資本主義の先祖帰りは可能か?

前回の復習。
「資本主義の精神」から資本主義が生まれた。
資本主義が生まれて、社会のみんなが尊敬する金持ちたちが、社会のために「投資」して、それが「産業革命」になったのである。

俗説になっている、産業革命から資本主義が生まれたのではない。

このことの「順番」の理解は、「絶対」をともなうほどに重要だ。
あたかも、2+3×4=14となればよいが、20になったら「✕」がつくほどに明解で、そのひとの一生を決めるほど、ここを間違えてはいけない。「順番」の重要性は、ときに「絶対」がある。

ところが、資本主義が生まれたときは、「結果の利益・利潤」であったものが、勃興した産業革命を通じて、伝統的な「目的としての利益・利潤」を追求することに戻ってしまうひとたちがでてきた。

最初から、自分だけが儲けたい。
この精神は、「資本主義の精神」ではないことは、前回説明した。
しかし、人類史を占めてきた「目的としての利益・利潤」の追求は、人間の「性(さが)」でもある。

だから、本来は、「資本主義の精神」という新しい「発想」をもったひとたちが、こうした古い「性(さが)」に対して、抵抗しなければならないのだが、もうひとつ、「資本主義の精神」を支えるかんがえに「自由主義」がある。
もちろん、「自由主義」とは、「自由放任主義」ではないのだが、古い「性(さが)」のひとたちにはかんたんにつうじない。

こんな議論をしていたら、ずいぶん酷いことを平気でする「資本家」がたくさんでてきた。このひとたちは「資本主義の精神」を持っていないけど、「資本」だけはもっている。
それで、「資本家」はいけない、ということが転じて、「資本主義がいけない」になってしまった。

それが、「啓蒙主義」をつうじて宣伝されて、フランス革命からロシア革命にまでなったのだ。
けれども、70年でロシアも革命をやめた。
このとき、資本主義の勝利だと思い込んでいたのは、資本主義国家のアメリカ人だった。

そのアメリカでは、じつは資本主義が衰えていた。
なにも、わが国が経済を席巻していた「だけ」が問題ではなかった。
それは、「資本主義の精神」の劣化があったからである。

顕著にわかる事例はふたつある。
ひとつは、共産主義が崩壊したロシアに、アメリカ人の「コンサルタント」(ノーベル賞学者も多数)が、ロシアの資本主義化を手助けしようとしたのに、ぜんぜんできなかった、という事例。
これは、いまだにできていない。

もうひとつは、経営者が自社の富を独占して、高額報酬を得るかわりに、設備投資を怠り、わが国などとの競争に敗れた事例である。
たとえば、自動車なら、「アイアコッカ」とかが典型例だ。
おのれの経営力を自慢して、超高額報酬を得たが、その企業の命運も食い尽くしてしまった。

アメリカ人が、「資本主義の精神」を失念してしまっている。
これが、「事件」でなくてなにが「事件」か?
ソ連の崩壊をその10年前に「予言」していた、碩学、故小室直樹にいわせれば、「なっちゃいない」はなしだ。

 

この本の「シナリオ通り」に、あのソ連が「ほんとうに」崩壊した。
その後にでた、『ロシアの悲劇-資本主義は成立しない』は、じっさいにソ連が崩壊した、1991年12月よりも2ヶ月「早い」、同年10月に出版されて、「ほんとうに」この本の「シナリオ通り」、ロシアは「マフィア経済」の闇に落ちてしまって、いまだに「そのまま」である。

おそるべし、「資本主義の精神」なのである。

さて、ソ連が崩壊した1991年当時のアメリカ大統領は、パパ・ブッシュであったし、そのパパ・ブッシュが来日したときは、アメリカ自動車業界もやってきて、日本に文句をいうだけではなかったけど、宮沢喜一首相にして突っぱねたのが印象的であった。あまりのショックに、首相主催晩餐会で倒れたのが記憶に残る。

パパ・ブッシュは、レーガン大統領の副大統領だったから、共和党である。しかも、彼は、「主流派」の中心人物だった。
共和党主流派とは、グローバリズム推進派を指すけども、それゆえに資本主義の精神を「気にしない」ひとたちなのである。

党内で対抗するのが「保守派」であって、このひとたちには建国の伝統「茶会党」もふくまれるし、キリスト教長老派という、清教徒の流れがある。
すなわち、資本主義の精神を理解しているばかりか、「なくてはならない」とかんがえるひとたちだ。

ちなみに、キリスト教長老派で、熱心な信仰をしていることで有名な政治家に、台湾の李登輝(本名は岩里政男)元総統がいる。
日本名から中国式に強要されたのだから、本名は日本名という、「順番」がある。

現職の、ドナルド・トランプ大統領も、「保守派」なのだ。
彼がいう「財界のアメリカ回帰」とは、外国から戻ってこいという意味と、資本主義の精神を取り戻せ、という意味とがあるとおもわれる。

これは、たいへん重要なことをいっているのだと理解できるだろう。

「アメリカ・ファースト」とは、正統・資本主義回帰のことなのだ。
かつて「成立」したときの、「結果としての利益・利潤」を求める「正しき資本主義」である。
その精神を鼓舞する、近年にない大統領がトランプなのである。

すると、わが国の資本主義は、だいじょうぶなのか?
ひとつだけエピソードをいえば、一昨夜放送された、池井戸潤原作の『下町ロケット・総集編』(第三夜完結編)がちょうどいい。
5年前のドラマシリーズを三回にまとめたものの最終回だ。

この中で、阿部寛扮する主人公が、小泉孝太郎扮するNASA出身の宿敵に、決めセリフを吐くシーンで、「技術だけではダメだ」といって「資本主義の精神」をとうとうと語る場面がある。
原作を読んでいないからわからないが、原作にあるのか?それとも脚本のオリジナルか?

