海洋投棄に関するロンドン条約

ホテルに勤務していて、「条約」に関係する件で投資をしなければならなかったことに、この条約の締結と批准があった。

大規模な高級ホテルは、業として大量の廃棄物がでる。
その主なものは、「生ゴミ」だ。
調理の下ごしらえで廃棄されるもの、お客様が食べ残した残飯、それと作りすぎて余った料理に目がいく。

しかし、調理場からの排水に流れる細かい食材や油脂などは、グリストラップ(Grease(油) Trap(止める、罠))というマスに溜めるようになっている。
もちろん、直接公共の下水に排水してはいけないものだ。

そこで、グリストラップに溜めた汚物は、さらにこれを微生物による分解槽に送ってバイオ処理する。
この処理に用いる微生物も、特殊開発されたものなのでタダではない。
むしろ、高価といっていいだろう。

そうして分解したものは、最終的にヘドロ(汚泥)となる。
これを、定期的にバキューム・カーで吸い取って、つぎに船に乗せ替えて、12海里外の公海上に海洋投棄していた。

しかし、1996年の「議定書」によって、これができなくなった。

わが国において「発効」したのは、2006年である。
よって、発効前までに、「陸上処理」の方法を考案しなければならなくなった。
そうして、ホテル内に真空処理施設を新規設置して「焼却」可能にし、ついでにふつうの生ゴミの乾燥機も導入してゴミの総重量を削減した。

億円単位の投資であったと記憶している。

ついでにいえば、このとき、汎用コンピュータとかパソコンのOS、ウィンドウズの「2000年問題」もあったから、その対処をふくめて、えらく忙しかったのである。
誤解をおそれずにいえば、あまり生産的な投資とはいえないおカネをつかわされた感がした。

ただし、かなりはやい対応をしたので、ミレニアムの前には完了・整備済みとしたから、期限の2006年がずいぶん先におもえたものだ。
この「はやさ」については、「企業の社会的責任」ということもキーワードだった。

さて、「ロンドン条約」そのものは、1972年に採択されて、わが国では1980年に締結している。
じつはこの条約は、水銀、カドミウム、放射性廃棄物等の有害な廃棄物を「限定的」に挙げていて、これらの海洋投棄「のみ」を禁止する取り決めである。

だから、最終消費者にもっともちかいホテル業においては、関心がうすい条約だった。
ホテルが業として、水銀、カドミウム、放射性廃棄物等を廃棄するとはかんがえにくいからである。

もちろん、「厳密」さを追求すれば、食品等にふくまれる水銀やカドミウムは微量あるかもしれないけれど、もとが基準値以下なら、そのまま通過するだけのホテル業では、あえて考慮の対象にはならないはずだ。
しかし、真空処理で圧縮するので濃度が高まらないかは念のため調べて安全性を確認した。

そんなわけで、よくよくかんがえると、「条約締結」に8年も費やしたのはなぜか?問題は放射性廃棄物だと、素人でも推測できる。
水銀は水俣病、カドミウムはイタイイタイ病の原因物質で、わが国としては苦い経験があったから、その規制に関しては進んでいた。

だから、消去法で「放射性廃棄物」が残るし、原子力推進の国是のなかで、「調整」に手間取ったとかんがえられる。
ちなみに、条約の窓口は外務省で、原子力発電の窓口は経産省、技術開発では科学技術庁の文部科学省と、三つ巴になっている。

最近では、これに環境省という三流省庁がくわわって、四つ巴となった。
結局のところ、福島のトリチウム水を「薄めて海洋投棄する」ことが、政府方針となったのは、環境大臣の決断による、ということにして、二流省庁の外務省と文部科学省が逃げた。

一流省庁の経産省は、そもそもが興味ない。
この省庁が「一流」なのは、科学を無視する神経をもっていて、法律が科学に優先できるという、中世錬金術師の最高峰、アグリッパも口あんぐりの主張をしてはばからないところにある。

走っているときだけ、電気自動車は二酸化炭素を排出しないから「エコ」だといったり、水素が「資源」だといったりする。
地球上に水素は水素のままで存在していないから、水素を得るには水を電気分解したりしないと得られない。

高性能充電池を作ったり、電気分解するときの電気はどこからやってくるのか?
原発の運転を止めているから、ほぼ火力発電所でえた電気だし、もっとも安価な石炭火力発電を禁止するのもどうかしている。

さて、水で薄めれば安全だ、という「屁理屈」を、コロナのごとく鵜呑みにするひとたちがいる。
1キログラムの猛毒を、たとえば100万倍に薄めて、それをぜんぶ海洋投棄したら、結局は1キログラムの猛毒をぜんぶ海に棄てたのとおなじことだと気づかないのか?

トリチウムの半減期間は、12年である。
プルトニウム239の半減期間は、2万4千年だからトリチウムは安全だというなら、もうできのわるい高校生を嗤えない。

それでもって、世界の原発はこんなに放射性物質を廃棄している、という相対論を地図付でだしてきた。

赤信号みんなで渡れば怖くない。

ぼくもう笑っちゃいます。

CNNを停波した南部三州

アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州の三州である。
正確には、「放送免許停止」だ。
理由は明確、「ウソばかりで州民に有害だから」である。
指示を出したのは、共和党の各州知事だ。

ちょっとすっきりするニュースである。
この情報を受けて、日本のテレビ全局の停波を求める多くのコメントがあるのも「民意」だろう。

放送法を管轄する総務省が、なにもしないばかりか、NHKにおもねるのだから、ここいちばん国会議員の出番なのだが、どんな報復をされるかしれないので、だんまりを決めているのか?

