極刑と日米首脳の「うわさ」

今回は「うわさ話」である。
事実関係とはおそらくちがうので、念のため。

トップ(大統領)がやりたいことを明言しても、DS(ディープステート)の終身官僚たち(SES:Senior Executive Service)が動かなかった。
これを嘆いたのが、ジョン・ラトクリフ前情報長官に法的提出義務を課した大統領選挙における「報告書」に関する本人の「見解記事」だった。

情報長官が統括するアメリカの情報部門は、「16組織」があるといわれており、これらそれぞれの幹部にSESの官僚たちが配置されている。
政権交代で各役所の幹部職員が交替する、というのは事実だが、上級職(SES)は対象外なのである。

それで、ラトクリフ氏は、正式の「報告書」には書けかなった、自身の見解を、ウオールストリートジャーナル紙に寄稿するという、情報長官として極めて「異例」を実行して、SESにひとりで対抗したのだった。
つまり、正規の報告書には、SESの組織的サボタージュが原因で、書くべきことが書けなかった、と。

ここで彼がいう「書くべきこと」とは、外国政府の大統領選挙への関与の証拠のことをさす。
彼の無念は、そのままトランプ氏の無念でもある。
それで、ラトクリフ氏は、トランプ氏の「影の内閣」にも入閣している。

日米首脳ともに、就任後初めての首脳外交にのぞんだ。
現地16日、「共同声明」が発出された。
もはや、日本政府の「公式翻訳機関」でしかない、外務省にあっては、本声明文の日本語・英語全文がHPに掲載されているから、報道機関にだまされたくないひと(とくにビジネスにあたるひと)は、一読しておくべきだろう。

なお、この共同声明には、「別添文書」が二本付随している。
目を通すにあたっては、これら文書もわすれずに、とご注意申し上げる。
・別添文書1 日米気候パートナーシップ
・別添文書2 日米競争力・強靱性(コア)パートナーシップ

読んだうえで、報道に惑わされることなく、ご自分の読解力を信じる、ということをお勧めする。
少なくとも、環境ビジネスや日米間の経済に関係するなら、両政府ともたっぷり予算をつけるから「儲かりまっせ」という内容になっている。

政府予算に依存するビジネスをビジネスというかはしらないけれど、拒否したところで、べつの誰かがもらい受けることになる。
もちろん、両政府ともこうした民間企業の政府依存を狙っている。

そんなわけで、ぜんぜん儲からなくて損ばかりするのは、両国民の「個人」となる構造になっている。

むかしの「自由のアメリカ」だったら、経済学者も哲学者も「自由が制限される」といって一斉反発したような話だけれど、すっかり社会主義が定着した。
わが国においては、「反発」を思うひとがいなくなったのではなくて、すっかり政府依存がふつうになった。

それにしても、バイデン氏の個人的ビジネス(バイデン氏の子息と実弟)における、外国からの多額金銭授受やら、あやしい疑いのある取引の数々が、ぜんぜん捜査されていない。
そればかりか、おカネをたっぷり得たのに、「反中っぽい」のである。

もちろん、連邦議会の与党となった民主党の根強い「反中」もあるし、野党になった共和党の「反中」はいうまでもない。
ましてや、筆頭閣僚のあたらしい国務長官も「反中っぽい」のが不思議なのである。

いつどこで、「親中」の素顔をさらすのか?
いやとっくに本音がでている。
それが、「日米気候パートナーシップ」だ。
「脱炭素」による無駄金を投じて、国力を衰弱させる戦略は、「利敵行為」にほかならない。

そもそもの「脱炭素」をいうこと自体が、神経の衰弱である。

そんななか、元ファーストレディーにして、女性初の大統領候補にもなった、元国務長官が自宅で「逮捕」されて、キューバにある米軍基地に移送され「軍事裁判」にかけられて、「有罪=極刑判決」がくだされた「うわさ」がある。

罪状はさまざまあるなかで、国家反逆罪もふくまれている。

軍事裁判での有罪判決には、裁判官の多数決となるところ、この「うわさ」では、全員一致となっている。
このことが、バイデン政権本来の「極左政策」のストレートな実行を躊躇させる原因になっているかもしれない。

すると、現政権は、いったいだれが仕切っているのか?
こたえは、「軍」ということになる。
ちなみに、ここでいう「軍」とは、SESが支配する国防総省のことではなく、「軍人」の組織運営をいう。

日米の体制のちがいは決定的だが、表向きでは、現在の日米首脳はその価値観をおなじくしている。
これは、過去になかった「文字どおり」なのである。

かつてわが国左翼は、自国政権を「アメリカのポチ」と呼んでさげすんだけれど、まさかの現実は、双方に左翼政権ができたことで、もうアメリカを非難することもできなくなった。

左翼は「血を流す」ことがだいすきなので、東アジアの波は高くなるばかりだ。

頼みはもはや、アメリカ「軍」だけになったというのも「うわさ」である。

役人の頭脳が「ゆるキャラ」なのだ

「ゆるキャラ」とは、多才でしられる、みうらじゅん氏の命名である。
京都出身の誇りをもってやっていた、各寺院の仏像見学とその解説は、まさに「教養」というみごとさだった記憶があたらしい。
その仏像解説は、まさに「キャラがたつ」ものだった。

「偶像崇拝」とは、そういうものである。

それからすると、ゆるキャラの「中身のなさ」が際だつ。
なんだか「ゆる~い」感じのする着ぐるみなどを、地元の「イメージ・キャラクター」にすることが、全国的にはやって、もはや「ゆるキャラ」を設定していない自治体は皆無なのではないか?

中身のない企画が中身のない偶像を作るのだから、できあがったゆるキャラに罪はない。
むしろ、こうした偶像をつくらないではいられない、横並びの発想こそが「笑止」なのである。

「成熟した」わが国の業界人たちは、なにかと「横並び」がだいすきだ。
横並びこそに価値があると信じてもいる。
このことの「おかしさ」は、競争を放棄した「弱々しさ」や「自信のなさ」を感じざるをえないことにある。

高度成長期、『無責任男』がしでかしていた行動とは、ライバル企業をいかに出しぬくか?における、行き過ぎが非現実的だったのであって、「業界横並び」は論外か相手をだまし討ちする甘言だった。
つまり、ほんとうの非現実的状況とは、業界横並びそのものだったのだ。

こんな話が、たとえ娯楽映画でも成りたっていたのは、観客の側にも、ライバル企業を出しぬくことが常識としてあったからである。
これを、「切磋琢磨」といって、会社の意志としても容認どころか推奨していた。

この「熱さ」が、成長期の精神なのだ。

言葉として「成熟」しても、中身は「枯れた」のであった。
発想が枯れただけでなく、やる気も枯れた。
まさに「意気消沈」が社会にひろがって、とうとう「競争はよくないこと」になったのは、受験地獄の後遺症か?

