映画『蜜蜂と遠雷』を観てきた

文学作品として、「直木賞」と「本屋大賞」のダブル受賞が話題になったけど、原作の「小説」を読まずに映画を観るというのは「無謀」だったかもしれない。
そもそも「映像化不可能」と評判の小説なのだから。

読んでもいないのに「映像化不可能」とはなにを意味するのかを「映画」から類推すれば、音楽の「イメージ」のことではないか?
これは、脳がつくりだすもので、本人の経験や記憶からだけではなく、かってに創作することがある。

すると、本人もおどろく体験をするのである。
さいきんの脳科学は、「暴走」という表現をつかうこともある。
それに、脳は脳に都合のよいことを「創作」するから、本人もだまされる。

しかし、犯人がじぶんの「脳」だから、だまされている本人はこれに気づくはずもない。
つきつきめれば、「完全犯罪」である。

これは、「脳」と「肉体」が分離しているだけでなく、じぶんの「意識」すら別物になることを意味する。
脳がだます相手が、じぶんの「意識」になるからだ。
だまされた意識は、もうだまされたことを意識できない。

まことにおそろしいことだが、「現実」である。

これをズバリ表現したのが、1999年の映画『マトリックス』だった。
もう20年も前の作品になってしまうことに、時の流れをうらむしかないが、二作目、三作目とつぎつぎに「難解」になったのは、「意識構造」の解説がどんどんデジタル技術との哲学論争になっていったからだ。

意識がプログラムされている。
では、それをプログラムしたのは誰で、そもそもプログラムをさいしょに創作したのはだれか?
これこそが「アーキテクチャ(論理的構造)」から導きだされる「神」の存在である。

「構造」というキーワードをみれば、レヴィ・ストロースの「構造主義」を連想する。
かれは「神話」における「構造」の解明をこころみた。

はたしていま、ディズニー映画『アナと雪の女王2』も上映中だ。
もはや「ディズニー映画」の制作に「構造主義的アプローチ」は欠かせない。
いかにして「あたらしい神話」を創作するのか?が作り手の「仕事」だからである。

その教科書に、『神話の法則-ライターズ・ジャーニー-(夢を語る技術シリーズ5)』(ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2010年)がある。

オリジナルの映画をつくるはなしと、原作の小説から映画をつくるはなしは、アプローチがことなる。

ディズニー映画のリスクは、公開されない「原作」の構造を神話化する過程のなかにある。
いっぽうで、原作の小説はすでに公開されているから、原作の再現性の「忠実度」にリスクがある。

このことは、「新規事業」と「既存事業」のちがいにもなる。
新規の「事業コンセプト」のなかに、どんな神話をもりこむのか?
既存事業なら、もともとあったはずの「企業理念」や「経営ビジョン」の再現性の見直しにあたる。
見直して、「原作」に問題があるなら、書換ということができるのが「経営」で、映画とはぜんぜんちがうアドバンテージがある。

さて、本作のばあい、「原作」に問題があるのか?それとも「再現性の忠実度」に問題があるのか?
基準となる「原作」を読んでいないから、なにもいえない。
そこで、ヒントになるのが、ネット書店にある「レビュー記事」だ。

観てきた映画のイメージと合致するコメントをさがすと、けっこうな数をみつけることができた。
残念ながら「好評価」のものではない。
すると、映画作品の評価から、原作の評価に重心がうつる。

わたしの違和感は、新人の登竜門としている「ピアノ・コンテスト」にまつわる人間模様が、「薄かった」ことにある。
登場人物の薄さと、登場人物のちかくにいるひとの薄さもあるが、ライバル間の「ギドギドした」対抗意識の薄さが気になったのだ。

千住家は、日本画の長男博、作曲家の次男明、そして末子の天才バイオリニスト真理子を輩出している。

「落ちろ、落ちろ」
コンテストにでた真理子に対したライバルだけでなく、背後にいる親たちから立ち上がる「負のオーラ」がすさまじい、とは母文子の告白である。

すなわち、これぞ「コンクール」なのである。
優勝と二位とでは雲泥の差、「入賞」では自慢にもならない世界。
あらゆる「妨害」と「謀略」のなか、それでも勝ち残ることができるものに、さいしょの「資質」があたえられる。

この「資質」があるもののなかから、演奏テクニックやら表現の豊かさが評価されるのだ。
だから、演奏テクニックやら表現の豊かさをもっていても、さいしょの「資質」がなければ、けっして実力が発揮できない。

これらをトータルに評価する。
でなければ、「世界」で演奏家としての活動などできるはずもない。
これが、「厳しさ」なのだ。

そして、そのもっとも大きな原動力は、選ぶ側の権威保持、にある。
もし「資質」のないものを選んだら、選んだものたちが業界から退場をせまられてしまう「厳しさ」があるからだ。

作中、トップを目指すものたちが、全員「いいひと」なのは、違和感をこえて「ファンタジー」になった。
おそらく、原作が「ファンタジー小説」なのではなかろうか?

「いいひと」

むかしは「いいひとって寒いですね」というフレーズがあった。
「いいひと」だけではダメなのだ、という価値観があったということだ。

これが、いまの日本の「弱さ」なのだとおそわった。

空き家に住みたいけど

世帯数よりおおい新築住宅をどうして建てるのか?
ほんらいなら、単純に「儲かるから」なのだけど、人類史上例がない「マイナス金利」という初体験で、「とにかくつくってしまえ」というやけくそが本当の原因かもしれない。
発注があるからつくる、という順番をたどれば、建材屋がいちばん儲かるはずだがいかがか?

