久しぶりの議員逮捕で妄想する

わだいの「IR」とか、「中国企業」とかいった「修飾語」をはずすと、こんかい収賄で「逮捕」された秋元司衆議院議員のおおもとの事件とは、中国企業関係者の「外為法違反」というはなしだ。
なんだか「デジャブ」のようだ。

以下に勝手な妄想をするので、真に受けないようにあらかじめ読者にはご注意申しあげておく。

社会的にえらくなったり、お金持ちになったりしたら、「外為法」に注意しないと、いかようにも「挙げられる」ことになりかねない、おそろしい法律である。

「国会議員」は職業なのか?
それとも、ボランティアなのか?
議員になったらもらえる国庫から「歳費」という名の「給与」は、「議員活動」のためのお金だったけれど、特権化して「生活給」になった。

大臣になったら、大臣としての給与と、辞めたら退職金がもらえる。
議員をとにかくながくやれば、年金ももらえるから、二重三重にもらえる仕組みになっている。

もらうばっかりでは国民が嫉妬する。
それで、日本人の病的な「潔癖症」が建前になって、議員なら「政治資金規正法」が、大臣なら就任時に「資産公開」という、個人情報保護の精神にそぐわないことをやらせるようになった。

政治とカネは、金権政治にむすびついて、汚職がたえないのが理由であった。
汚職の典型例が、「収賄・贈賄」で、えらいひとはかならずもらう方になるのは世界共通だ。

でも、その前に、立候補するときに「供託金」というお金を納入しないといけなくて、獲得票数がたりないと、「没収」の憂き目にあう。
このことが、選挙権はだれにもあるが、被選挙権はあるわけではないことになって、立候補制限となっている。

韓ドラの時代劇は、5百年つづいた李氏朝鮮時代を舞台とするものがおおい。
すると、たいていは王様と貴族がでてきて、なんだか「大袈裟」な議論をしたりする。

この貴族が「両班(りゃんぱん)」という身分のひとたちで、宗主国の中国からコピーした、「科挙」の受験資格をもつひとたちのことをいう。
「両」の字があるのは、高等文官と高級武官の「両方」だからだ。

中国の科挙は、受験者の身分を問わない、という人類史における「画期」であった。
しかし、その難易度は半端ではなかったから、一生を受験生のままで棒に振るひとも続出させる副作用があった。

それでも、受験を続けたのは、合格すればたちまちに、どんなに潔癖なひとだって三代の栄華が保障されるほどの「うまみ」があったからだ。
もちろん、搾り取られるのは一般人ばかりである。

この「うまみ」を独占したのが、朝鮮における「両班」たちだった。
いわば、わが国の選挙制度も、被選挙権を制限するために、日本的な「議員身分」という「両班」身分をつくっているのである。

しかして、政治資金規正法なり、外為法なり、法をたてに取り締まるのは、「検察」をもって国民の代表としている。
司法試験に合格すれば、裁判官・検察官・弁護士のどれかになるようになって、検察官が犯罪者の罪を問う役目をおうからだ。

検察官は、建前上、ひとりでも「国家機関」という立場をあたえられるから、検事と検事正の身分差とはなにか?ということが、あんがい面倒くさいはなしになる。
それに、警察とはべつの組織である事実上の「法務省」の役人でもある。

法務事務次官と検事総長は、検事総長を格上としている。
これは、外務省における外務事務次官と駐米特命全権大使との関係のようでもあってややこしい。
次官は「一般職」公務員の最高位だが、検事総長や特命全権大使は、天皇の認証官なので「特別職」公務員になるからだ。

けれども法務大臣には「指揮権」があるから、検事総長といえども法務大臣にはさからえない。
そんなわけで、国会議員の検察による「逮捕」とは、法務大臣の承認がないといけないことになる。そして、その法務大臣は内閣における「国務大臣」なので、現憲法では内閣総理大臣の指揮下にある。

与党の法務大臣が与党の議員逮捕を承認するとは、いかがなことなのか?
これは、じつに「政治的」なのである。
この時期に、この政治的アピールとは、韓国にたいする「牽制」ではないかとうたがうのである。

政治制度が「大統領制」だから、わが国とはことなるとはいえ、あんがいとわが国のまねっこをしているのが「韓国」である。
政権をゆるがす大スキャンダルは、大統領の右腕「タマネギ男」の処遇だろう。

内輪であっても逮捕するのが「日本」という国の「公正さ」だというメッセージは、かずかずの対立についての「意趣返し」になる。
しかも、中国との関係もふくめているから、いまの韓国にはいっそう「痛い」はずだ。

なんともずる賢いやりかたをかんがえついたものだ。

そして、じつは政権に日和っているわが国マスコミは、これ見よがしの報道キャンペーンをやることだろう。
その相手とは、日本国民ではなくて韓国国民になる。

どのみち、おいしいカジノは実施する。
これで、やってくる相手から中国企業が消えただけだ。
横浜のカジノ反対運動のガス抜きとしても絶妙である。
ましてや、国家主席を「お迎えする」日本政府として、ちゃんと公正さを担保しているともいえるから、近年の「傑作」である。

よくやるよ。

と妄想した。

マスクをしたいひとたち

寛容なのか不寛容なのか?
イオングループが接客にあたる従業員のマスク着用を「禁止」した、というニュースが配信された。

「風邪」にかかってもいいのか?
「安心して勤務できない」とかいう、従業員からの「意見」もあるようだが、「広報」によると、会社への正式な抗議にはなっていないようである。

「禁止」という表現を記事どおりに会社がつかったのかも未確認だから、ほんとうなのだろうか?とうたがってしまう。
べつの表現をしたものに、「意味がおなじ」だとして記事に書いてしまってはいないか?
できれば「全文」を掲載してもらいたかった。

一般的な「マスク」に関しては、このブログで何度か書いている。

「接客業」にあって、客前でマスクを着用したままで「よし」とする感覚をいかがかとおもう、という立場から書いてきたが、今回の記事は、「禁止」がいかがかという立場から書かれている。
これは、「新鮮」なおどろきだ。

どういう意図なのか?
どういう感覚なのか?
記者に口頭で不満を表明した従業員がいる、という事実だけを書きたかったともおもえない。

「記事になった」かぎりにおいて、取材した記者ひとりのことではなく、それをみとめた上司なりが許可しなければ、商業的な「記事」となって世間に配信されることはない。

だから、興味深いのである。

まず確認したいのが、マスクの「効果」である。
本来は、風邪やインフルエンザに「感染したひと」が、まわりの迷惑にならないように着用するものだった。

しかし、これらのウィルスは一般的なマスクの材質では、呼気があみめを通過してしまうから、役に立たない。
だから、健康なひとにとっても、風邪やインフルエンザのウィルスを吸い込むための、「予防」にもならない。

