ではない」と書くあたり、みごとな官庁文学に仕上がっている。

いまだに国際法上は「戦争状態です」と書かないから、わからない国民がいるのだ。

「将来の国際的解決手段に委ねられることになっており」という他人まかせの決意がここにもあって、拉致問題とおなじ構造になっている。
憲法前文の威力ここにありだ。

丸山穂高衆院議員は、いったいじぶんの発言のなにを「不適切」としたのかを、じっくりききたいものだ。
わたしには、旧島民に質問したことぐらいではないかとおもえる。

他のひとたちはなにがいけないというのか?
明解な説明をききたい。
きっと「言霊」をいうしかないだろう。

そんなひとたちが、議員辞職をもとめている。
まるで、斎藤隆夫が昭和15年(1940年)に「反軍演説」をして議会を除名されたのに似ている。
どちらも「とんでもない」ことではないか?

丸山議員には、イギリスで圧倒的支持になっている「ブレグジット党」のように、あたらしい党を立ち上げてほしいものだ。

終身雇用が崩壊するほんとうの意味

昨日の13日、日本自動車工業会の豊田章男会長が、「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」、「今の日本(の労働環境)を見ていると雇用をずっと続けている企業へのインセンティブがあまりない」という発言があったと日本経済新聞で報道された。

そして、「労働流動性の面ではまだまだ不利だが、派遣や中途入社など以前よりは会社を選ぶ選択の幅が広がった。多様化は進んでいるのですべての人がやりがいのある仕事に就けるチャンスは広がっている」とも発言したと同記事にはある。

例によって、前後のはなしが途切れているから、「文脈」がわからない。

あたかも、「インセンティブがない」ことにとらわれると、誰かからおカネが欲しいとかをいっているようにもとれるが、そんな「乞食」のようなことを、わが国をささえる自動車業界のトップがいうのだろうか?

むしろ、(地に落ちて存在意義をうしなった)「経団連の中西宏明会長も「企業からみると(従業員を)一生雇い続ける保証書を持っているわけではない」と語る」ということと、上記の発言をつなげることにこそ違和感がある。

豊田章男氏はいわずとしれたトヨタ自動車という世界トップの自動車会社の社長であって、そのトヨタ自動車にはいわずとしれた「トヨタ生産方式」がある。

業界の代表としての語り口と、トヨタ自動車という自社の社長としての語り口が異なるのはある意味当然だ。
それに対して、経団連の中西宏明会長は、何のことだかわからないことをいっているから、目も当てられない。

「(従業員を)一生雇い続ける保証書」などという世迷い言をはいて、上から目線に徹していることが、どうしようもないトンチンカンぶりである。

平均寿命が60歳にもなっていないときにできた「国民年金」が、じつは「定年制」をささえることの根拠になるが、定年自体は、日本独自の「雇用慣行」であって、法的規制はなかった。

「日本独自」とは、「ガラパゴス化」という意味だし、定年制をささえる土台の「年金制度」がゆらげば、そのうえの定年制は大揺れする。

それが、まず、「努力目標」として法に明記されたのが、1986年(昭和61年)の「高齢者雇用安定法」なのだ。
つまり、「たった」33年前のことで、その後2000年(平成12年)になって「65歳までの雇用確保措置を『努力義務化』」し、それが、「希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが『義務化』」したのは、なんと2013年(平成25年)、たかが5年前のことである。

しかも、最近の平均寿命は短い男性で81歳だから、ぜんぜん「一生雇い続ける意味の『終身』」なんてことはない。
とうとう経団連会長は、日本語ができないレベルでもつとまるようになったらしい。

「定年制」というのは、「年齢」という条件「だけ」で、雇用契約を終了するということだから、アメリカ人やイギリス人にはなじまない制度になっている。
彼らのかんがえる「労働市場」では、本人がもっている職業能力とそれを購入したい企業とのあいだで、価格が一致すれば、雇用契約は成立するからである。

しかし、一方で、アメリカなどでは「終身雇用制」を採用している優良企業がたくさんあるが、これは、日本の強みを研究した成果であった。
「定年」なき「終身雇用制」とは、雇用契約に支障がないかぎり、いつまでも働けるという意味だ。