すると、発注したのに売れないということになると、たくさん売ろうとした目論見がはずれたことになって、そのうち大損するひとがでてくるはずだ。
しかし、あたらしく供給されている住宅は、あんがい都市部であって郊外ではない。
人口が減るなか、郊外から都市部への人口移動がおきているのはこのためとの指摘がある。

では、都市部と郊外の境目はどこなのか?
主要ターミナル駅から電車で20分、そこから徒歩15分内ぐらいだろうか。
ここから外が「郊外」となる。
この微妙な「エリア感」が、「過疎」をみとめないのだ。それは、都会のはずの「住所」地域があるからである。

市町村の仕事が整理されていないから、余計な商工課とか観光課があったりする。
70年代、「画期的」と賞賛された東京都中野区は、戸籍係や転入出の窓口をぜんぶ「1番」として、「1番」窓口がたくさんできた。
なぜ戸籍係がひつようなのか?なぜ転入出するのか?
「そこに住人がいるから」という結論から、窓口をまとめても手続きにくるひとが混乱しない仕組みをつくった。

全国各地の役所から見学者がたえなかったというが、中野区のやり方をマネした役所はとうとうあらわれなかった。
役人の仕事のやり方が変わるからである。
住人の利便性追求よりも、役人の仕事のやり方を変えないことを優先する。
50年前のはなしだが、今日ただいまぜんぜん変わっていない。

なんども指摘している『パーキンソンの法則』にもとづいて、わが国の役人の数も増え続けた。
「仕事量に関係なく、役人の数は増え続ける」のである。
そんなわけで、住民にとってどんな役に立つのかとは関係なく、役人の数はふえて、仕事もふえる。
ふえた仕事は、住民にとって「ムダ」だけど、「ムダ」な仕事で生活できるのは「天国」だ。

だれもが「天国」にいきたいから、いまやわが国の就職先で最高人気は「役所」になった。
これが「役人天国」の本質である。
そして、「指定管理者制度」という、役人が遊んで暮らせる「制度」もつくったから、仕事をしているふりすら忘れて、日がな一日時間つぶしに登庁している。

そんなわけだから、じぶんところの「住民の数」が、これからどうなるのか?の調査もしない。
「昭和時代」もまさかの「戦前」に策定した「都市計画」を、いまだに「基本計画」にしていることだってある。
へたに「審議会」が仕事をすると、じぶんたちに面倒がふりかかるから、お金をくばって「学会」を制御する。
こうして、研究費が喉から欲しい学者は、役人という「メフィスト・フェレス」に魂を売って、束の間の甘い夢をみるのである。

空き家は放置すれば「廃墟」になる。
住宅地に廃墟があると、路線価に悪影響するかもしれない。
さすれば「税収が減る」から慌てるかといえば、慌てるはずもない。
路線価を決めるのも役人だ。いざとなればカジノを誘致すればよい。

面倒なのは、近隣住民からの「苦情」だけだ。
たまに、仲間うちの「消防」からも文句をいわれる。
不動産屋は新築にしか興味が無い。
空き家を売って、あとからクレームをいわれるのが面倒だし、建物の専門家でもないからほんとうの価値がわからない。

過疎地なら、しかたがないので「空き家バンク」なる、ムダ仕事でお茶をにごせる。
ただし、住民間のトラブル対処はまっぴらだから、町内会や自治会の活動内容や、だれが地域のボスかは知らないふりをする。
こうして、移住者がネットに情報をばらまいて、田舎暮らしの地獄絵図が全国にひろがった。

リタイアを契機に、適当に不便かつ適度に便利な場所に移住をかんがえるひとはおおいだろう。
いまさらの「新居」に、虎の子退職金をぜんぶ使い果たすことができないからである
需要はあるけど、残念ながらほとんど情報がない。

相続が発生すれば、法務局と税務署はFAXで連携するのに、その後がない。
司法書士が遺族や家族と連携できないものかとおもう。
ほんらいなら、融資もふくめ、これぞ「地銀」のビジネスではないのか?

ついでに、リバース・モゲージ・ローンの設定でもしてくれないか?

いい空き家があれば住みたいけど、よってたかって、何だかなぁ、なのである。

技術が盗まれる促進法

もちろん、そんな「促進法」は「ない」けれど、「防止方法」も「ない」から、消極的だけど促進しているのとかわりはない。
これをふつう「未必の故意」という。

もう一年以上前になるが、日本で品種開発された人気のブドウ「シャインマスカット」が韓国の農家で堂々と栽培していて、中国に大量輸出されているとの報道があった。

ネットでは、どこかの市の農業担当課職員と農協職員とで、「無料」の技術指導までしているとある。
交通費も出してくれないなら、「持ちだし」ではないのか?ともかんがえられるが、このひとたちは「善意」でやっているのだとも推測できる。
はたして事実だろうか?

「シャインマスカット」を開発したのは、国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構、略して「農研機構」だ。
2006年に日本で品種登録を実施したが、その際、輸出を想定していなかったため、海外での品種登録を行わなかった。

つまり、韓国の農家がわるいのではなくて、なんと「鎖国」していると勘違いしたわが国の役人が、国際的な権利の登録をしない、ということでの「技術が盗まれる促進法」を実施したのである。

「植物の新品種の保護に関する国際条約(UPOV条約)」というのがあって、もちろんわが国も韓国も中国だって加盟している。
このなかで、海外での果物の品種登録は国内での登録から6年以内に行うことが定められている。
ようは、わが国の政府機関であり開発者の「農研機構」は、6年間、なにもしなかったのだ。
それで、韓国での栽培と輸出販売がはじまったのである。

こまったことは、中国での人気だ。
「オリジナル」の日本産は、価格が高くて売れない。
「中国の国内産」まで登場しているが、技術水準が低くて売れない。
そんなわけで、韓国産の一人勝ちなのである。

もちろん、「中国の国内産」だって、国際条約上「合法」だから、日本が文句をいえるものではなくなっている。
とうぜんだが、国内産地の山梨県の農家は憤慨しているけれど、どうしようもないのである。
純経済原則でいえば、むしろ、安くて品質のよい韓国産が日本で販売されないのは、日本の消費者にとって損失になっている。
「鎖国」せずに、韓国産を輸入販売すべきである。

この手のはなしになると、農家の保護がかならず話題になるが、最優先すべきは「消費者」である。
残念だが、国がやった「チョンボ」のつけが受益者である農家にくるのは仕方がない。
けれど、「農研機構」の開発費からなにからを負担したのは消費者である国民である。
だから、よいものを国民に提供するのは、なんの問題もない。

そうやって、農家が痛みを感じれば感じるほど、国家に依存することの「不利」が、骨身にしみることになる。
さすれば、こんな「機構」は完全民営化すればよく、農家は株式を大量購入して経営者になれば、さらに消費者である国民によいことになる。

つまり、農水省との縁を切ればよいのだ。
経産省はもうちょっとうまくやるが、しょせんは同じ穴のムジナである。
自己保身のかたまりで無責任ないまの経団連のじいさんたちは、かつての石坂泰三会長のやった(役所との徹底抗戦)ことをすっかりわすれて、経産省に依存するから、カネだけでなく技術まで盗まれても他人事なのだ。