だから、「不当競争防止法」にいう不当競争ではなくて、競争が不当になった。
業界あげて仲良く発展しましょう。
そうやって、業界あげて、一社の裏切りもなく沈没してしまった業界が、たとえば電機業界である。

これを仕切ったのが経産省という、日本経済の衰退を画策する役所だ。
いまでは、半導体業界が首の皮一枚になったけど、これには技術流出という深刻があって、盗まれた技術が悪用されて、わが国へ向けたミサイル部品になって還ってきそうなありさまだ。

それでも、「構造不況業種」ということばをつくって、なぐさめたから、より一層の奮起どころか、ため息とともに「沈む運命」を呪うばかりとなったのだ。
ダメな理由はおもいつくが、前向きになる理由を一言でもいおうものなら、いった本人をバカにして組織をあげて潰すのである。

そんな気分を逆なでするはずの「ゆるキャラ」なのに、やっぱり「かわいい」といって写真ネタにする。
言葉狩りを推奨するつもりは毛頭ないけど、「かわいい」だけは禁止したくなるのはわたしだけか?

もう、「子どもだまし」だといってせせら笑うおとなが絶えた。
何歳になっても子どものままでいたい、という願望は、あんがいと実現している。
まぁこれはこれで、本人には幸せなのかもしれない。

そんな基礎があるなかで、たまたま復興庁がやらかした。
あろうことか、トリチウムを「ゆるキャラ」に仕立ててしまった。
警察官僚あがりで初入閣した大臣は、平謝りさせられるはめになったのだった。

どうせやらかしたのは、役人である。
もちろん、担当の役人がゆるキャラを自分でかんがえることなどしない。
随意だろうがなんだろうが、広告会社に企画をぶん投げて、何事もなく提案どおり受け取っただけだろう。

使命感も生活感もない。
元官僚の大臣が謝ったのは、このことだ。

復興庁は、東京・霞ヶ関の中央合同庁舎第4号館にある。
この役所は、いったいどこのだれを復興させるためにあるのか?
しかも、このビルの同居人には、「原子力委員会」も入っているのだ。

復興の対象者とかけ離れた空間にいて、霞ヶ関の空気を吸っていたら、トリチウムがなにかをわすれて、なんだか「かわいい」感じがしたのだろう。
もちろん、提案した広告会社のひとだって、現地になんていく意味すらわからないから、お気軽な提案ができただけでなく、海に棄てる「安全性」の強調(プロパガンダ)が目的だから、ゆるキャラを発想したにちがいない。

国会ではなく、行政府が予算を牛耳る、じつはこの国のどこにでもある光景のひとつの場面なのだ。
「政治改革」とか「国会改革」なんて、もう半世紀も前から耳にたこができるくらいに繰り返してきたけれど、とうとう「制度疲労」も限界である。

国会議員の定数削減とかというとんちんかんではなくて、国会の予算権限強化を議論して決めてもらいたい。
かんたんにいえば、財務省主計局を国会に転籍・移転させ、財務省から主計局を廃止することだ。

しかし、こうしたことを「公約」にする政党がみつからない。
また、ひろく議論するような報道機関もみあたらない。

復興できそうにない、この国の縮図のような子どもだましの話なのである。

「まん延防止」でやること

自己の権力に陶酔して狂った知事たちに乗じて、責任をそれぞれに転嫁させたいがためという「一点」で、「まん延防止措置」という、経済破壊工作が「公共」の名の下に実行される。

われわれ国民の「やること」は、もはや従順なる子羊のようにただいわれた方向に歩いていくことではなくなった。
その方向には、「屠殺場」があるのみだからである。

こたえはひとつ、グローバルダイニング社のあとを追って、もはや損害賠償裁判に訴えるしかない。
被告は、外国人では、WHO事務局長や、アメリカ国立アレルギー感染症研究所(NIAID)のアンソニー・ファウチ所長も含めて、国内ならば、尾身会長や担当大臣、日本医師会会長などの「個人」に対しての賠償請求がのぞましい。

もちろん、これまでの放送をチェックして、各放送局に出演した「専門家」についても、個人賠償してもらうようにすることである。
このひとたちは、プロダクションに所属して、多額の出演料を報酬として得ていたのだから、その発言に責任を負うのは当然だ。

もっといえば、自由圏の全世界各国で連携した訴訟がのぞましい。

最大の争点は、感染症対策としての「感染経路遮断」にいかなる有効な施策を実施するように述べて実行したか?である。
すると、ほとんどの論者が、これに「当たらない」のである。
まったくの「デタラメ」ということだ。

そのデタラメが、基準となって施策が実行された。
自由圏なら、対象国すべてで「憲法違反」の法が執行されたことになる。
つまり、コロナ禍とは、自由圏にあるそれぞれの政府が、憲法違反を正々堂々と実行した、という「危機」のことをいうのである。

日本的解決方法の典型、「臭いものに蓋をする」というやり方で問題を先延ばしにすることができなくなってしまったのはなぜか?
それは、トイレ消臭剤のCMにあった、「元から絶たなきゃダメ!」をしなかったからである。

今般のコロナとおなじ第二類感染症には、急性灰白髄炎(ポリオ)、結核、ジフテリア、重症急性呼吸器症候群(SARS)、中東呼吸器症候群(MERS)、鳥インフルエンザは(H5N1)と、(H7N9)のふたつで、ぜんぶで7つがある。

さいきんになって、SARSの変種ではないか?という「うわさ」もあるが、いまだに「特定」も「分離」もされていない、まことに不思議な状態なのである。
このことは、驚天動地の事実だから、いったいどんな病気がはやっているのか、じつはだれにもわかっていない。

「そんなばかな」ことがおきている。

原因となる病原体の特定ができていないのに、「変異株」がみつかっていて、しかも万をこえる種類になっている不思議。

もしや、それは、もともとどこにでも存在するというコロナ・ウィルスの特性があらわれているだけのはなしではないのか?
だれもどのくらいの種類が存在するかを調べた研究が「なかった」のは、べつだん人間にも動物にも悪さをしないからだったけど、いまさら、調べてみたら、たくさん「発見」されている「だけ」なのではないのか?

ぜんぶコロナ・ウィルスだから、変異株といえば否定できない。
つまり、万とも十万とも百万ともいわれていた種類が、ただみつかっている「だけ」ということで、だからなんなのだ?ということである。
研究者として、幼児性があんまりの無邪気な行動ではないのか?

