蔓延したのはコロナ脳

この国の「希望」を、さらりと表現したのは碩学、小室直樹であった。

国民は、何度も暴動(市民革命)を起こして、何度もひどい目にあうけれど、その何度目かに、ようやく「気づいて」まともな政府を樹立するであろう、と。
それまでは、とにかくひどい目にあうことになって、我慢の限界を迎える。

おそらく、一回目の「限界」がもっともハードルが高いのだろう。
とにかく「臥薪嘗胆」で、みんなで我慢することを美徳とする傾向があるからだけど、一方で、マッカーサーに「骨抜きにされた」こともこれに重なる。

一体、アメリカ軍はいつから日本占領計画を立案していたのか?
日本人なら、「勝ってからかんがえる」という「その場の対応」になりそうだけど、「腹黒い」彼ら(アングロサクソン)の野蛮な習性では、相当前から検討を開始するものだ。

それで、完膚なきまでに「粉砕」するのは、「戦闘行為」だけでなく「占領行為」にも引き継がれる。
むしろ、「占領行為」の方が、よほど相手を「壊滅」させるのに有効だから、「軍政」のための軍人のエリート教育にあって、「作戦」科目には、「占領」もあるにちがいない。

これは、「外交の延長に戦争がある」という概念と一致する。
日本人、特に「戦後」は、「外交」と「戦争」を分離した(させられた)のとは、根本的にちがう。

アメリカ軍のエリート将校は、士官学校などの幹部養成校で、あらゆる学問的業績を習いつつ、その応用を研究させられる。
わが国自衛隊の場合は、「軍事」に特化するちがいがここにもある。
それで、自衛官でもトップ級はアメリカの士官養成校に留学するのだ。

果たしてそれで、「組織文化」となるか?については疑問である。
このことは、発展途上国の政府官僚に見られることと共通だ。
すなわち、トップ級は若くして先進国の大学などに留学して、「ハク」をつけるけど、得た知識を組織に浸透させない。

あくまでも、自分のもの、としないと、出世できないと考えるからである。
だから、直下の部下にも教えない。
「下剋上」のおそれがあるからだ。

その点、日本人は「教える」ことで尊敬を得ることになるから、一見、別物と思われるけど、繊細なる日本人は、それが「別格」を構築する。
だから、別格だけの文化ができるのだけど、組織の力になるほどの浸透はさせない。

「出る杭は打たれる」という別の文化が効いてくるからだ。

そんなわけで、「日本的文民統制」もまかり通って、なにが「文民統制」の本来定義だったかもわからなくなり、単純に文官試験(科挙)を通った「事務官僚」による統制のことをいう。
これを、防衛省では「内局(本省内部部局)」といっている。

それで、腹黒い官僚たちは、あたかも「政治家(国会議員や内閣)」の「統制」のことだと「偽りの再定義」をした。
これが、「偽り」だとはわかっている(わからないひともいる)けど、その方が当人たちにも都合がいいので乗っかって70年がすぎている。

もちろん、「軍事とは関係ない」外交を専門にするのが、外交官試験という別の科挙に受かったひとたちが支配する外務省であるから、わが国の国防は「分裂」している。
これを、自民党では「国防部会」と「外交部会」に分けていることで確認できるのだ。

アメリカ合衆国では、多くの大統領が軍人(軍隊経験がある)出身だ。
また、前国務長官のマイク・ポンペオ氏は、陸軍士官学校主席卒業のエリート軍人で、軍務中に理学博士、退役してハーバード大から法務博士を取得した、「文武両道」の人だった。

わが国で、このような「経歴」を得ようとしても、ほぼ不可能だ。

そんなアメリカでは、昨年の大統領選挙についての「検証」がまだ行われていて、徐々に「民主党による不正の証拠」が明らかになってきている。
いってみれば、「バイデン政権」が足元から揺らいでいるのである。

このあたりを、外交オンチ(軍事と分裂しているから)の外務省が、とんちんかんな分析をして、内閣に報告していることだろう。
もちろん、軍事オンチの防衛省も、同様のとんちんかんをしているにちがいない。

それでもって、これらの「分裂」を「統合」しているのが、目立たない「内閣府」の役人だろうと推測する。
でも、これを阻む「内閣官房」には、それぞれの省庁から出向した役人がいて、「調整できない」のが、いまの内閣になって見えてきた。

「菅政権」がやり玉に挙がるけど、ほんとうは「体制」そのものの「失敗」なのだ。

自民党が腹黒いアメリカ民主党の左派を通り越した左派になったのも、左翼思想を教える官僚養成校のおかげである。
あるべきカウンターパートは、共和党保守派のはずだったのに。
気がついたら、わが国に共和党保守派のカウンターパートになる政党が存在しない。

「コロナ脳」という、自分でかんがえることができない国民が多数になって、いよいよ限界に挑戦することになる、恐怖の全体主義がはじまる。
なにもわが国「だけ」のことではない。

タイと思われるワクチン接種会場で、倒れて痙攣をしているひとを、順番待ちのひとたちが「黙って見ていて」、それでも「順番待ち」をしている動画が投稿されている。

これが、「羊たち」なのだ。

他山の石以て玉を攻むべし

神奈川県の自爆

神奈川県が、「県独自の緊急事態宣言を発令する」と決めた。
どこにそんなことができる「法的根拠があるのか?」を、だれも質問しないばかりか、口にもしない。

「法治」とは、「丸投げ放置」のことだった。

なってはいけない人、選んではいけない人に、なさせてしまった「罪と罰」が、神奈川県民にブーメランの刃が刺さる。
黒岩知事と県会議員たちのことである。

黒岩祐治というひとの「無能」については何度か書いた。
とにかく、最初の選挙では、神奈川県の全戸に太陽光発電パネルを設置すると公約して、当選して予算がないと知ったら早々に撤回した「実績」をもつ。

これを「元政治部記者」があっさりとやってのけたのだ。

それなのに、さらに二回も当選して、三期も知事をやっている。
選んでいるのが県民だから、ひどい目にあっても責任は県民にある。
しかし、首長には「リコール」という手段もあるから、窮鼠猫をかむ県民はこれをやるのかやらないのか?