つまり、じぶんは病気にかかっています、という合図をおくって、他人に注意を喚起するというのが、第一の役目になったのだ。

それでも、一日中マスクをしていれば、なんだか「黒ずんでくる」のは、外気がさまざまな物質に汚染されていて、比較的おおきな粒子がマスクでとまる。
けれども、おおかたマスクなしでも「鼻毛」がこの役割をもっている。

あえていえば、冬の太平洋側は空気が乾燥するので、マスクをすることでじぶんの呼気の湿り気で喉を潤すことぐらいが、効果なのだろう。
さいきんでは、監視カメラの人物特定から逃れるため、ということもあるが、マスクの着用程度でAIはだませない。

これからわかるのは、他人のための注意喚起だったものが、じぶんのための湿潤に変化していることだ。
そして、科学が軽視されていることもみえてくる。

科学的にかんがえれば、一般に購入できるマスクはほとんど無意味だからだ。
けれども、ここに「商機」があって、メーカーによる「文化」が形成されているのである。

もちろん、メーカー努力だけでなく、その背景に「じぶんかわいさ」が価値観になければならない。
そして、それが「お互いさま」にくっついて、じぶんがしようが他人がしようが「勝手御免」になれば、マスクの着用がマナー違反にならなくなるばかりか、他人からの禁止命令にすこしばかり反発するだけですむようになるのである。

これが、現代日本における「現役世代」の「常識」だ。
だから、「記事」になったのだ。

そういえば、たまにではあるが、旅館やホテルでも「禁止」の掲示をみかける。
接客現場に、「禁止」ポスターを貼るのは、どうみても従業員向けではなくて利用客向けだ。

たんに日本語のつかいかたが下手なのではなくて、あいてに命令することに違和感がないのは、「いつも命令されている」からだろう。
たとえば、小公園でも「球技禁止」とか、ショッピングセンターに「ローラーシューズ禁止」とかが貼ってある。

「球技禁止」は、老人優先社会になったからだろう。
「あぶないのでボールをけったりなげたりしてあそんではいけません」とあるのは、子どもがあぶないのではない。
こういうひとにかぎって、幼いころのはなしになると球技をしていたはずだ。

「ローラーシューズ禁止」のおかしさは、じぶんたちで売ったものを、履いてくるなという自己中な発想があるからである。
ならば、「当店ではあぶないローラーシューズの販売はいたしません」と書けばよい。

そういえば、こないだの『魔笛』公演では、弦楽器の演奏者がマスクをしたままで全曲を演奏していた。
オーケストラの本番で、演奏者がマスクをしているのを生まれてはじめてみた。

同僚も注意しないばかりか、指揮者もなにもいわないし、休憩後もかわらなかった。
けれど、カーテンコールでオーケストラが起立して挨拶するときに、このひとははじめて素顔をみせた。

マスクをしたままでは、やっぱり「まずい」とおもったのだろう。
年齢的には40代のなかごろか?
どうやら、このあたりが「境界線」のようである。

個々人がバラバラになって、じぶんのため、をどんどん追求すると、ついにそれを国家の役割に変容させることで全体主義は達成できる。
いまは「まさか」の段階だが、国家の命令に全員がそろってしたがう、全体主義への準備が、ゆっくりと、しかし、着実に進行している。

マスクの着用は、「禁止」でも「勝手」でもなく、「マナー」や「エチケット」としてとらえることが肝要だ。

ちり紙交換が健全な社会の証拠だった

「毎度おさわがせしております。こちらはちり紙交換でございます。
ご家庭にございます、古新聞、古雑誌等、ございましたらお気軽にお声をおかけください。こちらからとりに参ります。」
このバカ丁寧な日本語がもう聞こえてこない。

いまどきはすっかり見聞きしなくなった「ちり紙交換」。
町内やおおきな団地にやってきては、新聞紙とちり紙(トイレットペーパー)を交換してくれた、古紙回収業者のことである。

あの独特のアナウンスは、伝説的な「ギャグ」までうんだほど、あまりにも日常の光景だった。
どの家庭でも、新聞は朝・夕刊ともに購読するのが「当然」だった。一家の経済を男ひとりの働きで支えられたのだから、いまより「豊か」だったかもしれない。

行政の「清掃局」が担当する「生ゴミ」などの回収とはちがって、ちゃんと専門業者がやっていた。
いまでも「ほそぼそ」とあるらしいが、わたしの住む地域ではもうみかけなくなってひさしい。

それよりも、毎週きまった曜日に回収業者はやってくる。
もはやちり紙と交換はしてくれず、ひたすら回収だけをしているのは、行政からの請負仕事になったからである。

古紙には相場があって、これを再生工場や輸出業者にもちこめば、暮らせるだけの手数料収入があったのだ。
つまりは、自由に営業できたということでもある。

これをつぶしにかかったのが、中央官庁で、まだ「環境庁」がうまれたて(環境庁設置は1971年)の73年に、当時の「通産省」が「全国モデル都市」を指定するというやり方で「参入」したのである。

この背景には、石油ショックがあるという説があるが、第四次中東戦争(1973年10月6日勃発)の影響で経済が深刻化するのは、1974年の1月になってからである。

つまり、どっぷり田中角栄内閣(1972年7月7日-1974年12月9日)の時代にあたる。
じつは、この時期に、わが国の「官僚制社会主義」が完成するのである。

田中角栄氏の逸話で有名なのは、官僚のコントロールにあったといわれているが、なぜかは簡単で、いまでは「ふつう」の、官僚に全面的な「政策立案」をさせていたからである。
それで、彼の生涯における「議員立法」の成立数が、他を圧倒したのだ。いわば、官僚に「内職」で法案を書かせていた。

初入閣は1957年。
39歳のときに郵政大臣となって、新聞とテレビの系列化をやった。
その後、大蔵大臣(池田・佐藤内閣)、通産大臣(佐藤内閣)を歴任し、総理になった。

まさに、わが国の「ドン」だったのだ。
しかし、よくよくみれば、彼の政策はすべからく国家主導の「社会主義」である。
高度成長の税収によって、役所も肥大化し、民間支配が露骨になった。

これが、「役人天国」となるのは「必然」だから、田中角栄人気は公務員に根強いのである。
もちろん、マスコミ支配を達成して利権配分したから、マスコミ人にも田中角栄人気はおとろえない。これは、かれの社会主義性にも原因がある。マスコミ人の社会主義好きは、いまでも「常識」だ。

以降、自民党は、全派閥が田中派のコピーになったので、欧州でいう「社会党右派」のような政党に変容し、英国保守主義でいう「保守」なぞという思想はとっくに捨て去っているし、知識もない。
いまの安倍内閣の政策は、もはや「社会党左派」にまで「進化」した。それで、野党が経済政策を議論できなくなってしまった。

これは、「地方」もおなじだ。
地方政府の官僚が、中央政府の官僚に指導されて、まねっこをやる。
地方議員は国会議員よりも質がおちる傾向があるから、住民には絶望的な役人の支配となるのである。

