星新一の「長編小説」

生涯で「1001話」を超える作品をつくったこの人は、「ショートショート」という「短編中の短編」を得意にした「文豪」であったと評価されている。
しかしだからといって、「長編」を書かなかったわけではない。

文章のプロとして、短編を得意にするということの実力は、長編にこそ発揮されてしかるべきだろう。
短編がギュッと詰まった「サプリメント」のようなものだとすれば、長編とはコース料理のようなものだ。

そこで、「実話」を基にした、強烈な(政府)批判精神で貫かれているのが、『人民は弱し 官吏は強し』なのである。
「官僚」とせずに「官吏」としたのも、強い反発心からだろう。
むかしは、事務員のことを「吏員」と呼んでいた。

実父の人生をどうやったら小説にできるのか?
なにせ、子である作者は若き時代にまだ生を得てはいない。
すると、よほど言い聞かせられたか、質問攻めにしたか、あるいは両方だ。
でも、言い聞かせられたから質問攻めにしたのだろう。

それに、実父である本人も、かなり言い聞かせることに執心したにちがいない。
これは、読めば分かる「性質」である。

わが国の「偉人」で、アメリカに渡った瞬間からの「受難」はひとつのパターンとなっている。
実父は、到着早々に在留邦人に欺されて「所持金のすべてを巻き上げられてしまった」とある。

密航をくわだてた少年高橋是清は、横浜を出て数日後に潜入した船内でみつかってそのまま渡米を果たすものの、船長の「奴隷」にされて到着するなり農場主へ「売却」されてしまっている。
奴隷から総理大臣になるひとの一代記は痛快だ。

 

それで、働きながら「苦学」する共通もある。
この点で、国家から留学派遣されたひとたちとは、「苦学」の意味が異なっている。

また、星の実父「一(はじめ)」は、コロンビア大学への入学にあたって、「授業料として必要な年百五十ドルがかせぎ出せない。その際は、講義を聞くのは半分だけにするから授業料を半分にまけてくれ、との案を持ち込んで交渉し、学校側を承知させた」。

「大学の自治」とは、こういうことをいうのだ。
すっかり文部科学省の「軍門に降った」わが国の大学では、あり得ないエピソードになってしまった。
アメリカの大学は、いまだに「連邦教育省」から「独立」している。

だから、いまの時代だって、一氏とおなじ主張をしたら、認められる可能性はある。
ただし、「奨学金」という名の「高利な学生ローン」を借りろといわれる可能性もある。

それに、国家から補助金をもらわないから、授業料がべらぼうに高い。
一氏の「年間百五十ドル」だって、今にしたら数百万円になる。
これが、「格差」を生むという批判が絶えない。
アメリカには存在しない国立系の大学に匹敵するのが、軍の幹部養成学校たる「士官学校」などで、成績優秀者が集まる理由にもなっている。

大学紛争の時代、例えば、東大安田講堂事件とかで、大学当局が警察を呼び込んで鎮圧したのを、「大学の自治を侵害した」ということに「矮小化」することに成功したけど、これをたくらんだのも東京大学の卒業生たる官吏たちの仕業である。

わが国でいう「大学の自治」とは、アメリカやヨーロッパに比べたら、「ごっこ」にすぎない。

そういえば、「未解決事件」の典型とされた、「三億円事件」も、犯人はとっくにわかって(死亡)いたけど、これを隠して、あらゆる「捜査」に活用されたのと似ている。
すなわち「問題のすり替え」だ。

これが、官吏たちの「基本的な手口」なのである。

もちろん、アメリカやヨーロッパが「進んでいる」という単純なことではなくて、むしろ「未開」で「野蛮」であったがゆえにできた「自治」の考えであって、それから生まれた制度だ、という歴史的経緯があってのことである。

その意味では、「学問所」なり「藩校」が盛んに設立された一方で、「寺子屋」も常識だったわが国の事情とはぜんぜんちがう。

ところが、一氏は若くして渡米し、在学中に新聞社を設立・経営し、それから大学も出て(修士)、帰国時(1905年)には新聞社を譲渡しているほどに、アメリカナイズされていた。
これが、「仇」となったのである。

わが国で近代資本主義が導入されたのは、当然に明治期ではあるけれど、上げ潮でドンドン上っ調子だったのは、明治中期までだった。
日露戦争での(政府の)戦費負担は、その後の(政府による)「経済統制」へと進むのである。

一氏の人生は、この時期に「当たってしまった」のだ。

明治政府も江戸幕府を倒した後にできたから、急場作りであったし、官僚機構も未熟であった。
この「政府機能の未熟さ」が、「自由経済」と結合して、最初の「東洋の奇跡」という化学反応になったのである。

外国と戦争ができるまでになったのは軍の充実だったけど、一方で、官僚機構の充実もあったからである。
高橋是清が欧州で「戦費を起債できた」のは、留学時代に構築した「人脈」が可能にさせた。

第二次世界大戦の戦後の奇跡も、官僚機構の弱体があってのことで、田中角栄内閣時代に、「政府機構の完成」を見る。
ここから、わが国の転落は用意されてもいた。

星一氏の「一代記」は、今を書いているのである。

横浜市長選挙の混沌

22日が投票日の横浜市長選挙、昨日は選管から『投票のご案内』が届いた。

昨年11月のアメリカ合衆国大統領選挙と連邦上・下両院議員選挙など(州によっては自治体選挙も)での「歴史的不正」について、いまだに「監査」が行われていて、徐々にその「不正の実態」が明らかになりつつある。

この点、バイデン候補が思わず選挙終盤での演説で口にした、「我々は歴史的大規模でかつ組織的な不正選挙をやっている」ということの「正直さ」が証明されつつある、という意味でもある。