一部専門家に存在が疑われるウィルスが、情報電波によって「拡散」した。
これを、「テレビ・ウィルス」といって、このウィルスは風邪の症状ではなくて、脳に作用し、思考力を停止させるというおそるべき威力がある。
まさに、国民に有害なのだ。

地上波放送が停波されると、意外な影響がでる。
まず、「スカイツリー」が用なしになる。
横浜の「マリンタワー」が、灯台の役割を終えたら、だれも訪問しなくなって、観光展望台をふくめた全部の営業も停止した。

この点、「東京タワー」の頑張りは、さすがだ。
残念ながら、わたしは一度も東京タワーの展望台に上ったことがないけど。
ついでに、日本一だった横浜ランドマークタワーの展望台にも行ったことがないし、「スカイツリー」もない。

行ったことがあるのは、新宿都庁の展望台ぐらいだろうか。
都民ではないけど、往年の鈴木都政を偲ばせていただいた。

意外なのは、南部三州にテキサス州が含まれていない。
そのテキサス州では、「独立検討のための発案」が議会に提出された。
いきなり、「独立」ではなくて、「独立を検討する」ことの可否を問うている。

じつは、バイデン政権によるエネルギー政策が、連邦憲法に反したばかりか、事前にテキサス州との協議を要する事項なのに、大統領令を発令したことを連邦地裁に訴えて、これを支持する判決がでている。
すなわち、一連の選挙がらみの裁判で、これが最初に出た「原告全面勝訴」なのである。

よって、これから、連邦政府は「なんらかの対応」をしないといけないことになった。

以上は、今年、1月28日のことである。
いま、わが国では、放送法に規定のある、外国資本比率20%以下の問題で、フジテレビと日本テレビがこれを超えていたのではないか?という疑惑がひろがり、フジテレビが過去にそのような状態にあったことを認め社長が謝罪した。

なお、このたび謝罪した社長は、当時の常務であった。
監督官庁の総務省に相談したところ、すみやかなる改善指示が口頭であった、ということで社内では「おとがめなし」と判断し、安堵したという。
そこで、「すみやかに」対応して、2年ばかりかけて「解消」したのだ、と。

いまの総務大臣は、資本比率について全放送局の資本調査を指示した、とニュースにあった。
そして、法に抵触する放送局はなかった、としてこの件を一件落着させたのだった。

ところが、外国人資本比率の実態把握とは面倒なものだ。

株式の名義書換をするのか?しないのか?からはじまって、法人が保有する株式なら、その法人の外国人資本比率も考慮しないといけない。
つまり、「隠そう」とするなら、さまざまな手段があるので、「暴こう」とすると厄介なのだ。

そもそも、放送法に外国資本規制があるのは、放送の品位を保つためという理由がある。
もっといえば、一定の外国勢力に放送内容をコントロールされる(プロパガンダ:政治的宣伝工作)ことを防止する、ということだ。

それで、単純に20%に達していなければ大丈夫ともいかないのは、たとえばそれが「名義書換をしていない」状態だったなら、「書き換えてしまうぞ」という一言がたちまち「脅し文句」になってしまうからである。
なので、「実態把握」は面倒なのである。

そうかんがえると、放送局で株式を担当する総務部門の重要性は、社の存続にかかわる重大事である。
そんなわけで、放送局の資本規制のため上場をやめさせるべきだという意見もある。

しかし、非上場にしたらしたで、どうやって管理するのか?についてがなければ、かえって闇のなかにはいってしまう。
日本が小国であったなら、外国資本が触手をのばすこともないだろうから、条件が変わったという意味での「制度疲労」のひとつとなっている。

しかも、国家としての「意志がない国」になったから、大臣だけでなく内閣も、与党も、対応ができないのだ。
企業でいえば、「経営理念」が陳腐化してしまった状態だ。
これこそ、すみやかに書きかえる必要がある。

すると、それは、「憲法」ということになる。

かつて、明治憲法を「不磨の大典」として破滅したことをわすれて、新憲法をふたたび「不磨の大典」扱いすることの愚。
さらに、「近代民主主義憲法」と「十七条憲法」を同列にあつかう愚。
まことに、歴史を忘れた国民に未来はない、のである。

CNNを停波した南部三州がどんな歴史の州なのか?
日本人が学ぶべき点は、ここにある。

子ども中心の人身売買?

あまりにも衝撃的な情報があったので書きとめることにした。
テーマがテーマだけに、よいはなしではなく、気分を害するばあいもあるとおもわれるので、注意されたい。

学校で習う「世界史」や「日本史」では、なかなかでてこないテーマである。

世界史だと、「奴隷」が登場するのは、ギリシャ・ローマ時代のはなしだから、あんがいと早くからあって、アメリカの南北戦争で終止符を打ったことになっている。
しかし、日本史ではめったにでてこない。

ギリシャ哲学が現代人にも影響をあたえつづけるほどに発達したのは、1割の市民とそれ以外の奴隷がいたからだといわれている。
ようは、市民=有閑階級だから、じぶんで労働なんぞ一切しないで、はたらく者は奴隷しかいない社会であった。

暇を持てあまして哲学をしていた。
そうでない市民階級のひとたちは、現代人とかわらずに「遊んで暮らす」という選択をする。
プラトンの傑作『饗宴』は、読みようによっては「変」である。

それに、ギリシャ美術(彫刻や陶器の図柄など)も、あからさまな性表現がふつうにある。
アテネ旧市街のプラカ地区に軒を連ねるみやげもの店には、子どもに説明できないさまざまな形態で「動かせる」キーホルダーが店先にズラッと並んでいる。

肌の色が身分に関係なかったのは、「戦利品」という価値観があったからである。
都市国家間で戦争をして、負けた側は勝ったものたちの奴隷となるのがふつうだからである。

もっとも、ギリシャ神話の最高神ゼウスが、動物に化けて美少年をさらおうとしたし、ギリシャの影響をつよく受けたローマでも、市民階級はきわどい生活をしていたと、ポンペイの遺跡が語っている。
評価がわかれる映画『カリギュラ』(1980年)は、第三代ローマ皇帝の「史実」を看板としている。

そんなわけで、「労働=苦」という発想をして、遊んで暮らしたい、あるいは、遊んで暮らすことを人生の目標にする、というのは、欧米人の伝統的価値観になっている。
それで、遊んで暮らすことができたひとを、「勝ち組」という。

これがわが国に輸入されたのは、バブル期の狂乱とその後の、リーマン・ショック直前の金融バブル期だった。
年収の高さだけをもって、人間の価値を決めるという発想が日本人に刷り込まれたのは、まさしく悲劇的なことである。

日本という島国の特異性は、古くからの「原始共産主義」が残存していることにある。
みんなで働くこと=人生の喜び、という発想を日本人以外では「しない」ものなのである。

和を以て貴しとなす(604年)、というのは、原始共産制への追認だ。

歴史的に、外国の制度を真似て失敗したのは、「律令制」の導入だった。
飛鳥時代の「班田収授の法」(646年)による「口分田」とは、すべての土地を国家所有とする、「マルクス主義の共産主義」であって、これは原始共産主義とは似て非なるものだ。

ここで、わが国にも「良民」と「賤民」が登場し、賤民のうち「官戸・公奴婢 (くぬひ)」 には良民と同額の、「家人・私奴婢」には良民の3分1を支給したとして、「身分」が登場する。
公奴婢と私奴婢とは、どういうひとたちか?

