すこやかな子供

「産後の肥立ち」の良し悪しが、母体に直接関係していたのは、「食」と「生活」の「貧困」が、命に関わることだったからである。
それでもって、乳幼児の生存にも影響したのは、母乳の出にも影響するからで、もちろんさまざまな「病気」が子供をおそっても、おいそれと医者にかからせることもできなかった。

たとえ病気になって医者を呼んでも、こんどは処方される「薬」だって、いまとはぜんぜんちがう。
人類初の抗生剤、「ペニシリン」が発見されたのは、1929年のことだったから、まだ100年も経っていない。

つまり、いまからしたら驚くほど「効かない薬」が、ふつうであって、それがまた「高価」であった。
なので、事実上の自然治癒力がないと、生き残れない、ということになっていた。

これがまた、「優生学」を生む土壌でもあった。

さて、ときどき「旧暦」を語ることがあるこのブログだ。
今年は、新暦の6月3日が、旧暦の5月5日「端午の節句」にあたる。
ちなみに、3月3日の「桃の節句」は、新暦の4月3だった。

新暦の3月3日に、桃の花は開花しないが、旧暦の頃には「見頃」となるようになっている。

すると、旧暦の端午の節句は、なんとなく「梅雨」の時期になるから、「五月晴れ」の意味も、ただスカッと晴れた日を指すのとはちがったニュアンスがある。

そこで出てくる、「菖蒲湯」とか「よもぎ餅」、あるいは「柏餅」の意味には、「邪気払い」という共通があることに気づく。
もちろん、「鯉のぼり」もだ。

「邪気」とは、単に病気になることだけではない。
それに、「邪気払い」も、単なる「まじない」ではなかった。
いまでは想像もつかない、「信用度」があったのだ。

ところで、女の子の節句が「桃の節句」で、男の子の節句が「端午の節句」だった。
わが国における「桃の節句」の歴史は、えらく古く、縄文時代に遡るという説もある。

それに比べて、端午の節句は、中国からの輸入で、時期は奈良時代にあたる。
この「時間差」こそ、フェミのひとたちは注目しそうなものだけど、そうではないから、ひとかどではない。

日本をぶっ壊す!ことに躍起だったGHQは、「戦争犯罪」にあたる、敗戦国の「文化破壊」もやって、いまだに知らんぷりをしているし、この「文化破壊」を、よろこばしいもの、とかんがえる「犬たち」も増加した。

この意味で、男女を問わない「こどもの日」が、国民の祝日として「法制化」できたのである。
なお、「子供」と書かず「こども」とすることにも意味がある。
「供」の字が、卑しいとかんがえる犬になった学者がいたからである。

それでもって、「こどもの日」の趣旨は、以下のとおり。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした国民の祝日。
制定は、1948年(昭和23年)と、しっかり、占領期なのである。

「母に感謝する」ことは、法律にあるけれど、「父に感謝する」ことは、「ない」というのも、なかなかの「趣旨=意図」に読めるのである。
それに、「こどもの人格を重んじ」が、「こどもの幸福」の「前提」になっているけれど、未発達のこどもの人格とは何か?についての説明はない。

「人権」ならまだしも、なのである。

そんなわけで、「こどもの日」とは、けっこう「政治的」な意図をもって決めた「祝日」だということは、知っていていい。

なので、ずっとさかのぼって、「端午の節句」に戻ると、邪気払いを含めた、すこやかな成長を願ったことの「健全性」と、夭折するふつうからの「切実さ」が、よほど「健全」だということがわかる。

それに、「男」はいずれ成長すれば、さまざなま「闘いの場」に出て、「勝負」しないといけない「運命」があった。
だから、「菖蒲」という植物が「げんかつぎ」にもなって、伝統的なデザインとしても用いられた。

たとえば、山梨県にある伝統的工芸品の「印伝」にそれが残っている。

ちなみに、印伝の模様には、飛鳥時代からの糸で隠して「煙:タール成分」を用いて線型図を描く手法と、漆をインクにした「印刷」手法とがあって、後者には「伊勢型紙」がいまでも用いられている。
だから、三重県鈴鹿市の伊勢型紙が途絶えたら、えらいことになる。

けれども、型紙に掘り出す前の「紙」は、「美濃和紙」なので、美濃和紙がなくなると、えらいことになる。
そのまた、原材料の「こうぞ:楮」を畑で栽培することからしないと、えらいことになるのである。

おとなは子供をみて、「すこやかな成長」を願うのだけど、子供はおとなをみて育つ、ということを同時にいわないから「片手落ち」になっている。
これを言わないでよかったのは、おとながおとなだったからで、「言わずもがな」だったのだ。

いまは、おとなが子供のままに「発達不足」しているから、「子供はおとなをみて育つ」をわざわざ言わないといけなくなった。
すると、「父ちゃん坊や」は、子供にみられている、ことをどうおもうのだろうか?

じつは、こうした「発達不足」になったひとは、個人主義を誤解した親による、「自己中」、「利己主義」の被害者ではある。
「他人の迷惑にならなければ、なにをしてもよい」という、「思想」は、「利己主義」による「ごまかし・まやかし」なのである。

ゆえに、他人がどうおもうのかに「関係なく」、身のこなしからなにからを「しつけた」のである。
それが、おとなになると「育ち」として、わかるひとには評価されることになって、「身を助ける」こともあったのである。

いま街中でそれを確認できるのは、「犬の散歩」だ。
子供のしつけができなかったひとたちが、「飼い犬」のコントールもできないで、犬に散歩をされている人間のかくも大勢いることか。

バカ犬ではなくて、バカが飼い主なのである。

子供が生意気になってくるのは、だいたい小学校の高学年あたりからなので、10年もすれば、なんと「18歳成人」となる。
すると、現在の子供には、絶対に「すこやかな成長」を遂げてもらわないと困るのは、現在のおとなの側なのである。

そしてそれが、「人生100年時代」ともなれば、現在10歳の子供は、あと80年は「おとな」として生きないといけないことになっている。

一歩まちがうと、ずっと悲惨な人生になる。
それでか、わが国は、世界で一番「子供が自殺」して、若年層の死因のトップが、自殺だという「唯一の国」になってしまった。

それがなんだか、芥川龍之介がいった「漠然とした不安」のように、「なんとなく」という「理由」なのである。

すこやかな子供は、ちゃんとしたおとながいないと、すこやかに成長しないのである。
だから、こどもの日ではなくて、おとなが反省する日、が正しい。

道徳的な国の可能性

「うっかり」は、人間につきものだけど、年を取ったせいにしていえば、このところ「携帯電話」を落したり、置き忘れたりして、なんどか「紛失」している。

ちなみに、「またなくしたの」と家人にいわれることも、いつも通りなのである。
そして、ありがたいことに、みつかるのである。

離れたところに保管場所があるので、そこまでとりに行かないといけないけれども、「みつかる」ということの裏には、「だれも触らない」とか、「届け出てくれる」という、「手間」がある。