上述の、アンソニー・ファウチ博士に関しては、厳しい糾弾をジュディ・マイコヴィッツ博士が述べている。
質問者は、神父で映画監督の、ミッキー・ウィリス氏である。
「バイドール法」によって、科学者に利益相反が発生した。

詳しくは、「真相究明舎」が上げているツイッターのスレッドに、インタビュー動画が10本ある。
ぜんぶ観れば、おそるべきことがみえてくるはずだ。

すなわち、壮大な、史上初の、世界同時「茶番」であり「やらせ」なのだ。

そして、これは、「自由主義社会に自殺」をうながす、悪魔の所業だと気づくのである。
もちろん、悪魔とは、全体主義者たちであり、全体主義者とは、共産主義者をいう。

さらに驚くのは、その共産主義者が、とてつもない「金持ち」であることである。
自由主義経済の恩恵のもとで得た、莫大な「富」をもって、人びとを支配する欲求に向かってしまった。

かつての「◯◯家」たちに、一代で築いた巨大テック企業の創業者が加わり、その背後に、兆円単位を国家から盗んだ本物の共産主義者がいる。
いまや、旧共産圏が絶対的自由を堅持する側になって、西側自由主義圏が共産化の危機を迎えているのである。

30年前までの旧共産圏のひとたちには、共産時代に生きてきた怨念の記憶がまだあるからで、自由社会は真の共産社会の恐怖をしらなすぎることが原因だ。

ついでにいえば、わが国では野党なのに「保守的」とみられている、日本維新の会は、17日の党大会で「ベーシックインカム」を党是に決定し、今後の国政選挙で全面「公約」に打ち出すとした。
まさに、「共産党宣言」をしたのである。

その本拠地、大阪府の知事も市長も、「まん延防止」ばかりか、懲りずにまた「緊急事態宣言」を政府に要請するというから、大阪人にはお気の毒ではあるけれど、全国的迷惑だ。

大阪府経済を破たんさせて、甘い補助金暮らしの誘惑とは、府民を子羊ならぬ「奴隷」にする計画の実行の確信犯のことなのだ。
これに、東京都がつづく。
あたかも、グローバルダイニングからの訴えを、完全無視するという意図もあるのだろう。

府民も都民も、気づいたら是非とも、リコール運動を開始されたい。

『宇宙戦艦ヤマト』とトリチウム水

先日の15日に、「世界史に残る4月13日」というテーマで書いたことの続きである。
17日、『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介として、「トリチウムの人体への影響を軽くみてはならない」と題した内容がアップされている。

「番組紹介」ではあるけれど、46分にわたる内容はわかりやすい説明になっていて、問題の本質に迫っている。
この『ビデオニュース・ドットコム』は、「3.11」の直後からよく観ていたネットニュース解説である。

既存メディアの「偏向報道」には、さまざまな理由がかんがえられることは、やはり先般の、「コロナの次は気候である」で書いた。
わが国のばあいは、つけ加えると、「大手企業からのCM出稿」もある。
常連の広告主の事業を批判することは、「しない」からだ。

この間隙を突いたのが、会員制有料システムをとるネット上のニュース解説だ。
おなじく会員制有料システムのNHKが、まったく「公平」でも「公正」でもなくなったのは、国民の不幸としかいえない。

ゆえに、わたしの個人的意見としては、NHK改革ではなくて、雲散霧消させる解体が望ましいとかんがえている。
これには、教育テレビもふくむのは、その内容の偏りが、やっぱり視聴者たる子どもたちにも有害だからである。

さらに、解体することで、はじめて子会社企業群の実態もみえてくるはずだから、かつての「財閥解体」に酷似したことにもなるだろう。
NHKはBS放送のチャンネルを縮小すると計画しているけれど、ならばついでに民放をふくめた地上波の縮小も検討すべきだ。

もちろん、これは、総務省(旧郵政省)の縮小もともなうことはいうまでもない。
渋谷の放送センターの解体工事のスケジュールにあわせて機構の解体も実施することが、もっとも合理的である。

さて、「トリチウム水」とはいうけれど、原発由来のこの水には「他の核種」も多数ふくまれているから、単体の「トリチウム水」ということも正しくなく、誤解をまねく。
それに、これまで10年間、タンクに溜めこんだあげく、1200個もタンクをつくったのは、「そのままでは流せない」とかんがえたからである。

だから、「汚染水」とはいわずに「処理水」といえ、という主張は、おそろしく不毛で意味がないばかりか「悪質」である。
そのままでは海に流せないものを、海水で薄めたら流せるというなら、なんでも流せる。

元の量がぜんぶ放出されれば、結果的におなじだ。
しかも、政府の希釈計画では、今まで溜めこんだ量をぜんぶ流すのに、40年かかる。
トリチウムの半減期は、およそ12年だから、最後のタンクは、現在の8分の1レベルになっている。

「他の核種」が問題だから、と容易に推測できるのだ。

ところが、こうした水がどんどん出てくるのは、メルトダウンでむき出しになった核燃料を冷却するためにかける水が1日120トン必要だからということもある。
すると、これだけでも「ほぼ永遠」に水をかけ続けないといけない。

ほぼ永遠というのは、わが国の建国の歴史が、批判ある神代を含めても2600年あまりしかなく、これでは、壊れた「炉」にある、プルトニウムの半減期24000年の1割にしかならないからである。
基準値の8倍で基準値以下をめざすなら、10万年かかるはなしなのだ。

わたしたちは、10万年単位という人類誕生の歴史(3万年)の3倍以上の未来まで、水をかけ続けないといけないことをしでかしたのである。

ふり返れば、「怪しい専門家」というのはむかしからいたけれど、国民の多数が「怪しい」とおもえるだけの教養があったから、なかなか騙せなかったし、国民も騙されなかった。

しかし、いまでは、トンデモ本になっているレイチェル・カーソン『沈黙の春』(1962年)につづいて、70年代に、ローマ・クラブのドネラ・H・メドウズが書いた『成長の限界—ローマ・クラブ人類の危機レポート』(ダイヤモンド社、1972年)は、知識の分化と深化にみせかけて、人びとを「信じ込ませ」、人びとも「信じた」ことから、以来、おかしなことになった。

科学とエセ科学の区別がつきにくくなったのだ。
その意味でも、いまの中学生・高校生への正しい科学(理科)教育は、これまで以上に本人たちの一生に影響をあたえることになっている。

水素の原子量は、約1で、酸素の原子量は、約16。
だから、ふつう水の原子量は、H(水素):2、O(酸素):1だから、(1+1)+16で約18になる。
トリチウム水とは、「トリ」が3を意味するので、(3+3)+16で、この水の原子量は、約22となる。

