アマゾン・レンディングの威力

古いタイプの金融商品を、古いタイプの売りかたをしたのが「簡保」だった。
金融庁さまが罰をくだすかも、という話があるが、それよりも被害をうけた契約者が、集団訴訟を起こすのがもっともうまいやり方だろう。

基本的に、報道されていることが事実なら、あきらかに「詐欺」だからである。
しかし、あんがいバブル後の生命保険会社はどちらさまもおなじ手口で、契約更改をしてきたから、金融庁さまも悩ましいだろう。

生命保険は、基本的に長い期間の契約になる。
それで、保険料率の計算につかう「金利」は、ふつう契約時点の金利が採用されて、その後変更されることはない。
つまり、「固定金利」での契約になる。

これとはちがって、金利が変動するのを「変額保険」といって区別する。
金利が上昇局面なら「変額保険」が契約者に有利になるが、契約時点がもともと高金利のときならば、ふつうの保険がだんぜん有利になる。

いまはなき公定歩合でみても、二度の石油ショックでは9%、30年前のバブル時は6%ほどだったから、いまではかんがえられない高金利だった。

このときの契約は、平成の低金利時代になって、保険会社の経営を圧迫する、とんでもないお荷物になったのだ。すなわち、契約者にとっては、いまでは夢のような金利がつく状態だった。

そんなわけで、保険会社の経営を安定させるには、高金利の契約を低金利の契約に更改させることが、もっともうまいやり方になる。
で、いろんな「特典」をつけたようにして、とにかく低金利商品に切りかえた経緯がある。

民営化されたから、いまどき日本郵政を国営だと信じているひとはいないだろうが、なんとなく国営の匂いがするのは否めない。
それで、(民間の)保険会社ではなく「かんぽ生命」という保険会社に加入するひとがまだいるのだろうが、今回の「事件」はなんだかものすごく「遅い」のだ。

この「遅さ」こそが、むかしの「国営」のあかしであろう。
つまり、民営化されたから、いまどきになって契約更改に積極的になったのではあるまいか?

もちろん、「産業優先」というわが国政府の立ち位置は戦前からまったくかわっていないから、ぜったいに生命保険会社を破綻させたくない金融当局は、これを容認したか積極的に「やれ」と命令したかしたはずである。

こうした経緯からすれば、まったくもっても今さら感がするのだが、上述のように「国営」だったから、民間が焦ってやった危ない橋を渡らなかった。
だから、「かんぽ生命」も、ようやくふつうの生命保険会社になった、ということではある。

かんぽの有利性をしっているひとはたくさんいたから、その分社会的な「事件」になったのだろう。

「犬猿の仲」というほど仲がわるかった千葉銀行と横浜銀行が、なんと「提携」するというのも、金利が低すぎて(というより)「マイナス金利」という、人類史上初体験状態がつづいて、もうガマンの限界になったということだ。

マイナス金利をやっているのが、日銀で、これをやらせているのが「アベノミクス」といわれる政府の「政策」だ。
もともと、低金利政策実施に抵抗した白川総裁を、バブルの反省で政府からの独立を明文化した日銀法を元に戻すぞと脅して辞職させ、言うことをきく「財務官」だった官僚を後任とした人事も、一貫した「政策」であった。

横浜銀行は、歴代の頭取が大蔵省・財務省のOBが天下ってくる銀行だったから、こちらもいまさら国を相手に裁判を起こしたくても起こせない。
それで、巨大化するしかない、という恐竜のような生き残り戦略になってしまうのだ。

もっとも、この国の「三権分立」はとっくに絵にかいた餅だから、訴えたところで裁判所は政府にへつらうだけである。
マイナス金利は、憲法にある国民の財産権侵害だと、最高裁がいわない理屈を考えだすだけになる。

そんなわけで、銀行という経済の心臓機能が、まさに「不全」になっているのが日本経済で、おカネを貸してくれるのは「政府系金融機関」だけになってしまった。

ところが、アマゾンという別口の巨人が、ネット出店している人たち向けに「レンディング(貸出)」サービスをやっているのだ。
どのくらい売れているのかは、アマゾンがよく知るところで、さらに誰に売れているのかまで把握できるのが、ネットでの取り引きである。

ここに「信用」がうまれる。
融資というのは、借りるがわからすると「スピード」(時は金なり)が重要だ。
最短で申込みから三営業日で実行される。

アマゾン内の取り引き実績が基準になるから、融資枠は画面上で都度表示されるようになっていて最大5,000万円までである。
金利は、高めの設定で、返済は元利均等方式である。

銀行から借りるのが一番金利が安いのだが、スピードと提出書類、それに担保というハードルが高いため、アマゾンに出店している事業主は、銀行から借りない。

つまり、あたらしい銀行が生まれているのである。

古い銀行の生き残りは?
(-)×(-)=(+)だが、このばあいは掛け算ではない。
似たものどうしの足し算だから、(-)+(-)=(-)となって、マイナスは大きくなる。

恐竜のように絶滅する可能性がある。

ガソリンには産直安がある

産地直送だから安い。
これはなにも一次産品だけのはなしではない。
ガソリンだって産直があるのだ。

石油製油所は、かつて全国にあったのだが、わが国産業の衰退と需要減で製油所の能力があまる事態になってきた。
そこで、石油元売り各社の「事業再編」が必須となったのはしかたがないとして、なぜかこれに経済産業省という役所が口をだすのがわが国の特徴である。

どうしてこういうことに役所が口をだすのかといえば、民間の事業者間では決められない、という決めつけがあるからだ。
それで、過当競争になれば、共倒れして、国民がこまるというふうにかんがえているらしい。

おおきなお世話である。
過当競争になって得をするのは国民だし、共倒れしないように調整するのが株式会社の宿命である。

株主をさしおいて、役所が廃統合を命令する、ということが、どうして株主たちから訴えられないのか、こちらの方が不思議である。
公正取引委員会は、経産省を独禁法違反で取り締まるべきで、そのまま解散させるがよろしい。