「触らない」ことが「手間」なのは、他人のものに「触ってはいけない」とかんがえたことについての「手間」として、「触らない」からである。

訪日した外国人YouTuberが、財布やら貴重品を落しても、日本に限っては「みつかる」ことに「感動」する話を通り越して、わざと落してどうなるかを「実験」して動画配信している。

それがまた、気づいたひとが全員、落した本人を走って追いかける、という「手間」をかけて、「落としましたよ」といってニッコリ手渡すのである。

こうした「動画」を観た、外国人のコメントは、一応に、「奇跡の国」という評価になるのである。

「うちの国だったら、走って逃げる」のがあたりまえで、図書館でも喫茶店でもどこでも、席を離れるときに貴重品を置いたままにしても「安全」なことなんて、「ありえない」というコメントが満載になるものだ。

だから、これをついうっかり、外国でやると、たちまちカバンごと紛失の憂き目をみて、パスポートごとなくなって「帰国できない」なんてことにもなるのである。

いわゆる、「置き引き」の被害が、もっとも「ふつう」に発生する。

とくに、人混みの空港ロビーとか、中央駅とかが注意を要する場所になるのは、「お仕事」として、他人の行動を遠目で観察して、虎視眈々と狙っているひとたちがいるからだ。

それでもって、注意が甘い日本人がターゲットになるのだ。

そんなわけで、日本人はどうやら、世界的に「異常」ともいえる、習性を持っていることが、外国人からしたら「奇異」にみえるほどなのである。
しかし、日本人がこれをどこまで「自慢」できるかといえば、ちょっと自信がなくなることもある。

地下鉄サリン事件は、世界的にも珍しいを越して、世界初の化学兵器による無差別テロだった。
これをきっかけに、駅から街中から、「ゴミ箱」が撤去されて、それが現代日本文化にまでなってしまった。

そして、「不審物」には「触らない」ということも、「身の危険」との関係から、あたりまえになったのである。
けれども、これには、「えんがちょ」という、外国人にはほとんど理解不能な「穢れを忌み嫌う文化」があったから、徹底できているともいえる。

しかも、「えんがちょ」は、他人にタッチするだけで、「伝染」する。

これを防止するには、タッチされる前に「えんがちょユビ切った」と言って、指でサインをつくって相手に示さないといけない。
この「防止行為」が、変形したのが「マスク着用」だともかんがえられる。

ゆえに、日本人がマスクをはずさないのは、完全に、科学を上回る「穢れの文化」が、日本人を支配しているからともいえる。
だから、「権威者」が、「えんがちょユビ切った」という意味の、「マスクをはずしましょう」といわないかぎり、日本人はマスクをはずせない。

じぶんが「えんがちょ」の「鬼」になってしまうことが、最大の「リスク」だからである。
もはや、「感染症」の「感染」を怖れているのではないのだ。
完全に、社会的・文化的レベルになっている。

まったくもって、宗教的人間の集団が日本人なのだけど、これをまた、全然意識しないで生きているのも日本人だ。
その宗教が、いつからかわからないほどむかしで、新しい「神道」とは別の、「日本古来」からのものだから、外国人には理解できない。

すると、日本人だって、神道と神社とえんがちょの関係が曖昧模糊としているままなので、なんだかよくわからないでいる。
ヨーロッパ人は、こうした曖昧模糊とした状態に心理的不安を感じるから、絶対に「理論化」する。

しかして、日本人は曖昧模糊を「放置」するのである。
それで平気でいられるのは、そんなことにいちいち興味がないからである。
つまり、完全に「無意識レベル」で、全員一致の境地に達しているのだ。

これが、外国人から日本国を、「日本という惑星」という言い方で表現される理由である。
つまり、別の星に生きていると思えるほどの「ちがい」を認識されている。

その「キーワード」が、「道徳」の根本的なちがいだといえる。

日本人の道徳は、明らかに外国人の道徳と「レベル」がちがう。

これは、アイン・ランドがいう、「資本主義は道徳世界にしか成立しない」ということからしたら、地球で唯一「資本主義成立」の条件を持っているのが、日本人だ、ということになるのである。

世界人類は、いまだにそんな「資本主義」を経験していない、から、資本主義とは「未来のシステム」であると断言したアイン・ランドが正しければ、人類未来は、日本人が握っているのである。

ハイエクは、「資本主義」とは、マルクスが考案した、共産主義のアンチテーゼとしての概念だと指摘した。
つまり、共産主義ありき、から導いた、架空の概念が「資本主義」なるものだ、と。

すると、われわれがいま生きているこの世界はどうかんがえればよいのか?
大塚久雄が説く、中世までの「前資本:詐欺・掠奪・冒険がふつうの経済社会」の状態に、科学と技術が結合した「だけ」だとすれば、納得がいく。

だから、いまでも、詐欺・掠奪・冒険が絶えないのであって、国際金融資本家たちによる一般人からの「掠奪」が、ふつうになっている。

すると、これに対抗する、世界の光は、やっぱり「日本人」しかいないのである。

米独の股裂きにされる

お困りのドイツが、久しぶりに思い出したのが旧同盟国の日本なのであった。

しかし、ヒトラーが「黄色い猿」呼ばわりしていたから、ドイツ人はあんがいと「親日」ではない。
ただし、イタリア人に裏切られて、自分も力尽きたのに、最後まで頑張った日本はなんなんだ、という「思い」だけはあるようだ。

もちろん、戦後の「復興」と、「高度成長」は、日独の独壇場となった共通はある。
「空襲と地上戦」で徹底的に破壊されたドイツと、「大空襲」で焼き尽くされた日本は、「最新鋭の工場」をもって再興したのだった。

ドイツ同様に破壊された東ヨーロッパは、ソ連圏になって「化石化する」ことになったのも、ドイツにはラッキーだった皮肉がある。
わが国は、朝鮮動乱というラッキーで復興するから、両国共に他人の不幸が自分の幸福になったのである。

シュルツ首相を支える、連立する政党はかつてなく「幅広」だ。
ドイツでは昔から「極右」とされた、「自由民主党」と、当然に「極左」に分類される、「緑の党」が、ありえないことにおなじ内閣にはいっている。

ドイツと日本のちがいの決定的な点は、東ドイツと再統合をしたことだ。

「経済だけ」をみれば、あたかも、西ドイツが東ドイツを吸収したように思えるけれど、文化的・政治的には、東ドイツに西ドイツが吸収された。
それが、長期メルケル政権の本質だった。