こんなところが、この作品の「人気の秘密」なら、日本の資本主義も捨てたもんじゃない、のである。

奇跡の資本主義

資本主義について何度か書いてきたが、これからはじまる「恐慌」的「大不況」の「心の準備」のために、念押ししておきたいので、しつこいけれど書いておく。
なお、長いので「連載形式」になるとおことわりする。

もう、わが国は、戦後世代のひとがほとんどになったので、戦後の「資本主義」が、「本来の」資本主義だと思い込んでいる。
その「戦後」のイメージも、とっくに「一面の焼け跡」や「闇市」ではなくて、「高度成長の昭和」になっている。

『三丁目の夕日』は、1974年9月から2013年4月まで、小学館の『ビッグコミックオリジナル』に長期連載されていた、西岸良平の人気作品だ。
2005年に公開され、2006年にかけてわが国映画賞を「総なめ」した、『ALWAYS 三丁目の夕日』の原作である。

これが、「昭和のイメージ」をいまに決定づけたといえるだろう。

しかし、わが国は、明治になって資本主義を導入し、「産業革命」をアジア地域で初めて成功させたという、「神話」がある。
これをもって「日本人の優秀性」をいうひとがたくさんいる。
このときの「日本人」とは、誰のことか?と問えば、だれもが「明治の日本人」というだろう。

これが、「神話」になる問題なのである。
そのときのことしか「見ない」で、「見えることだけ」で決めつけてしまう態度が、いまのコロナ・パニックをも産むからである。

また、現在の政府がかかげる、「第4次産業革命」という「倒錯」にいたる原因にもなるのだ。
内閣府の『経済財政白書・世界経済の潮流等』の「日本経済2016-2017」の第2章にある。

なにが「倒錯」しているのか?
まずは、順番である。
あろうことか、日本政府は、産業革命を、「18世紀末以降の水力や蒸気機関による工場の機械化である第1次産業革命」(前掲より抜粋)と書いているのだ。

前提に「十分条件」がない、「必要条件」だけの文になっている。
第一に、資本主義が成立したから、産業革命が起きたのだ。
このことが示す重大な「誤解」は、資本主義そのものに対する「誤解」も含まれている。

それは、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるという「誤解」である。上の引用もこのことを明確に示している。
これを「作文」した、まさに、わが国官僚とそのブレーンが、「スターリン主義者」であることを告白したも同然なのである。

なぜなら、資本主義の成立要件が、「資本と技術だけ」であるということが、スターリンの「五ヵ年計画」の「根本思想」だったからで、この「思想」が彼の死後も継続し、ついには「ソ連崩壊」の原因となったからである。

カネと技術革新さえあれば、産業革命が起きる。
しかも、そのカネは「国家」が提供し、技術革新も「国家」が推進するのだと断言する。
まさに、スターリン主義のことをいう。

なんという「浅はか」であろう。
資本主義の成立要件で、絶対に欠かせないのは、「資本主義の精神」なのである。
この「精神」とは、「勤勉なる労働が、自己の魂の救済になる」という「信仰」に起因しているのだ。

そして、この「信仰」が、「結果としての利益・利潤」を「道徳」として社会が認めたことで、資本主義が成り立った。
「目的としての利益・利潤」ではないことが、人類史上の「画期」なのである。

人類史という長い目でふり返れば、「資本主義」は、18世紀という「時期」に、初めて、しかも一回だけ、まずは英国などのヨーロッパ地域で「成立」した。
つまり、古代から17世紀まで、人類は一度も「資本主義」を経験したことが「なかった」のである。

けれども、驚くなかれ、日本における資本主義の精神を言い出したのは、なんと、本家のヨーロッパよりもぜんぜん早い、天正9年(1579年)生まれの、鈴木正三である。
詳細は、山本七平『日本資本主義の精神』をご覧あれ。

鈴木正三のことは、わが国の資本主義をかんがえるときに、また語りたい。

世界史の興亡は、あまたの国や帝国が出現し、その栄耀栄華を極めながらも滅亡をくりかえす。
驚くほどの富と権力を手にしたひとたちのだれもが「目的としての利益・利潤」を「当然」としていたのだ。

だから、いまでいう「詐欺」や「掠奪」だって、ついこの前までは「ふつうのこと」だった。それで、「だますよりだまされる方が悪い」という変なことが格言にもなるのである。
「目的としての利益・利潤」のもうひとつの典型は、ギャンブルで賭けるひとである。ギャンブルの場で働くひとのことではない。

これが、たまたま、カソリック教会への不満が爆発し、その勢いで支持された「カルバニズム」という激烈な「信仰」から、コペルニクス的価値観の大転換が起きたのが「資本主義」である。

それが、「結果としての利益・利潤」の扱いだった。
形だけ教会に行って「免罪符というお札」を買えば救われるのではなくて、「本気で祈る」ことにこそ価値があると思い詰めた。

これには、ヨーロッパの人口を半減させた、「ペストの大流行」も影響しているのだ。
そして、本気で祈る清楚な生活と、他人が喜ぶ生真面目な製品づくりをしていたら、あろうことか「利益」が手元に残ったのである。つまり、意図しないのに「儲かってしまった」のだ。

他人のため、というかんがえ方が利潤をもたらす。
これは、いいことなのか?それともわるいことなのか?
一心不乱に祈りを捧げる行為とおなじように、一心不乱に労働したら利益を得るのは「いいことだ」になった。

そして、勤勉さにこそ価値があり、結果としての利益・利潤が、「勤勉さの証」になったのである。
だから、結果としての利益・利潤を蓄えた「金持ちが尊敬される」世の中になって、このひとたちが、社会のために「投資」した。

その投資対象が、だれもが腰を引くような最新技術でもあったから、それが産業革命になったのである。
つまり、単に資本と技術があっても、産業革命は起きないし、じっさいに17世紀までの人類社会に産業革命は起きていない。

おおもとを見失うと、「浅はか」が正面にでてきて、決して成功しない。
資本主義の精神に興味がない、わが政府の「計画」が、成功するわけがない、ということになる。

初期の資本主義とは、こういうものであったことを忘れてはいけない。

このことを力説したのが、ヤマト運輸の中興の祖、故小倉昌男の『経営学』である。
「サービスが先、利益は後」とは、「結果としての利益・利潤」にほかならないから、「正統・資本主義」の教科書でもある。

制度がつくるデータ

「インフルエンザ」の場合には、「注意報」と「警報」が用意されている。
全国約5000カ所の定点医療機関を受診した、1週間ごとの患者数(「感染者数」ではない)を把握する仕組み(制度)ができている。

これと過去の発生状況をもとに、基準値をもうけて、各保健所ごとに注意報や警報がだされるのである。
それで、マスコミ各社は、注意報や警報の報道にあたって、40万人基準をもうけている。

だいたい毎年のインフルエンザの罹患者数は、1000万人で、そのうちおよそ1万人以上が死亡している。
だから、40万人を超えたところが、注意報の発令タイミングになるのである。

ざっと、国民の10人にひとりが罹患する勘定になっている。

ちなみに、インフルエンザの時期には、「風邪」も流行する。
こちらも、毎年およそ1000万人が罹患するから、ほぼ同時期に、2000万人がなんらかの症状を訴えて生活しているのが、わが国の秋から冬にかけての状況だ。もちろん、「風邪」の主たる原因は「コロナウィルス」であるが、おおくが「土着型」といわれている。

PCR検査は、「コロナウィルス」を特定するが、その内訳をしめすことはできない。
なので、新型か土着型かの区別は不可能だから、本当に「陽性」であっても、「診断」は医師が症状を診て決めることになる。

これが、「感染者数」だけで判断してはいけない理由なのだ。

ところが、わが国のマスコミは、インフルエンザの注意報の基準である「週40万人」の「患者数」ではなく、「1日40人」の「感染者数」から報道を開始した。警報は「週100万人」の「患者数」で出る。
「1万倍」もさば読み、かつ、週と日と、患者数と感染者数を「混在」させているのは、どういう「報道基準」によるものか?

