FAXがほしい

電話機についているのがFAXなのか、FAXに電話機がついているのか?
通信手段として、固定電話とセットになるFAXは、前世紀の遺物、と世界的に評価されるなか、どっこいわが国ではいまだ「現役」だ。

もうずいぶん前になるが、ヨーロッパのとある先進国にある、とある先端企業は、自社の技術がとあるアジアの国に盗まれていることに気がついた。
どこから、設計図が漏れたのか?を社内の極秘調査チームがさぐったら、ネットからだったことが判明した。

この企業でのこの「事件」は、ネットの脆弱性を世界に知らしめたものだった。
それで、どういう対策をとったのか?といえば、いそぐばあいはFAX、そうでなければ郵便ということになった。

どちらさまも「サイバー空間」における「情報争奪」に熱心なので、アナログ回線における通信が、かえって安全だという皮肉である。

ましてや、郵便とは?
かつての冷戦期、郵便物を開封して撮影し、再度封をするスパイ小説や映画のようなことは、じっさいにはもっと巧妙にやっていた。
その筋のプロでもわからないようにする「職人技術」があったのだ。

ところが、冷戦の終了とインターネットの普及という新技術の登場に、これらの職人たちがお払い箱になってしまって、郵便における安全性が急に復活したという事情が説明されてもいた。

前にふれた映画『オーケストラ』(2009年、フランス)は、かつての「ボリショイ交響楽団」の仲間たちでつくるコンサートを成功させる物語だった。

ロートルのひとたちがドタバタしながらなんとかする、というはなしだが、諜報の世界のロートルのひとたちがドタバタしながら、重要な郵便物を盗み見る、なんて映画ができてもおかしくない。
なにせ、もはや後継者がいない、からである。

いまや、固定電話契約は、個人の信用を証明するような「機能」になってしまった。
固定電話番号をもっていることは、「家がある」という意味になるからである。

しかし、ひとり暮らしならずとも、携帯電話があれば固定電話はひつようない。
それで、NTT東西あわせると1997年をピークに「7割以上」も減って1,700万件ほどになってしまったから、年間800億円以上の赤字事業になっている。

ざっくりいえば、毎年150万件の契約解除が発生していることになる。

国家は国民から合法的に掠奪する。

むかし電話を引くときに強制購入させられた「電話債権」とは、いわゆる「電話加入権」のことだが、これが「価値をうしなった」のは、2006年に提訴された損害賠償裁判で、控訴審でも請求棄却が確定したことがきめてになった。

わが国に「三権分立が存在しない」ことの証拠にもなった。
裁判所は、行政府を擁護するために存在しているからだ。
よって、企業にはこの債権価値について「無形固定資産」としての「簿価」をどうするのか?という問題となり、「時価会計」による「減損」するしかないという理不尽も発生している。

客室数に応じて、それなりの契約回線数をもっているホテルや旅館には、想定外の災難なことであったが、これに「業界」が「沈黙」したのも「椿事」ではある。
よく「しつけられた」ものだ。

「パソコン通信」がはじまる前、文書はFAXで送受信する、ことになっていた。
いまだに「パソコンがない」ときに、FAXをつかうのは、「情弱」だけが理由ではない。

コンビニにも、複合機としてのFAXがあるのは、通信手段としての選択肢を確保しているからだろう。

けれども、さいきんは「パソコンがあっても」FAXをつかうことがある。
これは、「PCファクス送受信」という機能があるからで、この機能つきFAX機を介せば、パソコンから直接FAXの送受信ができる。

電子メールに文書を添付させるために、パスワードをかける方法がビジネスの場面でつかわれることが「常識」とさえいわれているが、専門家は「無意味」と批判的である。
サイバー空間をつかうから、悪意があれば盗まれる。

ならば、メール添付ではなくFAX送信してしまうことを通知すれば、手間はおなじでありながら、じつはよほど「セキュア」なのである。
相手も、この機能があるFAX機を介せば、紙に印刷して受信するひつようもない。

わが家のFAXには、メモリーカードを介してパソコンに文書を取りこんだり、返信文書をパソコンでつくってメモリーカードに保存すればFAX送信できる機能があったのだが、このところその機能がつかえなくなった。

どうしてなのかいろいろしらべたら、メーカーのHPに、この機能を提供する独自アプリが「最新のOSに対応しておりません」とあった。
ご丁寧に「この情報は役に立ちましたか?」という選択肢まであるのは、ありえない「ムダ」だ。

要はつかえない、と宣言しているのに、役に立つもない。
最新のOSにいつ対応するから待て、ならまだしも、たんなるユーザの「切り捨て」であるし、製品特性として宣伝し販売した責任の放棄である。

わが国を代表する「経営の神様」とまで崇拝された創業者の、「ユーザを大切にする精神」の微塵もない。大赤字に転落したのは、新興国の猛追が原因ではなく、経営者の身から出た錆である。

仕方がないので、コメント欄に「別のメーカーのFAXを購入することにした」と記入したのは、故人へのリスペクトからである。
そうでなければ無言でいなくなる。改善のためのヒントをあたえるような殊勝なことはしてあげない。

こういう状況をどこかで見聞きしたことがあるとかんがえたら、地震がおきてマンションの建築構造に手抜きがあるのがわかっても、施工者や販売者が逃げ回るすがたに似ていることに気がついた。

無責任な企業には、しっかりした制裁をあたえることが必要で、それをするのは政府ではなく、市場でなければならない。
ただし、わざと倒産して逃げる道もあるから、倒産前と後の両方に、逃げられない道をつくるのは政府の役割だ。