要は、「陰謀論」が科学的に否定されだして、慌てた民主党が裁判に訴える「抵抗」を示している。
「勝った側」が抵抗を示すというのは、かつての日本的ではない。
純朴な「正義」を信じた日本人は、勝った側こそ「監査」を求めると発想して、完璧な勝利を証明するものだとの理屈になるからである。

しかし、不正で勝ったとなればそうはいかない。
こうした民主党の組織的な「怪しい態度」が、いよいよ純朴なカウボーイ気質のアメリカ人に嫌われている。
でも、いまの日本人は、不正をしてでも勝てば官軍という発想をしている。

この意味で、「わが国戦後」のアメリカ民主党の精神的支配は、完成したのである。
しかし、根本的に「反米」というのが、わが国の左翼と右翼の「両方」が持つ基本方針なので、よほどにねじれて、「親中」になってしまった。

だから、「右翼」とか「左翼」という用語は使い方が難しい。
例えば、いわゆる、「右翼」による大音量での街宣車は、一般人に「日の丸」に対する嫌悪感を持たせるための「宣伝」だと解せるので、「反日左翼」と位置づけることができる。

勇ましい国粋的なパンフレットが心に響かないのは、逆説的「褒め殺し」の典型を読みとることができるからである。

ハイエクがいうように、「右翼・左翼」という曖昧な用語ではなく、「自由主義、対、全体主義(社会主義・共産主義)」とに言い換えるべきなのである。
すると、自民党がかつての自由主義政党ではなくなっていることがわかるし、野党も全てが全体主義を目指している現状が理解できる。

例えば、大阪において自民党と共産党の提携が起きて、おなじ街宣車の屋根に両党の幹部が立って演説したのも、「右翼・左翼」という設定では説明がつかないけれど、どちらも「全体主義」で、大阪維新の会という「全体主義」に対抗したものとみれば、スッキリするのである。

おなじ「主義」なのに、どうして対立するのか?は、簡単で、「別組織」であるのに、支持者層が同じという、マーケット的にバッティングするからだ。
ヒトラーとスターリンが犬猿の仲だった理由と同じ構造がここにある。

地方のことで中央とはちがう、というのは「欺瞞」である。
自民党と共産党には「(全国的)政党組織」があるのだ。
この点で、もっともわかりにくいのが自民党で、中央では公明党と「連立政権」を構成している。

公明党という全体主義政党も、共産党という全体主義政党とは犬猿の仲だから、「三つ巴」の中心をなした自民党こそが、もっとも政党として悪辣で節操がないことをやってのけたのだった。
これを、「イデオロギー政党ではない」という、およそ「政党」であることを自己否定してはばからないから、本質的にも質(たち)が悪いのだ。

そんなわけで、横浜市長選挙がひどいことになっている。
自民党がずっと推薦してきた「現職」なのに、この選挙に立候補するために国家公安委員長という大臣職を辞めて、自民党の国会議員も辞めたひとが、自民党を離党もせずにいる。

しかも、今の総理大臣(=自民党総裁=党首)はこの人の御尊父だった国会議員の秘書から身を立てて、今でも横浜市の選挙区から出ている国会議員なのだから、横浜市長選挙に関与しないはずがない。
だから、自民党の分裂選挙なのだけど、旗幟をはっきりさせない「党利党略」をやっている。

まことに、有権者不在、という地に落ちた民主主義を「政権党」とその「トップ」がやっているのだ。

それでもって、「カジノ」という「ワンイシュー」を争点にしている。
これはこれで、「B層」向けの選挙対策なのである。
B層とは、「マスコミ報道に影響される、知能が低い人たちの層」を指す。

知能が低いから、複数の問題提起について行けない。
だから、ワンイシューにする。
それで、短い言葉のキャッチフレーズを繰り返すことでの「擦り込み」が重要なのだ。

ついでにいえば、「正義をかざす」こと。

こうして、カジノに「白紙」だった現職を、知らないうちに賛成に回ったことで、カジノ反対派は「裏切り者」とすることに成功した。
そうして、反対派がたくさん立候補しているのである。

これに加えて、「ハマのドン」といわれた港湾関係者(社)を長年「独裁的」に仕切ってきたひとが、高齢で引退を表明したものの、「現職」の後援会長も辞めたのに、立憲民主党が推す候補の応援を表明した。
これに、業界人たちの長年の鬱積が力学的反発となって、噴火しようとしている。

東京の「ニュータウン」に成り果てた横浜市は、市全体で「限界集落化」の危機にある。
それで、市役所のお金を確保したいから「カジノ」になって、市民生活と市役所が分断された。

もっとも、肝心のカジノ業者は、アメリカ企業が全社撤退して、手を挙げているのは「中華系だけ」になっている「ねじれ」がここにもある。

人口が巨大なゆえに、関心が薄いから、「激戦」に見えても市民が割れているわけでもない。
首相の「お膝元」は、わが国の縮図になっている。

紙の本と電子書籍

同じタイトルで内容が違うことがある。

先日紹介した、『自発的隷従論』では、メモを取るために購入した「電子版」をチェックしていて、「付録」にある1本の論文がまるまる欠如していることに気がついた。
「解説」と「訳者あとがき」とかは、オリジナルの紙の本のままなので、電子版「だけ」をみていたら、内容について行けないことになる。

その論文とは、フランスの人類学者ピエール・クラストルの『自由、災難、名づけえぬ存在』(1976年初出)である。
紙の本にして約30ページが欠落している。
この中で、クラストルは、『自発的隷従論』を本業からの視点で解説しているのだ。

もちろん、『自発的隷従論』は、「1553年以前には完成していた」のだから、クラストルの一文は、ラ・ボエシの執筆から420年以上の時を経てからのものである。
すると、この「欠落」は、クラストルの著作権の方が「問題」になったのだろう。

それにしても、かくなる「ちがい」について、読んでみないとわからない、というのはやっぱり「不親切」だ。
「目次」のちがいから「気がつけ」というのも随分なのは、経緯を説明していないからである。

べつにわたしは「研究者」ではないけれど、同じ本と思っていたら、ちがっていた、というのは残念なことで、しかも、二冊とも購入して初めて気がついたのである。

それでも電子版を返品しないのは、やっぱりメモや覚えを作るのに「便利」だからである。

クラストルの著作については、メモアプリで記入するしかないけれど、より「手を動かす」ことになるのは、妙にラ・ボエシがクラストルとの仲を取り持ってくれた感がある。
これはこれで、「読書サーフィン」の役に立つ。

されども、やっぱり「注意」がいるのである。

「高級マウス」は必要か?

