歴史的「意見広告」の常識

6月15日付け、日本経済新聞12面の「意見広告」が素晴らしいと評判を呼んでいる。
福岡市の「昭和食品工業株式会社 代表取締役社長名」での全面広告である。

この会社は、うどん、そば、ラーメンの飲食店を31店舗、それに工場を経営している創業53年の「中小企業」だと自己紹介している。
HPの会社概要によると、資本金360万円で昭和44年9月に設立したとある。

「もう黙っていることができません!」

と大書した、その下には、「根拠」が羅列されている。
他紙を愛読されている方のために、項目をあげよう。
・感染者数とは?
・しかも今のCt値は、何の意味もない!
・緊急事態ではなく、緊急課題
・スウェーデンの対策から 真実を学び 共生の道を歩むべき!

上記項目の「参考図書」として、以下の3冊をあげている。

  

「意見」は、
主権は国民にあるのです。
政治家や閣僚にあるのではないのです。
国が悪いのでも、世間が悪いのでもなく、
国民が正しいことを知ろうとしないことが諸悪の根源ではないでしょうか。

報道だけを鵜呑みにするのではなく、確証を得るまで情報を収集し、科学的に客観的に整理できたら、あとは「知行一致」です。
行動あるのみです。
一度きりの人生を他責で終わらせないように…。

お見事である。

当ブログの発信主として、全面的に同意する。
あえていえば、「当社は従業員に職域接種を強要しません。ワクチンパスポートにも賛同しません。」が加えてあったらもっとよかった。
ただし、原稿〆切上、精いっぱいの内容であったろう。

以下、わたしの「見解」である。
第一に、日本経済新聞が選ばれた理由を推測するに、一種の「一般紙への見切り」があったとかんがえる。
読売、朝日、毎日、サンケイへの「決別」ともいえる。

でも、日本経済新聞が「積極的に選ばれた」ともかんがえない。
この新聞の記事も、ほとんどが「政府広報」で埋まっているからだ。
せめてもの希望を、「読者に託した」といえるだろう。
いまどき「一般紙」を購読する読者層に訴えても、効果が期待できないと発想したとかんがえるのが妥当だとおもわれる。

第二に、「単独行動」の「見切り」だ。
業界に声かけしても、「賛同者がいなかった」ということだろう。
ここに、代表取締役社長の「孤独」をみる。
けれども、「いわずにはいられない」衝動との葛藤が見てとれる。

もしや、会社の「重役陣」あるいは、先代からの「番頭」に、再考を何度も促されたかもしれない。
「社長、御上に逆らってはいけません」と。

「福岡」といえば、本社所在地と選挙区こそ違えども、麻生太郎副総理の大地盤である。
もしや、気の利いた番頭さんが、麻生事務所に「事前通知」ぐらいはやって、仁義はきっていたやもしれないと「妄想」する。

「中小企業の分際なのでお見逃しを」とかいって。

第三に、「正論」ゆえの「おそろしさ」を参考図書で打ち消したことの巧妙さがある。
「政治権力」には「権威」で対抗し、根拠なき専門家の「権威」には、根拠の「権威」というふたつの対立構造を一石二鳥で処理していることだ。

政治家や閣僚(おそらく、「経済担当大臣」と「行革担当兼ワクチン担当大臣」のふたりを狙い撃ち)の、民主主義を無視した強圧的態度にも「我慢できない!」だけでなく、「科学者」のはずの「専門家会議の代表者」が、一切の「科学的根拠をあげない!」ことの「ぶち切れ」を、同時にぶった切る痛快がある。

まさに、麻生太郎氏がだいすきな「劇画」の構成になっている。
一刀両断ではなくて、一刀で三人を始末したのだ。

第四に、わが国「マスコミぜんぶ」をこき下ろした。
スウェーデン、ドイツ、イングランドなどの「外国の事例」を引き合いにしたのは、マスコミ全社が、ほぼ「報道しない自由」を発動したから、ネット情報をみない国民には何のことか理解しにくい。

これらの国に加えて、スペインやアメリカでさえも、「目覚めた」国民は多数いる。
それが、ドイツやイングランドでの大規模デモでのスローガン、「マスクを外せ!コロナは詐欺だ!」という記述である。

ちなみに、「知行一致」とは、幕末に大ブームとなった「陽明学」の「知行合一」のことである。
吉田松陰の松下村塾も陽明学によっている。

はてさて、勇気のある中小企業の頑張りに、大企業はどうするのか?
このような「骨」のある経営者と「協働」する労働組合は存在しないのか?

問われるのこのことだ。

もはや、日本政府・内閣・与党・野党そして、地方政府が、こぞって、国民を支配したがる「支配者」としての欲望をむき出しにしてきたのである。

これは、「共産化」なのだ。

自由民主党は、共産主義を取りこんだ。
政党として存在する、日本共産党は、自民党の「一派閥」と化した。
他の「党」もみな同様である。
「55年体制」のなれの果てが、新・翼賛政治=中共化なのだった。

コロナはその道具に過ぎないと、「意見広告」が主張している。

「ちくわ【あるある】」の真実

世にいう「瞬間芸」の達人が動画サイトに登場した。
その名も「ちくわ【あるある】」という芸名である。
どうして「ちくわ」なのかも不明だし、【あるある】をカッコのなかにいれて、セットで芸名とするセンスからして最初から「おかしい」のだ。

ほぼ「秒単位」での「瞬間芸」を、およそ全部で2分ほどに何本もまとめて、ひとつのテーマで一貫させる手法を用いている。
さり気にはじめて、さり気におわるけど、その「構成」はあんがい練られていて、うっすらと「起承転結」もあるやにみえる。

出演するのは、本人ひとりだけ。
いまどきの芸人の芸のなさを嘆いたところでなんにもならないけれど、このひとの尽きない「アイデア」と「演技力」は、一流の域にあるかとおもう。
その基盤に、あまりにも「そのまま」の、世間を見る目があるからだ。

ここが重要で、ふつうすぎてわからないことにフォーカスしてデフォルメするから、日常が巨大な虫眼鏡によって拡大されたようにみせる。
「拡大図」ゆえに、「瞬間芸」となるのだ。
それが、何本も「波状攻撃」となってやってくる。

【あるある】というのは、「瞬間」を切り取ってみせることの「確認」と、その確認の連続を意味するのだろう。
では、「ちくわ」とは、穴があいている望遠鏡から覗いた世界をイメージしたのか?
本人に聞いてみたい。