環境ファシズムに堕ちたメルケル政権は、フクシマ・ショックから、原発廃止を決めた。

代替エネルギーは、ロシア依存だったけど、これを、「持続可能」といって誤魔化したのであった。
しかし、ドイツ人は誤魔化されたとはかんがえずに、「正しい」と決め込んだのである。

それが、「旧東ドイツ」のひとたちだったのではないかと疑う。
エネルギーを大量に必要とする産業は、旧西ドイツの側にあるはずだから、これらの産業にたずさわるひとたちは、「環境左翼」にはなり得ないからである。

それでも、ドイツはエネルギー源をシフトして、電気代が往時の4~6倍になったところでの、ウクライナ危機で、「6割上昇した」とのニュースがあったので、結局のところ「10倍」になったのである。

それを、日本人駐在員たちの「妻」が、「ぼやき」としてつぶやいたら、ヨーロッパ各地での「実態が報告される」に至り、プロの報道機関を、信頼性で凌駕したのであった。

わたしもかつて、35年前のエジプト・カイロにおける、「物価調査」を、日本人婦人会に頼んで調べてもらったことがある。
もちろん、現地人が買う「お店」ではなくて、裕福な外国人が買う「高級店」の実態だ。

しかし、これはこれで「足で稼いだ」数字なので、どこの「調査機関」の調査よりも、「正確さ」では負けなかった。
なお、日本人は「値段交渉」や「値切り」をしない、ということも承知の「数字」だから、現地人の評価として比較したのではないので念のため。

そんなわけで、ドイツはにっちもさっちもいかない状況に自分たちで追いこんでしまった。
ロシアにつきたいのに、アメリカ・バイデン政権がこれを許さない。
トランプ氏の再選を望むは、アメリカ人よりもドイツ人かもしれない。

これをふつう、「失政」というのである。

さらに、世界を「スクラップ・アンド・ビルド」したいひとたちがいる。
ヨーロッパの中心は、何度も書くが、「世界経済フォーラム:ダボス会議」だ。
そのアメリカ支部ともいえるのが、「外交評議会」である。

こちらも、「グレートリセットが目標」だと、公表している。

そして、このひとたちが、バイデン政権の「ブレーン」なのだ。
また、アメリカの有名大学も、ほとんどが「民主党支持」なので、学内における「多様性」は禁じられ、共和党的「異見」は無視されることになった。

すると、バイデン政権のおぞましい「失政」は、われわれがイメージするアメリカの「知性」がしでかしたお粗末だと、改めてわかるのである。
改めて、とは、ソ連が崩壊したときにアメリカのこれら知性たちがやった、ロシアの資源利権を、エリツィン政権と貪った事実があったからである。

その小型コピーが、ウクライナの資源利権なのだ。

さてはドイツは、アメリカからもロシアからも「股裂き」にされて、胴体が縦に割れそうなことになっている。
日本にきて、何をしたいのか知らないが、日本はこれに中国が加わって、三分割の状態だ。

すると、もっと酷い国を視察して、自身の不幸を和らげようとしているのだろう。

なぜならば、岸田文雄政権の「エネルギー戦略」を、国民すら聞いたことがないからである。
この「ノーアイデア」に、シュルツ首相が思うのは、最悪の「メルケルよりまし」という評価なら、それはそれでよかったね「岸田君」といいたい。

しかし、日独共に、国民がかわいそうなのである。

「国民国家」滅亡と再生

「憲法記念日」にあたって

「77年目」という「節目」の年が今年だ。
明治元年(1868年)から77年後の、1945年に「敗戦」した。
その「敗戦」から、77年後が、今年なのである。

言論の自由やら、信教の自由が保障されていて、民主主義を行っている国ならば、基本的にその国は、国民と国家がバランスする「はず」だから、「国民国家」になることになっていた。

ところがこれが、誰の目にも「壊れだした」のである。
すると、「憲法が壊れだした」も同然なのだ。

つまり、国民と国家(=政府)が、「分離」して、「水と油」になってきている。

外国の例をいえば、NHK朝の連続ドラマで、視聴率の記録を樹立した『おしん』(昭和58年4月~59年3月)は、イラン国営放送で視聴率80%以上という「異常」をたたき出したといわれている。

これで、「イラン人親日説」が確定的になっている。

エジプトでは、『おしん』放送中に停電があって、それがきっかけで「暴動」になり、政府は国営放送に「再放送させる」と約束して収束させた。
さらに、エジプトでは、子供の名前を「おしん」にすることが流行したけど、これは女の子にはかぎらない。

むかしは、「ソ連」は怖いけど、個々の「ロシア人」は易しい、といわれてきた。
いまはたとえば、「国民は反中」だけど、「政府は親中」だといえばわかるようになっている。

これらのことを「あてはめれば」、国民感情としての「親日」と、その政府が「親日かどうか」は、一致しないのが、法則のようになっている。
つまり、上述した、「イラン人親日説」は、国民にはあてはまるかもしれないけれど、政府にあてはまるかどうかはわからないことを示す。

実際に、安倍晋三首相(当時)が、アメリカとイランの「仲介」をしに、福田赳夫首相以来41年ぶりにテヘランを訪問(2019年:令和元年、6月12日~14日)したけれど、イラン大統領の対応は冷たく、しかも、訪問「当日」に日本の石油タンカーがイランの革命防衛隊に攻撃される事件があった。

これに、現地の安倍氏は直接抗議することもなく、東京の外務省は「遺憾砲」を撃つだけだったのである。
いまも、外務省のHPには、タンカー攻撃の記載は「一字一句」たりとも「ない」という、「反日」ぶりを示している。

つまるところ、「あんた、どんな立場でなにしにきたの?」という態度であしらわれたばかりで、「独立国」としての待遇すら受けなかったのである。

「どんな立場」とは、アメリカの属国だろ、という断定がふくまれる。

すなわち、国民は「大国」としての日本をイメージしているけれど、実態がちがうから、「どうにもならない」ことになるのである。
ならば、国民に「大国なんかではありません」ともいえない。

この矛盾の根本原因が、「エセ独立国」という立場に甘んじて、77年間を過ごしてきたからだ。

だから、日本国民の多くが、すでに「独立国」とはなんぞや?を知らない。
敗戦までの「独立国」だった状態を知っているひとたちが、とっくに寿命を迎えて死に絶えてしまったからである。

物騒ないいかたをして、思考停止させる作戦が横行しているけれども、あえて誤解をおそれずに直言すれば、「外国と戦争ができる国」が、「独立国」なのだ。

もちろん、「戦争をしたい」という意味ではなくて、権利としての可能性をいうのである。

外交の延長線上に戦争がある、というのは、野蛮なヨーロッパ人の発想だけど、残念ながらこれが、国際ルールとしていまも通用している。
すると、戦争が「できない」国には、「外交」もない。