パソコンのお供といえば、「マウス」である。
このデバイスを発明して、これに「マウス」と命名したセンスが光る。
たしかに、ネズミのしっぽのようだけど、向きが逆なのに違和感があった。

いまや「マウス」らしくない無線マウスが主流になったけど、客先でのプレゼンで、電池切れが怖いので有線が「本番」には欠かせなかった。
いまでは、無線でも電池切れの心配が少なくなったけど、全面的に信頼はしていない。

それだから、いまだにバッテリー内蔵型よりも、乾電池式を購入したい。
まぁ、最近では数分で数時間持つという「急速充電」が可能と言うけど、内蔵バッテリーの寿命がマウス本体の寿命になるのはいかがかと思うのだ。
これが、最初の疑問である。

一概に「マウス」といってもピンキリで、数百円のものから1万円台の半ばまで、その「高機能」と「多機能」がお値段に反映されている。
なので、「低機能」と「単機能」なのは安価なのだ。

では、どんなのが高価なのかといえば、まずボタン数が違う。
安いものは2ボタン(左・右クリック)だけなのに、8ボタンとかそれ以上の機種もある。

これらのボタンは、カスタマイズできるようになっていて、さらに、使用するアプリケーション毎の設定もできる。
それが、「マクロ」までも記憶させられるので、決まった作業の自動化もマウスのボタン一つで可能となる。

こうした機能を記憶するのは、もっぱらパソコン本体側の仕事だったから、異なるパソコンと接続させたら、また新たに設定をしないといけなかった。
ところが、メモリ・チップの小型化で、設定条件をマウス本体に記憶させることができるから、どのパソコンにつないでも同じ機能が発揮できる。

加えて、複数台のパソコンを同時に使うときに、キーボートとマウスを共通化させることもできる。
高級マウスは、3台までのパソコン間を往来できる機能があって、しかも「OS」は問わない。

つまり、ウィンドウズ・マシンとマックを行き来して、ファイルや文書の「コピー&ペースト」すら可能となっている。
数百円のマウスでは、一切できないのは言うまでもない。

そんなわけで、ネット上では、高級マウスの「凄い」と「便利」が強調されて、多くのひとが解説動画を上げている。
しかも、これらのひとに共通するのは、皆さん「動画」を編集する、クリエーターなのであって、そのための「便利」が強調されるという傾向がある。

むしろ、ふつうの事務でどうなの?という観点が欠けている、ともいえるのである。
そのふつうの事務の典型とは、「表計算ソフト」と「ワープロ(文書作成)」の二大作業に相違ない。

すると、動画編集に用いて「便利」な機能は、ほとんどオーバースペックにならないか?

複数のパソコンをまたいで使う、といった場合に、それがウィンドウズ・マシンばかりであるなら、わざわざ「マウス」の機能としてではなくて、マイクロソフトが提供する「Mouse without Borders」というソフトが無料で使えて、しかも、これだと4台までが同時使用可能である。

「OS」を超えて使う場合でも、2台までなら「Share Mouse」というソフトなら無料(有料版は9台まで可)で使える。
なお、物理的に2台のPCを接続するケーブルも販売されているが、それなりのお値段(3~5千円程度)である。

すると、高級マウスで残る機能は、ボタン数とその設定がメインとなる。
もちろん、上下スクロールと左右スクロールは、表計算ソフトだと重要なので「悩みどころ」となる。

ただし、エディタでの長文文章作成とか、ワープロが主であるなら、これらの機能をキーボード・ショートカットの多用でまかなうという方法が、もっとも効率がよい。
なぜなら、キーボードからマウスに持ち替える「往復運動」をしなくてよいからだ。

これはどういうことかといえば、初期の頃のパソコンには、入力デバイスとしての「マウス」が発明されていなかったからで、全ての作業をキーボード入力で完結させる、という機能が最初から埋めこまれているのである。

だんだんとハードウェアとしての能力向上と、ソフトウェアの利便性が同時に向上して、「プルダウンメニュー方式」が導入されると、マウスでの選択という方法が、誰にでもとっつきやすいということになったのだ。
それで、あたかもマウスが「必需品」に思えてきた。

ところが、実際にプルダウンメニューをみればわかるように、ほとんどの選択肢には「ショートカット」が割り振られている。
だから、とっつきにくいけど、「ちょっとの練習」で慣れれば、おそろしくキーボード「だけ」で作業ができるし、早いのである。

Macには、「CheetSheet」という単純機能の無料ソフトがあって、コマンドキーを長押しするだけで、いまこの場で使えるショートカットの一覧を表示してくれる。
その都度(やや面倒ではあるけれど)、パッドやマウスに手をやる前に確認すると、だんだんショートカットに慣れてくる。

それにMacなら、カーソル移動を矢印キーでさせるなら、コントロールキーと「ダイヤモンド・キー(E,S、D、X)」を押せば、上下左右にカーソル移動できるので、矢印キーにすら手を移動させる必要はない。