さて、そんなわけで、ビジネスをしらない役人が、どういう根拠かしらないが製油所の製油能力にまで文句をたれて、全国に数カ所の製油所を残して、あとは廃止がきまった。

わたしが住む横浜市には、かつて原三渓という粋人がいて、三渓園という庭園を本牧の海岸につくったが、ちょうど小学低学年のころに、この海岸を埋めたてて、国内最大級の製油所(石油コンビナート)をつくったから、庭園の借景には無粋な煙突がみえるようになった。

廃止になるなら、その後の利用はどうするの?
まさか海岸に戻すわけがないから、借景だけが改善されるかもしれない。

関東だと、千葉港の製油所が生き残ったのは、きっと成田空港に航空燃料を供給するための基地でもあるし、ここからパイプラインで成田まで直送供給しているからだろう。

だから、千葉の製油所近辺のガソリン価格は成田あたりまでかなり安い。
たまに横浜から成田にいくと、その安さに驚くものだ。
慣れれば、なるべく多く千葉で給油できるように調整するのは、ややせこいが、これは人情だ。

ついでに、横浜港よりずっとあとに整備された千葉港は、入港した船舶への燃料供給も、製油所からのパイプラインをとおすから、タンクローリーで運ぶ手間がない。

そんなわけで、横浜港よりもずっと安い値段で重油の給油ができる。
リッターで40円ほどもちがうから、ちいさな船舶でもキロリットル単位での給油をすれば、あっという間に万単位の差になるのだ。

もちろん、横浜港の船舶給油所は、タンクローリーによる供給体制のままだから、運送手間賃が加算されている。
本牧の最大規模の給油所にも、横浜港へのパイプラインはなかったらしい。

すなわち、横浜港の燃料供給が千葉港より高価なことの負担は、ぜんぶわれわれ最終消費者が負担しているという意味になる。
まったくもって、とんでもない話なのだ。

なお、羽田空港は海に面しているので、タンカーが接岸して航空燃料を供給しているが、その数、60隻/月というから、長い目でみればパイプラインが有利ではないか?投資をケチって、どことなく、貧乏くさいのである。これは、輸送業者への実質補助金提供ではないのか?

船だって、燃料がなければ運航できないから、どうしてパイプラインが用意できなかったのか、くわしいひとの説明を聞いてみたい。
こんど、横浜にLNG(天然ガス)の船舶供給基地をつくるというのは、重油の失敗のあだを取り返そうという魂胆か?それとも、輸送会社への配慮か?どちらにせよ、最終消費者の負担になることだ。

ただし、例によって、LNGは環境にいい、という妄想がセットだから、世界でLNGを燃料にする船舶がどれほど普及するのかはわからない。
おなじ理屈なら、原子力船がもっとも環境にいいはずだが、けっしていわないというダブル・スタンダードがある。

ちなみに、LNGを燃やして動かす船舶はいまは全世界でたったの200隻でしかない。
きっと「LNGファシズム」の風がこれから吹くにちがいない。
日本政府はまた、この分野に税金をそそぐのだろう。

そうかんがえると、どうせなら内陸の山梨県や長野県にも、パイプラインで石油やLNGを供給すれば、どうなるのかが気になるところだ。
ちまちまと国道をタンクローリーで運ぶのとでは、ずいぶんなコストの差になりそうではないか。LNG船への投資より、ものになりそうだ。

山梨県知事には、是非、国からの予算をこの分野でぶんどってきてほしい。
エネルギーコストの削減で、県内産業をてこ入れしたらいかがか?

関西でおなじ状況がいえるのは、岡山県である。
倉敷にある石油コンビナートがそれだ。
だから、岡山県のガソリン価格も、全国的に安価なのである。

移住するなら、千葉か岡山が有利のようにおもえる。

横浜はとうとう産直の有利を発揮せずに操業を終わりそうだ。
いったいなにをしていたのか?
というよりも、どんな規制があったのか?
ただ、東京のベッドタウンとしてだけで人口は増加したから、いまさらではあるが。

市民に恩恵をあたえることは、けっこう重要なことなのだが、搾り取ることしかかんがえない「役人の性」が、とにかく邪魔をする。

たまには、産直のガソリンを入れに、遠出の旅でもしてみてはいかがだろうか?
これも、ひとつの「産業ツーリズム」なのである。

けだし、千葉のひとも岡山のひとも、そんな恩恵を得ているとは露ともしらないかもしれない。

地元は過小評価されるものだ。

「ゆすり」と「たかり」が正義

難癖をつけて、あいてをゆすったりたかったりするのは、堅気のやることじゃない、という価値観から、正義へと転換がはじまっている。
国家という中央政府や自治体という地方政府に依存すると、個人の自由が侵される、というセオリーどおりのことになっても、ひとびとは気がつかないばかりか、「得」だと思いこむのである。

このちいさな損得勘定が、社会全体の「損」を拡大し、あるとき、その負担の重さに驚くが、そのときには、またまた「得」だというひとがあらわれて、絶望的な不自由がやってくる。

これは、けっしておとぎ話ではない。現実なのだ。

静岡県知事とJR東海とのあいだでおきたリニア新幹線工事をめぐるバトルは、だんだんと静岡県知事の構想が明らかになってきた。
南アルプスを貫く長大なトンネルは、大井川の水量を減らす可能性がある、という懸念から、水利慣行をめぐる反対運動になった。

これに、JR東海は、トンネル内からの排水はすべて大井川に流すとしたが、「懸念」は消えていない。地面のなかがどうなっているのか?は人知の知るところではないからだ。
そのため、静岡県を通らないルートを検討すべきという、いまさらの話を知事がいいだした。

神奈川県や山梨県、長野県、岐阜県と、名古屋までのリニア沿線の県には「駅」が計画されているが、静岡県はまさに山岳地帯のため、沿線で唯一駅の計画はない。
リニア中央新幹線計画は、全額JR東海の負担で建設され、一駅当たり800億円が必要といわれている。

そこで、800億円のおカネに目をつけたのか、おなじくJR東海の東海道新幹線に新駅設置の要求をした。
それは、静岡と掛川の中間に位置して、知事になった理由だと議会で発言した、富士山静岡空港の真下に駅をつくることを、あからさまに要求したのだ。

