お祝いならまだ早い

バイデン氏の勝利宣言があった。

なんとも気のはやいひとたちが、国家の首脳をやっている。
はてな?なのが、同盟国筆頭格のイギリスやカナダの首相の反応が速かったことだ。
わが日本国首相や韓国大統領は、「祝電」ではなく、「Twitter」で祝意を表明するという「コウモリ君」の慎重さをあらわにしたのが印象的である。

こういう小手先の姑息なことを、わが外務官僚は胸を張って首相にアドバイスして、韓国はこれをまねっこする。
国際儀礼にのっとれば、「電報」をもってするのが外交のしきたりだ。
けだし、判断はあくまでも発信する本人であるから、逃げられない。

張陽さんという北京大学を卒業してから、博士号取得のために東北大学にやってきて、初めて「武士道」に感化され、わが国に帰化したひとがいる。
いまは、東北大学情報科学研究科の助教で、専門は応用経済学だ。

彼の知見は、しっかり中国古典にも通じているから、これも日本国内で学んだとかんがえられる。
文革以降、あちらの国で自国の古典を教えているはずがないからである。
武士道研究に付随して、儒学も習得したにちがいない。

5千円札になった新渡戸稲造の名著、『武士道』は、はじめから英語で書かれた本である。
これを、日本人は、新渡戸以外の日本人による翻訳で読んでいた。
著作にあたって、夫人のメリー(邦名で萬里)が添削したと記録がある。

執筆動機は、欧米化の波によって浸食され滅びゆく日本文化を、外国人に記録として残そうと試みた、一種の悲痛だとの解釈もある。
外国ならちゃんと「保存」してくれる、との読みがあったからであろう、と。
同様に、岡倉天心『茶の本』と、内村鑑三『代表的日本人』がある。

わたしはこれを、明治三部作と呼んでいる。

結局のところ、彼らの「読み」はまったく正しく、この三部作を残していてくれなかったら、日本人はかつての日本文化の価値を、まったく顧みることなく、いまごろは完全に忘れ去って、漫然と生きていることになったろう。

前にも書いたが、旧日本人だった、故岩里政男(李登輝)氏による、『武士道解題』は、文学者ではなく、偉大なる武士の政治家として実績を残した人物によるものだから、これはもう比較しようのない傑作なのである。

それで、武士の精神をもって、近年の歴代アメリカ合衆国大統領を眺めれば、いま苦境にあるトランプ氏の政策が、民主主義の手本だったということがわかる。
なぜなら、彼は、前回の、つまり彼にとって人生最初の選挙で掲げた、「公約」を、なんと「すべて」この4年間で実行したからである。

これは、尋常なことではない。

アメリカ人の生き様として、手本になっていたのは、ベンジャミン・フランクリンの『自伝』である。
ここには、「正直」と「勤勉」という徳が説かれている。
トランプ氏の業績は、フランクリン自伝の影響を強く受けた人物(典型的アメリカ人)だから、ビジネスでも成功したのだとわかるのである。

そんな典型的アメリカ人は、愚直さを好む。
「日の丸」をイメージした、映画『レッドサン』(1971年)は、日本ではイマイチだったけど、外国人には受けたのだった。
三船が選んだ監督は、『007』のテレンス・ヤングだ。

これを観れば、トランプ氏が安倍氏に一目置いた理由がわかるのである。

さて、大統領に誰が決まるのか?
はっきりいって、バイデン氏ではないとかんがえる。

すっきりしない選挙だったけど、ここで日本的な「選挙結果」を主張してもはじまらない。
それは、ありえない「不正選挙」だということでわかる。
日本でこんな不正があったら、どうなるのか?

それこそ、だれもかんがえたこともないだろう。
それが、起きている。

正直者のトランプ氏がいう、誰が勝つかよりも、公正さが重要だ、というのは当然すぎる主張だ。
しかも、彼は、まだ「現職」なのである。

すでに、複数の「内部告発」まで出てきて、これを取材しているジャーナリストが、「証拠がない」といって取材もしないでいる大手マスコミを批判している。
その「証拠」を探して暴くのがマスコミの使命である、と。

アメリカに在住の、中華系のひとびとが声を上げてきたのは、自由がない母国のことを熟知しているからである。
一度失うと、その後どうなるのか?をしっている。
ものすごい危機感なのだ。

これは、自由が空気のように当然のアメリカ人には、かえって想像できないかもしれない。

張陽さんの心配もここにある。

わたしには、スターウォーズのエピソード3「シスの復讐」で、すっかりいいもんのはずの「パルパティーン最高議長」が、なんと、シスの「暗黒卿ダース・シディアス」だったという「オチ」が、バイデン氏に見えて仕方ない。

なんだか、全部がマンガチックなのだけれど、現実がまさに、「暗黒」の民主党との全面戦争になっている。
投票日前のバイデン氏やハリス氏の、演説会もやらない妙な余裕と、なにがあっても新大統領はバイデン氏だともらしたペロシ氏の言葉があった。

これは、まさにバイデン氏が、いつものいい間違えだと解釈され失笑を買った、「我々は不正選挙の体制を構築している」は、まさに、パルパティーン最高議長が本音を漏らした瞬間だったのだ。

とうとう、邪悪と正義の決戦となってきた。

武士道精神のわが日本は、「邪悪を憎む」として、決着がつくまで見守る、といってこそなのだ。

祝電はまだ早い。

きれいな瀬戸内を汚す法律

高度成長期、公害が社会問題になっていた1973年に制定されたのが「瀬戸内海環境保全特別措置法」である。

子どものころ、「赤潮」が大量に発生して、広島の牡蠣の被害がずいぶんとニュースになっていた記憶がある。
流通網がいまのようになっていなかった当時、横浜のわが家では、生牡蠣を食べることなんかほとんどなく、せいぜい鍋やフライだったのは、母が好物ではなかったからだろうか?なぜか記憶に薄い。

「水俣病」や「イタイイタイ病」もあったし、関西では関東で珍しかった「米ぬか油」のPCB汚染もあった。
静岡県の田子の浦のヘドロ問題とかも報じられたけど、わたしの地元に流れる帷子(かたびら)川が「日本一」汚いと認定されて、悪魔的な子どもの間では「自慢」だったこともある。