そんなわけで、いまのところ町内会の連絡にしかつかわないけど、あたらしいFAX機を購入しないと、面倒なことになっている。

紅葉の河口湖に行ってきた

秋の紅葉シーズンである。
さりげなく、どこかに行こうということになって、途中河口湖に行ってきた。
河口湖の観光関係者に申し訳ないが、ぜんぜん目的地ではなかった。

この湖にやってくるは何年ぶりだろうかと、かんがえてもはっきり記憶にないのだが、だいたい10年ぶりぐらいだとおもう。
その前も10年ぶりぐらいだとおもうから、10年周期で訪問している。

そんなわけで、印象にのこる記憶があまりない。
前回は、湖畔の美術館をめぐる、という目的があったから、美術館のことは記憶しているが、それ以外はないし、その前の訪問は理由すら忘れてしまった。

富士山に傘がかぶるように雲がかかっていた。
もしや天気がわるくなるかも、とおもったら案の定。
しばらくして雷をともなう激しい雨になったが、それは東富士に移動したときだから、現地がどうだったかはわからない。

湖畔にはたくさんの外国人がいた。
東南アジア系のひとびとは、団体ツアーなのだろう。
うれしそうに御山と湖を背景に記念写真にいそしんでいたすがたが、なんだか半世紀近く前の家族旅行を思いださせる。

ちょうど、「紅葉まつり」開催中とのことで、現地にいって気がついたのは、たくさんの屋台とひとだかりに後からコンビニでみたポスターだった。
わざわざ混雑のばしょに行くのが面倒なので、このエリアは通過したから、なにが?どんな?祭りだったかはさっぱりだ。

このあたり、興味がないと徹底的になってしまうのは、これまでの経験則による。

ポスターには、しっかり「富士河口湖町観光課」と記載があるから、とたんに事前期待値はマイナスになった。
イベントがどうして「猿まわし」と「ジャズ」なのか?
きっと「猿の脳」でかんがえたのだろう。

そして何よりも、「無料」という料金設定が、「発想の貧しさ」の象徴なのだ。
行政が主催になると、「儲けてはいけない」ということに自動的になるから、「やりたいこと」ではなくて「低予算でできること」になってしまう。

わが国にはどうも「無料信仰」がある。

「無料」だから、サービス品質がひくくても誰からも文句をいわれない。
この「ノー・リスク」こそが、役所のねらい、なのだ。
たとえわずかでも「有料」にしたとたん、利用者からのクレームをいわれる「可能性」が生まれるのを極端にきらうからだ。

じつは、この「可能性」こそが重要なのだ。
クレームを受けないようにするにはどうしたらよいのか?
それには、きっちりとした「計画」と「準備」それに、当日の「現場体制」を構築しなければならない。

それで、やっと「有料」にできるし、客の満足もたかまるものだからだ。

しかし、客側もこれまでの人生で、「有料」の祭りなんて経験がないし、無料の、サービスとはいえないサービスになれている。
このばあいの「サービス」とは「奉仕」の意味だが、「奉仕以下」のサービスになれているから、無料があたりまえなのである。

ここで、もう一方の主催者をおもいだすと、たいがいが「観光協会」なる民間団体が存在している。
つまり、こちらが「有料」のチャンスをもっているはずなのだが、予算を自治体に依存しているため、なにもできないのだ。

ほんらいなら、無料と有料の「棲み分け」は可能なのに。

けっきょくのところ、なにをもって祭りが「成功」したのか「失敗」したのかがわからないから、集客した人数という指標しかない。
儲けてはいけないから、指標が「売上」にならないのである。

梅棹忠夫先生はかつて1970年に、観光業を「掠奪産業」と呼んでいたが、なにをかくそう、観光課が地元民の税金を「ドブに棄てている」。
そして半世紀を経ても相も変わらず、観光地にやってきたひとびとから、価値のないものを買わせることでの「掠奪」がおこなわれているのである。

つまり、掠奪のための計画をたてて、実行しているのが「実態」となるようになっている。ノー・リスクはすなわち、自動的に「ノー・リターン」になるからである。
「投入した資源の見返りが、ない」ものを役所用語で「事業」というのだ。

これは、なにも河口湖だけのはなしではなく、全国津々浦々でやっていることなのだ。

これをもって「観光立国」とは笑止である。
せめて「山賊の国」と自己批判もできない脆弱ぶりは、行政依存のみじめがさせる。

しかし、もっともみじめなのは、そんなことに気もとめず、「楽しい」とかんじるように訓練された観光客のほうである。
ということで、じぶんがみじめになってきたから、湖畔の散策と地元野菜を買って、30分ほどの滞在で立ち去ることにした。

帰路の山中湖畔は、日曜日の混雑が「うそのよう」な閑散だ。
しかし、日曜日の混雑が「うそ」で、平日のこの閑散がほんとうなのだろう。
別荘地の合間を抜けつつ、管理費用があたまをよぎれば、「ああ欲しくない」と、またまたいけないかんがえがうかぶ。

富士山が湖面にうつる美のポテンシャルを、関係者が努力して「減価」させるのは「マンガ文化」でもわらえない。
河口湖も山中湖も、おそらくわが家の「目的地」になることはないだろう。
ぜんぜん残念でないのが、残念だ。

人間は「不可逆性」の動物である

人間の「不可逆性」とは、なにに対してか?と問えば、「知識に対してである」がこたえだ。

脳を損傷したり、発病したりしなければ、産まれてから学んだ数知れずの「知識」を忘れることができない動物なのである。
「知識」は、たんなる「記憶」ではない。
それなら、人間よりもっとすぐれた動物に「象」がいる。

象の脳は、一度記憶したことならけっして忘れない。
人気アプリ「エバーノート」のロゴが「象」なのは、このことを強調している。

象が人間のような文明をもっていないのは、「知識」と「記憶」が別物だからである。
もしかしたら象は人間のもつ文明をもちたくないのかもしれないが、「記憶」をつかって「思考」できなければ「文明」にはならない。

こまったことに、人間には「知識欲」というほどの「欲」まである。
「もっとしりたい」
「どうなっているのか?」、それがわかったときの満足感。
この「欲」こそが、文明をつくりだした「エンジン」なのである。