これに、愛知県知事が不快感をあらわにしたのは、このところのニュースになった。

これは、一般的に「ゆすり」とか「たかり」という。
川勝平太というひとは、もとは学者ということになっていて、『文明の海洋史観』が有名である。

知の巨人といわれた梅棹忠夫『文明の生態史観』のパクリともいわれたものだが、インスパイアされたのだといえば、そのとおりである。

その意味で、政治家が学者をやっていたのか、学者が政治家になったのかは議論があるところである。
なんとなく、泳ぎがうまい、のである。

静岡県といえば、わが国では珍しい「保守系」新聞社、静岡新聞がある県だけど、こういう不道徳なひとが何回も選ばれるのは、新聞を読むひとも減っているからなのだろう。

新駅をつくるおカネは静岡県民のおカネではなく、JR東海だけど、そのJR東海はどこから調達するかといえば、JR東海の利用客からでしかない。

薄く広く徴収されることに、まったく抵抗がないというひとの専門が「経済学」なのだから、どういうことか?
きっとマルクス経済学の大家なのだろう。

南アルプスは、現在、地球最大の隆起をしている山岳地帯で、年間4㎜である。中央アルプス、北アルプスと連続するのは、太古のむかしにフィリピンプレートに乗った伊豆島が本州に衝突してできた地表の「シワ」なのだ。

インド島がユーラシア大陸に衝突してできたのがヒマラヤ山脈だが、こちらは年間2㎜の隆起で、南アルプスの半分しかない。
億年単位で計算すれば、南アルプスがヒマラヤを越える高さになるのだ。
つまり、伊豆島の本州へのめり込みは、いまも続いていて止まってなどしていない。

不思議なのは、伊豆島の衝突とめり込みを祀るのが、三島市にある「三嶋大社」だ。むかしのひとは、なにかに気づいたのだろうか?
「三嶋」は「御嶋」で、伊豆諸島を指すというが、わたしは勝手に伊豆島自体のことではないかと想像している。

年4㎜であることは、10年で4㎝、100年で40㎝も隆起する。
こんな場所にトンネルを掘って、時速500㎞で疾走して大丈夫なのか?
もちろん、地元の地質学にくわしいひとたちからの懸念に、JR東海は、安全です、と明言している。

知事は、こちらの方が気にならないか?

全体計画のなかでの小数による反対意見は、チバニアンでみたごとく、無視されるか敵視されるようになる。
だから、地質における懸念は放置されるのだ。

ちなみに、チバニアンの現地、市原市が市長と副市長の公用車としてテスラの高額電気自動車2台を導入する件で、議会が「違法」とした決議が一票差で否決、計画どおりの導入がきまった。
「環境にいい」そうである。

負担は、個人に薄く広く。
この薄さが、束になって、積み重なるのである。

そうやって、自分のおカネが他人のためにつかわれる。
これを財産権の侵害だと、だれもいわないばかりか、なんだか得をしたとおもうのだ。

どちらさまも、天から降ってくる、気になるのはおカネなのね。

生けにえになった「7pay」

前に、この国では「電子マネーが普及しない」理由を書いた。
それでも、国が命令すればなんでもできると勘違いしている(社会主義的)役人と、役人の本質である、表面上をつくろえば本質はどうでもいいという特性があわさって、「7pay」が生けにえになっている。

経産省という役所の、底抜けの浅はかさが、また露呈した。
こないだは、「コンビニに命令したがる経産省」を書いたばかりだし、太陽光発電でも大滑りした。

さて、コンビニ業界のリーディングカンパニーが、大キャンペーンのすえにはじめてみたら、いきなり「不正利用」という洗礼をうけた。

セキュリティに関しての「甘さ」が指摘され、「基準」を守っていないことを原因にして、こんどは「守れ」という命令の通達をだすという。
のんきな役所というか、事後処理に一生懸命なのは自動車会社の「検査不正」とおなじである。ただし、こちらの主人公は国土交通省だった。

犬は犬であるのとおなじで、「役人」は、省庁を超えても「役人」なのである。
つまり、対面さえ維持できればよく、それは「無謬性(むびゅうせい):けっして間違えない」という神話を信じる宗教団体のごとくである。

じぶんたちを「神話」の対象にしてしまったから、この国の基準点にあるはずの「天皇」をないがしろにして、ぜんぜんこころがいたまないのは、きれいさっぱり宗旨変えに成功したからである。

いわゆる「天皇の人間宣言」は、GHQによる究極の天皇の政治利用であったが、これを利用した高級文官たちが、立場をすり替えてしまったのである。

日本の近代化における思想的支柱が、なぜ「天皇」だったのか?
そして、このことがわが国と国民をして近代資本主義に邁進できたことの、巧妙に仕組まれた文化的な基盤であったのだ。

「対談」という形式における、わが国出版界の最高峰は、『日本教の社会学』だと言い切れるのは、上述した「仕込み」の解析が丁寧かつ奥深くおこなわれていて、この本以外でこの本を超えるものをみないからである。
山本七平と小室直樹の最高傑作といわれるゆえんである。

いかにして日本を衰退させるか?
この当初の占領における基本政策をもって「天皇の人間宣言」という、おそるべき「文化の破壊行為」を実行したことは、いかに敗戦国であれ当時もいまも、国際法的に許させるものではない。

しかし「現人神」という「虚構の設定」こそが、資本主義導入の「決め手」であったし、天皇以外の国民はすべからく「平等」という位置づけにすることでの「自由」(たとえ出身身分によっても他人から命令されないという意味)がはじめて確保できる。

これが、身分制が千年以上もあったこの国における近代化でのスローガン「四民平等」が、ほんとうに達成できた「仕掛け」であり、わが国が資本主義をアジアで唯一採用し成功した理由だったのだ。

つまり、マックス・ウェーバーの「プロ倫」が解明したという、資本主義発生のメカニズムにおける、プロテスタントの役割を、天皇を中心とした「日本教」に置き換えたのが、明治政府、なかでも伊藤博文の慧眼であった。