かんたんにいえば、ふつうの水より「重い」のだ。
なので、分離できる。「沸点」も「融点」もことなるからだ。
「水から水は分離できない」という説は、うそである。
こうした説を垂れ流す害悪は、詐欺同然だから、学位があるなら学会は剥奪し、追放すべきだ。

『宇宙戦艦ヤマト』は、そもそも放射能汚染されて地上に住めなくなった人類が、「イスカンダル」という星にある、「放射能除去装置」をとりにいくために、人類の夢と希望を集結した物語だった。

1200個のタンクに貯蔵した水の、トリチウム総量は、なんとたったの「20g」なのだ。

わが国が、イスカンダルになるチャンスを放棄する決定が、「薄めて流す」ことなのである。
他国がやっているからいい、という理由は、万年単位で向き合わないといけない日本人には関係ない。

ちなみに、イスカンダルとは、アラビア語で「アレキサンダー大王」のことをいう。
各地で大王ゆかりの地名となった、「アレキサンドリア」は、「イスカンダリーア」というのである。

「ニッポン=イスカンダル計画」の実行が、未来をすくうのだ。

「トランプ影の内閣」発足

シャドウキャビネット(Shadow Cabinet)は、英国議会における野党第一党(「女王陛下の野党」とか「公式野党」という)が、与党の内閣に対して、代案を提示するために議会内に「影の閣議室」をもち、予算も配分される「正規の組織(公職)」をいう。

つまりは、野党第一党は、反対のための反対をするのではなく、「代案提出義務」を厳しく課すことで、次期政権を担うだけの準備も同時にすすめろ、という意味の仕組みになっているということだ。
二大政党制「ならでは」の制度なので、わが国では定着していない。

「影の首相」や「影の厚生労働大臣」といった、表の内閣とおなじ「影の閣僚」がいて、担当する各役所には、現職と同様の調査権限をもっている。
そうしないと、代案がつくれないからだ。
そして、「影の」=「次期」という意味と同義になっている。

選挙で野党が勝てば、ほぼ影の内閣のメンバーが全員、表の内閣でおなじ担当の閣僚に就任する。
負けた旧与党では、あらたに「影の内閣」のメンバーを選ぶこともあるし、そのままのこともある。

だから、新内閣が発足して、「初入閣」したひとが、「これから勉強します」ということはまずない。
野党時代に、影の内閣のメンバーとして「初入閣」しているからである。
こうして、議会における大臣質問・答弁も、表と影の大臣が直接火花を散らすことになっている。

これを、有権者たる国民がみているのだ。

さてそれで、アメリカ合衆国にも「影の内閣」はこれまでなかったのが不思議である。
あったのは、官僚の側の「猟官制」だった。
けれども、前に書いたように、政権が交代するたびに数千人の高級官僚が入れ替わることで「事務の連続性」が失われることの不利に気がついた。

日本の発展めざましい、カーター政権のときであった。
裏返せば、アメリカの凋落がめざましい時代であった。
そして、日米の比較をすれば、日本には強力な官僚制があったのである。
このことが、強調されすぎた。

それで、本気で焦ったアメリカは、SES(Senior Executive Service)という「猟官制の官僚に指示をくだす高級官僚制」をつくったのである。
そして、オバマ氏時代にSESメンバーを大量に情実採用したのだった。
よって、これからの「SES」が、「DS(ディープステート)の正体」だ。

すると、オリジナルの「わが国官僚制」とは、とっくに「日本型DS」になっていると想像できて、事実も実態も真実だと合点がいくのである。

これが、国民と政府の乖離が明確になってきた昨今のはっきりした状況の理由で、政権与党の及ばぬ政府となってもいる。
すると、官僚政府打倒をいう政党が、国民から強力に支持されないかぎり、わが国民生活に明るい未来はない、ということが理解できるのだ。

それでアメリカをながめると、トランプ氏というかつてないキャラクターの人物が、「前職」となったら「引退する」という慣例を完全無視して、さらに、その「財力」を背景に、自身の事務所をフロリダの別荘に設立したのは退任直後のことであった。

もちろん、このことの背景に、選挙で負けたはずがない、という信念がある。

それからすぐに、連邦議会下院小数派院内総務という有力議員が、この事務所に詣でて、来年の中間選挙にあたってのトランプ氏の共和党支持を要請し、これを快諾したばかりか、共和党が勝利して下院での過半数を奪取する旨の宣言をした。

驚くことに、大統領就任式日をこえたら、テレビの視聴率が軒並み半減し、トランプ氏の話題がないテレビの経営を直撃している。
それで、過去のひとにしたいはずのテレビが、いまだにトランプ氏の動向を報道するという、およそ「引退」とはいえない状況にもなっている。

いったんは、共和党をでて、トランプ新党発足か?という憶測が出回ったけど、ビジネスマンなりの損得勘定から、共和党をトランプ党に変容させることのメリットを選択したようである。
それで、中間選挙に向けて、各州知事と州議会へのテコ入れを急いでいる。

大統領選挙の勝敗は、州レベルでの協力が欠かせないことに痛感したからだ。

そして、とうとう、4月14日、トランプ政権の閣僚たちを招聘したあたらしい組織を立ち上げた。
その組織名は、「AFPI(アメリカ・ファスト・政策研究所)」。
予算は、2000万ドル。来年は4000万ドルにする予定だという。

本部はアーリントンだが、今後はワシントンD.C.に移転する。

かつての本国、英国の影の内閣が政府予算をえるのとちがって、トランプ氏の影の内閣は「手弁当」なのである。
研究所代表は、トランプ政権で国内政策委員会主席だった人物だし、各専門委員会の長にも閣僚たちが就任している。

いまのバイデン政権でのこのポストは、スーザン・ライス元国連大使、オバマ政権での大統領補佐官(国家安保担当)だ。
しかも、彼女が現在の「真の大統領」といわれている。

表と影の、一対一の対決構造ができあがったのである。

コロナの次は気候である

レストランでの食事中、CNNの技術主幹への質問が盗撮されていて、これがネット上で拡散されている。
話の内容が、「正直すぎて」それがまたショッキングなのである。

恐怖をあおると視聴率があがる。

この普遍的な事実をもって、放送局は「ニュースの捏造」が主たる業務へと変換されたようである。
しかし、このことは放送局をして放送局を否定することになった。
つまりは、ニュースのすべてが「政治宣伝と化した」という告白である。

ある特定の人物(個人や集団)を狙って、想像によるシナリオを書き、これを映像化して、あたかもニュースとして放送する。
受け手の視聴者は、「ニュース」として観ているので、いわゆる世論形成ができる。

しかも、そのシナリオには「憎悪」を増長させるように仕組むので、ターゲットとした人物(個人や集団)は、社会的に抹殺することができる。
これが「政治目的」なのだから、恐るべき情報操作である。
そして、仕組んだ放送局側の政治目的が達成できる。

ならば、CNNを観なければよい。
ところが、大手メディアのほとんどが、「似たり寄ったり」になってしまった。
これは一体どういうことか?

