雨なので昼呑みにでかけた

「昼呑み」は不謹慎なので基本的にしないのだが、鬱陶しい雨の日に家にこもるのも鬱陶しいと、思い切って昼呑みに出かけよう!と決心をした。

問題は、行き先エリアの選定である。

候補になるのは、湘南方面なら、藤沢・江の島とか、鎌倉市と横浜市が接する大船。
これ以上遠方となると、帰りが面倒である。
横浜中心部なら、だんぜん野毛であろうけど、ここは図書館通いの身からすると日常のエリアになって新味がない。

はて?どうするかが、鬱陶しい家の中での問題となった。

そこで登場したのが、横浜の北にある「ミニ川崎」としての鶴見だ。
横浜という場所は、安政6年に開港場にならなかったらただの「寒村」で、いきなり膨張したために、なんだか明治期のわが国の発展と並行して発展した感があるのは、ハマっ子だけの勘違いなのかもしれない。

しかし、「大江戸」時代から、地方出身者をおおいに吸収した伝統で、工場労働者を集めて「大東京」になったけど、一方で上野に到着した北関東や東北からの家出人たちは、東京の危険性を本能的に感じとって、また、捜索による発見を避けるため、さらに、荒っぽいイメージの川崎も通過して、ついに横浜に流れ込んだのである。

その玄関にあたるのが、鶴見なのである。

ちなみに、横浜市に「区制」がひかれたのは、昭和2年10月1日のことで、5区からスタートした。
そこに、鶴見区もあるのは、この区民の自慢にちがいない。

「神奈川県」の元になった東海道でも有数の巨大駅、「神奈川宿」からはじまる「神奈川区」と並んで鶴見区は、これまで一度も分区されることなくオリジナルのままの区域となっているからである。

なお、横浜は、ずっと「神奈川奉行」の管轄下にあって、奉行所が神奈川宿から移転して、いまの紅葉坂の上、神奈川県立青少年センター、神奈川県立音楽堂、神奈川県立図書館がある土地から、かつての港を見下ろしてのである。

残念ながら、現在は未来がみえない「みなとみらい」の開発によるビル群で、海すら見ることができなくなった。
ついでに、この奉行所の隣が、「掃部(かもん)山公園」で、陸蒸気と呼ばれた新橋ー横浜間の鉄道建設でやってきた外国人技師たちの官舎があって、その後、井伊掃部頭家の所有となってとうとう公園になった。

さて、鶴見である。

この土地は、永平寺とならぶ曹洞宗の大本山、総持寺が明治44年(1911年)に石川県から移転してきて、大正3年(1914年)には、すぐ近くに「花月園(かげつえん)」が開園した。
なんと、パリ郊外の「フォンテンブロー」をまねた大遊園地であったのだ。

さぞや総持寺の修行僧には、我慢の修行になったことだろうと推察するが、なんでこんな遊園地ができたのか?は、臨海部の工業化による大発展があったからである。

欧州における「観光客の誕生」には、産業革命による「労働者(階級)の誕生」がなくてはならない条件になっている。
それが、鶴見で現実化したのである。

なので、横浜中心部の港湾労働者とはひと味違うのが、鶴見であって、JR鶴見線なる臨海工場地帯専用の通勤電車がいまでも走っている土地柄なので、ちょっと一杯、として途中下車するひとたちがたくさんいたことは、この街の繁華街を形成している原動力のはずなのである。

京浜東北線を使うなら、総持寺がある西口、京浜急行を使うなら東口という使い分けになるのは、鶴見駅構内の貨物線のために、東西連絡通路が長いためだし、JRと京急線とは駅前ロータリーで分断されていて、「乗換駅」とはなっていないためだ。

そんなわけで、せっかく鶴見まで来た(とはいえ、横浜駅から10分ほど)から、西口と東口の「昼呑み」を覗くことにした。

「野毛」の猥雑さとはちょっとちがう雰囲気が、ビギナーの感じるところではあるけれど、それは若者たちの喧噪がない、おとなの世界だからなのだろう。
東口は、ロータリーを川崎側に折れるエリアが、どうやらそれで、京急側の旧東海道や、鶴見川の川向こうにある、沖縄・ブラジルエリアとはまた趣を異にしている。

非日常を味わったが、なかなかの低料金でしっかりした内容なのも、おすすめ、である。

これなら、電車賃をかける価値がある、と確信したのであった。

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