けれどもすぐにほころびて、「三世一身の法」(723年)、「墾田永年私財法」(743年)が登場する。
収穫にも課税したので、喰えないひとたちが逃げ出してしまったのである。
つまり、大化の改新(645年)の改革は、わずか100年で崩壊したのである。

オリジナルの大陸では、律令制の崩壊は王朝の崩壊になったけど、わが国では、外敵がいないのでダラダラと惰性的につづく。
このあたりも、現代に似ているのである。

秀吉が九州征伐にいって「バテレン追放令」(1587年)をだしたのは、ポルトガル人宣教師たちが同国商人たちと結託して、キリシタン大名の領地から「日本人奴隷輸出」をしていることが発覚したからである。

なお、日本にポルトガルがやってきたのにスペインがこなかったのは、ローマ教皇が承認した、トルデシリャス条約(1494年)の「新世界」における「境界線」を取り決めたことによる。
ブラジルとおなじ扱いだし、向こうの都合ではわが国も「新世界」だった。

さてそれで、世界にはさまざまなはなしがあるなかで、キリスト教発祥の地とヨーロッパの一部にも、「食人(カリバニズム)」が確認されている。
なかでも、スペイン北部のアタプエルカ遺跡では、最古のヨーロッパ人が子どもを好んで食べていたことがわかった。

げに恐ろしきことである。

今年、アメリカの新政権は、どういうわけか国境を開いて、移民を大量に受け入れている。
そして、なぜか両親がいない、子どもだけの移民が多数いるのだ。
この子たちが、国境の施設で性的虐待を受けていると、アムネスティが発表し議会に調査を要求した。

また、移民受け入れに熱心なアメリカ民主党からも、異論と曝露があった。
「保護施設を再開し、わたしたちに女の子を送ってください」と現職大統領から指示されたことを黒人女性議員がぶちまけた。

トランプ政権が、児童保護に熱心だったのとは正反対だ。
全米で、1年に10万人の児童が行方不明になっていたのは、大規模な人身売買組織の存在があるといわれている。

わが国では、警察庁のHPに行方不明者の推移が掲載されているけど、詳細はよくわからない。
ただし、令和元年度で、9歳までと10代あわせた「原因・動機」のうち、「その他」が、4000人をこえている。

これも、豊かさ、なのだとすれば、豊かさとはなにか?をもっとかんがえていい。

同性婚と「戸籍」

日本人なら戸籍があるのがふつうなので、戸籍がない国があるときくと不思議におもう。
ところが、世界広しといえども「戸籍」がある国が珍しいので、わが国はまちがいなく「小数派」である。

では、わが国以外で戸籍があるのはどこか?といえば、じつは「中華民国(台湾)」しかない。
韓国は、2007年12月31日までは「あった」ので、一応かつての「大日本帝国」にしか戸籍はない、ということになる。

ちなみに、わが国の戸籍も戦後に変更されていて、「家主制度」はなくなった。
いわゆる、「家長」のことである。
それで、「公証制度」としての戸籍になった。

役所が証明してくれる、という意味の「公証」なので、戸籍をみれば家族のなかの位置づけがわかるようになっている。
つまり、「戸籍制度」の賛否とは、「家族制度」のはなしに直結する議論になる。

賛成派と反対派があって、あんがいと中間派(≒無関心、判断できない)も多数ある。
この意味で、賛成派はだいたい「保守派」、反対派はだいたい「進歩派」ということになる。

けれども、中間派のなかの「判断できない」というひとたちがわかりやすいのは、さほどに戸籍とはなにか?をふだんかんがえたことがないし、よくわからない、ということが本音にあるからだろう。
正直さがみえてくる。

さて、公証としての便利さはどこにあるのか?
じつは、本人死亡後の「相続手続き」にあるといっても過言ではない。
本人の出生(両親はだれか?兄弟姉妹は存在するか?妻はだれか?子どもはいるか?)から一生を追って、相続人の特定ができるのである。

家系図をイメージすれば、上下左右がみえてくる。
両親の兄弟とか従兄弟とかから、妻の兄弟とか甥姪とかだ。

外国にどうして戸籍制度がないのか?
世俗と教会での管理体系のはなしと、事務処理のストイックさの有無ではないのか?とかんがえる。
教会は「信者」を管理しないといけない。

それで、信者の出生から死亡までの一生が教会の管理になれば、世俗の方では徴税にかかわる管理になって、事務範囲がそれぞれに犯さざる分野としてきまるし、ぜんぶをひっくるめて管理することを、事務能力として限界を悟ったかもしれない。

くわえて、産業が農業中心だったので、土地の管理がひとの管理になった。
ヨーロッパの「農奴(serf)」は、この典型だろう。
人身売買の対象だった、「奴隷(slave)」とは区別する。

わが国だって、寺院には「過去帳」がある。
その寺院を管理した寺社奉行とは、宗教管理だから、人心と直結する重職だったのは当然だ。
もちろん、江戸時代のわが国は、大農業国家であった。

宗教が強い権威をもつ国では、宗教大臣がいる。
たとえば、エジプトは憲法でイスラムを「国教」としてさだめている。
憲法を遵守しなければならないのは、ぜんぶの公務中の公務員なので、イスラム教にしたがった行政がおこなわれている。

すると、戸籍にあたる、両親や本人の出生から死亡までの記録は、居住地域に属するモスクで管理している。
だから、どこのだれべいという証明はモスクにいって発行してもらい、それをこんどは役所にいって手続きすれば、パスポートの発給がされたりする。