上流の捺染工場からの色彩豊かな水とか、化学工場の排水やらで、なんともいえない鼻腔にまとわりつくようなケミカルな臭いがあった。
よどんだ流れを眺めれば、あめんぼうが水面を駈けているのかと勘違いするほど、メタンかなにかのガスが湧いていたりもしたものだ。

それから、工場群が移転して、浄化がすすんだ。
しらないうちに魚が棲むようになって、カモメも飛来したし、あの有名なゴマ・アザラシの「タマちゃん」もやってきた。
それでも、人間がこの川で泳ぐまでには至っていないから、適度に汚染されたままでいる。

わたしが初めて瀬戸内海をみたのは、中学校の修学旅行で岡山に行ったときである。
岡山、倉敷、奈良、京都という豪華さで、横浜市の中学校では初めての岡山県入りが記念されて、駅前の空き地(いまはJTBの支店ビル)で、ミス岡山から花束をいただいた。

宿泊したホテルは海に面していて、夜になって窓からは湖とおぼしき静かな波打ちが見えたけど、飛沫がやけに光って見えたのをじっと観察していたら、それが小魚の大群だったので驚いたものだ。
江ノ島の海岸では、こうはいかない。

瀬戸内海にだけ適用する、冒頭の法律があったことはしらなかった。
ところが、こんど、地域を指定して、「汚染させる」ことを狙った法律に改正するというから、驚いた。

きれいになりすぎて、海苔や魚が獲れなくなった、という。
漁業者には深刻な、海水の栄養不足が原因だという。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」とも、「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」が妙に連想される、人間のムダあがきがある。

イスラエルとヨルダンの国境に、「死海」がある。
むかし、一人旅してここで泳いだことがある。
泳ぐなら、真水シャワーがある有料の施設にするようにいわれたのは、日本の海とは塩分濃度がちがうから、あがる度にその都度ちゃんと真水で洗い落とさないと全身がヒリヒリすると忠告された。

どんな姿勢でも浮いてしまうのは、強烈な塩分濃度(31.5%で通常の海水の8倍)のために比重が重く浮力が高まるからでもあったが、およそ生物が棲息できる濃度も超えているので、ものすごく透明度が高いのである。
つまり、人間の目にはきれいなのだ。

すると、瀬戸内海は、塩分濃度ではなくて、栄養不足という過剰で「死海」となったのだ。
不足が過剰とは、みごとな「人工」のたまものである。

死海の塩は自然のたまものではあるけれど、近所の地中海の海面から400mほども「低い」ので、この差をつかった「発電計画」があった。
死海が薄まることが、どういう意味をもつのか?という議論もあったけど、入れた水をどうやって排水するのかが問題となってやめたと記憶している。

じつは、死海がある場所は、陸地の「標高」として世界で最低のくぼみなのだ。
東京やオランダのゼロメートル地帯どころではない。

人間のかんがえることは、ことごとく浅はかだ、というのが神をたたえる聖書のいうところであるから、聖書のふるさとでもあるこの地域で、死海の環境破壊になる発電が中止になったのは幸いである。

すると、瀬戸内海で起きたことはなんなのだ?
日本人が日本人として、自然崇拝してきた自然を、日本人が破壊したということである。
いまの、隣の大国を笑えない。

ではいったい「自然」とはなんなのか?

これが難しい。
たとえば、「手つかずの自然」といったとき、それは「原生林」のことなのか?それとも、「耕作放棄地」のことなのか?
「美しい自然」といったとき、「耕作放棄地」を指すことはほとんどない。

ヨーロッパ最大の原生林、「ビャウォヴィエジャの森」では、ヤツバキクイムシの侵入に対抗する名目で、ポーランド政府環境大臣が伐採を許可し、これが環境団体と揉めていて、EUはポーランド政府に罰金を課した。

瀬戸内海に話を戻すと、どんな状態が瀬戸内海の「あるべき自然」なのか?が、自然に任せることではないからややこしい。
ただキレイにしたら、それではすまない。
では、そのキレイとは、誰にとってのキレイだったのか?

なんだか、源平時代のひとたちに、どんな海だったかを聞いてみたくなった。

バイデン氏優勢で株価が上がる

「ニューヨーク・ダウ」と「日経平均」のことである。

投票日以後、日経平均株価は今年の最高どころか29年ぶりの高値をつけた。
バイデン政権になれば、対中強硬策が弛む、という期待が数字になっているのだろう。
トランプ氏の「訴訟戦略」を、悪あがきと市場はとらえている、という記事報道もみられるからである。

一方、ニューヨーク・ダウも上げている。
こちらは、単純な読みではなく、あんがい複雑だ。
日本人が軽視して気にしない、「議会」がやっぱり「ねじれ」たままで、下院は「民主党」、上院が「共和党」に変化はなさそうだが、まさかの下院も「共和党」だってありうる状況だから目が離せない。

これを、「好感」している。

大統領選挙での票の「伸び」やらに疑念があるけど、議会選挙は「予想通り」というよりは、民主党の敗北に近い。
下院の議席は、民主党が減らしているからである。
つまり、大統領選挙との連関が「変」なのである。

事前のバイデン氏圧勝という話が、ギリギリになった上に、議会選挙では負けている。
有権者の投票行動として、大統領は民主党に、地元の上・下院議員には共和党を入れるものか?ということである。

このことはさておき、ダウ株価の複雑さは、アメリカ上院に独特の権限があるからだ。
・大統領指名人事の承認
・条約の批准 
この二点は、下院に権限はない。

また、正副大統領、連邦公務員に対する「弾劾」にあたっては、下院が「訴追決議」をして、上院が「裁判所」となって「判決」をくだす。
昨年のトランプ大統領弾劾は、下院で訴追されたけど、上院は相手にしなかった。

わが国の衆議院(下院)優先ということも、アメリカ連邦議会にはなく、上記の上院権限のほかは、両院とも「対等」である。
予算を含む各種法案も、両院の可決がないと成立しないのだ。
だから、アメリカ上院の大統領職に対する「監視」は、強力に作用する。

なお、上院議長は副大統領が兼務する。
上院議員は、各州2人で50州だから全部で100人。
もし、賛成と反対が50ずつで半数となったら上院議員ではない、議長の副大統領の票で決まる仕組みになっている。
だから、野党の安定多数には52議席の確保が必要だ。