画期的な「発明」が、たとえそのときに売れなくても、いつかなにかに応用されるのは、発明品に内在する「知識」が発掘されて、世に出すひとがあらわれるからである。

人間がわすれ、うしなった「超古代文明」というロマンがロマンになるのは、不可逆性にたいするありうる仮説、たとえば天変地異や破滅的な戦争が原因だったとするからだ。
つまり、前提じたいが仮説になっている。

米ソ冷戦で世界が緊張していたときに製作された『猿の惑星』は、猿が日本人であるという正体のうわさはヨコに置いて、核戦争後の地球に帰還した宇宙飛行士の物語をもってシリーズがはじまった。

この物語における「人間」が、文明をもたないのはことばをもたないという前提になっていたからである。
ことばをもたない、とは、思考をもたないこととおなじだから、文明を構築することはできない。

だから、人間がことばをもっているかぎり、それが何語であろうが、重要な知見は翻訳されて「拡散」されることになるのは「エントロピー」なのだ。

どこのだれが、どんな知見からあたらしいことをおもいつくかはだれにも予想できない。
それは、おもいつく本人にすら予想もできないからだ。

おおくの「ひらめき」は、とつぜん脳裡に浮かぶものなのだ。
じんわりとやってくることはない。
それで、「ひらめき(Flash)」という。

ところが、ひらめきを体験したことがあるひとならわかるだろうけど、「ひらめく瞬間」までのあいだ、意識的でも無意識でも「なにかを『ずっと』かんがえている」ものだ。
べつにいえば、かんがえることが日常になっているような状態だ。

よくいわれるのが、散歩中とかランニング中とか、なにげなくからだをうごかしているときに、けっこう「ひらめく」から、「ひらめき」を欲しくなれば散歩するようになったりする。
じつは、このとき、あんがいなにもかんがえていないか、べつのことをかんがえていることがおおい。

そんなわけで、職場のデスクにじっとしていて「ひらめいた」経験はあまりない。

仕事上のアイデアを求めるときほど、職場からいなくなったものだ。
こまったことに、こうしたことを経験したことがないひとが上司になったとき、職場からいなくなるこをとがめられた。

前の職場では、デスクにじっとしていることをとがめられたから、おなじ会社でもちがうことがある。
自分で職務遂行をまじめに履行するなら、やっぱり職場のデスクにじっとしていても変化がないから、とがめられようがそれは無視した。

すると、やっぱり「ひらめく」のである。

しかし、問題はひらめいたあとなのだ。
これを「企画にする」というステップをふまなければならない。

知識の不可逆性は、とうぜん提案相手にもあるから、以前のままでははじまらない。
いかに「進化」を強調するかになるのだが、自社内での進化のみならず世間の進化にも対応しなければ、へたをすれば「退化」になる。

そこで「ベンチマーク」が大切なのだ。
ただしき競合相手(ライバル)の選定である。
自社と同等なライバルは、スポーツにおけるライバルとも似ていて、相手がいるから頑張れるのだ。

そうしてみると、米ソ冷戦時代の双方が互いに頑張ることができたけど、ソ連が脱落してライバルがいなくなったら、アメリカも弱体化してしまった。

わが国は、バブル経済でアメリカを追い抜いたとおもったら、こんなものかと慢心してこころが緩んだら、思考する脳までゆるんでそのまま凋落している。

ライバルのはずがなかった中国には、とっくに抜きさられてもう追いつかない。
巨大になった彼の国の崩壊を望むのは、防波堤もないのに大津波を望むような愚論である。

ほんとうは「不可逆性」がはたらくはずなのだが、どういうわけか「カネにならない」ことばかりに投資して、凍死しそうなのはかつての同盟国ドイツとおなじであるから、べつくちをみつけないといけない。

さてどこか?
よきライバルがみつからない。

ここにいたっての「不可逆性」は、「絶対値」で思考するしかないという知恵である。

だれかに「依存」すればよい、という時代には二度ともどれないのである。

つくりかた映像の凄み

「国立研究開発法人 科学技術振興機構」というながい名前の組織が、『THE MAKING:サイエンス チャンネル』という番組で、わたしたちの生活に身近な、さまざまな「モノ」がどうやってつくられているのかを映像だけで紹介している。

ぜんぶで300本以上の「作品」数になっているが、HPではなぜか記念すべき1号の表示がなく、2号の「マヨネーズのできるまで」(1998年)から紹介している。

徹底的に、「工場見学」だけに特化した番組で、BGMだけ、ナレーションはなし、テロップに読み仮名がついて説明するだけだから、対象は小学生を意識しているのだろうけど、おとながみいってしまう内容になっている。

それぞれがだいたい15分程度でまとめられているので、ついうっかり観ていると、一時間があっという間に経過する。
いまどき、ニュースをふくめて時間のムダでしかない地上波放送を観るのなら、よほど教育的だといえるが、製作からの時間経過がやや気になるところだ。

YouTubeでは、どうしたことかランダムに映るので、つぎはなにか?という意外性もあって、一杯やりながらの家内とのひとときは、もっぱらこのシリーズを「観賞」している。

どうやってつくられているのか?という全体の流れも興味があるけど、対象物を振動させたり落としたり、その工程における「アイデア」に感心するのである。

どうしてこんな方法をおもいついたのか?
という説明は一切ない。
ただひたすら、製造工程の順番に映像もながれていく。

それで、意外な工程で「人手」や「人力」をかけているのを観ると、その「手間」の理由をかってにかんがえることになる。
日がな一日、この単純作業をすることのモチベーションはなにか?とか、余計なことまで想像してしまうが、現場ではおそらく「余計」ではないだろう。

安価で手に入る日常品が、かくも人間の手間をかけているのかという場面では、家内とふたり、ただただ驚嘆することしきりなのである。

もっと値段を高くしてもいいのに。

ましてや、食品工場ともなると、複雑な機械がでてくるたびに、気になるのが「清掃の手間」である。
おそらく、製造終了後の後片付けにおける細部までの清掃に、驚くほど面倒な労力をかける努力がはらわれているはずだ。

製品を大量に製造するための合理的機構と、衛生保持のための作業とに、放置すれば絶望的な断絶だってあるにちがいない。
このときの「メンテ」にかける手間が、製造の簡易さをうわまわれば、たちまち「合理的機構」の合理性がうしなわれる。

すると、設計者はどんな工夫をこらしているのか?
あるいは、現場ではどんなうまい方法をおもいついたのか?
そしてそれが、どのように設計者にフィードバックされて、新製品になっているのか?

