統治能力が強大な政府を持つ不幸

どこまで落ちるのかがわからない。
「崩落」とも、逆に「噴火」ともいえる、日本政府の大暴走がはじまった。

西村康稔経済財政担当相の発言は、その象徴であるし、「無観客」オリンピックという「史上初」に歓喜しているひともいる。
もちろん、「コロナ対策」の「大失敗」は、新型コロナウィルスの「存在」に疑問を呈して途中修正できず、政府の「無謬性」に固執した結果である。

ネットにはスペインの研究グループが発表した、「コロナの正体」が拡散された。
陰謀論という言い方で「陰謀論」を語る向きがいるけれど、こうした「説」に対する「反論」も、科学の土俵で行ってもらいたい。

この正体とは、「酸化グラフェン」という化学物質によるもので、ぜんぜん「ウィルス」とは関係ない。
むしろ、この研究グループも、「新型コロナウィルス」の「特定も分離」もいまだに誰も成功しておらず、いわゆる、「コッホ4原則」の前半二つをぜんぜん満たしていないことを強調している。

そこで、彼らは、「コロナウィルスは存在しない」という「仮設」からすれば、とたんに不思議物質に変化する「ワクチン」の成分分析をしたのである。
「抗体」を人体内部の免疫で生成させるのが、「ワクチン」の働きなのだから、ワクチンの成分が「ウィルスの正体」でなければならない。

ここから得た結果が、「酸化グラフェン」なのである。

詳しくは、こちら↓

なお、ユーチューブではなくて、ランブルという自由プラットフォームに投稿されているのでご確認を。

人体に「酸化グラフェン」を入れるための方策として、
・不織布製マスクから呼吸によって
・PCR検査キットの検査棒接触によって
・ワクチンの主成分によって
の三つが挙げられている。

これによって、次のことと合致する。
・当初「無意味」と発表したのに覆したWHOは、世界にマスク着用を促し、各国政府が反論もなくすぐさま同調したこと。
・流行初期からWHOは、診断にPCR検査キットを使うように指示を出し、各国政府保健・衛生当局や医師たちの反論もなくすぐさま同調したこと。
・ワクチン接種後の重篤な異変あるいは死亡についての「例」を、「酸化グラフェン」を原因とすれば関連性が認められること。

ちなみに、わが国立感染症研究所は、あろうことか、ウレタン製のマスクよりも不織布製マスクを推奨し、酸化グラフェンを国民に吸い込ませるための片棒を担いだのである。

研究結果の内容として、
・酸化グラフェンは、血液凝固を促すので、「血栓」を生成するということがある。
・酸化グラフェンには、免疫系を変質させる「効果」がある。
・酸化グラフェンが肺に蓄積すると、肺炎の原因となる。
・酸化グラフェンは、粘膜に炎症を起こして味覚と嗅覚を奪い、あるいは、金属味をだす。
・酸化グラフェンは、生体内で強力な磁気特性を持つようになる。
・酸化グラフェンは、体内の「グルタチオン」で「抗酸化(中和)」されるが、グルタチオンは子どもが多く持っており、65歳以上では急激に減少する。
・グルタチオンは、アルコール(飲酒)によって増加する。

これらの研究成果が、「正しい」とすれば、政府及び政治家も「予防」を装いながら「流行を促進」させていることがわかる。
「グルタチオン」があるために、若年層の発症がなかったこともわかるし、飲食店だけの営業規制と飲酒を禁止したい理由とも合致する。

なお、次世代通信規格の「5G」との関連性にも触れていて、生体内での強力な磁気特性を得るためには、5G電波の周波数が関与しているという。
いってみれば、体内で電子レンジのような効果が起きている、ということだ。

そこで、なぜ「武漢発祥」なのかといえば、この都市が「世界初の5Gパイロット実験都市」だったからだという。

「5G電波」の危険性については、オランダなどで「禁止」されたように、人体への影響が懸念されてはいたが、まさか、という状況になっている。
通信機器問題もあって、わが国は5Gを通り越して「6G」の研究を開始しているが、どうなることか。

そして、何よりも重要なのが、「エセ・パンデミック」を起こした理由と、誰だ?という問題がある。
理由は、人口減少と世界共産化(全体主義化)という。
誰?については、ビッグテック系の創業大富豪や当該企業だともいう。これで「5G」ともつながるのである。

そんな中、英国で「秘密文書」がリークされたと話題になっている。
https://archive.vn/UuoeI#selection-225.0-225.18
なお、この記事の伏線は、BBCも昨年4月24日に報じていた。
https://www.bbc.com/news/technology-52409893

英国「保守党」政権にしてこの体たらくなのだから、わが日本政府は推して知るべしか。
民主主義は、民衆が優秀でないと成立しないことを実験しているかのようでもある。

英国で、もし「第二次名誉革命」が起きるなら、わが国民も乗っていい。

「兵庫9区」はどうする?

西村康稔(にしむらやすとし)経済財政担当相の地元である。
明石市、淡路市、洲本市、南あわじ市が小選挙区で、比例区は近畿ブロックがあたる。

最近のこのひとの発言は、本性にある、「強権」という牙をむき出しにして、国民に襲いかかっていると話題になっている。
かなりのバッシングがあったので、飲食店に酒類を提供している卸や小売店に、融資をさせない、といった暴言はさすがに撤回された。

しかし、どうも、飲食店に酒類を販売しないようにという、「要請」の名のもとの「命令」は、やる気のようで、与党からも疑問の声があるばかりか、「議員辞職」という四文字が出てきた。
「大臣辞任」ではない。

こうした「強権発動」に世論が反発しているのは、「健全」ともいえる。

だが、反応が遅い。
そもそも、どうして「経済財政担当相」が「コロナ対策担当」になったのか?
更にいえば、財務大臣がいるのに、どうして経済財政担当相が必要なのか?

