思考の三段階

山谷えり子氏の実弟、伊藤貫氏が深い洞察力で語るトーク動画がおもしろい。

ウィキペディアによると、このひとの肩書きは、「日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家」とあって、唯一最後の「政治思想家」が、学術的な肩書きで、あとは俗っぽい表現になっている。

ずっとワシントンD.C.に暮らして、アメリカ政治の中枢の人物たちにも親交がある氏の解説が、他のひとと比較しようもないほどになっているのは、基盤にある「読書量」だといえる。

しかも、本人は、「英語の本ばかり」と自覚されていて、それがそれなりの「偏見」になっている可能性があることもあらかじめ断って話をすすめている。

今回の注目動画は、「キッシンジャーの栄光と残虐!!!」というタイトルで、シリーズの「1」だけを対象としてこれを書いている。

この中で、前にもどこかの動画で語った、「思考の三段階」について、わたしが見ている限りにおいて再度言及されたから、今度は忘れないように書いておく。

・最上位:最も抽象的・哲学的・宗教的な知識と思考力レベル=価値判断ができる
・中 位:パラダイム(思考パターン、「学派」を形成する)レベルの思考力
・最低位:ポリシーレベル(=具体的、プラグマティック・実用的)の思考力

ポリシーレベルの思考力だけで議論すると、ときの流行に流される傾向が強くなってしまうのは、それがまさに「根無し草=浮き草」のようなものだからである。

思考の達人は、中位のパラダイムレベルの議論さえ、場合によっては「使い分ける」ことができる。
たとえば、右翼相手にマルクスを語るとかして煙に巻いてしまうこともある。
ぜんぜんマルクス主義者ではないのに、だ。

最上位の思考は、ここから下位の思考をコントロールするのにも用いるから、凡人は、最上位の思考をするひとには、かなわないのである。

これを、「次元」にたとえれば、一次元「点の世界」、二次元「面の世界」、そして三次元以上「時空を超える世界」を思い起こさせる。
次元が高次のひとからみたら、ポリシーレベルの思考力のひとは、「点」にみえるということだ。

しかし、「点」の世界のひとからは、高次のひとの話をみることもできないし、理解もできない。

なんだか、現代の経団連の爺さんたちとか、国会周辺、霞が関のあたりが、「点」の世界にみえてくる。
「点」の中で、グルグルとポリシーレベルの議論をして、どっちが得か損かを決めている。

本来ならば、せめて「パラダイムレベル」の議論を、学者やら専門家やらが提供すべきところ、彼らも「予算配分で日和る」から、もうパラダイムレベルの議論さえ途絶えた。

ゆえに、最上位のレベルで物事をかんがえる者の、思考世界における奴隷となるので、肉体も同時に奴隷化するのである。

つまり、英語圏には最上位の思考者が存在するので、幕末で途絶えて以来、存在しない日本を支配できるという論理が成り立つのである。

こうしてかんがえれば、「鎖国」とは、最上位のレベルでの思考ができたことの、ひとつの目に見える形態であったともいえる。
伊藤氏は、奈良時代から江戸末期までの日本には、仏教と漢学があったことを指摘する。

西田幾多郎とその親友だった、鈴木大拙は、「その後」のあだ花だったのか?

漢学は、中位のパラダイムレベルの議論だが、仏教には最上位の哲学がある。
いまの日本の大学教授たちは、せいぜい中位のアメリカの流行の猿まねか、最下位のレベルに堕ちていると厳しく指摘している。

それで、伊藤氏は、英語圏の最上位の思考をするひとを七人挙げている。

アーヴィング・バビット(哲学者、仏教典のパーリ語を含む8カ国語)
T・S・エリオット(バビットの弟子、詩人、パーリ語を含む7カ国語)
ラインホルド・ニーバー(神学者)
ジョージ・ケナン(国際政治学者)
サミュエル・ハンティントン(国際政治学者)
ケネス・ウォルツ(数学者、経済学者、哲学者、国際政治学者)
ヘンリー・キッシンジャー(国際政治学者、政治化)

哲学と政治思想史(歴史)に精通している「共通」を指摘している。
特に、ハンティントン以下の3人は、政治思想家、文明思想家、哲学者である、と。

ウォルツと、キッシンジャーは、「博士論文」が、それぞれ「古典」として出版されていて、アメリカの学会が「必読書」に指定している共通がある。

最上位の議論を味わってみたい。

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