どうしても、というなら数百円のマウスで十分なのである。
ただし、肩こりを防止するエルゴノミクス(人間工学)に基づいた設計の「縦型」には興味が涌くのであった。

「水素」を得る方法

科学者の武田邦彦教授が解説してくれた、「水素」を得る方法が「科学的」なので、忘れないように書いておこうと思う。

まず、地球に水素はあるのか?を考えると、これは前にも書いたけど、少なくとも空気中には存在しない。
地球の引力が弱いので、空気中に水素があれば、すぐさま宇宙の彼方へ飛んでいってしまうのだ。

なにせ、原子番号「1番」の水素は、軽いばかりかちいさい。
それで、水素ガスをいかなるタンクに留め置きしようとしても、そのタンクを構成する金属やらの「壁」をやすやすと「通過」してしまうのだ。
だから、「水素ステーション」なる場所からも、ここに運び込むためのタンクローリーからも、水素は宇宙に逃げている。

すると、地球を「宇宙船」に例えれば、貴重な資源を永遠に失うことになっている。
これを、「サステイナブル(持続可能性)」というのは、言語的にも意味不明であるばかりか、「うそ」だとわかる。

「水素水」が「炭酸水」のように販売されていたことがあったけど、高価でも身体に良いという触れこみだった。
しかし、今年の3月30日、消費者庁は水素水生成器の販売・貸出事業者に景表法に基づく「措置命令」を出している。

これは、「健康への効果なし」ということであった。
けれども、もっと前の2016年12月15日に、国民生活センターは、「水に溶けている水素ガス(水素分子)は、容器の開封後や水素水生成器で作った後の時間経過により徐々に抜けていきます。」と指摘している。

あたかも炭酸水の気が抜けるのと同じようにみえるけど、水素分子は容器を「通過する」から、栓から抜けるのとは違うのだ。
もちろん、抜けた水素は宇宙へと逃げていく。

では、工業的(大量)にどうやって水素を得るのか?
二つあって、(1)石油から得る方法、と、(2)水から得る方法だ。
最初に、石油から得ることを考える。
石油には、1割ほどの水素が含まれているのだ。

では、石油から水素を抜き出すと、残りの9割は何になるのか?
それは、「炭素」なのである。
あれれ、「脱炭素社会」を目指すのではなかったのか?
ならば石油から水素を抽出してはならない、ということになる。

さらに、二酸化炭素を出すので、石油を燃やすのもやめたい、というのだから、これでは、石油を使ってはならない、という話になる。
もちろん、プラスチックもダメなので、「レジ袋有料化」をしたのだった。

ならば、われわれの文明生活をどうするのか?

二番目の方法は、いわずと知れた「水の電気分解」で水素を得る方法だ。
この電気は、どこで発電するのか?
太陽光パネルによるとするなら、例の「奴隷労働」が引っかかってくる。

それに、その地域でしか採れない「希土(貴重原子を含む土)」を大量に必要とする。
さらに、発電効果が劣化してきたら、このパネルの廃棄には更なるエネルギー・コストをかけないと、土壌汚染とかの「環境問題」が出てくる。

むかし、ブラウン管テレビの時代に、ソニーのトリニトロンに対抗して、日立が作っていたのが「キド(希土)カラー」だった。

そんなわけで、石油から水素を燃料として利用できるように取りだすためのエネルギーは、水素を燃料として使える「5倍」のエネルギーをかけないといけないし、水を電気分解するなら、「10倍」のエネルギーをかけないといけない。

これは、「化学」の自然原則なのである。

すると、「水素・エネルギー」というのは、「夢の」をつけないといけない。
あくまでも、「現実」ではない。

石油の代わりに使おうという「燃料」が、10倍の石油を使わないと取り出せないなら、ふつうは、「ナンセンス」というのである。
しかし、ここにまた、原子力発電が出てくる。
しかし、その原子力もまた、「夢の」だったのである。

50年代から60年代、「夢の原子力発電」といわれたものが、つぎつぎに誕生し、その「クリーン」さと「安全性」が自慢の種だった。
「クリーン」さとは、電気自動車のように「走っているときだけ」なにも排出しない、というだけの子供だましを政府が唱えていたのだ。

これは、「水力発電」のダムにだっていえる。
しかし、水力も原子力も建設に関わるエネルギー・コストをいわないし、腐った水を流して環境破壊をするダムの「負の面」を評価対象に「しない」ということが慣習化した。

さてそれで、川崎重工が「(夢の)水素エンジン飛行機」を、「SDGs」の一環として開発するという。
三菱重工が、「ふつうの旅客機」に失敗して、屋台骨が傾いたのを経営者はどう思っているのか?

飛んでいるときに排出するのは「水だけ」というけど、一回飛ばすのにどのくらいのコストがかかるのか?
これらの開発に、またまた税金が投じられるけど、経産省という名の「日本経済破壊工作省」が、口も出す。

三菱重工の二の舞を自ら進んでやる、という経営陣を株主は黙って見ている。
それは、既存事業でコスト吸収をはかる、という意味になるから、既存製品の利用者にも重大なコスト増となるはずだ。

わが国の「重工企業」の終わりがやってきた。

宗教が死んだ日本に再生は?