そんなわけで、二期目のオバマ政権が機能不全だったのは、中間選挙における上院の惨敗で、共和党が安定多数を占めたからだった。
すなわち、バイデン政権となっても、「機能不全」は確実なのだ。
なんとこれが、株価を支えている理由なのである。

政権が思うに任せないことを、株式市場が期待している。

このことをしっておかないと、あたかもバイデン政権の成立を市場が好感していると勘違いしてしまうし、おそらくマスコミもこれを誘導するだろう。

つまり、日米の株価同時上昇の理由が、ぜんぜんちがうのである。

これは、冷静にかんがえれば当然で、共和党トランプ政権の経済政策は、「減税」と「規制緩和」を二本柱に、「絶好調」を現出させたし、コロナ禍にあっての第3四半期は、先週書いたように空前の成長率を達成した。

アメリカ経済という視点でいえば、こうした政策と「真逆」である民主党バイデン候補が主張した、「増税」と「規制強化」がなにをもたらすかは、火を見るよりも明らかだし、実質の大統領になる、副大統領候補のカマラ・ハリス氏は、計画経済を行う意欲にあふれている。

そんなわけで、アメリカの景気減速は、本来ならわが国経済を直撃するから、一大事なはずなのに、株価はこれに反応しないばかりか、むしろ正反対の反応として「大幅な値上がり」になったのだ。
このことは、わが国経済のアメリカからの「離反」を示している。

大丈夫なのか?

もちろん、わたしは「熱狂的親米派」ではない。
むしろ、これまでの人生で、アメリカ合衆国の領土に入ったことがない。
厳密にいえば、独立記念日の祭典で、横浜の米軍基地に行ったことは幼児期に二度あるけれど。

逆に、お隣のアジアの大国への「依存」ばかりが、「へつらい」に映って見えるのである。
バイデン氏も、おなじく「へつらう」だろうと予測できるのは、バイデン氏一家の所業を見ればわかることである。

これが、デカップリングからの反転になれば、日本学術会議が禁止した分野の研究だって、やっぱり「禁止」が正しいことにもなる。
すなわち、「売国」が正当化されるのだ。

すると、コウモリ君の菅政権が放った、方向ちがいの矢が、一本、ド真ん中を射抜いたこともわかる。
2050年までの温暖化ガス・ゼロは、アメリカ民主党政権との共同歩調と、お隣がいう「電気自動車への全面転換」とを同時に当てるスゴ技だったのである。

しかし、相手の「魔弾」は、次元のちがう空間を飛んでくる。
台湾と尖閣、それに南シナ海である。

わが国の生命線が遮断されることを喜ぶ、愚民がわが国の経済人なのであった。

ブルー・ステートの共産化

今回の大統領選挙でもはっきりしたのは、北アメリカ大陸の両岸、東海岸と西海岸が、青い民主党の牙城だったということだ。
これらの地域とは、どういう地域なのか?
海があるから、外国との貿易が盛んな場所になる。

外国貿易には、国際決済がつきものなので、そこには当然、国際金融機能がないと成り立たない。
だから、自然と「グローバル」な発想になるのである。

いまはなき「文部省唱歌」といわれた分野の歌に、『海』がある。

海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国

まさに、「ゆれてどこまで続くやら」、「行ってみたいな よその国」とは、グローバルへの萌芽であり発露である。
森林太郎(鴎外)作詞の、「横浜市歌」は、その格調高さゆえ横浜市民の愛唱歌であって、市民なら「君が代」をしらなくてもこの歌はしっている。

わが日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連りそばだつ島々なれば
あらゆる国より舟こそ通え

されば港の数多かれど
この横浜にまさるあらめや
むかし思えば とま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ

今はもも舟もも千舟
泊るところぞ見よや
果なく栄えて行くらんみ代を
飾る宝も入りくる港

まさに、「グローバル賛歌」なのである。

横浜港の銀行といえば、かつての横浜正金銀行、いまの横浜銀行で、ずっと大蔵省のエライひとが天下っては「頭取」になる銀行であった。
地銀にして実力は都市銀行といわれたのは、地銀になったこと自体が「変だった」からである。

たとえば、シベリア出兵で兵以外の日本人が6千人以上暮らしていた、ウラジオストック支店とか、ハワイ支店もあったからである。ただし、このころのウラジオストックは日本領だった。
ちなみに、ウラジオストックあたりの極東ロシアの食卓には、赤いキャップのキッコーマン醤油がいまだに欠かせないのである。

子どものころから、他人と競争してきて、受験戦争というものの勝者がなるのが、「高級役人」だから、発想が攻撃的になる。
彼らの勝ったか負けたか、とは、自分の企画が通ったか否認されたかによって判断する。

それで、さまざまな「ねじりこみ」をする。
これが、政治家の開発利権と結合してできたのが、「全国一律」という発想である。

一方で、こうした「ねじりこみ」をしないのが、「自然体」を理想とする、「合気道」だ。
武道のなかにあって、唯一「試合がない」というのは、世界でも類例がない。ようは、勝ち負けがない。

これが、本来の「自由主義」の発想である。
この「自由主義」の自由は、自由放任の自由ではなく、誰からも命令されない「自由」をいう。
よって、自己責任を伴うのである。

誰かから命じられたことで、自己責任をとらされるのでは論理がおかしい。

こうした発想は、海があるかないかではないけれど、変化に乏しい内陸部に保存される傾向がある。
なぜかというと、海があると、内陸部より速く変化にさらされて、うまくすれば発展も速いからである。

そんなわけで、速く発展し、富が蓄積する好条件に見舞われるので、海がある地域では貧富の差が広がるようにみえるのである。
それが、横浜にもあって、山の手地区とドヤ街が、目視できる近所に並立するのである。

そうやって、政府による富の分配が社会正義になれば、社会主義が受け入れやすい環境となる。
長く、横浜市政が日本社会党によって行われた根拠でもある。

こうした地域が、もっとはっきりと巨大に現出しているのが、アメリカ合衆国の両沿岸地域なのだろう。これが、「民主党」の基盤である。
それで、取り残された内陸部が、「自由」をモットーとする共和党の地域になっている。

なお、アメリカの自由には、上述の自由と、強固かつ基本に「信教の自由」があることがわが国とのおおきなちがいである。

合衆国国旗にある、赤と青のラインにあるように、共和党は「赤」を、民主党は「青」をシンボルカラーにしている。
「ブルー・ステート」は、富の分配が社会正義だとする「州」なのである。
そのための政策は、わが国の「自民党」に近い。

むしろ、戦前、戦中、戦後の占領時代、一貫して20年も続いたのが、アメリカ民主党政権だったから、自民党の基礎がこれに倣ったといった方がよいのだけれども、民主党極左よりも過激なのが日本の自民党になった。
アメリカ人には、とっくに日本が共産国にみえるにちがいない。

この意味で、ふだん自民党の政策に文句をつけるマスコミが、アメリカ大統領選挙では、こぞって民主党を応援する「偏向」をみせたのはいったいどういうことか?