アメリカは「自由の国」なので、放送局も放送内容が自由なのである。
じっさいに「中立」という概念は、実現に困難をともなう。
「十人十色」というように、人それぞれに価値基準がちがうから、なにが中立なのかを定義することは難しい。

それで、政治的な立場を放送局がじぶんから表明して放送することになった。
すると、自然に視聴者の好みが反映されていくだろうと、「神の手」のごとくの経済原則が適用されることが期待されたのだ。

ところが、どうやら「資本の論理」がこれをゆがめた。
左派を支持する資産家たちが大株主となって、左派を支持する経営者や社員を意図的に採用すれば、たちまちにして特定の「色」に染めることができる。

歴史をふり返れば、ロシア革命(共産主義革命)の資金源は、欧米の大資本家(◯◯家や✕✕家)だった。
どうして大資本家が、革命を支持したのか?
そこには、「武器商人」としての顔があったし、革命政府の指導者たちと結託すれば、大儲けができると踏んだからである。

そして、歴史は「その通り」となった。

スイス滞在中のレーニンが、いかにして「封印列車」によってチューリッヒから、ドイツを縦断し、バルト海を越えてスカンジナビア半島のスェーデンを縦断、フィンランドを経てロシア(サンクト・ペテルブルク)に帰国できたのか?

つまり、この「ノンストップ列車」を仕立てたのはだれか?
表面上は、ロシアと敵対していたドイツ政府ということになっている。
その実態は、巨大な経済地盤をもつ、大資本家が背景にいたのである。

地獄の沙汰も金次第。

自由経済の「もろさ」がここにある。
なので、自由放任が自由経済を永続させることはない。
自由経済を永続させるには、自由を維持する仕組みがないといけない。
それが、ほんらいは「民主主義」だった。

しかし、選挙という関門を操作することで、民主主義がゆがんだ。
こうして、自由経済もゆがむはめになったのである。
以上が、アメリカの実態だ。
ならば、わが国は?

選挙がゆがんだのは、小選挙区比例代表並立制によって完成した。
1993年(平成5年)「政治改革政権」を標榜して成立した細川内閣が制定したものだ。
非自民政権が、いまの圧倒的自民政権の足場を築いた。

すなわち、「政治改革」の薄っぺらさが招いた厄災である。
無条件に、「欧米」をみならって、ただの形式主義で小選挙区制にしさえすれば、二大政党制に移行して政権交代が頻繁におきる「はずだ」という、小児のような甘い見通しによっただけでなく、比例代表並立制というきたない手を導入もした。

選挙区で落選しても、比例で当選できる。

民意は「落選」なのに、これを無視する制度は、受験における「滑り止め」の感覚そのままだ。
制度設計をした役人が、滑り止めに受かった経験があったのだろう。
これで、わが国の選挙は、候補者を選択するものから、政党を選択するものへと変容したのである。

つまり、「共産化」なのである。

一方のマスコミには、このはるか以前に、北京の意向で報道を制御されることを了承する取材協定にあたる、「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が1972年(昭和47年)に結ばれている。

報道の自由がある国と、ない国での協定が意味するところは、「制限」しかない。
長い時間をかけただけなく、相手方の経済発展(これもわが国が多大な貢献をした)によって、当方が「情報制御」の対象に陥ってしまった。

昨今の、テレビ局の放送法違反にあたる、「外国資本規制」どころの問題ではないのである。
こうして、日米の放送局は、その仕組みを別にしながらも、表層において同じ穴のムジナになったのだ。

そろそろ、視聴者たちは「コロナ報道に飽きてきた」ようだ。
次は、もっと深刻な恐怖をあおることができる、「気候変動の捏造」で視聴率をかせごう。
コロナよりずっと長期間、これで安泰が保障される。

でも、あの国はけっして非難しない。
アメリカには資本の論理が、わが国には協定があるからである。

やばい産学連携の悪夢

学者が信用できなくなった理由のひとつといわれているけれど、その「被害」の深刻さは、「自然災害並」なのである。
それを厳しく指摘しているのが、シェルドン・クリムスキー『産学連携と科学の堕落』宮田由紀夫訳(海鳴社、2006年)である。

この著作には、産業界の「儲け主義」に、大学の研究者たちが呑み込まれて、研究者たちの興味が「金銭」に変容するメカニズムがえがかれている。
そしてそれが、有名校や名門校の教授職の「権威」と結合すると、「利益相反」が発生し、組織的な堕落を生じるという。

かんたんにいえば、学内や教授がもつ研究成果をもとに起業(ベンチャー)すると、「利益」をめぐってたいがいが「壁」に衝突する。
それは、儲からないということもあるけれど、もっと深刻な「研究の誠実さ」との衝突なのである。

そして、研究者であるよりも、起業者(経営者)としての立場が優先して、ほとんどが「利益」を優先させる行動を選択する。
いわゆる、「金に目がくらむ」のである。
ところが、目がくらむ対象が「先端技術」や「先端科学」であるから、一歩まちがうと、社会に甚大な被害をもたらすことがある。

「両刀の刃」なのである。

ほんらいの産学連携には、研究者には研究費の調達というメリットがあって、研究費を提供する産業界には、あたらしい知識を社会にもたらすことへの「貢献」という位置づけがあった。
つまりは、「企業の社会的責任」としての、利益の「社会還元」だった。

しかし、短期的売買による株式投資家の立場にある株主からみたら、その社会還元分をよこせ(株主利益に直接反映させよ)、という概念がうまれる。
ここに、研究成果は人類共通の財産だとする、「学問」との対立が発生するし、研究者が設立した企業なら、それが自身の心にあらわれる。

こうして、「堕落」がはじまるのだ、という主張だ。

この関係に、「官」が加わると、より強力になる。
いまや古典的とさえいえる、「軍事技術開発」がその典型だ。
原爆開発プロジェクトだった、「マンハッタン計画」があまりにも有名である。

しかし、兵器・武器を開発してこれを販売する国は、「産官学」の連携どころか「連合」となって、世界で販売競争をしている。
だから、たとえば核兵器開発にあたる研究者には、科学者としての「倫理」が議論の対象になったのだ。

