プーチン教授の歴史授業

6日のタッカー・カールソン氏のインタビューは、いきなり「ロシアの歴史」からはじまったことは書いたし、その後のいまも世界の話題になっている。

我われ日本人も、重大なことを見過ごしていることを、教授は教えてくれた。

それは、ヒトラーのドイツと、ポーランドとの関係である。
教授は、ポーランドがヒトラーをして第二次大戦に向かわせた「元凶」だと指摘したのだ。

これを理解させるために、はるか以前の話からはじめたので、タッカー・カールソン氏が途中で我慢できなくなったのも、前に書いた通りである。

それで、「ウクライナ=「周辺」とか「辺境」という地域を指す意味」を、あたかも「ウクライナ民族」なる民族が存在するとしたのは、オーストリアの参謀本部がやったプロパガンダだと教授は語る。

「相模」とか「筑前」とかの地名をもって、「相模民族」とか「筑前民族」という独立した民族が存在すると主張するようなものだ。

さて、オーストリアとは、元のハプスブルク帝国のことであるし、神聖ローマ帝国だったといってもいい、いまではかんがえられないほどの、強大な帝国だったし、ハンガリーと組んで二重帝国を形成していた。

これを「歴史」として時系列にすると、やたらややこしいので整理するのが大変だ。
いわゆる、ハプスブルク家が長年築いた、ヨーロッパ貴族間の「血縁関係」の複雑さが、そのまま国家間の権謀術数となっているからである。

「バルカン半島」が火薬庫といわれ、第一次大戦のきっかけになったのも、この複雑さに関係していて、さらに遠い英国やらがちょっかいを出したから、話の整理がつかないので、「戦争」になった。

おしくらまんじゅうをやっているうちに、誰かがキレて、近くの誰かを小突いたら、小突かれた者が小突いた本人ではなく、ぜんぜん関係のない誰かに小突き返しているうちに、全員で取っ組み合いの戦争になったのである。

それで、いちばん大柄で強いドイツがひとり悪いことにして、今度は徒党を組んで損害賠償をドイツにだけ請求してそのカネを分配するのに、国際決済銀行を設立したのだった。

我われ日本人が何を見すごしていたのか?とは、第二次大戦に至るヨーロッパ側の事情をほとんど知らないままでいることだ。

ここに、日本における「小中華主義」があって、あくまでも世界は日本を中心にして回っていると思いこんでいる。

この意味で、槇原敬之が作詞・作曲して、SMAPが大ヒットさせた、『世界に一つだけの花』は、今様の小中華思想の開化であった。

わたしはこの歌が、虫酸が走るほど大嫌いなのである。
とはいえ、「歌は世につれ世は歌につれ」をかんがえると、この歌が流行ったわが国の風潮としての頽廃(デカダン)に嫌悪している、という意味である。

ここで、「日・米」だけにとらわれ(アメリカにも中華思想がある)て、戦前の日本人は思考していたのか?を問うてみる。

すると、1939年1月5日から同年8月29日までと短命だった、平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と叫んで総辞職したごとく、内閣が欧州を理由に潰れたほどに、日本人が欧州をかんがえていたことの証拠なのである。

単に、舶来品を有り難がっていたのではなく、世界は欧州を中心にしていた時代だったのである。

日本的中華思想からみたら、「欧州が世界の中心」だったろうが、欧州そのものは、重い原子のような素粒子がたくさん運動している「おしくらまんじゅう状態」だが、遠目には、ひとつに固まって見えていた、ということだ。

そんな欧州の各国が、落ちぶれて中心でいられなくなることに我慢できなくなって、EUという全体主義に走っているのは、「おしくらまんじゅう状態」よりも、もっと強固にするためのおそらく「仕方がない」と思い詰めた力学の発揮なのだろうし、とにかく過去の栄光にしがみつきたい心理が強いからだ。

メルケルが推した、フォン・デア・ライエンが、自身は「保守」だと信じているだろう、浅はかを恥じないのは、欧州の過去の栄光を保守するということだろうけど、このひと個人は、PSYCHO-PASSなので、共産化を強力に推進していることに気づかないのであろう。