このことは、厚生労働大臣がいるのに、コロナ対策担当大臣とワクチン大臣(本職は行政改革担当)がいることの不思議にもなっていて、なんだか知らないうちに、大臣が増えている。
たとえば、スポーツ庁長官がいるのに、「五輪担当相」とかもいる。

そして、なんといっても、これらの担当大臣の言い分に「エビデンスがない」という共通がある。

すると、「省」なりの役所が存在する大臣は、役人が提供する「エビデンス」に基づくけれど、「無任所」ながら大臣になったら、「エビデンス」を無視していいという独自ルールが、安倍内閣以来できたのだろうか?

西村氏も、河野氏も、見事な「暴走」をしているのである。

9月には総選挙をやらないと「いけない」状況にあるけれど、放置しても10月には「任期切れ」となるから、この秋は絶対に選挙がある。
こないだの「都議会議員選挙」では、中央政府の与党が過半数をとることができなかった。

現政権は、民主党(革命)政権から再登場した「旧体制」であったから、日本版アンシャンレジームとなって久しいのが「今」である。
それが、制度疲労による自己崩壊寸前にあるのは、「近代政党」としての「自浄力」が最初から「ない」からだ。

つまり、このブログで何度も書いてきたが、わが国の公党(国会議員を出している)たる政党に、近代政党がないことの国民の悲劇なのである。
あえていえば、公明党と共産党が近代政党といえなくもない。
ただし、これら二党が犬猿の仲の理由である、それぞれの思想の本質が全体主義であるために、「党内選挙」がないという欠陥がある。

西村氏は、無所属で出馬して、現職の自民党議員を破って初当選した。
その後、自民党議員となって、元職で元自民党所属議員を連続して降した経歴で、現在6期目である。
ちなみに、元職は比例当選もしていたが、いまはそれもない。

これぞ、自民党アンシャンレジームの申し子なのである。
「勝てば官軍負ければ賊軍」とはいうけれど、「民主主義」を最高の価値におく政党ならば、「党員による予備選挙」は必須の条件である。
自民党にはこの発想も、やる気もない。

手順としては、経産官僚を退職した時点で、西村氏は自民党の党員にならないといけない。
党員になるための条件も満たさないといけないのは当然だ。
そして、地元支部のなかでの「予備選挙」に出馬して、勝者となってはじめて「公認候補」となるのが「近代政党」のやり方だ。

これができない。
「小選挙区」になったから、自民党候補を複数出すわけにもいかないから、権利がある現職と、挑戦者たる西村氏が「本戦」で激突したのだ。
そして、勝った方が自民党所属になるという不思議。

大騒ぎしてつくった「選挙制度改革」(中選挙区制からの変更)は、政党の近代化を促進させる効果は微塵もなく、それを意図したものでもなかった。
むしろ、国民に「近代政党」を教えない、という了解が各政党とマスコミの間であったのではないかと疑うのである。

さらに、アンシャンレジームに都合のいい、「比例当選」なるインチキも作った。
選挙区で落ちたひとが、どうして復活するのか?
民意は「落選」なのだ。

こうして考えると、兵庫9区「だけでなく」兵庫県を超えた「近畿ブロック」とは、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県であって、昨年9月現在の有権者数は、17,159,657人もいて、当選枠は28人だ。

さてどうしたものかを考えれば、やっぱり「地元」の「判断」が基本であろう。
今度の選挙は、これまでにない「勝負」が、国民の側にかかっている。

その意味で、アンシャンレジーム政党を選ぶわけにはいかないのである。

人間を信用しないシステム

人間は間違いを犯す動物なので、「ヒューマン・エラーを防止する」ための方策を考えるとき、「人間を信用しないシステム」を基本思想にする。
そのために、やたら機械的になることは否めない。
それで、その機械的な手順を「面倒くさい」と考えるのが、また人間なので、決められた手順を無視して事故を起こすのも人間となる。

すると、人間に「面倒くさい」と思わせないか、思っても「別の抑止力」が働いて、手順どおりの行動を選択させるということまであらかじめ考えておかないといけない、ということになる。

面倒くさいと思わせない方法には、「追い込み漁」のように、そうしなければいけない状態に追い込む方法がある。
たとえば、食品工場での「衛生エリア」へ踏み入れるとき、消毒液の浅いプールを数歩だけ歩いて超えるほどの長さを確保することがある。

こうして、靴を消毒しないとエリア内に入れないようにして、さらに、エリア内専用の靴に履き替えることも義務化すれば、小学校以来の「上履き」を玄関の下駄箱エリアで履き替えた「訓練」の有り難さがわかる。

もっとも、消毒液のプールも放置すれば、消毒効果が落ちて汚染されるので、こちらを自動的に廃棄し、新しい消毒液の注入をすればよいことになる。
新しい消毒液のタンクが空だと意味がないので、これも自動点検できるようにする。

こうして、「連鎖の体系」ができるのだ。

だから、どこかの機能が不全になると、「体系全体」が不全になる可能性も高くなる。
それで、その体系を維持するためのチェックが必要になる、ということがあって、どこまでも続く感じがする。

一方で、「別の抑止力」で効果的なのが、「教育・訓練」である。
この場合、「教育⇒訓練」という意味であって、「教育」と「訓練」といった切り離した話ではないし、「⇒」のように順番がある。
よくやる方法が、「座学⇒実地訓練」だ。

座学の場面では、とくに「必要性」の「納得」が重要で、ただやったという「アリバイ」はどうでもいい。
その手順を必要とするのは、どういうことで、どういった危険に見舞われるのかということの「納得」だ。

1999年だから、「前世紀」(もうおおむかしになる)、JCO東海事業所で、「臨界事故」が起きた。
有名な、濃縮ウランを「バケツ」で搬入するということで、妙に有名になった「事故」だった。

「核」を扱う専門の会社での事故は、なんだか難しい装置やら配管とかのひび割れか?とかと想像したものが、「バケツ」から取りだした液を漏斗でパイプに入れるという、驚くほどの「手作業」だったから「驚いた」のである。