だから、これまでとおなじ仕事内容をこれまでとおなじ能力で業務をおこなうなら、たとえ「雇用延長」されても「同一賃金」なのは当然なのだが、これを「年齢」という条件だけで「半減」できるのは、「労働市場」の原則からおおきくはずれている。

こうしたことができるのは、わが国独自の「生活給」という概念があるからである。
敗戦後の混乱期以来、独身の若者は安く、家庭をもって、子どもができて、家を買ってという、いまでいう「ライフサイクル」に適合した勤務年数がふえると賃金もふえるように、賃金体系をつくりかえたのだ。

高度成長期に、このつくりかえは完成して、安定的な雇用とセットになった。
その恩恵をうけた世代が、団塊の世代である。
だから、一億総中流社会が実現できたのである。

重要なのは、この賃金体系のポイントは、直線グラフを一本書いて、それに次のような曲線を描けばみえてくる。
つまり、弱年時は「安い」から直線の下に、それがだんだん高くなって直線の上にはみだして、高齢時にはまた「安く」なる。

結局、直線グラフとおなじ面積(生涯年収)になるように積分で「設計」されていた。
ところが、高度成長という条件がくわわって、高齢時に当初計画どおり「安く」ならなかったのだ。

それでも企業内官僚は、設計どおり、だといえたのは、経済成長にあわせた生涯年収グラフを描いていて、団塊世代が50代になっても、そのときのグラフ上では「安く」なっていたのだ。

そんなわけで、日本語があやしい経団連会長は、「生活給」が維持できないといいたかったにちがいない。
このひとは、「終身雇用制」と「生活給」のちがいがわからないのだ。

それは、世界経済の標準化で、日本独自の制度維持が困難になっているからだといえば、そのとおりである。
しかし、もっとも重要なのは、わが国に存在しない「労働市場」である。

これを、豊田章男氏が指摘したのだとかんがえる。
「トヨタ生産方式」で鍛えられたトヨタグループ社員の価値は高いから、いくらでも需要がある。
それで自社のことに言及せず、自動車工業会会長として、他社の人材教育に「喝」をいれたのだと。

売れる人材をつくる、これを放置して使い捨てしようとする経営者への「喝」と、じぶんを高く売るための努力をおこたる労働者への「喝」だろう。

赤い羽根の憂鬱

学生のころ、どういう経緯かわすれたが、赤い羽根募金を駅頭でやったことがある。
仲間みんなで一列に並んで、おお声で「ご協力おねがいしまーす」と半日ほどもつづけると、募金してくれるひととそうでないひとの見分けがついたものだ。

いまになって、あの光景をみると、なんともいえない威圧感があるものだが、まじめな生徒たちは1円でも募金をもらわないとなんだか気がすまなくなって、いよいよ声が強引になるから不思議である。
はたして、これが「教育」なのかとかんがえさせられる。

ああ今年もはじまったな、と思いつつ、なるべく避けてとおろうとするじぶんが、わるいおじさんになったものだともおもう。
しかし、おとなになってわかったのは、たびたび指摘はされているけど、この募金の使い途における釈然としない違和感である。

日本がとっても貧しかった、戦後すぐに、赤い羽根共同募金はできた。
「戦後復興」というスローガンのもと、当時のおかねで6億円があつまったというからおどろきだ。
いまなら、1,200億円にあたるという。

つまり、行政も戦災で被災していたから、行政に「代わって」募金を集めたのだろう。
その意味で、当時はたいそう重要だった社会の機能のひとつにちがいない。

いけないのは、それから復興してくると、行政の側からの乗っ取りがはじまって、とうとう完全に行政の支配下にはいってしまった。
だから、寄付金のはずなのに、「税金化」している。

もちろん、赤い羽根共同募金で募金したお金は、所得税の控除対象になっているし、地元の募金会なら住民税の税額控除の対象になっている。
だから、ほんとうは駅頭だって、募金箱にいれるときに「証明書」をくれないとおかしい、のだが、ここではそれをいいたいのではない。