記念すべき第一作は、「フェミ」への攻撃的な内容である。

演じる本人は、高校を出たてなのかわからないけど、うら若き女性であって、けっこう「かわいい顔」をしている。
そして、定番の髪型は、前髪をぜんぶ上げて、むかしの少女風にしているのである。

このシンプルさで、老若男女を演じるのだから、顔の表情はべつとして、あたかも「能」のような効果を出していて、衣装は着古したTシャツを定番にしている。
なお、ときに「めがね」と「キャップ」を小道具にして、表情にバリエーションを加えている。

つまり、あらゆる人物を、同じ髪型おなじ衣装で演じているのだ。
そしてそれが、「あるある」になる。
おそるべき「実力」なのである。
もとにある、「観察力」と、再現時の創意工夫に「狂気」すら感じる。

「本番」撮影前の「リハーサル」は、他人が見たらなにをしているのか?見たくなくなるほどの混乱状態があるにちがいない。

一本目の衝撃から、あたかも方向性があるのかと思いきや、新作を次々と視聴すれば、それがただの「ネタ」にすぎないことがわかってくる。
ただし念のために書けば、タイトルは「狂っているフェミニストのおばさん」なのであった。

本人の「常識」から、「狂っている」としたのか?それとも、世間からの「ズレ」をいいたかったのか?
おそろく、両方だ。
そこに、「毒」がある。

笑いにこそ真実がある。

アリストテレスの失われた『喜劇論』にある「はず」といわれている「名言」を、「毒々しく演じ」て一世を風靡したのは、世界の北野武こと、ビートたけしだった。
ちなみに「劇」について、アリストテレスの現存する著作は『悲劇論』だけなのである。

しかし、この恐れをしらない若者は、その「たけし」すら、なにをしゃべっているのか聞き取れないおじいさん、として「演じ」ている。
あるあるではなくて、そうかと納得、してしまう自分がいる。
テレビ・デビューから「同時代」のわたしには、「おじいさん」という感覚が抜けていた。

自分も、すでに「おじいさん」なのだ、と。

けれども、べつに不快にならない。
それは、にじみ出る懸命さがあるからだろう。
もうひとつの、賢明さもある。

くだらないことも、賢明に観察して、これを懸命に再現させ表現する努力は、やっぱりクリエイティブだ。

「大御所」をいじったら、およそテレビ界から相手にされない。
まごうことなき「忖度」がある。
しかしながら、ネット動画に投稿するという方法が、逸材を逸材のまま表に出せる。

暗い話ばかりの「世相」を笑い飛ばすことが、いまほど重要な時期はめったにない。

彼女のアイデアが尽きないことを祈るばかりなのである。

手書きかキーボードか

「字を書く」という行為の方法が、変化してきている。

そもそも、「紙」に書くのか、印刷するのか、それともどうするのか、もある。
たとえば、スマホやタブレットを「紙替わり」にしてメモをとるなら、あとから画像をみれば済む。

「覚え」としてSNS発信をするひとだっているだろう。
積極的にSNSを利用するユーザーならば、フォロワーになったひとの文章をみているはずだ。
すると、1日にいかほどの「文字数」を書いて読んでいるのか?

これを、宇野常弘氏は著書『日本文化の論点』で、「活字離れとはいえない」といっている。
たまたま、出版業界人だけが「被害」を訴えているにすぎない、と。
一般人は、出版物にある字「ではない」文字を大量に読んでいるのだ。

たしかに、さいきん昔ながらの「筆記具」を手にしなくなった。
「iPad」を買ってみたら、紙のノートが不要になったのだ。
それに、アップルペンシルという「ペン」を多用している。
「手書き変換」という機能をつかえば、手で書いた文字が活字にかわる。

もっぱら文字入力をしたい、というときには、キーボードをつかう。
「iPad」でもキーボードをつかいたくなるときはあるけれど、「専用」の必要性までは感じていない。
「携行」するときは、軽いブルートゥース・キーボードで十分だ。

そんなわけで、文房具へのこだわりが、萎えてしまった。

これまでの「ペン・資産」が、ただの「置物」になっている。
とくに、万年筆がそれだ。
たまにつかうのは、申請書に書くボールペンか、慶弔の筆ペンになった。

万年筆以前の毛筆は、もう何十年も手にしていない。
墨をすって半紙に文字を書いたのは、小学生のときばかりだった。
もっぱら「楷書」を習ったので、「行書」も「草書」も書けないから読めない。

ましてや、「旧仮名遣い」も「文語」もしらないから、古文書なんて無理である。
ある意味、驚くほどの劣化をしている。
古文書は、民族の知的財産・知の蓄積といえる。

まあ、いまさら嘆いても仕方がない。

そんな状況にあるのだけど、「文具王」というひとが、みずから開発に加わって、究極の「ボールペン」を追求している。
それは、もちろん、「書き味」の究極だ。

「神は細部に宿る」というから、ボールペンの書き味を吟味するとは、よほどの「細部」に入りこむことになる。
万年筆派からいわせたら、鼻で笑われるのだろうけど、そうはいってもボールペンを使わざるを得ないシチュエーションはある。

まず「王」の指摘は、文句なしのダントツの書き味を、三菱鉛筆の「ジェットストリーム」としている。
しかしながら、「完璧ではない」という。
それが、ペンのボディーにおける「安定性」が欠けることらしい。

その安定性とは、ペン先が「ブレない」ことと定義している。
ボディーの先が、ペン先をいかに支えるのか?がポイントになる。
それで、ペン先を包み込んで絶対安定させる構造になっているのが、ゼブラの「ブレン」だと絞り込んでいる。

問題は、ペン先とインクのリフィルの形状である。
残念ながら、オリジナルの「ジェットストリーム」は、「ブレン」のボディーにおさまらない。
ただし、「細くて」なのであ。

そこで、「王」が開発したのが、金属製の「管」だ。
この管にジェットストリームのリフィルを差し込むと、ブレンのボディーに、ピッタリ収まる。
それでもって、この「管」の販売価格は800円。

福島製作所がつくる製品名は、「ボールペンリフィルアダプターZB-01」という。
よって、1000円以上をかければ、「最高」が手に入る。

三菱鉛筆の設計者と、ゼブラの設計者は、これをどうみているのか?
まったくのクロスオーバーである。
ペン先のボールの精度とボールを支える機構、それにインク開発者の「完璧」が、ボディー設計で破られた。
一方、ボディー設計の完璧が、中身で追いつかない焦れったさ。