外国由来の「自由主義」だったから、元来日本人には馴染みがなかった。
この「自由主義」のはじまりは、宗教的対立における「信仰の自由」をいうからである。

残念ながら、未開のヨーロッパには、中近東の砂漠を発祥地とする厳しい一神教が入りこんで、これを信じることしか許されない社会をつくった。
そして、その社会から産業革命へとつながる資本主義が誕生し、現代世界の礎となったのである。

けれども、資本主義がどうして生まれたのか?についての確定的定説が「ない」のも、現実であるから、さまざまな「説」が乱立することになっている。

あたかも、新型コロナウィルスを特定し、分離に成功したひとが誰もいないのに、「◯✕株」とかなんとかという「乱立」が、そもそも論を「陰謀論」に仕立て上げるようなことと似ている。

日本人がかなり特殊なのは、世界最古の王朝を継続させながら、宗教観を得たいのしれないほどに変化させてきた歴史があることだ。
その王朝の最深部にある「神性」を支える宗教と、現実生活世界における宗教が分離して別々になっているからである。

この意味で、我々日本人は、宗教的統合失調症にあるのだ。

わが国の中世秩序と近世秩序とを分ける「応仁の乱」から、一般人の信仰も高まって、一向宗徒による一向一揆がときの為政者を悩ました。
その悩みの深さが強い憎しみの感情になって、凄惨な皆殺しになったのが、伊勢長島の一向一揆の結末だった。

この地の近くに、巨大な遊園地をつくる感覚は、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒からしたら、狂気の沙汰としかかんがえないだろう。
少なくとも後世に、巨大な鎮魂施設をつくるのが彼らの本分だ。日本人は、現世利益だけの施設を鎮魂とせず、「癒し」とした。

ならば日本人は、皆殺しに寛大なのか?といえばそんなことはないはずだけど、これをコメディ・ネタにして、オリンピックの演出を解任されたひともいた。
「若気の過ち」ではあるけれど、映像では観客が「爆笑」している問題があって、こちらの方がより「深刻」なのである。

こうしたことになったのは、いまも徳川時代の価値観が継続しているからであって、この意味でわが国は21世紀的ではなくて、「近代前期」のままともいえるし、決定的に西洋や中東とは別文化なのである。

では、徳川時代になにをしたかといえば、強大な武力を背景とした、圧倒的な迫力(実戦闘経験がある武将)による「宗教弾圧」なのである。
これでできたのが、「檀家制度」だし、「寺領」という制度であった。
よって、住民の意向とは関係なく、その地域に住んでいるだけの理由で、信仰対象が異なる宗派が決められた。

つまり、本人たちの信仰心は無視されたのだ。

人口の9割近くが農民だったから、簡単に引っ越しできない。
日本の農民は、ヨーロッパ的な「農奴(serf)」ではないけれど、信仰の選択の自由がない、という意味なら「農奴以下」にあたる論もあろう。

なので、今でも地方の農村で、狭い地域なのに宗派の違う寺が点在していたら、その建立年といわれを調べて一覧にすれば、地域内の対立をあぶり出すことができる。

それでもって、そうした地域内の分断が町内とか「区」として残っているものなのだ。
それが、とっくに「習慣化」されているからで、地域の中にいればいるほど、気づかないものでもある。

そんなわけで、いまの大変化(コロナを利用した分断とか、経済破壊工作を、政府がやっていることなど)に、気づかないというのは、日本という地域の習慣にどっぷり浸かっているからだとしか思えない。

こうした状況になると、日本の歴史的パターンでは、「宗教」がパワーを持つのだ。
たとえば、「お伊勢参り」が「デモ」になったりもしたし、「踊り念仏」が大流行した。

そうはさせじとした、徳川の宗教弾圧をも破って見せたのだ。

時代劇では絶対に登場しない、「寺社奉行」という町奉行よりはるかに重職の大幹部が、なにをやっていたのか?
日本人から宗教心を奪うための方策を練っていたのだ。
その効果が、いまも有効だといえる。

バブルで満開となった拝金主義が、しっかり根づいたのが平成だった。
ゆえに、いま、猛毒の香りを漂わせても、鼻も脳もいかれた日本人にはわからない。
この再生には、拝金主義よりも気高い価値観の提示が必須なのである。

それが、宗教なのである。

信仰の自由が、自由主義の最高価値であるように。
また、信仰の自由が、すべての自由の出発点であるように。
このことを、「知っている」のが、かつて未開のヨーロッパ人であり、そこから派生したアメリカ人なのだ。

先ずは、ヨーロッパでの大規模反政府デモが、その嚆矢となっている。

CDCのPCR検査中止 

CDC(アメリカ疾病対策センター)が21日、PCR検査の年内中止を発表した。
理由は、PCR法に代わる新しい検査方法にする、ということもあるものの、「PCR法では、インフルエンザと区別できない」という、重大なこともサラッと述べている。

それなら、世の中からインフルエンザがなくなった、ということではなくて、多くの患者(発症者)が、インフルエンザではなかったのか?という「疑問」の解答にもなるし、いよいよ無症状の「陽性者」を「感染者」ときめつける愚の告白でもある。

わが国では、29日、政府が首都圏三県(埼玉県、千葉県、神奈川県)と大阪府、それに沖縄県を「緊急事態宣言」の追加として、8月31日までの発令を決めた。
これは、政府による「経済破壊工作」であるということの意味を深めている。

例えば、沖縄県は、知事が「まんぼう」への格下げを要望した矢先であった。
沖縄経済を支える「夏の観光」が、壊滅的となることが自動的に決定した。
それは、基地問題等で政府に従わない、沖縄県(庁=知事)への、「経済制裁」ではないのか?という疑いを濃くする。

対する沖縄県議会や県内各自治体が、どのような反応なのか?
本土に住む我々には知る由もないのは、報道機関が死滅したからだ。

逆に、県独自の緊急事態宣言をすると宣言した神奈川県の場合は、法的根拠を得て、胸をなで下ろしていることだろう。
これで、県内の納涼に関する営業を正々堂々と規制できて、営業だけでなく経営をあきらめた店舗を、外国人が購入しやすくなった。

住宅業界では、新規のマンション建設が活況だけど、「外国人仕様」というトレンドになっていて、街の中心部の想定客はすでに日本人ではない。
こうした建物の、維持管理に係わる業務は、ビル管理上も生活上も重要事だけど、「管理費」を負担しないひとたちが続出して、事実上のジャングル化が最初から懸念される。