赤い羽根共同募金は、全国組織になっていて、各都道府県の募金会を全国会である「社会福祉法人中央募金会」がとりまとめている。
「社会福祉法人」だから、許認可権の管轄は厚生労働省である。
そのHPにいけばすぐにわかるが、所在地は「新霞が関ビル」という都心の一等地、しかも、官庁街に居をかまえているのだ。

これで、まさに「お里がしれた」。
善意の「募金」が、家賃に消えていく。
それを、ものともおもわないひとたちが君臨しているにちがいない。

この組織の構造は、よくある霞ヶ関のお役所コピーだから、またかとおもうが、個人の生活者からすれば、赤い羽根に10円玉や100円玉をだしている程度の感覚ではまちがっている。

じつは、各都道府県の募金会が、市町村の町内会や自治会に「強制的」に、集金しているのである。
もちろん、町内会や自治会の活動費は、住民から任意にあつめた「会費」であって、都会では月額200円、年会費2,400円といったところが「相場」だろう。

さいきんは町内会や自治会に加入しないひとがいて、それはそれで住民間のトラブルになっている。
もっとも深刻なのは、ゴミ出しだろう。

ゴミを出しても、自治体の収集車は集積所の掃除まではしてくれないから、これを住民が負担して衛生を維持している。
だから、加入しないでゴミを出すひとは、タダ乗り、にみえる。
さらに、分別という非科学が強制されて、国民生活の負担を強いるのが政府だ。

さて、そんな政府ではない組織である募金会が強制するのは、世帯単位での「寄付」である。
だから、町内会や自治会からすると、入会していない世帯分もきちんと請求されて、それをまたきちんと耳をそろえて支払っているのは、みかじめ料化しているからだ。

これが、200円/世帯だから、年会費であつめたお金の1/12が、だまって消えていく。
支払っている町内会や自治会側は、個別に一軒一軒まわって寄付をつのるのが面倒だから、一括まとめ払いを選択しているのだ。

そういう意味では、双方の妥協点ではあるのだが、さいしょにあるのが事実上の「強制」だから、税金とかわりがないのである。
しかも、町内会や自治会に加入していない世帯の分も払うのだから、じつは未加盟のひとたちに「寄付」していることになっている。

未加盟者にとっては、まさかじぶんの世帯分まで赤い羽根共同募金に、町内会や自治会が寄付してくれているなど、夢にもおもわないだろう。
これが、町内会や自治会からのイジメの原因にもなっている。

こうした事実がくわしくわかれば、駅頭での募金活動に、いじらしさなどを感じるのではなく、募金会のおとなたちの強欲に気が遠くなりそうである。
子どもを利用した、偽善の活動にほかならない。

どのようにつかわれているかの疑問のまえに、おどろくべき集金活動がおこなわれている。
もはや、駅頭の活動はやめたほうがいい。

そんな方法で集めたおカネを、募金会の裁量でつかうなら、二重行政にならないか?
むしろ、こんな組織は解散させて、国会で議論の対象になるほんとうの税金化=一般会計予算がのぞましい。

この国の憂鬱のひとつである。

中国人が驚く本物の共産主義国

もちろん、わが国のことである。
個人的に仲よくなれば、さいきん大陸からやってきて日本になじんだ中国人なら、かならず指摘することでもある。

かつて、「革命無罪」、「造反有理」といった標語をかかげて、あばれまくったのが、文化大革命のときの紅衛兵であった。
それが、「反日無罪」となったはずなのに、親日的な記事や動画の投稿が許されているのはなぜか?