これは、「要素価格均等化定理(ヘクシャー・オリーンの定理)」をそのまま現実化したはなしだ。
経済でいう要素とは、資本、土地、労働の三要素をさし、その価格(価値)を「要素価格」という。
定理は、「生産手段が同じなら要素価格は均等化する」。ようは、おんなじ生産物を同じ方法で生産するなら、資本、土地、労働の価格がおなじになる、というはなしだ。

つまり、日本の農家も、韓国の農家も、おなじシャインマスカットをおなじように生産するなら、日本の高い値段がついている例えば労働の価格が下がって、韓国の安い値段の農家の労働がたかくなって、最後にはおなじになる、という意味だ。

中国ではおなじシャインマスカットをつくっていても、つくりかたに技術がないから、この定理に乗ってこない。
すると、日本の農家がこの定理から逃れるには、韓国の農家とはちがうつくりかたをするか、シャインマスカットの生産を「やめる」しかない。

これは、「比較優位」のことで、リカードがとっくに気づいた貿易論の基礎中の基礎である。

まことに、おそろしい「定理」なのである。
それが「条約上の申請をしなかった」ことが理由とは、噴飯物のお粗末仕事ではないか。

これが、わが国の凋落を象徴している。
理系の技術でまさっても、文系が無価値に変える。

しかし、おおきな教訓は、役人が国産農産物の輸出をしない、と決めつけたことにあるのだ。
なぜ役人にこんなおおきな権限を与えているのか?ということこそがわが国の問題なのだ。
区役所の下級官吏とて、それなりの「裁量権」をもっている。
かれらは「行政官」なのだから、本来は「法」にしたがうしかなく、「裁量」があることじたいあってはならない。
「法」を定めるのは選挙でえらばれた議員だけのはずだからだ。

この根本の仕組みが機能不全になっていて、役人がつくった案を議員が決めるだけになってしまった。

こうして、たかだかとはいえ、シャインマスカットの国内での将来性がうばわれ、貿易で有利な韓国産を購入することが合理的になるのである。
しかし、たかだかといえないのは、およそ全産業に、おなじ構造がおよんでいるからである。

50年ぶりに低い失業率

1969年以来だから、ぴったり50年、半世紀ぶりに低い失業率を達成したのは、現代のローマ帝国、アメリカ合衆国である。
「栄光の60年代」をかざる数字は、どのようにしてできたのか?
それは、民主党なのに減税をやったケネディ大統領の遺産だった。

世界には「景気」にかんする二つの価値観がいまでもある。
「インフレ」対「失業」だ。

大恐慌の発信地でもあるアメリカ人には、時代をいうときに「恐慌前と後」という感覚が根強い。
これは、日本人にとっての「戦前・戦中と戦後」とでわけることに似ているが、戦勝国なのではなしが大恐慌までいくのである。

「先の大戦」といったとき、京都人が「応仁の乱」というほどの「時間感覚」ではないけれど、各国ごとの「時代感覚」はちがう。

もちろん、戦後の日本をおそった経済混乱は、戦時国債の紙切れ化にともなう一大インフレで、最高600%程度だったといわれている。
ドイツ人は、第一次大戦の敗戦で「真性ハイパーインフレ」を経験した。このときの最高は一兆倍ともいわれている。

喫茶店に入店したときのコーヒーの値段が、店をでるときに二倍になっていたなどという逸話はまだあまい。
パン一個の値段が、100マルク!でもすごいけど、これが一年後にいくらになったか?

教科書に、紙幣をリヤカーに積んで買いものにいく風景や、薪のかわりに炉にくべる写真がのっていた。
薪を買うより紙幣の方がよく燃えて、安かったからである。

そんなわけで、なぜか第二次大戦の戦勝国は「失業」を優先的に怖れて、敗戦国は「インフレ」を優先的に怖れる傾向をもっている。
戦勝国の英米で70年代におきた、「スタグフレーション」が深刻だったは、景気が悪いのにインフレになった。

国民に政府が、とにかく職をあたえようとしたら、市場に貨幣がふえてインフレになったのだ。
これを退治すべく登場したのが、サッチャーとレーガンであった。
コンビを組んで、似たような自由化を主とする経済政策を推し進めた。

真逆をいったのがフランスのミッテラン社会党政権で、どちらが優位なのかと当初は論争にもなったが、時間とともにミッテランもサッチャーとレーガンのやり方をマネしたから、もう論争にもならなかった。

世界の工場として絶好調だったわが国は、苦しむ英米を上から目線で眺めていた。
もちろん、世界の工場の役目が永遠につづくものと信じて疑わなかったからだ。これは、おなじ敗戦国のドイツもおなじだった。

そんなわけで、西側経済の牽引車は、日本とドイツという機関車の「重連運行」だったのを、まさに「自慢」していたし、国際会議でも英米が日独にけん引されることを望んだのである。
いまからすれば、機関車よりもモーター車を複数もつ電車のほうがずっと効率的だと、だれもおもわない不思議があった。

レーガン減税で息を吹き返したアメリカと、あいかわらずの強い日本に対抗するために、ヨーロッパが「徒党を組んだ」のが「EU」である。
これで、西側に三極構造ができたのは、東側の経済を無視できたからでもあった。

それで、経済の強いドイツが域内貿易で一人勝ちの大儲けをしたら、大損した南の国々が破たんしそうになった。
ドイツの凋落はここからはじまる。旧東ドイツへの負担だけではすまなくなった。

日本の凋落はもっと深刻で、頼れる者がいないからと、あろうことか政府に頼ったので、自滅の道を確実に歩んでいる。
サッチャーとレーガンが頼った「ハイエク」を、日本人はほとんど読んでいない不思議がある。

経済学部の入試に数学を要しない「文系」がふつうなのは、かつてわが国で経済学とは、「マルクス」のことだったからである。
いまでも、数学を要しないのは、教授たちが楽をするためだとうたがっている。

やたら数学ができる学生がいたら、かんたんに論破されてしまうかもしれない。
けれども、経済は、ほんとうは人間の営みだから、数学モデルの限界があるのではなかろうか?ともかんがえる。

もちろん、モデルの限界をしるための数学がひつようだ。

かつて、サミュエルソンという天才が、数学を駆使してつくったモデルに経済学者たちが驚嘆したのは、その意味で「いい時代」だったのではないか?