そもそも、どういう事情で購入可能なのかもわからない。
つまりは、住宅ローンの出所のことだ。
もしや「ただ」で入手しているかもしれない。
それが、外国の「政策」の可能性だってある。

であれば、毎月の管理費を負担しないで、マンションビルそのものを劣化させる意味も見えてくる。
日本人住民を追い出して、価値が下がったところで全部を建て替えてしまえばよい。

そうすれば、土地ごと「領土」になる。

現実に、営業自粛に応じない飲食店は、概ね外国人オーナーの店になっていて、当局の取締もない。
日本人オーナーの店には、警察官が訪問して、営業許可証の提示その他の「嫌がらせ」を行っている。

まさかと思われる、外国人優遇と日本人いじめの実態は、この国が誰によって牛耳られているかを明らかにしてきている。
国会議員を輩出している公党の多くには、外国につながる「バックドア」があるとみてよい。

そうなると、年内に予定されている衆議院議員選挙での投票には、おそらく乱立するであろう弱小政党をせめてもの希望にするしか手がないのである。

ときに、CDCがPCR検査中止を発表した2日前の19日には、投資家のジョージ・ソロスとビル・ゲイツの二人が、英国の民間医療検査会社を買収すると発表している。
この会社の新しい検査法が、次の世界的コロナ検査になるのではないか?とすぐさま「うわさ」がたっている。

これが本当になったら、我々は、正々堂々と支配されていることに気づくのだけれど、こうした買収をすでに正々堂々とやっていることが、もう支配されていることになっているのである。

つまるところ、「二元論」の世界が織りなす絨毯の模様のようになっているのである。
「善と悪」が入り交じって「糸」を作っている。
これらの糸が、複雑に絡み合っていた世界が、突如、整列をはじめて、縦糸と横糸になりだしたようである。

これは一体何を意味しているのか?を考えると、ソ連崩壊がもたらした衝撃に生きのこった「共産主義思想」が、かえって万遍なく世界を凌駕し、それぞれの独自文化を侵蝕したということだろう。
これらの人々が「敵」とした、共通点が「新自由主義」だった。

ところが、彼らの言う「新自由主義」とは、「グローバリズム」のことであって、その権化が「共産主義」だから、自分で自分を貶める用語を用いて、ついにホンモノの「新自由主義」を葬ろうとしているのである。
まさに、肉を斬らせて骨を斬る方法を見出した。

これの道具に、PCR検査も使ったのだ。

インフルエンザと区別できない、という決定的なことを平気で言える神経こそ、二元論における悪魔の一言である。

日本人もかつての日本人でなくなって、こうした世界的二元論に巻きこまれ、なお、新自由主義を憎むように仕込まれたのは、恐るべき企みであることに気づくひとが出てきている。

もはや悪と結託したのが日本政府になったのだ、と。

7月27日東京地検前

「ITビジネス・アナリスト」という肩書きを名乗る、深田萌絵氏という若き女性ファイターがいる。
彼女の「業界分析」は、裏話の深部にも及んでいた。
もちろん、本人からすればそれでも「さわり」にすぎなかっただろう。

起業家として、IT系、特に半導体の設計を行う会社も立ち上げていたから、”その筋”、の情報には豊富にアクセスできたにちがいない。
書籍もずいぶん出版していて、ある意味、業界の内幕曝露を一般人に伝える、メッセンジャーである。

とかく「IT」というと、ソフトウェアとか、運用技術をイメージするけど、このひとの得意分野は、大元の「ハードウェア」に由来する。
また、探究心が旺盛なので、「うわさ話」も掘り下げて、自分で納得を試みたことの一端を紹介してくれていた。

しかし、知っていても誰もいわないから「業界の内幕曝露」になる。
ここに、都合の悪い人たちもいることは容易に想像できる。
それでも、彼女の好奇心は「正義」と結合して、さらなる「闇」に光をあててしまった。

それが、「保守論客」としての、本人が望んだわけでもない顔である。
わが国の国益の核心たる半導体技術の外国への「漏洩」という問題を追及したら、「漏れている」という自然現象ではなくて、「漏らしている」という人為なのではないのか?

それをまた掘り下げて、次の地層では、国際的な「うごめき」が発見できて、そのまた下の地層には、とんでもない「欺瞞」があった。
これを、おもわず「暴いて」、「公表」してしまったのだ。
まさに、本来はマスコミがやるべき「調査報道」の手本だ。

そうやって、「まぶしい」と迷惑をいうならまだしも、静かに「排除」をはじめたから、ことが大きくなって、とうとう「東京地検からの任意での事情聴取」ということになったのである。

彼女が気づいてしまった「闇」は、とんでもなく深くて広い。

「漏らしている」ひとには、個人と国家があった。
その水脈のつながり(ネットワーク)の、驚嘆すべき手法とは、「背乗り」という日本国籍の取得方法にまで及ぶ。

何度も当局に訴えたものの、「証拠」がない、というので彼女は、外国に赴いて、本人の「出生記録」を入手した。
とうとう、当局の担当者が、「証拠を持ってきたら捜査してやる」と、にわかに信じがたいことを言ったからだと。

そして、その「証拠」を見せたら、当該人物から「名誉毀損」の訴えがあるとして、今度は彼女が「捜査対象」になってしまった、という顛末なのである。

そうやって、東京地検に呼び出された彼女を応援しようと駆けつけた多くのひとたちが、歩道を埋めつくした。
それが、「7月27日」の出来事だった。
しばらく「泊まり込み?」になるやもしれぬと、覚悟をしていたが、当日に聴取は終了した。