さらに、どうにもならない「議会の無能」がある。
いったい何人の議員がいるのか?
さらにさらに、県下の各自治体の首長もそれぞれの議会も無反応だ。
「県知事さま」のご意向は、かくも絶大だったのか?

「官選」の知事ならまだしも、なんのための「民選」なのか?
まったくもって、理由から問われる大問題だ。

元を正せば、昨年の「特措法改正」が主因であった。
この法律で、「緊急事態宣言」が合法化されて、とうとう発令したからである。
つまりは、安倍内閣の時代であった。

日本国憲法に抵触するおそれがあるばかりか、自治体が「藩化」して、都道府県知事が「藩主になる」可能性があると書いたけど、その通りになった。
そして、幕府たる中央政府はコントロールを失うと。

理由は明白で、「宣言の発令」は、中央政府の権限を大幅に都道府県知事に渡すことが「主旨」だからである。
それで、こんどは、「収束宣言」をだしたら、「元に戻る」と考えたのは、役人国家の役人の頭脳が「単純」の上に「傲慢」だからである。

権力を持つ人間が、一度権力の味を知ったら、元には戻れない。
古今東西、そういうことを繰り返してきたのが人間の歴史なのだ。
わが国エリートの中のエリートたる、「官僚」の浅はかさこそが、知事たちをモンスターに変身させた。

命令一下、中央政府が与えた権限を返納する「はず」にはならず、これを「保持」することに全能力を使い出す。
まことに、人間らしい態度をとっているともいえるけど、その権力を住民のために使わないで、権力者の自己陶酔に使い出すから始末が悪いのだ。

これを「やらせた」のも、安倍内閣の時代である。
なにせ、第一回目の緊急事態宣言をやめるとき、都道府県知事に権限を戻すように「言わなかった」からである。

犬を躾けるときに、飼い主が曖昧な態度をとれば、もはや「躾」どころか「勘違い」を助長して、かえって飼い主を下にみるように「訓練する」ようなもので、このときの内閣の曖昧な態度が、知事たちの「権力本能」を活性化させてしまった。

なぜに「言わなかった」のか?
それは、「いい子」になりたい志向が強力だったからである。
誰も敵にはしたくない。
もちろん、このときの内閣の要、「官房長官」は菅氏だった。

いま総理になって、「嫌われてもやるべきことはやる」と発言したのは、まさにこのことの「反省」かもしれないけど、残念ながら、「犬と同じ脳」しかない「権力志向」の本能をむきだしにした人間を躾けるには、もう遅いのである。

その典型が、都知事であり、大阪府知事であり、とにかく東京都知事に「勝手に」ライバル意識を持っている神奈川県知事なのである。
このことは、間違った「ベンチマーク」を設定することの不幸でもある。

神奈川県知事は、社会的に何もしない、という選択をして、実質的に「成功」した、スェーデン式をベンチマークにすべきだった。
当初いろいろいわれたけれど、「今」となっては、その政治選択の「正さ」は完全に証明されたからである。

さすれば、神奈川県「独自」の緊急事態宣言とは、「何もしない」ということに尽きる。
すなわち、「飲食店の営業自由」を宣言することで、「酒類販売の自由」はおろか、「マスク着用をやめる」ことなのだ。

しかも、ワクチン接種中止も宣言すれば、おおいに「男が上がる」はずなのに。

こうしたことを「させない」議会は、なにをやっているのか?
地方議会とは、「立法府なのだ」という意識がないのではないか?と今さらに確認できる無惨である。

まったくもって、嘆かわしい、としか言いようのない出来事である。

冷や汁の夏

セミの声が聞こえたと思ったら、また黙り込んだ。
気のはやいヤツは、どうしたのだろう?

コロナの悪い噂で、学校がどうなっているのか知らないけれど、もうすぐ夏休みのシーズンではある。
酷暑の中、いまだにマスクをつけて歩いている人をみると気の毒になるし、子どもが着けているから親の情弱が恨めしい。

スペインの研究から、「酸化グラフェン」を吸入する不織布マスクが「危険」という情報の一方で、熊本大学ではその真逆の研究成果が有名科学雑誌で発表されるらしい。
昨年9月にあった、熊本大学研究員の殺人事件では、被害者本人が「エセ研究」といっていたとの「話」もあって、「妖しさ」すらある。

事実は小説よりも奇なり、は正しい?

7月は、「お中元」。
むかしはいろんな物が届いていたけど、洗濯石鹸とか食用油のセットがいつの頃からかずいぶん前に邪魔になりだした。
マスク不足の頃ならば、大量に届いた家もあるかもしれない。

わが家では、「揚げ物」を一切やらなくなって久しいので、「サラダ油」をもらっても困ることになった。
それに、「サラダ」に「サラダ油」を使わない。
一応、「危険な油脂」の筆頭が「サラダ油」になっている。

いろんな意味で、面倒くさい世の中になった。
家庭で忌避されるようになったら、飲食店とか惣菜屋はどんな油を「身体にいい」というのかも、「印象」だけでは済まなくなる。
それもこれも、学者も玉石混交だとコロナでばれたのが原因だ。

ましてや政府をや。
過去の「薬害」の反省がぜんぜんないどころか、「害毒を蔓延」させている可能性まである。
いい加減、「新型コロナウィルス」なる、幻の宣伝をやめてほしい。