しかし、副大統領候補のカマラ・ハリス氏が選挙演説で物議をかもしたのは、「共産主義を礼賛した」からであった。
そもそも、彼女自身大統領選挙の民主党予備選で敗退したのは、その「極左」としての主張が、党員にも忌避されたからだった。

東洋の大国からの資金援助疑惑もあるなか、「ブルー・ステート」の民主党支持は揺らぎなく強固だった。
これは、将来、「ブルー・ステートの共産化」を意味するかもしれない。

南北戦争ならぬ、両岸と内陸の決戦があるかもしれないのである。
そのとき、わが国周辺はどうなっているのか?

わが国があれば、の話である。

次はスイスの国民投票

アメリカ合衆国大統領選挙は、民主主義の守護神のような国で、ありえない「不正」が横行するのだと世界に知らしめた。
投票率が、「200%」という州がある不思議は、ふつうに理解できる数字ではない。

全体主義の国だって、せいぜい「90%台」で発表する。
やっぱり「100%」はありえない、という「常識」がはたらくからだろう。
もちろん、「100%」を超える投票率を自慢する独裁者もいない。

それに、共和党候補の投票用紙が大量に廃棄されているというから、これらを、「正常」として、「勝利宣言」できる神経は、まともではない。
「潔癖」をもってならす日本人なら、勝利側も「再確認の要請」をしないと、人格が疑われて、当選が無効になると承知するだろう。

つまるところ、「勝てば官軍」の究極であって、日本人でも「なった者勝ち」という社内昇格の理不尽に共通した、「邪悪」がある。

予想通りとはいえ、「世界の趨勢を決める」アメリカ合衆国大統領選挙は、場外乱闘の延長戦に突入することは間違いない。
そして、これは線表(ガントチャート)管理でイメージすれば、複数の「線」が走ることになるから、整理しておかないと複雑にみえてわからなくなる。

◎不正票と正当票
・対象となる「州」の特定
 → 激戦州が対象になるのは当然だが、前回の1州から今回は?
・複数の州となったときの裁判所の対応
 → 州内地方裁判所 → 州高裁 → 連邦最高裁
 → 12月14日の「選挙人投票日」に間に合うのか?
 ※ 内閣参与になった元大蔵官僚の高橋洋一氏は、最高裁の事務能力がパンクするおそれを心配している。
 ※ トランプ政権が滑り込ませた、保守派判事の効果もいかに?
 → 間に合わないと、憲法の規定で下院議長が「大統領代行」となる。

◎下院と上院の選挙結果
・下院は今回も民主党が過半数をおさえた
 → 「大統領代行」となった場合は、民主党の下院議長がなる。
・上院は今回も共和党が過半数を維持した
 → 副大統領は、共和党からとなる。
・「外交」に権限をもつのが上院なので、わが国等の外国にとっては引き続き共和党の影響を受ける。

◎バイデン氏一家への捜査
・誰が、いつ逮捕されるのか?
・逮捕容疑は?
 → 息子ハンター氏には、児童虐待容疑もある。
 → 「一家」とすれば、連座するひとたちが多数の、これだけで大スキャンダルである。
 → 外国との不正取引が「売国」という視点で注目される。
 → また、ジョー・バイデン氏本人逮捕の場合は、大統領候補としての欠格事由になる?
 → 「欠格者」となれば、トランプ政権が継続する。
 ※ 最重要な「マター」だ。

◎ウクライナの容疑者指名(上記捜査が国内なのに対して)
・ジョー・バイデン氏は、投票日前にウクライナの裁判所から刑事事件の容疑者としてリストアップされ、ゼレンスキー大統領は、「反逆罪」と明言している。
 → ウクライナ政府は、アメリカ政府に「容疑者引き渡し」を請求するのか?
 ※ その請求を現政権が「棄却」する可能性は?
・昨年、本件でトランプ氏が下院で「弾劾」されたので、真犯人の登場はアメリカ国内でも、「国家反逆罪」の適用はありうる。

つまり、トランプ氏は選挙に負けても、バイデン氏の過去の所業が欠格事由となればいいのである。
そして、バイデン氏は限りなく黒に近い。

ウクライナ疑惑はもう「疑惑」でなくなって、ウクライナの現政府が、「容疑」にしている。
このほかに、外国がからむ「疑惑」は、なんといっても東洋の大国との取引である。

この「疑惑」は、この大国もかんたんに認めないだろうから、当分は「疑惑」のままなのだろうけど、息子のハンター氏のパソコンと、彼とビジネス・パートナーだった人物が証拠と証人になった。
この件には、その筋のプロである、ジュリアーニ元ニューヨーク市長が、強力に取り組んでいる。

今月29日、スイスで行われる国民投票について前に書いた。
これは、「スイスの多国籍企業」が世界で「人権侵害」や「環境破壊」を引き起こした場合、責任追及できる法律の制定の是非を問うものだ。

いま、世界で注目されている、「人権侵害」や「環境破壊」を引き起こしている国とは、ハンター氏を含むバイデン氏一家全員が関与していると「疑われている」国をいう。

それで、「スイスの多国籍企業」とは、高級時計メーカーを指すとはだれもかんがえない。
ふつうに、「スイス銀行」と思えば、「秘密口座」がどうなっているのか?に興味がわくものだ。