残念なのは「マルクス」にいったひとたちで、完全に「文学」か「宗教」の世界にはいったままでてこない。
間の「哲学」が欠如しているから、やっぱり「理屈」にならないのである。

50年ぶりの低い失業率は、こんどはトランプ減税の効果である。

いったいいつ、わが国で「減税」が議論されるものか?
「マルクス」にいったひとたちの与党いがいの党にも、ぜんぜん期待できない。

けっきょく、政治なんだなぁ。
国民の資質のちがいにちがいない。

マスクをして挨拶する感覚

「不気味なマスクの着用」について前に書いた。
顔認証の技術がすすんで、セキュリティー対策にも応用されるのは、来年の東京オリンピックでも宣伝している。

世界でもっともこの技術研究がすすんでいる国は、自由主義圏にいたらできない「テスト」が、できるからである。
かんたんにいえば、「個人情報」を保護するのではなくて「収集」するためである。

だれが、いつ、どこで、なにを、しているのか?
ついでに、なんで、がわかればもっとよい。
これを、監視カメラの画像から本人特定をすればよい。

ソ連が崩壊した理由には、国民監視のコストがかさんだことが、軍事競争の敗北に直結したからである。
外国との交渉は、外交の延長線上に軍事があるのは世界の常識だ。
けれども、その前の国内事情として、国民が政府の敵だというかんがえになったから、最優先したのであった。

いつ逮捕されるかわからない。
これは、ノーベル文学賞をとった、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の書き出しのメッセージである。
理由は逮捕してからかんがえる。

こういう国を「全体主義」という。
それへの抵抗が、香港デモであるから、素顔のデモ参加者たちがいなくなって皆マスクで顔を隠すようにしている。
あれは、はたして日本製なのか?が気になるところだ。

アジアの国から、日本はまだ憧れをもってみられているらしく、若いひとたちのファッションに「マスクの着用」があるらしい。
女性なら、すっぴんを隠す効果もあるから、近所へのちょっとした外出なら、わざわざ化粧をせずともマスクをすればいいのは便利だ。

マスクといえば白だとおもったら、黒やその他の色もある。
乾燥注意報が連日発令される、冬の太平洋側は、喉のためにマスクをするひともおおいだろう。
就寝用のマスクさえあるから、機能分化しているのだ。

こういうわけで、日本のマスク文化は、理由はさまざまでも国内はもとより外国にも「輸出」されている。
さいきんでは「白人」でマスクをしているひとをみかけるから、このひとはきっと、母国に帰ると「変人」あつかいされるだろう。

「あちら」では、あいかわらずマスクは病院等に限定して着用するものだという「きまり」がある。
なので、この日本文化に慣れたひとは、日本への哀愁がつのるはずだ。

しかし、マナーということからすれば、人前で挨拶をするときに、マスクを着用したまま、というのはいただけない。

昨日、わたしの住む地域では、ウォーキング大会が開催された。
おもむろにスタートしないのが、わが国の文化で、大会責任者からの「挨拶」という「儀式」をする。
その後、路上での注意事項の説明があって、準備体操をしてから出発となる。

ここで、区役所の健康担当主任と、地域センターの保健士が「挨拶」をした。
ふたりとも「マスクを着用したまま」である。

これぞ「ザッツ・お役所」。
これは、個人的な感性という気がしない。
おそらく、このひとたちは「職場」においても常時マスク着用の習慣があると予想できるからだ。

むしろ、じぶんの汚れを外にださない、という意味で「丁寧なこと」という「倒錯」があるのかもしれない。

しかし、はなしを聴く側からすれば、声がこもって聞き取りにくくなるとおもわれるのは、公園でマイクがないなかの肉声によるからだ。
参加者の年齢が比較的高いことを考慮すれば、挨拶をする側から聴衆をみた瞬間に、マスクをとるのが「配慮」というものだ。

案の定、声がこもって聞き取りにくかった。
なにをいっているのかわからないが、聴く側もちゃんと聞く気がないから、おあいこか。
80歳にならんとする町内会長の挨拶は、声が通って聞きやすく、参加者への配慮に満ちていたのと対照的だ。

これはきっと、職務と権利がすでにわからない状態なのではないか?

それは、ふたりとも、急な坂道やながい階段で、マスクをはずしたからわかった。
息が苦しくなって、マスクが邪魔になったからだろう。

こうした態度を、みんながみている、みられている、という感覚も無いはずだ。
それでいて、休日出勤の手当をもらうにちがいない。
この手当の源泉が、参加者住民たちが負担する市民税や固定資産税なのに、それもわすれて、申請だけはわすれない。

衛生のプロだから、歯磨きに歯磨きペーストはひつようなくて、なにも付けずに磨けばよいと「指導」しているけれど、そんな不織布のペラペラのマスクでなにを防禦できるものかといえば、できるはずがない。

日本には医療用マスクの性能規格基準が存在しない。
これだけでも、マスク文化と相反するのだ。
ではどうなっているかといえば、ASTM(米国試験材料協会)が医療用マスクの素材条件を定めているのでこれを準用している。

すると、N95以上の機能があってはじめて「効果」があるのだ。
「99」や「100」になると、こんどは「呼気抵抗」もたかくなって、安静時でも息苦しさを感じるマスクになる。

けっきょく、たんなる「マナー違反」が、「専門家」によって、正々堂々とおこなわれているのだ。

嘆かわしい。

自動運転の前に信号を

プロのドライバーなり、プロが運転する自動車の運行をあずかる会社にどんなデータが集積されているかの詳細はしらないが、信号機と渋滞の関係をどのように分析しているのだろう?

交通管理に関する技術の研究開発を行う公益法人、日本交通管理技術協会はどうかんがえているのだろう?
システムとしての信号と、単体で独立している信号があるけど、単体独立型の信号も、交通システムの中にふくまれている。

システムとしての信号は、おもに幹線において「連動」するタイプで、道路交通情報をセンサーがキャッチして、信号機の制御をおこなっている。

赤信号がはるか向こうまでみえて、一斉に変わったり、順々に変わったりして流れをつくっている。
逆に、信号ごとに赤で停車させる「制御」もしているのは、速度をだしやすい道路の安全性を確保するためだともいう。

そうはいっても、運転手は人間だから、自分の行く手を「赤信号」で阻まれることを「避け」ようとする心理もある。
それで、昨今は「黄色」が「注意」ではなく、「突っ切れ」になっている。

だから、進むたびに「赤」制御がはたらくばあい、けっこう「イライラ」もつのることがある。
そこに、トロトロはしるクルマがいると、あおり運転さえも誘発しないかと心配になる。

それに、下手に信号機のない横断歩道で、歩行者のために停車しても、対向車が止まらないので、あんがい歩行者の危険を誘発することもあるし、後続車から追突される危険もある。

これは、クルマの性能がよくなったのに、人間の性能がそのままか低下したことによるミスマッチではないのか?