そして、そのこと「だけ」が「ニュース」になった。

このニュースの受け手にも、重大な問題があったのは、「臨界」がどういう状態をいうのかをわからなかったことである。
それは、重度の被ばくをした当の作業に従事したひとたちも知らなかったにちがいない。

でなければ、濃縮ウランをバケツに入れる指示を出したひとに、おそろしく噛みつくにちがいない。
ならば、バケツでやれといったひとも、「臨界」をしらなかったことになる。

すると、ここでは「無知の連鎖」が起きていたのだ。

しかも、マニュアル化されていた。
監督官庁にとって「幸い」だったのは、その「マニュアル」を見ていなかった、という間抜けさが、知らぬ存ぜぬを通すことができたからである。
その後の、自動車会社による30年間もの「検査不正」と、よく似ている。

省庁は、縦割りだけれど、仕組みは「横の連携」がとれている。

そんなわけで、悪いのは「会社」という「当然」のことになって、誰かが辞任すればよいことになる。
でも、死者まで出たので、会社の責任は軽いはずはない。それを動かしているひとたちの責任は、なんだか軽いのである。

こんなことから、無責任がはびこる。

4度目の緊急事態宣言が、だんだんと「政治ショー」の本質を露わにしてきた。
たまたま、都議選の間は、感染者数が少なかったのだ、と、ウィルスが「意思」を持っているようでもある。

オリンピックはやるけど、花火大会はやらない。

これも、人間を信用しないシステムとして一貫性がある。

肩こりと眼精疲労

自分がなってみないと分からないものに、「痛み」がある。
「心の痛み」と「体の痛み」があるけれど、ここでの話は「体の痛み」だ。
しかも、「肩こり」と「眼精疲労」である。
目の奥が痛い。

こんなこと、めったにならずに人生をやってきたので、「慢性」のひとからしたら、何を今さらといわれそうだが、いつまでも「止まない」というのは「拷問」的である。

原因はわかっている。
「執筆作業」のための、「無理な姿勢」と「モニターの見過ぎ」だ。
気分を変えようと、自宅から出て、電源カフェに行ったのはいいけれど、机の高さが低いのに、タブレットにかぶり付いてみていて、一発で発症した。

それでも、締切りがあるからモニターとのにらめっこは続けないといけない。
それで、「回復期」を先延ばししている。いや、それどころか、悪化しているのである。

これも、「老化」のために起きたのだろうか?

こうした「痛み」の不快は、だんだんとイライラが積もってくる。
世にいる「不機嫌な老人」の不機嫌さは、こんなところにも原因があるのだろうか?とふと思った。
そう思ったら、なんとかしないといけない。

それで、様々な妄想をはじめた。

この痛みの原因の根底には、執筆作業がある。
いまでは、ペンと原稿用紙ではなくて、パソコンが欠かせないのだけれど、執筆専用パソコンがない。
まてよ、執筆専用パソコンとは、「ワープロ専用機」のことではないか。

わが国では、そのむかし、パソコンよりも「ワープロ全盛期」という時代があった。
各メーカーが、各メーカー毎の規格で作っていたから、機種間の互換性までなかった「初期」すらあった。

結局、印刷して、紙に赤ペンをいれたものだ。

次世代の機種も自社の「シリーズ」を購入させようと、独自規格にこだわって、自滅していったメーカーも多かった。
利用者は、そんなメーカーの「姑息」を見ぬいていたのである。
あえていえば、規格を無料公開したビデオデッキの「VHSの成功」を「別物」として考えていたのだろう。

「データの互換性」は、ユーザーからしたら、「生産性」に直結したのだ。
それで、だんだんと「統一規格」に向いていったら、ソフト(今なら「アプリ」)によって、なんにでも用途変更に対応できるパソコンの進化と、アプリの進化で、ワープロ専用機がうたかたの夢のように世の中から消え去った。

そしていま、パソコンとその周辺機器の進化は、また一つのハードルをクリアしそうである。
「ウインドウズ11」が、秋にもリリースされるというし、アップルの「マック」では、昨年末に画期的な「M1チップ搭載」でバッテリーの持ちと相まって驚異的な高性能化に成功した。

動画の編集や書き込みを、一般人が家庭でやるようになって、それをネットに公開しては「稼ぐ」という働き方もうまれた。
その上での、画期的な動作を保証する高速処理機器の発達には、なるほどと思わせるものがあるけれど、もっと「アナログ」な「執筆という作業」を主とするわたしには、ぜんぜん別の世界の話なのである。

逆に、そんなトレンドのおかげて、「肩こり」と「眼精疲労」を発症したのだと思ったら、なんだか「イラつく」のである。
つまり、わたしのようなニーズに対する「発達」はないのか?
なんだか、一人で時代に取り置かれるような気分になってくるのである。

いや、そんなことはない。
おおいに困っているひとたちがいるはずだ。

そんなわけで、こんなワープロ専用機が欲しい。
・モバイルに耐えられる
・画面は目に優しい「e-インク」で、A4縦型あるいは、文字の拡大表示:詳細モニターは字が小さくて目に悪い
・キーボードは、HHK(ハッピーハッキングキーボード)同等:薄型でペチペチの打鍵感はユーザーの「パソコン入力」を舐めている
・日本語変換辞書に、類義語大シソーラス相当:国語辞典では足りない
・自動校正は当然
・フリー書式だけでなく、かゆいところに手が届く豊富なテンプレート:LaTeXモードもあっていい

むかしなら、日本メーカーが「世に問う」といった気概満点の「発明品」が数多く「新発売」されて、敗れ去っても「これでもか」とやっていた。
いまは、「売れないリスクを恐れる」文系社内官僚が「責任回避」を最優先させるから、変な提案でもして「人事」から睨まれたら元も子もないと殻にこもる技術者が萎縮して、不要な多機能をまだやっている。

良くも悪くも、挑戦的なのは中華系のメーカーになってしまった。
そのむかし、週末の羽田や成田が背広組で混雑したのは、韓国便に搭乗する技術者たちの「開発アルバイト」だった。
それから、中国便になってしまった。