「未知のウィルス」だから、という言い訳をしても、数字の表現は「あんまり」である。
しかも、統計的に間違った「図」をもつかっている。
それは、ふたつある。

ひとつは、「数」をしめす「Y軸」の目盛りに「対数」をつかわないことだ。
「パンデミック」とは、ネズミ算どころか、指数関数的に広がる状況をいう。

ひとりから複数人が感染し、これらのひとがまた複数人ずつに感染させるからである。
だから、「Y軸」をこれにあわせないで、「ふつうの目盛り」にすると、より強烈な印象をあたえるグラフになってしまうのだ。

もうひとつは、「累計」をいってはいけないのがルールだが、平然とこれをしめすことだ。
インフルエンザの注意報も、週ごとの数字ではあるが、これを「累計」はしない。

なぜなら、「ふえるばかり」にみえるからである。
累計をだすなら、治癒した数もしめさなければならないが、ふつう、患者は治癒したと医療機関に報告しない。
だから、余計な情報だというばかりか、不安をあおるだけになるのである。

今回の病気が収束したあと、わが国のマスメディアは、総じて厳しい批判にさらされることになるのは「確実」である。
国民から、信頼されない、という自爆を連日やっているのは、いかにも「愚か」である。

そのマスメディアに便乗しているのが「政府」や「政治家」なのだから、始末がわるいのだ。

さらに、わが国の医療機関が、初動における反応が鈍かったのは、感染者の受け入れにおける消極さが目立った。
「医療機関が赤字になる」という、診療報酬制度こそが、ボトルネックとなったからだ。

高齢化によって、ずいぶんと「医療」が、花形産業になるような記事が踊ったことがあったが、これぞ「ちょうちん記事」ではなかったか?

わが国のタクシー業界が、実質「国営」状態なのは、「Uber」が許可されるかされないか以前に、「料金体系」と「クルマの台数」が、運輸局によって定められている「業界」だからである。
すきな料金体系を届け出ればよい、ということではなく、当該地域の料金体系を国が決めるのである。

おなじ状態が、医療で、診療報酬制度というものと、薬価とでがんじがらめなのである。

官僚主義がはびこるEUでも、各国議会の議決は無視される。
EU委員会という、役人集団が決定したものを全地域に命じるからである。

そんなわけで、イタリアやスペインで酷いことになったのは、医療予算の削減が「医療崩壊」をまねいたといわれているが、「新型コロナ」と診断書に記入すると、診療報酬が増額されるという、EU委員会の「対策」が効いたようである。

なので、入院患者のだれかれにも「記入する」ということで、「パンデミック」になってしまった。
まるで「まんが」なのである。
ほんとうのところはどうだったのか?は、もう誰にもわからない。

「診断書」に記載されているからで、どれがほんとうの「診断」なのか?は、もはや「神のみぞしる」ところとなったのだ。
さすが、ラテンの血である。

ドーバー海峡の向こう側では、首相が感染する事態となったが、英国人からしたら、離脱していてよかった、と胸をなで下ろしていることだろう。

自粛しているのに減らないの?

初めて緊急事態宣言が出たのは、今月7日で、大都市を含めた7都府県だった。10日が経っても感染者が増えているのはどうしてなのか?

このウィルスによる発症の潜伏期間は、グラフをイメージすれば、長くて2週間程度とはいうけれど、もっとも多いのは5日ほどだったはずだから、とっくに「自粛」の「効果」がありそうなのに、なぜなのか?の説明がない。
それで、こんどは緊急事態宣言を全国に拡大するというのは、どういった因果関係があるのだろうか?

10万円を国民に配るはなしが、まるで連立与党の片方のおかげで成立しそうになっているのを、自民党の一部議員が「主張を無視された」と憤慨しているのは、中小企業には「融資」というだけでなにもしない冷たさが、説明なく繰り返されるのと大変にている。

つまるところ、行き詰まったのである。

わが国は、政治家や政党による「統治」が、完全に行き詰まってしまった。
それは、役人の代弁しかできないひとたちが、寄ってたかって大臣をやっているだけになったからである。
しかも、野党の存在価値がほとんどない。

代議士の「代」は、役人の「代」だった。

昨日は、ネット配信されている『虎ノ門ニュース』に出演した、武田邦彦先生が、科学者のデータの見方を講義していた。
それも、これまでのインフルエンザについてのデータをつかっているので、気がつかない事実も説明していた。

ウィルスは、強いものとそうでないものが勢力争いをする。

そもそも「コロナウィルス」というのは、あまたの種類があるもので、いまでも「風邪」の原因であることがしられている。
人類が、延々とつき合ってきているウィルスの一種である。
これに対抗するのが、インフルエンザウィルスで、100年前には、やっぱり「風邪」だとおもわれていた。

有名な「スペイン風邪(H1N1亜型インフルエンザ)」は、1918年~20年にはやって、全世界の死者数は、少なく見積もって1700万人、多くて1億人といわれている。
こうしてみると、いまはやっているのは、驚くことに「たいしたことない」のだ。

さらに驚くことに、重要なデータは、今回のウィルスが「頑張っている」ので、通常ならはやるはずの、インフルエンザがぜんぜんはやらないことが起きている。
昨年の秋から年末は、いつも通りのインフルエンザ発症があったのに、だ。

これは、「のどの奥の狭い面積」における「陣取り合戦」で、ことしはやるはずのインフルエンザウィルスが、新型コロナウイルスに負けたことが原因だと指摘する学者がいるのだ。
シャーレにおける細菌やカビの培養実験で、特定のものが他を圧倒する現象とおなじだ。

いつもなら、1万人以上がインフルエンザで亡くなるのだけれど、今年はその5分の1ほどで収束してしまった。
たとえば、愛知県は3月20日の報道で、昨年12月に発令した「インフルエンザ警報」を解除している。