バイデン氏一家をつかって、東洋の大国が意図していることとは、政治的支配ということになるだろうから、この大国は、あらゆる手段を用いると想像できる。

その、源泉は、先立つものであるし、この大国を支配するひとたちの「個人資産」がどうなっているのか?を想像すれば、やっぱり強烈な「打撃」となるだろう。

今月末に、スイス人がどんな意思表示をするものか?
日本人としても、注目したい。

マネジメントで『眼下の敵』を観る

1957年度アカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞した作品である。
原作は、英国海軍中佐だった、D・A・レイナーによる同題の小説である。
原作の冒頭に、特に「著者覚え書き」として、「本作は完全な架空」と念押しされている。

第二次大戦を題材にした数ある戦争映画(小説)のなかでも、海戦モノ、しかも、駆逐艦と潜水艦の一騎打ちにおける「知略」を描いた傑作とされ、主役、ロバート・ミッチャムの代表作でもあり、また、ドイツの名優、クルト・ユルゲンスがハリウッドデビューした記念碑的作品でもある。

 

子どものころにテレビの映画劇場番組で、何回か放送された記憶があって映画館で観たことはない。
それが、なぜか突然思い出されたので観直した。

おとなになってこの作品を観る意味は、ストーリーではなく人間心理の「マネジメント」からの視点にある。
戦争における「殺し合い」という、究極の環境にあって、「将」たる人物のとる行動がはっきりと、象徴的に描かれている作品だからである。

勘違いをされては困るのは、「殺し合い」や「戦争」を美化したいのではないことだ。
あくまでも、そのマネジメントの「妙味」をいいたいのである。
こんな上司に出会いたい、こんな上司になってみたい、と思わせる「教科書」でもある。

映画での設定は、原作のイギリス海軍からアメリカ海軍の艦船になっている。
もちろん、「敵」はドイツのUボート。
けれども、よくあるアメリカが正義でドイツが悪だとする「勧善懲悪」の設定になっていない。

海上の米・海中の独どちらも、「板子一枚下は地獄」という、海の常識が前提にあるからリアルなのである。
「将の判断」が間違えば、沈没という全員が戦死の悲惨に見舞われるし、「兵」の担当業務が滞ったり機能不全になっても、それは同じなのである。

これが、「部分」である陸の闘いとはぜんぜんちがう「海」の世界だ。
ビジネスに於いて、会社を船に例えるのが常識なのは、正解である。

ロバート・ミッチャム扮する新米艦長は、自分たちが命を預けるにたる人物なのか?
戦時の人材不足から、なんと彼は商船の三等航海士だった。

対する、クルト・ユルゲンス扮する独軍は、職業軍人とナチスとの軋轢がある。
注目すべきセリフは、第一次大戦の「負けても名誉あり」とする、ドイツ魂の現実との葛藤の告白だ。

これらの条件をもっている両艦長が、どのようにマネジメントし、人心を把握するのか?
そして、人心を掌握した後の両組織が、いかほどの団結をするのか?
もちろん、これが、「戦果」に結集することはいうまでもない。

まったくもって、「現代」の「会社経営」における要諦である。

同じ職場条件で、同じメンバーで、成果が変わる。
これは、冷厳たる事実なのであって、どんな組織でも起きることなのである。

「実話」が元でも「作り話」でも、映画は映画である。
だから、これらの人物たちが、どのような教育を受けて、かくなる人格を得るに至ったのか?については、まったく表現がない。
観客が、想像するしかないのである。

しかし、一方で、そうした説明を要しない、という社会常識が、公開当時の社会にあったとすれば、いかなる変化を社会の方がしたのか?ということになる。

ロンドンの友人からこんな写真が届いた。

わが国なら、東条英機といまの首相を想像すればよいだろう。
いい悪いではなくて、この「軽さ」はなんだ?
ここでなにも懐古趣味をいうつもりはないけれど、大丈夫なのか?ともおもう。

人格を育てる教育が、学校教育に期待できなくなっている「わが国」で、どうするのか?という問題は、けっこう深刻だ。
それは、大学教育にも影響して、経営学が経営をおしえているとはいえない。

「テクニック」に走るからである。
あたかも、会社の数字をよくするには?ということの解答が、「経費削減」で済ませられているように、本質を欠くことにばかり注力して、結果的に目的を果たすことができないがごとくである。

それは、すでに、この映画でのクルト・ユルゲンスのボヤきにも表現されている。
むかしは、潜水艦の艦長は潜望鏡を覗きながら、自らの頭脳で計算し魚雷を発射し獲物を仕留めたものだったが、いまは、潜望鏡のなかの画面に諸元が表示されて、艦長はそれを読み上げるのが仕事になった、と。

第二次大戦中という時代でさえ、これなのだ。

しかし、彼の嘆きは、「マネジメント能力」にはまったく関係なく、むしろ、機械化・自動化の現場だからこそ、より重要度が増しているのである。
これは、現代企業の経営だっておなじである。

沈没直前の艦に残った二人の艦長を、先に退艦した兵がボートで救出する場面では、ドイツ兵と米兵が競って駆け上るのを、引いた画面で写しだしている。
いま、上司や経営者が困難な状況におかれたことをしったとき、自分の部下が命がけで助けてくれるかをかんがえればよい。

人間は、やはり人間なのである。

「アーミッシュ」の選挙運動

元は「ルター派」のひとびとである。

ヨーロッパにおけるキリスト教は、ローマ帝国の東西分裂で、西ローマ帝国にはローマ教会が、東ローマ帝国には東方教会と、教会も分裂した。
分裂後まもなく、西ローマ帝国は滅亡し、ローマ教会は生き残りをかけた戦略を発動する。

それが、宗教的権威(ローマ教会)と、世俗的権力(王権)の分離だった。

一方で、その後も存続した東ローマ帝国では、国家による教会保護がおこなわれて、皮肉にもそれが教会内の分裂を促したため、東方教会は、ローマ教会のような圧倒的中心(教皇)を失っていまに至っている。

しかし、16世紀になって、ドイツにはじまるルターの宗教改革で、新教(プロテスタント)がはじまる。
あの大バッハやメンデルスゾーンなど、ドイツの著名な音楽家はプロテスタントではあるけども、皆このルター派(ルーテル)なのである。