こうした飛行機は、「やりがい」を乗せていたのである。

はてさて、いま手に入る「eインク13.3インチのセカンドモニター」は、10万円強、HHKが3万円。
この部材だけで、新品の高速パソコンが購入できる。

肩こりと眼精疲労が嵩じて、頭痛と吐き気がしそうである。
この原因は、「心の痛み」なのだと思う。

「サンマーメン」考

ラーメン好きならご存じのはずの「サンマーメン」は、「横浜名物」からいつの間にか「神奈川(県)名物」になっている。
「県」が入るのは、「県の予算」でキャンペーンをやるからである。
もちろん、「県内で」ということになっている。

ここが「間抜け感」にあふれるのだ。

県民が知らないとでも思っているなら、ぜんぜん「県の名物」ではない。
県外でキャンペーンをやる手間と気力がないから、県内でやるのは、単に「内弁慶」だと白状している。

県民は、こんな予算を通過させる、県知事と県議会の無能を悔やむばかりとなる。

いわゆる、「ふつうの醤油ラーメン」に、「あんかけにした肉野菜炒め」が乗っている麺料理のことで、魚の秋刀魚(サンマ)が鎮座ましているわけではない。

その勢いある中華鍋での炒め方が、まるで生きている馬のよう(生き馬:「サンマー」と発音する)だ、という説があるけど、これも定かではないらしい。
とにかく、横浜では「サンマーメン」というメニューがない街中華の店はない。

しかしながら、「ラーメン」とメニューにあっても、その中身と味はそれぞれのお店によってちがうので、さまざまな「評価」がわかれるのとおなじで、「サンマーメン」も店によって微妙にことなる。
ベースが「醤油味」ではなくて、「塩味」の店もある。

子どものときから、ふつうにあったので、多摩川を越えて大学に通ったとき、東京の街中華に「サンマーメン」がないことに生まれて初めて気がついた。
メニューになくても作ってくれるほど、当たり前感があったので、そのまま注文して、「なんですか?それ」といわれたときの衝撃は、全く予期せぬことがあると知る人生の初となった。

たまたまこのとき同席した同級生も、(東北)地方出身者であったから、焼いたサンマがラーメンの上に乗っているとしか想像できず、店主と一緒に「なにそれ?」といったのである。
こちらは、世の中にはふつうに存在すると思い込んでいたから、まったくの出会い頭による「文明の衝突」だったのである。

肉野菜炒めのあんかけラーメンのことです、といったら、店主が「ああ、あんかけ麺ね」と返してきたので、ぜんぜんちがうメニューに変えた。
ちょっと教えたくなくなったのである。

ずいぶん前に「花こんにゃく」について書いた。
これも、大正時代に横浜で発明された逸品で、こんにゃくに「でんぷん」を加えて作る。

ふつうのこんにゃくの弾力とはちがって、でんぷんがある分、歯が入るのである。
こんにゃくと「なると」の中間のような感じのもので、わが家の「おでん」の定番中の定番だ。

おとなになって、銀座のおでん屋(驚くほど高価)に行ったとき、「サンマーメン」のショックとおなじ経験をした。
連れて行ってくれた先輩と店の親方が同時に、「花こんにゃく?なにそれ」と声を上げたのである。

しまった、花こんにゃくまでもが横浜の「変わり種」あつかいだったとは。
それでもって、ハマっ子の矜持として、東京人にわざわざ教える義理もないから、あっさりと話題を変えた。

東海道でいうと、サンマーメンはすでに多摩川を越えていて、旧「品川宿」があった京浜急行の北品川駅にある街中華では「確認済み」である。
最近では、荒川をも越えて埼玉県入りしたも聞く。

西に向かっていえば、やはり東海道で、JR富士駅前商店街の街中華で「確認済み」である。
うわさによると、富士川ばかりか大井川を越えたと聞いている。
なかなかに、「確認済み」にならないのが、今後のわたしの人生の課題になっている。

しかしながら、「足元」だって重要だ。

横浜市を西に越えるのは、江ノ島に流れ込む「境川」が「境」になっている。
境川の最下流は藤沢市だが、横浜市と藤沢市の境は、やや上流となる。

駅でいえば小田急江ノ島線湘南台には、藤沢駅に本店を構えて、いまや「藤沢市民のソウルフード」ともいわれる伝統の街中華の支店がある。
そして、この店の「名物」が、「サンマーメン」なのだ。

とりあえず、食べずにはいられない。
出てきたのは、意外にも見た目はトラディショナルなサンマーメンである。

しかし、食べてみて少しだけ違和感があるのは、「あん」がスープに浸透していないことだ。
スープ側からいえば、ぜんぜん「ドロドロ感」がなく、あっさりサラサラのスープが最後までつづく。

これは微妙に評価が分かれるところだろう。
おなじ国道沿いには、元なのか今もなのか八百屋さんがやっている街中華があって、こちらは野菜のボリュームで人気の「タンメン」があるけども、「サンマーメン」も劣らない。

「麺料理」としてみれば、前述に一票、「生き馬の荒っぽさがある」のが、後述といえる。

なにせ、「横浜名物」から「神奈川(県)名物」に勢力を拡大しているのが、「サンマーメン」で、もはや関東・東海圏すらにも点在する状態だ。

ならば、「サンマーメンの専門家」なるひとが、自らの健康を顧みず、「全店制覇」をできるものか?
その前に、「地図にプロット」するだけでも、えらいことである。

理科で「唯物論」を教える

「理科教育」に政治イデオロギーが入り込む余地なんてあるはずがない、という間違いは、ただの間違いではなくて、重大な間違いである。

日本人の宗教観は、かなり特殊だから、『聖書』でつながる世界三大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)とか、インドのヒンズー教、それに儒教と道教(この6つの宗教で世界人口の5割以上をカバーする)などとはぜんぜんちがう。
しかも、ふだんの生活に宗教があるのかないのかも曖昧なのだ。

