「産学官」の「官」はいけない

「産学」が一体になって新しい価値を見出す、というのは、世界的な「常識」である。
しかし、これに「官」が加わって、「産学官」となったら、目的に据えたはずの「科学技術大国を目指す」ことに失敗した。

この「原因」には、二つの「原理」がある。
一つは、わが国に「デジタル政府ができない」ことにつながる、行政府の役人の「縦横無尽」な越権的な自由度があることだ。
もう一つは、科学者でも「将来予想はできない」という原理であり、役人がこの原理を「無視する」ことによる。

まず、「将来予想はできない」という原理とは、自然科学の法則を「発見」することや、技術の「発明」は、予測がつかないのである。
だから、「発見」となるし、「発明」は保護される。
つまり、将来にどんな「発見」や「発明」があるかは、現時点では予測がつかない。

日本では、森喜朗内閣で、「IT」に重点をおいて、「デジタル政府」を実現すると宣言した。
森総理が、「アイティー」と言わずに、「イットゥ」とさかんに言って失笑を買っていたのは、秘書官がわざと恥をかかせたのではないか?

この「宣言」によって、遅ればせながら「宿帳」もデジタル化が許されるようになったけど、ほぼ全国の宿泊施設では、いまだに「紙」のカードにボールペンで住所と名前を書かされている。

旧ソ連の中にあった、バルト三国のひとつ、エストニアは、人口が130万人ほどの小国だけど、行政事務のほとんどが電子化された。
日本とは規模がちがう、ということは言い訳にはできない。

たとえば、人口でいうなら、青森県がエストニアとほぼ同じ。
市なら、さいたま市がこれにあたる。
国ができないから、自治体で進まないというのも詭弁だ。
なにしろ20年も前に「デジタル政府」を国が宣言したのだ。

しかも自治体がやるべき行政事務は山ほどあるのに、そのどれもが「相変わらず」なのである。
これには、二つの理由がある。
一つは、「業務の簡素化」になるので、採用した人員が余るからだ。

バブル後に、用もないのに臨時職員採用した、首長がマスコミにもてはやされる「異常」もあった。

公務員にスト権がないので、その代わり「身分保障」した。
一旦採用されたら、本人の希望と不祥事以外に「解雇」はできない。
しかし、これは民間企業にとっても同じになった。
すなわち、配置転換ができない、のである。

そして、もう一つが、やっぱり行政府の役人が恣意的に自由な「裁量権」を持っているので、機械的な行政手続きでも、デジタル化が困難になるのである。

行政に恣意的な裁量権が許されているのは、本来これを監督して縮小させる役目の「議員」にも便利だからである。
たとえば、支援者からの要望に応えたい議員は、役人に裁量権があるからその範囲での便宜を受ければ、「汚職」にならないからである。

持ちつ持たれつ、ということだ。

これでは、デジタル化しても、人工頭脳にやらせようがない。
恣意的に判断せよというプログラムが書けないのだ。

そんなわけで、デジタル化された政府とは、逆に、裁量の範囲がない、という、まったく「機械的」な政府のことなのである。
これぞ、三権分立の究極で、行政府のあるべき姿である。

すると、その「しわ寄せ」は、立法府にやってくる。
行政へのあらゆる苦情は、まず、議員のもとに集まるだろう。
議員たちは、どんなルールを「立法」するのか?
次に、司法府にやってきて、「行政訴訟」になる。

ちなみに、わが国では、行政訴訟における原告の「勝率」は低い。

これには、あたかも「裁判官」の裁量があるように思うだろうけど、現実には、裁判官も「サラリーマン化」したのが、わが国の「司法」なのだ。
全国の裁判所の裁判官の「人事評価」は、最高裁判所事務総局にいる「行政官」が仕切っているのである。

役人人事の世界は、複雑怪奇で、最初に入省した役所に「本籍」を置くけれど、「国家公務員」だから、どの役所に「異動」になってもかまわない。
これを、役人の世界における「出向」という。

それが、地方自治体を含めた「行政府」の中でのたらい回しならまだしも、「人事交流」と称して、行政府の役人が国会事務局や裁判所事務にも「出向」するのである。
こうして、わが国は行政府の役人が、三権を統一支配している。

そんな「全権」を握った役人集団は、「学術」にも口を出す。
税金が元の「予算」という、自分の金ではないものをちらつかせて、相手組織を牛耳るのである。
だから、「学術」に関心があるのではない。

しかも、企業や学者よりも、自分が受験エリートだと自負しているから、研究の内容も「簡単」だと理解する。
すると、企業も学者も役人に日和ると「得をする」という錯覚に陥れば、むしろ積極的に売り込むのである。

こうして、世界最先端の研究ではないものが、あたかも「最先端」だと、それぞれの「思惑」からの「幻想」ができあがる。

よって、産学官のセットは、ことごとく「失敗」するのである。

しかし、この失敗で誰かが責任をとることもない。
「被害」を被るのは、国民だ。
大損で企業が傾けば、ようやく「株主」があわてて経営陣を糾弾するけど、後の祭りである。

ならば学者の方はといえば、世界の学会の笑いものにはなっても、大学を追われることはない。

三者三様、ノーリスクだから「はびこる」のである。

「萩」に行ってきた

久しぶりの遠距離出張である。

山口県には、人生二度目の訪問となる。
前回は、ほぼ30年前、ブルートレインの寝台特急「出雲」に乗って、島根県からレンタカーで移動した。
横浜駅を21時40分頃の発車であった。

慣れない車の運転は、あんがいと気をつかうので、景色を楽しむ余裕がない。
それでか、目的地となった、萩や津和野、秋吉台、湯田温泉は、「点」として記憶していたが、「線」になってはいない。

今回は、「出張」なので、新横浜から新山口までは新幹線、それから高速バスに乗って萩へと向かう。
わが家から市内の宿まで、ドア・ツー・ドアでぴったり8時間半の旅となった。

北陸新幹線の開業前、上越新幹線で越後湯沢まで行き、それから特急「はくたか」で金沢に向かい、金沢からは北陸本線の特急「しらさぎ」で米原に出て、東海道新幹線で帰宅したことがある。
本州の中央部をぐるっと回った。

なにもこんなことをしなくとも、日本が「山国」であることは誰でも知っているけれど、実際に車窓をながれめば、「ひしひしと実感」できる。
これは、この夏8月29日に開通した、中部横断自動車道における、橋梁とトンネルの連続でも同じことがわかる。

新大阪から西にはめったに行かない生活をしているので、山陽新幹線の旅は特別感がある。
しかし、大阪平野の端から「六甲トンネル」を抜けた、新神戸駅が、妙に「熱海駅」と似ているのである。