もちろん、そうとうに優秀な「首長」でないと、役人と議員の壁を越えることはできないので、ふつうのひとならなにもできないし、なにもやらせてはくれない。

そんなわけで、横浜市の一部(港北区・鶴見区)とはいえ、古紙回収が、中国の、例によって突然の「輸入禁止措置」によってできなくなってしまった。
回収しても、持って行き先がないからである。

計画経済の計画がこわれると、経済が不調をきたす典型例になった。
もちろん、中国の計画経済のことではない。
わが国の官僚がたてた計画経済である。

わが国は、中国をさしおいて、人類史上はじめて世界最高の社会主義を達成したので、国家主席を招待してでも自慢したいのだろう。
まことに経済学の常識から逸脱した、おろかな国家がわが国になった。

ペットボトルも中国が輸入禁止措置をとったが、いったいどうしているのだろうか?
古紙もペットボトルもプラゴミも「リサイクル」という「イリュージョン」で、役人が民衆をだます方法を完成させた。

1976年、函館空港に突然やってきた、当時のソ連の最新鋭戦闘機ミグ25に搭乗していたのは、ベレンコ中尉。
わが国の防空網をあっさり抜いてしまったのだが、「亡命希望」ということで、なんとかなった。

かれがソ連に絶望したのは、故郷の街に収穫したリンゴが山積みのまま放置され腐敗しているのを目撃したからであった。
経済計画にない豊作が、輸送計画を崩壊させ、はなから存在しない販売計画がリンゴを腐敗させるしかない社会。

リンゴが古紙にかわっただけだ。
自由に営業できた、ちり紙交換が成り立ったのは、健全な社会の証拠だったのである。

役人が介入して利権となって、同じ古紙の回収ができない社会になってしまった。
まちがいをみとめない役人は、おそらく、回収業者を役所によびつけて、脅迫してでも回収させようとしているにちがいない。

まったくもって、ソ連の役人とおなじことをしても、経済の原則はなにがあっても役人のおもうようにはいかせない。
パンがなければお菓子を食べろ、というにひとしいおろかさだ。
指定業者の指定を解けば、炊きこめ用の燃料としてよろこんで回収する銭湯の主人たちがいるだろう。

しかしながら、われわれは戦闘機に乗って亡命もできないのである。

ただし、家中が古紙だらけのありえない不便にみまわれた、住民のただしい怒りが、いまや希望にさえなっている。
社会主義計画経済が成り立たないことを、やっぱり「証明」しているのである。

おなじ動作ができない

自由に生きることはたいへん重要だけれども、自由=勝手気ままと解釈すると、それは、やっぱり「勘違い」になる。
このブログでくり返している「自由主義」の「自由」とは、他人から命令されない社会のことだから、自律神経としての自己統制ができないと、自己崩壊してしまうのだ。

「欲望」をどうやって「制御」するのか?
それが人間社会の「道徳」になっている。
犬や猫のような動物にみられる「本能」のなかにも、自己制御はあって、できないものは群れから追放される。

「狩り」をして獲物をえるのが「群れ」の最大価値で、その攻撃力が防御力にもなっている。
だから、野生の犬や猫の仲間なら、「群れ」から追放されたら「死」を意味する。

人間も、狩猟採取生活をしてきた経験がある動物なので、やはり「群れ」をつくる性質がある。
数万年単位でのことだったから、数千年ぐらいではDNAがこわれない。

人間の狩猟には2パターンがある。
ひとつはおもに「飛び道具」をつかって、獲物をしとめる方法。
もうひとつは、「罠」をしかけて獲物をおびきだす方法だ。

そんな意味をかんがえると、現代ビジネスだって、上記2パターンの「狩り」のようなものだ。

こんな生活に、文化がうまれて、それが文明になった。
いろんな学者が、単独の文明として「日本文明」をみとめるのは、世界の辺境にある島国の独自性が目立つからだ。
これを昨今は、「ガラパゴス化現象」ともいっている。

わが国は「島国」ではあるけれど、「山国」でもあって、その「峻険」さは、もっとも基本的な移動手段の「徒歩」では、かんたんに移動できないという特徴がある。

そんなわけで、「土着」という結果、地域における「群れ」ができた。
東欧・ロシアの封建社会における「農奴(Serf)」とはややちがうけれど、わが国には「小作」がいる。

なかなか「外」との比較が難しい。
「日本論」が「日本」でさかんなのは、外の世界との共通性を見出すことでの安心感と、独自性の優越感とが交差するが、追求のエンジンか燃料には「不安」があるのかもしれない。

「人類共通」の感覚をさがさないと、いいようのない不安になるのは「群れたい」というプリミティブな感情があるからではないのか?
学校にかぎらず集団における「いじめ」が、群れからの追放なのも、善し悪しではなく理解しやすいことではある。

「いじめ」という集団行動からもれれば、じぶんも対象となるかもしれないという「不安」が、行動を助長して過激化するのは物理運動的である。
エンジンあるいは燃料が「不安」であるから、やめられない、とまらない。

対して「一匹狼」という生きかたがある。
本物のオオカミならば、死に直面している状態だから、ナーバスで、ゆえに近づくと危険だ。

しかし、人間社会で、ある程度これができるのは本人の「技能」がそうさせるからである。

封建社会は、職業選択の自由がなかった。
それぞれの役割が、血縁によってきまっていたから、本人がうまれる前に職業人生が確定していた。

古代から「投げる」という競技があったのは、「やり投げ」「円盤投げ」「砲丸投げ」に代表される「力比べ」が原点だろう。
しかし、「やり投げ」は武器である。
本来は、距離だけでなく正確さもあったはずだ。

わが国の伝統武術も、原点に相手を倒す技術として研究した成果だ。
なかでも「流鏑馬」は、馬術と弓術の統合が求められる。
馬の動きに偶然はあっても、弓術の偶然とはなにか?

おなじように動作しても、結果がことなる。

正確さのためには、もちろん道具の工夫もひつようだが、それをつかいこなすには訓練しかない。
そして、訓練をかさねればかさねるほど、おなじ動作ができないことに気がつくものだ。

これを克服したものが「名人」となる。

戦国武将たちが、こぞって茶道にはまったのは、おなじ動作ができないけれど、直接いのちをうしなうこともないからではないのか?
これがサロン化し、かつ、名人があらわれた。

名人は尊敬の対象になる。

はたして、世の中はデジタル時代。
「0と1」によってつくられている。
まともに「0と1」に対抗するなら、人間に勝ち目はなくなっている。

アナログという「連続」のなかで、いかなる「名人」となるのか?
デジタルがやる「おなじ動作」とは、ぜんぜん次元がことなる分野こそ、人間の生存空間になっているのである。

このことに気づいた親たちは、じぶんで「生き抜く」ための教育を子どもにしている。
このことに気づかない親たちは、受験に「生き抜く」ための教育を、いまだに子どもにしている。