わが家では、「ゴマ汁」と呼んでいたが、これは、「横浜の郷土料理」なのである。
「冷や汁」とも、「冷やし汁」ともいうらしい。

「横浜」といっても、面積的には広いので、いったいどこか?ということがあるけれど、「旧橘(たちばな)郡」で、神奈川奉行所の管轄地を中心として、川崎の一部を含める。
詳しい方にはご教授願いたい。

群馬県出身の祖父には馴染みがなかったので、母も珍しがっていた。
婿養子の父の出身が「橘郡日吉村」だったから、地域的には「当たり」だと思われる。
なお、橘郡の南端は、保土ヶ谷区や西区の一部なので、結構広い範囲だ。

それでもって、中身だが、すり鉢に煎ったゴマを少しずつ大量に入れて、大騒ぎしながらこれをすりつぶす。
金物屋で市販の「すりこ木」が、短かったり細かったりと、作業の支障になるから、東北とかどこかに旅行にいくと、なんだか立派なでこぼこがある、ちゃんとした山椒の木のすりこ木を買ってくる習性が父にはあった。

もういいのでは?と思っても、まだまだ、といっこうに許してくれないから、食べるまでが大変な「料理」なのだった。
暑い夏場に、大汗かいてゴマをひたすらすりつぶした。
それで、ごま油がにじみ出てきて、ペースト状になってくる「手前」で、味噌を加えて山椒の葉を入れて軽くする。

そうしてから、氷水でこれを「溶く」のである。
氷を入れないようにちょろちょろ溶かせばできあがり。
これに、刻みキュウリや茗荷のトッピングがあればなおよい。

わが家ではもっぱら炊きたてのご飯にたっぷりかけて、お茶漬けのようにすすり込んだ。
うどんやそうめんのつけ汁にしてもいい。

しかして、これが日持ちしない。
だから、一家で一食分しか作らない。
あんなにいっぱい作ったはずだけど、じゃぶじゃぶかけて食べるから、すぐになくなるのである。

ところが、家族の人数が少なくなると、作る手間と見合わない。
どうせならたくさん作ればいいけれど、日持ちしないから仕方がない。
そんなわけで、めっきりご無沙汰をしていたのである。

「復活」は、フリーズドライの「冷や汁」である。
まさかと思ってみたけれど、「水」で見事に「もどる」のである。
むかし食べたそれとは、ちょっと違って茄子や大葉が入っている。
それでもやっぱり「うまい」のである。

パンフレットには「夏季限定」と大書されているのがミソである。
それならと、送料が無料になるまで購入した。

今年の夏は、これで乗り切る。

キューバのデモは世界を変えるか?

あのキューバで、11日、信じがたい大規模デモがあった。

誰が、どのように企画したのか?は、わからない。
共産政府側は、すぐさまインターネット回線を遮断したようである。
それで、デモ参加者を数千人規模で逮捕しているという情報もある。
なお、NHKは、参加者が数千人と報じた。

コロナ・パンデミックの、予想外の反応、が言われているけど、もともと、トランプ政権がやった「経済制裁」が効いている。
キューバにとってアメリカの政策は、揺りかごのように左右に揺れていて、概ね民主党政権だと「緩く」、共和党政権だと「キツく」なる。

民主党政権なのに、「強硬」だったのがケネディ政権で、「緩い」と決め込んだフルシチョフがミサイルを持ち込もうとしたら、断固拒否されて、チキンレースに敗北した。
この意味で、ケネディの功績は共和党的であった。

それが、悲劇をもたらしたかどうかはいまだに議論のあるところだ。
飛行機事故で亡くなったケネディ・Jrが、一部に、生存しているという説まであって、保守層が期待を込めている理由もこれだ。
ちなみに、ケネディという苗字は、アイルランドの典型でもある。

「人権派」を装う民主党政権にあって、トランプ政権の経済制裁が人々を苦しめているという理由から、「緩和すべし」という意見もある。
しかし一方で、国民政府ではない、革命政府なのだから、国民の不満を高める経済制裁を継続して、現政府を打倒すべしという意見もある。

自分がどこにいるのかわからないかもしれない、アメリカの現大統領は、とりあえず「デモを支持する」と表明し、政権には「国民のニーズにこたえよ」との声明を出した。
これらのことを、アメリカの左翼メディア(CNNとかニューヨークタイムズとか)が報じている。

しかし、もはやアメリカの左翼メディアは、社会(共産)主義への信奉を表明して久しいので、足下のこの「事件」は取り扱いが難しい。
ほんとうはキューバ政府を支持したいけど、それでは国民はどうするのか?
なので、悪いのはトランプ政権の経済制裁なのだと主張しているのである。

アメリカのまだら模様は、いよいよ激しくて、新しい(本当は過去の歴史を引き摺っている)「南北戦争」が目には見えず密かに起きている。
カリブ海に面するフロリダ州は、キューバからの移民が多数住んでいる。
この州選出の共和党上院議員、マルコ・ルビオ氏も名前からわかるように、キューバ系なのだ。

キューバ移民が、総じて共和党支持なのは、民主党の牙城のひとつカリフォルニア州における「華僑」と似ていて、何のために祖国を捨てて「逃げてきたのか」という「存在」の根本問題があるからだ。
つまり、「自由」を求めてアメリカにやってきたはずだ。

だから、社会(共産)主義の恐怖を知っている彼らは、断固、祖国の政権を拒否する。
このことは、旧ソ連圏の東欧諸国にも見られることだ。
最近は、ハンガリーで大規模デモが起きているのに通じる。

ドイツのナチスは禁止されているけど、世界で共産党など(名前でごまかせることもある)が、どうして「禁止」にならないのか?