ルターの宗教改革は、その後激烈なカルヴァン派に発展し、複雑な各派の軋轢から逃れたひとたちが新大陸のアメリカに移住した。
そして、敬虔なる信仰生活という生活様式を頑なに守ることでしられるのが、アーミッシュなのである。

このひとたちは、オハイオ州やペンシルベニア州などの中西部に、20万人ほどが暮らしているといわれている。
大統領選挙でいう、激戦州にいるのだ。

しかし、あまりにもその宗教生活が厳格なので、「変わり者」というイメージもある。
いまだに、電気やエンジンをつかった生活をしておらず、自給自足の生活に甘んじている。

宗教的敬虔さを保つために、高等教育は邪魔になるということから、かれらのコミュニティでは、伝統的なペンシルベニア・ドイツ語、英語、算数の3科に限った教育が8年間だけ行われている。
わが国の一律で自由を認めない教育行政ではかんがえられないけど、連邦最高裁において、「独自学校」として認められている。

そんなわけで、アメリカ国内においても特別な存在である彼らは、かつて政治に関与する伝統は一切ない、「隠遁生活」を宗としていたのである。

ここで忘れてならないのは、アメリカ合衆国という国は、そもそもが「宗教国家」だということだ。
プロテスタントの一派である、イギリス清教徒(カルヴァン派)がメイフラワー号でマサチューセッツに移民したのを建国の嚆矢としている。

大統領就任式における、宣誓が、聖書に手を置いて行われるゆえんはここにある。
日本における、「政教分離」とは意味がちがうけど、日本の「政教分離」の意味がちがうのだろう。

現在、アメリカの人口の3分の1は、プロテスタント「福音派」が占めているのだ。
このことを侮ってはいけない。

トランプ氏の選挙集会で定番の、ヴィレッジ・ピープル『Y.M.C.A.』は、ヴィレッジ・ピープルから「かけるな」というクレームを無視しても「かけている」のは、トランプ氏自身も支持母体の共和党保守派も福音派だからである。

つまり、題名通り、キリスト教青年会(Young Men’s Christian Association)の「歌」としているのだ。

ただし、この「歌」の本音は、「ゲイの賛歌」だから、そっち方面からすると「かけるな」という意味が理解できる。
いわゆる、民主党目線から、厳格なキリスト教原理主義を揶揄した歌詞の曲を、あたかも現代的布教に利用するな、ということである。

すると、トランプ氏の選挙集会とは、じつは「ミサ」なのである。
彼は、やんちゃな「牧師」なのだ。
いや、あたらしい宗教的指導者でもある。

新約聖書「コリントの信徒への手紙」15章52節、「テサロニケの信徒への手紙」4章16節に、日本語訳では「ラッパ」と表現されている箇所がある。
これが、英語版では「trump」なのである。

どうやら、「trumpet」(トランペット)のことらしい。
そういえば、日本人が思いつくカードゲームの「トランプ」を、どうして「トランプ」というのか不明なのである。
ふつう、「cards」(カード)という。

さてそれで、アーミッシュが、上述の聖書の記述からトランプ氏を「救世主」であると認定した。
彼らは、移民してこのかた300年、政治への不参加を貫いてきたのに、とうとうその「禁を破った」のである。

ネット大手が「検閲」の疑いで、それぞれの責任者が上院に呼び出されたけれど、ユーチューブにはこのことが削除されずにしっかりでているのは「幸い」の、まさに「福音」である。

トランプ支持の旗を掲げて馬車や牛にまたがっての大行進を、地元民がバイクで護衛している。
これは、建国以来の大事件なのである。

日本では文化の日の今日、わが国伝統文化の喪失を偲ぶしかない。

昨夜のテレ東、『YOUは何しに日本へ?』では、漢字に魅せられた外国人が、「方言漢字」という特定地域に生まれてその地域だけで使われている「字を探す」話題があった。
「間に合ってよかった」とは、古い公図で発見した役場職員のことばである。

その価値は、失ってからではわからなくなる。
しかし、日常の価値も、わかっていない。
だから、保存もできない。
果たしていま、われわれは、文化的な生活をしているのだろうか?

「ニューヨークの賢人」現る

「スライスされたパンが発明されて以来、トランプ氏は最高の人物だ」

こう発言したのは、ニューヨークで期日前投票を済ませた黒人男性である。
動画投稿されて、570万回再生されているところでトランプ大統領が自らリツイートした。

このひとは、顔を隠さずに発言している。
大丈夫なのか?とおもわず心配せずにいられないのは、トランプ支持を表明したひとが襲われたり、脅迫されたりしているとの報道が相次いでいるからである。

これをもって、「隠れトランプ支持者」という見えない集団の存在が注目され、選挙における伝統的な調査が行き詰まってしまった。
前回の大統領選挙では、投票所での出口調査でも、「隠れトランプ支持者」は、いま自分が投票したひとを明かさないか、「ヒラリー」と答えたから、開票後あっという間に、ヒラリー氏当確のニュースが報道された。

ところが、現実はまったく違う結果となったので、大手左派マスコミはその信頼性に傷がついた。

このときすでに、偏向報道に辟易としていた有権者たちが、報道機関のワンパターン調査に対抗して、間違った報道をするように「誘導していた」というから、大衆はバカではない。

前回、トランプ氏当選を予測した調査会社は、伝統的手法を用いなかったことで有名になった。
選挙人の数までピシャリと当てたのは、トラファルガー・グループが唯一だったといわれている。

彼らは、「隠れトランプ」の比重を重視したけれど、本心を明かさない、というこのひとびとを相手にどうやってこれを明らかにしたのか?
そこで、かんがえた質問が、

「あなたの隣人はだれに投票すると思いますか?」だった。

ふつうの質問、「あなたはだれに投票しますか?」では、「隠れトランプ」をあぶり出せない。
そして、住宅地図上に一軒一軒の回答を書き込んで分析したのだ。
もちろん、彼らは今回もこの方法を用いている。

すると大手メディアが用いる、主たる調査会社の調査結果を単純集計した「平均値」とは、やっぱりぜんぜん違う結果になっている。
よくいわれている、「バイデン氏のリード」とは裏腹に、今回も、「トランプ氏逆転リード」なのである。

これは、個人の「細分化」の結果でもある。
すなわち、大衆という「平均値」が使えなくなったのは、固まった職業(産業)についていて、固まった世論があった時代から、個々人がそれぞれの仕事につく方向へ変化したということだ。

しかも、たいへん重要な、有権者の関心度合いの調査結果がほとんど報道されない、ということも事件的な問題だ。
だれに投票するか?は結果の行動である。
自分に関心があるテーマに適合した人物だと、評価・判断することが、有権者の投票行動になる。

今回の大統領選挙における、アメリカ人が最も重要視している関心事のトップは、「法と秩序」なのである。
次が、「経済」、そして、3番目にすぎないのが「コロナ対策」だ。

このことが、日本における報道でも軽視されているのは、日本の選挙における報道でも、国民の関心事が軽視されるからだろう。
当落と党勢(獲得議席数)にしか話題を振らない。
政策論争なき選挙とは、いったいなにを選ばされているのか?