そして、ここからは、トンネルと平地と川を渡る橋の「パターン」が何度も繰り返される。
この意味でいえば、変化に乏しい景色なのだ。

しかしそれは高速で移動しているからで、そこに住んでいる人たちの生活エリアという観点に立ち戻れば、山の向こうとこちらでは、違った生活文化圏が狭い範囲で存在しているに相違ない。

中国山地という、山陰と山陽を分断する地形は、いよいよ山口県に入ると「圧縮」された感がある。
新山口駅と萩とを結ぶ高速バスは、あっという間に「山間部」を、中部横断自動車道のように進むけど、「山深さ」という点では、山口県の方が上手だろう。

「カルスト台地」で有名な秋吉台は、30年前に入った鍾乳洞の美しさを思い出させてくれるけど、「サンゴから火山へ」というジオパークの看板が目に止まった。

30年前には気づかないことがある。
この山々は、サンゴ由来の石灰岩でできている。
太古の昔は海だったわけではあるが、サンゴが育つ海とは、いまでも南洋に限られる。

すると、いきなり「地殻変動説」が頭をよぎった。
地球の表面を覆う「地殻」は、ミカンの皮よりずっと「薄い」ほどの比でしかない。
皮にあたる地殻と中身にあたる地球内部とが「ズルッとズレた」という説である。

いまのオーストラリア大陸あたりの「緯度」にあった大陸が、南にズレて南極大陸になり、アフリカ大陸あたりの緯度にあったユーラシア大陸が、今の位置にズレて、象の祖先「マンモス」が永久凍土の下で、「パーシャル冷凍」された。

北極付近のアメリカ大陸も南にズレて、氷河が一気に溶けて流れてできたのが「グランドキャニオン」だというのである。
ならば、中国山地の元になった珊瑚礁も北にズレて、今の位置になり、隆起したのだと素人発想が湧き出した。

ところで、サンゴの骨格は「炭酸カルシウム」である。
これが「石灰石」になる。
酸によって溶けてできたのが鍾乳洞だ。
すなわち、鍾乳洞ができるとき、「炭酸ガス」が発生する。

「脱炭素」とかいうバカバカしさを、山口県のひとたちは意識しているのだろうか?
近代日本の礎をつくった人材を輩出したのが「長州」だ。
その中心地、萩には、明倫館という「藩校」があって、いまでは様々な「セッション」が開催されている。

広島ナンバーやら、中国地方の観光バスが、小学生、中学生の修学旅行生を運んできていた。
今でも「教育センター」なのである。

そんなわけで、萩のひとたちの「誇り」は、そのまま強い「郷土愛」を生んでいる。
これが、「保守王国」のゆえんだろう。

意外なのは、萩の「選挙区」で連続当選していたのは、「売国」で有名な河村建夫元官房長官だった。
宏池会の重鎮で、参議院議員で元文科相の林芳正氏が、今般の総選挙に打って出ると意思表明したら、地元自民党の推薦から河村氏が排除され、そのまま政界引退となった。

河村では勝てない、ということだったらしい。

「勝ち馬に乗る」というのも伝統なのだ。
しかして、炭素を目の敵にするのは、保守を攻撃するための「革命思想」なのだと気づいている感はなく、あんがいと脇が甘い。

安政の大獄で、吉田松陰が29才(数えで30才)の生涯を終えたのは、1859年のことだから、162年前のことだ。
それから、神様になった松陰神社は立派な境内である。

もちろん、吉田松陰は「えらいひと」ではあるけれど、何がどんなふうに偉かったのか?
あんがいと答えられない「萩人」はおおかった。

官営交通事業の寿命

横浜市営バスの大幅黒字路線が、民間バス会社に譲渡されたことがローカルな話題になっている。

半世紀前、大型団地ができたことで、住民がバス路線開設を陳情し、市交通局がこれを受けて開業した。路線の距離はわずか1.4キロメートルだが、横浜にありがちな「急な山坂」を登るため、利用客の数は多い。
団地住民の「高齢化」で、ますますその需要は高まるというよりも「死活問題」になっていた矢先の民間への譲渡となったのである。

路線が譲渡されたとはいえ、運行ダイヤに変更はなく、さらにバス自体が「大型車」になったのは、民間のバス会社に「中型車両」の保有台数が少ないことによる。
つまり、住民にはメリットになっている。

しかしながら、「市営」でなくなったことを「惜しむ声」が絶えないのである。
この意味は何か?が本稿のテーマである。

実は、横浜市民にとって、市営交通は「誇り」でもあったのである。それは、「市電」に遡る。
市中心部を縦横に走っていた「市電」は、「ちんちん電車」として愛されていた。
また、横浜駅を発着する循環路線には、「トロリーバス」が採用されて、市電と並行する道路の空中は、双方の「架線」がひしめいていた。

ベイブリッジも、首都高も「なかった」時代、すなわち「高度成長期」とは、第二次性徴期の「急速な伸び」で、皮膚が痛いほどに内部の成長と表面の成長速度が一致しないように、「世界一」の港湾があった横浜市内の交通渋滞が深刻になった時期でもあった。

簡単に言えば、道路整備と実態がぜんぜん一致していなかった。
これは、「都市計画」すら間に合わなかったことと関係している。
関東大震災と横浜大空襲という、2度にわたる市域の「大規模焼失」があったけど、名古屋のような都市計画をしなかったことの「つけ」でもあった。

横浜を走る「国道」は、東海道の「1号線」と、首都圏の境界となる「16号線」がメインである。
なお、郊外には246号線がある。

1号線の海側に京浜工業地帯の産業道路として、15号線ができて、これを「第一京浜」と呼んだ。
それで、1号線を「第二京浜」、さらに陸奥に、「第三京浜」を作った。
大阪と神戸の関係に似ているのは偶然ではない。

それでも混雑がおさまらないので、「第一京浜」の頭上に、首都高「横羽線」を作り、まだまだとして「湾岸道路」を作った。
しかしながら、これらの道路は、「京浜間の東西交通」に対応したものだった。

南北を走って、東名高速道路に接続する道が、国道16号線「しか」なかった。
しかも、上下二車線なのである。
元は、東海道から分岐した「厚木街道」であった。

それで、「保土ヶ谷バイパス」を作った。

この高規格道路は、あくまでも国道16号の「バイパス」であって、開業当初から「無料」の道である。
よって、「旧道」となった16号の交通は、画期的といえるほどに混雑緩和されたのだった。

さて、はじめ横浜市が交通局を作ったのは、民間の事業体が未発達で、市民の足が不便という事情を優先させたからである。
だから、民間事業者が発展すれば、交通局事業を縮小するのが筋であるけど、民間への「変換」の仕組みをあらかじめ用意していなかった。