産業界も、あいかわらず「惰性」で採用をきめている。
「一流企業」が「一流」だったのは、他社が自社とおなじ動作ができないからだったが、おおくがデジタルによって侵蝕された。
他社が自社とおなじ動作ができるようになって、衰退がはじまったのだ。

ならば、どうするか?
尊敬を得られるための努力しかないのである。

『魔笛』の危険な主張

年末なら恒例の『第九』なのだろうが、地元の公会堂で舞台音楽研究会創立25周年記念公演『魔笛』の「夜公演」を観てきた。
この公演は「昼」「夜」でキャストが入れかわるのだ。

ご存じ、モーツァルトの最後のオペラ作品として有名だ。
いまは「オペラ」に分類されているが、当時は「歌付きの劇」という軽い分類だった。
なにせ、作曲がモーツァルトだから、曲自体も軽妙かつ完璧である。

生まれ故郷、ザルツブルク時代からの友人で、劇団主だったひとが、もはやほとんど「無職」状態だったモーツァルトのあまりの窮乏をみかねて、作曲依頼したといわれているが、ほんとうか?
「問題」は、このひとがみずから書いた「脚本」にあるのだ。

着手から半年で完成しているのは、やはり天才のなせるわざだが、この三カ月後にモーツァルトは没している。
「憐れみ」からだけで、作曲を依頼したとはおもえない。

ヨーロッパでは、モーツァルトのオペラでもっとも人気があるというが、はたしてわれわれ日本人には、あんがい「難解」なはなしになっている。

オペラはイタリア語にきまっているという時代、ドイツ語でやるのがドイツ・オペラだ。
ドイツ語圏のひとたちがつくって観賞するオペラだからドイツ語だ、というわけにはいかないのは、ドイツ語の「きたなさ論争」にある。

イタリア語の発音が、しぜんと「歌になる」というメリットが強調されて、ドイツ語の不細工が卑下されたのである。
だから、ドイツ語でやる、というのには、なにくそという意志がある。

のちに、ドイツ・オペラの頂点をつくったワーグナーが、みずからの作品を「楽劇」とよばせたのは、「アンチ・イタリア・オペラ」の意思表示なのだ。

余談だが、ワーグナーの人格破たんは有名だ。しかも、強烈な反ユダヤ主義者だったから、ヒトラーに愛された。もちろん、ワーグナーが亡くなったのが1883(明治16)年だから、1889(明治22)年うまれのヒトラーは、まだこの世にいない。

ヘイト・スピーチに刑事罰を課す川崎市に、ワーグナーは生活できない。

そんなわけで、何語でオペラを書くのかは、決定的に重要なのだ。
今回の公演は「日本語」だった。
舞台背景を3D映像でみせるのは、メトロポリタン歌劇場の『ジークフリート』もそうだった。

『魔笛』の難解さは、いいものと悪ものの役が入れかわることに、さいしょの原因がある。
娘をさらわれた「夜の女王」が、いいものと思いきや、さにあらず。
娘をさらった独裁者「ザラストロ」が、悪ものと思いきや、さにあらず。

しかして、背景にも「古代」と当時の「現代」とがかさなっている。
セリフにもあるからわかるのが、古代エジプトの「オシリス」と「イシス」の二神をあがめるのが「ザラストロ」だ。

歌詞の「神々」とはこの兄妹にして夫婦の二神をいうから、キリスト教の「神」をイメージしてはいけない。

さらに、当時の「現代」として、「夜の女王」がオーストリア帝国の女帝「マリア・テレジア」として皮肉っていることだ。
本上演の「背景」に、古代エジプトの風景や神殿にスフィンクスが投影され、女帝の肖像画までも登場するのは、作品の内容に忠実だ。

しかして、革命の嵐によって、彼女の実娘にしてフランス王妃マリー・アントワネットが断頭台に消えたのは、モーツァルト死後2年後のことだから、この作品に描かれることはない。
はたして、夜の女王の娘「タミーナ」とは誰なのか?

そして、きわめつけが「じつはいいもの」のザラストロとは、ゾロアスター教における「ゾロアスター」=「ツァラトゥストラ」のことである。

人類さいしょの「経典宗教」は、明(善)と暗(悪)の二元論だから、夜の女王は「暗=悪」なのである。
なぜか?本物の「女帝」は、ドイツの敵、カソリックだからである。

このおそるべき「アンチ・クリスト」オペラは、後世のニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』につながる。

 

いわば、これぞ「フリーメーソン」なのである。
すると、劇中の「試練の儀式」とはなにか?
まったくもって、フリーメーソン「入会の儀式」ではないのか?
これに臨む王子「タミーノ」とは、ゾロアスター教からでた「ミトラ教」の「ミトラ」をもじったといえる。

最後の場面は、フランス革命をドラクロワが描いた「自由の女神」「マリアンヌ」を背景に、作曲の1年前にはじまった「フランス革命」を「賛美」しているのである。
彼女がかぶる赤い三角帽子は、「フリジア帽」という「ミトラ」愛用の開放された元奴隷、「自由奴隷」の象徴である。

世界で唯一、ちょうどいまごろ、年末恒例として各地で演奏される『交響曲第九番』で、シラーが書いた「神」も、キリスト教の「神」ではない。
歌詞をよく読むと、にじみでてくる。
もちろん、シラーもフリーメーソンである。

さすが、ベートーヴェン。
モーツァルトのフリーメーソンにおける後輩だけある。
しかし、フランス革命の悲惨は、皇帝ナポレオンによってさらに混迷したから、交響曲第三番のタイトルをナポレオンから『英雄』に書きかえた。

まことに、両大作曲家は「政治的」なのである。
そして、モーツァルトは未完の遺作に『レクイエム』をのこし、ベートーヴェンは、第九のあと、弦楽四重奏曲に代表される「深遠世界」にいってしまう。

ドイツ人がいかに「カソリック嫌い」なのかがわかるのである。
ヨーロッパは、カソリックとプロテスタント、それにフリーメーソン(ゾロアスター教)の「三つ巴」が下絵にある地域なのである。
これを、当のヨーロッパ人はしっている。

それにしても、「初演」における「タミーノ」の衣装が、わが国、平安貴族の「狩衣」だったとはおどろきである。
「東方」からのイメージを強調したかったのか?
わが国では第11代、徳川家斉の時代だ。

本上演での衣装は、当時風の夜の女王一派と、エジプト人愛用の民族衣装ワンピース「ガラベーヤ」、それに古代ギリシャ・ローマ風の三つ巴でキャラ設定と一致させていた。
狂言回し役の「三少年」が、羽根つきの「天使」という衣装だったのが気になる「ミソ」である。

この作品は、おとぎ話=子ども向けメルヘンなのではなく、奥深く、難解にしてフランス革命賛美の「プロパガンダ」なのである。

近年、そのフランスでフランス革命の見直しが議論されている。
ために、「パリ祭」が地味になってきている。
ようやくフランス人が、『フランス革命の省察』を読み出したのか?
英国保守主義の父「エドマンド・バーク」の歴史的著作だ。

