コンビニに命令したがる経産省

今日(28日)から、どちらの省庁もなんとかのひとつ覚えである「有識者検討会」がはじまる。
その名は「新たなコンビニのあり方検討会」といって、来年1月に中間報告をまとめる予定らしい。

検討するのは、労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すための指針作りだというから、どうかしている。

労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すのは、当事者である各社の問題であって、国家公務員が介入するテーマではない。
これを、ムダ、というのである。

しかも、全国8カ所で、8月から9月にかけて、コンビニ8社の加盟店オーナー計120人に対面調査をするらしい。
これは、統計的に「有意」な調査なのだろうか?一社あたり15人だ。
しかも、コンビニは全国に「約5万軒」ある。

そこから、たった120人のオーナーに聞き取り調査をして、何になるのか?
うざい、邪魔である。
調査のことではない。「国家行政」がかかわることが、うざいのである。

すでに、最大規模のコンビニ本部と一部オーナーは裁判で係争状態にある。
行政ではなく、とっくに司法の出番になっている。
もちろん、民事裁判だ。

そもそも、労働環境の改善なら、厚生労働省の管轄ではないか?
すなわち、地元労基署の仕事だ。
これを無視して、経産省さまが直々にお出ましになる理由はなにか?

労働環境の改善は、ダミーで、持続可能なコンビニ業界、がメインなのだろう。
「倒産しない」という意味ではなく、意味のないプラスチック・ゴミ、すなわちレジ袋有料化に積極的でない業界を締め上げるため、だと推測する。

この検討会の出席者は、まちがいなく「御用学者」たちである。
メンバーひとりひとりが、いったいどんな補助金や研究資金を経産省から受けとっているのか?
この国に、ジャーナリストが存在するなら、是非とも読んでみたい記事である。

いよいよはじまった大阪市内を大混乱にさせている「G20」。
開催国の日本が議長国だけど、いまさら「G20」をやっても、まとまる政治的課題などない。
来年に「国賓」でくる予定の国は、香港問題を議論するな、と命じてきた。

その国が、大量に輸入していたプラスチック・ゴミの輸入を禁止したから、「リサイクル」できなくなってしまった。
そこででてきたのが、プラスチック・ゴミのはなしだ。
これなら、いまだに「京都議定書」をやったと自負する日本の役人たちがはりきれる議題になる。

そこで、昨日(27日)、環境省は廃棄プラゴミの国内保管上限を二倍に引き上げるとして、例によって法律ではなく関係「省令」の改正で対処するという。

まさに、万全のG20対策だ。

科学と化学を無視すれば、政治はなんでもできる。
化学者で自由主義者だったサッチャーが生きていたら、こんな議案は議論に値しないといったはずだし、香港返還の当事者だったから、香港問題をガンガンやれといいだすはずだ。

おなじ化学者だけど、旧東ドイツ育ちのメルケルには、化学と政治は別物だ。
ドイツでは、「再生可能エネルギー」なるペテンを推進して、電気代が四割増しになった。それでも、なにかに取り憑かれたようにもっと推進するというから、おそらくドイツの電気代はかつての二倍になる。

これで、ドイツの中小企業・工場は、青息吐息になったけど、地球環境にまさる価値はないという、あたらしい不幸をつくる思想にがんじがらめになっている。
国家主導がだいすきなのは、さすがかつての日独同盟国である。

そこに、歴史的な熱波がヨーロッパを襲っている。
気温は40度。
サハラ砂漠からの熱風を、気圧配置の関係で呼び込んでいるらしい。

「この極端な気温の上昇は、石炭、石油、天然ガスの燃焼による温室効果ガスの増加が引き起こす地球温暖化の結果として、まさに科学的に予測されたもの」とポツダム気候影響研究所の気候学者が語ったという。
各国が温室効果ガスの排出量をすぐに削減しなければ、今回のような熱波は悪化し続けると科学者たちは警告している。

果たして、おカネがほしい科学者が、世界中で笛を吹いている。

ほんとうは、地球という星のことなんか、ぜんぜんわかっていないけど、わかったふりをするとおカネがもらえる。
ひとびとの恐怖心が、おカネのつかいみちをきめるからである。
かつて、中世の時代に、カソリック教会がやった手口である。

あたかも神妙に、みなさんのためです、といって命令し、従わなければ火あぶりにする。

なんのことはない、経産省も中世の教会のような役割を自負しているらしい。
はやく、こんな役所はなくしてしまえ、と、そのうちプロテスタントが出現するのを待つしかないか。

イラン危機に対処できないのに円高

五年半ぶりの円高である。
今回の円高は、ドル安とユーロ安がセットになった円高である。
通貨の相場は、ふつう相対的なものだが、ドルは利下げが、ユーロはEUの危機からの下げだから、円が強い意味の円高になっている。

つまり、なんにもしていない日本の円だけが、相対的に価値が上がっている、ということになっている。
トランプ政権は、為替操作をきらうから、ほんとうは日本政府は円高を阻止したいのだろうができるオプションがない。

円高になると株価が下がるという構図がある。
輸出企業である製造業の輸出が減って、もうけが減るからである。
ところで、外国人観光客がつかうおカネも「輸出」とおなじ効果がある。
円高になると、外国人観光客にとっては、負担が増すから、製造業のそれとおなじ構造なのだ。

だから、日本の占領がおわって、独立するとすぐに「国際観光ホテル整備法」という法律ができたのは、いまとはちがって外貨がぜんぜんなかったわが国で、まずは手っ取り早く外国人旅行者からいただきましょう、という趣旨だった。

まぁ、当時は、これもいまとちがって一ドルは360円という、超円安だったけど。

いま、わが国の国際収支は、資本収支という項目で黒字をかせいでいて、かつての花形・貿易収支はぜんぜんさえない。
後期高齢者のひとたちにとったら、信じられないぐらい、日本は貿易立国でなくなった。