消費者は、これらのギャップを埋めるのに、さらなる出費を要する。

なかなかに、厳しい話なのである。
しかし、似たような話が「iPad」にもある。
アップルペンシルを使うには、そのままではiPad画面に傷がつきかねない。

そこで、画面保護フィルムが必要となる。
けれども、ツルツルのタイプとザラザラのタイプの2種類がある。
ペンシルで書くなら、ザラザラのタイプが「紙のよう」な書き心地をつくってくれる。

しかして、交換可能なペン先が、「減る」のである。
それでもって、このペン先は、純正品なら1個500円ほどであるから、ボールペンリフィルと比較したくない。
「消耗品で稼ぐ」のは、カミソリ・メーカーとゼロックスが構築したビジネス・モデルだ。

消耗品のボールペンリフィルが安いのは、筆記具メーカーが、「ボディー」を売っているという「驚き」でもある。

なるほど、それで華奢なボディーのペンばかりになったのか。
とくに、「クリップ」部分が一体成形なので、時間による劣化があって折れてしまう。
仕方がないから、新品を買わされる。

世知辛いのである。

「反外国制裁法」の施行

「チャイナ・リスク」が明文化された「事件」である。

しかし、だからといって「本質」になにか変化が生じたものでもなんでもない。
むしろ、だれにでもわかること、になったので、まったく不思議なことになった。

いままでは、いつ、だれが、どのように「制裁される」のか?がわからなかったからである。
そうやって、彼の国で検挙されたり逮捕されてしまった外国人が、釈放されるわけでもない。

果たして、この「法律」を「立法」した意図はなんなのか?
むろん、彼の国での「立法」とは、「党」が決めることである。
その「党」は、「万能」をもって君臨する。
「神」や「宗教」を否定する、根本理由がこれだ。

しかし、それでも一応の「内部規則」がある。
それが、「法案審議」は「三度行う」というルールであった。
ところが、本法は「二度」をもって発布された。
「G7」の議論にあわせて、急いだからだろう。

つまり、G7にプレッシャーをかけた「つもり」なのだ。

けれども、やっぱり「通用せず」、「包囲網」のしばりは強まった。
念のためいえば、G7は「中・露包囲網」ということになっている。
「露」が入ってくるのは、約180年前の「クリミア戦争」での勝利が、ロシアによる「併合」で踏みにじられた、英・仏の恨みがあるからである。

それに、アメリカ・バイデン政権も、「悪魔の露」としておきたい思惑がある。
下院で弾劾までやったトランプ政権への「ロシア疑惑」のキャンペーンがあるからだ。

もちろん、わが国には「北方領土問題」がある。
だから、中・露包囲網といっても、わが方は、露包囲網に重点をおくのだという「名分」がある。

さてそれで、ようやく「この法」で、わが国財界がうろたえることになっているようだ。
日本政府が世界と一緒になって、「中国包囲網」に加わって、この法を「適用」されたら、どうしてくれる?というわけだ。

そんなことを「民間」からいわれても、自分たちには関係ないと思考するのが、エリートを自負する外務官僚たちである。
もちろん、アメリカからいわれて釘を刺されたら、従うしかない、という本音がある。

「従うしかない」から、「民間企業」がどうなってもしったことではない。
これは、「コロナ」とおなじ構造なのである。
アメリカからワクチンを買って国民に打てといわれたら、そうする。

文官は打たないけど、警官や自衛隊員には接種をするのは、平安貴族からみた、血に穢れた「侍(さぶらい)」を卑下した態度とおなじ感覚があるからだ。
まさに、警官や自衛隊員とは、現代の「検非違使」なのだった。

だから、問題はアメリカの「本気度」なのだ。
民主党に政権交代して、国内における政策では、トランプ時代の政策をことごとくひっくり返してきたけれど、どういうわけか外交政策は、トランプ時代をしっかり踏襲している。

とくに、反中国の姿勢は、崩していないのだ。

これには、議会の力もはたらいているのはもちろんだけど、軍の意向もあるだろう。
「米中の綱引き」で、決定的な場面とは、「ドル取引」までも題材にするのか?という局面である。

すなわち、アメリカが「ドル決済の中止」を宣言したとたん、相手国の「金融」が崩壊する。
世界の銀行システムは、「ドル決済システム」として機能しているからである。

たとえば、ロンドンに拠点をおく大銀行、HSBC(漢字では「香港上海銀行」)は、その出生からの流れから、中国におけるビジネスのため、アメリカはもとよりイギリス政府の意向とは「ちがって」、中国ビジネスを優先させてきている。

このあたり、日本企業の「あまりに深入りした投資・ビジネス実態」と似ているのである。
しかし、「本法」によって、米・英から中国への「制裁」がより強まったら、お返しとしてビジネス上の制裁を受けることが「確実」となった。

そのとき、従来のように中国ビジネスを優先できるか?という局面で、もしや「ドル決済システムからの排除勧告」でもうけたら、もはや銀行として選択の余地はない。

習政権が、どうしてこんな、事実上の「撤退加速法」をつくったのか?
「香港・上海」といえば、「江沢民派」の拠点だから、もしや、すさまじい「江派潰し」が目的か?

深い理由は不明だけれど、トランプ氏が躍起になって、アメリカ企業の撤退をうながしたことが、「効果なし」と嘲笑されたことを思い返せば、もっとも効果がある方法を、相手がとったのである。

さては、日本企業の行動は?

みんなで進出した「横並び」の行動原理にしたがえば、「雪崩をうって」ということになるのか?
それで、引っ越し先が再び「共産主義」のベトナムだったら、これはこれで学習できないひとたちだということになる。

外貨持ちだし規制がある国とは、事実上、ドルで投資してドルで回収できない国をさす。
現地通貨をしこたま貯め込んで、なにをしたいのか?