かわって、「新型」で亡くなってしまうのは気の毒だけど、全体数では、いつもよりぜんぜん少ないのだから、「風邪」というおおきなくくりでみると、被害の実態は意外にも「軽い」ということになる。

さてそれで、自粛しているのに患者数が減らないのはなぜか?
先日も書いたが、感染者は検査自体の件数と確度によるから、これで一喜一憂しても意味がない。
ただしく、「診断」された、「患者数」でみるべきだろう。

10日間かけても「新規患者数」が減らない?
すると、「自粛」という方法の「効果」をうたがうのが「科学」の発想になる。

憶測をふくめてさまざまな感染原因がいわれているが、改めて確認したいのが、「飛沫感染」と「接触感染」だということなのである。

おおくのひとがマスクを着用していて、咳やクシャミを素でするひとがみられないなか、いちばん疑うべきは、「接触感染」である。

これは、ウィルスが付着しているなにかに、「手」で触ることが第一の原因で、その汚染された手で、自分の「目」や「口」などの「粘膜」に触ることで感染するのである。

公共の場における不特定多数が触るものを触って、その手で自分の「目」や「口」を触ってはいけないのである。

では、公共の場における不特定多数が触るもので、もっとも危険なのはなにか?
武田邦彦先生は、「トイレ」をあげた。
せっかく石けんで手洗いしても、蛇口の水栓にまた触らないといけないし、ドアも開けないと出られない。

しかも、トイレは「飛沫感染」の可能性もあるという。
大便後の排水で、飛沫が9メートルも飛ぶというから深刻である。前に使った感染者が、便器に蓋をしてから排水するとよいのだが、蓋がないのが公共のトイレにたくさんある。

もしや、これまで感染したひとは、公共の、あるいは店舗内のトイレで飛沫感染と接触感染のダブルで感染していた可能性がある。
なるほど、自粛の効果は、公共のトイレを使わないことにあるかもしれない。

個人でもわかりやすいのが、「東京都感染症週報」がある。この中の「患者および死亡後診断」の数に注目すればよい。
あおるだけあおる、マスコミ報道に惑わされないための「予防」になるので、チェックするとよいだろう。

宗教の復活はあるか?

とうとう「大恐慌」に匹敵する経済的打撃だと、IMFがいいだした。
「リーマン級」を口にしていた日本政府は、どちらが甚大か判別できる能力があるのか?とりあえず、全国に緊急事態だと発布はしたが。

世界銀行とIMFについては前にも書いた。
両者は「つるんでいる」ので、米と欧とでトップを独占分担しているのだが、出資金がでかいわが国からも「副」がつくタイトルで、もっぱら財務官僚の出世コースになっている。

IMFのトップである「専務理事」は、かならず欧州から選ばれるルールで、いまはブルガリア人だ。
このひとは、世界銀行からやってきた。物心がつくまで社会主義国だったので、世界銀行もIMFも、お里がしれる。

なので、「世界恐慌」をいうのは、「副」がついた日本人のお役人様と、さぞや財務省幹部が事前だか事後にやりとりをしていることだろう。
なにせ、まさかの事態出現で、このひとたちが「死守すべき」消費税が危うくなってきているからである。

自民党内でも、消費税を当面の間ゼロにする案を提案しているグループがでてきて、先月3月11日に西村康稔経済再生担当相に要望書を手渡している。
どうして「経済再生担当相」が相手なのかしらないが、財務大臣ではない理由をしりたい。

NHKが1997年1月から3月に放送した、『人間大学』は、「新しい科学の見方」というタイトルで、講師は村上陽一郎国際基督教大学教授(当時)だった。
テキストはアマゾンでいまも古書が手にはいる。

肩書きは重くても、「本物の学者」というひとは、あんがい少なくて、むしろ、学内とか学会とかの「政治が本業」のひとが学者を「名乗っている」ことがおおい。
この意味で、村上陽一郎氏は、数少ない「本物」であろう。

難しいことをやさしく解説してくれることができるのは、本物のあかしである。
教える側本人の実力がなければ、教えられる側が納得する説明はできない。

さて、この講義のなかで、「科学の誕生」というはなしがある。
ヨーロッパの歴史には、中東・アラビアの知見もふくまれているが、「魔術」から「科学」への変遷には、キリスト教との決別という事件が必須であった。

つまり、宗教による「真理」から、宗教を排除した「真理」の追求へ転じることが「近代」には必要だったのである。

そこで、「学問」とはなにか?という問題が起きる。
これを、三タイプにわけて説明されているが、便宜的に国名を用いるのは、説明を強化するための手法だとあらかじめ説明している。
・ドイツ型:学問のための学問
・イギリス型:紳士の教養
・フランス型:有用性

フランス型はフランス革命という、これまたキリスト教・教会人の処刑・排斥をともなう「支配者の排除」をやったことから、革命政府のメンバーは従来からの被支配者のみであった。
気がついたらそれでは、国家運営がままならない。

こうして、いまにつづく、「官僚養成校」がつくられたのは、科学の有用性を行政に利用したい側面が強かったからだ。
すると、わが国は「フランス型」だということが示唆されている。
列強からの侵略をふせぐ急速な近代化を促進するために、武士だけでは間に合わない事情が、フランス型にさせた背景であろう。

しかし、近代化=資本主義化のためには、ヨーロッパの歴史をさかのぼって、資本主義の「精神」を導入しなければならない。この精神がない状態を「武士の商法」だとお笑いぐさにして習っている。
そこで、明治の賢人たちが発明・開発したのが、「日本教」という天皇を「神」とする「宗教思想」であった。

もちろん、「日本教」は、GHQによって否定・棄教の対象になったから、わが国でいうほんらいの「保守」は、日本教の復活を目指すことになるはずで、結党当初の自民党がそれだった。
左からの「政教分離」というスローガンによる攻撃に、あえなく撃沈されたのが、この政党の能のなさである。

日本教も人為であったが、これをつぶした「天皇の人間宣言」も人為による「フランス革命」的な、処刑を伴わない「処刑」であった。

GHQは自分で棄教命令を出したのに、あんがい緩くなったのは、昭和天皇が偉大すぎたからでもある。
反日の権化のはずだった米軍の将官たちが、こぞって天皇に帰依したのは、「無私」という「普遍価値」を現世で実行している唯一の人間(家系)だったことに気がついたからである。

しかし、ゆっくりと確実に、かれらが撒いた日本教を破壊する「毒」が日本人にまわって、その重大さに気づくものが小数派になっている。
「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか)」と嘆いた三島由紀夫が、ことの本質に身もだえて抵抗した唯一の日本人だった。