革命以来、今日まで、フランスの政治がグダグダな理由は、価値観が定まらないからである。
日本病も同様だ。

モーツァルトの「軽妙さ」には、「毒」がある。
しかして、日本語であろうとも「夜の女王」のコロラトゥーラ・ソプラノが聞かせるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」は、「言語をこえて」いるから、まさに全編の聞かせどころになっている。

若いコロラトゥーラ・ソプラノ歌手の、堂々とした夜の女王らしいふてぶてしい演技。
その細く華奢な体躯から発せられるみごとな歌唱は、よほど体幹(インナーマッスル)が鍛えられているのだろうと感心したのは、まったく立ち位置の軸がブレないからで、腹筋と背筋の強靱さがあってだろう。おおくの歌手のそれは、仕方なく上半身を揺すってしまうものだ。

この時期、なぜ『魔笛』なのか?
それは、北半球における冬の代表的星座、「オリオン座=オシリス」と、その後からおいかける「シリウス=イシス」が二神の象徴だからだ。

オシリスが「復活」をとげるのが「冬至」。
この日より夏至まで、太陽の力が増すからである。
冬至の祭りこそが、高緯度にあるヨーロッパで切実なのは、理解しやすく、それが「クリスマス」になった。

終演にあたって、出演者と観客とで「きよしこの夜」を歌った。

この「歌」は、ナポレオン戦争による暴力と苦難を背景に、そのナポレオンがワーテルローで敗北して、「ザルツブルク」がオーストリアの領土に復活したことを記念している。
じつに「心憎い」演出だった。

そして、年末に「スター」を観た。

人間は100Wで生きている

「おしくらまんじゅう」は、「押し競饅頭」と書く。
子どものころ、寒い冬場に、校庭にでてクラスのみんなとやった経験は、だれにでもあるだろう。
しばらくすると、うそみたいに身体が温かくなったものだ。

どうして「温かくなる」のか?
意図的に満員電車状態になって、さらに、からだを誰かにこすりつける「運動」をするからだ。
じぶんの「運動」とだれかの「運動」がかさなることと、こすりつける「摩擦」の二つの要因によって「発熱」する。

こすりつける「摩擦」だけで「発熱」するのは、身近なものでは「電子レンジ」に代表される。
この機械は、マイクロ波という「電磁波」を発して、食品にふくまれる「水分子」を振動させて、分子どうしの「摩擦」で急速に温度をあげるしくみになっている。

このときの「振動」は、一秒間に24.5億回もの回数になる。
なので、その回数分、水の分子はこすられて「発熱」するから、あっという間に調理ができるのである。

ならば、人間の「熱量」とはどうなっているのか?
男女の差、年齢の差、体重の差など、いろんな条件によってちがう。
基礎代謝のカロリー数を、仕事量の単位「ジュール」に変換すると、「ワット/秒」が算出できる。

一日の必要カロリー数として、よくいわれる「中肉」の「成人男性」だと、2400Kcalになる。
1ジュールは、0.239カロリーで換算できるので、
2400Kcal÷0.239=10041KJになる。

1ジュールは、1KW/秒だから、
10041KJ÷24h÷60m÷60s=0.1162KW
Kをとるために1000倍すれば、116W。
なんと、むかしなつかしい100Wの白熱電灯とほとんどおなじなのだ。

すると、子どもだからといっても、人数があつまって「おしくらまんじゅう」をすれば、それなりのワット数になる。
それなら温かくなるわけだ。
天候によっては、集団から湯気があがるのがみえるのは、かなりおおきな電気ストーブが中心にあるのとおなじだからである。

ダイエットのためにカロリー・コントロールをするのは、さいきんは正しくないといわれている。
人間がいのちをつなぐために必要なのは、カロリー数だけで計算できず、栄養バランスがないと不健康になってしまうからだ。

しかし、それを前提にカロリー数=出力としての「ワット数」をかんがえると、人間はかなり効率がいいことがわかる。
将来、人間型のロボットが生活必需品になって、面倒なことをやってもらうことになるとして、いったいこうしたロボットをうごかすのに、どのくらいの動力がひつようなのか?

100W以下でなければ、かえってエネルギー損失になる。

このようにかんがえると、SF小説でいうロボット社会というのは、はたして実現可能性があるものか?おおいに疑問である。

むしろ、エネルギー消費効率が人間よりはるかに悪い=コストがかかる、ことを承知で、ロボットをつかうことになるから、ロボット運用以外の分野における「効率性」をたかめないと、経営がなりたたない計算になる。

けれども、人間のエネルギー源は「食糧」だから、食べ物がないと生きていけない。
つまり、食料確保こそが、根本的な命題なのだ。
そして、かならず「排泄」しなければならないので、この「処理」をおこたれば、たちまちにして不衛生な環境になり、やはり生きていけない。

これが、文明システムの基本中の基本である。

さて、さきほどの計算で、一日の必要カロリー数からえた仕事量は、10041KJだった。
つまり、一日1000万ジュールほどになる。
すると、年間では、1000万ジュール×365日=365000万ジュールだ。(36億5千万ジュール)。

ざっくりだが、子ども時代があるから、平均寿命の人生85年ではなく、割り引いて70年とすると、36億5千万ジュール×70年=25550千万ジュール(2555億ジュール)となる。

比較対象が不適切の誹りを免れないかもしれないが、広島型原爆は55兆ジュールと計算されている。
550000÷2555=215人
たった2百人あまりのひとの一生で、あの爆発に匹敵する。

これは、おどろきである。
人間が食べる「だけ」でこれほどのエネルギーをつかうのだ。
生活におけるエネルギーは、これにくわえなければならない。

「持続可能社会」といういいかたに違和感をおぼえるのは、なんだか「安易」な感じがするのは、このことだ。

はたして、食べ物をえることだけでも、当たり前のように「持続」できるものなのか?
そうかんがえると、江戸時代に鎖国できたのは「食料自給率」が100%であったからだった。

けっきょく、わが国は貿易によって利益をえないと「食べていけない」し、そのためには、関係する地域が「平和」でないといけない。

戦後、このことをわが国の保護国であるアメリカが担ってきたが、息切れをはじめている。
「生存」のために、どうすべきかがいよいよ問われる時代になったものを、「持続可能社会」とは脳天気すぎないか?