今回の「路線譲渡」は、不採算路線とバンドルして処分する、交通局側の「赤字」という事情がある。購入する民間側は、不採算路線を受け入れる条件に、トップクラスの黒字路線を手に入れたのである。
だから、「経済取引」なのである。

にもかかわらず、この黒字路線を手放したことだけがひとり歩きした。
交通局の説明は、バスの車庫がある営業所から、この短い路線は「回送」車を走らせないといけないけれど、国道16号線が混雑して、今回譲渡した「相鉄バス」の許可エリアを走行しないといけないから、効率が悪いという「詭弁」を述べた。

市内きっての黒字路線に、何おか言わん。
「効率」がいいから、黒字なのだ。
保土ヶ谷バイパスが存在しないならまだしも、いまさら「混雑」をいう。
「赤字路線」を売り飛ばすための「飴」だといえばいいのである。

こうした販売方法を、「バルク」といって、大手旅館チェーンやホテルチェーンが、事業をスリム化する際にやる、「売却手法」とおなじだ。
すると、問題は、「国鉄」のように過半を占める「赤字路線」をどうするのか?という根本問題が、先送りされていることだとわかる。

これをそのまま信じてしまうひとがいるのは、コロナを信じるも同然の、知能が比較的低くてマスコミ報道に影響されやすいひとたちだ。

さらに横浜には、「バス・カースト」と言われる「処遇制度」がある。

最下位が「神奈川中央交通」で、その上が「相鉄バス」、最上級に「市交通局」がある。
退職後の年金も含めて、「バス運転手」という職業に、事業体による「階層」があるのだ。

だから、神奈川中央交通に入社して、それから相鉄に転職し、さらに交通局採用になれば、「エリート」とされる。
「路線譲渡」がスムースにできたのは、「人員」の譲渡はなかったからだろう。

そんなわけで、市交通局の赤字を最後は市民が負担することになるから、ノスタルジックになれる人は、「幸せ者」である。

習氏は「ナショナリスト」である

一昨日「グローバリズムとナショナリズム」の続きだ。

一般に、社会主義とその基礎にある「共産主義」は、「国際」が枕に付くから、これ以上の「グローバリズム」はない。
いわゆる、「共産主義インターナショナル」ができたのは、きわめて自然のことであった。

同じように、「金融資本主義」と呼ばれる、「金融」の世界も、情報化という手段を得て、「国際化」する。
最初の情報化とは、「複式簿記の発明」をいう。
文豪ゲーテをして、「人類最大の発明」と評した。

もちろん、それ以前に「貨幣の発明」という情報化もある。
これによって、物々交換の経済が一気に拡大した。
はじめは石であったり貝殻であったりしたけれど、だんだんと「鋳造」されるようになって、発行者たる政府や為政者が大儲けした。

それがとうとう、「紙幣」になったのは、紙に価値ができたのではなくて、発行者の「信用」に依存した。
なので「金(ゴールド」)に紐付けて、信用を得ることが必要だったけど、ニクソン氏がこれをやめた。

それでもドルがなんとかなっているのは、「巨大なアメリカ経済」という信用があるからだ。

大阪と江戸の商人は、「為替」を発明して、帳簿上での取り引きを完成させた。
これには、「金」と「銀」の交換レートまで関与する。
なので、算盤をつかっての計算は、ふつうの会社の経理部よりも高度なのであった。

小国が林立して、国境がコロコロ変わるヨーロッパでは、「小切手」が発明された。
旅人が日帰りできる「外国」に行っても、小切手ならば買い物ができる。
受けとった商人同士が、精算するのである。

けれども、地中海貿易で一儲けを考えたら、「保険」を掛けないと「海賊」にやられるかもしれない。
それで破産した人物と商人の攻防が、シェークスピアの『ヴェニスの商人』になった。

シェークスピアは、「喜劇」として書いたようだが、なぜか映画化されていなかった。
アル・パチーノが演じるシャイロックは、「シリアス」な役となっている。

お金を貸して利子を得る。
これが、「お金を融通する」ことでの「金融」の基本だ。
元金を不特定多数から集めたら、近代的な「銀行」になる。
別の事業で大儲けしたお金で、貸金業をやれば、なんだか昔の「後家さん」の事業のようにもみえる。

これが、「巨大化」して「強大化」したのが、いわゆる、「国際金融資本」というやつだ。
当事者にユダヤ人が多いのは、キリスト教社会にあっての職業選択の自由が「なかった」ことだとされている。

ちなみに、「利子所得=不労所得」が禁止されているイスラム社会にあっては、「イスラム金融」という「物融=ノンバンク」に近い概念が生まれた。
リースやレンタルのような仕組みで、利子ではなく、手数がかかる意味での「手数料」としている。

そんなわけで、ロシア革命のスポンサー企業が、「国際金融資本」だったといっても、驚くにはあたらない。
「儲かれば」対象は誰でもいいのである。
だから、このひとたちは、「グローバル」を舞台にして、誰にも邪魔されないで儲けたいの一心なのだ。

わが国では、儲けることを嫌う武士の血筋があるけれど、別格の社会主義のグローバリズムが大好きなので、用語としてあった「新自由主義」をこれに当ててしまった。

この作戦はうまくいって、国家が分配する社会主義が、あたかも新自由主義に対抗した「正義」にみせることができたのである。
日本人は、レプケやハイエクを読み直した方がいい。
経済の繁栄と国民生活の向上に、新自由主義は欠かせないのだ。

さてそれで、中国という、本来ならば共産主義を世界に輸出することが「国是」の国にあって、グローバリズムではなくて、ナショナリズムを推進しようというのが、習氏の目論見なのである。
これを、「毛沢東主義」という。

なので、国内経済の発展に多少の問題があっても気にしないばかりか、グローバルで儲けようとした、共産主義者としてあるまじき「金儲け主義」を「正そう」としている。
ソ連共産党と大げんかになった理由と、全く違う方向からの「内紛」なのだ。

そんなわけで、「恒大集団」の経営危機に、なんだかパットしない対応をしているのはどうしてなのか?
パッとしない割に、妙に落ち着いているようにもみえる。

資本主義の常識からしたら、この企業の決算が正しければ、もう「債務超過」は間違いない。
ならば、巨大な連鎖倒産が予想されるのは、銀行の「焦げ付き」と取引先への「未払い」が30兆円を超えるからだ。

しかし、この企業の創業者一家は、過去に多額の配当を得ていて、全員が兆円単位の資産家になったのだ。
ならば、この個人資産を没収すれば「チャラ」になるし、さらに、この一家を投獄すればよい。

おそらく、アメリカに巨額の資産を移しているはずだから、バイデン政権のうちに米国当局と話をつけて、差し押さえればいいと考えているのではないか?
トランプ政権なら、無理な交渉だったろう。

でもこの「ウルトラC」は、1回しか使えない。
これで、外国資本が逃避を開始したときに、わが国の資本はどうするのか?

「万事休す」は、恒大集団ざまぁ、ではなくて、日本企業ざまぁ、になるかもしれない。

感染対策認証日本一の山梨県

何が何でも「日本一」は「凄い」ことだ。

これで、「空き家率日本一」から脱却できれば、なおおめでたい。
しかし、なんといっても、飲食店に対する「ウイルス対策都道府県認証」という「お上依存」が、あたかも「感染を減らした」というのは、ばかばかしい。

単に、PCR検査を受けなければいい「だけ」なのである。
それに、この検査キットの中身を調整をすれば、増えたり減ったりを調整できる。
まるで、期日前投票の投票箱ごとすり替える不正をするようなものなのだ。

だから、ボールペンやマジックペンを投票所に持ち込んで、名前を書いても無意味なのである。
もちろん、選挙の立会人は、地元町内会からやってきて、その町内会の役員が選管の仕事をやっている。

もしも不正を暴いたら、もうその地区には住めなくなるのだ。

さて、念のためランキングトップ10は、山梨県98.8%、東京都79.2%、福井県72.6%、埼玉県72.0%、岐阜県64.7%、千葉県64.0%、徳島県63.8%、熊本県57.3%、兵庫県55.4%、茨城県53.8%となっている。

これを、「奴隷化率」と呼びたい。

すなわち、山梨県が日本一奴隷化(共産主義化)を達成して、どうにもならない「衰退」を、またぞろ全部行政におんぶに抱っこしてもらえば、なんとかなる、という「洗脳」も完璧になったというべきだろう。
別な言い方をすれば、役所の監視網が全県に及んだということだ。

おそらく、中国より凄い。

「ワースト」ランキングでは、島根県の0.3%がトップで、北海道、青森、秋田、岡山、高知、鹿児島を含む7道県が10%を下回ったという,「立派な成績」である。
なお、飲食店の数がわからないという、もっと素晴らしい石川県は、集計に入っていない。

しかも、この「制度」は、なんと「基準」がはっきりしないのだ。
認証を得るための「チェック項目数」では、福井県と鳥取県が60を超しながら、岐阜県は4、徳島県は5。
それで両県とも、ちゃっかりランクインしている。

めんどいから無視する、というのが鳥取県だったのか?
いや、鳥取県は44.2%と健闘したから、やっぱり島根県とは人種がちがう。

すると、福井県が3位にランキングされているのは、別の意味で「異常」である。
「コロナは茶番」と主張する、自民党福井県議の言動は、ぜんぜん県内に浸透していない、という意味だと思われる。

テレビの娯楽番組を真に受けて、「県の認知度ランキング」で全国最下位になったのを、突如県知事様が「訴えてやる」と叫びだした群馬県は、3022軒21.6%の「成績」だった。
「まぁまぁ」ではないか。

下に、20もの府県がある。

でも、おそらく、群馬県知事は、納得していない。
山梨県みたいになりたい、と。
つまりは、全体主義者なのだ。
このひとがいう「県民のため」は、「自分のため」という政治用語である。

興味深いのは、10%にギリギリ乗せた、安倍一家の山口県。
その「長州」とひっついているのが、ワーストにランクインした「薩摩」は鹿児島だ。
これに、龍馬の高知はもっと頑張って、4.9%。

「保守の星」、高市氏のお膝元奈良県は、11.0%で山口の上。
関東では、「謝謝」茂木外務大臣の栃木県が11.8%で頑張ったのが「妙」だ。

なんだか、「民度」がわかるのである。

もちろん、「低いほう」が民度は「高い」ということだ。
その意味で、超巨大都市の東京が、全国2位の79.2%というのは、まるで民主党の牙城、ニューヨークのような民度の低さを露呈した。
なるほど、まともな「知事」を選んだことがない、という理由が分かる。

かくいう、我が神奈川県は、40.1%という、恥ずかしい値になっている。
東京ほどではないことに胸をなで下ろしたい思いだが、せめて群馬以下につけて欲しかった。
長崎県20.1%、香川県20.0%がうらやましい。

先日の市長選挙で、「佐賀の乱」に失敗した、佐賀県は、やっぱり30.1%という微妙な数字で、行政依存症という病気が発症しているだけはある。

それにしても、「基準」が違う「数字」を発表してあたかも全国ランキングの記事にする、という報道機関の編集トップは、一体なにを言いたいのか?と、よく読めば、全国統一という全体主義を進めたいらしい。

テレビの娯楽番組に噛みついた知事は、こちらの方に噛みつくべきだった。
「営業の自由を奪う」として、大反対の気勢をあげて、群馬では営業規制はしないと宣言したら、たいしたものだ。

群馬県民は、とんだ「間抜け」を選んだものだ。

そんななか、JR東海は、東海道新幹線の社内販売(「こだま」は営業していない)で、酒類の販売を25日から「再開」するという。
駅構内の売店はどうなのだろうか?

風が吹くと桶屋が儲かる、という詭弁に、21世紀の人類は「バカバカしい」とおもわなくなった。
電車の車内でビールを飲むと、どうして感染症になるのか?
しかも、改札の外で購入すれば、ふつうに車内でビールは飲める。

乗客への「いじめ」を、まじめにやって「いいこぶる」JR東海は、国民資産の新幹線を私物化しているにすぎない。

もうすぐ2年になるのに、相変わらず「感染経路」がわからないのだ。
だから、ワクチンを接種しようがマスクをしろという。
風邪だから感染経路がわからないのか?