そこに、新型コロナウイルス禍が襲ったのだ。
これはもはや、医学的でも物理的・科学的事象でもなく、社会的事象に転換された。
それは、「死」に対する宗教的哲学という免疫の「なさ」が主因である。

生まれたからには必ず死ぬ。

この厳正な事実に、世界中の人間社会が向き合えていないのだ。
それが、パニックを発生させ、差別をも生んでいる。

自分の人生を、取るに足らない人生だとおもえない。
「個」がなにより重要だというのは、ある意味ただしいが、ある意味まちがっている。
支配者だとおもっていても、しょせん「蟻の一匹」にすぎないのである。

自分の「個」が大事なら、他人の「個」も認めなければならない。
この「寛容さ」こそが、宗教的哲学への回帰をうながすのである。

21世紀のいまも、あいかわらず、「科学は哲学の配下にある」のだ。
科学も人間の営みであるからである。

緊急事態だからわかる価値

緊急事態だから、アルコール消毒液がなくなった。
それで、緊急事態だから酒造メーカーが高アルコール度数のスピリッツを製造して、消毒液の代用品にと提供している。
アメリカなどの外国では、緊急事態だから、政府が酒税を免除するばかりか製造を支援するけど、わが国はしっかり課税していて製造の支援もなにもしない。

どこが、緊急事態なのか?

買い物で使い回しをする「エコバッグ」などでは、ウィルスが付着しているかもしれない。それで、緊急事態だから、衛生的なレジ袋を積極的に配付することにしたのはアメリカのスーパーマーケットだ。
わが国では、緊急事態なのにレジ袋の有料化の普及が着々とすすんでいる。

どこが、緊急事態なのか?

横浜市の役人は、保育園の保育士に症状が出て、検査をしたら感染していたことを「隠蔽」しようとしたという。
保育士は、症状がでた時点から園を休んでいるが、これを発表しようとしたら「やめるように強く指導された」として、市内保育園園長会が書面で市に対して抗議したことがニュースになって、ネットでは大炎上している。

さて、この「事件」は、なにが問題なのだろう?
登場するのは、横浜市の担当者。厚生労働省の「ガイドライン」と、本件発覚後の厚労省の対応。それに、横浜市長が行政側。
保育園側は、当該保育園の園長と園長会である。

そもそもの発端は、園から連絡した横浜市の担当者が、厚労省の「ガイドライン」にしたがって、保護者に連絡する必要なしとしたのは、症状があってからの欠勤と検査で陽性がでるまでの間が10日間あるための判断だとかんがえられる。
それと、もう一つは、保健所の確認が必要だということがある。

アメリカでも、ウィルス検査にあたって当初、保健所でのチェックが義務づけられていたが、「遅い」という問題と、検査キットの新旧問題がかさなって、結局は民間病院でも検査が認められ、一気に検査をうけるひとが増えた。
実際には、このことが「感染者」が「ふえた」大きな理由でもある。

そんなわけで、わが国は、保健所という役所で「確認」しないと、認められない、ということが、今日でも起きていたということである。ただし、この場合の「確認」とは、感染者の行動経路などのことをいう。
だから、保護者に説明する内容について、丁寧な指導が必要だったものが、横柄ゆえに「隠蔽指示」にとられたのである。

しかし、報道各社が一斉に報じるということから、肝心の厚生労働省が、はしごをはずした。
それで、横浜市長も、対応のまずさを認めた、ということである。

さて、本稿冒頭の事例から、横浜市の「事件」まで、どれもこれも「はぁ?」というものなのだけれど、もっとも重要な問題が隠れていて、ぜんぜん表に出てきていないことにお気づきか?

「政治家の不在」である。
もっといえば、「議員」と「議会」に、ぜんぜん「存在感がない」のである。

「酒税」とは、字にあるとおり「税」のことだから、酒税法で決められた徴収しか役人にはできない。
ならば、議員が議会で、大急ぎ酒税法の改正を仕上げなければならないのになにもしないのは、議員が法案を書けないからできないのだ。

わが国における、「レジ袋の有料化」の強制は、前にも書いたとおり、「法がない」状態で実施を決めた。
誰が?役人たちが、である。
つまり、「税」に匹敵する負担を国民に押しつけるものを、「省令等の改正だけ」でやる、のである。

これを、止める合理的な方法が、ない、という国にわれわれは住んでいる。

横浜市の「事件」は、前述の通りだが、ここにも議員や議会の陰もない。
これはいったいどうしたことか?

議員や議会が、なにもできないようになっているからである。
だから、なにもしない、のではない。
あくまでも、蚊帳の外、なのである。
それで、定数は86人いる。

さてそれならそれで、どこから手を着ければいいのか?
残念ながら、横浜市の条例なんて関係ない。
中央政府の「省令」から「通達」までの、命令の仕組みを変えるしかない。
どうやって?

じつは、国会も、国会議員も、おなじ構図のなかにいる。

これが、わが国の「仕組み」なのである。
おもに、自民党と社会党がつくってきた仕組みである。
だが、ほんとうは、歴代の役人たちが、連綿として緻密につくりあげた「迷宮」である。

三十年前の、ほとんどバブル期に東欧で起きていた「他人事」が、ようやくにしてわが国を蝕んでいることに気づくのだが、どうやっていまの東欧諸国のようになれるのか?

「秩序の崩壊」をただ待つのか?
それとも?

ようやくにしてわが国の、追求すべき「価値」がみえてきたような気がする。

ただし、今回の保育園の園長さんたち(約700施設)には、今後、当該役人からの嫌がらせがずっと続く懸念がある。
ここに「エネルギー」がたまるのも、覚悟して「よし」とすれば、よい世の中になるきっかけになる。

民主主義だからである。

焼津でバリ勝男クンを買う

ででんででんでんバリ勝男♪
ででんででんでんバリ勝男♪
バーリ勝男、でんでんでん♪♪

一度聴いたら耳につく音楽がコマーシャルソングになっている。
男の子がひとりで歌っている。
東海地方のひとだけがしる、有名な曲かもしれない。

不思議なもので、ウクライナにも似たような曲を、女の子がうたっている。
こちらは、
ディリンリンリンディンディディン♪
ディリンリンリンディンディディン♪
で、キツネの鳴き声だという。

どちらがオリジナルなのか?と問いたくなるほどの類似性がある。
たぶん、どちらもオリジナルなのだろう。
それに、もしかしたら曲ができたときの時期もおなじかもしれない。