資本収支とは、外国に投資した結果の利子収入のことである。
円高は、外貨建てのままならいいけど、円に交換しようものなら、たちまち円での取り分が減る。
つまり、円高なら、外国に投資して、将来の利子収入を得るチャンスなのだ。

そうはいっても、イラン危機という、朝鮮半島よりも世界に影響がある、石油がからんだ地域での大問題が発生している。
日本のタンカーが何者かによって攻撃されたが、日本政府は犯人をいまだ特定していない。

それで、トランプ大統領から「自国の船は自国で守れ」といわれたら、日本の防衛大臣は「それはできない」ときた。
ようは、これまでどおり、アメリカの傘の下にいたい、という希望なのだろう。

でも、そのアメリカは、だったらその分負担しろ、と請求書を書いてきそうな雰囲気で、国内ではまたぞろどーしょうもない、カネで解決か自前で防衛かの、どっちが得か?という金銭的損得勘定しか議論されないにちがいない。

「国防」を金銭感覚でかたるのは、ローマ帝国末期すなわち衰退期の特徴である。
わが国の衰退は、経済だけでなく、物事のかんがえ方である思想も衰退した。

そんなわけで、どうして円が「安全資産」といわれているのか?
報道では、かならず「いわれている」というけれど、だれがいっているのかをいうひとがいない。
たんなる「うわさ」か「都市伝説」ではないのか?

だれもいわないが、金(Gold)が値上がりしている。
つまり、普遍的価値があるという金を基準にすれば、しっかり円も価値を下げているのだ。

リーマン・ショックでわかったことは、世界中の金融マンたちが、おなじ情報で判断していたということだった。
それは、学部学生時代からMBAを取得するまでからはじまる。
アメリカの金融論や金融工学が、世界標準になっているから、国籍に関係なく、みんなおなじ理論を学んだ。

そして、そうした仲間たちが、こぞって金融機関に就職して、こぞっておなじシステムで相場をみている。
たまに読む、最新の理論情報がでている雑誌も、みんなが読むという状態になっていた。

つまり、優秀なひとほど、おなじ発想をしていたのである。
しかも、情報源もおなじだった。

そうやって、サブプライムローンの証券化という商品に、だれも疑問をいだかず、かんがえた人間たちは、当初、巨万の富を得た。
ところが、だれかが「王様は裸だ」といったら、雪崩をウって崩れ去ったのは、仲間うちへの「疑心暗鬼」が原因だった。

つまり、だれもが「信用できない」と、こんどは互いに互いを疑ったのである。
優秀なはずのひとたちが、そんな体たらくで、じつはただ卑しい発想をする人たちだったことが、世界中の一般人の目にさらされた。

世界を相手に張り合う気概がなくなった日本人は、生活の根源的資源を中東から輸送しないと生きていけない。
堺屋太一の出世作にして、無邪気にも通産官僚の価値観丸出しの小説『油断』がでたのは1975年、第一次石油ショック(73年)の後にして、第二次石油ショック(イラン革命:79年)の前であった。

あれからほぼ半世紀。
この構造は、なにもかわっていない。
むしろ、より複雑になっているようにもみえるのは、インターネットのおかげで情報が細かくなったからである。

イランにも入れ子型の問題があって、核問題を表面に、その内側にイラン内部の民族問題があり、それが宗教対立をうんでいる。
けっして一枚岩の結束がある国ではない。
それを、しってかしらずか、安倍総理が出かけていって、案の定成果はなにもなかった。

それなのに円高。
これは、都市伝説だ。

強制がとまらない

世の中で強制の最たるものといえば「税」である。
これは、資本主義社会がはじまるはるか以前からあった。ときはローマ帝国で、徴税人だったのが「マタイ」である。
当時、もっとも蔑まされた職業であって、なかでもマタイが専門にしたのは最悪といわれた「通行税」だった。

そのマタイを救ったのがイエスで、救われたマタイは「福音書」をかいたのだから、人生とはわからない。

狭い国内に戦国大名がかってにやたらと関所をもうけて、通行税を徴収していたのをやめさせたのは「楽市楽座」をすすめた織田信長で、経済の空前の繁栄を招いた。当時は身ぐるみ剥いだろうから、税とはいっても掠奪だった。

新大陸の植民地は、本国イギリス国王が勝手にきめた「茶葉への課税」が引き金になって独立戦争になり、とうとう植民地が勝利した。
この一件があるから、アメリカ人はいまでも税に敏感である。それは、個人の権利を侵すものだという認識があるからだ。

世界に類をみない高率な税は、江戸時代の百姓に課せられた「五公五民」だ。すなわち税率は50%。人口構成で8割以上だったのが農民という、一大農業国だったわが国は、そんなわけで、税には鈍感である。

なぜか?いまやこの率に近づきつつあり、高齢者をささえる現役の負担率は最大75%になるという予測もある。
水呑百姓よりも貧乏になる?いや、その前に暴動でしょう。

消費税を上げるのか、そのままなのか、それとも下げるのか?
卑しくなった国民は、賛成派と反対派、自分ではわからない派の三つにわかれている。

あんがいおおい賛成派の下心は、年金がもらえる(かもしれない)、というちんけなはなしで、人類史上公的年金で悠々自適の老後生活ができたことなど一度もないのに、それを信じるという、マタイもおどろくだろう盲目的信仰がこの国を覆っている。

国家が窒息しそうなのに、自分の年金だけが将来の楽しみだといえるのは、学校にいったことがない未開のジャングルに暮らすひとには、なんのことだかさっぱりわからないだろう。

それでも、きっと東大を出たひとたちは、入ったときより優秀なはずだから、大丈夫という財務官僚を信じていれば、きっとなんとかしてくれるはずである。

無力でかわいそうな子羊ならぬ、百姓のひ孫たちは、御上さえ信じていればいいという、江戸時代にバック・トゥ・ザ・フューチャーしてしまった。

トランプ大統領から「ホルムズ海峡」は自分で防衛しろといわれて、あわてて官房長官が記者会見しているけれど、石油がどこからどうやって運ばれてくるのかわからないひとたちが、内閣不信任案を出すという。

いっそ解散して、こんな輩を三原じゅん子のように一喝したいが、そんなことを選挙でやったら、またぞろどーしょうもない自民党が勝つしかない。
いったい野党のひとたちは、どんなマーケティングをしているのだろうか?