こうなると、外務省の無意味が鮮明になってきて、「邦人保護」すら形骸化していることの意味がわかるというものだ。
なにもかも、わが国政府にできることなぞ「ない」のである。

従来までの、「ごっこ」が、急速に色あせて、子供なら意味のある「ごっこ」が無意味とわかってきたのは、国民が「成長」してきたからともいえる。
それが、「ネット情報」を源にする、「情報源」の拡大による効果だ。

だから、政府は、国民が賢くなって成長されることを嫌がるのである。
幸か不幸か、最高学府に「入学するまで」猛勉強して、とうとう「エリート国家公務員」になったら、日常業務に忙殺されて過去の知的資産を食い潰すだけになる。

一方で国民は、最高学府に入学するまでの勉強は適当でも、その後も勉強を続けないと、民間では生き残れない。
それで、従前は企業内知識人で終わったけれど、ネット環境がこれを激変させてしまったのである。

これが、国民国家を「いい意味で」壊している。

つまり、本来の国民国家とするための動きが「はじまった」と解することができるのだ。

しかし、国家は「抵抗」する。
アメリカバイデン政権は、なんと「国土安全保障省」のなかに、「誤情報統治委員会」を設立すると発表した。
初代委員長は、これまで「誤情報を発信し続けた専門家」を選んだ。

なんだかよくわからない組織だけど、アメリカ人でも『1984年』を読んだことがあるひとは、「真理省」の創設だと即座に反発する反応を示している。

11月の中間選挙に向けた、バイデン政権の自暴自棄・自爆的な政策ではないのか?とおもえば、選挙によるレームダック政権になることが、いっそう期待されるのである。

わが国は、そこまでの「先進国」ではなくて、「過去の負債」を清算しないと、「次」に進めない。

それが、今年、はじまっているのである。

「維新の会」のちょとした内紛

4月29日、国会議員を擁する「公党」たる政党の党首に、どうしたわけかSNSを介した「公開情報」として、組織内部での「パワハラ」なる問題を、直訴した地方議員がいると「ニュース」になっている。

ことの詳細には触れないが、ことの「構造」は、以下のとおりとなっている。
・この政党の「県・選挙対策責任者」たる衆議院議員から、
・今夏の参議院選挙立候補予定者たる、現職県議会議員を、
・本県にある市議を務める人物に、「応援」を「強要した」というもので、
・逆らえば、次期当該市議選において「別人物を公認」するという話だ。

それで、この県議を妥当な候補者だと思わないこの市議は、「パワハラ」だとして、党首に直訴した、というのが大まかな「ストーリー」である。

維新の会は、創設者といわれる橋下徹氏の、昨今の発言がなにかと物議を醸しているようだけど、わたし個人としては、ほとんど興味がない。

橋本氏に興味がないだけでなく、維新の会という政党にも興味がないからであるけれど、その理由は、「保守」を仮面とした「グローバリズム」にして、「グローバリスト」集団だからである。

ちなみに、「保守」という立場も好まない。
基準や尺度が、右往左往する「曖昧な用語」だからである。
なので、上の「保守」とは、一般的にいわれているという意味に過ぎないので念のため。

ズバリ言えば、「全体主義政党」と断定できるし、もっといえば「利権政党」だともいえる。
自民党で表現したら、旧田中派(現茂木派)よりも社会主義との親和性があって、よりグローバリズムが強い位置だということになる。

ゆえに、「親中」なのは当然だし、世界経済フォーラムやアメリカの外交評議会がいう、「グレートリセット」に近しい。
このことが、「親米的」な側面を見せるので、ロッキード事件で潰された旧田中派とは異なって、あたかも「保守」に見えるのである。

政党としての主義・思想が「いただけない」のは、もっと大きな「原因」がある。
それは、「維新」の名付け親、いまは参政党事務局長の神谷宗幣氏がいう、設立の本旨が、「大阪ベイエリア開発の利権獲得」だったことである。

それで、「後付け」で、「都構想ができた」というのは、当時、神谷氏が「内部のひと」だったゆえに知る事実で、これを各地の街頭演説で発信している。
この重要な発言に、維新からクレームがない、と氏は発言している。

つまり、「なっちゃない政党」なのだ。

実際に、ベイエリア開発は進行しているから、「大阪万博」や「IR」が終点となって、自民党に合流すると神谷氏は「予想」している。
「うまみがとれた」ら、維新という組織が「だしがら」になるからである。

しかして、この内輪の事件は、もっと興味深い、わが国の「政党」の、「非近代ぶり」を端的にあらわしていることに注目したいのである。
そして、このことは、既存の「公党」ぜんぶに適用できる「非近代ぶり」なのである。

第一に、候補者を選ぶ、という手続きが不明瞭ということだ。
「近代政党」ならば、党内で候補者を選ぶ「予備選挙」をおこなうのが「ふつう」なのである。

第二に、党内予備選挙に立候補するときに、さまざまな「身体検査」を、党員が決めたルールでおこなうことも、付随した「手続き」になる。

第三に、予備選の候補者とは「党員」からの「互選」となることを意味する。
維新の会には3万人ほどの党員がいるけれど、自民党の「後援会組織」とおなじ構造のため、党員は近代政党の党員とはいえないから、発言権はない。

この「互選」を無視したのが、アメリカ民主党の大統領選予備選挙だった。
党員ではない、バーニー・サンダース氏が「辞退」しなければ、民主党大統領候補になっているところだった。
しかし、どうして彼が予備選挙に参加できたのか?がある。

現代日本もアメリカ民主党も、「公党組織」におけるこのような「お粗末」が、「常識」なのである。
民主党は「堕落」したといえるけど、わが国側は一度も「制度化」されていない。

なお、「近代政党」に近しい、公明党と共産党は、組織はあっても「選挙がない」という、非民主ぶりを「体質」として内在させていて、これを変えると組織がもたない脆弱性が「泣き所」になっている。
これを一般に、「独裁体制」という。

そんなわけで、今回の市議会議員からの「パワハラ被害」の訴えとは、自分が属する組織が、「非」近代政党である、という「前提」を無視しているお粗末に聞こえるのも確かなのである。

なぜならば、この現職市議会議員だって、党内予備選挙を経て公職に立候補し、当選した、という手順になって「いない」はずだからである。
すると、なんだか、「子供じみている訴え」なのである。

自分は「正しい」のに、これを上が無視して命令し、あげくに「脅す」のはパワハラだ、といいたくなる気持はわかるが、組織人としてかんがえ、訴えるべきは、「そこではなくて」近代政党として脱皮することなのである。

しかして、「保守系」言論人は、維新の会が参議院選挙でも「躍進」して、「野党第一党」になるのでは?との、プロパガンダ、あるいは「希望的観測」を流している。

こんな予測は、有権者を誤誘導するので、有害である。

上に書いたように、この政党の邪悪さは、自民党より酷いのである。
正義感は強いけど、おつむが弱いこの市議は、次期選挙に「公認」されないかもしれないけれど、それならそれで、ひとりでも立てばいいのである。