まさに、全体主義体制における選挙となっていないか?
この体制では、選挙は、「確認」と「権威付け」のためにだけ行われる。
そして、これをもって、「民意だ」と決めつけるのである。

トランプ氏は、黒人とヒスパニックの支持率が、歴代共和党候補で、「最高値」をつけている。過去最高は、12%だった。
いま黒人有権者の支持率は5割弱、これは、前回の8%から5倍以上だし、ヒスパニックの伸び率も著しい。

メキシコの「壁」によって、合法的に移民してきたヒスパニックのひとたちは、生活をささえるいまの職業を、あらたにやってくるだろう不法なひとたちから守られている、とかんがえている。
壁をつくった、トランプ氏は「合法的移民」を否定してはいないのだ。

10月28日、ミシガン州フリント市におけるペンス副大統領の集会で、同市議会副議長が演壇に立ち、自らの経歴を語った。
驚くことに、黒人の彼は、民主党支持を64年間してきたが、今回は共和党を支持すると明言し、会場の喝采を得ていた。

この理由が、暴走するBLMを民主党が支持したことだという。
彼は、BLMとは、ただ暴動を起こしてコミュニティ破壊を目的にしているのだと批難した。
つまり、「法と秩序」が、まっとうな黒人層の支持を得ているのである。

分断を生みだし、分断によって既存秩序を破壊した先にあるものはなにか?

このことに気づいたひとは、賢人である。
「5G」のヤバさとは、あらゆる物品のIT化のことである。
これでいかほどの個人情報が収集でき、それを自由に使える者のメリットとはなにか?

「法と秩序」と、「5G阻止」は連結しており、それは賢者によって見破られたのである。

米大統領選挙調査の重要質問

今日から11月。
アメリカ合衆国大統領選挙の投票日まで、日本時間であと3日になってきた。
今後の世界の趨勢を、いやがおうにも決めるのだから、目が離せない。

前にも書いたが、大統領選挙とは、日本風にいえば、「衆参ダブル総選挙」なのである。
アメリカ連邦下院(=衆議院)は、任期2年で「解散がない」から、大統領選挙と同時に全員が任期切れの改選となるし、上院(=参議院)は、2年ごとに3分の1が改選されるからである。

多くの報道は、誰が大統領になるのか?だけになっている。
これは、あちらは、二大政党制なので、当選する大統領が所属する政党の議員も一緒に有利な得票になるとかんがえられているからだ。

4年前、前回の大統領選挙で、「おおハズレ」をかまして「大恥」をかいた、伝統ある調査会社の、「ギャラップ調査」には、二期目の再選を目指す大統領候補がいるときに、「必ずする質問」がある。
それが、

あなたの生活は4年前に比べてどうなりましたか?

である。
この質問が絶妙なのは、アメリカ合衆国大統は「二期まで最長八年しか職務に就けない」ので、再選を目指す大統領候補がいるというのは、誰も「実績」をしらないでいたときとの比較を促すことにある。そして、大統領を支える議会(政党)の評価も、同時に質問しているのである。

だから、この質問で、「良くなった」という答が多い場合は、再選される可能性が高くなるとかんがえられている。
そのラインはこの40年間で、ざっと「40%」が当確基準のようになっている。
つまり、回答者の4割が、良くなったと思わないと再選されないのだ。

残念ながら、わが国でこの質問ができるのは、衆議院だけになる。
ただし、わが国の衆議院任期は4年だが、この間にいつ「解散」があるかはわからない。
だから、定期的観測はできない。

また、参議院も3年で半数が改選されるので、「ダブル選挙」になるかならないかは微妙だ。
これは、ある意味、議会がブームに流されることを防ぐことにはなるけども、逆にいえば国民の意志が国会で「ぼやける」原因でもある。

安倍内閣が長かったから、前回の選挙がいつだったか記憶がはっきりしない。
前回は、平成29(2017)年9月だった。

さて、この3年あまりで読者のみなさんの暮らしは、「良くなった」でしょうか?

ついでに、民主党から政権を奪回した第二次安倍内閣の発足は、平成24(2012)年12月だった。
この8年あまりを思い出して、暮らしは、「良くなった」でしょうか?

はっきりいって、「はっきりしない」か「そうでもない」を加えて、回答イメージを先鋭化させれば、GDPにあらわれる数字と合致するにちがいない。
世界最小の「伸び」を示すのが、わが国のGDPである。

それに、前にも書いたが「1人あたりのGDP」では、わが国の上位にトルコや韓国がランクされている。
「GDP」とか「1人あたりのGDP」などというと、あたかも暮らしの実感と離れているようにみえるけど、実態は逆で、かなり近いということである。

すると、わが国の政治家にはどんな評価が適当なのか?と問えば、驚くほどに、国民生活の向上に貢献していない、というのが答となる。

30年前のわが国は、1人あたりのGDPでアメリカを追い越した実績をもつ。
これが、「当の」アメリカ人にいかほどの衝撃を与え、怯えさせたか?を想像もしなかったのが、「当の」日本人であった。

まさに、「有頂天」、天狗になって、その長く伸びた鼻を舌で舐めていた。
そして、アメリカを凌駕した満足感にただ浸って、傲慢になっていたのである。
それこそが、「拝金主義の頂点」であって、これを「資本主義」と勘違いした。

アメリカ人の「よいところ」は、ちゃんと反省して合理的な対策を模索することにある。
間違えたひとをグダグダ攻撃する暇も惜しむ。
これは、かつての日本人の得意とするところではなかったのか?