もちろん、婚約から結婚などの手続きも、儀式とともにモスクでする。
婚約なら「婚約(結婚予約)契約書」をモスクの管理人=証人の署名もつけて交わし、結婚式では「結婚契約書」を交わす。
モスクはこれを管理する。

ちなみに、婚約のときの重大事項は、「離婚権の設定」である。
結婚予約契約書には、新郎新婦のどちらかが、この権利を保有すると明記され、将来の離婚申立の権利者がきまる。
だから、この権利を得るべく、新郎新婦双方の親ががんばって交渉するのだ。

生活上でのトラブルは、そのほとんどが「イスラム裁判所」で裁かれる。
「三審制」はあるけれど、イスラム裁判所は一審制だ。
さほどに、権威が高い。
法典は、とうぜんに「シャリーア(イスラム法)」である。

さてそれで、世界の「基準」をゆるがしているのが「同性婚」だ。
子孫ができないことを前提にする、同性婚は戸籍制度となじまない。
しかしながら、男女を基本とする伝統的宗教ともなじまない。

世界で推進しているひとたちは、宗教離れができたひとになるのである。
これは、キリスト教に顕著だ。
近代は、キリスト教の否定から生まれたともいえる。
それが、あたらしい宗教としての「科学信仰」だった。

しかして昨今の、「アンチ科学」が迷走を生んでいる。
よりどころとなる思想が、グルッと回ってルソーにもどっているかにみえる。
このことの危険性は、重大なはずなのに。

ルソーの狂気が、まともにみえるなら、それは、「破滅」だ。

もしや、現代の栄養不足が、人間の脳を破壊していないか?
脳が正常に作動しないのは、ミネラル不足という説がある。
いまの食品には、驚くほどにミネラルが含まれていない。
それは、土壌の貧困が原因なのだ。

社会の制度は、人間の脳がつくりだす。
戸籍の議論は、戸籍の議論だけをしても意味はない。

電話局に通話を切断される

電話局に契約関係の電話をしたら、回線が混み合っていることを理由に通話を切断されることがある。

ようは、受け入れ回線数が足りないのである。
なんだか、発電所の「全電源喪失」のような、マヌケさがある。

電話接続については、1900年代の初頭に、自動交換機の設計のため「待ち行列理論の研究」がはじまっていて、第二次大戦中に「完成」している。
アメリカ人は、戦争をしながら「行列で待たせない研究」をやって、これをおわらせていた。

日本では、ようやく、30年ほど前に、公衆電話や銀行のCD機の「並ばせ方」ができてきて、以前とはちがって待ち時間が減ったけど、このことが「待ち行列理論」の具体的応用なのである。
つまり、アメリカの研究終了から40年後になって日本で実行されたのである。

これをどうかんがえるか?
気の利いた日本人学者が、輸入したのだ、ということにちがいはなかろうけど、なぜに40年遅れなのか?の答にはなっていない。
だれもいわないのは、いうと困る「大学者」が誰かわかってしまうからだろう。

日本の学者の「象牙の塔」ぶりは、現実のビジネスなどで役立つ研究を「下にみる」傾向があるからで、なるべく現実の役に立たない研究が「高尚」とされる悪い風習のためだ。
なので、易しいことを難しく書く。

窓口が一つと、二つとでは、窓口の数が倍だから、その効果も倍になるとかんがえるのがふつうだろう。
しかし、これを実験で確かめると、倍以上の効果があることがわかる。

その要素となるのが、一人一人の処理能力と、新たにやってくるひとの並ぶタイミングによる。
だから、窓口を処理能力がおなじ自動機械にしても、やっぱり倍以上の効果がある。

こうしたことに長けているのは、電話会社の他では、鉄道会社が典型だった。
切符の販売窓口が、ひとから自販機になっても、窓口の数をどのくらいにすると、その駅の利用客と見合うのか?を計算し、計測していた。

それが、いまではずっと高価な自動改札機の設置数に応用されている。
紙の切符と電子媒体の両方をこなす、自動改札機はあんがいと高級自動車に匹敵する買いものなのだ。
だから、駅の想定利用客数に応じて台数が選ばれる。

改札口の入口側と構内の両方に、広い空間があるのも「人間溜まり」になっていて、階段やエスカレーターなどに渋滞して危険がないように必要面積設定がされている。

だから、ピーク時の混雑にあわせて自動改札機を用意しているわけではない。
やや足りない状態を「ベスト」としているのである。
これを、「分布図」として把握する。

むかしからそのままで、改修されていない駅だと、自動切符販売機の数が当初よりずいぶん減ったことが「跡」からわかる。
何台減らすかも、分布図から計算して予測しているのである。

こうした、ひとの動きを、砂時計の砂に見立てれば、切符販売機や改札機の数が、砂時計の「くびれ」に相当する。
それに、砂時計と現実がちがうのは、一定量の砂(個々人)が、いつもあるとはかぎらないことだ。

はたとだれもいなくなったり、バスが着けば一気に混雑したりする。
だから、あんがいと細かく駅舎の設計はされている。
シミュレーションでは、一定時間帯の流入数を「乱数」を用いて何度も(少なくとも100回)計算してグラフ化するのだ。

むかしは、こうしたシミュレーションの原データをえるために、実際の現場でカウンターを押して数えることもやっていた。
いまは、個人が所有するスマホを電波で把握して、「点の動き」とすることで平面どころか立体把握ができるようになっている。

個人情報を得るものではないので、念のため。

そんなわけで、電話会社が電話の着信数を「把握できない」という事態が起きているか、しっていてもわざとオペレーターの数を減らして、問い合わせに応じられないようにしているとしかおもえない。

わが国民の資産を体よく盗んで「民営化」した会社は、かつての「電話債権」も返還せずに盗み取っているのに、利用客からの電話通話を一方的に切断するのはどういう神経か?