そんなに維新の会にいたい理由はなにか?とききたいのであった。

おまけとしていえば、上記の神谷宗幣氏がつくった、「参政党」は、わが国で「最初」となる、本格的近代政党である。
今夏の参議院選挙で議席をとれば、それだけでも、政界の「近代化」になるので注目している。

メーデーをやめる労働運動妄想

昨年暮れに公開された映画『マトリックス』が、あんがいと「難解」なのにもかかわらず、あいかわらずの人気であった。
第一作が1999年だったから、シリーズの「息の長さ」にも驚く。

そもそもが、「現実世界」と「バーチャル世界」という二つの世界を、行き来して、バーチャル世界を支配するコンピュータと人間の闘いを描いたものだが、コンピュータの「プログラム」を作ったもの(ひとりの人間)が、究極の支配者であった。

すなわち、二つの世界全体をデザインする、ということを「アーキテクチャ:構造」と呼んだのである。

すると、レビ・ストロースが中心となった、「構造主義」がヨーロッパからアメリカに伝播して、それが本作の「物語設計」の骨格を作ったともいえそうだ。

レビ・ストロースは、「神話の構造」を分析してみせたが、「構造から神話」をつくったのがこの映画だったといえる。

第一作で主人公「ネオ」の人生を変えた「分岐点」を印象づけ・それが能動的なものであると強調したのが、あんまり飲み込みたいとは思えない大きさと色合いの、「赤いカプセルと青いカプセルの選択」場面だ。

「現実世界」に「目覚める」効能がある、赤いカプセルを、劇中では「赤いピル」と表現していた。
そして、いままで通りの「深い眠り」でいられる効能があるのは、「青いピル」であるから、これを選べば、この選択をしたことも忘れる。

しかして物語は、主人公が「赤いピル」を選択したことでの、想像を絶する展開をみせるのであった。
それもこれも、「自分で選んだ」ということに端を発するから、人生は見事な「自己責任」だという常識が前提に組み込まれている。

ここに、本来の「個人主義」がある。
ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。
その間の人生は、個人と個人の「つながり」が網のようにできている。
「自分勝手」とか「ひとりよがり」が、「個人主義」ではない。

しかしながら、発展しすぎた近代文明社会の、とくに自由主義先進国で一般的となった、「なんとなく生きている」という「ふつう」からしたら、「赤いピル」を選ぶという行為自体が、もはや「英雄伝」になる。

別にいえば、「なんとなく」でも生きていけるから、贅沢にも不安になるのだ。
「食う」ことが先決だった人類史が行きついた、逆説世界なのである。

また、そうではない、途上国における、たとえば「貧困」に生まれたら、どこにも「選択肢もない」という冷厳な事実がかんたんに予想できるようにもなっている。

そして、「グレート・リセット」を、堂々と標榜して、その趣旨である、あたかも「優生学」的な、富豪による人民支配を理想とした政治活動が、リアルな世界で計画・実行されていることすら、「知らないひと」・「信じないひと」対「気づいたひと」という構造ができている。

公開されたホームページに「書いてある」から、みないひとが悪い、という状態は、あたかも、国民への周知徹底を条約締結国に義務化した、(戦時における文民の保護に関する)「ジュネーブ4条約」を、締結国であるわが国では、防衛省のホームページをみにいかないとわからないのとおなじだ。

不毛の「専守防衛」論とおなじく、この4条約を国民に政府が積極的に知らしめることも、「戦争を受け入れる」と解する、残念な思考構造のひとたちからの批判を、面倒くさいがために、国民全体への周知徹底を積極的にしない、と決めたにちがいない。

よって、日本国民は、戦時における文民の保護に関する国際ルールを知らない。
ウクライナ大統領が、自国民に向けて発した「命令」は、民間人が戦闘に加わるようにしたから、完全に「このルール違反」なのである。

すると、対する敵国軍隊によって、自国民間人が殺戮されても、「国際法」は、文句をいえないことになっている。
そんな状態の国に、日本人善男善女がさまざまな「支援」をするのは、敵国認定されても文句はいえない、戦争加担行為なのである。

しかるに、統治能力を失った日本国政府は、国民にこの「危険」を知らせないから、確信犯だといえる。

さてそれで、今日はメーデーだ。

はじまりは、ソ連でも毛沢東の中国でもない。
1886年(明治19年)に、アメリカはシカゴで行われた「統一ストライキ」であった。

ちなみに、ロシア革命へとつながる「2月革命」は、1917年(大正6年)のことである。
日本では、1920年(大正9年)に、上野公園で開催されたのをはじまりとするから、ロシア革命「後」にあたる。

果たして、さまざまなことが「仕組まれている」とばれてきたのが、「コロナ後」のいま、なのである。
欧米でほとんど「収束」し、各種規制もほとんど撤廃されているのに、なぜかわが国では「2類のまま」放置されているけど。

それで、ロシア革命さえも、西側大富豪による資金提供なくして達成できなかったことも、「史実」としてみえてきた。
彼らの「サジ加減」で、さまざまな「ストーリー」が計画されて、実行される。

「本家本元」の、カール・マルクスさえ、この大富豪の家系にあることも発表されて、ぜんぜん「貧困にあえいで」なんかいなかった。
むしろ、「書かされた」といっても過言ではないほどなのである。

すると、「赤いピル」を飲んだつもりになってみたら、労働者と資本家は、ほんとうに「対立する構造」にあるのか?という、大問題が浮かび上がるのである。

そうやってみると、「労使双方」ともが、「対立しているもの」と思いこまされていないか?
とくに、失われた30年を振り返れば、従業員から昇格するわが国の企業経営者が、強く「思いこんでいる」ふしがある。

そんなひとたちが、「労使協調」を臆面もなく口にするのは、いったい新入社員時からの「組合員」として、どんな教育を労組がやったのか?

