「未完の料理」という発明

外国人が日本を発見する動画の中で、いちばん興味深いのは「食」にまつわるものだ。

もっとも身近なテーマだということでもあるが、日本的なるものとは何かをぼんやりとでもわかったような気がするのがいいのである。

美味いとか豪勢を誇るのではなくて、一般家庭でもふつうの扱いをうける、例えばこの時期なら、「鍋もの」は、はたして料理なのか?という問題提起をする外国人がいる。

わが家でも定番の、西洋風「鍋」といえば、「ポトフ」である。
贅沢な、「ブイヤベース」もあるけれど、手軽さでいえばだんぜんポトフだろう。

しかしながら、この「鍋料理」は、日本的な「鍋もの」とはちがって、鍋の中で完成してしまうのである。
だから、「煮込み料理」が正しく、ポトフを「鍋料理」だとかんがえるのがそもそも日本的だ。

食卓のうえにコンロを置いて、そこにダシを張ったか、水に昆布をいれただけの状態での鍋が登場し、沸騰させたところで蓋を開けて、おもむろに食材を入れて煮るこの行為が、外国人にはえらく珍しいらしい。

長い菜箸をつかって、野菜やらきのこやら肉やら魚を上手に入れることからはじまる、これだけでかなりの盛り上がりを見せるのは、このような料理が外国ではめったにないからだ。

せいぜい、スイスが貧乏だったころの「チーズ・フォンデュ」とかを想像するくらいだろうか。

若い頃、スイスのツェルマットで、たまたま隣のテーブルに居合わせた日本人夫妻に、ひとりでいたわたしを気にかけてくれたのか、チーズ・フォンデュのご相伴にあずかったことがある。

二人前からしか注文できなかったので、一人旅では食べることができなかった。
なので、たいへん嬉しかったが、「しつこくて食べきれない」というのが、ご夫妻の側のわたしに声かけした理由だったようである。

じっさいに、食べてみて、なるほど、と思ったのは、とてもこれだけで満腹にするのはムリだと、おなじ理由でおもったものであった。
わたしの応援もむなしく、ずいぶんな量を残してしまった。

そんなわけで、最初から鍋に食材が盛られて、煮込むだけとか、すでに煮込み終わっていて、ただ保温のためにコンロをつかうなどというのは、はたして「鍋もの」と呼べるのか?があって、どういうわけか大皿から自分たちで鍋に入れることをしないと、「鍋もの」としては納得できないのである。

「同じ釜の飯を食う」といえば、完全に仲間同士の絆を意味する。

だから、同じ鍋をつついて食べるのも、これに通じるし、古来、死者との「共食」をやってきたのが日本人だから、「聖体拝領」する外国人とはこれまたちがう。

共食とは、たとえば、法事の席で、故人のために「陰膳」を用意して、それをみながら血縁者たちがおなじ料理を食べることをいう。

もちろん陰膳が減るような怪奇なことを期待しているのではなくて、「魂:たましい」になった親族と精神的に食事を共にするという発想は、東洋的だし、いまではえらく量子力学的なのである。

とはいえ、やっぱり七輪(関西では「かんてき」)の発明あっての鍋料理だと思うと、炭や練炭の発明がないといけなくなる。

もちろん、七輪だって、珪藻土を用いるのだから、珪藻土の発見がないといけない。

昆布を干すとダシがとれることとか、鰹節ができた不思議もあるけど、これらをつかう日本的インスタント料理は、もうこれだけで大発明なのである。

大雪の残雪を眺めて、湯豆腐でも。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください