小学生の語彙は200語!?

何年生のことなのか?がわからない、妙に刺激的な話が蔓延している。

検索すると、小学校入学時の語彙数は、5000〜7000語、卒業時にはだいたい20000語になっているというから、「200語」とはどういう勘定をしたのだろうか?

ただし、「200語説」は、日常会話でのこと、と一応のことわりがある。

会話では200語しか使わないが、読むときには20000語をしっている、ということなのだろう。
ただし、書くときにどうなのか?はわからない。

読めなければ書けないが、読めれば書ける、ということにはならないし、平安時代の言文一致に戻って、話すことが書くことになっているからである。

しかも、日常会話といっていても、それは同級生(子供)同士なのだろうと予想できるのは、親(おとな)との会話をかんがえると「たったの200語」ではありえない気がするからで、「子ども食堂」の普及ぶりをみると、あんがいといまでは親子の会話もないのかもしれない。

じっさいに、小学生同士の会話をじっくりと聞く機会がほとんどないから、たまにファストフード店で隣り合わせた経験でいえば、200語といえばそうかもしれないと思うほどに、会話が断続的でかつ略語を多用していることに気づかされる。

なにせ、おなじテーブルにいながらにして、全員が端末片手に対戦ゲームをやっていて、会話といっても「画面の状況に応じて」何か音声を発しているだけなのである。

「クソッ」とか「しねっ」とか、画面を見ていない側からすると何をやっているのかわからない。
ようやくゲームオーバになって、端末をテーブルに置くなりはじまる「会話」も、もっぱらゲーム内容に関することなので、単純な表現しかしていないのである。

そうやって、腕前についての評価になると、ゲーム用語で人間を評価して、結構どぎつい言葉責めをしているけれど、それで人間関係が大丈夫なのかとかつての子供の頃を思い出して心配になるのである。

どんなに仲が悪い相手にも、この子たちのような決め台詞は滅多に使うことはなかった。

これは、鈍感さを鍛えるための訓練なのか?それともなんなのか?をかんがえたくなる話であるが、あんがいとその場ではクールにやり過ごしていても、やっぱり子供だからあとからジワーッときて、脳の発達とともに引きこもりの原因になるのかもしれない。

スマホを持ち歩く小学生も見かけるが、もうどうにもならないほどに、親が与えることが常識にになっているのだろう。

買い与えないと、イジメの対象になるかもしれないという恐怖が裏返って、率先して購入しているとおもわれるからである。
むかしは学校も「禁止」をいって規制していたが、無責任がはびこって余計なお世話を先生たちもしなくなった。

「自己責任」とは、責任回避の便利な用語なのである。

すると、もうひとつ現れるのが、「横並び=同一化」による安心を求める精神の訓練となって、とにかく「外れ値」にならないための努力を親子でやっていることだ。

これが二十歳を過ぎても、「リクルート・スーツ」という個性を隠すための制服になったから、明日からの新年度どころか、年中みかけることになったのである。

ところが、「クールビズ」というヘンテコリンの蔓延(じつはこれも「横並び」)で、おとなの世界では、世界的にもありえない「ドレスコード」がないも同然の無秩序になったのである。

むかしは「集団主義」といっていたけど、これは明治以来の「国民均一化」による富国強兵のための強力な手段だった。
それで、近年「個性の重視」とかいったら、かえって集団から外れることが恐怖のタネになったのである。

しかし、左翼ばかりの教育専門家がいう「個性の重視」とは、アトム(原子)化のことであって、個々人をバラバラの粒のようにして現世だけの「生」としているから、「今だけ」のネット・ゲーム端末の普及にも文句をいわないのである。

これぞ、末法の世の中における、「現世利益」の具現化そのものなのである。

先祖や子孫のことをかんがえない、個(粒)としての自分だけ、をかんがえればいいという安逸が、全体主義社会をつくるための条件であることは、もうナチス・ドイツやソ連やらの迷惑な社会実験で判明している。

ちなみに、「ファシズム」の元になった、ムッソリーニが創設した「ファシスト党」がどんな思想の政党だったかを国民教育として教えない、というわが国教育行政の具体例からわかるのは、単純に「アウシュビッツの悪」を擦り込んで、いまガザでイスラエル政府がやっていることの意味を分からなくさせている。

もちろん、日本人でも日本政府をぜんぜん信用していないわたしのように、ユダヤ人だからといって、全員がいまのイスラエル政府を信用しているわけではない。
むしろ、イスラエルの人口構成は、いまやパレスチナ系住民の方が過半になっていて、戦争に嫌忌したユダヤ人が国外に退去しだしているほどなのである。

さて、元来、教育は家庭でおこなうものだった。
父や母から手ほどきされて、その最たる事例が「孟母」である。

孟母は理想的で尊敬の対象だが、「教育ママ」は蔑まされた。
その意味するところは、「ママ」という言葉にあって、「おかあさん」と呼ばないアメリカンな言い方が、「薄っぺら」を意味したのである。
コーヒーでいう「アメリカン」とおなじ意味である。

良家では、「とうさま」、「かあさま」と呼ばせていた時代だった。

すると、「学校」とは、教育を家庭から分断させているのだといえる。

むかしはほとんどのひとに「家業」があって、家に居た。
家業が廃れてどんどん勤め人になったことで、学校が「子供の預かり場所」にもなったのである。

だから、昨今の在宅勤務の普及は、この意味で家庭教育に回帰するチャンスだが、利権化した学校一本やりで、「多様性」を口を揃えていうのにそれを一切認めないのである。

29日、学習指導要領に従っていなかったとして、国立(「行政法人」という無責任の組織)の奈良教育大学付属小学校での「事件」についての処分が報道された。
それで、大学の学長やら大学教員に、当該校の校長やら管理職を処分するという、まことに不思議な責任回避が実施されたのである。

所管の「文科省」は、なぜに「無傷」なのか?
ましてや、教育大付属小学校とは、あたらしい教育メソッドやら効果測定のための「実験校」であって、生徒ははじめからモルモットなのである。

だから、教育大学付属小学校において、「学習指導要領」に沿わないのは、当然ではないのか?
むしろ、職務に忠実だったとかんがえるのである。

ならば、冤罪だ。

教育者の矜持として、処分されたひとたちは、訴訟を起こすべきである。

かくなる事態から、国立の小学校に行けるのは余裕のある家庭だけ、のようになっているようだが、じっさいは「抽選」ということになっていて、子供をモルモット扱いされることに同意しての入学なのだということすらわからない親世代の劣化も、過去の教育の成果なのである。

こうしたことから、登校拒否がふつうの感性ではないかと、妙に納得もできる。

窮屈すぎる学校制度を大きく変革すべき時代になっているけれど、おとなたちの劣化がこれを阻んでいるのである。

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