イスラム文明を土台に発展したヨーロッパ文明の歴史をみれば、文明をささえる技術力の発展に「科学史」という視点は欠かせない。
わが国で、その科学史の第一人者といえば、村上陽一郎氏になる。
村上氏の著作には、かならず「驚き」の記述がある。

『科学の現在を問う』(2000)は、もう20年以上も前の本になるけれど、だからといって決して色あせるどころか、昨今のコロナ問題にもつながる貴重な情報にあふれている。

科学も人間の営みのなかにある。

それだから、キリスト教が支配した時代のひとたちは、科学と神(=キリスト教)を切り離して考えることをしなかったし、する必要もなかった。
つまりは、「神の与えし法則」が科学だったのである。

これには、前に書いた「リベラルアーツ」がある。

それは、ヨーロッパの「大学」こそ、「神学」とは切っても切り離すことはできないことの現れだし、現在のイスラム社会だって、たとえば、西暦970年設立で世界最古の大学として知られるカイロにある「アズハル大学」は、いまだに「最高峰」の「(スンニ派)イスラム神学部」が健在なのだ。

ちなみに、カイロといえば「国立カイロ大学」が有名だけど、知る人ぞ知る「イスラム圏の真のエリート」とは、アズハル大学神学部を出た、「イスラム法官」なのであって、「近代」を教えるカイロ大学ではないのである。
彼らは、わが国の「民法」にあたる、「イスラム法」による裁判所の裁判官となる資格を得る。

しかし、わが国最初の「東京大学」(いまの東京大学とは場所は同じでも位置づけがちがう)に、「神学部」はなかったし、神学が中心のあちらの大学にあってもっとも遅い設立の「理学部」が、東京大学には最初からあった。

だから、わが国が世界の中心にある、とする「日本型中華思想」と、「東大神話」によれば、外国の首都名が入った大学を、「◯◯国の東大」などと表現して、おおくの日本人に「誤解」をさせているから「罪深い」のだ。

日本人のだれが見ても「総合大学」の「最高峰」である、わが国最高(難易度)学府たる「東大」に、「日本的宗教学部」がない、という事実こそが、わが国近代の建設にあたっての「突貫工事」のために、「切り離した(あるいは棄てた)」もの・ことの象徴なのである。

そんなわけで、「宗教性=神秘」は、「学問」とはならない、というおよそ人類の歴史を無視するかのような態度は、エントロピーのように「拡散」して、一方で「廃仏毀釈」と「皇国史観」となり、一方で「日本教」という新しい「密教」を作り出した。

そうやって、人為的に作り出した「発明品」が、「占領」という事態になって、排除(=全否定)されたから、残ったものは「西洋のカス」ばかりとなって今に至るのだ。
その「カス」のなかでも、もっとも「腐っている」ものが「唯物論」である。

村上博士は独白する。
それは、高等学校のカリキュラム改定にあたって、「理科Ⅰ」が設立されるときの「慣性の法則」にまつわる、博士自身の「執筆」エピソードだ。

原文:
「物体はいろいろな運動状態にあります。静止している、あるいは運動している。慣性というのは、そうした物体の持つ性質であって、外から力が加わらない限り、今の運動状態を続けようとする性質のことを言います」

この一文が、教科書出版会社の社内審査で、「理科の本質が判っていない」と言われたという。
博士は、どこがダメか判らなかった、と。

博士に社内担当者がしたダメの解説:
原文にある、「今の運動状態を続けようとする」の主語は、「物体」である。それが受けている動詞は「続けようとする」で、その中の「う」は、意志を表す助動詞だ。
「物体」が「意志」を持つとは、ともすれば子供たちが抱きがちな「非科学的」な考え方で、理科教育の目的の一つは、そうした非科学的な考え方を子供たちの頭から追い出すことにある。

修正文:
「今の運動状態を続ける傾向を持つ」

おわかりだろうか?

博士は続ける。
ならばニュートンは「科学者失格」だ。
なぜなら、彼は「万有引力」は、神の意志がそこに働いているために機能していると考えたからである。

また、デカルトも、「もの」と「こころ」の二元論を提案し、少なくとも人間に関しては、その存在の本質を「こころ」に置いた。
「我思う、故に我あり」とは、そのことを主張している、のだと。

すなわち、18世紀の「啓蒙主義」は、「ほとんど必然的に、既存の知識体系を唯物論的傾向へと転向させることになった」と博士は指摘している。
そして、「科学は知識のなかから非唯物論的要素、あるいは心的要素をそぎ落とすことを、自己の責務とした」。

わたしたちは、こういう世界で生きている。

外国から批難される日本

「よい子」でいたいだけなのに、どうしてこんなに批難されるのか?

元日本人の岩里政男(李登輝)氏は生前、(自分と同じ)むかしの日本人には「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」の区別がちゃんとあって、家の玄関から先にある世間のことは「公」を優先させるのが当たり前だと考えていたが、いま(戦後)の日本人は、「私」を優先させることに重きをおくようになった、と述懐していた。

だから、なりたい「よい子」とは、「公」からみての「よい子」ではなくて、「私」からの「よい子」になる。
その端的ないいまわしは、いまどきの子どもを諭すときの「他人に迷惑をかけなければ、なにをしても自由だ」に集約できる。

この言いかたの問題点は、最初の「仮定」にある。
「他人に迷惑をかけなければ」の、意味だ。
つまり、他人が迷惑とおもうかおもわないかを、他人からみた他人である自分が決めていることになる。

これを、「唯我独尊」だといって、なんだか「お釈迦様」と同格になるずうずうしさまでが「おまけ」になってまとわりついている。

個人の巨大な集合体が国家になるし、個人の「気分」が官庁や政治家に伝染するのは、官僚も政治家も「国民の一部」であるからで、むしろ、都合がよい「気分」なら、率先して採用することが、より「国民への奉仕」感を高める効果を発揮することを熟知している。