人間の性能の低下の理由に、さいきんでは「ミネラル不足」がつよく疑われている。
食品に含有されているはずのミネラルが、土壌の酷使と化学肥料の大量投入で、ちょっと以前に比較してもぜんぜんないのである。

むかしの子どもがそろって「嫌い」だった「ニンジン」も、あの「風味」がなくなって「甘み」がふえたのは、ミネラル含有量が劇的に変化したからである。

これに、ミネラル・バランスもなっちゃいない「ファストフード」を習慣的にたべていれば、しらないうちにミネラル欠乏症になる。

ミネラルは、人間の体内で合成されることがないので、食事で摂取するしかないが、「生きるため」の教育をわすれて、「机上の知識」に偏向してしまったので、男女ともに「親」になる準備ができないで社会人になる。

それが「キレル子ども」をつくっているともいわれている。
「常動障害」もおなじ、「脳」の活動に支障があるのである。
それで、小児科医のなかで「ミネラル強化療法」として、子どもにミネラルサプリメントを飲ませる「治療」をすると、かなりのスピードで改善するという。

すると、おとなだって人間だから、「ミネラル欠乏症」になれば、「キレたり」「落ち着きがなくなる」はずである。
おとなが子どもより深刻なのは、からだが大きい分、「欠乏量」も「大量」になって症状をつくるからである。

そんなわけで、信号やトロトロはしるクルマに「イラつく」なら、ミネラル不足を意識してみるのもよい。
「発症」しているかもしれない、とおもうことで、「イライラ」が改善されれば「まだ安心」だが、ノーコンならかなりあやしい。

自動運転やらAIやらと世の中はかまびすしいけど、信号機というインフラとの関係がいまひとつ明確ではない。
きっと、信号機からの信号もキャッチして、運転制御をするのだろうけど、単体独立型はどうなのか?

交通量が極端に差のある郊外の県道などと、生活道路が交差する場所には、「感応式」の信号をよくみかける。
流量がおおい道路の信号をなるべく変えずに、合流するクルマの安全をはかる優れものだ。

いったい全国の信号機は、どのくらいの電気代がかかっているのか?
例によって、トータルで資源量を観察しないで、稼働中だけをみるから、信号機にも「LED」が採用されている。
これで、「節電」しているという「非科学」がまかりとおるのも、「脳」へのミネラル不足からなのか?

ほんとうは「エコ」なレジ袋を追放して、国民に不便を強いることを「正義」だとする「環境省」には、集団でミネラル不足のうたがいがあるけれど、どうしてガソリンが無駄になっているかもしれない、信号制御が話題にならないのか?

クルマのエンジン性能における「省エネ」よりも、役人の性能がひくすぎるわが国では、ガソリンの垂れ流しが問題にならない。
もちろん、停車するとエンジンが自動的にとまる機能があると、ミネラル不足でそこしかみないから、もっとも負担になる「バッテリー」を無視できるのだ。

信号で止まるたびにエンジンも止まって、発進のたびに発動機をまわすのがほんとうに「エコ」なのか?
この機能に耐える巨大バッテリーを積んで走り、その寿命による交換コスト負担は、エコノミーでもエコロジーでもない。

不要バッテリーの後始末に、いったいどれほどの環境負荷があるものか?

新宿人と浅草人

東京が「東京市」といわれていたのは1943(昭和18)年6月30日までで、それ以降は、いまとおなじ「東京都」になった。

江戸の範囲はいまよりずっとせまかったのは、1878(明治11)年にできた「15区」をみれば、それがわかる。
・麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区。
これらをあわせて「市」になったのは、1889(明治22)年だ。

1932(昭和7)年になって、隣接する5郡82町村を編入して、あらたに20区ができたから、ここから1947(昭和22)年までは、「東京35区」の時代だった。

さいしょの15区は、いまのなに区かをみれば、おおよそ「江戸」の範囲がわかる。
千代田区(麹町区・神田区)、中央区(日本橋区・京橋区)、港区(芝区・麻布区・赤坂区)、新宿区(四谷区・牛込区)、文京区(小石川区・本郷区)、台東区(下谷区・浅草区)、墨田区(本所区)、江東区(深川区)。

新宿区、墨田区、江東区は、さいしょの15区のほかに近接の町をさらに編入してできている。
すると、もとの15区が8区になって、あとから郡部15区がくわわって、「東京23区」になったことがわかる。

それが、品川区、目黒区、大田区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区、足立区、葛飾区、江戸川区である。
これらの「区」は、「江戸」ではなかった。

西の境界にあたる「新宿区」から先の「膨張」と、東の果ての「葛飾区」の「取り込み」という極端がある。

これが、メガシティー東京の「顔」である「新宿」の新宿たる「あたらしさ」だ。
西へ膨張する街の、始発でもあり終着なのは、そのまま鉄道路線がしめしている。

一方、なんだか「古い」イメージの「葛飾区」は、ギネス入りした最長シリーズ『男はつらいよ』の舞台「柴又」が象徴している。
南の江戸川区とならんで、東の境界はそのまま江戸川で、この先は千葉県になる。

いわば、さいしょの15区からみれば、渋谷さえも「郡部」で、「葛飾郡」が東京だという不思議すらあったのではないか?
新宿とならんで、渋谷がターミナル駅になっているのは、「膨張」のエネルギーがそうさせるのである。

いまさら「目黒のさんま」をもちださなくとも、いまではむかしの面影すらない街が、やっぱり「郡部」だったのは「落語」における「リアル」である。

会社の先輩のご母堂は、日本橋蛎殻町のうまれで、大森の農家に嫁ぐとき、近所のひとたちと「今生の別れ」をしたという。
「そんな遠くへ行っちゃうのかい。もう一生会えないね。」といって手を取りながら泣いて別れを惜しんだという。

このエピソードも、たかが戦中のことなのだ。

そんなわけで、街道の宿場町はことごとく「江戸の外」の扱いだ。
品川、板橋、千住。
新宿だって、「内藤新宿」は大正になって「四谷区」にやっと編入されている。

「新宿」や「渋谷」の「あたらしさ」は、その先に膨張する住人たちの「あたらしさ」がつくっている。

70年代のなかばになる「昭和50年代」、いまからすればシリーズのまだ半分にもなっていない新春の「最新作」案内もかねて、有名なインタービュー番組『徹子の部屋』に、渥美清と倍賞千恵子がそろって出演している。