わが国をみれば、東京の豊島区議会で、47年ぶり、という「懲罰動議」が出て、さらに「懲罰委員会」が議会内に設置された。
この原因は、テレビ改革党のひとりだけ議員が、一般質問で「共産主義の危険性」やらを滔々と述べたことが、「議会の品位を穢した」からだという。

発言者は、議会で本当のことを言ったら懲罰されるのか?と、絶対に謝罪に応じない姿勢を貫いている。
もちろん、本人も承知している「大問題」は、こんな動議が通って、「懲罰」を許したら、全国の地方議会で「真実を言えない」ということになる危険性があるからだ。

だから、少数党の議員をいじめて追いつめている、という「子どものケンカ」とは大違いだ。
動議を出したのは共産党で、委員会設置に賛成したのは、これに立憲民主党が加担した。

それで、否決はおろか、決議されたということは、区議会という空間が、「そうなっている」ということである。
しかも、どういうわけか、委員会メンバーに「原告」の共産党議員が入っている。

「被告」にあたる発言者本人は、委員会に入れないで「審議の対象」なのだから、一方的でおかしいではないか、という理屈はもっともだ。
どういう「結果」になるのか?
ちょっと前の日本だったら、「おとがめなし」がふつうであったものを。

はてさて、日本にどれほどのキューバ移民がいるのかしらないが、こうした「議会」の状況を、どう分析するものか?
革命政府は、自分たちで選んだのではないけれど、国民政府は公正な選挙をやった結果だから、「より始末が悪い」となるだろう。

すると、分析してなにかを言うよりも早く、こんな国は危ない、と判断して、他国に転居するにちがいない。
自由を求める外国人が逃げ出して、全体主義を求める外国人がやって来る。
わが国における「移民問題」の「やばさ」がここにある。

それでも、キューバのデモが日本人の琴線に触れないのは?
やっぱり、やばいのである。

20年ぶりのMacに戸惑う

アップル純正「M1チップ」搭載、という「MacBook Air」が届いた。
わたしの個人パソコン所有の歴史は、「マッキントッシュSE30」が最初だった。

ノーアポなのに、会社にこの真四角な「箱」を、専用のリュックで担ぎ込んだセールスマンが来て、熱心にその「すごさ」を語っていた。
もちろん、「ノート・パソコン」という代物もまだ世の中になかった時代である。

いかに「群雄割拠」の時代とはいえ、わが国には「国民機」としての「PC98」があって、その他を「IBM PC互換機」と呼んで、おおよそ「地殻」の「形成」はできていた。
初めて目にしたアップルコンピュータの「独自性」に、驚いたのだ。

会社の仕事を家に持ち込む、という考えがなかったので、先輩や同僚からの個人で購入するにも「PC98のイチオシ」を蹴って、このセールスマンに「発注」した。
店頭では売っていなかったのだ。

とある先輩から言われた「中古を譲ってあげる」という「PC98」の言い値は「120万円」で、スペック的には200万円相当の大盤振る舞いだったことは知っている。
でも、60万円の「墓石型パソコン」を買ったのだ。

もちろん、「薄給」における「120万円」が払えなかったのであるが、ビジネス・ソフトばかりで、しかも「MS/DOS」で自分でプログラムを書くという気がしなかったのである。
そこにいくと、この墓石は、えらくチャーミングな機能を発揮して、まさに「パーソナル」だったのである。

いまのパソコンのスペックとは、完全に「ケタがちがう」のだけれども、念のため書けば、9インチ白黒モニターに、CPUは16Mz、メモリは最大128MBで、HDは40MB(60MBのもあった)で、フロッピー・ドライブが「1.44MBの高密度型」であった。重量は約9Kg。

これが、当時の「世界最先端」だった。
いま、子どもに見せたら、「コンピュータとしてどうして動くのか?」がわからないほどの貧弱さだけれど、その遣い勝手は、会社での仕事における「野暮ったさ」とは別世界だった。

それで、二代目は、「Color ClassicⅡ」を躊躇なく購入した。スペックの「大幅」向上とともに、なんといってもモニターがカラーになった。
それでもって、電話線と結んで「パソコン通信」も「FAX」通信もできた。

インターネットが未だ世の中に一般化されていない時代である。
会社のPCも、ほぼ「単独マシン」だったから、わずかとはいえ、社内をフロッピー・ディスクが行き交うのが職場間連絡の手段でもあった。
もちろん、「主流」は、「紙の印刷物」である。

それから、「ラップトップ」なる、「膝上パソコン」が発売された。
会社の仕事を家に持ち帰ることができる、という「メリット」がいわれたけど、家に帰るまでにその「重さ」で腕がちぎれそうになった。
電車の座席に座って、これ見よがしになにかをしているのを見かけたけれど、重くて「熱い」のをよくも我慢できるものだと感心していた。

マックもトラックボール付きとかを出したし、その後はいまに通じるトラックパッドを開発した。
ウィンドウズPCのトラックパッドが使いにくくて、たいがいの人がマウスを使うのに、マック派はそのまま使う傾向があるのは、「特許」がアップル社にあるからである。

これらの「モバイル」マシンを会社に置いて、自宅では15インチディスプレイの「iMac」(フラット・パネル)を使っていた。
そして、このiMacを最後、「独立」を契機に、不承不承ウィンドウズに移行したのだった。

訪問先企業との「データ互換性」を優先せざるを得なかったからである。
しかし、移行当初は使いながら舌打ちをしたものだった。
マックでできる技が、ウィンドウズで通じずに、手間数が多いのである。
しかも、当時のマックに「右クリック」という概念すらなかった。マウスのボタンは1個だけだったからである。

この「ダサさ」を恨んではいたが、背に腹はかえられない。

そこで、20年ぶりにマックを手にしてみたら、どうやって使うのかと戸惑っている自分がいる。
げに恐ろしきは、「慣れ」である。
そこで、自分からしたら子ども世代にあたる学生だという若者が作った、初心者用の説明動画を参考にしている。

「そうそう」、ファイルの概念からしてちがうのだと、いまさらに納得している。
けれども、おじさんとして、ちょっと心配になったのは、こうして詳しく説明してくれる優秀な若者が、まさか、「独立せず」に「一般企業に就職」したら、確実にやってくるウィンドウズ・マシンとの格闘がある。