再生可能エネルギーなるペテンも、ここにきてようやく破たんしてくれそうだ。電気代だって、21世紀の生活では税金のようなものだが、政府がたくらんだ高コストを、われわれ国民が「特別徴収」されている。
毎月の伝票をよく見れば、理解不能の請求がしっかり加算されている。

それでも飽きずに、レジ袋を強制的に有料化するというから、これも税金とおなじではないか。

下がるものがなくて、強制的に上がるものばかりで、意図的に消費経済を縮小させるアベノミクスとは、いったいぜんたいなんなのか?苗字がついてる本人も、わかっているはずがない。

大義名分があれば何でもできると、「チバニアン」の現場では、やっぱり地元の市原市がへんな条例をつくるらしい。
あいかわらず、報道機関は、どうして市が収容しようとした土地について、強固に地主が反対したのかの経緯を伝えない。

きっと地元の記者はしっているのだろうが、それをいうと、「チバニアン」の発見がすっ飛ぶほどのスキャンダルになるからいわないのだろう。
だったら、はやく記者などやめて、べつの職業についたほうが、こころの平安になる。

「学術」のためなら、他人の土地に強制的に立ち入ってよい、という不道徳が、この一箇所でおわると思ってはいけない。
「前例」こそが、役人の真骨頂なのである。
ふるくはこれを「有職故実」とみやびに呼んだが、いまならたんなる「前例」だ。

学術という「みんなのため」、世界登録というなんだかしらないが「名誉のため」、あなたの土地に他人が勝手に侵入しても、あなたは文句もいえない。
所有権の絶対が、平気に無視されるのは、憲法違反と同時に資本主義以前の時代への回帰である。

まさに、ファシズム、全体主義のはじまりである。

まともな「経済」の知識があれば、日本経済の60%以上が消費者の消費によっていることをみれば、「楽市楽座」がもっとも重要な施策なのである。この真逆をやりつづける発想はどこからくるのか?

財務省の管轄する、国家財政だけを守る。
これこそが、日本経済沈没の原因であり結果なのだ。

二院制を確保せよ

国会を「一院制」にすべきと主張する「保守」がいる。
その理由が、なぜかおカネのはなしだ。
議員ばかりか事務局にもおカネがかかって、それがムダだというのだ。
もったいない、というのである。

バカげている。
本末転倒どころか、なぜ「二院制」でなければならないか?なぜ一院制では「ダメ」なのか?という根本をわすれているから、ほんとうは「暴論」なのである。

これが暴論とおもえないくらいに、国民が劣化している。
まず、第一にそんな劣化した国民の立法府が「一院」だけだったら危ないではないか。
なにをされるかわからない。

人工的な社会主義国が、みな「一院制」だったのは、特定政党による独裁体制だったから、実質的にも名目的にも議会は必要なかった。シャンシャン大会で、手が腫れて痛くてもたくさん拍手しないと逮捕されたから、みな必死で拍手した。痛いのをガマンするから笑顔になったのだ。
けれども、そういう国にかぎって国名に「民主主義」とか「人民共和国」を入れていて、なんだか優しそうであった。

一方で、自由主義陣営と呼ばれる国のおおくが「二院制」なのは、民主主義の悪い面、つまり、国民に迎合するポピュリズムや、そのときの気分で大勝した与党の独裁をゆるさない、厳重さが重要だからである。
なぜなら、国会で決まってしまえば、国民全員がそれに従わなければならないからである。

だから難しいのは、国会がきめない、という選択も重要なのである。
しかし、一院制だと、多数があつまれば、決めないでほしいものも決まってしまう。
これを阻止するのは、もう一つの議会があってこそなのだ。

その典型が、わが国では地方議会で、どちらさまも一院制になっている。
そんなわけで、札幌でピエロが除名されてしまうのだ。
いまになって、おかしい、とか、厳しすぎるという意見があることを地元新聞が書いているけど、もう決まってからだからアリバイ記事にしかならない。

それに、市役所の元職員のはなしとして、ずいぶん職員がこの議員に怒鳴られたから、評判がわるかったとまで書いている。
市議会議員は市役所職員のために仕事をするひとではない。
その証拠に、地元から何度も当選しているのである。

こういうむちゃくちゃな新聞を、おカネを出して読まされる方が迷惑である。
札幌市民は、地元新聞の購読をやめた方がいい。
思い切ってやめたら、意外なほど困らないことに気がついて、お得感すらあるだろう。

そうしてムダな新聞社が潰れれば、有能な人材が世の中に供給されるから、北海道経済に有益である。
これが、資本主義のすぐれた効率性なのである。

しかし、わが国の二院制は、かつての自民党独裁時代に「参議院改革」と称した革命があって、「参議」であるはずの議員が、ただの政党人に入れ替わってしまった。
「良心の府」といわれた参議院が、たんなる衆議院のサブ・システムにおとしめられた。

元首相の長男が、国会改革に熱心だが、「参議院」を「参議」の「院」に戻すことがプライオリティのはじめになければならない。
「参議」とは、その道のプロのことだった。
その前は、貴族だったが、貴族には代々の「家」の専門があったから、いまよりも立派な人物がいたことだろう。

和歌の家、料理の家、楽器の家、花の家、お茶の家、学者の家、、、。
こうしたひとたちが「貴族院」の議員になって、衆議院の勝手を見張っていた。
これに、内閣を見張る枢密院まであったから、どうして決めごとはすべからく面倒なことになった。