ほんとうは、「チャイナ・リスク」なのではなくて、単純に「投資先選択」における、「投資リスク」が顕在化した「だけ」なのである。

「検索」に出てこない

ビッグテック企業への批判は、アメリカ本国における「情報プラットフォーム」としての「免責特権」を得ながらも、巨大化して、まさに「情報インフラ」としての本来機能を確保してから、「一転」して「情報統制」を開始したことにある。

各国政府が最初に「無能」をさらけだしたのは、「課税問題」であった。
相手企業が、一国政府よりも巨大な範囲と深さでのビジネス展開をしているので、「課税根拠」を確定することができなくなったのだ。

つまり、巨象と化した民間企業に、蟻の政府が課税するとき、巣穴がことなる蟻同士で「獲物」を争ったのである。
そして、各国の国内法における「言論の自由」が「蹂躙」されたとき、さらなる「無能」を政府たちはさらけだしてしまった。

もともと言論の自由がなく、言論統制に躍起の外国政府への協力が問題になったときも、本社を置くアメリカ合衆国政府をもってして、自由を守らせる意味の「統制」がスムーズにできたとはいえなかった。
それよりも、ユーザーに「検索させない技術」のほうが先に完成した。

さらに、「検索させない検索用語」の「検索を試みた」ユーザーが誰かを特定し、逮捕までできるシステムの構築は、もともと言論の自由がなく、言論統制に躍起の政府にとっては、垂涎の的となる「技術」であった。

こうした、「言論統制」に、技術がなくて、しかも、国民を監視するシステムに莫大な費用をついやした「ソ連」が、政府ごと転覆したのだから、「時間」と「タイミング」の重要性が、より明確に理解できるというものだ。

歴史に「もし」は禁物とはいえ、80年代にいまのビッグテック企業が持つ技術があれば、ソ連はいまでも存在できたやもしれず、東欧圏もそのまま「衛星国」であったろう。
すると、いま、この技術導入で生き残ったアジアの大国は、果たして巨大経済力に発展できたのか?

すると、「世界の工場」は、あいかわらずわが国でいられたかもしれないし、欧州の「冷戦構造」の継続はよりわが国に有利だったろう。

しかし、そうはいかなかった。

むしろ、「旧・冷戦」が終結して30年も経っているのに、いまだに「そのまま」の感覚でいることの方が、「驚き」なのである。
一方で、コロナで判明したことは、歴史は繰り返す、を思いださせる「全体主義」が「効率的」にみえる、「錯覚」の再来なのだ。

まったくのデタラメだったのに、スターリンの「五ヵ年計画」が、当時のインテリに鮮烈な印象を与えたことの、一種のカルチャーショックのような「憧れ」が、「デタラメ」を忘れさせたごとくである。
そして、本気で「ソ連になりたい」とかんがえた。

支持者獲得競争におけるマーケティングで、どちらもおなじ左翼思想という支持集団にアッピールしたから、激しい争奪戦をもって犬猿の仲になったのは、全体主義の両巨頭・スターリン対ヒトラーだ。

ヒトラーの「天才」が、まっ先に採用したのは、ケインズの「有効需要」で、当時の常識的「財政均衡論」をぶち壊したのだった。
つまり、財政赤字を無視して、強烈な公共事業投資をやった。
すると、疲弊しきっていたはずのドイツ経済が、「復活」したのである。

それでもって、わが国は「選択肢」として悩んだ挙げ句、ドイツと同盟することにした。
わが国経済官庁が、いまだにケインズを国家経済運営の基本に置くのは、100年続く馬鹿の一つ覚え、なのである。

しかし、そのさらなる深さに、スターリンの「五ヵ年計画」がある。
だから、ケインズの公共事業が後退しても、国家が計画するスターリンの手法を決して曲げない。
これが、「馬鹿の一つ覚え」の本質なのである。

そんなわけで、70年代、謙虚でういういしく見えた(日本経済の発展に奢りがあったのでなんども騙された)、人民服を着たひとたちを応援すべく、さまざまな投資をやって半世紀が経ったら、「やどり木」に栄養を吸い取られて、やどり木を切ったら自分が死にそうにまでなってしまった。

すると、自分を痛めつけるやどり木のやり方に憧れるという、「ストックホルム症候群」を発症して、「言論統制」の「効率」が、たとえようもない「魅力」になった。

そのためには、憲法を改正しないといけない。

おおかたの「保守派」は、「国防」に気をとられて「賛成」し、これにいつもどおり「反対」する左翼をバカにする。
しかしながら、左翼全体主義の巧妙は、皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切るのである。

コロナ対策の厳密さ実行(戒厳令)の邪魔が、憲法の「自由の精神」だという批判は、まさに「これ」で、あたかも保守的言動のひとたちが推進を試みていることだ。
ありえない強権を政府に与えよ、と。

だから、自由の本家アメリカやイギリスでの重要な出来事を、日本語で検索できなくても、こうした「エセ保守」は、ぜんぜん気にしないで、「知らなかった」と、とぼけるのである。
なぜ検索できないのか?には一切触れない。

かつて、新聞が書かないニュースは、事実ではないという時代があったけど、いまは「ネット検索」に出てこない事象に取って代わった。

検索に出てこないなら、事実はなかったのだ、が現実になった社会に住んでいる。

新しい時代「令和」の本格始動

「令和」を分解すれば、政府の命「令」が新しい「和」合を産む。

この前提にあるのは、全体主義のダブル・スタンダード(二重思考)だということに気がつけば、「命令」とは「自主的選択」となり、「和合」とは「分断」を意味する。

ジョージ・オーウェルがいう、「ニュースピーク(Newspeak、(英語の)新語法)」での用法の日本語応用である。
なお、彼が「解説」した、「ニュースピーク」の場面設定は、マスコミが一社しかない未来世界であるけれど、現実の今、「社」としてはたくさんあるが、内容がおなじなので、すでに現実化しているのである。

なにを検査対象にしているのか不明の「PCR検査」での「陽性者」を「感染者」と表現することから、「ニュースピーク」は始まった。
それで、「厳密な死因は問わないけれど」という条件で、遺体にPCR検査をして、陽性判定だったら、「コロナによる死亡と報告せよ」と国家が命じたのも「ニュースピーク」だ。

※2020年6月18日付、厚生労働省新型コロナウィルス感染症対策推進本部「事務連絡」、新型コロナウィルス感染症患者の急変及び死亡時の連絡について、を参照のこと。

この「事務連絡」は、「通達」にしていないところに「わざと」が見え透いている。
「診断」は「医師法」による、医師の専権事項だから、「死亡診断」も同様である。

よって、事務連絡であろうが、死亡報告をねじ曲げろという「指示」は、たとえそれが「医師免許」の管轄官庁であっても、医師法に違反する。
むしろ、かくなる「指示」は、管轄官庁であるからこそ「言語道断」の「ニュースピーク」なのだといえる。

しかも、現場医師からの「報告」とは、これを集計すれば、「国家統計」になるものだ。
よって、「統計法」にも違反し、信用できない統計資料では、事後の正確な分析の用にもならない。