じつに気になるところである。

すると、設計のための予備知識と、フィードバックが交互にやってくることがわかる。
これが、「スマイル・カーブ」の発想につながる。

スマイル・カーブとは、横軸に設計から製造をへてフィードバックされるまでの「工程」をおいて、「価値」を縦軸にしたグラフを書いたときにあらわれる、人間が笑った口元(「U」より開いた)のような曲線になるために命名されたものだ。

工業が、単純に「大量生産」をめざしていた時代、さいわいにも世界は「物不足」という時代でもあったから、「大量消費」ということがかさなって、なんでもいいから作れば売れる、ということが成立していた。

このときは、「設計」→「製造」→「フィードバック」などの各工程が生む「価値」を同格あつかいできるほどだった。
だから、スマイル・カーブはぜんぜん「スマイル」ではなくて横棒一本(「-」)のグラフになっていた。

社内でも「同格」だから、経営トップは社内各部署の「平等」を旨として決済することがもっとも重要だったし、自身の保身にもなったのだ。

ところが、あまねくモノが世の中に浸透すると、こんどは「機能」と「品質」の時代になる。
さらに、製造方法がデジタル化して、コンピューターによる機械コントロールが可能になると、適切な製造立地が途上国に移転した。

こうして、本国では「設計」と消費者からの「フィードバック」に価値がたかまって、「製造」そのものが生みだす価値が「相対的」に低下したから「スマイル・カーブ」になったのである。

さてそれで、わが国はどんなふうに産業を進化させるのか?
これをかんがえるひとたちが、「公務員だ」という倒錯が常識になってしまっている。

「有職故実=前例主義」に基盤をおく「しかない」公務員こそが、日本経済の進展をことごとく邪魔しているのに、なにをかんがえているのだろうか?
ソ連末期、ダメな経済立て直しに国家の介入を強化したら自滅したことを忘れたか、覚えてすらいないのだろう。

金融の世界だって、国内最優秀者たちをあつめて金融庁の役人にとってかわれば、わが国の金融界は世界的になれる、という幻想をまじめにかたるひとまでいる。
そんなことをするよりも、規制官庁を廃止して「自由化」一発で済むはなしである。

前世紀のおわりにできた『THE MAKING:サイエンス チャンネル』の「凄み」とは、この意味における国家介入の「絶望」を、ひたすら追求している「国立」の組織があるということなのだ。

日本語能力証明書の「偽造」

「資格」というのは信用をもってなりたつので、信用が毀損されることは「資格認定する側」からすれば死活問題である。

しかし、昨今、日本ではたらくことを希望する外国人には、日本語能力試験の認定書が「偽造」であっても欲しいという、つよい需要があるというから、これはこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、「認定書」へのつよい需要のことをさす。
それで、偽造した書類をつくって商売にしているのが、どうやら中国らしいから、これもこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、需要があるところに目ざとく供給して商売にするということである。
これぞ「ビジネス」の鉄則であるからだ。

報道によると、偽造証明書を購入して逮捕・起訴されたひとの公判で、フェイスブックで偽造業者をみつけた、ということがわかった。
このときの言語が何語だったのか不明だが、もし日本語だったらたいした情報収集力であるし、中国の業者側もどうやって記述したのか?

自動翻訳だったのだろうか?
つかまったひとたちの東南アジア各国語での「販売」だとしても、それはそれで「手間」がかかっているはずだが、代金は1万円だったというから、はたしてこの金額で海外発送までして儲かるものか?

もちろん、この「代金1万円」をどうやって支払ったのか?という問題もある。
銀行からの送金なら、1万円の送金にそぐわない高額の手数料が請求されるから、おそらく別の方法だろう。

偽造側も日本円で支払われたものを、どうやって中国で受け取るのか?
まさかクレジットカードということもなかろう。

残念ながら、記事からはわからない。
わが国を代表する「経済紙」にしてこのていたらくである。
「経済」に特化できないなら、社名から「経済」を削除するか、いさぎよく看板をおろすべきだろう。

自国公用語の言語の能力が在留資格の取得に重要な意味をもつのは、世界的には共通事項だ。
英語が極端に苦手な日本では、とくに日本語がつうじないとはなしにならない。

それで、日本人の英語力を高めることよりも、日本にきてはたらきたい外国人の日本語力を高めるほうが手っ取り早いという具合になっている。

この日本人にとっての都合のよさは、残念ながら外国人にとっても重要で、雇用主の日本人と意思の疎通ができないと、たいへん残念なことがおきると予想できるからである。

ところが、こまったことに、日本語が世界的に難易度が高い言語のひとつとされている。
それは、日本語のルーツがいまだに不明なように、どの言語体系にも属さない「独自」さと「複雑」さから指摘されていることだ。

外国人に日本語をおしえて45年になる、日本語教育の先生にきいたはなしで驚いたのは、メソッドとしてはじめに「日本語文法」を半年間でおしえきる、ということだった。

それで、はじめて日本語をならう外国人に「理解できるのか?」と質問したら、「才能です」という回答だった。
先生は、たいへん優しいひとで、難解だが半年でマスターできないなら、別の道をえらばせたほうが本人のためだとおっしゃった。