バリ勝男クンは2010年発売。
ウクライナの女の子も、もうとっくにおとなになっている。
だから、だいたいおなじ時期なのだ。

ひとの発明やら作曲で、似たようなものがおなじ時期に出てくるのは、なんらかの繋がりがあるかもしれない。
そういえば、ニホンザルの研究が、それを裏打ちしている。
まったく離れて棲息することなる「群れ」なのに、突如おんなじ「行動」がみられるというものだ。

これとはちがう「空耳」的でおどろいたことがあるのは、山口百恵の『ひと夏の経験』の出だし、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」のメロディーが、バッハのトリオソナタ第二番の三楽章のはじまりと似ている。

バッハは結構おなじ曲を、べつの楽器用に編曲して「使い回し」をしている。
オルガン曲にも、「あなたに女の子の♪」があるのだ。

べつに作曲家の都倉俊一先生がどうのという気がしないのは、相手が大バッハだから、ドイツ語的にどんな「詩」がくるのか?をかんがえると、おもしろいからである。

ちなみに、ウクライナの女の子が有名になったのは、アメリカNBCの公開オーディション番組のウクライナ版に出演して、ヨーデルで『スイスの娘』を歌って話題になったからだ。
さいきんでは、日本の演歌を歌っている動画があるが、「こぶし」がヨーデルになっている。

オーディション番組のときの衣装は、ステージママが作ったときいたが、足元の「靴」がフェルト製なのか?とても気になる。オランダの木靴のような形だが軽そうで、軽快な歌とマッチしていた。

さて、「バリ勝男クン」という鰹チップスのスナック菓子だが、がぜんお酒のつまになる。
バリバリとした食感と、鰹節のうまみが、どんなお酒にも合うからである。

「静岡県限定の土産物」として販売されているので、高速道路や鉄道駅の売店でみつけることができる。
22g入りと、18g入りのちがいが値段のちがいになっている。
ぱっと見で、グラム数のちがいに気がつかない。

ものが「鰹節」だから、なんだという容量の「軽さ」であっても、原料のカツオにすれば、かなりの量になっているはずだ。
これに、ピーナッツが食感のアクセントになっている。

通販で購入するという手もあるが、暇なので車で焼津にまで買いにいった。
目指すは、「お魚センター」である。

冷たい雨が降る中、そして時節柄、平日のお魚センターは閑散としていた。
しかし、今回は生の魚には目もくれない。
広い駐車場にいても、どこからか「あの歌」が聞こえてきた。

目的の売り場は簡単にみつかった。
それにしても、たくさんの種類があるものだ。
気がつけば、「サバいばる」というパッケージを手にしていた。
こちらは「鯖節」を原料にしている。

やっぱり来てよかった。
この「わざわざ感」こそが、観光の醍醐味なのだ。
そして、「せっかく来たのだから」と、大量買いに走る。
とりあえず、姉妹品の「ふりかけ」には手を出さず、全種類制覇をこころみた。

ああ、なんという一万円札のはかなさか。

しかしながら、この「達成感」が重要なのだ。
オマケをくれたら最高だったが、文句はない。
それでも、レジのおばちゃんは、バリ勝男クンのデザイン画がある、レジ袋をたくさんくれた。

焼津といえば、「パウミー」もある。
こちらは、老舗の鰹節屋さんが戦後に開発した「だしの素」だ。
漁港より一本内側の道路沿いに直売店があるのだ。
だから、車がないと不便なのである。

そして、近所のスーパーマーケットで、おでんにかける粉を買わねばならない。
魚粉と青のりが混じった粉で、あんがい横浜では売っていない逸品なのだ。
そして、やっぱり「黒はんぺん」はぜったいに欠かせない。

「特売」で、シラスの釜揚げをパックで売っていた。
まさに、ご当地の用宗漁港であがったと書いてある。
駿河湾のシラスだ。江ノ島名物でもあるけど、一パックではとうてい足りない。

焼津の銘酒といえば「磯自慢」だが、今回はパス。
そのかわり、「蒸し鶏」の看板がまぶしい、小さな商店に寄る。
鶏をロールしたグリルを購入し、お買い物ツアーの終了である。

気がつけば、「つまみ」ばかりだ。

地魚のお寿司もいいが、マグロカツ定食をいただいて帰路につく。
黒はんぺんのカツもついていた。

まんぞく、まんぞく。

わが国初の近代政党結党に期待する

どうなっているのか?とききたい事態が、刻々と発生している。

東日本大震災のときには、官僚OBが「霞ヶ関はお祭り騒ぎ」と書いていた。
なんでもかんでも「予算がつく」ということをいった。
おかげで、個人所得税が復興増税として25年もの期間契約を結ばされた。終了は2037年12月31日となっている。

もちろん、有効なつかいかたならいいのだが、その後わかったのは、「何だこれ?」であったのは、驚くに値しない。
しょせん政府とはそんなものだからだ。
いま、それがコピーされて、新型コロナウイルスでお祭り騒ぎになっている。

復興増税を決めた「菅内閣」のあと、消費増税もやって民主党政権から「政権交代」したのは欧米並みのことだったけど、その後の自民党政権も「増税路線一本」なので、ぜんぜん「政権交代」していない。
広い意味で、民主党も新進党も自民党の党外派閥にすぎなかった。

昨年から、有名なYouTuberがあつまって『政党DIY』という動画が毎週金曜日夜8時という、ゴールデンアワーに配信されている。
このメンバーは、「保守」を表明しているけれど、ほんらいは「自由主義」だといってほしい。

社会主義政党の自民党には、「保守主義」では対抗できない。
むしろ、「保守政党だった」はずの自民党が、なぜにかくも「左傾化」したのか?が重要なのだ。
「保守」という概念の限界がここにある。

ハイエクは、自らを「保守主義者ではない」というばかりか、「保守主義批判」をしていたのは、その「限界」を示したかったからである。

しかし、わが国には、政府の役割を高める社会主義こそが自由主義にまさると信奉するひとたちがたくさんいて、政府が国民に富を分配することこそが「理想」だとかたく信じている。
そのひとりが、経産官僚の中野剛志氏である。

はたして、中野氏はハイエクを読んだことがあるのか?と疑うのだが、そのロジックの無理さ加減が、お役人さまらしい。
つまり、自分に都合のよい話にとにかくしてしまう能力に長けているから、いまは課長だがきっとえらくなるのだろう。

しかし、こういうひとが、役人をやっているのが残念なのだ。
日本の政党に独自のシンク・タンクがあれば、そちらで活躍してほしい人材である。
もっとも向いているのは、共産党であろうがだ。