つまり、「コロナによる死者数」そのものの、追跡不能な「隠蔽」になるから、これを、「統計」というなら、やっぱり「ニュースピーク」なのだ。

さてそれで、今度は「新薬」を「ワクチン」と呼ぶ「ニュースピーク」を実行して、接種後の副反応による被害の実態も、「調査中」あるいは「因果関係不明」という「ニュースピーク」が多用されている。
わが国では、「火葬」を原則とするので、「調査に一年以上を要する」という当局の回答は、「なにをもって調査するのか?」について意味不明の「ニュースピーク」だ。

すでにおおくの「つぶやき」では、驚くほどのスピードで元気だった近親者が「死亡」したと書き込みがあって、その多くが「接種」との関係性を「否定(=不明と)された」とある。
つまり、文字どおり「闇の中」に葬られているのだ。

「コロナ感染者」の死者が近隣の知人にもいなかったのに、「ワクチン接種」したら死んでしまう。
嫌がる夫を「孫に会えるから」と説得して、直後に亡くした老妻が、自分が殺したも同然と嘆く悲惨がある。

ワクチンの集団接種会場では、なにが起きているのか?
「ニュースピーク」のマスコミは、一切を報道しない。

しかしながら、上手の手から水が漏るように、急変した接種者を迎えにくる救急車は絶えず、トイレでは嘔吐するひとが絶えないという「つぶやき」による報告が多数ある。
このような急激な副反応に、「ワクチンが効いている証拠」と説明する「ニュースピーク」すらでてきたようだ。

ある医師は、政府専門家検討会議の資料を公開しながら、その内容を解説している動画をアップしている。
この医師は、優先接種した医療関係者による「死者」を、「殉職者」だとして、「靖国神社に祀るべき」と主張している。

それに、「医療関係者の9割が接種済み」という報道の「ニュースピーク」についても指摘している。
正しくは、「医療関係者のうち接種希望をした9割が接種済み」だ。
「分母」がぜんぜんちがう。

自身のクリニックにおいては、本人を含めて全員に接種をしない、と明言したのは、危険性に関する恐れがあるものを注射するのは、医師としての倫理にも反するので実施できない、と。

海外からの「実態」も続々と報告されはじめた。
「厳しい対策」でしられるカリフォルニア州では、接種者の死亡はもとより、「交通事故が激増」しているという。
運転中に心不全や脳卒中を発症するのが原因というが、他人が事故に巻きこまれてしまうことがより問題を深刻化している。

それで現地日系企業・支社から、「実態の報告」をうけた日本の本社では、社員への職場接種を「見送る」判断がはじまっているともいう。
あえていえば、海外に職員を派遣している企業は、現地の状況を「報告させ」て、政府の官製情報との比較をしてから職場接種の「判断」をすべきだし、申込みを「取り消す」ことも従業員保護のための経営判断となる。

元ファイザー社技術担当副社長のマイケル・イードン博士は、ファイザー社製ワクチンの危険性を訴える動画を配信している。

ワクチン許認可の本家、アメリカCDC(疾病予防センター)、NIH(国立衛生研究所)および、FDA(食品医薬品局)の職員の「半数」がワクチン接種を「拒否」している。
米軍でも6割以上の兵士が接種を「拒否」しており、カナダ軍は、すでに接種を「禁止」した。

なお、わが国では昨年12月9日付け「官報」で、国会議員などについては、接種を免除する旨の「法」決定を「告示」している。
一般国民がモルモットにされていて、家族の「分断」までもが画策されていることが明確になってきた。

ドイツのように「反抗」ができない、従順な日本人は、今度こそ「政府に殺されている」のだ。
よしんば「新・東京裁判」がはじまっても、死者は生き返らない。
そして、建国以来はじめての国民どおしの「分断」がはじまる。

こんどは、接種してしまったひとの体内で合成される、「新型ウィルス(「スプレッダー問題」ともいわれる)」が、健常者の健康をうばうおそれがでてきたからである。
家族どおしでも、同じ部屋にいられないどころではない。

接種者を隔離せよ、という恐るべきことが起きる可能性がでてきた。

人工パンデミックの恐怖は、たんなる情報パンデミックから、「本物」の「分断」になるかもしれない局面にやってきた。
これを、「ニュースピーク」では、「家族の団らん」というのだろうか?

追伸:
13日、アメリカ連邦上院共和党議員団が、「コロナ詐欺」についての記者会見を行ったと「ブーム・ニュース」が配信している。
この中で、議員は「コロナはウソです」と明言している。

詐欺組織のフロントがG7

先進国首脳会議でいう「G7」とは、米・英・仏・独・日・伊・加の7ヵ国首脳をさす。

「先進国」をわざわざ枕に表記しているので、どうして「日」が入っているのか、最近の状態からは「不明」になりつつあるけど、なんとなくGDPが大きいから、という「昔の名前」で入っているだけだろう。

本当の経済実力指標である、「ひとりあたりGDP」が参加資格になると、まっさきに脱落することになって、地域代表としてなら、空いた席を韓国か台湾に譲ることになる。

なんとかつてのわが国の「飛び地」ともいえる地域の方が、いまや「上位」なのである。
この現実を直視できないことが、さらなる没落の理由になる。
つまり、冷徹な「反省」をすることがひつようなのだが、これが、「できない」ので今日も没落しているのである。

では、なぜ「反省」ができないのか?
責任を問われることが「怖い」からである。
つまり、「反省」しなければならないのは、責任を問われる立場にある責任ある個人ということになる。

かんたんにいえば、組織の「えらいひとたち」を指す。

しかし、このえらいひとたちが、暗黙のパワハラを責任の薄い一般人にしていて、できるものなら文句をいってみろ、という圧力をかけてくる。
それが、「消費増税」やら「レジ袋有料化」やら、「ストロー規制」だったりする。

この手の、権力行使は、犬がする「マウンティング(支配本能)行動」とおなじだが、人間がするから「社会的なマウンティング」になるのである。

しかも、こうした「社会的マウンティング」には、特定思想をもった組織、たとえば、NHKとか民放とかその親会社の新聞社が、この思想のためにする「支援行動」をとることになっている。
それで、情報にかぎらない「弱者たち」を、さらに追い込むのだ。

どこに追い込むかといえば、かれらの「いいなり」という、奴隷の立場に、である。
犬は、脳の構造上、群れの中の順位が最下位になっても、決して社会的ストレスを感じないけど、人間の脳はそうはいかない構造だ。