きっと、会社で舌打ちをすることだろう。
それでもって、何十年かしたら、マックの使い方を次の世代の若者に指導されるかもしれない。

いや、マックとiPadのOS統合があって、いまでこそある「仮想ウィンドウズ」が正規になれば、ウィンドウズしか動かないマシンより、マックOSとウィンドウズが動くマシンの方が、よほど豊富なソフトを使えるようになる。

これは、マシン性能がソフトを超越するという意味だ。

あと何年?
意外と早い時期になるかもしれない。

八つ当たりになる「不敬」

どうして国民がこんなに「政府に従順」なのか?を考えたら、「あの方たち」の存在が光り出した。
畏くも、尊くもおわします、万世一系の「あの方」を中心にした「あの方たち」である。

わが国には「絶対にいい人」の集団たる「皇室」があったのだ。

どうして「絶対」といえるかといえば、「絶対に生活に困らない」からである。
それで、徹底的に「(他人たる)国民の幸福」を「祈る」ことを職業にしている。

卑しき精神を賤しく発露する「主義」がいけないのは、「生活に困らない」ことを、生活に困っている自分と比較して「恨む」からである。
そういうことを超越するために、「絶対に生活に困らない」ようにすることが、「絶対条件」にしているのに、だ。

「国民統合の象徴」とはよくいったもので、古来そういう存在だった。
もちろん、「初期の王朝」における「権力争い」はあった。
けれども、人類の時間が経過してみれば、ヨーロッパのような「絶対王政」の時代はついになかった。

贅沢三昧の「太陽王」とか、「ヘンリー8世」のような暴君も、同時代の皇室にはいない。
そうやって考えたら、世にも不思議な一家が存在するものである。
しかし、取り巻きとしての「公家」がいたし、またその取り巻きもいて、何重にもなっていた。

これを、「菊のカーテン」という人がいるけれど、本人たちの意思であったのか?
取り巻きたちが、自分たちのために作ったものだろう。
嫌だといっても、「そうはいかない」のである。

ふつうの国民は、そんな事情を知る由もない。
絶対にいい人であることが、日本国民の絶対的希望条件になっている。
そんなわけだから、日本国民の上に日本政府があっても、さらにその上に「絶対的に国民の幸福を祈願する人がいる」という三重構造は、世界のどこにもない。

つまるところ、日本政府は日本国民を「いじめるわけがない」という「信仰」が、今度は国民の側にできるのである。
これが、政府に従順な国民を形成している。

ところが、「制度疲労」が極まって、国民をいじめることを目的にした日本政府になってきた。
そこで、「あの方」も選択肢がないことに忸怩たる思いでおられるのではなかろうか。

政府の言いなりになるしかない、という選択肢のことである。

これは、「日本国憲法」がそうさせる、ということではなくて、鎌倉幕府(武家政府)以来の「伝統」なのだ。
だから、明治憲法の時代だって、昭和天皇は無力だった。
せいぜい、「和歌を詠んで抵抗」するのが関の山だったのである。

「明治大帝」の御製は生涯で9万3千首を超えている。
満にすれば60歳の御生涯にこの数は、日数にして2万2千日なのだから、ご生誕から崩御まで、単純平均すれば4首/日、という数になる。
もう、「和歌しか詠まない」でおられたに相違ない。

つまり、国民も歴代のあの方も、政府にはやられまくってきたのが実態なのだけど、政府の方があの方の前では頭を垂れたから、それで国民は溜飲を下げていた。
しかし、菊のカーテンの向こうでは、溜飲の下げようもなかったに違いないとゲスの勘ぐりをするのである。

そういえば、お亡くなりになった「ヒゲの殿下」は、アルコール依存症で何度か入院治療されていたけど、「皇族という職業」という言い方をされていた。
こちらは、溜飲ではなくて、お酒を飲むしかなかったのだろう。

その酒も飲んではいけない、売ってもいけないと言い出した、日本政府の発狂ぶりは、さすがにイスラム教の国ではないから、すぐさま取り消す羽目にはなったけど、内閣を首班する首相の「逆鱗に触れた」という印象がまるでない。

およそ自由経済のなんたるかをわきまえないなら、こんな政府は転覆させても罪にはならない。
ところが、自由経済どころか統制経済をやりたい野党のひとたちが批判するから、話がこんがらがるのである。

今上陛下には、なにか一発イヤミでもかましてもらいたいところなので、是非にうまい「和歌」にして、国民の敵になってしまった邪悪な政府に一矢を報いてもらいたい、と八つ当たりになる不敬をいいたくなった。

それではあんまりなので、やっぱり秋の選挙は見ていろ、というファイトがわいてくるのである。
横浜市には、前哨戦の市長選挙が待っている。

どういう魂胆かは知らないけれど、長野県知事をやった、変な作家も出るらしいから、一応は「混沌」としている。
国民としては、「お上」の意向を考慮して、ここ一番の「一票」を入れることが「義務」である。

打倒、反日・反国民の日本政府なのである。

統治能力が強大な政府を持つ不幸

どこまで落ちるのかがわからない。
「崩落」とも、逆に「噴火」ともいえる、日本政府の大暴走がはじまった。

西村康稔経済財政担当相の発言は、その象徴であるし、「無観客」オリンピックという「史上初」に歓喜しているひともいる。
もちろん、「コロナ対策」の「大失敗」は、新型コロナウィルスの「存在」に疑問を呈して途中修正できず、政府の「無謬性」に固執した結果である。

ネットにはスペインの研究グループが発表した、「コロナの正体」が拡散された。
陰謀論という言い方で「陰謀論」を語る向きがいるけれど、こうした「説」に対する「反論」も、科学の土俵で行ってもらいたい。