研究者にとっての興味を充たす研究対象が、兵器開発になるということのどうしようもない実態がある。
対して、科学者が経営者になったばあい、どちらの「倫理」が優先すべき議論になるのか?という厄介がある。

上述のように、研究者もほとんどが凡庸な人間だから、たいてい金に目がくらむのである。
そして、正当な理由づけをかんがえる。
それが、儲けを優先させた理由を隠すための理由づけになること必定だから、研究の方がゆがむのである。

さてそれで、この「警告」は、科学全般におよぶどころか、「大学全般」におよぶ。
なぜなら、大学全般が「金に目がくらむ」ようになるからである。

著者がアメリカ人なので、アメリカでの実態が書かれている。
ここで、日本人として注意しないといけないのは、アメリカにはわが国のような国立大学が「ない」ことだ。
私学「しか」ないので、高額な授業料と寄付制度で成りたっている。

国にあたる「州」には、「州立大学」があるけれど、有名なカリフォルニア州立大学を除くと、ほとんどの州においては、「職業訓練校」の位置づけが強く、わが国の専門学校により近い。

高額な授業料とは、だいたい年間で6万ドルほどかかる。
わが国の数倍にあたるから、学生の授業品質に対する評価も厳しい。
「ちゃんと教えろ」ということになる。

それで、強烈な分量の宿題を講義受講の前提条件にして、めちゃくちゃな「詰め込み教育」をしている。
どの科目も、宿題がハンパないのだ。
よって、学生は勉強漬けになるのがふつうで、学生スポーツに興じる暇はない。留年なんかしたら、授業料負担が容赦ないのだ。

これが、高校までと大学卒業時における「学力」の日米比較で、わが国が逆転・完敗している理由にもなっている。

そのわが国で、産学連携がさかんになったのは、2000年(平成12年)頃からのことである。
あたかも、産学連携のメリットばかりが世の中にあるのも「異常」なのである。

日米ともにをこえて、世界中でおかしなことになった、コロナ・パンデミックを「真の学術的」に語る現役の学者(「名誉教授」ではなく)がほとんどいない。
場面はかわって、昨年の10月からおきた「調布陥没」で、弁護側は「有識者会議」の報告書に疑義を表明しているのも、「産学連携がからむ」とみてよいだろう。

そして、わが国のばあいは、「産学連携」というよりも、「官・学」で、「学」がまた「国立」ばかりだったりする。
「官」には、やっぱり経産省がでてきて、2001年に「大学発ベンチャー1000社計画」という余計なお世話をしている。

これに、総務省、厚労省、そして元締めの文科省がつづく。

その成果が大学のベンチャー企業「数」で、笑っちゃうほど熱心な東大が、やっぱり「1番」で200社あまり。
つづく京大が100社弱で、その後も旧帝大がおおい特徴がある。
私学では、早稲田大学がおおいのも、「堕落」の証拠になっている。

大学は、どうやって「学問の信頼」を社会からえるのか?をかんがえないといけない、「やばい」ことになっている。
坂口安吾『堕落論』でも読んで反省しろという、文系の学者もいなくなった。

世界史に残る4月13日

昨日書いた、2021年4月12日が、わが国で全体主義がはじまった日としての記録だったけど、翌日の13日は、世界史に残ることを日本政府はしでかした。

福島のトリチウム水を「海洋投棄する決定」だ。

これで、わが国「栄光の戦後経済史」も終焉をむかえただけでなく、「邪悪」さを掲げる「世界の敵」となり果てた。
世界の敵は、いまでも国連での正式なあつかいだからいまさらだけど、唯一の自慢、「経済大国」もおわったのである。

日本人の生活設計は、こんご「貧困」を前提としなければいけなくなった。
それは、どこまでの貧困なのか?
『おしん』の子ども時代にもどるとかんがえて差し支えない。
ときに、イランで驚異的視聴率をえた外国製ドラマで、イスラム革命政権が「イチオシ」していた、イラン人の理想像なのであった。

このブログで何度もふれた、「資本主義の本質」を、とうとう日本人は理解せずに沈んでいく。
むしろ、理解しないままに繁栄したことが「奇跡」であって、よくいう「日本人の勤勉さ」は残念ながら本質ではない。

あらためて「資本主義の本質」とは、「資本主義の精神」なのである。

正当に儲けることの誠実さ、である。
誠実な仕事が正当な利益になる、ということでもある。

この「普遍的価値観」にもおもわれる「精神」がなくして、資本主義は成りたたない。
だから、資本主義がなかった時代は、もちろんこんなことを「普遍的」だとだれも思わなかった。

日本人が世界的に珍しい民族なのは、「お天道様がみている」という信仰が、道徳的概念になって、ほぼ全員がこれを信じ・実行していたことにある。
このことが、明治になって舶来の資本主義を輸入したとき、砂に水をまくような浸透をした原因なのである。

ところが、為政者を育成する学校は、その権威維持のため、世俗的な「お天道様」を否定して、政府の計画がまさるというあたらしい信仰を教導した。
これを150年やった成果が、いま達成したことである。

つまり、政府こそが、資本主義の本質を理解していない、ということの証左なのであって、権威あると信じられている国立の大学も、その教員たちはまったくの理解力不足を隠せない。
これぞ、現代の不可思議なのである。

しかし、この「病魔」は、わが国だけをおかしているのではない。
フランスのマクロン大統領が10日に表明した、国立行政学院(ENA)の廃止は、わが国にどう影響するのか?
フランス革命以来、とにかくグダグダなフランスにあえて学ぶ必要性はないとおもってきたけれど、わが国も「もはやこれまで」なので、興味深い。

そんなフランスだけど、わが国にはない、「極右」というルペン党首率いる国民連合がある。
そして、来年に予定されている大統領選挙では、そのルペン氏の支持率とマクロン氏の支持率が拮抗しているのである。

ちなみに、マクロン氏も、ENAの「卒業生=エリート」だ。

さて、邪悪な日本政府のいい分にもどろう。
報道によると、「国民から安全性や風評被害の懸念が示されたことをふまえて海洋放出にあたっては客観性・透明性が担保されたモニタリングを徹底する」らしい。

コロナでもいっさい「客観性・透明性が担保」なんかされていないのに、なにをかいわん。
そもそも、事故後、国際安全基準であり、もちろん国内法でも規定していた年間1ミリシーベルトを、「だって仕方がないじゃん」と、さっさと心折れて20ミリシーベルトにした「前科」がある。

それでもって、またまた権威あるといわれている国立大学の教授がでてきて、「安全です」といっていた。
ならば、どうして年間1ミリシーベルトが基準「だった」のか?
「いやー、テキトーに決めたんです」と、うそこけ。