すると、敵とはいえ鋭い日本研究をしていたのはアメリカという国になる。
日本が有色人種として唯一、欧米白人群と肩を並べるまでの発展をとげた理由の解明、すなわち「日本教」の存在に気がついた。

よって、これを破壊すべくした「天皇の人間宣言」こそ、日本という国(自由と平等を基礎におく資本主義)への死刑執行だったといえる。

こうして、この国は、役人支配というゾンビの国となって戦後の発展をとげてしまった。
しかし、その発展も、じつは敗戦による官僚機構の再建に要した「空白の時間」を利用した民間の力だった。これが、高度成長の正体である。

田中角栄内閣をして完成した官僚機構が、政治家にかわって国家を簒奪(民間に命令をはじめる)すると、みるみるうちに経済が不調になった。
バブル以降は長い時間をかけて、日本のソ連型社会主義化ができてきたのだ。

この流れのうちに、電子マネーの普及もある。
わが国の金融制度(銀行が信用創造しない)と紙幣の完璧な管理をもってすれば、ヨーロッパ(銀行が個人の信用創造をふつうにやっている)と、中国(紙幣の汚染と偽札疑惑)で普及した電子マネーを必要とはしていない。

ならば、ヨーロッパ型の信用創造を日本の金融機関にやらせるのか?といえば、金融庁の金融業界支配をやめたくないし、そんな能力がある銀行マンが日本の金融機関のどこにもいないのでできない。

日銀が従来の完璧な紙幣管理をやめて、粗雑な紙幣に変更し、手で触りたくないおカネが、もしや偽札かもしれないという中国型になれば、国民は電子マネー利用に殺到するだろう。
にもかかわらず、技術の粋をあつめた新札を発行するというのだから、いったい何をしたいのか?

7payのキャンペーンで、いろんな「特典プレゼント」を用意していたのは、なにが便利かわからないひとたちに訴求するためで、「働き方」で疲弊しているオーナー店長たちは「おもわず笑った」という不謹慎な記事がでるほど現場は荒んでいる。

それもこれも、ぜったいに責任をとらない役人が、経営権に口出しするからである。

株主よりもえらいのが役人とは、もはや資本主義ではない。
またまた専門家という御用商人たちをつかって、あれこれと命令することが確定した。
電子マネーが、経産省の利権になった、ということである。

輸出手続き変更が経済制裁か?

話の「すり替え」と「過剰反応」をした相手に「便乗」という姑息な手段をすると、どんどんちがう方向にむかって、最後は収拾がつかなくなるものだ。

G20が終わったらでてきた、フッ化水素などの半導体製造に欠かせない物資の輸出にかんして、日本政府は韓国の待遇(最優遇)を一段落とす処置をするとした話が、いつの間にか「禁輸」になった。

たしかに従来は、スムーズな輸出が可能だったから、いちいち書類をそろえて審査を受けなければならないのは厄介だが、「禁輸」ではない。
甘えの構造がある韓国側が、過剰反応して「禁輸」だとし、結局、製造できなくなった半導体を日本に輸出できないから、困るのは日本だ、という「解説」まである。

徴用工裁判で賠償命令をうけている会社の名誉会長をしている日商会頭が、「過剰反応だ」という発言をしたのは、冷静な態度だろう。

そもそも、このはなしが登場したのは、その徴用工裁判の韓国大法院判決があった直後(昨年10月末)であった。
しかし、このタイミングでも遅い話であった。

北の核開発に関して、韓国がフッ化水素を北に密輸していたことがバレたのである。フッ化水素がないと作ることができない物質を北が製造していることがわかったからである。
フッ化水素の製造は、世界で日本が独占的な立場にあるのは、さいきんの報道でもあきらかだ。

すなわち、この「密輸」は、日本製品を韓国政府が北に渡すという三角貿易状態だということだ。
これは、「国連決議」に違反する。
もちろん、最悪なのは韓国政府であるが、それを承知で日本も韓国に輸出しているとなると、日本も連座する。

すなわち、韓国だけでなく日本も国連から制裁をうけることになるのだ。

この報道は昨年11月にされていて、フッ化水素の輸出制限(禁輸も含む)は、日本政府の独自判断ではなく、国連や米国からの指示になるはずだ、と記事にある。

その後、レーダー照射問題もあったが、日本政府はモタモタしていて、とうとう半年以上もたってから「制裁する」というはなしにすり替わった。
きっとG20の事前事務協議で、「あっち」と「こっち」から「はやくやれ」と催促されたはずで、日本の首相が韓国大統領に会わなかったのも、このための演出だろう。

つまり、昨年の徴用工判決の時期に「やる」とみられた話が、オリジナルの密輸の件から徴用工問題への「制裁」になって、相手が過剰反応したら総理すらインタビューで「信頼関係が損なわれた」と発言しているのだ。

しかしこれは、微妙な表現だ。
あたかも、徴用工判決に対してや、レーダー照射問題など、一連の問題をいっているようにもとれるが、もともとは韓国による北への密輸が原因なのだから、どこまでも優しい「日本政府」というメッセージにもきこえる。

もちろん、国際的に禁じている物資を密輸したのだから、「信頼関係は損なわれた」のは当然で、総理の発言にまちがいはない。
ちゃんと言質をとられても、いかようにも説明できることしか言っていないのは、官邸スタッフの忠誠心からか?

