「関西・大阪」という別世界

もはや「歴史家」と呼んでいい、有名予備校超人気講師の茂木誠氏は、自己紹介で「縄文人の茂木誠です」といっている。

この島国の考古学や遺伝子学からわかってきた「歴史」を分母にしてとらえれば、万年単位であった、縄文時代の長さは、その後の歴史が一瞬にみえるほどになるからだし、日本人のDNAには縄文人からの遺伝子がかならず含まれているからである。

わたしが気になる「細部」は、縄文文化なのか?縄文文明なのか?という、文化・文明の呼び方である。

これは、シュペングラーのいう文化が劣化すると文明になり、やがて滅ぶ、というパターンにあてはめれば、縄文時代も「縄文文化時代」から「縄文文明時代」へと移って、やがて滅んで弥生文化が席巻し、その弥生文化が劣化して弥生文明となり、やがて大和政権によって滅亡したといえるのではないか?とかんがえるからである。

すると、縄文文化時代と縄文文明時代の境目は、どこにあるのか?が気になるのである。

わたしが子供だったときは、あっさりと縄文時代から弥生時代になって、とくに米の栽培は南方や朝鮮半島から伝来したと習った。
しかし、これらの地域から発掘される田んぼの遺跡やそこから出てくる米の遺伝子を調べると、いまや「米栽培は日本由来」という説が有力になってきている。

さらに、あいかわらずどう調べても、「日本語のルーツ」がわからないのを、茂木氏は「日本語族でいいじゃないか」といっている。
かならず外部から渡来したはずだと、かんがえることがナンセンスなのではないか?と。

もちろん、縄文人が弥生人に征服されたこともないのは、戦闘の痕跡が遺骨にも遺跡のどこにもないから(対人実戦用の武具すら発見されていない)で、さまざまな移民がやってきて徐々に混じって変化したとしかかんがえられない。

それで、オリジナルの縄文人がだんだんと東北以北にだけ残るようになったのを、大和政権が「蝦夷(えみし)」と呼んで、これを坂上田村麻呂に征伐させる「征服」話がようやく出てくるのである。

面倒なのは、「蝦夷(えみし)」と、北海道のことを「蝦夷(えぞ)」といったのとが、おなじ漢字を用いたために、アイヌの定義をねじ曲げてしまう「政治」が行われてしまったのだった。

これを、隠れ極左で横浜に選挙区がある、菅義偉氏が、「アイヌ新法」という国民分断化を法制化するという暴挙をおこなったのだが、岸田政権の暴挙がすさまじくて忘れ去られようとしている。

そんなわけで、万年単位の縄文時代を分母にしたら、大和王朝が奈良から京都にあった時間がざっと2000年だけとなる。
京都から東京へ移ったけれど、「朝廷」はいまだに続いているという見方もあるし、明治憲法が日本国憲法になったときに「滅亡した」という見方もある。

わが国の政府要人が外国へ行くときと帰国したときには、いまも皇居(朝廷)で「記帳」する習慣が政府にはあって、帰国して国民にメッセージを発表するのを、「帰朝報告」というのも、「朝廷に帰ってきて報告する」という意味なのである。

徳川政権の政治の中心は江戸で、経済の中心は大阪という分業体制を、秀吉の大阪集中からわけたのは、豊臣方への牽制策が優先された結果であったろうけど、あんがいとうまくいったのは、付随的結果だったともいえる。

これはたとえば、前橋(厩橋:うまやばし)藩と高崎藩があった群馬県の、政治は前橋、経済は高崎になっているのとは経緯がことなるものの、いまも群馬県の楕円的な状態が残るのは、「県」の無理やりがあるからで、このまた典型が青森県(元の津軽藩と南部藩でいまでも言葉が通じない)だ。

そんなわけだから、大阪の文化における関東方の違和感(当然にこの逆もある)は、、たった150年ほどで平準化されるようなものではない。

たとえば、大阪人はいわゆる「標準語:共通語」で話す(発音する)ことができない。

文部科学省の「全国平準化」の成果も、こんなもん、なのである。
もちろん、言語は「かんがえるときにつかう」ものだから、東京的発想と大阪的発想が異なるのも、言語がちがうことの結果にすぎない。

エスカレーターの左・右どちらに立つのか?も、東京は左、大阪は右で、アジア各国の右へならっているのが大阪、というよりも大阪方式をアジア各国がまねたのだ。
京都は、京都駅なら左の東京型がおおいけど、これぞ「おのぼりさん」が多数だからで、ちょっと郊外では大阪型になる。

そんななか、関東方でも、若者たちはSNSで大阪弁を積極的につかっているので、浸透力は文科省とは真逆になっている。

その「軽さ」(無責任な感じ)が好まれているという。
大阪弁で語尾につける「しらんけど」が、その代表だ。
ずっと「しらんけど」が、大阪弁だったのか?調べてみたくなるのは、「商都」として、「しらんけど」では取引ができないからだ。

もしや、大阪経済の衰退は、「しらんけど」が日常言葉になったのが原因ではないかと疑うのである。
だから、いまの若者が、「軽さ」ゆえに多用する大阪弁が、さらなる日本衰退の原因とならないかと心配するのである。

東京の戦後すぐの映画にある言葉といまのあまりのちがいはよく指摘されるけれど、大阪の同時代といまはどうちがうのだろうか?
むかしの「上方演芸」における、こねくり漫才の言葉が、あるいは、ミヤコ蝶々の話し方がわたしでも懐かしくおもえるのだが、現地ではいかがであろうか?

なお、さいきんになって、標準語:共通語に開国前の横浜村(じつは「本牧」あたり)の漁民言葉だった、「じゃん」が含まれているのは、横浜人のわたしからしても違和感があって、大阪人が語尾に「じゃん」があるのを気持ち悪がるのは、妙に共感・納得できるものである。

東京生まれで東京育ちの谷崎潤一郎が、大阪に移住してすっかり馴染んだのは、これもまた大阪人が自慢してもいいはなしだが、わたしは谷崎の「陰鬱」こそが大阪人の本性ではないかと疑っているのである。

還暦をとうにすぎたわたしは、とうとう関西・大阪を理解できない別世界のままで過ごすのだろうとおもう昨今なのである。

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