こたえはかんたんで、日本こそが共産社会の理想郷だからである。

ムッソリーニというひとが、イタリア社会党の左派にいて、より先鋭化したかんがえを述べたら、なんと除名されてしまう。
それで、おなじかんがえの仲間をつのってつくったのが、ファシスト党だった。

これが「ファシスト」のはじまりで、彼らと組んだヒトラーのナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、日本ではなぜか「右翼」とか「国粋主義」とかいわれているが、ほんとうは「左翼」すなわち、社会主義・共産主義方向のひとたちである。

当初、彼らの支持者層は少なくて、社会党と共産党支持者から勧誘するひつようがあって、それで、これらの組織と犬猿の仲になる。
もともとたくさんいる、自由主義者が彼らの支持者層になる可能性などなかったからである。

わが国がドイツ・イタリアと「三国同盟」をむすんだのも、いまさらだが、思想的親和性と、ほんとうはスターリンのロシアが「すごい」とおもっていたが、建前上「反共」をつくろうひつようからだったはずである。
つまり、どっちでもよかった。

だから、国内の「共産党」を弾圧したのは、ただの「おとり」だったのではないかとおもう。

ところが、ほんとうに反共や反社会主義をしんじるひとたちが政府内にもいて、ホンネとタテマエが交錯する。
それがあらわれたのが、「企画院事件」だった。

当時、企画院という役所は強力で、縦割りで動きが鈍い各省庁をまとめるためにこしらえた「司令塔」だから、いまの内閣府にあたるのだが、総務省という中途半端な省庁をつくってしまったので、内閣府すら企画院の比ではない貧弱さなのだ。

戦後、企画院が看板をかえて「経済安定本部」となり、その後「経済企画庁」として、「司令塔」の役割はつづいて、21世紀になって「経済財政諮問会議」などになった。
だから、時間をさかのぼるほど、こわもてになっていく役所である。

この事件の詳細にはふれないが、かんたんにいえば、ソ連のゴスプラン(国家計画員会)のようなもので、本家のロシア人以上に、異常なる緻密性をもって策定・実施(命令)していたことが、「共産主義である」とあっさりバレて、ときの「検察」が企画院幹部たちを検挙した「事件」だ。

敗戦後、このひとたちは、自由になって、おおくは検察のいうとおり社会党などの議員や幹部になったりしたから、当時の日本政府の左翼性がよくわかる。

ちなみに、この時期に活躍した官僚で、とくに注目された「革新官僚」というひとたちは、戦後の野党が主張した「革新」とどうように、社会主義計画経済の寵児たちをさし、その親玉が岸信介だった。
ネット上の百科事典で、革新官僚を検索すれば、さまざまなひとたちの名前とその経歴がリンクされている。

「昭和維新」という標語で、とうとう2.26事件をしでかして、組織が壊滅してしまったのが「皇道派」という軍内(陸海とも)の派閥であった。
これで、ノンポリか「統制派」しかなくなったから、けっきょくは「統制派」が軍を仕切ることになった。

革新官僚たちは、この統制派と協働するのである。
したがって、終戦間近、軍内の幹部は社会主義的な思想のグループ員ばかりとなって、自分たち以外のノンポリを前線に配置するということまでやっている。

それで、ノンポリたちはこぞって名誉の戦死をし、終戦を無事におえたひとたちは、統制派ばかりの「赤い軍隊」になっていた。
これに特攻の若者たちがふくまれるから、やるせない。
かれらを殺した犯人は、統制派だとだれもいわない。

もし、かれらが生きていれば、わが国のいまは、ちがっていたかもしれないほどの「人財」を虐殺してしまったのである。
それがまた、統制派のねらいだったのではないかとうたがう。

マッカーサーに、独立の名分とひきかえに再軍備のはなしが頓挫したのは、赤い軍隊の将校たちを再雇用して武器をもたせたら、スターリンの命令一下、わが国に軍事クーデターが起きることをおそれたからである。
それで、軽装の「隊」でがまんして、あたらしくつくった「防衛大」卒業生が管理職になるまで、「自衛隊」の武装は軽かったのだ。

ところが、事務官僚のほうは、チェックがなかったからそのまま温存され、だれひとり責任をとったものはいないから、これが免罪符になって、官僚の無謬性と計画経済の継続が粛々とおこなわれたのが戦後日本経済の歴史である。

「60年安保」は、「70年安保」とぜんぜんちがって、じつは、岸政権を嫌うひとたちの倒閣運動の「名分」だった。
革新官僚のトップに君臨した岸の本性を、国民は見ぬいていたのだ。
しかし、その後の経済成長と「官僚の優秀さ」という宣伝(プロパガンダ)が功を奏して、骨のある国民が腰砕けになってしまっていまにつづく。

