【2024年頭】生き残りの年

新年、明けましておめでとうございます。

この言葉を、さっそく、来年の2025年に言えるのか?が気にかかる年となった。
この意味で、無機質なカレンダーが恨めしい。

1582年10月15日金曜日からはじまる、グレゴリオ暦に世界のカレンダーは統一されているのは、ローマ・カトリック教会とプロテスタントの合意の上のことである。

民主党が支配するアメリカでお盛んな、「ポリコレ」も、まだカレンダーには言及していない。

それもそのはずで、この戦争屋たちは、「ユリウス暦」を使っているのが、ロシア正教だということを知っているからである。
もちろん、わが国が明治5年にやった、旧暦(太陰太陽暦)を棄てたのも、「ポリコレ」のひとたちはなにもいわないのである。

そんなわけで、ロシア正教においてのクリスマスはグレゴリオ暦でいう、1月7日となっている。
わが国の旧暦では、今日は11月20日で、新年(新月)は、新暦の2月10日にあたる。

ちゃんと旧暦も活用すべきなのである。

さて、今年は、選挙の年である。
台湾の総統選からはじまって、11月にはアメリカで来年以降の人類史の決戦がある。
お飾りのEU議会選挙はどうでもいいが、日本の総選挙はどうでもいいとはいかない。

苦戦がわかっている民主党が、どんな汚い手を使うのか?によって決まりそうなのは、日本のマスコミは報道せずに、必死でトランプの落選を外野から応援するのは、自民党の敗北が怖いからである。

ただし、国民には選択肢が与えられないままに、春の「憲法改正国民投票」に突入する可能性が高い。

それもこれも、5月のWHO総会における、世界政府実現のための布石である。

とうとう日本政府は、国連に国権のすべてを引き渡して、EUのような役人支配を永久化したいらしい。

そんなわけで、国民に小難しいことを考えさせないために、なんと、漫才師を不倫だかというどうでもいいことで担ぎ出して、そのスキャンダルをもって、肝心の目くらましをさせようと企んでいる。

1961年はわたしが生まれた年であるが、これから1年間かけて、しつこく3回も国会に提出されて廃案となったのが、「特定産業振興臨時措置法案、通称・特振法案」だった。

時は池田勇人内閣、通産相は佐藤栄作と福田一(後の衆議院議長)にまたがるが、じっさいに法案を立案して成立に奔走したのは、「ミスター通産相」の異名をとった、佐橋滋(後に同期の後を襲う異例の事務次官となる)だった。

法案こそ通らなかったが、佐橋の爪痕は深く、日本経済の国家社会主義化の立役者になった。
「行政指導」やら、日本開発銀行をつかって、民間企業の経営にちょっかいを出し続けて、今に至るからである。

なお、佐橋を主人公に据えた『官僚たちの夏』が、中国語版でも堂々発売されているから、その位置づけが確定している。

美しき「国家社会主義=共産主義」ということだ。

いまだに「御用」を務めて金銭を得ている、作家だか評論家のひとたちは、佐橋を英雄とか官僚の鏡とかと持ち上げるが、本田宗一郎が言った一言がすべてなのである。

わが国のいまの衰退は、発展期にもう仕組みとして準備されていたのが、これほこれで、岸信介が満州で成功させたパターンをそのまま「商工省」に持ち込んで作ったのである。

いま、旧安倍派だけが壊滅的攻撃をされているのは、岸がCIAと結んだ契約を破ったからか?
この意味で、吉田茂がGHQと結んだ約束、アメリカ民主党のポチになる、を厳格に遵守している岸田氏におとがめはない。

「大宏池会」なる先祖帰りは、アメリカ(民主党)様の仲間表明なので、東京地検特捜部なるCIAの下部機関も見のがしてくれるだろう、という希望的メカニズムになっている。

一方で、トランプ氏の立候補すら阻止しようというひとたちは、世の中の「仕組み」を知っているから、その仕組みの一部である、「司法」を「武器化」している。
なぜに彼を政治的に葬ろうとするかは、彼が「仕組み」で戦争屋商売を潰そうとしたし、それが彼の信念であるからである。

あゝ見えて、トランプは戦争(戦争屋=ネオコン=DS)が大嫌いなのだ。

道徳も倫理もなく、ただ私益を貪る姿は、資本主義ではない。
だから、戦争屋たちは、「新しい資本主義」といって誤魔化すのである。

そうやって、ハイエクやフリードマンが主張した、「新自由主義」を、用語として葬った。
本田宗一郎が言う「自由主義」も、この「新自由主義」のことである。

しかし今、にっくき「新自由主義」とは、戦争屋が言う「新しい資本主義」にほかならないから、なにを言っているのか一般人にはわからなくなって、思考停止させられているのである。

全体主義者たちがつかう、二重規範(ダブルスタンダード)に翻弄されてしまっている。
むかしだったら、相手にされないほどの稚拙なのだが、あまりにも人々が稚拙にさせられて、もう気づかなくなって久しい。

そして、稚拙なかんがえしかできないひとは、それを指摘されると怒るのである。

この怒りっぽさを、全体主義者たちは「二分間憎悪」の時間として、テレビに向かって怒るように仕向け、そのテレビからの情報にかじりつくようにしているのは、脳が適度な興奮から醒めたときに快感を得るからである。

そんなこんないろんな邪悪な仕掛けがはびこっている、障害物競争をやられさているけれど、それなりのゴールが見えるのが今年なのである。

一般人には、映画のような、生き残りがかかっている。