それに、「廃炉」とかんたんにいうけれど、その具体策(5W1H)の提示はなく、なんだかしらないけど、デブリ(熔けて崩れ落ちた核燃料のかたまり)をとり出すといっている。
なんで、そんなことをするのかの説明もない。

がんがん放射線を出しまくっているデブリを出してどうするのか?の説明がない、のである。

壊れた原子炉の廃炉、というのはコンクリートで覆ったチェルノブイリ以来、人類がはじめて経験していることだから、わからないことだらけだろうけど、ならばどこまでわからないのかをいわなければ「客観性・透明性」とはいえない。

しかも、なんでこんなに水が湧いてきて、それがどうやって汚染されるのか?
まさか、基礎のコンクリートが割れた?
こうした説明もない。

この問題は、原子炉の問題をとっくに超えていて、日本人の誠実さという精神の問題になっているのである。
国民も、ここに気づかないといけない。

太平洋の本州沿岸には、黒潮が流れている。
海流による影響はどうなのか?ドイツが太平洋への拡散シミュレーションをした。
もちろん、漁業に影響するのは当然だし、海水浴だってある。
コロナで密になるから狭い漁船に乗ってはダメとか、去年の夏の海水浴場の閉鎖が、未来永劫つづくわけもない。

水銀やカドミウムを排水したらいけないことにしていたけれど、これだって、薄めれたらよいことになる。
トリチウム水はよくて、水銀やカドミウムはなぜいけないのか?

漁業も工業も、誠意ある精神の関係者たちは、一斉に邪悪な日本政府を訴えるべきである。

むかしなら、この決定だけでも内閣が吹っ飛んだはずだ。
全国電力関連産業労働組合総連合(電力総連)は、国民民主党の支持母体だ。
電気事業連合会と一緒になっているのは、わるい意味の「労使協調」がある。

すると、ルペン氏の支持率がそれなりのフランスが、ちょっとまぶしくみえてくる。

衰退決定の日となったこの日を境に、今後、わが国の体制は、歴史に「堪えられるのか?」という領域に突入したのである。

本格的「全体主義」の到来

ヒトラーの率いるナチス党が、政権奪取をする前にひろくドイツ国民に支持をえた理由に、「健康」を推進したからということがある。
つまり、健康は「票になる」ものだと教えてくれる。

「健康増進」に賛同したひとたちのなかで「パン屋さん」たちは、白いパンは食べるひとの健康(糖尿病)に悪いからと、黒いパンしか作らなくなって、これが全土にキャンペーンされて拡大した。
よって、消費者は白いパンを食べたくても買うことができなくなった。

タバコを吸わないばかりか、煙の匂いが嫌いだったヒトラーは、当然に「タバコ撲滅キャンペーン」をやった。
タバコの害毒を強調するようにみせかけて、自分の「嫌い」を排除させたのだったけど、人びとはタバコの害毒にしか関心がなかった。

それで、医学会に多額の補助金を与えて、「肺がん」に関しての研究で、当時の世界最高峰という、ドイツ医学のひとつの「頂点」をつくった。
もちろん、こうした快挙は、「ドイツ国民の誇り」とするところで、ナチスの宣伝に徹底的に利用された。

健康な肉体は、アーリア人に「こそ」宿る。
スポーツが奨励されて、それが、「ベルリンオリンピック」(1936年)に花開く。
少年少女・青年たちが、ヒトラーユーゲントに「法的強制加入」(800万人)となったのも、このオリンピックの年である。

ヒトラーユーゲントの活動は、ハイキングに出かけたり、各種イベントの開催で、「それはもう楽しかった」という。
のちに、青少年相手の「洗脳組織」にさせて、ヒトラー個人に忠誠をつくす「新貴族」としてのエリート養成になるのである。

そんなわけで、「健康」を為政者がいうときは、「危険」なのである。
「よかれ」が「強制」を容認させる。

自由と民主主義をとなえてきた「戦後民主主義」の化けの皮が剥がれだしたのは、コロナのおかげであった。
そして、とうとう、首都東京で、牙むき出しの全体主義が正々堂々と実施されるようになった。

12日からの、「まん延防止等重点措置」がそれだ。

しかし、新型コロナなる病原体をもっておきるという「病気」は、ほんとうに「まん延」しているのか?という疑問が、生活感覚にある。
この一年で、わたしの周辺で「発病」したひとはいない。
「PCR陽性者」もいない。

じっさいに、わが国の年間死亡者数は、昨年と一昨年(約130万人)比で「1万人減少」したのだ。
重症化して死の病になるはずの感染症がまん延しているのに、どうして年間死亡者数が減るのか?
ましてや、わが国はとっくに超高齢化社会になっているので、高齢者の死亡者数は年々増加するものという前提まであるのに。

つまり、自然に増えるはずの高齢者の死亡者数をのみ込んだうえでの減少だから、実数はもっと(おそらく2~3万人)減少したことになる。
まさに、実態は「コロナ禍」ではなくて、「コロナ福」なのだ。

こうして、統計的な現象面からみても、パンデミックとは到底いえない。
すると、だれがパンデミックといっているのか?
大手マスコミと中央・地方の政府なのだ。
これに、「データ」や「エビデンス」と口にはするが、その「数値」や「証拠」を決していわない専門家が、パンデミックといっている。

そして、そうした専門家の(政治的)意見に基づいて、本物の政治家が政策を決定している。
でも、ほんとうに実態を熟知しているのは「役人」である。
厚生労働省の役人たちが夜中に飲食店で宴会をやっていたのが、罪になる。

どうして職業上の罰を受けないといけないのか?
それは、「強制的営業縮小」を命令している側の裏切り行為だからである。
ならば、なぜこのひとたちは「異議申し立て」をしないのか?
だまって罰を受けることではなくて、異議をとなえてこそ社会に役立つものなのだ。

いま、徹底抗戦をしているのは、民間の飲食店チェーンの一社だけである。
この勇気に、追随するものがだれもいない。

この現象が、すでに全体主義を容認していることの証左なのである。

そして、伝統的ワクチンの概念を破壊した「ワクチン」という名の、「変な薬」を強要する社会がすぐそこに迫ってきている。
カリブ海の火山噴火で国民を避難させるにあたって、「セントビンセント及びグレナディーン諸島」一国を統括する首相は、政府が提供する避難所を利用する条件にワクチン接種をあげた。

さしもの、アメリカ左翼メディアも疑問を呈して報道したのは、ワクチン全体主義への警告ではある。
けれども、アメリカの9月から新学期の授業再開にあたって、20弱の大学は、学生にワクチン接種を義務づけて、拒否者の大学構内への立ち入りを禁止を表明している。

わが国の観光業界も、「ワクチン・パスポート」が観光再開の切り札だといいだした。
全体主義のなかで、「持続的な自由営業」ができるとおもっているらしい。

やっぱり、呼吸器ではなくて脳が冒されている。
それこそが、全体主義者たちの「狙い」なのだ。

ヒトラーがユダヤ人を「ばい菌」と呼んだように、得体の知れない注射を打たないとばい菌呼ばわりされることが、どんなことか?