このふたりは、できあがった作品を「かならず劇場で」一緒に観るという。
映画会社の「試写室」ではないのか?との質問を一蹴したのは、「お客様の反応を観るため」だとキッパリ言い切ったのが印象に残る。

映画の出来不出来なら、監督の責任で、現場でじぶんたちは監督の指示にしたがっている。
プロの俳優としては、なによりも観客の受け止め方を知ることなのだと。

それで、新宿と浅草の、両方の映画館に行って、その反応のちがいを観察するのだという。
それは、新宿と浅草とで、観客の「質」がちがうことが理由であった。

どんなふうにちがうのか?
食事のシーンで、帰りがおそい「寅」に腹を立てた「おいちゃん一家」が、「寅」の分の御馳走をたべてしまって、楽しみに帰ってきた「寅」と一悶着がはじまることを例にして、渥美清が解説していた。

新宿の映画館では、帰りがおそい「寅」がわるいのだから、怒りだした「寅」は、さらにわるい、となる。
ところが、浅草の映画館では逆で、どうして「寅」のためにすこしでも取り置きしないのか?「おいちゃん一家」は冷たい、という反応だと。

新宿は「あたらしい日本人」、浅草は「むかしの日本人」がいるからおもしろい。
こんなことを意識しながら演じ手をやっている、と淡々とかたっていた。

おおくの出演俳優たちが物故した『男はつらいよ』を、どうやら最新技術を駆使して、「新作」を制作するらしい。

なんだか「新宿」と「浅草」で観たくなってきた。

IMF専務理事の「もっと消費増税を」

先月25日だから、10日ほどまえ、日本の記者とのインタービューで、今年の秋に就任したばかりのクリスタリナ・ゲオルギエバ氏(66)が、日本の消費税について2030年までに15%にするひつようがあると述べたことが報道された。

このひとの前職は、世界銀行のCEO(最高経営責任者)だった。

はて?
ゲオルギエバ氏は、ブルガリア人である。
くわしい経歴はしらないが、世界銀行の設立は1945年で、設立をきめたのは1944年(戦争中)の「ブレトン・ウッズ会議」であった。

戦後すぐにはじまった「冷戦」で、世界銀行にソ連は条約批准をしなかったので出資金をはらわず、「鉄のカーテン」の向こう側に引きこもった。
穴ぐらから出てきたのは「冷戦終結後」である。

つまり、衛星国のブルガリアだって、親分の意向があるから世界銀行とのつきあいなんてしないし、できない。
その前に、「共産圏」なのだから、「資本主義の経済学」をまなべるのは、政府から特別な許可をうけて「敵情研究」としてしかできなかったはずだから、国中で指で数えられるほどしかいないはずだ。

彼女の年齢からすれば、30代の半ばで「自由化」したから、ほんとうに「自由主義経済」が「理解できている」とかんがえていいのだろうか?と素朴な疑問がわく。

おなじ疑問が、いまはレームダックのドイツ・メルケル首相にある。
彼女は、サッチャー女史とおなじ「化学者」出身だけれど、東ドイツのひとなのだ。
やっぱり、人生で重要な知識をえる時代に、もっとも「優秀な社会主義国」に生きていたのだ。

そうはいっても、ドイツ人は政府のいうことに懐疑的なヨーロッパのなかにあって、断然、政府のいうことを信じる傾向があるひとたちだ。
いまは、ヒトラー時代を全否定するが、ヒトラー以外の政府なら信じて依存する。ヒトラー時代も、東ドイツの優秀さも、政府依存では同じ民族だ。
ここが、かつての同盟国、わが国と似ている。

さて、世界銀行とIMFは兄弟のような関係で、戦後世界に関与してきた。
途上国のインフラ融資を主とする世界銀行の融資のおかげで、東海道新幹線、名神・東名高速道の資金ができた。

当時の日本は、「途上国」だったのである。
いまの日本人は、このことをそっくり失念している。

そして、「先進国」になってから、こんどは「資金提供」の側にまわった。
この組織の決定には、出資「額」と出資「率」とで、投票数がきまることになっていて、一位がアメリカ、二位が日本、三位が中国となっている。

総裁人事では、基本的な「きまり」として、アメリカ人がなることになっている。
IMFのトップである専務理事は、ヨーロッパ人が「きまり」になっているから、フランス人からブルガリア人になったことでもわかる。

簡単にいえば、米欧でトップを「独占」しているのである。
まさに、戦後の西側戦勝国体制の申し子として、いまだに続いている「しきたり」なのだ。

IMFは、国連の専門機関になる。
この機関の議決権も、基礎票にくわえて出資額ごとに一票がくわえられるようになっている。
やはり一位はアメリカで票数割合では16.52%、続いて日本の6.15%、三位は中国で6.09%(2018年)だ。

日本からの幹部として、副専務理事が97年から連続して選出されている。
2011年になって、中国がアジア枠の副専務理事を要求したが、二名とすることで日中軋轢を回避している。

それでは、いったいだれが日本人で副専務理事になっているかといえば、歴代全員が財務官僚なのである。
世界銀行が「民間人」を基本としていることに対して、IMFは「公務員」なのが国連機関らしい。

これで、就任したばかりのひとが、日本の消費増税をくわしく語れた理由がわかった。
「セリフ」を書いたのは、日本人の元財務官僚にちがいない。
どこまでも、財務省に忠誠をちかうひとたちだ。

「IMF」という、あたかも「権威」をつかった、あくどいプロパガンダである。

彼女は、日本が10月に10%へ消費税率を上げたことに「政府の景気対策のおかげで円滑に実施できた」と評価したという。
おどろくほどのとんでもない認識である。
すでに「消費減少」が数値で報告されていて、来年が懸念されているのに。

「日本政府は余計なことをして社会主義・共産主義化せずに、自由主義体制にもどることで、国民負担を軽減させよ。そのために減税せよ。」
これが、「体制転換」を経験したひとがいうただしい「セリフ」だろう。それを言わない、言わせせない理由とはなにか?をすこしかんがえればよい。