さて、「政党DIY」だ。つくった政党は「参政党」。
当初三人ではじまったが、理論的支柱はそのなかのひとり、渡瀬裕哉氏だ。
このひとは、アメリカ合衆国政治研究の専門家ではあるが、ほとんど思想的立場は「共和党」である。

しかも、共和党内の二大勢力「主流派」と「保守派」についての解説が鋭い。
近年では、パパ・ブッシュが「主流派」、現職のトランプが「保守派」であると教えてくれる。

それで、彼自身は、共和党「保守派」のシンパだ。
すなわち、反民主党=反社会主義=自由主義にして、反グローバリズムという意味の「保守派」を支持している。
じっさいに、「Tokyo Tea Party 事務局長」なのだが、茶業のものではないので念のため。

よって、「政党DIY」は、わが国初の、「本格的近代政党」を目指しつつ、その主張も、わが国初の「共和党」的立場にある。

これは、「画期」である。
支持するひとにも、支持しないばかりか反対の立場にあるひとも、「本格的近代政党」の誕生は、それ自体がよろこばしいことなのだ。

もちろん、「政党」なのだから、支持者がふえなければ政策実行にならないけれど、こうした「仕組み」の組織デザインが、既存政党にも「伝播する」ことをいっそう期待したいのである。

今月11日に、結党大会なる「パーティ」が予定されていたが、残念ながら「知事からの要請」という「諸般の事情」によって延期されたようである。

その「知事からの要請」によって、多数のひとが「通勤」をやめている。
これであたらしい「気づき」も生まれたのは、自宅待機となったひとたちが、どんな「暇つぶし」をしているのか?で、とうとうおおくがネット動画を観ているということになった。

ふだんは観られない、勤務時間中にあたる時間の地上波放送を、ほとんどのひとたちが観ていないという事実。
それで、とうとう、ネット配信の動画画像が粗くなったのは、回線維持の苦肉の策である。

ついでに、図書も売れていて、読書をもって「暇つぶし」にするとは、なかなかの自己研鑽である。

その意味で、お暇なら「政党DIY」の動画を、初回からじっくりご覧になるのもよいのではとおもう。
いろんな「気づき」があるはずだ。

世の中は、この新型コロナウイルス禍の前後でガラッとかわるにちがいない。
これは、目先の景気悪化だけではない。

ますます、どう生きるのか?が問われる時代になるのである。
政治の重要性が、かつてなく高まっている。

どんな主張であれ、「近代政党」が2020年に誕生したことは、歴史的なことなのである。

ほんとうに感染しているのか?

連日、新たな「感染者数」が報道されている。
なんだか「ふえている」ようになっているのだけれども、ほんとうなのか?と、ついうっかり疑いたくなるのは、以下の二点からの説明が報道されないからである。

第一に、検査数がふえていることと、陽性のふえかたの相関がわからない。
検査が3月4日付け「健感発0304第5号」として、厚生労働省健康局結核感染症課長から、各都道府県などの衛生主管部(局)長宛通達がでて、3月6日から「健康保険が適用される」ことになった。
つまり、検査件数の分母が大きくなるのだから、分子である陽性のひともふえるはずだ。

「国民全員に検査を実施せよ」といいだした「医師」がいたが、仲間である医師会がこれを否定した。
人間の数としての医療機関の要員を、全部投入しても1億2千万人分の検査なんて「できっこない」からである。

それに、既存の患者を放置しての計算でもある。
つまり、医療機関の活動が停止してしまうし、ほんとうに「陽性」のひとを本人がしらずに病院に呼び寄せることにもなって、待合における濃厚接触を促すことになってしまう。

だから、単純に「ふえている」というのは、どういう意味かをいわないのは、無責任ではないか?

第二に、この「通達文書」にも、「PCR検査でなければ、感染が疑われる者が新型コロナウイルスを保有しているか確認できない」と明記されているように、PCR検査自体の重要度はあるものの、確度の問題が正確に報道されていないのではないか?という疑問である。

ほんらい、たとえば、エイズなどの場合、PCR検査の確度は高いという。
しかし、今回の新型コロナウイルスは、そうはいかない。
インフルエンザの検査のように、鼻孔やのどの奥をこすってサンプルを採取しても、咳があるならまだしも、症状がないと反応しない。

肺の奥にいるからである。

かんたんにいえば、「一回の検査で診断できる精度でわかるのか?」という問題だ。「診断」という「判断」のことである。
一回目の検査でたとえ「陽性」であっても、どのくらいの「確度」なのか?
逆に、一回目の検査で「陰性」だから、「もう大丈夫、安心してください」といえるのか?ということである。

むしろ、「疑わしきは疑え」を適用すると、「陽性」ならそのまま隔離されて経過観察され、症状が出ないまま二度目の検査で「陰性」になることもあるけど、「陰性」だからといって「大丈夫」にはならない。
「陰性」なのに、症状があるひとはどうするのか?となると、やっぱり「経過観察」して、つぎの検査で「陽性」となることもある。

つまり、残念ながら、唯一の検査方法である「PCR検査」には、「確度が低い」という決定的な欠点がある。

これを、数学的に説明している動画があるから、自宅待機で暇なかたは、検索してご覧になるといいだろう。

ちなみに、発生源の国で「英雄」となった医師は、何回かは「陰性」で、最後に「陽性」となって死亡した。
世界各国の報告では、最大で6回陰性であったひとがいるというから、全部で7回検査して「診断」された。

すると、世の中で「感染者」といわれているひとたちは、いったいほんとうに「感染」しているのか?
報道機関は、「感染」と「診断」されたひとの数を、毎日集計して発表しているのか?一回だけの検査で、「陽性」のひとの数字か?