彼女を応援するひとたちは、帰らずに歩道で待機していた。
そして、彼女は、事情聴取の様子を短く語り出した。
弁護士の同席も許されず、名誉毀損をいうひとの「証拠」を出したも「受理しない」という。

担当検事に、「あなたはわが国の半導体技術情報が外国に抜き取られてもいいのか?」と言ったら、職務にないので「興味ない」との返答だったとも。

これは半導体をめぐる「闇」どころの話ではない。
わが国の「闇」なのだ。
巨悪を扱った、過去のどんな「小説」や「映画」よりも、空恐ろしい。
なにしろ、「現実」だからである。

一方で、東京オリンピックでは、日本人選手たちの「活躍」が、「メダルの色と数」になって、「盛り上がり」を見せている。
オリンピック開催反対キャンペーンをやっていた、マスコミ(テレビと新聞)は、手のひらを返して、こんどは「素晴らしい感動をありがとう」と、毎度のごとく言い出した。

しかし、深田萌絵氏のことは、1秒も1字も伝えない。

おもわず「パンとサーカス」という言葉を思いだした。
古代ローマ時代の詩人が残した言葉である。
愚民政策を警告する、古代からの名言なのだ。
政府が、国民に気前よく食物と娯楽を与えれば、国民は喜んで政府に従うようになる。

別に外国人を排斥しようとは思わないが、世界で唯一わが国がとっている「不法滞在外国人への生活保護」も、とうとうアメリカ民主党がこれを真似て政策にして、将来の民主党への投票を目論んでいる。
わが国の場合は、これに反対する国政政党がないので、まさに日本国政府は「パンとサーカス」を基本政策にしているのである。

これを、現職の国会議員が、かつて「おかしい」と警告していた。
『「パンとサーカス」の時代』(1998年)は、農水大臣を務めた大原一三(おおはら いちぞう)氏の著作である。

氏が没したのは2015年。
もはや「警告」ではなくて現実になってしまった。

山梨県立富士山世界遺産センター

一口に「世界遺産」といっても「世界文化遺産」として、「信仰の対象と芸術の源泉」をもって登録された。
その登録をしたのは、「悪名高きユネスコ(国際連合教育科学文化機関)」で、2013年のことであった。
ちなみに、「世界遺産」には、このほか「自然遺産」と「複合遺産」の、全部で3種類がある。
すると、どうして富士山は、複合遺産に「ならなかったのか?」が気になるところだ。

「ゴミ問題」での指摘を受けて、「自然遺産」にならないからだった。
つまり、「汚い」と。
それで、この「汚名」を晴らすための努力がどんなふうにされているのか?
もちろん、「関係者」の努力はあるだろうけど、そうしたアッピールがされているかがわからない。

「富士山世界遺産センター」は、山梨県立と静岡県立の二箇所ある。
本記事は、山梨県の話に限定するのでご注意願いたい。
なお、富士山にまつわる博物館や資料館は、それぞれの自治体がそれぞれに開館している。
なので、一カ所では完結しない。

だから、富士山をグルリと一周する「ツアー」でないと、これら施設をなかなか制覇できない。
「富士山ミュージアム観光」というジャンルがあってもいい。

さてそれで、ここには「二つ」の施設がある。
一つが、「センター」としての「北館」と「南館」と名付けられた、「本体」だ。
北館が展示館、南館が売店と情報センター、それにレストランと展望台がある。
どちらも、入館料は「無料」である。

もう一つが、駐車場に入口・出口がある、「富士山自然観察園」で、こちらは短い「散策」をしながら、溶岩流のど真ん中を体験できるようになっている。
案内板にある所要時間は、15分(「じっくり観察30分」)とある。
ほとんど誰も行かないので、ためしに行ってみた。

駐車場の歩道から、けものみちに入るような風情であるけれど、「総合案内板」の横に、「入口・出口」というちいさな看板があるので、そこから森に分け入るようになっている。
1分もせず、あっという間に「別世界」となるけれど、この「放置感」は「自然」とはちがう。
ところどころにあるのは、「溶岩の種類」を示して、コース確認の掲示板と溶岩の解説がある。

それらの「汚れた感じ」は、「自然放置」の賜で、肝心の溶岩も「苔むした」なかにあるので、よくわからない。
これは、「センター北館」にあった、噴火直後から苔や草が生えて、それが「土」になり、さらに木が生えて葉が腐葉土になり、といった人の一生を何回やったのか気の遠くなる時間をかけて、森ができたことの「追体験」ではある。
だけども、ここで何を「自然観察」してほしいのかということがピンとこない。

しかも、「城の展示」で書いたように、ここも全部日本語解説のみなのだ。
この「おざなり感」は、地方自治体の施設に共通する。

駐車場にあるクルマのナンバープレートを観れば、関東近郊どころではない「滋賀」とか「平泉」とかという、富士山が見えない地域からの訪問客が、ここぞとばかりの熱心さで展示をつぶさに見学していた。
しかし、自治体の役人の習性ともいえる「総合」という言葉に象徴される、「ピンボケ」が、おそらく億円単位の「センター」にも注ぎ込まれて、地域住民の富が収奪されている無様を観察することを強要される。

前述した、富士山の「自然のなり立ち」と、世界遺産の「文化」を混在させてしまうので、なにが言いたいのかわからないのだ。
このあたり、クリエーターと役人の「つばぜり合い」を感じてしまう。
あるいは、クリエーターによる言いなりで、しこたまデザイン料を請求されたか?

「映像もの」も、制作のミクロにおける「こだわり」が、全体としての主張と合致しないので、「飽き」を誘発する。
15分間隔で放映される「8分」の映像は、巨大模型と連動させているつもりだろうけど、最長で7分待って観るべき価値があるか?