双方で、おおいに反省すべきなのである。

そして、双方共通の「敵」とは、金融(=虚業)資本主義という、外部の第三者が、実業を支配することができるようになった(した)、株式取得を中心とした「構造」にこそあることに気づかないと、はなしにならない。

こんな話を、メーデーにしてほしいものである。

「主権回復の日」だってさ

4月28日は、わが国が「主権回復」をした「という日」だと、いわれている。

もちろん、「サンフランシスコ講和条約」が「発効した日」にあたるから、これだけをみれば、国際法上での「主権を回復した」ことになるけれど、「同日」、自動的に「日米安全保障条約」も「発効した日」になるので、なんだかよくわからない。

さいしょの安保条約第3条に基づくのが、「日米行政協定」で、その後の60年に締結した安保条約第6条に基づくのが、悪名高き不平等条約の証拠となる「日米地位協定」である。

戦争の終結については、1945年8月15日が、「終戦記念日」となっていて、日本人の一部はこの日をもって、「敗戦記念日」というひともいる。
しかし、15日は、天皇による「ポツダム宣言の受諾」と同時に「停戦命令」をしたのである。

よって、「終戦の日」とは国際法上は、「降伏文書」に「調印した」9月2日である。

なお上でいう「天皇」とは、「大元帥陛下」のことをいう。
すなわち、大日本帝国陸海軍の最高司令官としての命令発出である。

ちなみに、「帝国(ラテン語の「インペリウム」が由来)」とは、複数の地域や民族に対して君臨する国家と定義する。

「大日本帝国」は、台湾(原住民族)と朝鮮(朝鮮族)、それに、樺太・千島交換条約(1875年:明治8年)があったから、「樺太アイヌ」も統治下だったし、南洋諸島も領有していた。
ゆえに、「帝国」という国名は定義通りとなる。

いまからしたら信じがたいが、わが国は「多民族国家」であった。

いまだ台湾の帰属問題があるので、岩里政男(李登輝)氏がいったように、台湾が日本領に「回復」したら、また、パラオが独立したとき(1981年)の、最初の国会「日本帰属決議」がいまだ先方では有効なことも踏まえれば、わが国は再び「帝国」の定義にあてはまる。

明治憲法(「大日本帝国憲法」)は、天皇を国家元首と定めただけでなく、軍を統帥する立場を別途定めたので、どのお立場なのか?ということを意識しないと、正確性に欠くことになる。

現憲法(「日本国憲法」)における「天皇」は、国家元首であることさえも「議論の対象」になるほどに、曖昧な書き方をわざとしているのは、改憲時の国民感情を意識したことだったにちがいない。

このブログでは何度か書いたが、「無条件降伏」ということも、わざと間違えていうことが横行して、間違えの方が正しいことになってきている。
「無条件降伏」したのは、「帝国陸海軍」のことである。

これを、「あたかも」日本国(政府)が「無条件降伏」したという「与太話」が「事実」になってきた。
占領下においても、日本国政府があったのは、日本国政府が「無条件降伏」したのでは「ない」からである。

無論、日本国政府の「上に君臨」したのは、GHQ:連合国軍総司令部なる軍事組織であった。
ゆえに、日本国政府は、「天皇の地位」を人質にされたうえ、丸腰でGHQからの命令に従わざるをえなかったのである。

ただし、そのGHQの最高司令官たる、マッカーサーを配下にしていたのは、アメリカ合衆国大統領であって、アメリカ軍組織であった。
つまるところ、マッカーサー自身も「アメリカ軍組織の一員」なのである。

日本人には戦前の天皇をも超える、巨大な権能をマッカーサーが有したから、まるで「本物の神が降臨した」と見えたけど、アメリカ合衆国大統領からしたら、ただの「軍幹部のひとりの将軍」にすぎない。

ときの大統領は、トルーマンで、二発の原爆使用も、トルーマンの「許可」をもって実行されたから、トルーマンは日本人をジェノサイドした「a.級戦犯」にほかならない。

※「A級」という表記は、原文にはなく、日本式箇条書きの「い.」「ろ.」「は.」にあたるから、「順不同」の表記法である。よって、あたかも、「a.」が「c.」よりも「重い罪」とするのは、マスコミのプロパガンダである。

なお、ルーズベルトが死去したのが1945年4月12日だったから、3月10日の「東京大空襲」は、ルーズベルトによるジェノサイドである。
トルーマンは、同年1月20日に副大統領に就任しているので、どちらにせよ責任は免れない。

戦闘の勝者が裁く「東京裁判」という「茶番劇」は、現代日本人がもっとも意識すべき歴史的重大事だけれども、その根幹に、トルーマンが被告人になることがあり得ないことにある。

また、「占領時代」についての「研究」は、いまだに日本人には「タブー」となっているから、アメリカ側の「研究」に依存している。

この不思議。

さてそれで、「ウクライナ」から見えたのは、「核の傘」そのものが「幻想」だったことである。
すると、在日米軍は、どんな目的で日本にいるのか?が、日米地位協定を並べてかんがえれば見えてくる。

すなわち、「日本占領の継続」なのである。

明治時代は、徳川幕府が結んだ「不平等条約」を撤廃させるために、一世代かかったけれども、戦後の日米での不平等条約は、70年経っても「不動」の状態にある。

一部に、この日を「国民の祝日」にすべし、という運動があるけれど、ぜんぜん「祝えない」のが実態だ。
ただゴールデンウィークの休日が1日伸びる、ということだけが、強制的に休ませないと休めない国民には、うれしいだけになるだろう。

ただし、だからといって、賃金が増えるわけでもない。

それもこれも、主権を回復して「いない」ことに遠因がある。

むしろ、この「重大な日」を祝日に「しなかった」昭和のひとたちの「想い」をかみしめるべきなのだ。
だから、主権回復を「いつかしたい」日、という「悲願」にして、これを国民議論の日にすることに意義がある。

プーチンの「石油戦略」発動

軍産複合体(軍事産業)の決算は絶好調だったアメリカで、28日、第1四半期(1~3月)の成長率は、マイナス1.4%と発表された。

軍産複合体の「代理人」としての、民主党(旧トロツキー派)政権にとって、軍産複合体以外の経済は目にないことのあらわれが、あからさまになったのである。

しかし、日本の経済紙による「解説記事」によると、貿易赤字が主たる原因で、これにインフレリスクが高まっている、とある。
つまり、FRBによる「利上げリスク」だ、と。

なんだかよくわからない「解説」になっているのは、わが国経済のリスクと、アメリカ経済のリスクが、ごっちゃ混ぜになっているからではないのか?