そんなわけで、なるべくマスクをせずに歩いている。
これも、レジスタンスなのである。

再現不能の傑作『雨月物語』

独立の翌年、1953年(昭和28年)の大映製作。
同年、ヴェネツィア国際映画祭に出品され、銀獅子賞(グランプリ)の受賞作である。
なにも賞をとったから凄い、といいたいのではなくて、予備知識なしで観ればよくわかることだとおもう。

「時代劇」というと、源平の平安時代、鎌倉・室町時代はほぼパスして、応仁の乱からの戦国時代、それから織田・豊臣から関ヶ原を超えたら、すっかりおなじみの「定番」となる。
『大魔神』がユニークなのは、その時代設定・生活視点で本作と通じるものがある。

なんだか無秩序な感じだけれど、妙に派手な安土桃山時代の堺を舞台にした異色の映画『がらくた』(東宝、1964年)をおもいだす。
主演は、市川染五郎 ⇒ 松本幸四郎(9代目)⇒ 松本白鸚(2代目)で、名前が変わるからややこしいけど、公開時22歳の若者の立派な演技は「さすが」だ。

けれども、すっかり現代劇的な映画なので、この点は注意がいる。
だから、若き歌舞伎役者の身のこなしが目立つのである。
残念だけど、探してみたがDVDなどの販売はされていないようである。

『雨月物語』の幽玄さは、不気味さをただよわせて、物語ほんらいの「奇譚」としての表現に成功している。
この映画には、大女優がたくさん出ていて、なにも京マチ子だけが看板ではない。

むしろ、京マチ子の妖麗さを一層引き立てるのは、いよいよ怪しい侍女右近役、毛利菊江の演技が光る。
このとき、ちょうど50歳。
すり足での自然な身のこなしは、謡曲と完全マッチしているのである。

実生活も「すり足」だったにちがいない。
撮影だからやれといわれて、はいとできるものではない。
この訓練が、足腰を鍛えて、97歳の長命だったにちがいないのだ。
京マチ子の長命(95歳)も、同様だと推察する。

次の大女優は、水戸光子だ。
このひとは、『男はつらいよ』の初代「おいちゃん」役だった、森川信の元妻で、結婚を機に引退するが、離婚を機に復活した。
本作でのエネルギッシュな役は、現実の「かかあ天下」の価値観を象徴している。

そして、いうまでもない大女優、田中絹代。
原作で二話の題材を組み合わせたのではあるけど、妖麗さとは別物の静的な凄みがある。
後の『ゴースト/ニューヨークの幻』にえらく影響をおよぼしたのではないか?

舞台となっているのは琵琶湖の北で、戦国武将、朽木氏の本拠地だ。
映画では、織田信長に滅ぼされた、とあるけれど史実は別で、織田配下から豊臣に、そして関ヶ原で東軍につき、旗本として明治まで続いているのである。

鯖街道(若狭街道:国道367号)の「朽木宿」が、いまでも残る。
京都からなら、出町柳 ⇒ 八瀬比叡山口 ⇒ 大原 となる一本道だ。
むかしは、小浜で塩漬けにした鯖を、一晩で京都に運んだそうだから、宿場ごとに担ぎ手を交替していたのだろう。

一晩でちょうどほどよく「漬かった」という。
いまは自動車で運んでいるにちがいないけど、朽木宿には鯖寿司(生鮨)をつくって販売するお店が数軒あって、その味が忘れられない。

関西方面に自動車でいくとき時間に余裕があれば、名神高速を米原から北陸道に乗り換えて長浜までいき、朽木宿経由で京都にはいる。
もちろん、前日までに「予約」は欠かせないのである。

道路からの風景で、映画の雰囲気は、マキノの湖畔をおもわせる。
いったいどこで撮影したのか?
詳しい方には是非ご教示願いたい。

とにかく、ふるい日本映画は、ロケ地の景色が素晴らしいのである。
いま観れば、いったいどこであるかがぜんぜんわからない。
そういえば、『青い山脈』の原節子版(1949年)では、伊豆下田がロケ地とあるが、街中の様子が彦根城だったかにみえた。

さてそれで、雨月物語である。
大女優のなかで奮闘するのは、森雅之と小沢栄(栄太郎)の二枚看板だ。
森の父は、小説家の有島武郎。
5歳のときに母を結核で祖父の武も暮れに失い、12歳のときに父が愛人と心中してしまう。

さらに母方の祖父、神尾光臣陸軍大将は16歳のときに亡くなるので、近しいひとたちがどんどんいなくなる。
ちなみに、神尾大将は第一次大戦での青島攻略軍の司令官で、わが国が最初の「物量戦」に挑戦し、その莫大な費用におののいたのであった。

森雅之の知的な演技という評価は、当時の上流階級にあってなかなかに厳しい環境からうまれたとおもわれる。

もうひとりは、本名の小沢栄太郎の方がなじみがあって、しかも晩年は知的な悪役がピッタリだったから、すこし軽めの役柄を観ることができるのは楽しいものだ。
印象深いのは、『白い巨塔』の鵜飼教授役だった。
それでも、伊丹十三監督『マルサの女』(1987年)で、気弱な税理士役をやって、翌年鬼籍に入った。

わたしは小沢栄太郎氏とはご縁があって、逗子のご自宅へ来るようにと何度か誘われたけど、おそれおおくてとうとうお邪魔することはなかった。
艶福家として有名だったのは、その素顔は驚くほどよく笑う、うそのように人懐っこい方だったからだろう。

「悪役は自分とはぜんぜんちがう人物だから、やっていてほんとうにおもしろいんだよ」と、たのしそうに語ってくれた。
なのに、「いいもんの役をみたい」とねだったことが、まさかの気弱な税理士役だとしたら、なんだかもう有難いと勝手に解釈しているのである。

享年79歳。
88年4月23日が命日なので、もう33年も前になる。

そして、この映画のスタッフも出演者たちも、ほとんどが物故されたことだろう。
未来に、二度と作れないものを作ったひとたちの凄みがある。

合掌。