ずるずると、若い本人の貴重な人生の時間を浪費させることは、教育者としてできない、と。
何年も、何回も、似たようなパターンを経験されて導き出した、きっぱりとした決心だ。

もちろん、何年も何回も、似たようなパターンで生徒がつまずく箇所も熟知しているから、年々と教授法も進化させているのだと先生はいう。
こんなに、外国人にわかりやすく工夫できるのは、先生が外国語の達人でもあるからだ。

イヤミでないのは、生徒のことをリスペクトしているからである。
「日本語だけ」が能力ではない。
才能を見切ったら、別のチャンスを見つけさせることも教師の役目だという。

そんなわけで、先生のもとで卒業できるのは入学者のわずか20%。
しかし、その20%のひとたちが、これぞという日本語力で人生を切り開いている。
これぞ、教師と生徒の並々ならぬ双方の努力の成果なのだ。

だから、先生は、日本における教育の「甘さ」を、厳しく指摘している。
安易な教師に安易な生徒ということではない。
先生からいわせれば、安易な教師でよしとする安易な社会だということだ。

製造物には製造物責任のための「PL保険」があるが、学校には製造物責任がないことをいいことに、安易をもってよしとする。

はたして、日本にきてはたらきたいという外国人に、丁寧かつ見切りをつけさせるような、経過責任のあるぶ厚い日本語教育をしているのだろうか?と問えば、寡聞にして聞いたことがない。

日本における英語教育とおなじに、生徒ができないのは教え方の無様を無視して「本人のせい」という、結果責任だけをおしつければ、うっかり「偽造」の発注もするだろう。

人手不足に悩む経営者も、外国の他人の子どもを酷使するのではなくて、その子の人生を預かるという気概なくして、継続的に応募もしてくれなくなるのだ。

せっかく日本にやってきて、「逮捕」され「起訴」されたら、国外退去にならずとも、日本人だって履歴書の提出がはばかれる。

外国人であろうが若者の夢をうばい、犯罪者を製造する国になってしまうことの反省だってあっていい。

これではまったく、日本における『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだが、ぜんぜん救いがないから、もっと深刻で悲惨なのである。

アラブ人がもとめているもの

わたしがはじめて海外旅行をした先は、エジプトであった。
帰国後、ゆえあってそのエジプトで二年間ほど暮らすことになったのも、さいしょの旅行経験があってのことだったとおもう。
当時のカイロの喧噪が、急に懐かしくなった。

ときは、サダト大統領暗殺のあとで、ムバラク政権初期の「安定」した時代だった。

いまからすれば「観光立国」として絶対的人気がそれを裏づけていたから、外国人観光客が巻きこまれる「事件」といえば、スリか置き引きがほとんどだったが、たまに肌を露出した女性が襲われた。
しかし、「テロ」の恐怖は、この時期にはなかった。

日本をはじめとした「先進国」が、極度の「管理社会」ではないかとうたがうほどの「無秩序」にみえる「テキトーさ」がどこからくるのか?と問えば、かならずイスラム教のおしえにいきつくから、それはそれで筋がとおっていた。

なにしろ、憲法第一条でイスラム教を「国教」にさだめている国だ。
なので、役所の役人もイスラム教にしたがうのは当然だから、アラブの「I、B、M」の実用例をもっとも見聞きすることができるのが役所の窓口だった。

I:インシャラー:アッラーのおぼしめし⇒人間のせいではない
B:ボクラ:また明日⇒明日になればなんとかなる
M:マレーシュ:マ・アッラーフ・シュ⇒マ+~+シュで否定⇒ここにアッラーがいない⇒気にするな

外国人登録を自分でしに役所にいった。
職場ではエジプト人ボーイに代行させたらいいといわれたが、なにごとも経験が大切だ。

整列することができない国民性なので、窓口の人だかりが解消されることがない。
これは、映画にもなった1980年の大ベストセラー・サスペンス小説『針の目』で、作者の英国人ケン・フォレットが物語中「英国が支配したのにバスに乗るのにも列べない」と嘆いている。

 

待っていてもなんにもならないから、ひとを押しのけて役人に書類を提出し、受け取ればこっちのものである。どんなに時間がかかっても、順番どおりに処理してくれるはずだ。

ところが、3時の閉庁時間間近になっても呼ばれない。
どうしたかと、やっと人だかりが解消された窓口にいけば、「ボクラ」といわれた。ああそうですかとはいかないのは、ほんとうに明日の処理に回されるのではなく、「完全リセット」で申請からはじめないといけないからだ。

今日の未処理分の申請書類は廃棄される。
その理由は、「インシャラー」であり「マレーシュ」なのだ。
まことに便利な概念で、当人だけに都合がいいが、全員がこれをやるから「混沌」となる。
とはいえ、「郷に入っては郷に従う」のがルールだ。

しかたがないので、大声でさけびながら身もだえしたら、なんとかなった。こんなこと、日本の小劇団だってやらない演技だ。
まったくもって、「インシャラー」なのだ。
登録ができたと職場に帰って報告したら「まさか?たいしたもんだ」と、同僚のエジプト人にほめられた。

サダト暗殺の理由は、急速な「親米政策」だといわれている。
けれども、あとをついだムバラク政権も「親米」を貫いたのは、「親ソ」では国民が食えないからである。いま「親中」が進化しているのはこの点だからあなどれない。
それで、宿敵イスラエルと和平を結んだのが、のどに刺さった魚の骨のようなものだった。

ポーランドといえば「アウシュビッツ」が日本人観光客には目玉といわれていて、「人気」どころか「目的地」にもなっている。
ポーランド航空は、ワルシャワ=テルアビブ便をはじめとするイスラエル線を、地方空港からも飛ばしているのは、いまでもユダヤ人つながりが太いからである。

アウシュビッツに涙する日本人だが、これが「イスラエル」となると突如と無関心になる不思議があって、パレスチナの悲惨には反応しないのはどうしたわけか。

もしかしたら「複雑」をかんがえたくない、ということなのか?