サービス業として、ありえない対応である。

しかも、20分ほどの時間、利用客は受話器を耳に押しつけて、なにもせずに黙って待っているのだ。
だったら、かけ直させるのではなく、電話局からかけ直すのが「筋」というものだ。

支払内容についての問い合わせでは、クレジットカード番号の入力までさせておいて時間切れで切られたこともある。
もちろん、自宅電話番号も入力させられてのうえのことである。

国会議員が生活者ではないから、自分で電話会社に問い合わせることもないだろう。
わが国の生産性があがらないのは、電話局の生産性向上ではなく、利用客の待ち時間を減らすことだと気づかない浮世離れの御仁たちが議員だからだ。

総務省の役人がどうのと依存してもはじまらない。
お願いしますよ。

「花祭り」をやり過ごす仏教国

明日、4月8日は、「花祭り」。
しかしながら、わが国では、とくだんなにも話題にならない。
お釈迦様の誕生日を、一般人が大々的に祝わない。
国民の多くが、「仏教徒」ということになっているのに、どういうわけか?

ときは、いまから2600年以上まえにさかのぼる。
詳しくはわかっていないので、3000年前という説もある。
なんにせよ、まちがいなく「キリスト教」より古い。
イエスの誕生をもって、「西暦」がはじまっている。

言葉では、インド・ヨーロッパ語族があるように、インドとヨーロッパは同系の言葉を用いているので、飛行機も自動車もない時代に、深い交流があったことの証拠である。
国連が採用する6つの公用語のうち、この語族に「含まれない」のは、中国語とアラビア語だ。

つまり、「英語」、「フランス語」、「ロシア語」、「スペイン語」が、インド・ヨーロッパ語族にあたる。
もっといえば、「ギリシャ語」、「ラテン語」もそうなので、「イタリア語」に「ポルトガル語」や「ドイツ語」もだし、ほぼアラビア文字をつかうイランの「ペルシャ語」も仲間である。

源流が不明のわが「日本語」は、もちろんこの系統にはない。

イエス・キリスト誕生のおり、東方の三博士がやってくるエピソードが『マタイによる福音書』にあるけれど、それはどちらから?と問えば、おおかたペルシャから、ということになっている。

古代ペルシャには、人類初の経典宗教、ゾロアスター教がうまれている。
「拝火教」として有名だけど、血縁主義をとるためにすっかり現代イランでは、イスラム教シーア派という、こちらも「預言者ムハンマド」からの血縁を重視した宗教家たちが国家を運営する国になった。

オリンピックの聖火リレーがはじまって、既定事実化もはじまった。
ギリシャのオリンピアで太陽光から火を採取する儀式の意味は、火はプロメテウスが神々の元から盗んできたものとされる、「神聖」さの象徴だからである。

前に書いたように、これは、ゾロアスター教が西に広まった痕跡であるし、極東のわが国には、「密教」儀式としての「お焚き上げ」になっている。
火によってできる、「明」と「暗」が、「善」と「悪」の二元論になったのだから、現代の人類にも多大な影響をのこしているのである。

そんなわけで、仏教の影響はキリスト教にも波及したのは、その古さからすれば当然である。
そして、後からやってきたキリスト教の影響も仏教は受けるから、われわれは入り交じった状態を「常態」だとおもっている。

葛飾は江戸ではなかった。
そこに、寅さんゆかりの「帝釈天」がある。
しかし、柴又は帝釈天の門前町だから、おいちゃんの団子屋が商売できた。
その帝釈天の境内に、付属のルンビニー幼稚園がある。

ルンビニーとは、お釈迦様生誕の地をいう。
いまはネパールにある村で、当時は「ルンビニーの花園」といわれた。
出産のため実家へ帰る途中、ここで生まれた。
そして、母の摩耶夫人(まやぶにん)は、7日後に滅している。

誕生してすぐ、立ち上がって指を上下に指し示して、「天上天下唯我独尊」と述べたとある。
すると、実母との死別は、この言の後ということである。

もちろん、漢字での記述は後世、中国に伝来してからのものだ。

釈迦にとっても、人間だれでも、生母なくしてこの世に存在しないけど、その生母は、はげしい「陣痛」をともなって出産するのが、動物として延々と繰り返してきている人間のいとなみである。
これをしみじみ、「臨生受苦の恩」という。

だれしも母に頭が上がらない、最大の理由がこれだ。

そして、はなはだ誤解されているのが、「唯我独尊」の意味である。
キーとなるのは、「我」という字にある。
漢字に翻訳された経典で、釈迦が自身のことを指すときは、「吾」の字をつかう。
すると、この「我」とは誰か?

「我々」のことである。
ようは、「人間」のことを指す。
では、「独尊」とはなんのことか?
「尊」には、「崇高な尊い使命」という意味がこめられている。

これに、「独」=「ひとつ」というのだから、たったひとつの使命・目的が人間にはある、という意味である。
独りよがりで、自分はえらいのだ、というのが、はなはだしい誤解であることがわかる。

さらに、「天上天下」とは、宇宙のことだ。
宇宙でのたったひとつの目的を人間はそれぞれ平等にもっている、ということになる。

もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんが立ち上がって言った、という史実はないだろうけど、そういう教えを生涯にわたって貫いた、といえば、かくいう伝説があって不思議はない。

千年にひとり、万年にひとり、というひとが出てくることは、あり得ることだ。

ルンビニーの花園だから、「花祭り」なのである。
たまには、仏教徒になってみてもバチはあたらない。

少数与党・枝野内閣

なかなかに興味深い発言である。

立憲民主党の枝野党首が、現政権に対して「禅譲」を呼びかけて、選挙管理内閣としての「枝野政権」を主張した。
これに、たいへんな反発をするひとたちと、苦笑しながら無視するひとたちが多数である。

たいへんな反発をするひとたちは、たいがいが「保守」を自認するひとたちで、「少数与党」ということの意味がわからん、といっている。
苦笑しながら無視するひとたちは、与党のひとたちで、自身の「多数」をもって、何をか言わんや、ということだろう。

しかし、素直にながめれば、ぜんぶの野党が「少数与党」になっているのは、「事実」である。
だから、けっして枝野氏の頭脳に異常はない。
むしろ、素直すぎて驚いてしまうのだ。

いい悪いの議論ではなく、わが国の政界も官界も、地方を基礎にピラミッド型の体系を形作っている。
市町村議員を底辺にして、都道府県議員がいて、さらに参議院議員、そして衆議院議員という構造になっている。