すると、韓国内で批判をあびている現政権が、なんだかのんびりムードだったのは、このことかとうたがいたくなる。
密輸がバレたのは昨年の10月だから、いつかはやってくる話なのにだ。

日韓ともに左派政権としては、これで国連にもアメリカにも言い訳ができるというものだ。

こうして、あたかも、日本が経済制裁を「友好国(であるはずの)」の韓国に実施した、ということが、ひとり歩きをはじめてしまった。

けんかをする覚悟がない国の、受験優等生がつくるシナリオに、迫力がないばかりか、一歩も踏み込まないから、トランプのように後からゆるめる「譲歩」もできない。

なんのことはない、最初から「譲歩」してしまっているので、オプションがないのである。
かつての国是「全方位外交」という「八方美人」では、国際的信用は得られない。

事務手続きが「経済制裁」になる。
これぞ、日本の役人がだいすきな「嫌がらせ」という国際的評価なら、日本国民としてよろこべる話なのか?
国際的「パワハラ」をして、それが正義というなら、神奈川県の葉山町消防本部における「パワハラ停職」と大差ない。

本人は事実関係を認めたうえで「指導の一環と思っていた。命を預かる仕事なので規律を厳しくしたかった」と話しているらしいが、これをフッ化水素の密輸問題だとしても意味はとおる。

ちゃんと「制裁」するなら、第三者からみても「制裁」だとわかることをしなければならない。
姑息な手段によれば、ただのイジメを正当化するガキのようだ。

「EUも韓国を最優遇していない」
こんな言い訳をする「制裁」があるものか。
韓国がいう「禁輸」とは、北を対象にしているのに、すっかり「統一」された気分だから、主語が一緒になるのだ。

「信賞必罰」これがルールである。

まことに残念な話だ。

「赤い幟」の山梨県自民党

久しぶりの山梨県である。
そろそろ「桃」の季節だが、どうだろうとおもったら、あった。
早生の品種がすでに登場し、めくるめく週替わり状態で各種(二十数種類)の桃が出回るシーズンになった。

桃好きには、山梨県はやっぱり「桃源郷」なのである。

ところが、なぜか甲州街道を神奈川県から山梨県にはいると、幟旗があちこちに出現するのは、やっぱり武田家以来の伝統なのか?
それにしても、こんどは「赤旗」なので、それが自民党のスローガンとはおどろいた。

ことし1月の統一地方選挙での山梨知事選は、現職を破って自民党の候補者が勝利した。
とはいえ、自民党は県連として事実上の分裂選挙にもかかわらず、一応、党単独の候補を擁立したのはなんと44年ぶりではあった。

山梨県の人口は、ことし5月1日現在で、818千人。
全国で下から6番目に位置する。
最下位は、鳥取県の560千人、1ランク上の佐賀県とは千人ほどすくないだけだ。

しかし、県としての面積もちいさいから、人口密度という点では、全国32位と、グッと上昇する。二倍にすると、ほぼ14位の奈良県、三倍にすると、10位の京都府ぐらい、十倍にして4位の埼玉県にやや足りない。

そういえば島根県でも自民党は分裂選挙をやったから、人口と自民分裂にはなにがしかの関係があるかもしれない。
「ドン」のわがままだったり、力の衰えが起きると、福岡だって分裂するけど。

山梨県と横浜市は、みえないけど深い関係があって、山梨でとれた絹糸が八王子経由で横浜におくられ、横浜は「シルク」の街としていまでも「横浜スカーフ」が地場産業でのこっている。

八王子から横浜を結ぶのは、JR横浜線だが、国鉄時代は、世にもめずらしい「黒字路線」だった。
それで、週末限定とはいえ、特級「はまかいじ号」が、横浜と甲府を直結していたし、横浜商工会議所メンバーには山梨県人が多数いる。

みえる部分での深い関係は、横浜市水道の水源が「相模川水系」の「道志川」になることでわかる。山梨県道志村の山林面積のおおくが、水源確保のための横浜市の保有林で、同村にある村営温泉「道志の湯」は、横浜市民にも割引が適用されるし、「道の駅道志」では横浜市水道局の「水」が自動販売機でも販売されている。

道志村議会は横浜市への編入決議をしたけれど、山梨県と神奈川県が談合して、これを潰したのは、民主主義がなんだかわからない人たちのおかげであった。

道志村と横浜市は、どうして行政訴訟を起こさなかったのか?も不思議である。
最高裁まで争っていい、議会決議にたいする重要な問題であった。
役人が仕切るとこうなるのだ。

その役人あがりの新県知事が、出身の財務省に「顔が利く」ということをアッピールして当選したのは前に書いたとおりである。
「顔が利く」といいことがありそうだ、という発想は、封建社会以前からの「人治主義」である。

役人OBの知事がなにかいえば、予算がつくらしい。
そんなバカなことがあってたまるか。

けれども、この発想の根幹に、知事が県の支配者だという、これまた封建社会以前からの人治主義がある。
選挙で選ぶのは支配者ではなく、役人がかってにすすめる行政を見張ることだ。

こんなこともわからない元財務官僚だから、自分こそが国家予算をぶんどって、これを配分する社会主義をおしすすめると公言できるのである。
いまでは、イギリス労働党すら、こんな主張は愚論だとはばかれる。
自民党のお里がしれる、重要な選挙であった。

それから約半年、山梨中央銀行が、県内の消費動向調査をして、暮らし向きがどうなったかを発表した。
一年前にくらべて「悪くなった」と答えたひと17.3%(前年より4.6ポイント増)、「良くなった」6.7%を上回ったという。

家計の悩みは、6割が「収入の伸び悩み」といい、そのほかに「税負担の増加」「物価の上昇」という。
あろうことか、この銀行のコンサルティング子会社は、原因を「米中摩擦の先行き不透明感」というから、どうかしている。

県知事さまへの気遣いもここまでくると「忖度」とはいえず、たんなるゴマすりか議論のすり替えとしかいえない。

知事と自民党のいう社会主義では、県民のくらしは向上せず、その分の消費税負担、くわえて石油の値上がりが痛いといっているのだ。
これを、街道筋の赤旗で「前進」というのは、どこかの党のパクリではないか?