そんなわけで、一部のひとたちの都合に合わせた政策や施策が、なんだか「国益」のように一般人にもみえてくるのは、「よいこと」しかマスコミが宣伝しないからである。

本来の「IT化」とか「情報化」なら、既存マスコミに対抗するはずの「ネットの力」があったはずだけれども、肝心の「プラットフォーム提供会社」が、自分たちの都合を優先させる「検閲」実施の事態となって、だれもが予想した「未来の民主主義」が、一気に「全体主義」へと変貌しようとしている。

もちろん、わが国の「伝統」には、外国からの強制を伴う「大転換」がある。
「黒船来航」と、「占領時代」という二大転換が、すっかり民族の「トラウマ」になって定着している。

黒船は1853年のことで、占領時代とは1945年から52年までの7年間をいう。
すると、黒船来航から99年後にわが国は占領時代という「国家改造期間」を終えたことになる。

なので、1952年を起点にすれば、2051年が99年後ということになるから、あと30年(一世代)は、「よい子」でいる時代を続けようと努力することになるかもしれない。
ただし、その運命は「破綻」なのであるけれど。

こんな「体制」はおかしいのではないか?
「公」を重視する立場のとっくに小数派は、忸怩たる思いでいる。
それでも世は「私」を重視するひとたちの天下なのだ。

そこへもってきて、昨日(2日)、立て続けに二本のニュースが外国からやってきた。

先ずは「おフランス」(AFP)から、新疆ウイグル自治区における少数民族の強制労働で人権を侵害し「暴利を得ている」として、日本の「ユニクロ」現地法人、米スケッチャーズ、仏SMCP、スペインのインディテックス4社への検察による捜査が始まったという。

次は、アメリカ合衆国(ワシントン共同)からで、1日、国務省が発表した「人身売買報告書」に、わが国の「技能実習」が指摘されたとある。
つまり、「奴隷の疑い」を、あろうことか「奴隷制度」をめぐって内戦までやったアメリカから指摘されたのだ。

実際に、この「制度」で入国した「実習生たち」は、実習期間中に「脱走」して行方不明になっている者が多数いて、およそ年間7000人にのぼるという。
何年もやっているから、万人規模の「不法移民」が日本のどこかに住んでいる。

一部の実態を伝える「ルポ」もあるけど、(他に情報がないから)これをそのまま信じれば、本人たちのパスポートは、実習受け入れの日本人が「保管」することになっているので、たとえ「脱走」しても帰国どころか第三国の外国に移動することもできない。

パスポートという最高レベルの身分証明書を所持しないで、わが国で(潜伏)生活するとはどういう方法があるのだろうか?
犯罪組織の臭いがプンプンする。
政権交代によって、大問題化したアメリカ・メキシコ国境の「混乱」とおなじ状況がひそかにうまれている。

もちろん、「制度」をつくって「運用」しているのは、政府だ。
だから、アメリカ政府からの指摘は政府を直撃する。
一方で、おフランスの検察捜査は、民間企業に対するものだ。
「嫌疑の重さ」という点で、はるかに政府の方が重いけど、だからといって「民間だから軽い」というものでもない。

さらに、「ユニクロだけ」ということもなく、ネットにはさまざまな有名企業の名前がそのままに、「一覧表」で表示もしている。

日本だから「正義」なのだ、ということがいえなくなったのは、次元が高すぎる「文明国」から、改造によって低くて卑しい次元の文明国に落とされた「改造の成果」なのである。

だから、いまのわが国の「エリート」こそ、「卑しいひとたち」だと断定して差し支えない。
そのひとたちに、黙って従う一般人は、「ふつうに卑しい」といえる。

この二本のニュースが、爆発的な反応にならないのがその証拠なのである。
明治・大正期だったら、次元が高いために怒った国民による対象企業の「打ち壊し」が起きるはずと思われるからである。

「官僚たち」の正しさ

むかし、日本興業銀行(興銀)というエリート集団がいた。
おなじ業界(いわゆる「銀行業界」ではない)には、日本長期信用銀行(長銀)と、日本債券信用銀行(日債銀)という会社もあったけど、ぜんぶ潰れた。

興銀には東大卒、長銀には京大卒が多数いて、とくに業界筆頭の興銀は、「東大にあらずんば人にあらず」という、まるで「平家」のような「社風」にまみれていた。
なので、いつ、どんなことを理由として滅亡するのか?と思っていたら、バブルの泡に露と消えた。

でも、興銀のなかのひとたちは、興銀が潰れるときは日本経済が潰れるときだ、とおもっていたので、自分たちは「絶対安泰」だと信じていた。
つまり、これぞ「エリート(選民)意識」の塊だった。

しかし、「バブル経済の崩壊」とは、「日本経済の崩壊」であったので、彼らがいうことは「正しく」て、それで自分たちも潰れた。
それから、「銀行再編(このときの「銀行」とは、「市中銀行」)」になって、あろうことかずっと見下していた富士銀行と第一勧業銀行に合併させられた。

わが国の商業銀行は、渋沢栄一が設立した「第一国立銀行(その後「第一銀行」)」をもって始まりとする。
「国立」が名前についていたのは、「発券機能」があったからである。
つまり、「お札を刷れた」のだ。

いろんな意味で「統制」が強化されている香港には、お札を刷っている銀行が二つある。
「自由経済」なら、もっとたくさんのお札を刷っている銀行があっていいけど、たいがいは「国家」がこれを独占して、配下の中央銀行にやらせている。

その点で曖昧なのがアメリカ合衆国で、「連邦準備銀行」という「民間事業者」たちが、各地で「ドル紙幣」を印刷している。
本当は発行元がちがうのに、印刷するお札のデザインはまったく同じ、という奇妙なことをやっているのだ。