そんなに「決めるのが」大変なのに、戦争をやるのは決まった。ところが、どうやるのかを即座に「決める方法」を用意しなかった。
それで、開戦してからあわてた東条英機が、内閣総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長兼と、どんどん兼務しないと、決まらない。
戦争だから、即決がひつようなのだ。

これをもって「独裁者」といわれるのは、さぞかし本人には不満だろう。

明治憲法は、内閣総理大臣の権限を記述していないから、内閣総理大臣と国務大臣は「同格」だった。いまのように総理に「任命権」もなければ「罷免権」もない。だから、やたらに総辞職するしかない。

衆議院と貴族院も同格だった。いまのように衆議院優先というルールもない。両院で可決されなければ即座に廃案になる。議案を提出した内閣は、廃案の責任を枢密院から叱られて、天皇側近の内大臣のひとことで、おしまいだった。

貴族がいなくなったから、選挙がない貴族院を復活できない。
ならば、上院と下院のごとく、参議院の参議をどう選ぶのか?智恵のしぼりどころである。
年収高額者トップ100人でもいいくらいだが、貧乏人のやっかみを利用して反対する輩もいるだろう。

下院は「私」が主張される府で、上院は「公」が主張される府としたい。
こういう二院制をもちたいものだが、そうもいかないのが、この国の民主制がおかしいからだ。

もうすぐ参議院議員選挙。
つなげるとわからなくなるから、上院の「参議」を選ぶのだと、こころにしまっておきたいものだ。

パンとサーカスの国

「ジョージア」といっても、コーヒー・ドリンクのブランドでもないし、アメリカのジョージア州のことでもない。
ロシア語的発音では、「グルジア」と呼ばれてきた、旧ロシア帝国、ソ連邦、そして独立国家共同体の構成国だった。

「面従腹背」の屈辱から、ソ連という相手の勢力が衰えたのを契機に、一気にその独立精神を発揮して、いまや「反ロシア」を国是とする国家として、EUとNATOにちかく、イスラエルと共同軍事訓練をするほである。

オバマ氏が民主党大統領候補になったとき、なぜか福井県の小浜市が、その発音上の一致から、市をあげて応援する、という意味不明があったけれど、おなじように、ジョージアとジョージア州には姉妹都市協定があり、ジョージア軍とジョージア州軍にも相互協力協定が締結されている。

あのスターリンを産んだ国として、これを反動というのか進歩というのかはしらないが、とにかくロシアが大嫌いなのである。それで、ロシアとは国交を断絶している。

今般、そのロシアから国会議員がジョージアを訪問した。その目的は、キリスト教東方教会に関係する各国議員の会合がジョージア国会で開催されたことによる。はたして、議長を務めたロシア共産党の議員が、ジョージア国会議長席に「座った」ことから、群衆1万人が国会に押し寄せて、一大抗議行動となったのである。

なぜ我々の権威ある国会議長席に、ロシア人が座ったのか?と。

これは、ふたたび「占領される」のではないかという恐怖からでもある。
さほどに、ロシア帝国とソ連の支配は激烈だったということだ。

さいわいかな、我々日本人は、唯一の占領時代を、そんなに苦にしなかった。むしろ、支配者だったマッカーサーが離日するとき、大新聞は「マッカーサー元帥ありがとう」という大見出しを一面いっぱいにつけたという、世界的にも珍しい「事件」があった。

およそ被支配者は支配者に対して、そのような態度はとらず、唾やたまごを投げつけて溜飲を下げるのが、ふつうであるからだ。
この意味で、わが日本国は、特殊な国である。

なお、アメリカ合衆国陸軍の階級に「元帥」は存在しない。
マッカーサーは、日本軍に追い出されるまで、当時アメリカが支配していたフィリピンから「元帥」の称号を贈られ、その称号を連合国最高司令官の階級にしてしまったペテン師だった。

歴史に「もし」は云々いわれるが、アメリカ合衆国陸軍の「人事」で、アイゼンハワーとマッカーサーがそれぞれ交換して着任していたら、ヨーロッパと日本はどうなったのだろうか?
想像力と文才ある人物に、小説を書き下ろしてもらいたいものだ。

さて、それで、わが国では、予定どおり札幌市議会は「ピエロ」を除名した。正式の理由は、「品位を損なう」だった。
そういえば、2002年に、横浜市でも議会に掲揚される「日の丸」を引きずりおろそうとして議長席を占有した議員二人が「除名」されている。

これに対して共産党が発した声明は、『懲罰の内容については「公開の議場での陳謝」が妥当との立場を表明』という、しごく妥当なものだ。
共産党がまともにみえる、ということの危険性に注意したいものの、いわゆる「与党」のファッショ化は、ありえないほどまずい。

政治的立場はどうであれ、選挙で当選した人物への処分としては、共産党の主張はただしい。

すると、こんどは埼玉県の上尾市で、元市長の私有地の工事が公費でまかなわれたという。しかも、市議会議長がこの工事を役人にはたらきかけて、なんと受注したのは議長の息子の会社だった。

ちいさな話で、しかも「せこい」。
市がおこなった道路改良工事の結果、隣接する元市長の私有地の塀が傾いたのを補償しろという理屈だ。すなわち、改良工事の内容が問われるはなしだが、その因果関係はいかがだったのか?が不明だ。

しばらく、地元は大騒ぎになるだろうが、なんという体たらくか。
当事者の元市長や議長とその息子、だけではない。
市民の体たらくである。

とうとう民衆デモの要求がとおった香港では、3月に中国の習近平国家主席らを国際刑事裁判所に、南シナ海での人工島建設をすすめるのは「人道に対する罪」だと告発したフィリピンの元外相が、入国拒否されたという。