あいかわらずアラブ人は「反米」をつらぬいているし、アラブと対峙するイランだって「反米」の権化となっている。
これに、敵の敵は味方という原理が作用するけど、「反米」で結束することがないのは、決定的に「宗教がちがう」からだ。

「スンニ派」と「シーア派」は、別の宗教だ。
日本の仏教における「派」とは、存立のレベルがことなる。

そんなわけで、われわれとも価値観がちがうのである。

戦後の日本人は、人類普遍の価値観を喪失し、経済的価値観だけで生きてきた。
アラブ人は、いまだに経済的価値観は二の次三の次なのである。

では、第一はなにかといえば、「自尊心」だ。
アラブ人の「自尊心」に、アメリカは無神経なちょっかいを出すからきらわれるのである。
それは、アメリカにも「自尊心」があるからである。

前にも書いた、アラブ人の自尊心がわかる映画『砂漠のライオン』の精神は、「実話」だからというだけでなく、本来は普遍的なものなのだ。

自尊心をなくせば、自由と民主主義も価値がなくなる。
自由と民主主義がなければ、経済的繁栄の価値どころか意味もなくなるのである。

こういう哲学を、アラブ人は一般人でももっていることを、われわれ日本人はしっていていい。

国民が望む「国に」わるいこと

今日は、78年前の大戦争開戦の一ヶ月前にあたる。

国民が望むことのなかに「国にとって」わるいことがある。
へたをすれば「滅亡」するかもしれないが、それでも国民が望めば、民主主義国家はイチかバチかの勝負をやらざるをえない。

これが、「大東亜戦争」であった。
もちろん、「大義」も「名分」もある。
「大義」とは、白人支配からのアジアの解放であり、「名分」は白人が構築したブロック経済に仲間はずれにされたことの自衛である。

大義もあって名分もあるのだから、われこそが「正義」となる。
後先かんがえずに、「正義」で猛進できる精神は、儒教からくる。
これぞ、徳川幕藩体制の亡霊であって、下級といえども「武士」によってできた明治政府にだって引き継がれたDNAである。

幕末の志士たちが読みふけった、会沢正志斎『新論』こそが、儒教(朱子学)からうまれたイデオロギーである。
そして、かれらは、じっさいに行動した実行者たちだった。
このひとたちがつくったのが、新政府である。

文明開化ばかりに目がいくけれど、ひとびとが新政府に違和感をおぼえつつしたがったのは、朱子学という地下水による。
初期の旧武士階級の「反乱」で、政府は朱子学を地下にながすが、幕藩体制下より飲み続けた一般人には、とっくに普及していた。

商家にみる階級(番頭、手代、丁稚、小僧など)は、身分制のように機能したし、もちろん主人は絶対である。
じっさいに、いまでも日本企業にはこの「伝統」がはびこっていて、小僧から番頭に昇格するばかりではなく、主人にもなれるけど、主人になってこの体制を破壊するのでなく維持につとめるという特性がある。

絶対支配の「特権階級」に昇格するための「努力」こそが、社内競争における唯一のインセンティブだからである。
すなわち、「経営者」になりたい、ことの意味が、矮小化してしまうのであって、経営したい、ではなく支配の特権階級になりたいのだ。

そんなわけで、朱子学の無意味を明治政府は大学教授にいわせることで、その価値を隠匿したが、民間にはしっかりと浸透していたから、「民主主義」が採用されると、朱子学による行動原理が社会を支配したのである。

だから、過去の経験をもって、戦後は朱子学による国民の行動を隠匿するために、「軍部」という「国民の敵」をつくりだしたのは、天才的な「すり替え」だ。

国民が敗戦までにあじわった悲惨をガマンできたのは、じぶんたちが望んだ戦争だったことをちゃんと記憶していたからだが、GHQによる「すり替え」をもっけの幸いとしたことで、責任をほおかむりできるラッキーとなったのだ。

国民はわるくない。
わるいのは戦争をあおった軍部のエリート軍人たちである。
だから、おなじ軍にいても、わるいのは兵隊ではない。

このことばの居心地のよさ。
おおくのひとが、居心地のよさの誘惑に「負け」てしまった。
じつは、このことこそがほんとうの「敗戦」なのである。

その証拠に、敗戦直後の論調には、国民努力が足りなかった、というものがある。
うらがえせば、言いだしっぺは「国民」だということだ。

しかし、あとだしじゃんけんならぬ、物量でかなうわけがない、とか、科学技術の彼我の差が大きすぎるとかが敗戦理由となって、こんな戦争をはじめたのは軍人があまりに愚かだったからだ、という「甘言」がでてくる。

国民は「知らされていなかった」という暴言すらあるのは、国民を徹底的にバカにしているのだけれど、居心地のよさをもとめる国民にとっては、悪魔ではなく天使のことばに聞こえるのだ。

たとえば、いまにつづく企業で、戦前にニューヨークに支店をもった中小企業がどれほどあったかすら無視しているし、そもそもアメリカへの日系移民12万人が強制収容所にいれられている。
平時、このひとたちからの情報が実家や友人になかったはずがない。

しかも、当時の日本には民主主義はなかった、という愚論がもっともらしく吹聴された。

斉藤隆夫による衆議院本会議における「反軍演説」は昭和15年。
これをもって議員除名処分をしたのも、議会の決定、すなわち国民が望んだのである。
齋藤の除名について、国民は反対の声をあげてはいない。