あっとおどろく「地殻変動」がはじまっている。

英語キーボード

前に、モバイルPCの不満を書いた。
このなかでも触れたが、入力機器として不可欠の「キーボード」についても書いた。

どうして「英語キーボード」というのか?
これは、日本人が「日本語キーボード」を開発したからだ。
世界にはたくさんの言語があるから、それぞれの言語におうじたキーボードがつくられている。

だから、いきなりヨーロッパのホテルで、たとえばロビーに設置してある自由につかえるパソコンだって、国によって日本人客がとまどうのは、キーボードがその国の言語設定をしていると、なんだかわからない文字を入力させられて、ぜんぜんつかえないことになるのである。

日本の図書館の蔵書検索も、「かな入力」がデフォルト設定されていると、「ローマ字入力」ができないからとまどうことがあった。
まことに「パーソナル・コンピューター」とはよくいったもので、自分用のパソコンだから、じぶん以外の多数で共用するとなると、いちいち面倒なことになる。

「音声入力」がずいぶんつかえるようになってはきているが、あいかわらずの「主流」は、いまだにキーボードからの入力である。
思考のスピードと合致するからであろう。

キーボードといえばタイプライターの時代から、「英語入力」に適したものを指すのが、本来なのである。

ところが、タイプライターでは絶体にできない、ローマ字入力しても「日本語変換」ができるというのが「コンピューター」といわれる「電子計算機」の特徴で、これが、一般事務機としての普及の最大要因になった。

どうしたら日本語を楽に入力できるのか?

さまざまな方式がかんがえられた。
いまや博物館の展示品になっている「和文タイプライター」は、公式文書作成に必須だったけど、盤面にひろがる漢字を一字一字選択するために、訓練と技術を要したものだった。

それで、「ワープロ」という日本語文字入力に特化したコンピューターが、「パソコン」という「多機能機」よりも人気があった時代があった。

なぜかといえば、「パソコン」は「ソフトウエア」をインストールしないといけないという「手間」があったし、初期のころはまともなソフトと未完のソフトが入り乱れて販売されていて、「定番」すら形成されていなかったのである。

もちろん、ワープロも、メーカーごとに「規格が違う」ため、保存したデータの汎用性までなかった。
むしろ、ユーザとしては、メーカーごとにあった「入力方式」を買っていたのだ。

そこで登場したのが、「親指シフト」方式で、これに「ひらがな入力」と「ローマ字入力」というほぼ三種類の入力方式による「専用機」がつくられたのだが、「ひらがな入力」と「ローマ字入力」は、「切替」によってできる工夫でおなじキーボーでもつかえることになった。

ことにローマ字入力が批判されたのは、キーを押す回数の不利、であった。
これだけをとらえれば、圧倒的なのは「親指シフト」方式であるし、つづいて「ひらがな入力」も有利だ。

根強い「親指シフト」派はいまでも存在するけれど、ワープロが衰退してパソコン全盛の時代になれば、メーカー独自の「親指シフト」は同時に衰退してしまった。

それで、本来「ひらがな入力」のために開発された「日本語キーボード」が、ローマ字入力「も」できたから、いつのまにかスタンダードになってしまった。

しかも、「日本語」と「英語」という「枕詞」が区別のための「記号」になったから、あたかも「日本語キーボード」でないと日本語入力ができない、とか、「英語」は苦手だし英語なんて関係ない、という感情が機能の本質を無視して普及したとかんがえられる。

けっきょく、ローマ字入力が主流な方式になったのにもかかわらず、それにもっとも適した「英語キーボード」ではなく、あいかわらず「日本語キーボード」が「標準」になっている理由はなぜだろう?

ここにも、社会の「慣性」があるのだろう。

なんとなく、キーボードといえば「日本語キーボード」に決まっているという決めつけは、「思い込み」でしかないし、パワーユーザーたちが「英語キーボード」の有利さ、便利さを強調して発信しても、どういうわけか「響かない」のである。

つまり、普及しない。

ここに、強固な「壁」をかんじるのは、まさに「社会の壁」なのである。

ネットでしらべれば、英語キーボードと日本語キーボードのちがいがいくらでも解説されている。
もっとも重要なポイントは、左右の「まん中」が、日本語キーボードは「ズレ」ていることだ。

それに、最も押下頻度がおおい「エンターキー」が、日本語キーボードは二段をつかって大きく見えるが、じつは右手の小指で簡単にはとどかない位置にある。
英語キーボードは一段しかないが、横に長く押しやすい位置にある。

この二点が、圧倒的に英語キーボードの有利さなのだ。

かくいうわたしも、英語キーボードの有利さに気づかないでいた。
使ってみれば、「わかる」のであるが、パソコンのキーボード設定を変えることと、カッコや¥マーク、@など、若干のキーの場所がことなるので「慣れ」がいる。

さいきんでは高級万年筆の人気が復活しているというが、「書く」ということなら、キーボードへのこだわりも重要だ。

いちどつかい慣れたら、もう手放せないキーボードだって存在している。

パソコンをもって外出するときに、コンパクトな英語キーボードも欠かせないのは、重量をこえた便利さ使いやすさがそうさせるのである。

高級でコンパクトなキーボードで有名なメーカーから、先週、数年ぶりの「新製品」が発売された。
欲しい、のは「マニア」だけではあるまい。
しかし、いまどきならPC本体が買える値段ではある。

ドイツ国鉄のつぶやき返し

リスクを避けることが最上位の判断基準になりさがったわが国では、かんがえられないことは、利用者が発したメッセージに「反論」するようなことである。

これは、「役所」や「公共的」なサービスにおける「鉄則」にもなっていて、とにかく「問題がないこと」を最優先させるから、なにかするときも「問題がないこと」を前提とし、おわったあとにも「問題がないこと」とする。

この「臆病」ともとれるような価値観はどこからやってきたのか?

そして、「臆病」ゆえに、過剰な方法をもってじぶんたちに「問題がないこと」をとにかく主張する。
だから、利用客にとってはそれが「うざったい」こともあるが、利用者を「最大公約数」として無視することすら「問題がないこと」になるのだ。

たとえば、さいきんの首都圏のJR駅における放送で、弱者保護に対する健常者からのヘルプを要請するものがある。
いちいち目くじらをたてるのはいかがかという意見もあろうが、この「上から目線」はなんなのか?

駅構内であれば、まっさきにヘルプを業務とするのは「駅員」の方である。
すべての改札口に、係員がいるのはなんのためか?
いったい、どういう人員配置をしているのか、駅長にきいてみたい。

駅員の業務をいわずに、健常者の客に「義務のごとく」すりこむ放送をくり返すのは、いったいなにを意図しているのか?
弱者保護が面倒だといいたいのではない、主客が逆だといいたいのだ。

そんなわけで、わが国の現状では「ありえない」ことをドイツ国鉄がしでかした。

あの「環境少女グレタさん」が、国際環境会議からの帰路、ドイツ国鉄の混雑にうんざりしたというツイートを書いたものに、予約した一等席での「おもてなしに不満なのか?」とツイートで返したのである。

しかも、列車の床に座りこんでいる写真まで彼女のツイートには掲載されているけれど、この写真はだれが撮影したものか?
彼女の横には、おどろくほどたくさんの荷物が写っている。

鉄道が「エコロジー」なのか「エコノミー」なのか?ということは、こないだ「新幹線」を題材に書いた。
走行中だけ、電気をつかうから余計な排出ガスはないけれど、その電気をどうやって発電したかは問題にならないし、線路を敷設するための資源はどうなっているのか?も問われない。

まことに「環境」をかんがえることは、やっかいで、手間がかかることだが、彼女の議論にはこれがない。

残念なことに、彼女の背景にどんなひとたちがいるのかもだんだん見えてきた。
さいしょに彼女が国際舞台に登場したのは、アル・ゴア副大統領との会談だった。

かれは環境問題で、2007年にノーベル平和賞を受賞しているけれど、主著『不都合な真実』を書いていながら、自宅における電気代が月間30万円ともいう贅を尽くした不都合な生活をしていることで批判されたことでもしられる。

国際的な環境保護組織も、彼女の活動をささえていることでしられはじめた。
ある評論家は、これは、沖縄における基地問題にも関与する組織であると発言している。

そういえば、世界最大の温暖化ガス排出国である大陸の国になると、彼女の舌鋒はがぜん鋭さをゆるめるどころか、発言は皆無になる。
それは、背景の組織が「党」と関係があるからだという指摘まである。

これはいったいどういうことなのか?