以上のように、なんだかあやしくなるのである。
これを、「ついうっかり疑いたくなる」程度でよいものか?
はなはだ、自分で不安になる。

それもこれも、報道機関や政府の説明が、曖昧だからである。
このようなときには、「正確さ」こそが最重要だと誰もがいうくせに、ぜんぜん正確であるとはおもえない。

むしろ、不正確であっても、国民が家に閉じこもるようになれば、そのうち収まる、という感じがしてならない。

やっぱり、責任をとらなくてよいからである。

 

「無責任男」といえば「植木等」の大ヒット二本である。
どちらも1962年の製作で、『時代』が7月、『野郎』が12月の公開だった。
なお、併映されたのは、こちらも伝説となった、『駅前シリーズ』だから、いまからすればなんとも贅沢な「お笑い」をみんなで観ていたものだ。

しかしながら、よくよく観れば、『無責任男』は破天荒だがあんがい常識人なのである。
「こんなやついない」と父親はいっていたが、この映画を笑ってみていたから、真実があったろう。

ただ、高度成長のエネルギーだけでは語れない。
むしろ、まじめに働いているとおもわれるひとたちの、本音における不真面目さが面白いのである。
主人公の周辺にいる「ふつうのひとたち」に注目すれば、その無責任さは主人公の比ではない。

まさか都知事になるとは、人間の未来とはわからない。
「青島幸男」は、『意地悪ばあさん』よりも、「作詞」に凄みがあった。
公約を貫いて、臨海副都心での「世界都市博」を中止にした「真面目さ」で、B面の『ハイそれまでョ』をそのままやった。

都民は、まさか公約をまっとうするとは思わなかったかもしれない。
その意味で、公約をまっとうした、ただひとりの都知事だった。

そんなわけで、わたしは幻の都市博の、当時は珍しかった磁気カード型入場券を購入していまだに棄てずに持っている。
ほんとうに「中止」になるとは、おもわなかったからである。
相手が正しく、わたしの期待が裏切られた証拠になっている。

はたして、青島知事なら、いまの状況をどうしたものか?
まじめにかんがえると、気分が滅入るから、クレージー映画を観ようとおもう。

それとも、理科の学習ならば、フィンランドの中学生の教科書でも読んで、科学リテラシーを高めようか?
「コロナに効く」という商品をムダに買わなくてすむかもしれない。

医師養成にMTP必修を

前にも書いた、MTPとは、Management Training Program の略で、わが国には、戦後すぐに米空軍立川基地の日本人従業員への管理職養成に導入された手法である。

改めていえば、組織をあずかるひとなら誰にでも有効なメソッドである。
じっさいに、企業ならわが国を代表する自動車会社や、その系列、あるいは世界的化学メーカーなどだけでなく、おおくの中小企業にも導入されている。

MTPと共に立川基地から伝わった手法に、TWIもあると何度か書いた。
こちらは、現場作業の「教え方を訓練」する方法である。

TWIのモットーは、「相手ができないのは自分が教えていないからだ」にある。「相手」とは部下や教えられるひとのことで、「自分」とは上司や教える立場のひとを指す。

だから、部下ができないのは上司である自分が教えていないからだ、という思想は、まったくそのとおりのことをそのとおりに書いているのである。
なんだか、わが国伝統の、「背中を見て覚えろ」とか「師匠の技を見て盗め」という思想では、「緩い」のである。

こうしてみると、わが国の伝統的な教え方は、「パッシブ」で、米軍のやり方は、「アクティブ」である。
もちろん、時間はかかるが「パッシブ」なやり方がまったくダメだということではない。

「その道」を徹底的にきわめるという「覚悟」までに追いこむことで、教える側と一体になることを理想とするからである。
そこにひそむ「精神性」までもが引き継がれる、という意味での「凄み」さえある。

しかし、一方で、そこまで付き合えない、というのも現代感覚である。
西洋の合理性が輸入された結果ではあるけれど、それはそれで一理ある。

それが、当時の、「少品種大量生産」にマッチした。
「効率的なやり方」を追求するのは、開発した「軍」はもちろん、納品する製造業にも有用だったからである。
それで、軍需品の物量戦における「大量生産」に応用された。

しかし、戦勝国のアメリカで戦後は廃れ、敗戦国のわが国に導入されたのは、わが国のやり方が、「合理的」とはかけ離れているように米軍将校の目に写ったからである。

それで、わが国を代表する電器メーカーの人事部に配属されたアメリカ人によって、この手法が逆輸入され、いまではアメリカの産業界におおきく貢献しているという皮肉がある。

さて、昨今の「間抜けな事件」の代表が、医師たちの夜遊びによる「集団感染」だ。
大学名や病院名が出るので、その入学や勤務のための難易度をかんがえると、世間のイメージと、しでかしたことのギャップが大きすぎるので、なんとも締まりがわるい話題になっている。

慶應義塾大学は、このところ「下ネタ」事件がいろいろ続いていて、なんだかなぁ、なのだが、むろんほんの一部の暴走が校名を背負って発信されるだけである。
それは、ふだんから「校名」で「ブランド化」をはかっていることの裏返しにすぎないので、経営陣にも責任がある。

今回の、慶應義塾大学病院における研修医たちの「打ち上げ飲み会」は、慶應病院という大病院ひとつの問題ではなくて、「ケイレツ」が100もある「白い巨塔」における、医局の崩壊になってしまった。
濃厚接触した医師や看護師などが、続々と「二週間の隔離」対象になるからである。

これを、院長たち幹部が、いつものように「頭をさげる」ことでの「謝罪会見」をするが、わるいのは「やっちまった本人たち」であるとして、「教える側」の責任を放棄するのである。
「医師としてあるまじき」と。

草葉の陰で福沢諭吉が泣いている。

企業において、「試用期間」にあたるのが、「研修医」だとすれば、「あるまじき」ことをやったら、「解雇」だってありうるから、「医師免許」が「無効」になっても文句はいえない。
こうした、「罰則」がないなら、どんな「制度」なのか?の疑問がのこるが、これを決めるのは「誰なのか?」。

そんなわけで、上司にあたる院長たち幹部には、「TWIの精神」をたたき込む必要がある。
わが国で、TWIを積極的に導入しているのは、「筑波大病院」であるから、慶應義塾大学病院の幹部は筑波大病院に「見習い」にいくとよい。このとき、白衣には「見習中」と書いた名札をつけよ。

それに、医師は全員、MTPを「必修」とすべきである。

開業しようが、勤務医になろうが、「医師」ひとりだけでは業務は困難である。医療事務担当者だって必要なのだ。
すると、医師は、新米だろうが、かならず「職場リーダー」になる。

組織は、おなじ目的・目標をもった、二人以上の人間からなる。
「医師免許」の重みは、医療という分野では、周辺の専門家を束ねる職務も含んでいるのだ。
まさに、マネジメントができなくて、どうして「医療」ができるものか。

医師国家試験の「受験資格」に、MTP受講修了証の提示を義務づけるべきである。
その前に、期間をもうけて、既存の医師全員にも修了証の取得を義務づける必要がある。

MTPの威力をしらないひとが、先輩や上司として存在すると、悪影響を及ぼすからである。

「先ず隗より始めよ」を率先垂範すべきは、いつでも、「えらいひと」からなのである。

医師会は、このくらいの責任感を国民に見せるときは、いま、なのであるということをしるべきである。