そんなわけで、天下の興銀も、大蔵省銀行局には逆らえず、東京都の金庫番だった富士銀行と、ただデカくて宝くじをやっている第一勧業銀行とに吸収させられたのであった。

想像するに、なかのひとたちは、おそらくこの逆で、自分たちが富士銀行と第一勧業銀行を合併したのだ、と思い込んで威張っているのだろう。
これが、「システム問題」になって、いつまでたっても解決できないことの根源なのである。

しかしながら、上にも書いたように、東大の同級生だった「大蔵省銀行局」にはかなわない。
じつは、「同級生」といっても、「学年だけ」のことで、かたや「経済学部」かたや「法学部」ということになっている。

もちろん、「東大経済学部」で習う「経済学」とは、基本的に「マルクスのそれ」だから、世界の「実経済」を相手にしたら、ぜんぜん役に立たない。
それに、「東大法学部」で習う「法学」も、基本的に「マルクスのそれ」だから、国民に「奉仕する」のではなくて、あくまでも「統治する」ための方法になる。

なんだ、それなら「興銀マン」の自負とは、井の中の蛙そのものではないか?といえば、まったく正しい。
しかも、「ゆでガエル」なのだから、やっぱり「平家」なのである。

東大受験で「平家」のことを暗記したのは、どんな人物と年代「だけ」だったのか?源氏に負けたのは、戦闘力のちがい「だけ」だと思っているやもしれない。

このことは、「法学部」だって同じなのだけど、大蔵省に入れば、もっと強大で巨大な「井の中」に入り込む。
一般的にこれを、「タコツボ」という。

そんなわけで、若くして官僚を途中で辞めるばかりか、最近では、そもそも応募しない、という現象があるのは「希望の光」となっている。
「優秀な人材」は、価値生産的(=クリエイティブ)な職につくことが、経済の繁栄の役に立つ。

価値「非」生産の典型が、いわゆる「民間部門」に対する「政府部門」であるから、政府が巨大化することは、そのまま国家の衰退を意味する。

わが日本政府も、とうとう牙をむきだして国民を支配する方針を露わにしている。
たとえば、昨夜(23時59分)に締め切られた、「ワクチン・パスポートに関するパブリックコメント募集」だって、何人の国民が知っていたものか?

こっそり募集して、アリバイをとりたい。

こんな姑息な方法を、東大法学部のだれが教えているのか?
それとも、受験テクニックで習得するものなのか?

情報化社会にあって、政府がパブリックコメントを募集していることを知らない国民が悪い、という理屈なのだ。
ただし、「政府広報」という「撒き餌」にむらがるマスコミは、「募集中」だということを一切報じない。

さてそれで、政府の官僚たちが「正しい」のは、「国民はバカだ」という一点にある。
この一点にも気づかないでいるから、「国民はバカ」なのだ。
だから、どんなふうに痛めつけてやるか?をかんがえるのが楽しいのだろう。

もはや、日本国憲法なんて関係ない。

国民からの命令である、憲法を無視する態度の一般化は、国民国家の終わりである。
わが国は、すでに「人民共和国」に移行して、「官僚たち」による集団指導体制が完成した。

ここには、「政権党」たる政党すら無用なのである。
選挙がむなしい理由でもある。

パソコン選びの沼

いまさらパソコンを買うという事態になったとき、はたして、「新品」か「中古」かという選択肢がふつうになってきた。
これに、「ウインドウズPC」か「Mac」か、あるいは「Linux」かという横糸がからむので、すぐさま複雑怪奇なことになる。

こないだ、「ウインドウズ」のマイクロソフトから、今年の秋に「ウインドウズ11」がリリースされると発表された。
あれれ?「ウインドウズ10」をだすときに、「最後のウインドウズ」といっていなかったか?

「ウインドウズ11」へのアップグレードには、現在のパソコンのスペック上でのクリア・ポイントがあって、あんがいと新品のパソコンでもこれを満たしていないとアップグレードはできないから、けっこうな数のパソコンが「淘汰」されることになると予想される。

でも、「ウインドウズ10」をそのまま使いつづける選択もあるから、例によって「商業主義」による「買い換えの煽り」が、はげしく生じるだろうとも予想される。

リモート・ワークの一般化という背景で、パソコンといっても家に設置するなら、同スペックで割高のノート・パソコンではなくて、デスク・トップ型に別売りモニターやカメラを接続するのも「あり」になった。
逆に、外出先での需要が減って、ノート・パソコンである必要がなくなったともいえる。

でも、家の中での移動とかもあるから、わたしの場合はノート・パソコンが検討の対象になる。
ただし、古いノート・パソコンにモニターを接続してデスク・トップのように使っているし、もう一台の新品も横に置いて、あたかも「2画面」のようにしている。

キーボードとマウスは、おなじ無線LANで接続されたウインドウズPCならば、マイクロソフトが無料提供している「Mouse without Borders」というソフトを使えば共通で使用できる。
それで、外出するときには、新しい方の端末だけを電源から切り離して持ち歩いている。

いろいろと検討して購入したはずでも、使ってみてからわかる「問題」があるものだ。

第一の問題は、モニターにある。
むかしのノート・パソコンは、縦横比が3:2だったけど、いつの間にか19:9が主流になって、最近19:10になってきた。
「ワイド」なのであるけれど、文章を作成するという点では、両横が空白になるムダがあるばかりか、スクロール頻度があがるのである。

第二の問題は、見た目ではなく、触らないとわからない「キーボード」の打鍵感である。
もっとも重要なポイントだけど、あまりにも打ちにくいのがふつうになったのでキーボードまで持ち歩くはめになる。

むかしなら、CPUの処理速度やら、メモリー容量やらが分かりやすい比較検討ポイントだったけど、いまは技術の進歩で、動画や画像処理をしないなら、ほとんど気にする必要がなくなった。
これが、「中古」でもじゅうぶんに選択肢になる理由だ。

さらに第三の問題をいえば、USB端子などの「拡張性」についての「拡張性のなさ」があげられる。
最新のものほど、「USB-C」しかないのだ。
これでは、困る。

ただし、USB-Cが「パワーデリバリー対応」であると、重くてかさばる「専用」電源アダプターではなくて、スマホなどと共用できる充電器がつかえるので、「そこそこの中古」が望ましい。