感染症なのに、しかも「2類」という「大病」なのに、感染経路が判明しないという不思議。

総選挙になったら、急激にウイルスも活動をやめてくれる都合のよさは、偶然とは思えない。

グローバリズムとナショナリズム

世の中の複雑は、妙なことから「ねじれる」ので、話がこんがらがることで起きるものだ。

こうした「複雑」を理解するために、「単純化」、という手法が使われる。
ちゃんとした「分析」ならいいけれど、「複雑」の「成分」を恣意的に取りだして単純化したら、ずいぶんと粗っぽいことになって、「いい加減」なことになる。

たとえば、PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)という「図解」が流行ったことがある。
原点から、X軸は市場占有率(マーケット・シェア)の低から高にして、Y軸には市場成長率を低から高にして、図示する。

それで、X・Yともに低いエリアを「負け犬」、Xは同じでYが高いエリアを「問題児」とし、Xが高くてYが低いエリアを「金のなる木」、両方とも高いエリアを「花形」として区分するのである。

なんとなく「わかりやすい」から、ずいぶんと人気があったのだけど、見せられる側と見せる側とで、話が変わる。
あなたが企画担当者だとして、自社商品やライバル社を分析せよといわれたときに、どこで「線引き」するのか?という問題にぶつかる。

結局は、もっともらしいけど、見せる側の恣意的な工夫による、という粗っぽいことになってしまうのだ。
こうして、「伸び盛り」のはずの商品が、「負け犬」認定されて、市場から消されてしまった、「しまった」がたくさんある。

反論は承知しているが、安易にこの手法を用いて「判断」に使うと、火傷をするという「警告」である。
マーケティングは重要だけど、思わぬ落とし穴があることに注意したい。

さてそれが、「政治思想」という区分になると、もっともらしいことと、そうでないことの区別がつきにくい、という厄介がある。
「学問」としての「政治学」が、特に「理系」から認知されないのは、「論拠」となる「根拠」の設定が困難という大問題がつきものだからだ。

つまり、ほとんどの「根拠」が、「流動化」するからである。
あちらとおもえばこちら、といったように、政治では「一寸先は闇」なのである。

そこで、「利害」のベクトルをどう読むのか?が政治学に入り込んで、様々な「予想」を公表する学者が現れる。
これが、「あたった例しがない」のは、利害関係者ですら読めない利害があるからだ。

別の言い方をすれば、「変数」が多すぎて、かつ、連立させるべき方程式も多数あるので、計算不能、ということだ。
だから、「政治学」という学問自体を認めない、という余計なお世話の別分野の学者は多い。

ただし、「地政学」という分野は、世界の指導者や軍人によって「実学」扱いされている。
「地理」と「政治」の関係を「学問する」という学問だ。

亜細亜大学の倉前盛通教授が書いた『悪の論理』は、1977年から80年にかけて、大ベストセラーになった。
当時は、「ソ連研究」というターゲットであったけれど、揺れる東アジアとなったいまこそ、再認識する必要がある。

予備校の「世界史」で有名な、茂木誠講師は、じつは地政学者でもある。
歴史と地政学を駆使して、「現代を観る」という茂木氏の解説は、政治学の権威とされる大学教授より、ずっと当を得ている。
文科省に制約されない、予備校講師の実力を舐めてはいけない。

菅氏が総裁選挙不出馬を決めた頃、茂木氏は「自民党」を地政学的に分析していて、改めて「納得」できる解説になっている。
X軸は、原点から右に「自由競争」、左に「統制と分配」、Y軸は、原点から上に「グローバリズム」、下に「ナショナリズム」をとっている。

なお、自由競争の「→」の先には、アメリカ国旗を、統制と分配の「←」の先には、中国国旗を示している。

第Ⅰ象限の、「グローバリズム」で「自由競争」には、原点に近い側に「清和会:細田派(96人)」、その右に「志公会:麻生派(56人)」が配置され、第Ⅱ象限の原点に近い側に「宏池会:岸田派(48人)」、その左隣に「二階派(37人)」、さらに左に「竹下派(56人)」が位置する。

第Ⅲ象限と第四象限は、「ナショナリズム」で共通するけど、「自由競争」か「統制と分配」とで分かれる。
「自由競争」、に派閥はなく、無派閥の「高市早苗氏」がポツンといる。
「統制と分配」には、原点に近い側に「石原派(12人)」、その左に「石破派(17人)」という配置だ。

単純だがよくできた配置図で、自民党が圧倒的に「グローバリズム政党」であることを示している。
また、「統制と分配」でも圧倒する。
これが、宏池会を「保守本流」と呼ぶことの理由なのである。

ちなみに、茂木氏がこの図を示した時点では、誰が総裁になるかは不明で、なおかつ、勝利した岸田氏はまだ「新しい資本主義:成長と分配」を発言してはいない。
けれども、こうした基本分析に立ち返ると、岸田氏の発言は驚くに値しないのである。

さてそれで、高市氏「しか」いない、第Ⅳ象限(自由競争でナショナリズム)は、アメリカ共和党保守派:トランプ氏がどっかり座っている位置である。
わたしは個人的に、高市氏がこの位置にいるとは思えないけど、自民党だけでなく、わが国「政界」にとって、「ブルーオーシャン」なのだとわかる。

逆に、この位置にいた自民党は、いつの間にか別象限にシフトしてしまったのだ。
これが、「政治不信」の原点だとも分析できる。
わが国を「占領した」アメリカ民主党政権の呪縛であろうか?

楽天の三木谷氏が、激しく「社会主義」だとして岸田政権を批判したのは、「成長」を目途とするなら、第Ⅳ象限に回帰しないといけないはずが、「統制」への道を突き進むことへの反発に相違ない。

ライバル派閥がひしめくこのエリアは、まさに「赤潮」によって酸欠した「レッドオーシャン」そのものである。
国民も、窒息しそうなのは、ここに理由がある。

なんだか、岸田内閣が「新しい近衛内閣」に見えてくるのである。

市長選にみる「佐賀の乱」

17日投開票される、佐賀市長選挙は6人が立候補した。
そのなかでの「異色」が、医師でもある細川博司氏だ。
本人が語る履歴は、臨床薬理(治験)で学位を取得し、公衆医学の助教になったけど、辞めたのは教授とケンカしたからだという。
国立大分医科大学卒業。

統計学の横浜市長より、よほどコロナの専門家である。

公約のトップに掲げているのは、「ワクチン中止、マスク着用の中止、消毒の中止」だ。
しかし、「異色」なのは、本人の演説もさることながら、力強い「応援演説」の数々にある。

「地元」より、「全国」から支援者がやって来て、それぞれが「熱い演説」を繰り広げている。
例によって、佐賀新聞は5人の候補と細川氏紹介の記事で「差別」をして、他の候補者の半分しかない写真を掲載もした。

支援者が新聞社に質問しても、誠意ある回答は得られない、という「事件」になった。
なお、全国の「地方紙」が、各県原則一社に限定されているのは、「国家総動員体制」が継続しているからである。

さて、「昔の政治家」は、皆演説に長けていた。
なかでも、「歴史的名演説」は、今聞いても(読んでも)「素晴らしい」に尽きる。
残念ながら、メディアが発達すると、政治家は総じて「演説下手」になった。