こうして、わが日本国民は、重大な自己責任から逃げたのである。

それが、なにがあっても戦争だけはいけない、という人類社会ではありえない価値観が「絶対」になってしまった理由である。

さらに、国民と政府が分断されたから、ひどいことを国民に強いた軍部の政府への意趣返しで、国からもらえるものは「奪う」まで自己のものにすることが「正義」になった。

年金をいつ、どのように「もらう」のかが、もっとも「得」で、それいがいは「損」になる、という概念も、民間の積立なら当然でも、賦課制の公的年金にあっては、個人の損得だけでいいのか?という問題が内在している。

けれども、「権利行使」なのだから、わかい現役世代の負担がどうなろうと知ったこっちゃないので、選挙のたびに「年金の充実」がもっとも重視される選択要件になってしまった。

つまり、国民が望んでいるのである。

軍部だからしっている彼我の差だから、ほんとうはやりたくない戦争を国民から無理強いされてしたように、ほんとうは「破たん」しているといえなくて、「安心」をいっていたら、千万単位で生活に足りないとわかったら、国民から「詐欺」とよばれるのである。

けっきょくのところ、「ポピュリズム」のいきつく先というのが結論なのか?
すると、もはや民主主義が「機能しない」国になったのではなく、民主主義を機能させてはいけない国になったのだ。

共産主義犠牲者のための国家の日

今日、11月7日の「この日」は、ドナルド・トランプ アメリカ合衆国大統領が定めた。
つまり、2017年の1月にトランプ政権が発足して10ヶ月にしてこの「国家の日」を制定したのである。

アジアの覇権どころか世界覇権をねらう国が標榜する「思想」に対して、強烈なアッピールをしたのである。
だから、さいきんの米中関係、ひいては米中経済戦争は、トランプ政権の発足で開始がきまっていたようなものだ。

この日の存在を地域分析者として、わが国で最初に気づいたのは河添恵子氏だというが、本人はそのまえに、ホワイトハウスのHPに掲示されているのを「観ただけ」だといっている。

ちなみに、いまも掲示されているのは、毎年この日がくるからである。
インターネットの技術のおかげで、われわれも自動翻訳の「日本語」で趣旨を読むことができる。

さてそれで、どうして11月7日なのか?といえば、1917年11月7日のロシア革命100周年に「ぶち当てる」ためである。

すなわち、ロシア革命への賛辞をおくるのではなく、人類における「暗黒時代の到来」を記念し、二度とこのような人的厄災を起こさせないという「自由」と「民主主義」の「日」としたのである。

これは、トランプ政権ましてや「共和党」としても、存続の意味そのものであって、もちろん、アメリカ合衆国の建国理由でもある価値観だ。

だから、旧西側陣営にしてアメリカの同盟国であるわが国政府がこの日を定めない理由を聞いてみたい。
旧東側陣営にして、いまはEU加盟、NATO加盟各国は、それぞれに同趣旨の記念日をもっている。

昨日書いたように、歴史は回転して繰り返す。

まさか、アメリカの民主党が「社会主義をめざす」ということが、どれほどの破壊力をもたらすものか?

社会主義とは、富の分配を「国家」が決める思想であり体制である。

社会主義者が資本主義をにくむのは、資本主義が自由主義とセットだからで、ほんとうは「自由主義をきらっている」のである。
ところが、「自由主義がいやだ」というと変なひとだとおもわれるから、「資本主義はいけない」ということにしている。

すると、なんだが「インテリ」にみえるから、これをパロって芸人が発言していたら、本人が「パロっている」のか「本気」なのかがわからなくってしまった。
こうして「お笑いなのにインテリ」というキャラができた。

「笑い」を哲学すれば、アリストテレスにたどりつく。
すると、「インテリ」でないと「笑い」はつくれないし、これを商売にできないのだとわかる。
中世の「道化」における「阿呆」は「演技」なのである。

官僚支配だからだれがやってもおなじ。
こうした風土が、お笑いタレントをふくめた芸能界からの「政治家」を産む。
経済成長著しく、ノー天気でいられた70年代に、知名度だけで議員にさせた無責任政党は、いまも政権与党である。

ただし、瓢箪から駒ということもある。
ドナルド・トランプ氏も、一時はテレビタレントだったし、相手のウクライナ大統領は、あまりの政治家による汚職蔓延をきらった国民が、ならばとコメディアンから選んだひとだ。

報道では、トランプ氏がウクライナ大統領を脅したことになっているが、ウクライナ大統領はトランプ・ファンだと告白し、プーチン氏に対抗している。

そんなわけで、てきとうな政治家をよいしょしたり、じぶんたちが気にくわないひとをこき下ろしたりしたりするのが、マスコミの「本分」になってしまった。

それでもアメリカのマスコミは、立ち位置を表明する。
にもかかわらず、大統領が名指しでマスコミを批判し、とうとう名指ししてホワイトハウスで購読契約をしている新聞社の契約解除を指示した理由は「フェイク(うそ)生産会社」だと断定したからだ。

こうした「ドタバタ」をやれるのがアメリカだ。

日本では、まずありえない。
首相官邸で購読している新聞を、首相が「とらない」と表明したら、大騒ぎになること確実だし、「独裁者」だと最大限の表現をして国民をあおるだろう。

放送局も、公共放送の民営化をもっともおそれるのが既存民放各社である。さほどに巨大化してしまった。
それでなお、すきなように放送できるのが「表現の自由」なのだから、国民はすきなように「洗脳」される。

その「洗脳」には、情報の「遮断」という方法がつかわれている。
かれらに「幸い」なるかな、日本人を日本語しかできないようにすることで、外国の情報を遮断できるのである。

だから、すこしでも日本人の英語力がたかまる可能性があれば、どんな難癖をつけてでも葬ることにいそしむ。
その犠牲者は、「受験生」という若年層である。
ましてや日本語表記の情報に、外国の事情をいれなければなおよい。

情報の「鎖国」である。

しかし、ネットをつかうとこれに穴があく。
そんなわけで、情報弱者を「いかに保持するか」が既存利得者たちの重要な戦略になる。

「情報リテラシー」は、じぶんでみがくしかないようにできているのは、このためである。

だから、そうさせないように「娯楽」をあたえる。
国家が国民に「パンとサーカス」をあたえれば、国民はたちまち「愚民化」し、国家がすきなようにコントロールできるようになる。