こうやって検討すると、帯に短し襷に長し状態の機種ばかりで、「これ!」というものがない。
「わざとか?」とメーカーを疑いたくなるのは、「完全」をつくってはいけない、という業界内の協定でもあるのか?ともおもえるからである。

デスク・トップ型ならば、「自作」という選択もあって、好きにパーツを選べるし、完成後の改造もできる。
狭いなかにパーツを埋め込む必要があるから、独自の設計になるノート・パソコンはそうはいかない。

最近、パナソニックが、ビジネス・ノート・パソコンの「最高峰」をうたう「レッツノート」シリーズに、新モデルを投入したと話題になった。
14インチのそれは、「これだ!」と思わせる「完成度」だとお見受けした。

レッツノートは、3台愛用した。
どれも満足度は高かったけど、価格も高い。
今度のモデルは、エントリーモデルで20万円の半ばからだ。
いまどきの「ふつう」なら、5万円で新品が手に入る。

「沼」の最後は、値段であった。
あぁ、悩ましい。

ということで、今使っているものをしばらく使うことにした。

さまざまな「宇宙飛来説」

一般国民における「科学万能」という錯覚が、錯覚ではなかったのは原爆や水爆の被害によるショックが、「平和利用」に変換されてでたきれいなイメージのものだったからである。

しかし、ジョージ・オーウェルが示したように、ダブル・スタンダードでは、「戦争は平和である」という概念をヒントにすれば、「平和」とは、戦争がない状態をいうのではなくて、「戦争と戦争の間の期間」をいう。

もちろん、クラウゼビッツの「外交の延長に戦争がある」という考えの根拠は、外交も戦争にふくまれるから、外交官とは背広を着た戦闘員のことをいう。
これを忠実に実行しているのが、隣のアジアの大国である。

しかしながら、民主主義の仕組みが機能する国では、外交をするのが外交官で、戦闘をするのが兵士だという概念よりも、こうしたひとたちを後押しする、国民の意識がもっとも重要となる。

だから、民主主義とは、高度に知的訓練された国民・大衆が存在しないと成り立たない。
さすれば、国民の後押しが外交政策を活発化するからである。

この逆が、独裁政権である。
なので、国民をいかにして「愚民化」するかが、政権維持の重大なテーマになる。
政権のいいなり、という「奴隷化」こそが、安定をつくるからである。

戦時中の五人組がやらされた「竹槍訓練」を、戦闘機や爆撃機相手に意味がないとバカにするのは簡単だけど、「民意」を集結するという意味では重大な意味がある。

そんなわけで、科学が純粋科学で、科学者が学者バカの時代はまだしも、とっくに国家が科学をコントロールする仕組みができて、科学がきれいな世界ではなくなった。

英・米の2ヵ国がいまだに政治的にも世界に君臨できるのは、その「基礎研究」の「分厚さ」があるからだ、という指摘は的をついている。
わが国では、もっぱら「応用研究」が主流で基礎研究が貧弱なのは、基礎研究を「許されない」からである。

すなわち、戦勝国たちから「許されない」。

国際連合発足時の「国際連合憲章」にある、「敵国条項」は、ちゃんと機能しているのである。

そんなわけで、戦前のわが国のような「世界的発見」が出ないのは、基礎研究ができないことの裏返しになっている。
このことは、「新説」だけでなく、「珍説」もないことでわかる。

宇宙空間とはどうなっているのか?
だんだんと、人類には永遠にわからないことがわかってきた。
われわれは、3次元に生きているけど、どうやら宇宙は10次元でできていることが「数式上で」見えてきた。

上の次元を超えて目視することは、不可能だ。
「点」だけでできている1次元の住民は、「線」になった2次元を認識できない。
でも、「線」の世界の住民には、「点」の世界がみてとれる。

われわれは、「立体」の空間に生きているけど、「時間」という次元を超えられない。
もしや「神」は、4次元の存在なのか?それとも10次元?
向こうからは我々を見えるけど、こちらからは無理である。

洗剤の「泡」の1個が、われわれの「大宇宙」だとすれば、宇宙の数が何個あるのかも目視することはできない。
だから、「宇宙飛来説」の対象となる「飛来物」が、この宇宙の中からか、それとも別の宇宙からなのか?ということも、考慮の対象になるからややこしい。

もっとも不思議な対象として、身近にあるのは「トウモロコシ」だ。
南アメリカ大陸が原産のこの植物は、南アメリカ大陸に「しか」なかったので、最初に運ばれたのは「ヨーロッパ」だった。

アフリカで発生した人類が辿った路で、もっとも遠方なのが南アメリカ大陸だ。
人類はユーラシア大陸を東に移動・拡散して、ベーリング海が大陸とつながっていた時代に北アメリカ大陸に入って、それから南下したとかんがえられている。

アフリカから西に移動して、大西洋を渡ったのではない。

そして、南アメリカ大陸の住民たちとヨーロッパ人が不幸な出会いを果たした。
そこで、かれらの主食だったトウモロコシも「発見」された。

ほとんどの植物に進化の過程があって、遺伝子研究を経て「原種」が決まる。
しかしながら、トウモロコシには原種がない。
どんなに調べても、いきなりいまのトウモロコシがあることが「発見」された。

それで、「宇宙飛来説」となったのである。

もうひとつが、インフルエンザ・ウィルスだ。
こちらは「極地」に降り注ぐという「説」である。
「ウィルス」は、自己増殖ができないので、「生物ではない」と定義されている。

真空の宇宙空間に持っていっても、ウィルスは「死なない」。
最初から「生きていない」からだけど、「宿主」があればさっそくに機能する。
ならば、トウモロコシは?

ついでにいえば、ポップコーンがどうしてできるかも、ようやく最近になってわかったものだ。
仕組みをしらないで、じゅうぶんに活用していることがあんがいとあるものなのだ。