消費税の増税に、レジ袋の負担も国の命令だから増税効果になる。
負担を軽減させようと発想しないで、重くするための方法を一生懸命かんがえるさまは、愚か者の努力である。

桃を買いにいって、素晴らしい温泉につかりたいけど、住みたいとおもわないのは、めにみえてガソリンが高いのと、どんなにめにみえない負担があるか想像できないからである。

どこまで衰退するのか?
山梨県人には申し訳ないが、衰退するのは確実なので、どこまでなのかに興味があるのだ。

ある意味、わが国の先端をいくのが、山梨県だからである。
山梨県の明日は、この国の明後日になっている。

反日種族主義打破放送

さいきん、韓国で「反日種族主義」を打破するための「正論」が、YouTubeでシリーズ放送されている。
出演者は、韓国では「反主流」の研究者たちであろうが、論理は明確で、正当な証拠にもとづくその論証は、われわれ日本人の主張に近い。

親日が「罪」になる国での活動だから、その覚悟は深刻で、シリーズ第一回の「校長(ソウル大学名誉教授)」による開講のことばは、李承晩のことばを読み上げながら「嘘で塗り固めた国の滅亡」についてとうとうと語りかけている。

すなわち、もうガマンの限界だ、ということだ。

しかし、彼のことばには重みがあって、これからのシリーズで単なる「親日」の論を張る、という意気込みとはちがう。
あくまでも、自分たちの歴史をタブーなしで、ときには耐え難いほどの屈辱の物語であっても、目を逸らさないで直視することをなによりもはじまりとしているのだ。

都合がいい「種族主義」の排除である。
そのご都合主義が、一方で中国にたいする「事大主義」となり、一方で日本に対する「反日」となるのは、どちらも、韓国の将来をかんがえると間違っていると指摘している。

日本語字幕がついているから、じっくり観れば、日本ではしられていない「反日」の話題のかずかずが「間違っている」と訂正されていく。
ここまで根深いものかとも思うが、政府の役人によって「反日」が創られていく様は、なかなかの迫力だ。

なるほど、もはや論理ではなく国内の統治目的に利用されているのだが、利用する側とされる側が一体となって「自己満足に浸る」から、日本人には理解できない「種族主義」がそこにある。
これこそが、民族統一の熱情になって、親北政権がうまれる背景である。

ところで、反日の理論的根拠はどこから出たのか?といえば、じつは、日本の学者からなのである。慰安婦は、作家からだった。
「親北」の日本人学者が「発見」したかなにかした「資料」が輸出されて、これを韓国政府が採用し、教科書にもした。

ある意味、いうことを聞かなくなった韓国政府とは、反日をかかげる日本人がつくった、特大ブーメランなのだ。
だから、韓国では、そうとうに日本人の発信が、ある意味無条件に信じられている、という逆説もなりたつ。

すると、この「校長」たちが、もうガマンの限界という中に、日本人の発信源もふくまれていることになる。
このことは、われわれ一般の日本人もしっていた方がいい。
校長たちからすれば、日本人が「反日種族主義」を煽り、日本人から「嫌韓」されるのは、どういうことなのか?になる。

このシリーズを観ていて、このように真剣に国の将来を憂う、ちゃんとした学者が立ち上がるのが、うらやましくなった。
わが国で、このような発信をしている学者は片手でも足りそうだ。

どちらさまも、研究費がほしくて、御用学者にならないと、商売にならない。
科学技術系では、最先端の研究計画を提出して、ものになるもの、でないと予算がつかない。

最先端で「ものになる」と予想できる研究とは、とっくに見通しがたつ研究のことだから、じつはぜんぜん最先端ではない。
こんなことをしていたら、とうとう世界の最先端テクノロジーの研究から遅れだしてしまった。

ところが、より深刻なのは、文系の学者なのだ。
たとえば『自由の国 平等の国』という「哲学書」がある。
哲学者が書いたから、哲学書とする。
その内容の薄さが記憶にのこったが、けんかをしないためになる本という評価もある。子ども向けだから「薄い」のではない。

しかし、日本人のわかき哲学者は、平等がお好きらしい。
このたびの、韓国人の学者たちの深刻度が理解できるひとであろうか?
わたしには、いっときつかんだ「豊かさ」が、永遠なるものとして認識された、大甘の哲学、だとしかおもえなかった。

日本のながい歴史から観れば、いまこそ「特異」(とくにことなる)な時代はない。
イランではやったドラマ「おしん」のような、貧困こそが、日本の真の姿なのである。

絞り出すような哲学をうめなくなった日本は、まさに精神の貧困に陥っている。
この「校長」たちの目論見どおり、韓国人が「反日種族主義」を克服したとき、かならずや彼我の差は逆転するにちがいない。

その貧困の日本より、もっと貧困だった「日帝時代」を韓国人が正面からかたるのを観るのは、初めての経験である。
ぜひ、お勧めしたい。

未決のG20

「大山鳴動して鼠一匹」よりもなにもかも、なんにも決まらなかった。
議長国日本が、主たることは決まらないと、あきらめて張り切ったのが、プラスチック・ゴミの規制だったが、これも決まらなかったのは、世界人民にとってご同慶の至りである。

世界の首脳は、日本の役人ほど、バカではなかった。

決まらないのは、このほかに、会議場の机で、まさか各国首脳が町内会館にもある「五尺テーブル」に、きっちり三人づけされたことだ。
しかも、さいきんの町内会館の五尺テーブルは、キャスター付きで足下が隠れる板もある。

各国首脳が、足下までさらして座るのを、はじめてみた。
日本人事務局の「貧乏根性」が、みごとに表現された会議場のしつらえであった。

「もはや日本は先進国ではない」と、自分から宣言したような潔さであるから、これを期に、次回から参加を見送るのがいいだろう。

けれども、参加国の首脳だって、G20でなにかが決まるとは、最初からおもっていない。
ではなぜやってくるのか?といえば、個別会談がしやすいという、一カ所集中のメリットしかない。

ほんらい、これは「国連」の役割だから、なにも「G20」などといって各国持ち回りなどにせず、ニューヨークの国連本部か、ジュネーブの国連ヨーロッパ本部で開催すれば、警備による大騒ぎもないし、会場に事欠かないから、ちゃんとした会議室が最初からある。

国連という場のマンネリが、とうとう機能不全になってひさしいから、「G20」もおなじだと印象づけたくない、という理由しかかんがえられない。

すると、なんとか決めることができた時代はなんだったっけ?と記憶をたどれば、「冷戦」という東西両陣営が対峙していたときで、東西ともに「決めていた」。
緊張感のちがいである。