また、聴く側も、メディアの「印象操作」を受け入れたのだった。
日常が忙しくて、とてもじゃないが「演説会」に足を運べないし、全部を聞く悠長なことはしたくない。

これは、「卵と鶏論」になる。
何しろ、昔の演説会は、「寄席」とはいわないまでも、風刺が効いて面白かったからである。
もちろん、娯楽も少なかった。

あの、人生幸朗・生恵幸子による、「ぼやき漫才」は、昔の演説会のパロディにちがいない。

しかし、テレビの娯楽番組がはじまると、なぜか演説も面白くなくなった。
これに、「言葉狩り」も影響した。
占領軍がつくって命じた、「プレス・コード」を、占領軍がいなくなっても守ったばかりか「一層強化」したのだった。

そんなわけだから、昔の文学作品には、当時の「普段づかいの言葉」があって、これを復刻すると、「注意書き」で、「作品としてそのまま記載」とかの弁明を印刷して、面倒なクレームからの責任を回避している。

どうして占領軍が「プレス・コード」をつくって命令したのか?は、「聖教新聞」のコマーシャルが説明してくれている。
人間は、「言葉と生きていく」動物だからである。

聖書も、「はじめに言葉ありき」として、「光よ、輝き出よ」と神が言うと光がさっとさしてきました、とある。
神はきっとヘブル語(古代ヘブライ語)を話したにちがいない。
しかし、イスラムの神が、『コーラン』で指定したのはアラビア語だ。

すなわち、人間という動物が唯一持っている「言語」なくしては、文明も文化も、「ふつうの生活」すらあり得ないのである。
その人間がつくる社会を統制する、「政治」を行う者には、「言語」を扱う才がなければならないのは、古今東西の「当たり前」なのだ。

こうした根本的な意味でも、「演説」ができないものに政治家はつとまらない。
そこに「論理」立った「主張」が要求されるからである。

メディアへ依存することの「害悪」とは、政治家が演説をしないでよい、環境をメディアがつくったことによる。
いってみれば、メディアに政治が乗っ取られたのだ。
つまり、政治家は「論理」立った「主張」ではなくて、「知名度」だけが勝負になった。

これがいかほどの「不幸」を呼ぶか?
昨年のアメリカ大統領選挙をみれば明らかだ。
おかげで、石油が値上がりしてガソリンは3割以上(アメリカでは倍)も高くなった。

そんななかでトランプ氏のラリー(演説会)の「盛況」は、どんどんエスカレートしている。
共和党のなかでも、彼が嫌われたのは、伝統的な業界癒着を許さないで、「本当に」生活者のための「政策」を実施したからだった。

だから、業界癒着で利益を得るメディアは、トランプ氏の「排除」を画策し、成功させた。
これを、CNNは堂々と「自社報道の成果」だと自慢して、視聴者の信頼を失ったけど、わが国も同じ構造なのだ。

日本人が「佐賀」をどう見ているのか?と問えば、北部九州の長崎県と福岡県と一緒にしたら、「県境」の地図が描けない状態にあるはずだ。
では、「佐賀市」はどこにあるのか?

初代の神武天皇は、佐賀の生まれ、なのである。
それから、「東征」がはじまったことになっている。
「武士というは死ぬことと見つけたり」の一文で有名な、武士の教科書『葉隠』も、佐賀鍋島藩士が書いたものだ。

「日本」が破壊されて、神武天皇を知らない日本人が多数いる。
武士の心得を説いた『葉隠』だって、何のことか知らない日本人のおとなはいるのだ。
ならば、明治7年、最初の士族の反乱「佐賀の乱」も同じだろう。

今年6月末に、大久保利通が伊藤博文宛に書いた「書簡」が発見された。
大久保は新政府の内務卿として、鎮圧の先頭に立っていた。
そこで、「とにかく一打をたたきつけて朝権を示さなければ」との所感を綴っている。

しかして、2週間で敗北した乱の指導者は、元司法卿江藤新平と元秋田県令の島義勇で、両者はその後処刑された。
これを、新政府内の「内ゲバ」と位置づけるには難がある。
冷静にみれば、「反乱側の主張」だって筋が通っているのだ。

同様に、今回の佐賀市長選挙も、現代の「佐賀の乱」に相違ない。
自民推薦候補の「順当な」勝利は、「佐賀」をより社会主義に導くだろう。
衰退は止まらないことが確定した。

それにしても「乱」の成功は、どこまで堕ちたら市民が気づくのか?による。
すなわち、今回の「佐賀の乱」も、「反革命の失敗」に終わったということだ。

残念。

ワクチン中止請求裁判で

ニュースにならない「事件」は、世の中で「起きていなかった」とする錯覚は、「知らない」から発生する当然である。
とはいえ、「本日の出来事」を全部ニュースにすることは不可能だ。
だから、「話題の選択」という「編集」が、ニュースにはつきものになるのである。

それだから、ニュース報道は活字になったものも、音声や映像付きのものも、「パブリッシング」として扱われて、「著作権」が付与される。
誰かが「ニュース原稿を書いた」ことでの著作権とは、区別しないといけない。

インターネットから生まれた、SNSという「サービス」は、「投稿をそのまま上げる」という意味で、これまでの「編集」とは違うからと区別して、さまざまな「特権」を付与したのは、「著作権」とは別のことである。

これを、「プラットフォーム」と認定して、「パブリッシング」とは別にした。
しかし、いまは、そのプラットフォームの提供者が、「投稿の削除」を行うようになって、事実上の「編集」をしている。

その「編集方針」が、前からあった報道機関と思想的な足並みを揃えているので、特定分野の情報が、漫然としている受け手には一切届かないことになって、「知らない」ことがこれらの企業によってつくられるようになった。

これを、「情報統制」というのだけれど、「知らない」ひとには、情報統制されていることすら「知らない」状態になる。

監禁状態にあれば、外部からの情報が遮断されるので、自分はいまなにも知りうることがない、という状態を認識することができる。
しかし、生半可な状態で、SNSのサービスを楽しんでいると思って、データ通信料金が高いと思っているひとの中には、あんがいと「自分が統制の対象になっている」ことを知らないでいられるのである。

これを上に書いた、「漫然としている」と分類できる。

また、このようなひとは、ちゃんと配信される無料の「ニュース記事」やテレビのニュース番組を観ていて、情報の「バランス」をとっていると自覚していたりする。

まさに、「パブリッシャー」からしたら、「予定通り」のことなのだ。
同じ「編集」をした記事を、違う出所だからと鵜呑みにしてくれる。

つまり、情報を全部出すのではなくて、小出しにすることでの水準が維持できれば、その小出しがいつかは全部に思えるようになる。
しかし、その小出しに疑問があって、これを自分からリサーチすると、思わぬ姿が浮かび上がってくることがある。

そうやって、漫然としている「多数」と、手間をかける「小数」が生まれるけれども、「パブリッシャー」は気にしていない。
「自由」で「民主主義」を基本にするなら、かならず「多数決の原理」が作動して、少数者を事実上無視できるからである。