かつて、小沢一郎氏がいった「シャッポは軽くてパーがいい」をそのままやらせる根性は、われに間違いなしと豪語してはばからない日本の財務官僚ならではではないか。

ブルガリアは世界一の「人口減少国」になっている。
少子でも高齢化でもなく、若くて優秀なひとたちが他国へ移民してしまうからである。

三年ほどまえ、ルーマニアとブルガリアを旅したが、30年前までの「失政」の爪痕は深刻だった。
かつての盟友両国の国境は、ほぼドナウ川なのだが、これが「橋のない川」なのだ。

数本しかない橋の両端のたもとに入国と荷物検査所がある。
たった数カ所で間に合うほどに、大規模な「貿易」すらない。
バルカン半島の複雑さを、よくもソ連は力で押さえつけたものだ。

むしろ、根性が曲がっている当時の英米の戦争指導者たちが、わざとスターリンに押しつけたのではなかろうか?
ヒッチコック監督の『バルカン超特急』は、ドラキュラのふるさと、ルーマニアのトランシルバニアの山岳地帯にある小さな駅から物語がはじまる。以下は、淀川長治解説つき。

古代ローマの端っこだった「ローマの国」だから、「ローマニア」が「ルーマニア」と、ロシア語に採用された「キリル文字」をつくった「ブルガリア」の仲は、いまでも悪い。
「ローマ字」に親しい日本人が、ルーマニアで読めた看板が、橋をこえてブルガリアに入った途端に読めなくなる。

中央アジアからやってきたモンゴロイドのブルガール人がつくったからブルガリア。南隣のギリシャ同様、オスマントルコにやられまくったが、首都ソフィア空港は、トルコエアーとルフトハンザがターミナルを二分していて、自国の航空会社の肩身はせまい。

自国が衰退しているのに、国際機関でえらくなるのはどんな気分なのだろう?
もうすぐ、日本人官僚もそれを味わうだろうが、厚顔無恥だから、心配はご無用と突っ張るにちがいない。
それよりも、中国に席を独り占めされることを気にするだろう。

じぶんさえよければよいからである。

全米税制改革協議会議長の来日

アメリカ共和党の強力な支持母体のひとつである。
この会の主張はシンプルだ。

「能力のない者に
  税を預けてはいけない
 
 悪事につかわれる」

能力のない者とは、政府(役人たちの集団)のことであり、
悪事とは、国民の利益に反することである。

もともと、独立戦争の原因が「紅茶への課税」を、本国のイギリス国王が「勝手にきめた」ことであったから、アメリカ人の心持ちには、「税」にたいする「抵抗」がある。

もちろん、「悪事」の「悪」には、キリスト教の「道徳」が基盤になっている。

教科書でならったように、イギリスを追われた「ピューリタン(清教徒)」が大西洋をわたってできたのが、アメリカのはじまりだから、アメリカという国は宗教的な国家なのだ。
つけくわえれば、「ピューリタン革命」と「名誉革命」を経ていることもベースにある。

そしてその「ピューリタン」が「清教徒」といわれるのは、「清い」ひとたちだからで、それは「極度に潔癖」で「まじめ」なひとの比喩でもある。

いま国内で話題の「花見」だって、「極度に潔癖」ではなくてもおかしなことだが、「倒閣」が実現しないのは、「受け皿」がない、というもっと酷いことが現実だからである。

むかしは「清濁併せ呑む」のが、おとなの姿だったけど、いまは「濁」だけを無理やり呑まされて、気分どころか「脳」の調子がわるくなってきた。

そこで、全米税制改革協議会の議長が来日して、「減税イベント」が先月23日に東京で開催された。
じっさい「減税」は、「世界潮流」なのであるが、「逆神」ニッポンは、とにかく世界を無視する、あるいは、孤立するようなことばかりをしている。

どういうわけで「財界」も「労働界」も、消費増税に賛成したのか?
「労使協調」はいいけれど、ここまでするものか?
年金財源確保のためという、将来の給付を担保したいのならば、税ではなくて自分で貯めればよいのである。

しかし、日本人はとうとう政府依存の中毒症になって、ギャンブル依存症と同様に、政府の年金が不安だから政府にお金を預けようとしてしまうのである。

これは、競馬で負けたひとが、べつのギャンブルに手を出さず、なぜかまた競馬で勝とうとするのと似ている。
パチンコでもおなじ。なぜか、パチンコの負けはパチンコで取り戻そうとするのだ。

カジノの問題で、ギャンブル依存症対策が最重要だと、これまた擦り込まれたが、とっくに公的年金というギャンブル依存症になっている。
だれがこれを「治療」してくれるのか?

とはいえ、自分で貯めるにしても、わが国の金融機関という金融機関が、保険会社もふくめてまるごと「金融庁」という「能力のない者たち」が支配して、儲からないことばかり、コストが増えることばかりをやらされて、虎の子資産を預けようにも不安でしかたない。

これに、日銀という親方が、あろうことか過去の人類史にない「マイナス金利」というジョーカーをきってきた。
「ルール違反だ」と叫ぶ経済学者は皆無で、むしろ「ジョーカーあり」の「(屁)理論武装」をする。

こんな「悪手」は「二歩」のようなものだから、即刻「負け」になるのに、なんでもありのむちゃくちゃが平然とおこなわれ、これをやらせているのが「政権」という「政治」なのだ。

銀行に預けたところで金利もつかない。
預かった銀行は、貸出先がない。
リスクをとって将来性のある会社に融資したくても、金融庁が「不動産担保をとれ」と命令する。

若いひとがたちあげる「ベンチャー企業」に、差し出す不動産担保などあるはずがない。
それで、「かぼちゃのなんとか」という不動産事業に突っ走ったのが静岡県の銀行で、とった担保を水増しまでしたのだった。

これは、金融庁の犯罪「教唆」ではないのか?
とも、だれもいわない。
「報復」をおそれるからである。

ピューリタンにみるように、イギリスだけでなくヨーロッパでは、かつて酷い政治がおこなわれて、民衆はずいぶん痛めつけられた。
教会でさえ、民衆から収奪する存在だった。
だから、彼らは政府を全面的に信頼しない、信頼してはいけない、ということをしっている。

そうしたことの結晶が、アメリカ合衆国なのである。

わが国だって酷いことはたくさんあったけど、ほとんど全員が、おどろくほど「貧乏だった」から、酷いことの酷さが伝わっていない。
ほんとうは、もっと「一揆」のことをしるべきなのに、ときの支配者にまかせる「楽さ」が優先する。