米中による対立は、この意味で重要だ。
「中」を包囲して封じ込めたい「米」は、冷戦構造をつくりたいだろう。
これにロシアがどっちつかずを演じて、とっくに経済弱者になっているけど、主導権を握りたいと志向するのは日本の野党に似ている。

わが日本は、御殿女中の思考で、とにかく目先の「おもてなし」をきっちりこなして、無事に予定の日程を終了すればそれでよい。
のんきな大阪のコンビは、「大阪の格があがった」とよろこんでいるらしいが、なんの「格」をいうのか意味不明である。

さて、決まらない、とはいかなる事情か?をもうちょっとかんがえれば、決まっていた時代と比較して、なにがどう違うのか?
いわゆる「グローバル化」が、決まらない世界をつくった。
それで、あたらしい冷戦を志向して決めようというなら、これは「反グローバル化」のことである。

今回もふくめ、ここ数回のG20は、すでに「反グローバル化」を模索している。
つまり、世界のグローバル化、といういいまわしはもう古いのだ。

そんななか、国内ローカルニュースで、東京理科大学が、「グローバル化」に対応した、学部の再編とそれにともなう各地のキャンパスを再整備するという記事をみた。

あたかも、日本国内では「グローバル化に対応した」という言葉を念仏か題目のように唱えれば、もっともらしくきこえるようになっているが、世界の潮流はとっくに逆転している。

「最高学府」にしてこの程度。
ちゃんとした学者はいないのか?

べつに理科大「だけ」が問題なのではない。
きっと、「グローバル化に対応せよ」と、命じている役所があるのだ。
このこと自体が、すでに世界標準ではない。

「粉もん」を首脳がよろこんで食べるすがたで、日本はいい国だと自画自賛する「引きこもり」も困ったものだが、時代潮流を読めないのは、決定的に損をする。
もはやトラック一周遅れなのに、先頭にいると思い込んでいるのは果たして幸せか?

出すぎた「中」をたたくため、安保条約を「片務から相互」へすべきというトランプは、とうとう日本がほんとうに「独立してよい」といった戦後はじめての大統領になった。
これも、グローバル化への反旗である。

どこまで読書をしているひとかしらないが、読み聞かせてくれるひとがいるのだろう。
トランプ氏の言動には、おなじ共和党の大統領だったフーバー氏の『裏切られた自由-フーバー大統領回顧録-』を読んだ、確信をかんじるのはわたしだけではあるまい。

 

せめて日本で指導的立場にあるひとなら、上記の翻訳者が要約した『誰が第二次大戦を起こしたのか』は、もはや必読書なのではないかとおもう。
日本を独立させるとしたトランプ氏と、そうでない70年前からの固定を支持する現状維持派(属国のまま)との戦いが、再選をかけたかたちで我々にはみえることだろう。

はたして、マッカーサーが決めた戦後秩序を、あたかもわが国の「国是」だとする奴隷根性にまみれたわが国マスコミは、親中の旗もおろせずにトランプ批判を繰り広げるのは、まさに「逆神」のごとくである。
しかも、日本は自分で決められない。

マッカーサーもトランプも、当事者の日本抜きで、属国か独立を許可するのかを決めるのだ。
日本国民にとっては、どちらも空中戦で、B29をみているしかなかったのと、状況はまったくかわっていない。

しかも、日本人の歪められた根性は、永遠の属国を望むという、世界人類が想像もしない「常識」がある。
新聞を読むとバカになる。
わざわざ購入する価値が、とうとうなくなった。

ドメインのおそろしさ

ネット世界に参加しようとしたら、取得しなければならないのが「ドメイン」である。
個人ならまだしも、企業の営業ツールとしてなら、もはや必須になっている。

ネットでのドメインはネットで取得する。
最初に取得するドメインなら、ふつうはオリジナルがほしい。
そこで、既存のドメインにかさならないものを「生成して」、自社のビジネスにつかう。

しかし、商標とおなじで、有名企業やらにまつわるドメインを、素早く生成して、これを売ろうという商売もある。
あんまり有名でないなら、これでちょうどいいドメインを購入することもあるが、ほんとうに有名企業なら、なかなか面倒なことに見舞われることもある。

今月は、「サークルKサンクス」の「本物」のドメインが「オークション」にでて、そのおどろきの落札価格が話題になった。

ことのはじまりは、サークルKサンクスがファミリーマートに経営統合したことによるのだろう。
それで、これまでつかっていた「サークルKサンクス」のドメインの使用期限がきても、使用料の更新がされなかった。

つまり、企業内における「経費削減」が、きっとネット担当者にも浸透していて、もうつかうことがない(とかんがんられる)古くなった「サークルKサンクス」が不要であるということと重なって、維持費がムダだと判断されて更新しなかったのだろう。

ところが、ネットの世界では、信用できるドメイン、という概念があって、それは、従来からの「実績」で評価されている。
評価するのは、検索エンジンと呼ばれるコンピューター・システムだ。
かんたんにいえば、「Google」のことである。

つまり、そのドメインが育ってきた(企業からすれば「育てた」)、リンク数や一般人からのアクセス数と、それにともなうネット上の販売実績とかが、「評価」されるのだ。
だから、たんにネット上の「住所」ということではない。

東京都千代田区千代田一番地は、皇居を指す。
それで、あんがいここを「本籍」にしているひとはおおいのだ。

これに似て、事業の発展とともにドメインも成長し、そのドメイン自体が信用をうみだす。

そんなわけで、ある日突然、リアル世界で経営統合されたとはいっても、そのドメインの評価が、検索エンジンというコンピューター・システムがつけた評価として無意味になることはない。むしろ、そのまま固定されて残るのだ。

このルールを、あろうことか、大企業たる組織人がしらなかった。

それで、使用者がいなくなったことをしった、ドメインの仲介・売買する会社が気がついて、これをすぐさま自社購入し、即座に自社が運営するインターネットでのドメイン・オークションに「出品」した。

容赦ない世界である。
このドメインの仲介・売買する会社とて、東証一部上場企業である。
「もしもし、お宅のドメインが、どういうわけか『使用権利者不在』になっていますよ」と、おしえてすぐさま買い戻すようにアドバイスしなかった。