これを、「閉塞感」といっている。

社会的マウンティングによる「圧迫」のことを、マイルドに表現するのは、やっぱり特定思想のひとたちからの「追い込み」の効果だから、何重にもがんじがらめにして、逃げられないようにしているのだ。
これを、ダブル・スタンダード(二重思考)の用語でいうと、「解放」となる。

ほんとうはがんじがらめで、身動きがとれない弱者たちなのに、社会的マウンティングをするひとたちは、用語として「解放する」といってニッコリと笑顔を送ってくるのである。
なんて人民にやさしい政府・会社なのでしょう、と。

その究極が、無料の「ワクチン接種」ということになった。
むかしのひとがいっていた、「タダほど高いものはない」という警戒心も、すでに奴隷には通じなくなって、喜々として接種するという。
それもこれも、個人の選択ですよ、とニッコリ笑顔でいわれるのだ。

前に、「新・ニュルンベルク裁判」を書いたけど、この集団訴訟を準備している筆頭弁護士の、ライナー・フーミッヒ氏が、トランプ政権で最初の大統領首席戦略官を務めた、スティーブン・ケヴィン・バノン氏がホストのラジオ番組『ウォールーム』に出演して、この詐欺事件の概要を説明した。

ネットでは、この様子を「字幕大王」さんが日本語字幕をつけて配信している。
ドイツ人が本件に敏感に反応・反感を示しているのは、彼らが誇る人類文学の金字塔、『ファウスト』を暗誦までするのが教養人のたしなみだからだろう。

首謀者を「状況」から想定すると、2019年10月に行われた『イベント201』が挙げられる。
この「イベント」は、世界の大富豪や大企業が、主催・スポンサーとなって開かれた。
テーマは「パンデミックのシミュレーション」だ。

ほんとうのパンデミックがはじまる「前」だということに注目されたい。

じっさい、ここでのシミュレーションのとおりにいまがある。
首謀者たちは、「人口減」のために「パンデミックを望んでいた」のだ。
人口減を目的とするのは、地球環境保持(持続的)のためという、倒錯した思想がある。

ライナー氏によると、じっさいに起きた武漢での「ウィルス漏れ事故」に、首謀者たちが「食いついた」という。
彼らのシミュレーションでは、「きっかけ」が欠けていたからである。
これぞ、千載一遇のチャンスとして、一代で財をなした才能をフルに発揮した。

それで、漏れたウィルスの遺伝子断片情報から、この詐欺最大の道具となる、「PCR検査キット」をいそいで製作・量産する。
もちろん、「PCR検査キット」というのも「うそ」だ。
そして、彼らが最大の出資者になっていたWHOに、「診断にはPCR検査をせよ」という「通達」を世界各国の政府に発令させた。

騙しのネタである「検査キット」販売による莫大な利益と、人口減を目的とした「新薬」の販売による莫大な利益を見込んで、各国政治家を買収した。

11日、英国の先住民ケルトの故郷、コーンウォールで開催されたG7は、初日、「ワクチン10億回」を早々に合意した。
そして、この前日、モデルナ社は12歳~17歳向けの申請を米国FDAに申請し、今後各国の規制当局にも申請する。

また、同社は、さらに3月から、12歳未満の「治験」もはじめた。
ファイザー社の新薬は、18歳以上で「緊急許可(認可ではない)」されたのだから、より生殖機能をマヒさせる可能性を子どもに広げる所業がはじまるのである。

まちろん、今回の「病気」で、子どもに重篤な症状がでた事例もない。
ありもしないウィルスによる病気を子どもが発症しないのは、成人病にかかっていないからである。

そんなわけで、情弱ばかりでない、おとなを社会的マウンティングでがんじがらめにして、子どもを対象とする「人道への罪」もひそかに開始された。やくざのフロント企業ばりに堕した各国政府は、これを真顔で「推進」する。

G7の首脳の顔を、フロントだとしてながめよう。

科学が暴走する構造

日本における「科学史」の第一人者といえば、村上陽一郎氏である。
もう20年前の出版になる『科学の現在を問う』(講談社現代新書)は、コロナや地球温暖化をいう「今こそ」一読の価値がある。

この本には、「総力戦」としての「第二次大戦」を前にした、アメリカの「戦争準備」の一環としての科学政策という観点がある。

そもそも、近代の戦争における「総力戦」の概念は、日露戦争をもってはじまりとする説が有力である。
ゆえに、日露戦争を別名「第0次世界大戦」という表現さえあるから、現代の戦争の「原点」となっている。

もちろん、絶対的勝利を目指すのが戦争だ。
この点に集中すればナポレオン一世の戦争は、史上初の総力戦であるといえる。
しかしながら、「何かが足りない」と感じるのは、兵器において未だ「伝統的」だったからである。

およそ、「近代兵器どおし」の戦いではなかった。

それが、日露戦争で一変したのである。
陸に海に、戦場が同時点で水平展開して、兵士の肉弾だけでなく、装備の「物量=資金」を一大消費する消耗戦が、国家経済=国民経済を直撃するに及ぶし、勝利の「秘策」ならぬ「秘密兵器」も投入された。

この「秘密兵器」こそが、「科学」の賜物なのである。

しかし、「兵器」だけに限らず、あらゆる分野の科学を統合し、「総力戦」を準備したのは、1932年(昭和7年)にMIT(マサチューセッツ工科大学)の「工学部」を整えた、ヴァネヴァー・ブッシュ学部長であった。これまでは、技術校的であったけど、今に続く大変身を遂げたのである。

「工学部」とはいうけれど、傘下の学科は以下のごとし。
土木・建築学科、金属・鉱山学科、造船・造艦学科、電気・電力学科、民生・衛生学科、化学学科、経営学科、などである。
この時点で、経営は工学であったことにも注目したい。

すでに、MITは「総力戦の臨戦態勢」なのだ。
なぜなら、この年、日本では5.15事件、満州国建国があり、翌年にはヒトラーが首相になって、日本は国際連盟を脱退する「ご時世」だった。

そして、このブログで何度も触れている、わが国の「敵」だった、アメリカ民主党・ローズヴェルト政権が誕生すると、ブッシュ氏は新設された国防省科学研究開発局の初代局長に就任すると同時に、国防研究会議を発足させてその責任者にもなった。

なんだか近衛文麿のブレーン集団、「昭和研究会」がずいぶんな「後付け」の権限に乏しい脆弱な組織にみえてくる。

ここで彼が打ち出したのが、「国家」による「科学研究成果」の収奪だった。
原爆開発で有名な「マンハッタン計画」を遂行した、「ロス・アラモス」も、ブッシュから見たら末端の一研究所に過ぎなかった。