政府と生活が、もともと分離していても変化がゆるく、貧乏にかわりがないからどうでもよかったのだ。
しかし、「豊かになった」ので、政府と生活が分離したままではすまなくなって、しかも、世の中の変化が速くなっている。

そんなわけで、わが国では、政府によって、いまよりもっと国民が酷い目にあってはじめて「新しい一揆」がおきるのだろう。

香港でのできごとは、未来のわが国の姿なのである。

官営カジノ失敗の予感

どこにつくるのかまだ決まっていないが、「制度」だけは先行している。
1日、カジノで儲けたひとの課税逃れをさけるため、事業者に外国人客にも「源泉徴収」をさせるというニュースがきた。

日本の「官僚」が、かくも劣化してとはおどろきだ。
いまになって競馬などの「官営ギャンブル」と、すりあわせをしたのだろう。

入場に身分証の提示をもとめるのだから、カジノの敷地内は関(イミグレーション)外の「租界」であるとすれば、「免税地域」という「特区」になぜしないのか?しかも、入場料も徴収する。

もっとも近い「マカオ」とどう競合するのかをかんがえないのは、マーケット意識ゼロの「徴税役人」こそである。
わが国でもっとも「優秀」とされる法学部出が、こぞってなるのが「徴税役人」だから、かれらからみたら、一兆円もの大金を外国から投じる者が「バカ」にみえることだろう。

ましてや、そのうち社会問題になること必至の、大負けしたひとからの容赦ない「取り立て」も、人生をたかだか博打で棒に振る「愚か者」の自己責任にしかみえないはずだ。

大学で、じぶんより成績がわるかった同級生たちがなる「弁護士」に、「金利過払い金問題」でビジネスをつくってあげたが、まもなく時間切れになるから、カジノの取り立てというあたらしいビジネスをつくってあげるのは「友情」だけではない「憐愍」だろう。

それでいて、国と立地のある自治体とで、収益の3割を折半して、濡れ手に粟の不労所得をえようという魂胆で、カネの行き先は、国会に報告義務のない「特別会計」になっている。
どんな「豪遊」を目論んでいるのだろうか?

もちろん、カジノ会社の法人税だって、ふつうに徴収することになるのは「事業会社」として当然だ。
これが「二重課税」にならないのは、ヤクザも青くなる「ショバ代」徴収を合法として「着服」するからである。

どの自治体も、住民の「反対」を無視して誘致に走るのは、こんな天からお金が降ってくる「事業」は、かつてなかったからである。
それで、住民がどうなろうが、役所の予算が潤沢なら「ばら撒いてやる」からありがたくおもえ、と幕藩体制でもかんがえなかった発想をしている。

そもそも「経済特区(略して「特区」)」とは、中国の改革開放政策にあたって、ときの最高指導者、鄧小平が推進したものだ。
つまり、国中が「共産体制下」にあってにっちもさっちもいかない、ガチガチの統治制度だらけだから、特別に風穴をあけて、自由経済地域として「指定」したのである。

これはうまいやりかただと、日本でもまねっこしてはじめたのは、日本もおなじ「共産体制下」になっていたからである。
べつのいい方で「官僚社会主義体制」とマイルドにいいかえているのは「文学」センスである。

きっと、政府の「カジノ調査団」は、世界各地のカジノをあるいて、じっさいにいくらすったのかしらないが、大勝ちしなかったもんだから、大勝ちしたひとから「徴税する」と発想できるのだろう。

すると、カジノでのチップ代は領収書がもらえないので、官房機密費があてられたことだろう。
ならば、少額でも勝ったなら国庫に返還すべきだが、そんな細かいことをされたらこんどは「入金」が面倒だから、じぶんの財布にいれたはずでもある。

豪勢な建物や奇抜な運送手段(候補地の横浜では、港にロープウェイをかけるそうである)などを用意して、キラキラなエリアを演出したい。
そのために、はたまた税金を投入するというのは、カジノ投資者からしたら、笑っちゃうほどに脳が溶けているとおもうだろうから、きっとじぶんの脚をつねってこらえているはずである。

国民資産をひろく吸い取るためにやってくるひとたちを、国民資産をつかって歓迎するとは、ほとんど「原始人」である。

そんななか、先月29日(一昨日)、北海道知事が候補地で初の誘致断念を決めたのは、理由はどうあれ「まずまず」であろう。

さいきんはやりの野崎まど作『バビロン』には、神奈川県に第二の首都になる「地域」という意味で、「新域」というエリアがでてくる。
相模原市、八王子市、町田市などの、「神奈川県内」にまっさらな「特区」ができて、そこに日本国内のさらなる「国内」ができたという想定だ。

  

コミック版、さらに、現在放送中のアニメ版がある。
作品自体「有害小説」という分野になるとの評価があるのは、子どもには刺激が強すぎるし、大人にもあわないひとがいるからだろう。
ましてや、どうやら「3巻」で完結しないらしい。

ちなみに、八王子市、町田市をふくむ「三多摩(北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡)」は、1893(明治26)年3月31日まで「神奈川県」だった。

注目の一点は「新域」という発想である。
従来からの規制のなにもかもを取り除いてしまう。
選挙制度も、選挙権、被選挙権ともに「規制」がないから、小学生だって投票も立候補もできる。
乳幼児がいれば、親が二票以上を握っていることを「許す」のである。

ほんらい、カジノという「悪所」は、江戸の吉原がそうだったように、大門をくぐれば身分がひらたくなる特別な空間ですらあったのだから、幕府権力も及ばない場所だった。
それは、高度な「自治」があったからであったものを、1957(昭和32)年4月1日の「売春防止法」施行によって、1612年以来の灯が消えた。

約350年もつづいた「吉原」の最後の夜も、だれもが翌日に「廃止」されるとはおもえない盛況だったという。
しかし、翌晩は、全店閉店のあっとおどろく「消沈」だった。
かくも国家権力がおよぶと、「自由」がなくなるのである。

新吉原女子保険組合が編纂した『明るい谷間』(1973年、土曜美術社)は、1952(昭和27)年刊の翻刻で、当時の「遊女」たちによる「文集」である。
その中身の「文学性」の高さには、おどろくばかりである。
永井荷風を代表するように、「客」に「教養」があったからである。

現代のカジノは、開業する前から役人たちが「消沈」させているのは、はたしてなんのためなのか?
当の本人も気づいていないことだろう。

もちろん、「客」に「教養」も必要ない。
ただ、客のカネを吸い取るマシンなのである。

政治が死ぬと、こうなる。