ほんとうは、参議院が「上院」で、衆議院が「下院」にあたるのだから、わが国の議会は、「上・下」が逆転しているという特徴がある。
「国会改革」をいうなら、議員定数や選挙区のはなしの前に、この「上・下」の正常化をしてほしいものだけど、そう思う国民の数が少数だから仕方がない。

何度も書いてきたけど、もう一つ、重要なことは、わが国に「近代政党」がないことである。
近代政党の要件とは、三つのすべてを充たすことにある。

・綱領
・組織
・議員

決定的に欠けているのが、「組織」だ。
先にいえば、犬猿の仲の「公明党」と「日本共産党」には、ここでいう「組織」があるといえばあるから、なんとかこの二党は、「近代政党らしき匂い」はある。

ただし、両党とも、組織運営にあたっての「民主主義」がない。
つまり、「政党内選挙」がなくて、なんだかわからないけど、「執行部」や「立候補者」が決まるという共通点もある。

すると、犬猿の仲の理由が明らかになる。
「似たもの同士」なのだ。
これに、支持層の共通もあるから、ヒトラーとスターリンのごとく、となるのである。

自民党の組織は、衆議院議員に当選した議員本人の「後援会」が組織といえるものなので、地元選挙区の衆議院議員を頂点に、市町村議員を手足に巻きこんだ「組織」が選挙戦を遂行することになっている。
だから、自民党本部にある、「組織運動本部」の仕事は、いわゆる「近代政党」のそれではない。

もちろん、自民党から立候補するひとは、自前で選挙をすることになっているけど、党のえらいひと(たとえば「幹事長」とか)に気に入られると、お金の支援が得られる。
しかし、地元に、党本部直結の党組織が「ない」ので、すべては「後援会」に依存する。

それで、党員という党費負担をするひともほぼいなくて、議員候補から頼まれて署名すると、党員になったことになる。
党費は、頼んだひとが負担する。
近代政党なら、自分から党費を払って党員になるので、党員それぞれが発言権を持つし、自分から組織要員に立候補もできる。

こうして、党員になる順番がちがうので、地元の党員集会も「ない」。

よって、候補者の選定に党員がかかわることも、ましてや「予備選挙」もないので、党員には関係なく「党公認候補」が決まる。
これは、市町村議員から、衆議院議員までぜんぶおなじ仕組みだから、自民党が近代政党になるという「要素がない」のである。

議員自身の「後援会」が、事実上「唯一の組織」だから、自民党のことを「自分党」というのである。

そんなわけで、地方の末端で変化が起きている。
それは、日本共産党との連携だ。
自民党と日本共産党が、地方議会で連携するというのは、ちょっと前なら「かんがえられない」ことだった。

たとえ「国政レベルではない」としても、上記のような構造があるので、国政か地方かという問題ではなく、むしろ、「足元」に異変がおきていると解した方がいい。
しょせんは、「砂上の楼閣」だから、いずれは国政レベルに波及する。

つまり、わが国の「全党」が、事実上の「翼賛体制」に突入したのである。
枝野氏のいう、「少数与党」とは、このことを指す。
だから、「枝野政権」という発想も、とくだん異常ではない。
この論法をもってすれば、「日本共産党政権」だってありうる。

ここに枝野氏が気づいているかどうかはわからないだけだ。
革マル派出身者の枝野氏からすれば、共産党への不信感のほうが、自民党への不信感より根深いのかもしれない。
いずれにせよ、そんな人物が、官房長官経験者なのである。

国民の多くが、かんがえもしない「少数与党・枝野内閣」は、少なくとも「少数与党」だけは、現実なのである。
基本政策での議論とは関係ない、花見やモリ・カケにしか至らないのは、基本政策に反対する余地がない、「与党」だと告白していたのだ。

これにだれも気づいてくれないから、とうとうはっきりものをいった、ということだ。

すると、共産党まで呑み込んだ、自民党という「怪物」をどうするのか?
ホッブスのいう、『リヴァイアサン』が、現代日本で現実になっている。
「日本」を喪失し、わるい意味で欧米化した「つけ」だとおもえば、因果応報なのである。

国民負担率66.5%の悪政

財務省が2月26日に発表した、「国民負担率」の数字は、
令和元年度(実績):44.4%
令和2年度(実績見込み):46.1%
令和3年度(見通し):44.3% となっている。

これに加えて、財政赤字を加えた「負担率」は、
令和元年度(実績):49.7%
令和2年度(実績見込み):65.5%
令和3年度(見通し):56.5% だ。

計算式は、
(租税負担+社会保障負担)÷ 国民所得(個人や企業の所得)

租税負担にNHK受信料を加えたくなったり、社会保障負担に、「持続可能エネルギー移行負担金」とかも加えたくなる。

それに、財務省は、「実績見込み」と「見通し」という、ふたつの「推計」を毎年誤魔化して、おわってみた「実績」で比較するとたいがいは「実績見込み」を上回るという、「誤報」を常習としている。
だから、「実績見込み」や「見通し」は、もっと「高い」とみていい。

もちろん、「コロナ禍」という条件における、分母の国民所得がちいさくなったので、負担率が「異常に高い」ことになったのを、さすがに誤魔化すことができなくなったことは、理解できる。
ましてや、各種「バラマキ」によって、国は借金を増やした、といいたいのだろう。

すなわち、「65.5%」発表の意味とは、近々の「増税予告」ともとれるから、警戒がひつようである。
それが、令和3年度(見通し)という、「常習誤報の推計」にあらわれている。

「44.3%」と「56.5%」
前者の方は、消費増税が10月にあった令和元年度実績(44.4%)より、0.1ポイント「低くなる推計」で、後者は、コロナ禍の最悪(65.5%)より、急速に改善するようにみせている。

「分数」のつまづきが、その後の算数・数学のつまづきとなることは、とっくにわかっている。
「工業大学」という理系の「大学」で、入学初年度教育のなかに燦然と輝く「(強制)補講」をやって、めざましい成果をあげている講義こそ、「分数」なのだ。

文部科学省という役所は、こうした大学を「モデル校認定」という、「強制制度」をつくって、全国の理系大学に、「(強制)補講」をやらせて、そのご褒美に「補助金増額」をやっている。