さて、ギャラップ調査によるトランプ政権についての前述の質問の評価は、コロナ禍にあって「56%」が「良くなった」と答えていて、これは過去40年で最高値となっている。
そもそも、5割越えの大統領は過去にいない。

もっと驚くのは、アメリカ商務省が10月30日に発表した、直近の第3四半期のGDP伸び率である。
「7.4%」で、これは、年率に換算すると「驚異的な」33.1%となる。
気が滅入るので、わが国の数字は出したくない。

どうしてこんなことになるのか?
共和党トランプ政権の経済政策は、二本柱からなっている。
・大型減税
・規制緩和(新しく規制を作るなら、古い規制を2つ以上解除せよと命じている)

対してわが国の一貫した経済政策は?
・増税(消費増税はもちろん、レジ袋の有料化も実質増税にあたる)
・規制強化(わが国には1500項目の規制があって10年前より1.5倍になった)

どんな政策を実施すればいいかは、一目瞭然なのである。

日本は分割されるかも

ポーランドはヨーロッパの大国だったけど、当時の「列強」に、3度も勝手に分割されて、国を失う憂き目にあった。

面積ばかりが大きくて、国会には「全会一致」を原則とする厄介なルールがあって、緊急事態なのに「小田原評定」をしていたら、えいっ面倒だといって、ロシア、プロイセン、オーストリア(神聖ローマ帝国)の三国が「談合」して、あっという間に分割された。

ここに、ポーランド人という当事者が介在する「隙」はなかった。
いってみれば、「空中戦」である。
自分たちがそこに呼ばれもしない場所で、国の運命をきめる話がついたから、まったくもっての「あとの祭り」である。

そんなわけで、並の親日国家とは別格のポーランド人のなかには、「小田原評定」の意味だけでなく日本語の発音もしっているひとが、日本人がかんがえる以上にたくさんいる。
小田原北条家の運命と、自分たちの亡国の歴史とがかぶるからである。

では、勝手に分割とは、具体的にどうやるのか?
簡単である。
軍事力にまさる大国たちで決定して、当事国に「通告」すればよい。
もちろん当事国は、「そんなバカな」と抵抗があるのは想定している。

これを、圧倒的な兵力で「ねじ伏せる」のだ。
申し合わせて進駐してきて、抵抗者は容赦しない。
だからこうなる前に、なよりも「やる気」がないといけないのだ。
「桶狭間の戦い」と「小田原征伐」の、敗者と勝者の「覇気」に注目すればわかることである。

米中の闘いが、大統領選挙後にどうなるか?
「冷戦」が、まさかの「熱戦」に発展するのか?
その可能性はいかほどか?
ゼロでないならば、いかなる備えをすべきなのか?

いまやっている臨時国会で、こうした議論がされる可能性すらないのは、国民として安心していられる状況にない、ということだ。
にもかかわらず、平和な日常をすごしているのは、これは、ダチョウの習性に似ている。

敵からの攻撃に、もうだめだと観念したら、ダチョウはすさまじい速さで穴を掘り、あの小さな頭「だけ」を土に埋めて「隠れ」たことにするのである。
すなわち、思考停止である。

しかしながら、同盟国のはずのアメリカででてきた「あたらしいBLM」(バイデン ラップトップ マター)の衝撃的な内容は、従来の国内だけの価値観による、「9条論議」では済まされないことを示唆しているし、従来からある日米安保の履行についての疑念を確信にかえる威力がある。

その事例は、「亡命希望者」の「追い返し」である。
少なくとも、二例が曝露された。
もちろん、オバマ政権による相手国との「取引」であって、ふだんから「人権」を厳しくいう民主党にして、あり得ない「言行不一致」の証拠である。

追い返されたひとりは投獄後行方不明となり、もうひとりは、連邦議会で問題となって、なぜか奇跡的に出国許可がでてアメリカへの亡命が実現した。
これに尽力したのは、共和党の議員団だった。
とはいえ、どんな「取引」があったのか?はわからない。

さて、これらの事例から得られる教訓はなにか?
わが国は、いまだに「亡命希望者」状態ではないのか?という自問である。
片務的安保条約による安全保障のために、「思いやり予算」なる費用負担をしているのだけれども、なんのことはない「用心棒代」なのだ。

なにが「片務」といえば、日本領土の防衛に血の代償を支払うのがアメリカ人になっていて、日本人はこれをカネで買っていることを指す。
一種の「人身売買」をしているのだ。
つまり、あまりにもアメリカの負担が重い。

しかも、「思いやり予算」という、あたかも施しをしてやっている、とする表現は、まったくもって「対等」とはいえない。
この意味で、お歯黒の平安貴族が新興武士集団を蔑んだのに似ている。

トランプ政権による米軍駐留費用の思い切った増額請求は、自主防衛とのコスト計算において、悩ましい状態をつくりだした。
わが国は、それでも自国の防衛に「損得勘定の対象」という倒錯をしているから、彼らからしたら「阿呆」に見えるに違いない。

マンガでありながら、きわめてリアルな一石を投じたのは、かわぐちかいじ作『沈黙の艦隊』であった。
この作品中、在日米軍による、「日本再占領」という概念がでてくる。
これは、「画期」であった。

科学技術の進歩は、兵器の分野でめざましいのは人類史の示すところではあるけれど、日本ではほとんど他人事の、中央アジアはアゼルバイジャンとアルメニアの紛争(実際は戦争)で、新兵器のドローンによる体当たり攻撃が、おそるべき戦果をおさめている。

これによって、戦車がもはや役に立たないことが証明された。
すると、戦車を艦船に置き換えたらどうなるのか?

正規軍の編成を、従来の延長で続けることができなくなったのだ。
すると、従来型の最強軍こそ不利になる。
装備の入れ替えに、膨大なコストを要することになるからである。

さてそれで、わが国周辺とシーレーン上でのきな臭さは、下手をするとアメリカの取引材料にわが国があてられる可能性はないか?
すると、どのように「分割」されてしまうのか?
国があっての生活である。

家族でシミュレーションしておいた方がよいかもしれない。