現代における「パン」とは、年金や社会保障、ばあいによっては職場まで与えられるし、「サーカス」とは、カジノをふくめた数々のギャンブルやビデオゲームなどの新種、それにテレビや映画などを主体にした旧式の「娯楽」の数々である。

もしや、わたしたちは危険にさらされていないか?をかんがえるのがわが国における「共産主義犠牲者のための国家の日」の意義だろう。

分裂するアメリカの恐怖

アメリカが「思想」で分断されてきている。
もはや「民主党」は社会主義をむきだしにして、かつてソ連と対峙した時代にはかんがえられない、自身の「ソ連化」を批判する者はいない。

一方の「共和党」は、「反グローバリズム」のトランプ政権によって、「金融資本主義」が押さえつけられ、製造業への回帰という一見「古風」な政策が推進されている。

どちらの側も、少数の富豪による「国富」をこえた「独占的支配」に対抗しているのである。
つまり、アメリカの矛盾は、あきらかに「富の分配」における不公平感是正に対する「手段」になって表面化している。

しかし、「手段の選択」には「思想」という要素が不可欠だから、「資本主義の必然的矛盾」だという、典型的かつ古典的な社会主義・共産主義思想にたてば、民主党の主張になることも「必然」なので、目指すは「ソ連化」になる。

対して、共和党は「資本主義」自体の問題ではなくて、「資本主義の運用の問題」という枠を設けているのである。
なかでも、金融資本家による支配について、つまり端的にいえば「ウォール街つぶし」こそが手段となっている。

この思想対立が、来年の大統領選挙にむけて熾烈化するのは必至だ。

かつて、「ソ連」を誕生させたのは、じつは金融資本家たちによる「支援」だったことは、歴史的事実としてしられている。
見返りは「隠れ蓑」という「場の提供」だった。

歴史は繰り返す。

いま、トランプ政権つぶしに奔走しているのは、弾圧の対象になっている金融資本家たちなのはあきらかで、かれらが民主党にかけより、アメリカの「ソ連化」を推進しているのである。
これを隠蔽するための「手段」が、民主党の中国批判なのである。

すると、かつての「中ソ対立」が、民主党によってすでにおこなわれていることになる。

さらに、不可思議なのがいま渦中の「トランプ弾劾」だ。
いわゆる「ウクライナ疑惑」のことだが、そもそも論でいえば、いちばんあやしいのは「バイデン元副大統領とその息子」による「ウクライナ『利権』」である。

民主党の次期大統領候補として、世論で最有力視されているのが「バイデン元副大統領」なのだから、問題をトランプにすり替えているようにみせながら、じつは民主党内における「バイデン失脚工作」ではないのか?ともかんがえられる。

候補者を選ぶという、わが国には存在しない方法の「予備選挙」で、党の代表者を決めるのだから、「本戦」まではえらく長丁場なのがアメリカ大統領選挙だ。
今回は、民主党内に「極左」の立候補予定者がいることに注目したい。

つまり、世論におもねることなく、党の思想によって候補者を選ぶなら、とっくに「バイデン」は本命ではない、ともいえる。
だから、ウクライナ疑惑は、バイデン降ろしの役に立つし、トランプ批判の世論も期待できるから、一石二鳥なのだ。

この「弾劾問題」は、以上のようにみれば、アメリカの分裂の深刻さが鮮明になることから、どんな結論になるのかによって、今後の世界史がきまるほどの威力がある。

われわれにとっても、「対岸の火事」ではすまされない。
おそらく、来年のアメリカ大統領選挙は、かつてないアメリカ社会の決定的分裂を世界にさらしながら、その余波が、われわれにとっては、「余波」どころではない「強烈な圧力」となってくるにちがいない。

それは、社会主義を達成したがゆえに「衰退確実」なわが国が、社会主義を棄ててプリミティブな資本主義を追求しながら、政治的には「帝国主義」むきだしの中国陣営に向かうのか?それとも、本家「ソ連」をめざす民主党政権のアメリカか、あるいは、古風な資本主義の共和党政権のアメリカかの選択を迫られるからである。

これは、どれをとっても「ベストがない」から、悪魔の選択にならざるをえない。

すくなくても、自民党安倍政権は、中国陣営に向かう選択を、現時点でしているから、アメリカ大統領選挙による「強烈な圧力」がくるまえに決着させておこうという魂胆なのだろう。

経済は中国に、防衛はアメリカにという「コウモリ君」になると決めた、という意味である。
なるほど、それで、香港問題にも台湾問題にも一切の発言をしない「無関心」でいられるのだ。

衰退がとまらないわが国は、どうやら世界第三位の地位から不況のドイツに抜かれて第四位になったようだ。
たった1ランクのダウンではない、とまらない落ち込みのスピードアップのはじまりにすぎない。

「コウモリ君」がどんな運命になるのかは、児童のほうがしっている。

トランプ政権は、中国と経済戦争をおこなっているというけれど、これには上述のように民主党も乗っているから事実上の「新冷戦」だ。
なのに、同盟国のわが国が「裏切っている」けどなにもいわないのはなぜか?

ふつうにかんがえれば「泳がしている」のか、あるいは、「呆れている」のかのどちらかで、「泳がしている」のなら「鉄槌」が、「呆れている」なら「絶交」がやってくる。

このままでは、どうにもならない不幸がわが国にやってくる。
最悪をかんがえないわるい癖がわが国エリートの伝統だから、そのときにどんな「パニック」を見せつけられても、国民の不幸が改善されることはない。

戦争の世紀だった20世紀よりも、真綿でくびをしめられる悲惨な世紀になりそうな気配がぷんぷんしている。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。