さて、平沼騏一郎内閣が潰れたのは、「独ソ不可侵条約」の締結であった。

しかして、プーチン教授が語ったように、ヒトラーとポーランドが協力して、チェコの分割を画策するにあたって、ヒトラーは見返りに、ドイツの飛び地になっていたかつての東プロイセンの返還とその地とドイツ本国を結ぶ、「ダンツィヒ回廊(「ポーランド回廊」ともいう)に道路と鉄道敷設を要求したが、これをポーランドが拒否したために、ドイツ海軍が、海からダンツィヒ(ポーランド語で「グダンスク」)を砲撃したのが、世界大戦のはじまりなのである。

そのグダンスクには、「第二次大戦開戦記念公園」がバルト海に面した海岸にあるけど、街の中心部から路線バスで、小一時間もかかる場所にあるたたずまいが、妙に、「横浜港シンボルタワー」の辺りと似ていると前に書いた。

この街にあった、当時の呼び名、「グダニスク造船所」の反体制ストライキが、ポーランドの体制転換=自由化の象徴となって、いまこの造船所事務所棟の跡地は、博物館になっている。
まさか、社会主義体制下にあって、労働者が反政府をいう不思議。
中心人物のワレサ(いまは、「ワレンサ」)委員長は、ついに大統領にまでなった。

ついでに、ソ連はチェコを救済すべく軍用機の無害通過をポーランドに要求したが、ポーランドはこれも拒否して、逆に撃ち落とすことを宣言した。
あくまで、ポーランドはチェコの分割をしたかったのである。

それで、ポーランドは、国の東西にある、独・ソから挟み撃ちとなることになってしまったけど、こんな危険を承知で強気になれたのは、英国の支援が約束されていたという、なんだかいまのウクライナのようなのである。

それで結局、英国がポーランドを見棄てたのは、歴史の示す通りなのである。
これでポーランドは、歴史上3度目の亡国を経験する。

これを、プーチン教授は丁寧に説明したのである。

すると、平沼騏一郎内閣だけでなく、日本政府がずっと頼っていた情報源が、どうやら英国一辺倒だったことが素人にも想像できる。

これが、いまもある「日英同盟」への未練だとすると、英国という無慈悲な海賊国家を信じたらえらい目にあうことを教訓にしない、独善が、やっぱり「日本的小中華思想」なのだといえるのである。

どうして、日本人はこんなに英国が好きなのか?の原点は、「長州5(ファイブ)」(伊藤博文以下5人)を英国留学させた、ジャーディン・マセソン商会(長崎のグラバーは代理人で、その事実上の子会社が坂本龍馬の「亀山社中」であり「海援隊」だった)の財力であったし、この巨大阿片商人の日本(=横浜)支店の初代日本人支配人が、養子となった吉田茂の義父、吉田健三なのである。

なお、茂の実父は、竹内綱で、吉田もその親友の竹内も、土佐藩士であったから、坂本龍馬とは顔見知りであったばかりか、ジャーディン・マセソン商会からしたら、その身分と同様に、子会社・孫会社の便利な存在だったろう。

戦争中に、宣戦布告した交戦国(外交で破綻したから戦争となった)の英国に、わざわざ特命全権大使として吉田が赴任したのは、吉田が当時の東京における「反主流派(主流派は統制派・革新官僚)」だったことがあたかも理由になっているけど、ジャーディン・マセソン商会から「お呼ばれされていた」のではないか?と疑うのである。

もちろん、特命全権大使を任命するのは、主流派の外務省だし、天皇の信任状は宮内省が用意したはずで、吉田個人の勝手気まま人事のはずがない。

はたして吉田は、戦時中のロンドンでなにをしていたのか?
いや、なにをさせられていたのか?が気になるのは、この場合のさせた側とは、英国側と日本政府側の双方であるから、あんがいと二重スパイ的なのである。

それよりも、プーチン氏は、情報統制が厳しかったはずのソ連時代から、自由ロシアになって今日まで、どこでどうやってかくも詳細な歴史を学んだのか?
その情報源の書籍とは、誰のなんという本なのかを知りたい。

もはや、世界で正しい知的興味を沸き起こすものは、英語ではなくて、ロシア語になっていることを教えてくれたのであった。

これからの将来を見据えると、ロシア語を学ぶ意味が、ずっと高くなったのである。

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