この正体とは、「酸化グラフェン」という化学物質によるもので、ぜんぜん「ウィルス」とは関係ない。
むしろ、この研究グループも、「新型コロナウィルス」の「特定も分離」もいまだに誰も成功しておらず、いわゆる、「コッホ4原則」の前半二つをぜんぜん満たしていないことを強調している。

そこで、彼らは、「コロナウィルスは存在しない」という「仮設」からすれば、とたんに不思議物質に変化する「ワクチン」の成分分析をしたのである。
「抗体」を人体内部の免疫で生成させるのが、「ワクチン」の働きなのだから、ワクチンの成分が「ウィルスの正体」でなければならない。

ここから得た結果が、「酸化グラフェン」なのである。

詳しくは、こちら↓

なお、ユーチューブではなくて、ランブルという自由プラットフォームに投稿されているのでご確認を。

人体に「酸化グラフェン」を入れるための方策として、
・不織布製マスクから呼吸によって
・PCR検査キットの検査棒接触によって
・ワクチンの主成分によって
の三つが挙げられている。

これによって、次のことと合致する。
・当初「無意味」と発表したのに覆したWHOは、世界にマスク着用を促し、各国政府が反論もなくすぐさま同調したこと。
・流行初期からWHOは、診断にPCR検査キットを使うように指示を出し、各国政府保健・衛生当局や医師たちの反論もなくすぐさま同調したこと。
・ワクチン接種後の重篤な異変あるいは死亡についての「例」を、「酸化グラフェン」を原因とすれば関連性が認められること。

ちなみに、わが国立感染症研究所は、あろうことか、ウレタン製のマスクよりも不織布製マスクを推奨し、酸化グラフェンを国民に吸い込ませるための片棒を担いだのである。

研究結果の内容として、
・酸化グラフェンは、血液凝固を促すので、「血栓」を生成するということがある。
・酸化グラフェンには、免疫系を変質させる「効果」がある。
・酸化グラフェンが肺に蓄積すると、肺炎の原因となる。
・酸化グラフェンは、粘膜に炎症を起こして味覚と嗅覚を奪い、あるいは、金属味をだす。
・酸化グラフェンは、生体内で強力な磁気特性を持つようになる。
・酸化グラフェンは、体内の「グルタチオン」で「抗酸化(中和)」されるが、グルタチオンは子どもが多く持っており、65歳以上では急激に減少する。
・グルタチオンは、アルコール(飲酒)によって増加する。

これらの研究成果が、「正しい」とすれば、政府及び政治家も「予防」を装いながら「流行を促進」させていることがわかる。
「グルタチオン」があるために、若年層の発症がなかったこともわかるし、飲食店だけの営業規制と飲酒を禁止したい理由とも合致する。

なお、次世代通信規格の「5G」との関連性にも触れていて、生体内での強力な磁気特性を得るためには、5G電波の周波数が関与しているという。
いってみれば、体内で電子レンジのような効果が起きている、ということだ。

そこで、なぜ「武漢発祥」なのかといえば、この都市が「世界初の5Gパイロット実験都市」だったからだという。

「5G電波」の危険性については、オランダなどで「禁止」されたように、人体への影響が懸念されてはいたが、まさか、という状況になっている。
通信機器問題もあって、わが国は5Gを通り越して「6G」の研究を開始しているが、どうなることか。

そして、何よりも重要なのが、「エセ・パンデミック」を起こした理由と、誰だ?という問題がある。
理由は、人口減少と世界共産化(全体主義化)という。
誰?については、ビッグテック系の創業大富豪や当該企業だともいう。これで「5G」ともつながるのである。

そんな中、英国で「秘密文書」がリークされたと話題になっている。
https://archive.vn/UuoeI#selection-225.0-225.18
なお、この記事の伏線は、BBCも昨年4月24日に報じていた。
https://www.bbc.com/news/technology-52409893

英国「保守党」政権にしてこの体たらくなのだから、わが日本政府は推して知るべしか。
民主主義は、民衆が優秀でないと成立しないことを実験しているかのようでもある。

英国で、もし「第二次名誉革命」が起きるなら、わが国民も乗っていい。

「兵庫9区」はどうする?

西村康稔(にしむらやすとし)経済財政担当相の地元である。
明石市、淡路市、洲本市、南あわじ市が小選挙区で、比例区は近畿ブロックがあたる。

最近のこのひとの発言は、本性にある、「強権」という牙をむき出しにして、国民に襲いかかっていると話題になっている。
かなりのバッシングがあったので、飲食店に酒類を提供している卸や小売店に、融資をさせない、といった暴言はさすがに撤回された。

しかし、どうも、飲食店に酒類を販売しないようにという、「要請」の名のもとの「命令」は、やる気のようで、与党からも疑問の声があるばかりか、「議員辞職」という四文字が出てきた。
「大臣辞任」ではない。

こうした「強権発動」に世論が反発しているのは、「健全」ともいえる。

だが、反応が遅い。
そもそも、どうして「経済財政担当相」が「コロナ対策担当」になったのか?
更にいえば、財務大臣がいるのに、どうして経済財政担当相が必要なのか?

このことは、厚生労働大臣がいるのに、コロナ対策担当大臣とワクチン大臣(本職は行政改革担当)がいることの不思議にもなっていて、なんだか知らないうちに、大臣が増えている。
たとえば、スポーツ庁長官がいるのに、「五輪担当相」とかもいる。

そして、なんといっても、これらの担当大臣の言い分に「エビデンスがない」という共通がある。

すると、「省」なりの役所が存在する大臣は、役人が提供する「エビデンス」に基づくけれど、「無任所」ながら大臣になったら、「エビデンス」を無視していいという独自ルールが、安倍内閣以来できたのだろうか?