文章に「主語」を書かないから、ともいえるので、この記事を書いたひとは、作文能力が低い。
頭脳で描いた論理を、文章展開できないのは、優秀さの印ではあるけれど、それをふつうは「舌足らず」とか、「手抜き」とかというのである。

あるいは、読者に理解させようとする気持がなくて、自分で納得してしまえばそれでいい。
すると、新聞が、「ブログ」のような記事を印刷している、ということになる。

日本の経済紙であろうが一般紙であろうが、「マスコミ」による報道の劣化が、近年著しいものになったのは、記者それぞれの能力もあるけれど、「社の方針」という意味での「編集方針」が、劣化を促進させているとしかかんがえられない。

つまり、「わざと」だ。

すると、まともな読者は購買意欲をなくすので、宅配契約を解除するだろうから、発行部数が減る。
発行部数が減ると、広告料をとれなくなるので、本来ならダブルパンチになって、新聞社の経営を圧迫する。

だから、「経営」を優先させる経営者なら、売れる記事を出さないといけないから、そのための「編集方針」にするはずだけど、これを「しない」のは、売れなくともよい、という発想があるからとしか思えない。

どんな場合でも、経済原則が働くので、賃金をはじめとした労働条件が悪化するだろう新聞社に入社を希望する学生が減ってくるので、時間の問題として、コントール不能の劣化がやってくること「確実」になる。

28日には、ロシアの「エネルギー資源戦略の発動」に対して、被害を受けるヨーロッパが「脅迫」だと猛反発したことを「大見出し」にして、アメリカ大統領府は、「ロシア、エネを兵器化」と批難したと書いた。

まったくもって、一貫して、ロシア側の主張を「書かない」という、「偏向」ぶりは、情報として「学級新聞」にも劣ることが、「商業」として行われているのである。

すると、1973年の、「中東産油国による石油戦略の発動」とは、いったいどういうことだったのか?が「わかる」、というものだ。
それは、国際石油資本が産油国を焚きつけて、「大幅値上げに成功した」という意味にほかならない。

もし、ほんとうに「中東産油国だけの暴挙」ならば、西側世界への「脅迫」だとか、「石油を兵器化するな」と書いただろうからである。

ロシア側の事情がぜんぜんわかならないので、どうして「この時期」なのか?も推測になってしまう。
明らかに、ウクライナ情勢における、欧州のウクライナ支援に対抗した制裁、とはいえるけど、ならばもっと早い時期でもよかった。

「春」になってから、やった、ということの意味をかんがえるべきだろう。
すると、ロシアはヨーロッパを凍えさせる「最悪は避けた」という、ありがたいことになるのである。

大統領選挙には敗れたとはいえ、40%もの得票をした、マリーヌ・ルペン氏は、「ロシアと仲直りすべき」と主張したことの意味も、なへんにあるとみてよい。

しかして一方のヨーロッパの雄、ドイツの深刻さは、旧東ドイツ出身のメルケル氏による、「再生可能エネルギー・ファシズム」による一方的なロシア依存がほぼ完成していたからでもあるけれど、政権交代したとはいえ、現政権は「緑の党」と連立しているのである。

よって、にっちもさっちもいかない。

しかも、プーチン氏の過去の言動では、「地球温暖化は(事実であれば)、寒いロシアにとって好都合だ」という通り、このひとの「ロシア・ファースト」は本物なのである。

すると、「再生可能エネルギー」による「利権」を狙うヨーロッパ(EU)の邪悪に対する、ロシアの対抗とは、なんとわが国の産業界にも「都合がいい」ことになる。

その典型が、もはやわが国唯一の「稼ぎ」となった、「(内燃機関の)自動車産業」を、実質的に守ることになるからである。
「EV:電気自動車」とは、逆立ちしてもトヨタ(の省エネエンジン)に勝てないヨーロッパの自動車産業が仕掛けた「ルール変更」にすぎない。

それが、ドイツ車を中心として発覚した、「燃費の検査不正事件」だった。
日本人がしっている、ドイツの高級自動車から、国民車まで、ほぼ全部がこれをやったのは、トヨタ車のデータに歯が立たないからだった。

そんなわけで、ロシアの「石油戦略発動」とは、じつは、SDGsにも対抗している。

「SDGsバッジ」をスーツに付けているひとは、これが意味する「もの」と「こと」が、自然科学に合致しない「政治利用」だと気づいている「節」がない。

わたしはバカです、といっている「たわけ者」にしか、わたしには見えないのである。

「不滅」という概念

漢字表記のそのままに、滅びない、という意味である。

「滅びる」とは、絶えてなくなる、という意味だから、「不滅」には、永遠に継続する、というポジティブな意味も含まれる。
企業活動でいう、いわゆる、「ゴーイング・コンサーン:継続性の原則」も、一種の「不滅」を前提としている。

わたしの好きな映画、『不滅の恋 ベートーヴェン』(1994年)では、恋が不滅なのか、ベートーヴェンの生き様とそこから生まれた音楽が不滅なのかが掛けあわさって、「音楽」に至っては、サー・ゲオルグ・ショルティがロンドン交響楽団とサウンドトラック全曲をこの映画のために録音した豪華さもある。

音楽は作曲家の思想を表現したものだ、という説明をベートーヴェンに言わせるセリフは、そこにすでに「不滅」のタネが仕込まれている。
されど、並み以下もふくめた作曲家の楽曲全部が「不滅」になるわけでもない。

あの大バッハでさえも、歴史に埋もれて、メンデルスゾーンによる復活演奏がなかったら、いまごろどうなっているものか?
この復活演奏会の聴衆たちは、バッハの音楽をすっかり忘れたひとたちだったから、メンデルスゾーンの技倆を信じて参集した「だけ」だったとかんがえるのが妥当なのだ。

そして、その見事な演奏をして、聴衆たちはバッハの「あたらしさ」に感涙したのである。
すると、バッハの音楽さえも、いったん途切れた、という事実に、われわれはもっと注目しないといけない。

インド発祥の仏教だって、その近くのイラン発祥で人類最古のゾロアスター教の影響を受けている。
それが日本に、「大乗仏教」として伝わったけど、最初に灯したのが、「不滅の法灯」で、その灯りの「火」をもって拝んだのである。

信長の比叡山焼き討ちによって、この不滅の法灯が絶えたかどうかは知らないけれど、オリンピックの聖火のように、なにか別のものに移して保持したことも十分にかんがえられる。

前回の東京オリンピックの聖火も、いまだに灯されていて、そのための燃料を絶やさないように管理しているひとがいらっしゃる。
つまり、いったんつけた火を絶やさないことでの「不滅」とは、まことに「人為的」な行為なのである。

すると、人類=人間とは何者か?ということを「定義」しようとすると、「火を扱える動物」となる。
これが、「物理的な火」だけでなく、心のなかにも「灯す」ものがあるのが「人間」となって、他の動物を圧倒するのである。

そして、「心のなかに灯すもの」のことを、「精神」といって、「さまざまな思想を統括する」から、もはや他の動物の能力を完全に凌駕する。
この「精神」が、他の人間にも共鳴して、それが社会的な精神になると、また宗教に回帰して、それを「たましい:魂」と呼ぶのである。

すると、「魂」は世代を超える。
世代を超えるとは、時間を超えることになって、「不滅」となる可能性がでてくる。

モーツァルトやベートーヴェン本人が、いかほどに自分の作曲した音楽が、人類に共感されて、それが、「不滅」になると思って意識していたのか?
おそらくは、そんな意識はうすくて、自分のなかでの一番を「更新する」ことしかかんがえていなかったのではないか?