戦争の趨勢が見えてきた1944年、ローズヴェルトはブッシュ宛に書簡を出して、いくつかの質問をしている。
それは、科学を戦時という緊急事態を理由に国民の承認もなく「総力戦」に利用したけど、「戦後」になったら、国家は科学をどうしたらよいのかを問うものだった。

後に「ブッシュ理論」といわれる、彼の回答『科学-この終わりなきフロンティア』報告書の内容は、ズバリこれまでの「継続・維持」なのであった。
すなわち、国家は科学研究の成果を今後も収奪すべきだと。
この「科学」の中には、「流行り病克服のための研究」も明記されている。

これが、いまの騒動の「源流」なのである。

ソ連には、イデオロギーと独裁者を利用して、科学アカデミーの議長にまでのぼりつめた、ルイセンコという「エセ科学者」がいたけれど、アメリカにも似たようなひとがいた。
ただし、ルイセンコは自己のため、ブッシュは国家による科学の収奪のためだった。

科学を題材にしたアメリカの国家プロジェクトでなんといっても有名なのが、ケネディ大統領(民主党)が推進した、アポロ計画である。
ここで、NASAが一躍脚光を浴びたけど、NASAすら彼の組織の傘下にある。

そして、今話題のファウチ博士がレーガン政権で任命されて以来その地位にある、のも同じ「構造・枠組み」の中の話なのだ。

我が国では、1997年に全会一致で可決した「科学技術基本法」によって、国による「5ヵ年計画」が始まった。
この法は、行政機構に科学技術を収奪することを「義務づけている」のだ。
まさに、スターリンや毛沢東の「5ヵ年計画」が思い起こされる。

著者の村上氏は、昨今の「自己責任社会」を「チャンス」と見ている。
それは、個人が参画する様々な組織が、行政に代わって科学研究の成果を収奪することへの期待があるからだと説明している。

なるほど、ではあるけれど、社会人には必然的に科学を見る目がひつようになる。
現代社会とは、高度に社会化された科学を備えた社会だからである。

コロナ・ウィルスしかり、地球温暖化しかり。

つまり、「非理系」にこそ、科学リテラシー(基礎的な理解力)がひつようで、一方「理系」には、社会を見るリテラシーがひつようになる。
これをできないように「努力」しているのが、文部科学省による「文系・理系」の早い時期(いまや中学)での「分離」なのだ。

これで、国民は専門家の「虜」となる。
だから、自己責任を問われる個人は、自分で勉強しないと「永遠に騙され収奪される」ことになっている。
ときには、「命」さえも奪われる。

おそるべきことなのである。

家族的経営でなくなった日本企業

「一家を成す」のが、世界から「日本企業」といわれた日本企業の特徴だった。
その「思想」で、あまりにも有名なのは、たとえば、ファスナーの「YKK」があるけども、最初に日本経済を底から支えた「女工」の「絹糸」だって、その「思想」に溢れていた。

たとえば、世界文化遺産で有名な「富岡製糸場」(明治5年:1872年)だって、官営からすぐに三井に払い下げられて、赤字経営から黒字になったけど、外国人医師を雇用して女工の健康を守った。
西の「郡是:グンゼ」は、女学校も建てている。

ところが、第一次大戦による「濡れ手に粟」のごとくの、自助努力なしの欧州からの発注に景気が湧き起こり、さらに重化学工業化という「輸入の産業」で、経営者の頭脳が欧米化した。
これで、「家族的経営」が「絹糸」の分野でも壊れた例が、『近江絹糸「人権争議」はなぜ起きたか』をみるとよくわかる。

ちなみに、社名を「オーミケンシ」に変えたけど、繊維生産から撤退を決めて、とうとう従業員全員を解雇したのは2020年のことだった。
じつは、これで「国産レーヨン」の供給に大打撃となったのだ。
ちょっと前なら、経済分野の「大事件」だ。

戦後の高度成長期にあっても、日本企業とは、日本に本社があって日本人が経営する企業、という「つまらない」意味ではなかった。
しかし、残念ながら多くの日本企業が発展すればするほどに、「只の日本企業」になってしまったようだ。

つまり、日本企業から「日本がとれた」のである。

創業社長たちの「神」のような言動が、時と共に風化して、「お言葉」が「神棚」に祀られるようになった。
かくも「人心」とは、浮き草のごとく揺らめくものなのである。
けれども、神棚に祀っている「だけ」でも、社長たる「祭主」がいる。

日本企業は、この意味でやっぱり「日本的」ではある。

『旧約聖書』にしろ『新約』にしろ、「裏切り」という人間の素性について、繰り返し記述されている。
「モーゼ五書」から、「ユダの裏切り」まで、人心をひとつにすることの困難は、まったく「日本的ではない」のだ。

その「日本的」の、ひとつの頂点が『十七条憲法』にある。
「和を以て貴しとなす」とは、聖書を信仰の対象にするひとたちには、「理解を超える」概念なのである。
彼らは、もっと「強制的な力学」をひつようとする。

とくに、西ローマ教会=ローマ・カソリックでは、分裂した帝国の滅亡によって、教会は国家の庇護を受けることができなくなって、独自の生き残りをしなければならなくなった。
残った東ローマ帝国の東ローマ教会=正教会が、保護されて安穏としたのとは真逆なのである。

オスマン帝国によって、コンスタンチノープルが陥落・東ローマ帝国滅亡の憂き目にあうとき、東ローマ皇帝は西ローマ教会に救援を求めたが、一切これを無視したのも、独自の生き残りを計った側からすれば、「安逸の罰(自業自得)」にみえたろう。

西ローマ教会は、「組織化」をいそいで、法王を頂点の「ヒエラルキー体制を構築」した。
そして、これを「聖職界」としての「宗教権威」にして、「世俗界」の「政治的権力」と分離をはかった。

それでもって、軍事力をもつ「王権」の上位に君臨するという、教会の支配構造を確立した。
ここに、「欧米型組織」のパターンができたのだ。
だから、欧米における近代経営の「常識的・組織論」につながる。

この常識を否定したのが、経営学の祖といわれているのに、わが国ではあんがい無名の、チェスター・バーナードだ。
彼の組織論は、「日本的」なのである。
それが、発表当初(1938年)衝撃的でもあった。

しかし、いまだに「欧米に追いつけ・追い越せ」を「国是」にして、頑固に曲げないから、とにかく「欧米の真似っこ」が「正義」になる。
そこには、いっさいの根拠をひつようとしないから、「猛追」ならぬ「盲追」なのである。