西村氏も、河野氏も、見事な「暴走」をしているのである。

9月には総選挙をやらないと「いけない」状況にあるけれど、放置しても10月には「任期切れ」となるから、この秋は絶対に選挙がある。
こないだの「都議会議員選挙」では、中央政府の与党が過半数をとることができなかった。

現政権は、民主党(革命)政権から再登場した「旧体制」であったから、日本版アンシャンレジームとなって久しいのが「今」である。
それが、制度疲労による自己崩壊寸前にあるのは、「近代政党」としての「自浄力」が最初から「ない」からだ。

つまり、このブログで何度も書いてきたが、わが国の公党(国会議員を出している)たる政党に、近代政党がないことの国民の悲劇なのである。
あえていえば、公明党と共産党が近代政党といえなくもない。
ただし、これら二党が犬猿の仲の理由である、それぞれの思想の本質が全体主義であるために、「党内選挙」がないという欠陥がある。

西村氏は、無所属で出馬して、現職の自民党議員を破って初当選した。
その後、自民党議員となって、元職で元自民党所属議員を連続して降した経歴で、現在6期目である。
ちなみに、元職は比例当選もしていたが、いまはそれもない。

これぞ、自民党アンシャンレジームの申し子なのである。
「勝てば官軍負ければ賊軍」とはいうけれど、「民主主義」を最高の価値におく政党ならば、「党員による予備選挙」は必須の条件である。
自民党にはこの発想も、やる気もない。

手順としては、経産官僚を退職した時点で、西村氏は自民党の党員にならないといけない。
党員になるための条件も満たさないといけないのは当然だ。
そして、地元支部のなかでの「予備選挙」に出馬して、勝者となってはじめて「公認候補」となるのが「近代政党」のやり方だ。

これができない。
「小選挙区」になったから、自民党候補を複数出すわけにもいかないから、権利がある現職と、挑戦者たる西村氏が「本戦」で激突したのだ。
そして、勝った方が自民党所属になるという不思議。

大騒ぎしてつくった「選挙制度改革」(中選挙区制からの変更)は、政党の近代化を促進させる効果は微塵もなく、それを意図したものでもなかった。
むしろ、国民に「近代政党」を教えない、という了解が各政党とマスコミの間であったのではないかと疑うのである。

さらに、アンシャンレジームに都合のいい、「比例当選」なるインチキも作った。
選挙区で落ちたひとが、どうして復活するのか?
民意は「落選」なのだ。

こうして考えると、兵庫9区「だけでなく」兵庫県を超えた「近畿ブロック」とは、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県であって、昨年9月現在の有権者数は、17,159,657人もいて、当選枠は28人だ。

さてどうしたものかを考えれば、やっぱり「地元」の「判断」が基本であろう。
今度の選挙は、これまでにない「勝負」が、国民の側にかかっている。

その意味で、アンシャンレジーム政党を選ぶわけにはいかないのである。

人間を信用しないシステム

人間は間違いを犯す動物なので、「ヒューマン・エラーを防止する」ための方策を考えるとき、「人間を信用しないシステム」を基本思想にする。
そのために、やたら機械的になることは否めない。
それで、その機械的な手順を「面倒くさい」と考えるのが、また人間なので、決められた手順を無視して事故を起こすのも人間となる。

すると、人間に「面倒くさい」と思わせないか、思っても「別の抑止力」が働いて、手順どおりの行動を選択させるということまであらかじめ考えておかないといけない、ということになる。

面倒くさいと思わせない方法には、「追い込み漁」のように、そうしなければいけない状態に追い込む方法がある。
たとえば、食品工場での「衛生エリア」へ踏み入れるとき、消毒液の浅いプールを数歩だけ歩いて超えるほどの長さを確保することがある。

こうして、靴を消毒しないとエリア内に入れないようにして、さらに、エリア内専用の靴に履き替えることも義務化すれば、小学校以来の「上履き」を玄関の下駄箱エリアで履き替えた「訓練」の有り難さがわかる。

もっとも、消毒液のプールも放置すれば、消毒効果が落ちて汚染されるので、こちらを自動的に廃棄し、新しい消毒液の注入をすればよいことになる。
新しい消毒液のタンクが空だと意味がないので、これも自動点検できるようにする。

こうして、「連鎖の体系」ができるのだ。

だから、どこかの機能が不全になると、「体系全体」が不全になる可能性も高くなる。
それで、その体系を維持するためのチェックが必要になる、ということがあって、どこまでも続く感じがする。

一方で、「別の抑止力」で効果的なのが、「教育・訓練」である。
この場合、「教育⇒訓練」という意味であって、「教育」と「訓練」といった切り離した話ではないし、「⇒」のように順番がある。
よくやる方法が、「座学⇒実地訓練」だ。

座学の場面では、とくに「必要性」の「納得」が重要で、ただやったという「アリバイ」はどうでもいい。
その手順を必要とするのは、どういうことで、どういった危険に見舞われるのかということの「納得」だ。

1999年だから、「前世紀」(もうおおむかしになる)、JCO東海事業所で、「臨界事故」が起きた。
有名な、濃縮ウランを「バケツ」で搬入するということで、妙に有名になった「事故」だった。

「核」を扱う専門の会社での事故は、なんだか難しい装置やら配管とかのひび割れか?とかと想像したものが、「バケツ」から取りだした液を漏斗でパイプに入れるという、驚くほどの「手作業」だったから「驚いた」のである。

そして、そのこと「だけ」が「ニュース」になった。

このニュースの受け手にも、重大な問題があったのは、「臨界」がどういう状態をいうのかをわからなかったことである。
それは、重度の被ばくをした当の作業に従事したひとたちも知らなかったにちがいない。

でなければ、濃縮ウランをバケツに入れる指示を出したひとに、おそろしく噛みつくにちがいない。
ならば、バケツでやれといったひとも、「臨界」をしらなかったことになる。