どうして、もっと早い時期(小学校・中学校・あるいは高校)にやらないのか?
「行政命令」としての、魅力に乏しいからである。

直接的な影響力が行使できる、大学こそが「うまみ」のある現場だ。
そして、退職しても幹部大学職員として、天下りもできるのだ。

そんなわけで、「分数」は、人生のなかで、とても重要な要素なのは、自分の人生が行政に支配されるように仕向けられるということになる最初の関門なのだ。
すると、小学校・中学校・あるいは高校で分数の補講をしないのは、やっぱり「わざと」ではないかとうたがうのである。

財務省が「常習誤報」のなかで、負担率が下がるようにみえるのは、分母が「勝手に増大する」とみているからである。
あたりまえだが、かれらの計算に、分子を小さくするという概念は存在しない。

すると、わが国は、戦国大名の時代より「悲惨」な状態にある。
最盛期に、ほぼいまの関東地方を支配したのが、小田原に居城をおく北条家だった。

秀吉による北条征伐にあたっては、「小田原評定」の恥さらしとなって歴史に残してしまう。
けれど、北条家の治政は、「4公6民」といわれ、実は税率が低かったという評価がある。

この真偽については、所説ある。
なにせ、太平の徳川時代ではなく、まだ「戦国時代」なのだ。
もちろん、「太閤検地」をするどころか、太閤になるとはおもえないから秀吉と戦ったのだ。

なので、さまざまな計算方法があって、「所説ある」のだ。
そのなかに、「およそ4公6民もありうる」という説がある。
・兵を出す農家と出さない農家で課税に差
・租税10%統一
・徳政令
だから、けっこう「細かい」のだ。

それで、おおざっぱに「4公6民」とすれば、わが国はこれを越えた「5公5民」に近づいているし、財務省がいう「借金」もくわえると、なんと「6公4民」どころではない。

この「重負担」を感じられないひとがいなくなってきた。
それで、「減税」をうったえる「政党」もちらほらと出てくるようになっている。

どういうわけか、わが国の労働組合の大集団、「連合」(日本労働組合総連合会)は、公式に立憲民主党を支持すると表明している。
けれども、立憲民主党の支持率はおおよそ「3%以下」に低迷していて、労働者の総数との乖離がすさまじい。

つまり、労働組合の一部(それも幹部の一部)しか、支持していないのに、この政党が、あいかわらず「大きな政府」を追求していて、「7公3民」をもいとわないでいられる理由だとすれば、小田原北条家を嗤えないどころか、人心はもうここにない。

その意味で、小田原方最後の抵抗勢力にして、唯一豊臣方に屈しなかった、埼玉県行田市にあった「忍城」の攻防が味わい深いのだ。
それは、城主の「人柄だけ」だったものか?
当時の農民のしたたかさは、いまよりずっと戦闘的なのだ。

現代日本人は、この悪政にどこまで耐えるのか?

道議国家の「看板」をおろす

わが国は、「道議国家」である。

なんだか聞いていると気分がよくなるので、「保守系」を自認する政治家が好んでつかう「用語」である。
でも、これってなんだ?となると、あんがいと、「厄介」な戦争の歴史をクリアしないといけなくなる。

このことが、ほんとうに厄介になったので、いわゆる、「反日左翼」の勝利なのである。
こうしたことの原因に、「戦後教育」があることはいうまでもない。

しかし、1945年に終了した戦争から、「二度と戦争して」いないままずっと「戦後」なので、「戦後教育」の「戦後」がいつのことをいうのかが、あいまいになるのである。
こういう「用語」の使い方が、意識的だから「反日左翼」は長けている。

教える方からの見かたで語ると、日教組とか教科書検定とかのはなしになって、たいていの議論が「泥沼化」して、その「泥沼化」をまた意識的にやるから、もっと「泥沼化」する。

おとなたちが、こんな「泥沼化」した論争をやっている間に、子ども達には、「反日教育」をやっているので、時間をかければかけるほど、「戦後教育」は目的を達成することができるようになっている。
15年もつづけたら、小学1年生だって大学を卒業して社会に出る。

それから、15年もつづけたら、そのひとの子どもも学校にはいって、しっかり反日教育を受けるから、「反日」の日本人がふつうになって、「親日」の日本人が異常になる。
これが「目的」だから、ダラダラと論争をしていればいいのである。

すると、よくも「保守系」が、こんな論争につきあったものだとおもうけど、「泥沼」から抜け出せないように仕向けるのが、さいしょからの作戦だから、何の事はない、作戦負けなのだ。

これを仕組んだのが、アメリカ民主党だったことは何度も書いた。
ところが、時間の流れのなかで、朝鮮動乱という不都合が発生して、わが国の供給能力がほしくなって「妥協」したら、わが国の経済発展という予期せぬ結果になってしまった。

そして、わが国発展の時期には、世界列強としての「一等国」時代を生きてきたひとたちが健在だったからこそ、「ダラダラ」と反日教育をするしかなかった。

この意味で、もっとも反日教育のショックを受けた世代は、昭和10年代生まれの「国民学校世代」となる。
昨日までつかっていた教科書が墨で消され、先生の態度がかわる。
それでもって、精神に「異常」をきたした元小学校校長を、東野英治郎が好演しているのが、『警察日記』(日活、1955年公開)だ。

こんな貧しい国が、よくも世界を相手に戦ったものだ。
しかし、わが国以外の白人列強国家群の邪悪さは、なんの反省もなくいまでもつづいている。
それで、どういうわけか、アメリカ民主党がとち狂って、黒人への逆差別をはじめて、白人が自虐をよろこんでいる。

むかしの地図を見せないのが、わが国公共放送の「内部掟」になっているようなので、清国や満州、それに蒙古やらチベットがどんなふうにあったのかがわからない。

いま話題のウイグル族のひとたちは、トルコ系のひとたちが東にやってきたのであるけど、トルコやあるいはイスラム教の国々が、あんまり発言していないようにみえる。

「ジェノサイド」という「認定」を白人列強国家群がやっているのに、わが国は、「確認できない」として静観している。
国連至上主義なのに、1951年に国連でできた「ジェノサイド条約」に加盟もしていない。