いまになって、急速に「離中」政策をとりだしたのは、「親中」べったりだったドイツである。
発電方法を一気に変更したら、変更前から数倍の電気代になった。
さいきん、とうとうドイツの経済成長はマイナスを記録している。

いわば、「環境疲れ」をしているのがドイツなのである。

彼女を援護するひとたちも、「一等車」への乗車には辟易しているようだ。
けれども、写真にあるようなすさまじい荷物があるなら、予約なしで「二等車」に乗られても迷惑だ。
そんなわけで、一等車に乗っているのに床に座りこんであたかも「たいへん」だという姑息な芝居が、予想外の反響をうんでしまったようだ。

ヨーロッパはあいかわらずの身分社会だから、じつは平民が一等車に乗ることがはばかれる習慣がある。
そんなことから、この少女が一等車に乗りながら「環境」をいうことが、アル・ゴア氏の生活とダブるのである。

しかし、ドイツ国鉄のつぶやき返しがなかったら、一等車だとわからなかったから、これに返した彼女のつぶやきはしどろもどろである。
みせたくないものをみられてしまった、というよりも、じぶんで墓穴を掘ってしまったのだ。

それでかはしらないが、突然、香港の市民支持をいいだして、すぐさま政府が反論している。
「やらせ」でないことを期待したいが、女の子を利用しようとするおとなたちがいることだけは確かなようだ。

日本では、もうこんな逸話もおきそうにない。

いつもよそいきの、気取った態度で、いつでもどこでも「いいこでいたい」。
それが、もっとも「無難」だからである。

でも、どこかで「お里がしれる」ものなのだ。

二つの産業と二つの資本主義

二つの産業とは、金融業と非金融業をいい、二つの資本主義とは、金融資本主義と産業資本主義をさす。
いま、この世は金融業による金融資本主義の世界と、非金融業による産業資本主義の世界が奇妙な共存をしている。
金融業による金融資本主義の世界を、むかしは「虚業」とよんでいたが、それができたのは非金融業による産業資本主義の「実業」の世界が「主流」だったからである。

だから、むかしは「企業家」のことを「実業家」とよんでいた。
はたして、いまは「企業家」のことを「虚業家」とはいえないから、そのまま「企業家」とよんでいる。

わが国の「経済専門家」の一部のひとは、「資本主義の終わりの始まり」とか、気のはやいひと、あるいは資本主義が嫌いなひとは、願望もこめて「資本主義の終焉」とかといいふらしている。
しかし、ヘトヘトになってしまったのは「産業資本主義」で、台頭しているのが「金融資本主義」なのだ。
「資本主義」は、ぜんぜん「終焉」などしていない。

さいしょの「ひと文字」から、さいごの「ひと文字」まで、ぜんぶまちがっているマルクスの主張を、いまだに信じて、歴史の発展過程は資本主義の次に社会主義がやってきて、それから理想的な共産主義になるというのは、「ナンセンス」をとおりこした妄想である。

ソ連や東欧圏の失敗のみならず、ただいま現在進行形の国家権力によるむき出しの「人権弾圧」は、一体どこの誰がやっていることかをしらないはずがない。

しかし、これらの「人権弾圧」をやっている国は、いまだに「共産主義」を標榜しているけど、歴史的に発展した資本主義を経験していない。
だから、「エセ」なのだ、というヘンテコな弁護すらある。
これがヘンテコなのは、「エセ」だから「人権弾圧」が許されるのだといって、見ない振りをするからである。
よくもこんな暴論をいえるものだ。

人間のこころを持ちあわせない「悪魔」にちがいない。

「資本主義」を国是にするはずのアメリカ合衆国で、金融資本主義が蔓延し、その反動から社会主義が台頭してきている。
アメリカの苦悩は、人口構成の激変という事情もある。
今後、数十年で、「白人が少数民族になる」のだ。
少子化の白人と、多産のエスニック等が、人口で逆転することが「確実」になっている。

わが国の人口推計には、移民が考慮されていない。
しかし、少子による人口減少スパイラルは、すでに発生していて、もはやだれにも止めることができない。
日本人女性の特殊出生率は、ほとんど「ひとり」になった。
うまれてくる子どもの半分しか女の子はいないので、成人してからの出産期を勘案すれば、30年から40年周期で子どもの数が半減するモードになっているのだ。

したがって、わが国も、将来のどこかの時点で、日本人が少数民族になること「確実」なのである。
この意味において、鳩山由紀夫元首相の「日本列島は日本人だけのものではない」というフレーズはただしい。
ただし、今現在の日本人に「多民族国家」になることの覚悟は、まったくない。
きれいごとではすまない事態が、もうすぐやってくるのである。

そんななかで、もうひとつ覚悟がぜんぜんできていないのは、「資本主義」が「産業資本主義」だけだと、いまだに思い込んでいることである。

「カジノ」すら、ただの「博打」とか「賭場」だという認識しかできていない。巨大なパチンコができるようなものだと、たかをくくっているのではないか?