その理由は「安全上の脅威」だというからあきれる。
どちらが「安全上の脅威」なのか?例によってのダブルスタンダードだ。
もはや香港に自由はない、と、これまたアメリカ議会を刺戟する愚挙である。

われわれにはとおい国かもしれないところで、あるいは、半日でいけるような近隣で、「おいおい」という事件が起きている。

それにくらべて、わが国の平和は、なんの根拠もなく当たり前だとおもっている。
この緊張感のなさ。

ラグビーとオリンピックのチケット入手にかかわる騒ぎ。
年金よこせの騒ぎ。
まさに、「パンとサーカス」のはなしなのだ。

。。。我々民衆は、投票権を失って票の売買ができなくなって以来、国政に対する関心を失って久しい。
かつては政治と軍事の全てにおいて権威の源泉だった民衆は、
今では一心不乱に、専ら二つのものだけを熱心に求めるようになっている―
すなわちパンと見世物。。。

ユウェナリス『風刺詩集』第10篇77-81行

ピエロの除名で一件落着

札幌市議会の臨時議長をつとめた長老議員のはなしである。
このたび、議会を除名されることになったという。

香港人の意識の高さをおもうと、なんともわが国の意識の低さが気になる。
札幌市民は、ほんとうにこれでよいのか?

すくなくても、このひとが「除名」されるのは、「議会」であるから、なんのための「選挙」だったのかが直接問われる。
いったいどんな「罪」を犯したのか?

議長席に9時間ほど居座っただけである。しかも、法律の定めによって「臨時議長」に指名されてのことだった。
居座ったのが、選挙後の議長をきめるにあたっての方法で、裏できまっているひとを無記名投票できめるという慣例にしたがわず、立候補せよといったことだけが紛糾の原因だったのだ。

つまり、刑事罰で有罪をくらった、ということでもなく、「議会の慣例を破った」の一点で、除名処分はありなのか?ということなのだ。
除名処分は当然だ、というなら、議会の慣例が優先順位トップにあって、議員資格より重いということを支持するのと同じ意味になる。

そんなに大事な「慣例」なのか?

かつて、ヨーロッパの大国だったポーランドは、議会の慣例(重要案件は全会一致)によって、まさに「小田原評定」できまらない。
あーでもないこーでもないと、議員たちが勝手な主張をしているうちに、周辺の軍事列強国によって、なんと国家が「分割」されてしまった。

つまり、地図からポーランドという「国が消滅」したのである。

第一次世界大戦後、ふたたび国として復活するが、その後はドイツに蹂躙され、ソ連の衛星国になって、自主独立したのは1989年のことである。

もちろん、ポーランドの例は札幌市の参考にならないかもしれない。
しかし、議会が死ぬとどうなるか?という点では、あまりかわらない。
つまり、住人にとっていいことはなくなるからだ。

自由に対して敏感なひとたちなら、こうした議会のなかでの談合による「横暴」はゆるさない。
けれども、国会がその体たらくだから、札幌市民の感覚からしたら、どーでもいいことになっているのだろう。

つまり、この国は「やばい」のだ。

そのやばさが、札幌市議会という場所で露呈しただけである。

対象となった議員が、その後「土下座」して謝罪したから、はなしが卑しくなった。
なぜ「議長」選出にあたって、「立候補」せよとしたのかの思想がすっ飛んでしまったからだ。

驚くべきは、神奈川県の鎌倉市である。
こちらは、市議会の議長を「くじ引き」で確定している。
しかし、経緯としては、立候補した議員が複数いて、まったくの同数票だったために「くじ引き」になったのだという。

だったら、市議会議員もくじ引きで選べばよいのではないか?
住民台帳をつかってくじ引きにすれば、いやがおうにも市政に参加せざるをえないから、当たったらたいへんである。
市民ならだれでも当たる可能性があれば、すこしは、自分に関係あるとおもえるから、くじ引きだって地方自治には効果がある。

そうすれば、神奈川県の海老名市のように、今年九月から家庭ゴミも有料化するという暴挙の防止もできただろう。
これで、どのくらいのひとが海老名市から転出するのかしらないが、定年後、地方へ「移住」したいなら、こうした自治体に転入するのはリスクがある。

見えない制度と見える制度があって、移住してからの住民間のトラブルは、そうじて見えない制度(しきたりや風習)が原因にあげられるけれど、海老名の事例は見える制度として移住先にふさわしくないと教えてくれるから、その意味だけわかりやすい。

ただし、議会の慣例は、完全に見えない制度にあたるから、きわめて悪質なのである。
そんなわけで、札幌市にも移住してはならないということが全国にしれたのは、ピエロになった議員の唯一の功績ではある。

ペンを買えない不自由

市民の「保健」に行政が関与したがることに違和感がないのもいかがかとおもうが、保健のために組織された町内組織で、市当局から交付されたおカネで買っていいものと悪いものがあるのは、まったくもってお節介をこえた「不信」のしるしである。

この町内組織で、年にできるイベントといえば、せいぜい「ウォーキング大会」や「健康チェック」程度でしかない。
それに、回覧板で参加を呼びかけても、ウォーキングの参加者は二十人ほどで、町内組織の人数とかわらない。

せいぜいあわせて40人が、街中のきめたコースを歩くのである。
ゆるゆるの大会だから、途中リタイヤも自由なのだが、コース設定でもっとも気をつかうのは「トイレ」である。

日本人の膀胱は、白人の半分程度の容量しかない。
それで、海外の団体ツアーでも、トイレ休憩がもっとも重要なサービスになっている。
しかし、日本の高速道路にあるようなサービスエリアにおけるトイレの数がないから、たったバス一台でも長蛇の列ができる。

この逆が、日本観光においてトイレの整備状況が話題になることだ。
ずらーっと並んだ便器こそが、驚きの光景であって、それがすべて「自動」システムによるから、驚きの波状攻撃となっている。
それもこれも、膀胱の容量によることなのだ。