それが、コロナワクチンの「職場接種」になっている。

推進する企業は、国家の政策に盲追している。
まるで、戦時中の「職域奉公」運動の再燃なのである。
けれども、欧米的「悪知恵」がはたらいて、従業員「個人の選択」としている。

「会社は国の意向に従って「推奨」するけど、最終判断は個人です」、とはよくいったものだ。
ようは、「責任を放棄」しているだけである。
後にいる企業弁護士の、一律・組織的アドバイスがみえてくる。

「一家を成す」という思想なら、第一に「推奨する理由」を政府がいっているからではない、企業の責任としての合理的説明がいる。
第二に、「個人の選択」というなら、一家を成す企業としては、「リスクの説明」も従業員に合理的にしないといけない。

この二点は、セットでの説明義務が企業にある。

なによりも、厚生労働省は、「ワクチン接種を推奨」などしていないし、どこにも「安全」とはいっていない。
「ワクチンを打つなら、用意しましたからどうぞ」という態度で一貫している。
なにせ、法的には「治験」なのだ。

「推奨」しているのは、ワクチン担当大臣で、このひとに鞭を打っているのが、首相なのである。
政府も、合理的行動をしてなんかいない。
この「混乱」を、だれも指摘していない。

さて、わが国がいまも「戦時体制」なのは、8日付け日経新聞「職場接種申請、3時間で414件」という記事に「証拠」があがっている。
産業分野と、これを支配する役所の関係が図表になっているのだ。
北朝鮮を嗤えない。

この「表」だけは、永久保存の価値がある。

「ラブホ」の市場参入

「日本文化」としてとらえれば、「ラブホ(ラブホテル)」という業態は、世界的にもかなり珍しい施設である。
それには、特異な「住宅事情」も遠因にあるけれど、「公娼制度」があった江戸時代の影響が根強く残っているのだ。
いわゆる、「悪所」として存在した「遊郭」(売春防止法による完全廃止は昭和33年3月をもって完遂)の「貸座敷」がなくなったことから、あらたな「風俗営業法(風営法)」が取って代わった。

そこで、「場所」を提供する業態としての「連れ込み旅館」には、「♨(温泉マーク)」が目印となったので、これを称するに「逆さクラゲ」と呼んだのである。
また、この手の客室には、「鏡」が多用され、室内から浴室が見える構造にも特徴があったのは、「淫靡」さの演出でもある。

一方で、その他すべての「ふつうの宿」には、「旅館業法」が適用されて、「風営法の宿」と一線を画すことになった。
こちらは「淫靡さ」を演出しては「ならない」のだ。

ちなみに、日本だった台湾には、世界で二箇所しかない「北投石(ラジウムを含む)」が露出することで有名な「北投(ぺいとう)温泉」があって、実質的に温泉だいすきな日本人が開発した温泉街で、こちらは「オリジナル用法」としての「温泉マーク」が健在なのである。
なので、その後の日本人にはちょっと気恥ずかしさがある。
なお、北投石のもう一カ所の露出は、重病湯治で有名な秋田県の玉川温泉である。

ところで、風営法の運用が年々厳しさをまして、もはや「一代限り」という条件から、オーナーの余命に依存することになった。
むろん、「新規の許可」はもはやおりないので、まったくの「絶滅危惧種」になっているけど、「危惧」されるのは。時間の問題という意味なので、絶滅が確定している。

そんなわけなので、風営法の宿については、いちど「見学」することも「観光」になる。
二度とない人生体験となるばかりか、「語り継ぐ」こともできるようになるはずだ。
しかし問題がひとつあって、営業許可の「寿命が尽きた」風営法の宿が、旅館業法へと免許の書換をして、事業としての延命をはかることがある。

建て替えや室内改修によって、淫靡さを打ち消せば、ふつうの宿に「なれる」のである。
だから、いまどき風営法の宿を見つけるのが困難なのだ。
なぜなら、これら変身した宿も、土地から移動するわけではないので、かつての「赤線地帯」にいまもあって、「新旧が混在」しているからである。

こんな事情があるので、いまや「ラブホ」といっても、じつはほとんどが「旅館業法」を根拠にしている営業なのだ。
すなわち、見た目からは想像できない「ふつうの宿」という実態があるのである。

さて、世の中は「少子」である。
すでに若者世代の人口は、団塊世代が若かったころの「三分の一」になっている。
そして、これがさらに「悪化」しているのは周知の通りだ。
また、住宅事情もずいぶんと改善された。

過疎化がすすむ地方においては、ラブホの廃墟化もすすんでいる。
そこで生き残りに、「販売政策」を転換しだしている。
それが、「おとな(アダルト)限定」ではあるけれど、ネットの予約サイトに顔を出すようになってきている。
また、ラブホを廃業して、家族向けに変身もしている「物件」もある。

かつてなら、「休憩」を何回転、くわえての「宿泊」販売で、1日の客室販売単価を稼ぐのがビジネス・モデルだったけど、客室清掃の人手不足も手伝って、「まともな値段」での「宿泊特化」でも、背に腹はかえられない。
「休憩」販売をスパッとあきらめる。
二兎を追う者は一兎をも得ず、になってきているのである。

では利用側の目線はどうか?
じつは、入口と出発時の気恥ずかしさをガマンすれば、客室内はいたって快適なのである。
まず、一室面積が広い。
「14㎡」が業界スタンダードになりつつある、ビジホ(ビジネスホテル)とは比べるべくもない。

また、ベッドが大きい。
たいがいが「キングサイズ」である。
そして、風呂場も広くてバスタブも大きく、これもたいがいが「ジャグジー」機能がふつうにある。
だから温泉である必要もなくて、アメニティの充実は高級ホテルも及ばない。

冷蔵庫には、冷えたジョッキとグラスがあって、電子レンジも完備している。
外で買ってきた食材を簡単調理できるし、飲食できる空間がある。
いまや、ビデオもオンデマンドにして「見放題」で音響もテレビだけではない。
カラオケだってできてしまう。

いいことずくめ、なのだ。

おそらく、コロナ前、外国人旅行客があふれていたとき、ビジホの予約がとれないばかりか変動価格による高額料金提示に驚いたひとたちが、「仕方なく」ラブホを予約して「体験してしまった」のだろう。
それに、ラブホ側も気づき始めていることは間違いない。

あたらしい「業界秩序」が生まれる前の「混沌」がはじまっている。