そんなわけで、ニュースにならなければ、あるいは、ニュースにしなければ、漫然としている多数をコントロールできるのである。

ついでにいえば、漫然としている多数に、「憎悪の感情」を呼び起こさせるような「演出」は、特に効果的なコントロール法である。
この意味で、思想的に潔癖症で正義感の強い日本人の多数は、「白か黒かの二元論」的な誘導による情報統制が、特に「効く」ようになっている。

その一部が、「マスク警察」とか「他県ナンバーへの嫌がらせ」のような社会現象になるのである。
いまだに「マスク着用」を半強制的に行っているのは、まさに「情報統制」の「成果=洗脳」なのだ。

さてそれで、7月末に東京地方裁判所に提訴した、ワクチン中止請求裁判の第1回口頭弁論が12日にあった。
ちなみに、「ワクチン中止請求裁判_東京地裁」でググっても、検索に「ヒットしない」という、「編集」による「なかった」を確認できる。

それに、13日付け日経新聞では、「マスク着用せず東京地裁に数百人 ワクチン訴訟で騒然」と、あたかもマスクをしないことに「憎悪」を起こさせる「セオリー通り」をみることができて、「どんな訴訟なのかの原告の訴えを無視」していることも意図的だといえる。

裁判冒頭、開廷にあたって裁判長は傍聴席に向かって、「マスク着用」を要請した。
すかさず、原告側弁護人が「法的根拠」を質問すると、裁判長は「任意です」と答えたのだ。

にもかかわらず、再度裁判長がマスク着用を要請したのであった。
しかしながら、「任意」という「判断」を再び得たため、傍聴人たちは「安心して」マスク着用をしなかった。

「法の番人」は、いったい何をやっているのか?というお粗末を、弁護士は終了後の記者会見で、「マスク着用の法的根拠はない」と東京地裁が認めたことを「本日の成果」だと語った。
こんな会見しているのに、記事にならないことも注意したい。

さて、実はもっと重要なことは、「ワクチン接種」について、「裁判で係争中」という事実である。
従業員らに、ワクチン接種を推進した企業経営者は、「この事実」を「知らない」で済ませられるのか?

もちろん、「治験中」にすぎないという状態も含めて、のことである。

「編集」を旨とする報道機関が報道しない自由を行使しているけれど、原告勝訴となった場合、企業はどうするのか?労働組合は?
あるいは、「原告敗訴」となった場合、原告は控訴する可能性がある。
なぜなら、「強制」につながるからだ。

15日、政府の分科会で「動き」があった。
「心筋炎」の増大という事象を受けて、モデルナ製の接種をやめる方向での検討がはじまったのだ。

岸田内閣は、裁判や報道とは関係なく、「どうする?」という問題が突きつけられている。
「CHIPAN」にしたいのは山々だろうけど。

CANADAが国名をCHINADAに?

わが国と似ている国に、カナダが「がぜん」躍り出た。

日本で自民党総裁選挙があった9月に投票が行われた、カナダ下院(庶民院)の総選挙は、小数与党の自由党(中道左派)が圧倒的有利という世論調査に乗っかって「解散」したものの、「コロナが収束していない」ことへの不満から、一転して「苦戦」を強いられることになった。

対するのは、野党「保守党」だ。
とはいえ、表面的な「政策」で、自由党とどう違うのか?がわかりにくいのである。
今回の選挙では、「炭素税支持」に転換し、中絶についても「女性の選択」へと「穏健化」したことで、ますます自由党と拮抗したのである。

なんだか、「岸田派」と「細田派」の違い、に似ているのだ。
わが国の、「自民党内政権交代」という仕組みの「妙」は、なんとも「日本的」ではあるが。

ただし、この「総選挙」では、アメリカで大問題となった、不正を仕込める「郵便投票」分の投票が多数を占めている。
果たして、「少数与党」にまたなったという「自由党」は、本当に「勝った」といえるのか?はわからないという問題も潜んでいる。

さて、自由党と保守党が似ているということについては、「本国」の大英帝国が衰退するにあたって、労働党と保守党が、ともに「高福祉」を訴えて、「バラマキ」に奔走した時代と似ているのである。

つまるところ、「左傾化」であって、これがアメリカを含めた「世界潮流」になってしまったのである。
したがって、世界のマスコミは「右傾化」という真逆を「宣伝」する。
いまや、「中道左派」という用語も、その意味するところは「単なる左派」になっている。

これには、わが国と同じように、カナダ人も「B層」が多数なのかも知れない。
「知能が比較的低くて、マスコミ報道に影響されやすい」という、あれ、である

日本の北海道の北端の緯度(北緯45度33分:択捉島)が、カナダの「南部」にある首都のオタワ(北緯45度25分)やモントリオール(北緯45度30分)と、ほぼ同じである。
つまり、カナダの国土は北海道の北端よりずっと北にある。

なので、論理的に考えれば、「温暖化」した方が生活環境としては寒さが緩和されていい、と思うのだが、多くのカナダ人は、「もっと寒い方がいい」と考えているようである。
ならば、どうやって「暖」をとるのか?

そんなわけで、わが国を「追い越して」、全体主義化することに「満足感」を得るという現象まで出てきたのは、まことに残念なことである。
「自由主義」が衰退すると、かならず「全体主義」が頭角を現す。
それが、「コロナワクチン接種の義務化」だ。

カナダも「連邦制」なので、「州:プロヴィンス、province」ごとに違うのは南の隣国アメリカと同じだ。
ただし、州の数はずっと少なくて、全部で10州、これに3つの「準州:テリトリー、territory」がある。

現在のところ、準州を除く全ての州で、ワクチンの義務化が定められて、未接種者あるいは拒否者は、職場を「解雇」されることになっているのである。
さらに、「結婚」もできなくなった、と「カナダ人ニュース」は伝えてくれた。

結婚の届けを、本人たちが役所に行って手続きをしなければならない決まりは前からあったけれど、いまやワクチン接種者でないと役所内に立ち入れないのである。
それで、事実上結婚の手続きができない。

過疎の地方では、医療関係者がワクチン未接種者あるいは拒否者なら、「免許停止」されてしまうため、地域診療所の「閉鎖」という事態にもなっている。
人為的に、「無医村」をつくるという「医療崩壊」が起きている。

また、当然ながら、「不当」だとして訴訟が多数起きている。
しかし、先日、驚くべき法理による判決がでた。
それが、「Judicial Notice」だ。
日本語にすれば、「裁判所の当然の認識」という意味になる。