半日ほどのウォーキングコースでも3箇所以上のトイレ休憩ができることがコース選びの必須要件だ。
各自が用意する水筒の中身と量を自己責任にできるのは、いたるところに自動販売機があるからである。

そんなわけで、貴重な参加者に「参加賞」を渡したいとかんがえて、ボールペンやシャープペンシルを購入したら、市当局から「お叱り」をうけたという。しかも、区の担当ではなく市役所本庁からだから厳しいものだということだ。

その理由は、健康推進が目的なのだから、筆記具は目的に合致しないということらしい。
しかし、当局が推奨する安価な歯ブラシなどにしなかったのは、歯と歯茎を傷つけたりしたら本末転倒だとかんがえたからだった。

つまり、役人は安価な歯ブラシで人々の歯茎を痛めても、そんなことにさいしょから興味はないのだ。
名目上、健康になるグッズならなんでもよく、実質上、不健康になっても気にしない。住民感覚との乖離というより、発想の本質がそもそもちがう。

ちなみに、町内のこの組織にあたえられる予算は「年間で7万円」である。
ウォーキング大会参加者賞につかうおカネは2千円。
その使い途を「本庁」の役人がチェックしているということに呆れた。

この役人の時給はいくらなのか?
もちろん、関与している役人の人数はひとりではあるまい。

なかには、公費なのだから厳密なチェックは必要だというひともいるだろう。
しかし、そもそもが、各町内会から選ばれたひとたちで健康推進を目的に組織しているのだから、「渡しきり」として残高と領収書のチェックができて、私的流用さえなければ問題なかろう。

いい大人の集団が、単価100円のグッズにあれこれかんがえをめぐらさないといけないことの時間のムダも、もちろん役人は考慮などしていない。
ウォーキング大会という目的でつかったのだから、ボールペンだろうが健康のためになる、とはふつうの解釈である。

もはや日本から半日でいける香港では、とうとう200万人ものデモになって、行政府長官が謝罪する事態にまでなった。
もちろん、まもなく大阪ではじまるG20で、この問題を議論したくないひとたちが「延期」を指示したのだろう。

しかし、わが国では、役所が大人を相手に、ボールペンを買うなと指示=命令してもデモにならない。行政府長官=市長がやり玉にあがらない。
とっくに「不自由」があたりまえで、「自由」がなにかがわからない国になったのだ。

それでとうとう、わが日本政府は香港の民衆デモを支持するという立場表明をしない、「世界で唯一」の自由主義国となってしまった。
これが、世界からどう見られるかが問題なのであって、日本の先進性をアッピールしたいと、空港に挨拶するロボットを配置することではない。

日本人が世界から尊敬されないのは、日本政府のせいである。
しかし、日本政府を監視するやくわりの「議員たち」が、与野党あげてぜんぜん役に立たない。

日本人も、大規模デモをやるようになるのは、遠い将来のことではないだろう。
しかし、その方向がトンチンカンになりかねないから、どこまでも不幸がつづきそうな気配はある。

プロパガンダのレジ袋有料化

わが国で当代最高のプロパガンダのプロフェッショナルといえば、世耕経産相である。
前にも書いたがこのひとは、小泉政権時代の自民党広報の責任者で、国民の大半をしめる「B層」に対する戦略で、「郵政選挙」を大勝にみちびいた実績がある。

「B層」とは、知能が低くマスコミ報道に流されやすい人びとを指す、と定義されている。

論功行賞で、とうとう経済産業大臣にまでなったが、経済産業政策のあるべき姿ではなく、経済産業政策の広報にしか興味がないのだろう。
つぎつぎとでてくる経済産業省の政策の失敗をものともしない不遜な態度は、麻生氏のそれと同様、国民はバカだと断定しているからできるものだ。

消費税増税は、消費税法という法律の改正をひつようとする。
しかし、おどろいたことに、レジ袋有料化は関係省庁の「省令」改正「だけ」で対処するということだ。

これは、香港の事態を招いたことより「悪質」ではないか?

昨日、香港騒乱でいっとき審議が延長されたが、そもそも「議会」での議論と決議による手続きをひつようとしたもので、行政府長官の一存ではきめられない。

しかし、ひろく国民に負担を強いる「レジ袋有料化」を、役人がかってに決められる「省令」とは、まさに、ファシズムである。

これに加担するマスコミの堕落も、「B層」を相手にしたプロパガンダのお先棒をかつぐものだ。
それで、国連からわが国の報道に自由がないというなら、マスコミこそがダブルスタンダードだ。

みずからすすんで政府と一体の報道しかしないのは、ジャーナリズムの放棄であって、政府広報誌に積極的になろうとする態度だと断言できる。
もはや、民間の広告が激減し、従来からかわりがない政府広報予算でしか、マスコミも自社の売り上げを確保できないのだろう。

レジ袋を「プラスチック製」と書くのは、まったくナンセンスだし、それでプラスチックゴミの削減が見込める、という筆致の妙。
優秀な文系ならではの文章ではないか。

これとおなじ説明が、太陽光発電が「エコ」だというはなしだった。
その太陽光発電も、とうとう科学の原則に抗えず、経済産業省が完全破たんを宣言した。

そもそも、レジ袋がゴミでできていることをすっかり忘れてしまっている。
それに、スーパーで販売されているゴミ袋も、レジ袋とおなじ材料(ポリエチレン)で、こちらはもちろん有料である。

有料のゴミ袋と無料のレジ袋をおなじ店であつかっているのだから、店は無料をやめて、有料のゴミ袋を買ってもらいたい。
数回しかつかえないけれど、家庭ゴミをすてるゴミ袋になるのだから、レジ袋ほどエコなものはない。

けれども、産業優先、という「国是」をいまだに推進しているのがわが国官庁の基本思想だし、それが官庁の「利権」にもなっているから、二重に手放す理由がない。

「環境」という分野にもちゃんと「利権」がうまれたから、環境庁が環境省になった。
この省庁も、環境にいいことではなくて、省庁の役に立つものが「環境にいい」という定義になっている。

それで、科学を無視するのだが、研究予算というおカネで科学者を買収し、御用学者を生産するさまざまな役所がやってきた手法で、レジ袋削減は環境にいい、ということにした。

水をたっぷりふくんだ「生ゴミ」が「燃えるゴミ」で、石油製品からなる「プラスチックやビニール類」が「燃えないゴミ」という定義も、小学校の理科で説明できるものか?