すると、ここでは「無知の連鎖」が起きていたのだ。

しかも、マニュアル化されていた。
監督官庁にとって「幸い」だったのは、その「マニュアル」を見ていなかった、という間抜けさが、知らぬ存ぜぬを通すことができたからである。
その後の、自動車会社による30年間もの「検査不正」と、よく似ている。

省庁は、縦割りだけれど、仕組みは「横の連携」がとれている。

そんなわけで、悪いのは「会社」という「当然」のことになって、誰かが辞任すればよいことになる。
でも、死者まで出たので、会社の責任は軽いはずはない。それを動かしているひとたちの責任は、なんだか軽いのである。

こんなことから、無責任がはびこる。

4度目の緊急事態宣言が、だんだんと「政治ショー」の本質を露わにしてきた。
たまたま、都議選の間は、感染者数が少なかったのだ、と、ウィルスが「意思」を持っているようでもある。

オリンピックはやるけど、花火大会はやらない。

これも、人間を信用しないシステムとして一貫性がある。

肩こりと眼精疲労

自分がなってみないと分からないものに、「痛み」がある。
「心の痛み」と「体の痛み」があるけれど、ここでの話は「体の痛み」だ。
しかも、「肩こり」と「眼精疲労」である。
目の奥が痛い。

こんなこと、めったにならずに人生をやってきたので、「慢性」のひとからしたら、何を今さらといわれそうだが、いつまでも「止まない」というのは「拷問」的である。

原因はわかっている。
「執筆作業」のための、「無理な姿勢」と「モニターの見過ぎ」だ。
気分を変えようと、自宅から出て、電源カフェに行ったのはいいけれど、机の高さが低いのに、タブレットにかぶり付いてみていて、一発で発症した。

それでも、締切りがあるからモニターとのにらめっこは続けないといけない。
それで、「回復期」を先延ばししている。いや、それどころか、悪化しているのである。

これも、「老化」のために起きたのだろうか?

こうした「痛み」の不快は、だんだんとイライラが積もってくる。
世にいる「不機嫌な老人」の不機嫌さは、こんなところにも原因があるのだろうか?とふと思った。
そう思ったら、なんとかしないといけない。

それで、様々な妄想をはじめた。

この痛みの原因の根底には、執筆作業がある。
いまでは、ペンと原稿用紙ではなくて、パソコンが欠かせないのだけれど、執筆専用パソコンがない。
まてよ、執筆専用パソコンとは、「ワープロ専用機」のことではないか。

わが国では、そのむかし、パソコンよりも「ワープロ全盛期」という時代があった。
各メーカーが、各メーカー毎の規格で作っていたから、機種間の互換性までなかった「初期」すらあった。

結局、印刷して、紙に赤ペンをいれたものだ。

次世代の機種も自社の「シリーズ」を購入させようと、独自規格にこだわって、自滅していったメーカーも多かった。
利用者は、そんなメーカーの「姑息」を見ぬいていたのである。
あえていえば、規格を無料公開したビデオデッキの「VHSの成功」を「別物」として考えていたのだろう。

「データの互換性」は、ユーザーからしたら、「生産性」に直結したのだ。
それで、だんだんと「統一規格」に向いていったら、ソフト(今なら「アプリ」)によって、なんにでも用途変更に対応できるパソコンの進化と、アプリの進化で、ワープロ専用機がうたかたの夢のように世の中から消え去った。

そしていま、パソコンとその周辺機器の進化は、また一つのハードルをクリアしそうである。
「ウインドウズ11」が、秋にもリリースされるというし、アップルの「マック」では、昨年末に画期的な「M1チップ搭載」でバッテリーの持ちと相まって驚異的な高性能化に成功した。

動画の編集や書き込みを、一般人が家庭でやるようになって、それをネットに公開しては「稼ぐ」という働き方もうまれた。
その上での、画期的な動作を保証する高速処理機器の発達には、なるほどと思わせるものがあるけれど、もっと「アナログ」な「執筆という作業」を主とするわたしには、ぜんぜん別の世界の話なのである。

逆に、そんなトレンドのおかげて、「肩こり」と「眼精疲労」を発症したのだと思ったら、なんだか「イラつく」のである。
つまり、わたしのようなニーズに対する「発達」はないのか?
なんだか、一人で時代に取り置かれるような気分になってくるのである。

いや、そんなことはない。
おおいに困っているひとたちがいるはずだ。

そんなわけで、こんなワープロ専用機が欲しい。
・モバイルに耐えられる
・画面は目に優しい「e-インク」で、A4縦型あるいは、文字の拡大表示:詳細モニターは字が小さくて目に悪い
・キーボードは、HHK(ハッピーハッキングキーボード)同等:薄型でペチペチの打鍵感はユーザーの「パソコン入力」を舐めている
・日本語変換辞書に、類義語大シソーラス相当:国語辞典では足りない
・自動校正は当然
・フリー書式だけでなく、かゆいところに手が届く豊富なテンプレート:LaTeXモードもあっていい

むかしなら、日本メーカーが「世に問う」といった気概満点の「発明品」が数多く「新発売」されて、敗れ去っても「これでもか」とやっていた。
いまは、「売れないリスクを恐れる」文系社内官僚が「責任回避」を最優先させるから、変な提案でもして「人事」から睨まれたら元も子もないと殻にこもる技術者が萎縮して、不要な多機能をまだやっている。

良くも悪くも、挑戦的なのは中華系のメーカーになってしまった。
そのむかし、週末の羽田や成田が背広組で混雑したのは、韓国便に搭乗する技術者たちの「開発アルバイト」だった。
それから、中国便になってしまった。

こうした飛行機は、「やりがい」を乗せていたのである。

はてさて、いま手に入る「eインク13.3インチのセカンドモニター」は、10万円強、HHKが3万円。
この部材だけで、新品の高速パソコンが購入できる。

肩こりと眼精疲労が嵩じて、頭痛と吐き気がしそうである。
この原因は、「心の痛み」なのだと思う。