アベノミクスの「社会主義性」は、かつてなく強力推進している。
なのに、なぜか左翼のひとたちがこの政権を「憎む」のは、おなじ支持層しかいないなかでの支持者争奪戦という、マーケティングのはなしなのである。

大阪の地方選挙で、自民党と共産党が手を組んだことがあるのは、敵の敵は味方だというはなし「ではなく」、かつて社会党の村山政権ができたのとおなじく、ほんとうはあまり違いがないひとたちであって、ふだん対立しているふりをしていることのメッキがはげただけである。

だから、これから日本経済が社会主義政策の推進で衰退すればするほど、メッキどころか本性があらわれて、まったくおなじだということがさらされるはずである。

そんなわけで、ようやく気がついたのかよ、と中国人たちにいいたくなるのだ。

香港がこわれていく

まだ平成で、しかも昭和天皇の「天皇誕生日」でもあった、ことしの4月29日、日本人がたのしい連休にうつつをぬかしていたときに、香港が荒れていた。

気がつけばもう5年前になる「雨傘デモ」で、香港「セントラル」が埋め尽くされて街の機能がマヒしたのは、行政長官の選挙制度が、北京政府の推すひとしか立候補できない、という改正案に反対することが目的だった。

けっきょくデモの主張は敗れ、原案どおりの制度になって、いまの長官が選ばれた。
これを公平な選挙というのか?
といえば、「選挙」である、というのが北京のロジックなのだろう。

なにせ、日本の国会にあたる、とわざわざ説明する「全人代」という「会議」も、党が立候補しろときめたひとしか立候補しない「選挙」で選ばれたひとたちのあつまりだから、それとおなじ「選挙制度」に正したのだ、という主張は、ダブルスタンダードこそが道徳である社会では正当なものだ。

しかし、香港は、返還の条件として「一国二制度」という原則をまもる、ということだったから、香港人からすると、自由がなくなる、という切羽詰まったことと同時に、約束がちがう、ということになるのは、ダブルスタンダードは悪だという道徳がある社会だからである。

それで、こんどの大規模デモは、犯罪容疑者の北京への引き渡しを可能にする法案に対してのものだ。

なんだ、悪いことをしたひとをどこに移送しようがどうでもいいじゃないか、にならないのは、対象が「容疑者」だからである。
これなら、ダブルスタンダードを道徳とするひとたちなら、だれでも容疑者にすれば北京におくって、すきなように裁けるということになる。

行政府長官は今年7月までにこの法案をとおす、と発言しているから、このデモの攻防はこれから盛り上がるだろう。
それに、おそらく「みせしめ」なのだろうが、5年前の雨傘デモを首謀したという大学教授ら4人に、禁固刑がいいわたされたばかりである。

もはや、香港が自由を喪失すれば、これまでの繁栄とはちがうことになるのは確実だし、「一国二制度」という方便が、ただの「うそ」だったことの証拠にもなる。
それで、香港の経済人にも警戒感が強まっている。

日本の経済界、とくに経団連は、みごとなトンチンカンぶりで、そんな北京といまこそ仲よくしようとしているから、世界情勢にすら疎くなっている。
それは、トランプ大統領がしかけた「貿易戦争」で、ヘロヘロになった北京が日本に擦りよってきたことをチャンスと勘違いしているからだ。

どうしてこんな老害爺さんが、財界総理でいられるのか不思議だし、国民に害あって利益なしだから、はやく経団連は解散すべきである。
看板をオリジナルの「産業報国会」にしてみたら、ぜんぜん報国にならない団体に落ちぶれた。

5月5日に、まとまりかけたと日本のマスコミがいう「貿易戦争」だったのに、いきなりトランプ大統領が25%の関税を宣言して、ニューヨークの株価も下がったことを、そらみたことか、と揶揄するのもいかがなものか?