できないから、社会科で説明する。
おとなはいろんな事情から「理解できる」が、子どもにいろんな事情は通じないから、ちょっと気を回す子どもなら、悪魔的に「どうして燃えないものが燃えるゴミ」で、「よく燃えるものが燃えないゴミ」になるのかがわからない。

そう聞かれれば、おとなの先生だって「合理的」な解答をもっているわけがないから、「社会のルールだ」というしかない。
こうして、社会に不信感をもつように育てられているのがいまの子どもの不幸である。

小学校には立派なパソコンが設置されているが、いまどきなら家庭にもパソコンはあるし、小学生がスマホをもっている時代だ。
それで、生ゴミをどうして燃やしているのかをしらべれば、重油やガスを燃やして焼却炉を高熱にするから、水が蒸発して燃えてしまうのだとわかる。

横浜市はご丁寧にも、分別収集した「燃えないゴミ」という定義の、よく燃える物質は「燃えるゴミ」と一緒に焼いていません、といっているから、ふつうなら燃えるはずのない「燃えるゴミ」のために、たっぷり資源である重油やガスをつかっている。

それに、燃えないゴミをどうやって処分しているのか?中国が輸入禁止してからも情報統制は厳格につづいているからわからない。
全量が「リサイクル」利用されていると信じるひとはいないだろう。

社会見学で、ゴミ焼却場を訪問すれば、おとなが丁寧におしえてくれる。
だったらさいしょから「燃えないゴミ」と一緒に焼いたら、投入する重油やガスの量が減って「エコ」ではないか?という素朴な疑問がうまれる。
これを、とっくに「無害」だと証明された「ダイオキシン」が発生するからと説明したら、もうスマホ検索の習慣がある小学生は薄ら笑いをうかべるだけである。

そんなわけで、オリンピックにあわせて世界に「日本のすごさ」を発信したい、と、国民はぜんぜん望んでいないのにこれをやるなら、やっぱり戦前とかわらぬファシズムの反省がない国だと、またまた難癖をつけられても、こんどこそ反論できない。

プロパガンダでしかないゆえの必然である。
世耕氏は危険人物である。

パリのパン屋さんと銭湯

かつて、パリでご町内の商売といえば、パン屋さんだった。
各町内には、かならず一軒のパン屋さんがあって、住民はこのパン屋さんから「しか」パンを購入できなかった。
そういう「統制」があったのだ。

もし、となりの町内に、おいしいと評判のよいパン屋さんがあっても、そこでは買えない。
ただし、パン屋さんからすれば、どんなに努力しても、おなじ町内の住民にしか売れないから、ふつうはそんな努力はしない。

それに、おいしくない仲間のパン屋さんたちから、組合を通じて文句をいわれるので、だいたいおなじような「まずさ」に調整した。
こうして、絶対につぶれないパン屋さんは、家業としては安泰だったが、仕事としては張り合いがないから、後継者不足が深刻になった。

そんな世の中になっていた、70年代、大型スーパーが登場した。
パン屋がパン屋であるのは、粉から練って発酵させる工程を職人が全部やるという前提の「パン屋保護法」だったけど、大型スーパーの店内で焼くパンは、冷凍食品であったからこの法律が適用されずに許された。

店内で「焼くだけ」でできる冷凍パンは、当初、冷凍技術が中途半端でベシャベシャだったから、街のパン屋の相手にならなかった。
ただ、安かった。

ところが、日本の技術を採用した冷凍パンが焼かれるようになって、業界地図が塗り変わってしまった。

町内のパン屋さんより、はるかにおいしくて安いパンが、スーパーで買えるようになったからである。
それが、後継者不足と重なって、町内のパン屋さんの廃業が続出した。

「統制」の保護下にあったパン屋がなくなれば、まじめな住民はスーパーのパンしか買えない。
あわてて法律をかえて、廃業したパン屋の代わりに近隣の町内のパン屋さんでも買えるよう許可したが、もはやスーパーのパンにかなわない。

困り果てた「全フランスパン屋組合」の組合長が、激論の末、このままでは日本のパンに我々が殺される、という危機宣言をだして、パン屋の自由化を政府に要求した。
背に腹は代えられね、ということである。

社会主義統制経済をむねとするミッテラン政権は、しぶしぶこれを認めて、自由競争がはじまった。
すると、世の中に、おいしくて安いパンが出まわって、経営に積極的なパン屋さんは、各町内に進出して規模の拡大を目指すようになった。

そうなると、冷凍パンでは勝負にならない逆転になったから、政府による統制とは脆いものなのだ。

これが40年前のフランスで起きたことだ。
しかし、わが国の「統制」は各方面に連綿とつづいている。
個人経営の酒屋は壊滅して、日本の町内といえば、銭湯が残っている。

タクシーもおなじで、地方によっては街からタクシー会社が消滅の危機をむかえて、市民の足がなくなりそうなところもではじめた。
たとえば、神奈川県の三浦市がそれだ。

もっといえば、医療・介護系はみな国家統制でがんじがらめだから、どちらさまの病院も赤字でこまっている。
市立病院が閉鎖に追い込まれるのも、国家統制のおかげだから、病人がいちばんこまることになっている。

こうした国家統制をのぞむ業界団体があって、おもいだせば獣医師会がそうだった。
この団体が、文部科学省という役所をまるめこんで、あたらしい獣医学部をつくらせない、と決めさせた。