むしろ、火山灰の種類毎に、ちいさなサンプル瓶を持ち上げてその「重さのちがい」を体験させたり、溶岩に方位磁石をあてがって、針が回転する「磁性」を確認させる、「自然体験」のほうが、よほど印象に残る。
それに、前述した「富士山自然観察園」の案内板にある、溶岩流(剣丸尾(けんまるび)溶岩流;最も新しくて千年前)は、この場所を通過して、国道139号線の地形を形成した。

それは、中央道にも被っていて、河口湖インターと富士吉田インターは、この溶岩流を横断しているのだ。
河口湖インターより大月方面へは、この溶岩流の真上を走る。
溶岩の厚さは、3〜6メートル。全長20㎞。
今なら、富士急ハイランドも富士吉田市の中心部を溶岩流が流れたことになる。

園内を散策中に聞こえる「絶叫」は、富士急ハイランドのジェットコースターからである。

そんなわけで、いつぞや「静岡県」のセンターも期待値を低くして訪問しようと思う。

核先制攻撃を明言しても友好国か

例によっての「報道しない自由」が発動されて、国民を蚊帳の外に置いたつもりかもしれないけれど、やっぱり「ネット」から漏れてくる。
しかしながら、今回の「ニュース」は、日本向けの発信なのだから、日本国民が「当事者」になる、大ニュースなのである。

それは、「人民解放軍」が製作したビデオであって、当初は国内向けと思われるけど、英語字幕がついて世界に拡散されている。
その衝撃的な内容は、わが国が台湾に軍事介入するなら、わが国が二度目の「無条件降伏」をするまで核攻撃を続ける、ということと、わが国をロシアと分割統治することも発信している。

尖閣諸島はもとより、沖縄を独立させる、ともある。
なぜなら、尖閣も沖縄も、もちろん台湾も、元来は大陸国家の領土だったから、という(厚顔無恥の)主張だ。
これを、「人民解放軍」が言っている。

念のため加えれば、この「軍」は、近代国家に一般的な「国軍」ではない。
「党」の軍隊なのである。
ナチスには、国軍としてのドイツ軍と、党機構としての親衛隊があった。
これを日本にあてはめると、与党・自民党の軍隊という意味である。

だから、政府には従わない。
あくまでも、「党」であって、なかでも党内にある「軍事委員会」が仕切っている。
この意味で、シビリアンコントロールという建前が成りたつ。

その委員会の主席は、国家主席とか、党総書記といったひとが兼務していた。
けれども、本当は、武力を統括する軍事委員会主席が国家主席とか、党総書記になるのである。

なので、このビデオを軍が勝手に作った、と言い訳しても、そうはいかない。
かならず、軍事委員会主席の裁可がないといけないのは、国民向けのプロパガンダであるとしてもである。

すなわち、この国の最高権力者が言っているのと同じなのである。

前回の東京オリンピックのタイミングで、この国は最初の核実験を成功させた。
それで、わが国の左翼の皆さんは、アメリカの核は汚いけれど、こちらの核はキレイだといったのだった。

なぜなら、当時の最高指導者が、核を持たない国へは、決して核による先制攻撃はしない、と国際約束をしたからでもある。
今回、党設立100周年の時期に、「事情変更」を唱えて、日本だけは別とする、という宣言を発した。

わが国にとっては、重大すぎる約束の反故である。

相手が共産主義者という、本当のならず者だから、約束を反故にしたといってみても、はなから相手にされる訳もない。
だから、この約束を反故にする、とわざわざ世界に発信した「愚直さ」が事件なのである。

無観客でも、オリンピック・ゲームにテレビで興じる国民は多い。
しかし、そのテレビが、国民の生死に関わる重大事を報じないのだ。
まさに「犯罪的」であって、「パンとサーカス」さえ与えれば、愚民は黙る、というセオリーの典型となっている。

積極的に強いものに巻かれたい者どもは、こないだの「麻生発言」のせいにするであろう。
台湾有事ともなれば、日米で集団的自衛を行使するといった、あれ、である。

しかし、台湾海峡の重要性は、台湾有事だからということで変化するものではない。
わが国の海上輸送ルートをかんがえれば、この海峡の通航がままならなくなったとき、わが国はたちまち困窮するのだ。

すなわち、台湾があちらのものとなった暁には、わが国の切磋与奪の権利をあちらが握り続けることとなるからである。
簡単に言えば、彼らが言うとおりのシナリオのうち、最低でもわが国の「独立」は困難となって、従属地域になることを意味する。

ここに2700年あまりの国の歴史が終焉のときを迎えるのだ。
彼らの言う「核心的利益」とは、歴史的に初ともなる「日本を手中に収める」という意味である。

独立の気概をなくしてしまった国民の、哀れな最期なのだ。
ときに、他力本願としても、頼りになるのはアメリカだけだ。
そのアメリカは、わが国と因縁が深い民主党政権なのである。
トランプ氏の共和党政権だったら、こうはならなかったろうけど、どうにもならない。

ここに、千載一遇のチャンスをあちらの国の指導者が見出すのは、ふつうのことではある。
日本人が、トランプ氏を小馬鹿にして嫌うように仕向けたのも、マスコミのなせるわざだった。

財界人は、どうせ属国になるのなら、撤退などせずに金儲けを続けたい、という腹黒さに満ちているにちがいない。
しかし、彼らの中での起業者の扱いがどうであったかを忘れてはいけない。
「人治」による相手を間違えると、どうなるかを見せつけられているのに。

そんなわけで、勝負どころは、「デジタル円の普及」ということになってきた。
デジタル元との普及競争である。

通貨を制するものが国家を制するのである。
軍事力を持っていても使えないわが国の武器は、やっぱり経済分野での覇権=国際基軸通貨としての生き残りなのである。

背に腹はかえられぬ。
日銀はどうしているのか?