当時の「宮廷」における、作曲家の立場は、料理人=シェフの配下にあった。

それは、音楽とは、貴族たちの食事の「BGM」だったからである。
室内楽こそがそれで、それから大編成を要する楽曲に移行したけど、「作曲家=芸術家」という職業が社会的認知をされていたわけではなかった。

むしろ、「パトロン」という、スポンサーがいる時代の作曲家こそが芸術家になれたので、パトロンが絶滅した現代では、成功している作曲家も絶滅危惧種になっている。

すると、不滅とは「結果」であって、「原因」ではない。

しかし、人間は、自分の目の前にあるものを「不滅」だと認識する、「癖」があるから、それがおそろしく「流動的」で「うつろうもの」だと気づいたときに「愕然」とするのである。

そもそも社会そのものが、固定的だったむかしとちがって、流動的になってきたので、その「愕然」なるショックに「慣れる」ことが、ニヒリズム(虚無主義)を呼んだ。

すべては「虚無」である、とすれば、なにがあっても動じない。
けれども、それが自己の存在も否定するようになると、「漠然とした不安」になって、とうとう自殺するひとがでてくる。

いま、わが国が「先進国」といえるかどうかは疑問だらけになったけど、一応「OECDの加盟国」としてかんがえれば、「若者の死因」でわが国だけ、「自殺」がトップになっている。

この不幸の原因は、ニヒリズムの蔓延だとおもわれる。

すると、それはもう、「システム」の問題なのである。

 

上記2冊は、「日本」が先進国だったときの話だけれど、このシステムが世界に蔓延したのが、いま、である。
ならば、これは、「不滅か?」を問えば、そんな結果は用意されてはいない。

おおくの人間を不幸にして、一部が幸福になるシステムを、不滅にしたいとするひとたちがいる「だけ」なのである。
よって、「多勢に無勢」の多勢にこそ、チャンスがやってきている。

ローマ教皇の「祈り」

今月4日、バチカンでローマ教皇がウクライナ国旗を掲げて、祈りをささげた。
ブチャ事件を受けてのことである、と解説された。

由々しきことが起きたのだけど、日本メディアのウクライナ応援態勢を支える報道になったのは、まちがいない。
もちろん、わが国にはわずかなカソリックしかいないから、別段、ローマ教皇の話が「直接」日本人の心の琴線に触れることはない。

けれども、「権威」とも「世界的有名人」だらかともいえる、「教皇」のニュースは、信者としてではなくて、「えらいひとが言った」というだけで影響力を発揮するのである。

もちろん、このローマ教皇の祈りは、誰に対してのものなのか?をいえば、第一義的にはウクライナの犠牲者のため、になるのは当然だ。
ならば、きっとカソリック信者の犠牲者を指すのだろう。

しかし、ブチャのあたりは、ユダヤ人が多いのである。

ユダヤ人の定義は、「ユダヤ教を信仰するひと」なので、人種は問わない。
なぜにユダヤ人が多いのか?は、ウクライナの歴史をたどれば明確で、概ね支配地の宗教には「寛容」だった、モンゴル帝国が、唯一厳しかったのがキリスト教だった。

そこで、「国ごとユダヤ教に改宗した」ことの名残なのである。
このときの国とは、「ハザール王国」のことだ。

ここで、いわゆる「バビロン捕囚」で世界に広まった、『旧約聖書』の「民」であるユダヤ人とは、別系統のユダヤ人(教徒)ができた。
もちろん、このころの「キリスト教」も、ローマ帝国といっしょに東西に分裂していた。

西ローマ帝国の滅亡は、国教だった「ローマ教会」にとっては、最大の危機だったけど、国家の庇護を失った不幸が幸いして、独立した「教会組織」の構築に成功した。
それが、教皇をトップに置く、「ヒエラルヒー構造」だ。

「小さな政府」をモットーとする「自由主義」による統治機構の、発想の原点になっているのが、この「ローマ教会の生き残り戦略」なのである。
すなわち、その条件である、国家の庇護をなくす、ことの意義である。

この「論」には、ちゃんと「反面教師」があって、それが、東ローマ帝国とその強力な庇護下にあった「東方教会=正教」だ。
もちろん、東ローマ帝国は、分裂後さっさと崩壊・滅亡した西ローマ帝国よりも、ずっと長生きした。

独立独歩を余儀なくされたローマ教会に対して、この贅沢な国家による庇護の結果は、教会ごとに独立する、という「カタチ」にあらわれた。
すなわち、「激しく分派」して、本家本流がわからなくなったけど、国からの支援で、どこもかしこも生き残ったのであった。

それの典型を、面倒だから大雑把に、「ギリシャ正教」と「ロシア正教」といったり、「東方教会」とまとめてバッサリと呼んでいる。

ローマ帝国が東西に分裂したのは、教会の分裂でもあったので、いまだにローマカソリックと東方教会の仲は「よくない」状態で、ローマ教皇はほとんど東方教会を無視しているし、イスラムによる「ビザンチン陥落」で、ローマ教会に救援を支援しても、一切の支援がなかったこともあってか、東方教会は東方教会で、ローマ教会を逆恨みしているのである。

そんな事情からしたら、ローマ教皇が、ユダヤ教徒がたくさんいるはずのひとたちに向かって、さらに御自ら国旗を掲げて祈りをささげたことは、強烈な「政治的」メッセージに見えるのである。

教皇にこんなことをやらせたのは、誰がどんな「喜捨」をしたのか?とかんがえたくなる。

きれい事でできている「宗教団体」も、霞を食って生きているのではないから、「ご寄進」はありがたく頂戴するものである。
その額がおおいほど、「功徳もおおい」ということで、「利用」をかんがえるひとがいるのも、古今東西の歴史なのだ。

だから、宗教の価値が下がった現代でも、それを利用しようするひとがいたって、ぜんぜんおかしくない。

もちろん、戦争には、当事者双方で犠牲者がでるから、宗教としての普遍性をいうなら、「双方の犠牲者に祈りをささげる」のならわかる。
しかし、これを「しない」のは、どういう了見からか?と疑うのである。

つまり、そんな祈りの後に、「戦をやめなさい」と説教するのが、教皇としての「本筋」だといいたいのである。

紙の護摩札を「印刷」して、これを信者に強制的に売りつけて、自分たちは貴族以上の贅沢な暮らしをしていたことが、ルターの宗教改革になったのだった。

これから、ローマカソリックの凋落がはじまったのに、ローマ教皇がやったことは、その反省が微塵もない。

プーチン氏は、敬虔なるロシア正教徒を自称している。
つぎの闘いのステージは、1000年を超える西方教会と東方教会の、正統性を争うことになるかもしれない。

これを、ユダヤ人とイスラム教徒が「傍聴」することになるのだろう。

わが国は、ぜんぜんちがう立場で、不毛な争いはやめないさい、というべきだけど、そんな「宗教家」もいなくなってしまったのである。