「当然の認識」とは、「説明を要しない」ということで、たとえば、現代なら、地球が太陽の周りを回っている、という「当たり前」をいう。
このことを、裁判所も認識している、ということだから、なんらかの裁判で、「地動説」に反対する主張は、説明を要することなく却下されるということだ。

これが、「ワクチン接種」に適用されたのである。
政府が推奨する、「コロナワクチン接種」は、その「必要性」が「Judicial Notice」として認定した「判決」がでたのである。
これによって、「接種の義務」について、「忌避」や「拒否する」という「選択の自由」は封殺された。

ならば、インフルエンザワクチンはどうなのか?と説いても、もはや「せんない話」になってしまった。
ガリレオの主張が封殺されたように、コロナワクチン「だけ」は、なにがあっても「打て」になったのだ。

そんなわけで、「裁判官の名前」は記録しておかないといけない。
ガリレオがそうだったように、数百年後になって、「裁判の間違い」を認定するときに、犯罪的な裁判官の名前は「人類史」に刻まないといけないからだ。

すなわち、「政府の強制」を「正義」として、三権分立の裁判所が認定したのだから、いまどきの共産国よりも全体主義が実行されるということになったのである。

ちなみに、現在の地上で「共産主義政権」の国は、5ヵ国だけだ。
中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、キューバ、である。
そこで、カナダ人でB層ではないひとたちが、自国を「CHINADA]と呼び出したのである。

わが国は、「CHIPAN]になるのだろうか?

企業が自由を破壊する

外国、特にアメリカの「大統領発言」を機に、航空会社のパイロットたちが、どうやら「集団罹患」して、「病欠ばかり」となり、運航不能で欠航があいついで数千便にものぼっている。
これが、「仮病」なのか?どうなのか?は、わかっていない。

しかし、「同時期」にパイロットばかりが「病欠」しているのである。
さてはパンデミック?ともなっていないのは、「ストライキ」ではないか?との疑いに、労働組合が否定している「だけ」だからである。

問題の「大統領発言」は、今年の9月9日のことだった。
突如、民間も含めた「ワクチン義務化」を「発表」したのだった。
それで、大手航空会社は、ワクチン未接種者あるいは拒否者への「解雇予告」を「強化」したのだった。

これはなにも航空会社だけでなく、全産業をカバーするから、学校では、「最後の授業」が頻発している。
ワクチン未接種あるいは拒否した、教師があいついで「解雇」されているのである。

「生粋のフランス人」アルフォンス・ドーデの作品で、最も有名な『最後の授業』は、普仏戦争(1870~71年)で敗北したフランスが、その領土「アルザス・ロレーヌ地方」(ドイツでは「エルザス・ロートリンゲン」)をドイツに引き渡す直前の「その時」を描いたものだ。

なお、第二次大戦後は、フランス領になっているけど、とにかく「何回」も行ったり来たりしている「係争地」なのである。
この地方は、フランスにあって「ビール」の産地で、ビール醸造所が「直売」するときに出した「つまみ」ごとパリに進出したのが、「ブラッセリー」という「ビアホール(居酒屋)」であった。

「戦争」という、目に見える「勝敗」の結果は、どんなに理不尽であっても受け入れざるを得ない。
それが納得できなければ、再度戦争をして「取り返す」というのを「野蛮」というが、残念ながらいまだに「戦争のルール」なのである。

だから、いつ何時、また奪われるかもしれない。
「領土」は変わっても、「人間」を変えてなるものか、という精神から、この「小説」は、この地方の小学生の「必修の暗誦」課題になっている。
つまり、この地方に住むひとで、この小説を暗誦していないひとは「いない」ということなのだ。

子供からはじめれば、半世紀もすると完全に「社会の常識」になる。
これが、「初等教育」の効果であり、恐ろしさでもある。
わが国では、GHQに禁止された『教育勅語』がこれにあたる。
初等教育を舐めてはいけない、重要な事例なのだ。

戦後の日本人の子供は「必修の暗誦課題」を受けていない。
このことの「不幸」は、郷土愛を含めて「持たせない」ことの決心が、おとなの側にあったということによる。

それは、一種の「精神的被害者」を生産するという意味でもある。
伝統的・精神的価値観を子供に「移植しない」まま、集団に隷従するように「しつける」ということの、「設計」とは、その意図を隠せる立場からしたら、こんなに有利なことはない。

これが、現代の「支配の構造」を支えているのである。

精神的・思想的支柱がないまま、集団には盲目的に隷従するなら、まったくもって為政者たちには都合のよい「国民」になるからである。
これが証拠に、選挙権を18歳に引き下げても、若者は選挙に行かず、興味もない、のは、まことに「教育成果」というしかない。

さてそれで、アメリカ大統領の「発言」は、企業経営者を「その気」にさせて、「解雇」という伝家の宝刀を抜かせている。
ところがまったく不思議なことに、この大統領は、本発言後に「大統領令」すら発していない。

つまり、「言っただけ」の状態なのである。

だから、「解雇された」ひとたちは、連邦政府に「法的根拠」を求めることができず、個別に雇用主を訴えるほかない。
それで、共和党のテキサス州・フロリダ州知事は、「ワクチン強制による解雇禁止令」で対抗している。

ところで、ワクチン強制による解雇を順調に進めているアメリカン・エアーと、大量病欠で欠航が相次ぐサウスウエスト航空は、両社とも本社をテキサス州に置いているから、これからどんなことになるのかが注目されている。

なかでも、サウスウエスト航空のパイロットが投じた動画は、再生回数が驚異的な伸びになっている。
彼の主張は、「選択の自由」を失うことの「恐怖」なのであり、アメリカ建国の「歴史否定」だ、と。

さて、わが国に目を移せば、「ワクチン強制による解雇」には至っていない。
けれども、旅行業界とその周辺は、「ワクチン・パスポート」への期待を露わにしていて、「間接的に強制」を示唆するばかりか「期待」しているようだ。

これぞ、「自由思想」という「芯」がなくて、学校集団のなかで勉強エリートというだけの人生が醸し出す、「隷従」であることすら気づいていないことの証拠だ。

もはや「企業の社会的責任」に堂々と抵触しても、我関せずでいられるのは、「政府がいう空気」に隷従しているからだ。
そして、その隷従を、従業員ばかりか消費者にも、強制しようとしている。

自由経済に立っているはずの企業が、自由を破壊する。
もう、政府はなにもしなくてもいいのだ。
むしろ、国民を痛めつける政策を堂々と推進できると考える。
これが、「岸田政権」の本質だ。

ただし、アメリカ人が目醒めると、日本政府にも影響するから、全く情けないけど、「自由を希求するアメリカ人」に、日本人全体も依存しているのである。