香港のひとたちからすれば、トランプ大統領が英雄にみえたはずである。

アジアの金融センターは、とっくに東京ではなく香港になっているし、グローバル企業のアジア本部も、香港かシンガポールにあって東京ではない。

東京は支店か出張所で、香港かシンガポールに支社がある。
内紛のリクシルで話題の創業家は、本社をシンガポールにするといっていたこととおなじである。

なぜか?
傲慢な日本の役人がきめた、つまらない法規制が、東京の経済センターとしての魅力を喪失させたからである。

たとえば、金融商品取引法(金商法)では、あたらしい金融商品を売買するときに、「重要事項説明」をしなければいけなくなった。購入した客が、理解不足であとから損をしても、説明不足だったら売った会社のせいになる。

この役人の発想は「優しさ」ではなくて、たんなる「お節介」で、おかげで決済機能があるスマホの契約に何時間もかかることになった。
この生産性を低下させるだけのルールの根拠に、「国民は基本的にバカ者しかいない」から、「かわいそうなので保護する」という発想しかない。

このルールを国内にある外国の銀行だけでなく、外国にある外国の銀行にも要求したから、日本人客には「重要事項説明」をしないといけなくなった。

ならば、外国にいって外国の銀行に口座でもつくろうか、とはならず、ぎゃくに「日本人お断り」、になったのは、(英語がわからないバカな国民だから)「日本語で」説明しろと迫ったからである。
これが、日本政府が一生懸命に仕事をしたという姿だ。

そんなわけで、国内からも外国の銀行が撤退したが、それを、ガラス張りのビル群をつくって、「魅力的な東京」と自賛する神経は、北京なみになっている。
日本人は、海外ではあたりまえの金融サービスを受けることができないから、この分野では「鎖国」が成立している。

香港の経済センターとしての機能が攻撃されていることに、日本が無頓着なのは、まさか、香港から東京に移転するのではないか?と棚からぼた餅を期待しているのではあるまいか?
愚かなことである。

軍事力でなくて経済力で中国を締め上げる、トランプ大統領を熱い視線で見つめるのは、香港だけではない。
もちろん、台湾だ。

なんと、シャープを買収したひとが、国民党候補として総統選挙にでるという。
大陸で「100万人を雇用」している会社の長だ、という目線ではなく、どうして100万人も雇用することが「許されたのか?」が重要なのだ。

つまり、あちらの「党と一体」だということだ。
シャープはほんとうに「向こう」の会社に売却された。
しかし、それで経営が復活するのだから、日本人の経営能力はおどろくほど「低い」ことをいみする。

北京と手を組めば儲かる、という田中角栄以来のパブロフの犬のような反応しかできないなら、香港と台湾が北京の支配下にはいったら、どんなことになるかを想像もできないのだろう。

この悪夢を想像できているのが、トランプ大統領ではないか?

香港も台湾も、北京は手を出すな。

これが、彼の主張であり、アメリカの縄張り意識である。
ブレグジットでうごけない、イギリスのかわりに、香港の面倒もみる、という態度こそ、同盟のあかしである。

ならば、日本は同盟にあたいするのか?

おおくの国民がタカ派だと信じている安倍内閣が、香港をガン無視しているすがたは、まったくもって意志をかんじない。
それで、日本はアジアの盟主だと自認するなら、とんだ裸の王様である。
経団連と同様に、政権政党たちも落ちぶれた。

しかして、しんぶん赤旗が、冒頭のデモを4月30日付けできちんとつたえている。
共産党がまともに見える。

これは、ダブルスタンダードか?

上級国民はいないが下級国民はいる

へんな言葉がとびだした。
「上級国民」という言葉をきいたことがなかったが、あっという間にひろがった。
令和初の流行語大賞になるかもしれないのは、これからの暗い時代を予想させるからでもある。

いったいだれがこんな言葉をいいだしたのか?
受賞という場面になるとはっきるするのだろうから、顔を見てみたい。

60年代から70年代、当時、世界でもまれな高度成長という経済成長の経験をしたわが国では、左翼思想が蔓延して、これまた世界史的にもまれな平等国家である「一億総中流社会」がうたわれて、あたかも全国民が「中流」であって、その上も下もない理想社会のようなことを自画自賛したものだった。