しかし、こうした行為は、もはや「正義ではない」のだ。
どんな事情があったとしても、市場に「使用権利者不在」ででてくれば、それは善意の第三者からすれば、ただただ「使用権利者不在」という事実しか存在しない。

だから、本業として、このドメインの仲介会社が、オークションにかけて、なにがしかの利益をえることが、株主に対しての「正義」なのである。

けっきょく、オークション当初、気がつかなかっただろう当事者が、途中からこのオークションに参加したとおもわれるのは、そのやりとりを「オークション参加登録者ナンバー」から想像することができる。
途中から、特定の参加登録者が、不特定の参加者からの入札のたびに、かならず入札を繰り返しているのをみることができるからだ。

このだれもが「ファミリーマート」とおもう参加登録者のミッションは、やっぱりだれもが絶対に「買い戻す」とおもったはずである。
ただし、「ファミリーマート」の広報は、オークションに参加していない、と表明している。

なぜなら、「もうつかわないから」。

しかし、このドメインの価値は企業統合しようが、その企業のなかで保持することで発揮されるもので、第三者にわたることは、「悪意」を想定すれば、とんでもない企業価値の毀損原因になることまちがいない。

けっきょく、落札価格は、約6,000万300円だった。

ドメイン使用期限切れは、事前にあんがいしつこく警告される。
これを承知で手放した「担当者」が、当該企業内でどんなあつかいを受けているのかしらないが、組織としてかんがえれば、担当者「だけ」が責任を負うはなしではない。
ましてや、広報の否定とは?

ではいったい誰が落札したのか?
第三者なら、どんなつかいかたをかんがえているのか?

経済記者には、ちゃんとした続報を期待したい。

ベトナム留学が自慢になった

わが国のIT業界のことである。
世界のIT最先端技術を研究しているのは、なんといってもシリコンバレーだ。
シリコンバレーとは、事実上「スタンフォード大学」の街である。

アメリカ合衆国には、国立(連邦)大学がない。
あえていえば、陸軍士官学校のような軍の幹部養成校ぐらいがそれにあたる。
州立大学が日本の各県にある国立大学にあたるのだろうが、一部の大学をのぞけば、そのほとんどが職業訓練校的な存在である。

だから、ふつうは「私立大学」である。
さて、その授業料は?といえば、おおよそ700万円/年である。
上述した一部の有名州立大学も、これとかわらないのは、日本のように憲法違反(89条)がうたがわれる「私学助成金=税金の流用」がないからである。

アメリカがつくった憲法だからか、日本の役人は多くの条文を無視するか都合のよい解釈をして、とっくに骨抜きにしている。

このブログの読者なら、しつこい、といわれるかもしれないが、民主主義国の憲法とは、国家=政府を規制する国民からの命令書だから、守らなければならないのは、国民ではなくすべての役人である。
ただし、勤務外の役人も国民にもどるから、公務中の役人だけが憲法を守る義務を負う。

日本国憲法第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

ということで、「公の支配に属しない」教育事業には公金は出せないから、「公の支配に属する」ことで、「合憲」にした。
これが、文部科学省の役人による許認可権という利権の「合法的」な理由になった。

正々堂々と国が、私学にもおカネ(税金)を与え配分するから、とうとう、日本の私学はこのおカネをもらわないと、経営が成りたたなくなった。おカネをもらうために、授業料をさげろと命じられてさげたからである。

すると、役人の配下に成り下がるものかと頑張っても、授業料の安いライバルに学生の人気があつまるから、頑張るのをやめて、こんどは一番もらえるように努力した。
それで、おそろしく歪んだ競争の結果として、日本の大学は、授業料が「安い」のである。

この見返りが、役人のいうことを聞くことになったから、建学の精神まで絵にかいた餅になってしまった。それで、偏差値順という序列だけができた。
それでも懲りずに、大学まで無償化するという政府与党は、他人の子どものために税金を払えと国民にいっているのとおなじだと気がつかないふりをしている。

年に700万円もするということは、生活費をふくめれば1,000万円かかるから、親にとって4年で4,000万円は確実な出費となる。また、自動車がないと生きていけないから、自動車の購入費が加算される。
とどめは、アメリカの有名私立大学の授業料は、もっと高いことだ。

留学生がアルバイトで収入を得ることをゆるしているのも、日本ぐらいで、アメリカでは許可されない。
ただし、日本の大学とちがって、アメリカの大学はそら恐ろしいほど授業前に指定された学術書を読破しないと授業に出席すらできない。つまり、アルバイトにうつつをぬかす時間がないのだ。

そんなわけで、日本人の留学生は「珍しい」ということになった。
ここにも、わが国の国力が「衰退」していることを認めることができる。

それで、圧倒的に有利になったのは「共産国」で、国家が率先して留学させている。
トランプ大統領は、中国人の留学生を大幅に規制しはじめたが、ベトナムからの留学生はそのままだ。

こうして、わが国のIT企業にとって、コストがかかるアメリカ留学ではなくて、ベトナム留学を選択するようになってきた。
アメリカで学んだベトナム人から、最先端技術を学ぼう!ということになって、自社から何人ベトナムに留学させたかが、業界内の序列に影響しているのだ。

じっさいに、ベトナムに進出した日本企業で、日本人駐在員の人件費がいちばん「安い」という状態になっていると前に書いた。
先端技術を駆使する、若きベトナム人が最高額の賃金を得ている。

一方で、日本に出稼ぎにやってきたベトナム人が、日本で奴隷のような労働を強いられている。
その理由は、人件費を安くしないと儲からない、というかんがえが、バブル崩壊以来「常識」になってしまったからである。

そのうち、日本でのうらみをベトナムで敵討ちされるようになるだろう。

それにしても、競争論理を利用して単価をあげる努力をしているのが共産国で、平等論理をとにかく理想とするのがわが国だから、どっちがどっちだかわからなくなってきた。

このかんがえ方のちがいが、繁栄か衰退かの分岐点なのである。