確率論を駆使した、客の資産を巻き上げる「システム」とかんがえれば、立派な「金融資本」なのである。
資金を提供する「投資家」は、資金回収しか興味がないのだ。

しかしながら、パチンコすらとっくにリアルタイムで「利益」が把握できるシステムになっていることに興味がない経営者はたくさんいる。
もちろん、パチンコも、「貸し玉」と「出玉」の交換比率がちがうことから利益をえるので、じつは金融業的なのだ。

すでにあやしい金融商品を大量購入しているわが国の金融機関は、「破たん」の危機にある。
この手の金融商品は、いったい誰のお金で買ったのか?
貸し付けるなら、信用創造になるが、リスクをことごとく回避した。
金融機関が貸出をしない、できない、という愚策に誘導したのが金融庁と日銀である。

わが国の国民が昭和の時代に稼いで貯めたお金が、なんとそっくり外国の金融資本に吸い取られようとしている。
はたして「資本主義が悪い」といって済まされるものか?
産業資本主義から金融資本主義に移行したことに気づかなかったものを、世界はふつう「間抜け」というのだ。
あるいは「カモ」ともいう。

人類史上はじめての「マイナス金利」までやって、どうなるかをかんがえもしない態度は、真珠湾を攻撃しただけで「ハワイ占領後に王国復活」などかんがえもしなかったのとそっくりである。
アメリカのハワイ王国滅亡と簒奪の手段をしらないで、毎年の正月に遊びにいく脳天気が、まことに「間抜け」の象徴なのだ。

利ざやが稼げない巨大金融機関が、こぞって外国証券会社の高金利商品にじぶんから飛びついた。
これを「カモねぎ」というのだ。

カジノ誘致に税金を投入するのも「カモねぎ」だ。
相手がなにを目論んでいるのか、いっこうに理解できないのは「知能」の問題になっている。

わが国は、とっくに「銀行家」が絶滅したのである。
しかして、ここにこそ、逆転のチャンスがある。
諸悪の根源、金融庁と日銀を廃止するときこそ、活路がひらける。

新幹線は「エコ」ではない

「エコノミー」といえば、経済性があるという意味だ。
やっかいなのが「エコロジー」で、ほんらいは「生態系」のことだった。
紀州が生んだ大天才「南方熊楠」が考案し、そのまま「英語」になったともいう。

熊楠は、明治政府による「神社合祀」への反対運動がきっかけで、いわゆる「鎮守の森」の保護を訴えた。森の保護が海の保護につながると、さいしょに主張したひとだった。
和歌山県田辺市にある無人島「神島」の自然保護に尽力したのは有名で、いまでは立ち入り禁止の島を訪問した、植物学者でもあった昭和天皇の歌碑がある。

特定の人物の名前を御製歌にこめる、ということは、「お立場上」めったにないが、昭和天皇には「熊楠」をうたったものが二首もある。
この歌碑は、そのうちのひとつが刻まれているが、立ち入り禁止だから一般人の目に触れることはない。「神島保護」の成果を褒めたものだ。

とにかく、いまだにあらわれない「大天才」だから、なにをしてもすごいひとで、森羅万象につうじたといっても大袈裟ではない。
最後に、その意味が不明な「南方曼荼羅」を書いて、壮大な宇宙空間に思考がおよんだのであった。

 

しかして、熊楠は科学者であった。
ここが彼の一大特徴なのである。
科学と民俗学、はては、、、と続くから、なに学者といえない。
それで、「知の巨人」というしかないのだ。

日本が「貧しく」なったのは、経済でいうGDPが減ったからということもあるが、精神が貧しくなってしまったのが、もっとも痛い。
経済性をこえて「コスパ」という価値観を最重視しているうちに、経済が傷んでしまったのである。

そして、「エコ」が「エコノミー」のことか、「エコロジー」のことかの区別がつかなくなったから、なんだか「環境問題」への対応が、重要な価値観に変化してしまった。
つまり、「勘違い」である。

一国の社会全体が「勘違い」を起こしても、ふつうは他国との比較から修正が効くものであるが、他国の情報を操作すれば、修正しようということにならない。
つまり、「情報鎖国」が「勘違い」を醸成するのである。

けれども、ふつうは自国の「科学者」が、科学的なアプローチからの「常識」をもって警鐘をならす。
それが「科学者の良心」というものだが、研究費を文科省が独占的に配分するために、「良心」がお金に買われてしまった。

こうして、「御用学者」があらゆる分野でほとんどになったから、多数決で対抗できない。
逆らうと「学会」から追放されて、さらなる研究費が枯渇するようになっている。

文科省の役人は、「学会」を予算配分の道具にしているからである。
そして、文科省が認定した「学会」しか、「学会」と呼称させない。
「認定」するから、わずかでも学会にだって予算が配分されるのである。

役所の縦割りは、いつだって問題になるけれど、役人は学業で優秀だったから、ここ一番になると役所を横断する「関連会議」をつくる。
そうして、関係しそうな役所の役人がぜんぶあつまって、ずる賢い相談をするのである。

なにが「ずる賢い」のかといえば、じぶんの役所の利益になる相談だからだ。
つまり、あつまったすべての役所に利益があるように「調整」するのであって、国民向けの大義も名分もあとから適当にもっともらしくつけるのである。これを「作文」という。

いまや東京から大阪にいくのに、新幹線より飛行機のほうが運賃が安い。
新幹線の料金体系で、何千キロもの距離を移動しようとしたら、とてつもない金額になる。絶対的に、飛行機のほうが安いのだ。

どうしてこうなるのか?

「活動家」の女の子や、アメリカの下院議員のこれまたなぜか女性は、飛行機は「エコじゃない」といって、「乗らない」ばかりか「廃止」をうったえている。

ハイブリッド車や電気自動車が「エコ」だというのは、「走っているときだけ」をいう。
日本の役人も、太陽光発電が「エコ」だというが、これも「発電しているときだけ」をいっているから、物理原理にしたがって、システム全体で「破たん」したのである。

完成車検査で大目玉をくらった自動車会社は、その「太陽光発電」でつくった電気を電気自動車の充電につかうから、こんな「エコ」はないというけれど、いったいいくらの投資がひつようなのか?

10万キロも乗らないで「廃車」にしようものなら、その「ムダ」は、ただ消費者が負担するので、なんのことはない「売り逃げ」だ。
これを推進すると、経済が豊かになると役人はいうが、どんな計算をしているのだろう?計算式が間違っているにちがいない。

産業優先で、売った側が豊かになっても、買った側が貧乏になれば、結局国民の購買力が衰える。
どんどん無駄遣いをしましょう、とケインズ理論を国民に押しつけるのはまともではない。

全部でどうなっているのか?を俯瞰してみれば、ダムが「エコじゃない」のと同様に、あんがい新幹線も「エコじゃない」ことがわかる。
だから、「高額」な料金になるのである。
ただし、その分の「便利さ」に利用客はお金をだしているのである。

鉄道は、「鉄の道」を「全線にわたって」つくらなければならない。
盛り土と高架だけでなく、鉄橋やトンネルがひつようで、できたらできたで「保線」をしないといけない。
これらの材料資源は、自然にあるものを加工しないとつかえない。

JRが新幹線によって、暴利ではなく「適正な利益」をあげているなら、いまの値段が飛行機よりも高いのは、当然なのである。

アメリカ大陸の、大陸横断鉄道が飛行機にとってかわられたのも、「エコノミー」だからだった。
そして、結果的に「エコロジー」でもあるのだ。

「部分だけ」でみると、おおきな間違いをする。
これをみんなで黙っているのは、役人の都合に「忖度」しているからだ。

新幹線があたかも「エコ」で、レジ袋を有料化するのも、行政指定ゴミ袋を強制するのも「エコ」じゃなく、役人の「エゴ」である。

自主的に「言論統制」がおこなわれている。