理想社会のことを「ユートピア」というのは、もちろん、トマス・モアの『ユートピア』を語源にしている。
この本の特徴に、モアはさいしょにラテン語で書いたが、それを別のひとが英語に翻訳したといういきさつがある。

だから、原題の「ユートピア」もラテン語からの造語で、「現実にはない社会」、「ありえない社会」を意味したが、いつのまにかに「理想的な社会」にかわってしまった。
これは、まちがいなくトマス・モアが意図したことではない。

読んだことがないのに批判する批評家はたくさんいて、そんな批評が世の中に拡散するのは、じつは順番がぎゃくで、世の中の雰囲気をくみ取った批評家が世の中に受け入れられるように批評するからである。
だから、じっさいに読んでしまうと思考の邪魔になるから読まないで批判することになる。

『ユートピア』を読んだことがあるひとなら、この本の世界はけっして「ユートピア」ではないことに気づくが、それは「ありえない社会」のことだという原典にたちかえれば、すぐにわかることである。

また、この本を利用したひとたちは、この本の空想的な特徴を切り出して、「空想的社会主義」という思想をあみだした。
それで、さらに後世のひとたちが、「空想」ではなく「科学」を標榜するようになって、とうとう「科学的」根拠はないけれど「科学的社会主義」を発明したという歴史がある。

そうやってかんがえると、「一億総中流社会」という「空想」が、各種統計数値によって「科学的」になったようにみえたのも、なんのことはないグラフにすれば一目瞭然の、下流と上流を「無視」したからである。

そして、無視したものが「存在しない」に変化したのだから、見えないモノは「存在しない」ということとおなじで、もはや「イリュージョン」になるのである。

この気持ちのよいイリュージョンに、だまされているふりをしているうちに、ほんとうにだまされて、それがさいきんになって「格差」が見えてきたら、こんどは「格差社会」だと騒ぎだしただけである。

それを、政権批判に結びつけたいひとたちが、平等こそが理想なのだという固定した価値感から、さいしょからありもしない平等社会が「こわれた」、といって「どうしてくれる」になっている。

不思議なのは、地上波のテレビで常連の批評家たちが、いっせいにおなじ批判をして、さらに、じぶんはもちろん下層にいますというウソをついていることを、これまたみんなでだまされているふりをしているうちに、ほんとうにだまされている。

いったいこのひとたちには、一回いくらの出演料が支払われているのか?
このくだらないはなしのために、スポンサー企業がしはらう広告料を負担しているのは、消費者である視聴者しかいない。

つまり、だましているひとたちが上級国民で、だまされているのが下級国民という構図に、とっくのむかしからなっているのだ。

以前は、「左から見ればまん中も右に見える」というはなしがあったが、いまは、「下から見ればまん中も上に見える」ということになった。

では、上級国民というひとたちはといえば、世界の「セレブ」からあいてにされない状態で、大型ヨットも自家用飛行機も「個人名義」でなんてもっていない。
せいぜい、会社所有で、税務署からの指摘に戦々恐々している程度である。

そんな程度だから、たとえばヨーロッパの超高級ホテルに、お金さえ出せば宿泊できると意気込んで予約をいれるが、実際にチェックインすれば、毎夜のディナーで昨夜とおなじ服を着ているひとなどいないし、朝食すらも同様である。

さらに、幼児がいてもロビーで大声をだしてぐずったり、走りまわることもしない。
もちろん、このようなホテルに、乳母車を押して入館してくるようなひともいない。

世界標準でいえば、上級国民などこの国にはいない。

まちがいなくいえるのは、上級だとひとびとを煽って、社会の分断をもくろむひとたちが、喜々として「格差」を指摘し、将来の「革命」を夢見ていることである。

戦前の国家総動員体制ができてから、戦中・戦後も日本政府の経済政策は一貫して社会主義の推進だったにもかかわらず、どうしてこうなったのか?

それは、さいしょから「ユートピア」(ありえない社会)の追求だったから、いつまでたってもありえないだけでなく、むしろ、意図とは逆の効果しか生まないのである。

サブカルの国は、リアルで空想社会なのである。
この空想から目を覚まさないかぎり、未来は暗い。