文部科学省は、なぜだか省庁におけるランキングが低く、国家公務員試験の成績順位ビリ組が入省するといわれている。
それでかしらないが、少子化がわかっているのに大学設立を自由化したのは「快挙」ではあった。

もともと自由競争をさせればいいからで、たとえ少子化でも、設立したいと申請するのは勝手であるから認可をしたまでだ。
ところが、あたかも乱立した大学の経営が行き詰まったのを、文部科学省のせいにするという論調がたって、役所が批判の矢づらにたたされて怖じ気づいたのだろう。

もっとも、私学助成金でがんじがらめにするのが常套手段だから、おおいに役所にも経営責任がある。
これもやめていたら、学校経営者の責任だけしかないのに。

そんなわけで、ことしは東京都の銭湯組合が入浴料金10円の値上げをきめたそうだ。
このうしろには、東京都というお役所がいる。

パリのパン屋に遅れること、半世紀がたっても、おそらくこの制度は続くのだろう。
新規参入の形態が「スーパー銭湯」ばかりで、銭湯組合に入会しないのはこのためである。

業界人は、鉄壁の社会主義統制経済がだいすきなのだ。

安倍内閣の実績がないのは?

ながければいい、というわけでもないが、一年もしないでコロコロ政権がかわったころと比べたら、圧倒的な安定感だ。
議会の絶対的多数を確保しているのだから、その「安定感」には裏付けがあるし、むかしはさかんだった「党内派閥」も、いまではすっかり色あせている。

にもかかわらず、「これ」といった「実績」がない。
なぜだろう?

最大のポイントは、いまだに「国家資本主義」をやりたがっている、ということではあるまいか?
19世紀から20世紀に流行ったが、世界中で資本主義がさかんになって、とっくに「国家」が経済を仕切れる時代ではなくなった。

日本の経済体制は、戦前の国家総動員体制が戦後も温存された、という事実をわすれてしまうと、なにがなんだかわからなくなる。
なんども書くが、戦後復興と高度成長が、この国家総動員体制による政府の主導で成し遂げられた、というかんがえ自体がまちがっている。

戦後の混乱による、政府機能がそこなわれた時期こそが、日本経済の成長をうながし、朝鮮動乱とアメリカの対日基本政策の転換があったゆえの「奇跡」だった。

おカネがない政府、そして財政規律があった政府だったから、その後の「豊かな時代」における潤沢な政府予算が「ない」時代こそ、わが国経済は画期的発展をとげたのだ。

だから、いまの時代ならほんらい、政府機能をどのように制御するのか?についての「思想」がなければならない。
伝統的に左翼ばかりの野党は、とうぜん社会主義計画経済をやりたい。
ながねん政権を担ってきた自民党が、なんだかんだいまも与党で、しかも圧倒的な勢力なのは、自由主義、だという国民の期待からである。

しかし、ほんとうは自民党こそが、社会主義計画経済の推進者なのだ。

これが、民主党へ政権が移ったときの、国民の自民党への失望だったはずだが、あろうことか、民主党は、自民党よりほんの少しだけ左翼だったから、より強力な社会主義計画経済をやろうとして自滅した。

結果的に、より「まし」な、自民党に政権がもどっただけだ。
口癖のようにいう「自由と民主主義という共通の価値感」など、いっている本人にないものだから、米国のトランプ大統領に圧倒されるのだ。

そういう事情をかんがえれば、世界の四極構造のうち、日本タイプが三極で、アメリカ一極が「自由と民主主義」を文字どおりやっているのがみえてくる。
つまり、日本、中国、欧州は、日本タイプの「国家資本主義」をやりたいのだ。

日本タイプの表面上の指導者は、田中角栄だ。
中国共産党と田中角栄の関係は、角栄失脚後もより一層のものだった。
改革開放路線というのは、日本タイプの国家資本主義なら、共産党独裁政権による支配が継続できるとかんがえたにちがいない。
なぜなら、自民党独裁政権がつづいているからである。

おそらく、欧州も、日本研究の結論として、みずから日本タイプに変革することを「是」としたのだ。
それで、自由と民主主義を「いかに棄てるか?」を入念につくりあげた。

欧州は、どのような仕組みになっているのか?
じつは、むき出しの官僚支配であって、日本的要素が露骨に飛び出してしまった。

先月の欧州議会選挙で、英国のブレグジット党が大勝したことがニュースにはなったが、いまひとつピンとこないのが「欧州議会」ってなんだ?ということだ。
この議会、「議会」と名前はあるが、「立法府」ではない。

さらに、「欧州理事会」というのがあって、これは、EU加盟国の国家元首か政府の長で構成され、この中からえらばれたひとが「EU大統領」といわれてはいるが、アメリカの大統領とはちがって、ドイツの大統領のような「名誉職」だ。

すると、EUはいったいだれが仕切っているのか?
それが、「欧州委員会」だ。
この「委員」は、官僚によって構成されるから、ひとりも選挙でえらばれたひとはいない。

欧州人は、日本化するにあたって、日本より強力な欧州にするため、「優秀な官僚」による支配体制を、構造上も露骨につくりあげたのだ。
これは、各省庁が国会の上に位置するのとおなじだが、日本の実態を忠実に再現すれば、たしかにこうなる。

そもそも、日米に対抗するためにできたのがEUなのだ。
日本タイプと米国タイプのどちらを採用するか?
官僚統制の成功、いわゆる一般的な日本の成功というウソ物語を信じた欧州の決断が、おそらくこれから歴史的崩壊をまねくのだ。

アメリカを産んだ国、イギリスが離脱するのは、とっくに経済問題ではなく、思想の問題なのだ。
それを、どっちが得か?でしかかんがえられない卑しさが、あいかわらず日本国を支配している。

欧州の問題は、日本の問題のコピーなのだ。

安倍内閣にこれといった実績がない、深くておおきな理由である。