制裁要件に軍事介入があるために、憲法9条が邪魔をしている。
「確認」のための「調査能力」が、わが国にはない、と連立与党の党首(弁護士)が明言したから驚いた。
突如、外務省無能論が飛び出したのだ。

たしかに「謝謝茂木」と異名をとるひとが外務大臣だから、わからないではないけれど、野党ではなく与党なのだから、こんなヘンテコなはなしはない。
しかし、もっとヘンテコなのが野党なのである。

つまるところ、与野党ともに「反日」なのである。
基準は、戦前の日本である。

しかし、この政党の支持母体は、いちおう「宗教団体」ではなかったか?
外国といえど、信仰を否定する政府を批判しない理由はなにか?
この宗教団体が、相手国で布教をゆるされるはずもない。

こんなスキに乗じて、民間企業もおかしなふるまいをしている。
「奴隷的強制労働」が指摘される「綿花」を、つかわない、と相次いで世界ブランドが表明するなか、わが国に本社をおく企業が、積極的利用をいう不思議。

いつどこで、世界的不買運動になるやもしれず、それが、「反日運動」と一体化することもかんがえられる。

そこで、なぜか「日英同盟」の気運が、相手国「保守党」から発信されている。

さて、「道議国家」とはなんだ?
看板をおろすなら、ちゃんと発信したほうがいい。

それが、道議国家だったことへの最期の鎮魂である。

国民が持続不可能になる

電気代がまたあがる。
理由は、「持続可能エネルギー移行負担金」という名目である。
原発が止まって、値上がりしたときも「負担金」だったから、役人の「手口」に新しさはない。

レジ袋有料化が、関係省庁の「省令改正」という手口だったのは、新しかった。
縦割り行政の常識を、「やればできる」とぜんぜん褒められたものではないものの、横の連絡で実行した。

今回のは、経産省・資源エネルギー庁の「単独犯行」なので、旧態依然としている。
いちばん旧態依然としているのは、広く国民に負担を強いるものに、国会決議を要さないで済む、という国会の永続的な睡眠状態をいう。

もちろん、役人は与党の会合に出張っていって、「ご理解を得る」努力をしたはずだ。
それで「ご理解を得た」ので、法律もなにもなく、料金値上げを電力会社に命令できるのである。

どうしてこんな負担を「強いる」のか?
それは、地球環境がこわれ「たら」、経済発展どころでなくな「れば」、国民生活もなにもない、という「誇大妄想」にとらわれたひとたちが、「儲かる」という仕組みの隠れ蓑にしているからである。

だから、この「たら」とか「れば」という仮定がなくなると、「儲かる」こともなくなってしまう。
それで、世界をあげて、地球環境を守る「SDGs」が推進されることになっている。

これぞ、脅しによる「究極の貧困ビジネス」なのだ。

そして、あらゆる分野・業界で「SDGs」が推奨されるのは、その指導にあたる業務のひとも、その指導をうける企業も、「儲かる」ことを確信しているからである。

つまり、消費者である国民は、かならず「損」をすることになっている。

あらゆる分野・業界には、「虚業」もふくまれる。
すなわち、世にいう「金融系」だ。
銀行だけでなく、投資会社もこれにあたる。
そうやって、わたしたちの年金だって、「持続可能」な、「SDGs」に見合った投資先で運用されることを名分としている。

すると、大損しても、「地球環境のため」だから仕方がない、という言い分が通るかもしれない。
でも、投資先を決めるひとたちの年収が減るわけではない。
「持続可能」なのは、決めることができる「立場」なのである。

まことに、産業国家として一部のひとに都合のいいはなしなのである。
だから、科学的に立証されることをきらう。
むしろ、科学研究費を、都合のよい「推進派」にしか提供しない、という悪辣をもって、「疑念派」を追放しようとするのである。

もし、明治維新への疑念をいうなら、これを追放しようというやり方とおなじだから、たちが悪いのだ。
けれども、このやり方も役人には「経験済み」ということになる。
それを、世界が真似ている。

そして、民主主義の多数決が、悪用されているのだ。

あと80年の「22世紀」がどんなことになっているかは期待薄ではあるけれど、今頃が「分岐点だった」といわれるのかもしれない。
すると、けっこう今が「正念場」なのである。

今年生まれる子どもの数は、昨年と同様として、87万人程度だ。
「団塊」のピーク、1949年(昭和24年)は、270万人弱だった。
ほぼ1/3になったのだ。

さらに、男女比は半々なので、ざっと女の子が40万人もいない。
特殊出生率の「1」から推定すれば、この子たちの子どもは40万人よりすくない程度だと推定できる。
そして、この子たちの子どもは、女の子が20万人程度だろうから、次の世代は10万人と、20~30年周期で半減する。

もちろん、今年生まれる子が成人するときまでに、おそらくいま70代の団塊世代はこの世にいない。
老人層の死亡数と、新生児の数が、ぜんぜんあわないのである。
すると、わが国の人口はいったい何人にまで減るのか?というのが、「人口減少問題」である。

だから、日本人に限っていえば、今のままの消費水準をつづけても、前年の消費量が維持できるのかもあやしい。
なにも、資源やらの「持続可能性」とかを心配しなくていいばかりか、需要がなくなる。

消費主体である、人間が持続不可能になる可能性があるのだ。
心配すべきことの、順番が狂っている。

かつて、首相だった鳩山由紀夫氏が、「日本列島は日本人だけのものではない」と迷言をはいて糾弾されたことがあったけど、向こう100年を見据えたら、まったくの「正論」なのだ。

日本列島に棲む日本人(大和民族)が、少数民族になる可能性は、否定どころか、現状の延長なら「確実」なのである。

けだし、彼には、「それでどうする?」がなかったばかりか、「子どもは国家が育てる」という、バリバリの共産主義を是としたから、迷言となったのだ。
しかし、糾弾しただけで、国民もすぐに忘れてしまった。

わが国に、ほんものの「宗教家」がどれほどいるのかわからないけど、団塊世代の葬儀が済めば、次はすさまじい勢いでの「墓仕舞い」がやってくる。
ことここに至って、徳川以来の「檀家制度」も成りたたない。

拝むのが宗教とはいえ、死ぬばかりが収入ではつづかない。
「増やす」ための祈りを開発する、イノベーションがいるのである。