真面目な日本政府というフィクション

かわぐちかいじ原作の、『沈黙の艦隊』の実写版ドラマが、Amazonプライムとして9日より「シーズン1」の前編(1〜6話)の配信が開始された。
なお、後編(7〜8話)は、16日からの配信となっている。

制作もAmazonで、字幕の対応言語は、日本語の他に9ヶ国語もあるので、「世界配信」と言っている。
もう、この手のドラマも、ビジネス・モデルが変わってしまった。

映画版は、昨年の9月29日に公開されたが、今回のドラマ版の方が時間数が長い分、原作の圧縮度も少ないという。

原作とテレビドラマ脚本の確執で、原作者が自殺してしまったという直近の問題がある中、この作品では、原作者が「感謝の意を表明する」という、円満さが、またひとつの「売り」になっているのであろう。

とはいえ、この作品(原作)の難点をあえて挙げれば、ふたつある。

・あんがいと内閣の閣僚が適材適所でまとも過ぎること
・核抑止力の問題が、オーソドックス過ぎること

このふたつのポイントが、「すぎたればおよばざるのごとし」となって、ちゃんとフィクションを構成しているから、読者や視聴者は安心して楽しめるようにできていたはずが、あんまりご立派なので、腰が引けるのである。

戦闘シーンのCGやらの表現に違和感があるというコメントは、本当にどこを観ているのか?を疑いたくなるほど目先しかない幼稚さに呆れるのである。

爆発やらの風圧や水圧の衝撃で、人間の腹わたが飛び出すとかのリアル=悲惨なシーンを、娯楽作品として描けるはずもない。
SNSでの、ウクライナ兵やらロシア兵が殺戮される映像でも混入せよというのだろうか?

核の廃絶やら核武装の議論に至っては、もっと幼稚な議論が、80年間もまじめ風に語られている、不真面目な光景がある。

残念ながら、人類は「技術」の後戻りはできないのである。

それが「技能」ならできるかも知れない。
例えば、京都東山の、「清水三年坂美術館」に収蔵されている、明治時代の超絶技巧を用いた工芸品の作り方が、伝承されていないために、どうやって作ったのか?さえ、もうわからなくなっているのである。

これらの「技能作品」をよろこんで購入してくれたヨーロッパ貴族の第一次大戦での没落が、わが国の「技能」も途絶えさせてしまった。
注文がなければ、作らないし、材料コストの元が取れなければ作れなくもなる。

しかしながら、「技術」は、その方法論が科学的な記述法で解説できることを指している。

半世紀ほど前に、アメリカの理工系大学生が、その大学の図書館の資料だけから、原爆の製造法を学び、それで設計した「図面」を公開して、世界中で大騒ぎになったのは、材料と部品さえ揃えば、「本物」が誰にでも製造できるレベルだったからである。

けれども、核は目的地に運搬して爆発させる必要がある。
それが、ずっとミサイルになっている。

今どきのミサイルは、ほぼ電波誘導で、これだけは精密に当てたいというときに、有線ケーブル式のものを使うようになっている。
なので、ケーブルの長さ分までしか使えない。

そんなわけで、電波誘導の電波をどうするかで、ミサイルの飛行制御を不能にしたり、その制御を乗っ取ったりして、こちら側からの制御で相手方の発射地点に帰るようにしたら、もうそれで、核抑止力もヘチマもないことになってしまう。

このマンガのような技術が、いまの「5G」の次の、「6G」の技術のはずなのである。

そうなると、核ミサイルを数千発も持っている国は、解体処理費をどうするかの大問題になる。
もちろん、費用だけでなく、放射性物質の永久管理という、おそるべき手間の負担も強いられる。

だから、6Gが実用化される前に、核を使った最後の脅迫をもって、相手を奴隷化しておきたいという、時間との競争が、そのまま戦争計画として成り立つ危機となっているのである。

ために、現実の日本政府は、国民を奴隷にしようという最後の計画に加担して、このドラマのようなまとも過ぎる政府とは無縁なために、「専守防衛」を正義とする美談や、上戸彩が演じるまとも過ぎるニュースキャスターが、幻のようなフィクションでもって、精神の安定を保とうとする映像を国民にみせるしかないのが、これまた、アマゾンというグローバル全体主義の企業がやっていることなのだった。

それで、現実の防衛省や自衛隊(=日本政府)がこの作品の制作に多いに協力しているのは、まさにプロパガンダ作品だからで、多言語で「世界配信」される意味もここにある。

要は、娯楽作品なのであって、以上のように余計なことは考えるな、ということが提供者たちの主旨なのであるが、本当の主旨はなんのか?

ウクライナでは、兵士不足で女性の動員も計画された。
現実の自衛隊には、女性の提督が初めて任命されたし、本作でも副官やらの目立つ役柄として、幹部や士官(日・米双方)に女性が多く登場している。

戦場に行くのは男性で、女性はもっぱら「銃後の守り」という伝統があったのは何故か?も、ヘンテコ文化破壊工作の「男女雇用機会均等法」のせいで、だれも不思議に思わないのが、ヤバイ状況をつくられている証拠である。

死者に鞭打つ気はないが、7日、94歳で亡くなった、元文部大臣(細川内閣、羽田内閣)赤松良子刀自(旭日大綬章)が仕掛けたものである。
彼女はついでに、募金詐欺が疑われる日本ユニセフ協会の会長でもあった。

わが国の勲章は、わが国を破壊するものに授与される。

さて、男が死んでもなんとかなるのは、最後の預言者ムハンマドが、「聖戦」をやってその未亡人たちの生活のために戦死者数から割り出したのが、4人まで妻とすることができる婚姻制度の創設であった。

なにも、男性社会だから、という単純な理由だけではなく、人口維持という究極の目的があったのである。

わが国の「少子化対策」が、「少子化を進める対策」になっているのとわけがちがう「まともさ」があった。

つまり、民族としても、女性を絶やしてはならない、という常識が、女性を戦場にだすことを避けてきた常識であったのだ。

それを壊そうとしたのかなんなのか?テレンス・ヤング監督の『アマゾネス』(1973年)であったけど、結構なエロチックだけが話題の作品として受けとめたのが、ときの大衆の「まともさ」だったともいえる。

これが、もう、崩れだしているので、実は日露戦争で世界が認識した、「総力戦」という言い方の意味も、当然に「ジェノサイド」だって含む、ということになってしまっている。

戦争のための「国際法」を、「戦時国際法」と呼ぶようになったけど、元はぜんぶが、「戦時」の取り決めだったのは、プーチン氏が語ったようにヨーロッパが戦争ばかりのグズグズな歴史だからである。

「捕虜」に認定されるためのルールを国民に教育する義務が定められている、「ジュネーブ4条約」も、日本では批准しているくせして一切を国民に知らせないのが、日本政府の本性なのである。

だから、かわぐちかいじ氏には、「原作とちがう」といって、暴れてほしかった。

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