辛抱が無責任の根拠

日本の集団主義を、なぜか全体主義とはいわない不思議があって、なのに「連帯責任」をとらされるのであった。

もちろん、連帯責任をいいだして、これを実行するのは、「上の立場からの命令」になっている。

なので、この「上の立場」がどの立場なのか?によって、配下の組織における連帯責任の責任範囲が変化する。

たとえば、組織上の最底辺にある最小単位の組織長が、連帯責任を問えば、その最小単位の組織構成員にだけ、連帯責任が問われて、なんらかの「痛いめ」にあうことになっている。
しかし、その組織長も、そのまた上の組織長から連帯責任を問われれば、横並びの最小単位がぜんぶ責任範囲になるのである。

すると、こうした組織は、とうとうトップが連帯責任をいいださない限り、だれも連帯責任を問うものがいなくなって、無責任化する。
そのときの精神状態は、「我慢して仕事をやる代わりに責任はとらない」という、自然発生的な「バーター取引」にトップ以外の全員が染まっているのである。

このような組織を第三者が観れば、「トップの責任」が問われることになるのだけれど、利害関係が薄い第三者なら、べつだんトップにあえて忠告もしない。

そうやって、このような組織は、それなりの時間をかければ、たいがいが「自己崩壊」するものだ。

それでほんとうに自己崩壊して、企業倒産ともなれば、トップから組織構成員の全員が失業する。
自分も失業していい、とかんがえる構成員ばかりなら、ほんとうにそうなるが、何人かは失業は困る、という意志がはたらいて、トップにもの申すことがある。

背に腹はかえられぬ、ということでの切羽詰まった状況である。

ここで、気がつくトップと、かえって反発するトップとに分かれるのが世の常で、どちらにしても時間切れが、資金切れとなって、倒産が免れないことがある。

だから、時間切れが資金切れとはならないタイミングで、気がつくトップがいるときだけ、救われることになっている。

ただし、失業しても再就職先がちゃんとしていれば、いったん失業した方がよかった、ということがあるのも人生なのである。

さて、このように「禍転じて福となる」ようなことは、あんがいたくさんあるし、「福が仇となる」こともあるものだ。

すると、時間の経過とはなにか?が、変なことになるのである。

わたしたちはふつう、過去から未来に時間が流れていると思いこんでいる。
しかし、川の流れのように、時間は上流の未来から流れてきているのである。

だから、過去が新たに福となったり仇となるのである。
つまり、未来の出来事が過去を書き換える。

よくよくかんがえれば、変なことではなくて、そういうことなのである。

さてそれで、「辛抱」を辞書で調べると、つらさを(かなり長期間)じっと我慢する、また、つらい仕事をじっと耐えて勤めること、とあって、類語に「我慢」がある。

しかし、「我慢」は、仏教で,『強い自己意識から起こす慢心(おごり高ぶる心)』のことだから、意味が逆転しているようにみえる。

では、ひとはなぜ「辛抱するのか?」をかんがえると、ころは、「強い現状肯定」の意志なのである。

そのために、個人の「我」を棄てるように、子供時分から訓練させるのが日本人だ。
こうして、「(周りの)他人に迷惑にならなければなにをしてもよい」と、親が子供に道徳教育もするけれど、その意味を親がどこまで自分でわかっているかといったら、かなり疑問がある。

要は、環境依存した価値観を持つことで、自己滅却をすれば、なにか良い評価をされる、という、やっぱり他人からの評価に強く期待するのだから、仏教の「我慢」に近づくのである。

それが嵩じて、なにもかんがえずに、周辺に迎合すればなんとか生きていけるとかんがえる。
ここまでしかかんがえないから、これを、「浅はか」というのだけど、周辺のほとんどぜんぶのひとたちが、「浅はか」だから、その「浅はか」にあわせることが、もっとも居心地のいい生活環境となるのである。

そして、その生活環境が、学校生活から職場生活へと拡大したら、今度は生活環境全般から圧迫されるようになった。
これが、管理社会の誕生となって、合理主義でもって強化されたのである。

「リクルート・スーツ」なる。統一的なファッションがその象徴的な存在となった。

わたしの時代はまだ、男女とも学生が着るスーツに、いまのような「統一デザイン」はなかったし、デパートがまだ頑張っていて、全国的な洋服チェーンと対抗していた。
ために、わたしの生まれて初めての背広は、デパートのイジーオーダーで生地から選んで作ったものだった。

だから、学生がフォーマルな服装で集まっても、いまのような、なんとなく喪服のような状態でなかった。
しかし、みんなとおなじ、を協調したいというニーズが、リクルート・スーツを生んだのだろうし、これに逆らうスーツを着ている学生も皆無だ。

大手人材会社が主催した就活イベントで講演を依頼され、みんなとおなじであることの居心地のよさは、無責任の衣服による主張になる、とかと話したら、二・三人が質問にやってきて、「ふだんの疑問がスッキリした」と目を輝かせていた。

わたしなら、こういう人物を採用したいと思ったけれど、採用担当者が無責任なら叶わないことなのか?

まことに、病理は深いのである。

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