新しい時代の経営は公共を無視する

前回の、「奇書」の続きである。

1961年に発行された、防衛研修所の『MTPを中心とした経営管理の技術』では、「新しい時代の経営」の第一条件に、「社会公共の福祉に貢献する」が挙げられている。

ここで、古い時代の経営にこの概念がなかったのか?と、ツッコミをいれて疑念を呈したくなるのだが、この疑念に対する説明は本書には一切ない。
まぁ、そうでなければ全部で22ページというボリュームをおおきく超えてしまうだろう。

批判が絶えない、「古典派経済学」では、その言い出しっぺの「神の手」で有名な、アダム・スミスが、『国富論』と並ぶ『道徳感情論』で、経済と道徳をちゃんと関連づけて書いている。

もちろん、アダム・スミスは、イギリス人なので、彼のいう「道徳」とは、英国国教会のキリスト教的道徳がベースの当然があるし、そもそも、「社会公共の福祉」なる概念そのものが、キリスト教からの発想である。

日本人は、理屈をこねくり返すことなく、「お互い様」という常識で身分社会(とはいえ、「職業別」の身分)を暮らしてきた。

経済活動における自由主義を、なんでもありの「自由放任主義」として決めつけたのは、アダム・スミス本人ではなく、後世におけるその批判者たちが勝手につくった屁理屈である。
なぜなら、アダム・スミスは、「道徳」による「制約」を基礎とした「自由主義(経済)」をいっていたからで、なにも制約がない勝手気ままを想定してはいないのである。

ここに、中世社会との断崖絶壁があった。

絶対王権の自由気ままをベースにした「重商主義」が、なんでもありの「東インド会社」を擁護したけど、一方で、国民自身は王権の制限に走った。
ロンドンの紳士は、インドでは暴君、という皮肉も、勝てば官軍で完全無視されたのである。

いまでは、資本主義が嫌いな社会主義・全体主義が好きな者によって、とうとう「強欲資本主義」とまでいわれているが、より強欲なのはこれらの者たちで、その強欲さを自己制御すべくあたかも「道徳らしいこと」を説いているのである。

それが、「持続可能」やら「SDGs」やらの、おどろくほど中身のない全体主義スローガンの欺瞞である。

欲しいものがいるから供給するだけだ、という理屈では、アヘンをつくって売っても、なんら罪深さを感じない、大英帝国の強欲さを強調するだけだし、西太后が仕切った清朝末期の政治もとんでもなかったけれど、アヘン戦争で英国に立ち向かったのは立派なことだった。

英国議会では、9票差での戦争遂行決議だったが、懲りない野蛮な英国人は、この反省から単純多数決のルールを変えて、戦争開始には、たとえば3分の2以上の賛成を要する、とかとしてはいない。

結局、現代イギリス人は自国の、アダム・スミスやエドマンド・バークをちゃんと読んでいるのか?と問いたくなるけど、読んでなんかいない、という貴族たちの回答が怖くて質問すらできないのかもしれない。

「正義は勝つ!」という、予定調和説を信じるように子供時分から「ヒーローもの」で擦り込まれている日本人は、正義の清国がアヘン戦争でズダボロになっただけでなく、獲物のぶんどり合戦にわが国も加わった「時代の常識」について、無反省で批判している。

だからまったくおなじ状態の英国で、おどろくほどの衰退がいまやとうとう「凋落」となっていて、われわれ日本の先を行くから、ウオッチすべきだと書いているのである。

その野蛮なイギリスから新大陸に逃れたひとたちが、せっかくつくった国なのに、やっぱり野蛮なひとたちが多数移民して、もっとも凶暴で野蛮なグローバル全体主義者たちに乗っ取られているのが、現代のアメリカとなっている。

このひとたちは、アメリカン・ドリームで手にした巨万の富を、いく世代の後世にも引き継ぐために、既得権益化することに躍起になっている。
あたかも「永遠のローマ」を追及するがごとくであるが、そのローマがいかにして滅んだか?を真剣にかんがえてなんかいない。

地球環境の変化を原因にすれば、寒冷化によるゲルマン人の南下という、生活空間の確保のための命がけが、帝国軍を打ち負かした、ということだから、プーチン氏がいう、「寒い国なのでもしも温暖化しているというのなら、わが国は歓迎する」といったことの背景に、ローマが遠くに見えてくるのはわたしだけではあるまい。

この意味で、このひとたちの行動規範はじつに永遠なるものに対する「保守」なのである。

しかしそこにあるのは、自家の既存資産とそれを生み出す利益の源泉を、誰にも渡さないで子孫に相続するという決心だけなので、「社会公共の福祉に貢献する」という概念そのものが存在しない。

そうやって、兆円単位の使いきれない資産(資金)をもって、政治家を買収し、手駒にすることが、もっとも効率がいいことに気がついたのである。

これで、資産家と政治家とだけの間で、ウィンウィンの関係ができた。

これにあやかろうとして、餌に食いついているのが大手マスメディアという構図ができたのであるが、あんがいと多数の庶民がバカばかりではないので、複雑な「大衆の反逆」が世界中で発生しているのである。

しかし、社会公共の福祉に貢献しないことで儲けることが、「あたらしい資本主義」となり、こともあろうに日本の首相がこれを推進すると宣言して憚らないまでにわが国も堕落した。

要は詐欺と略奪と冒険という、中世の山賊の倫理が、まかり通ろうとしているが、織田信長が登場して秩序を回復したごとく、そうは問屋がおろさないのが、政治力学というものなのである。

これは、この奇書における第二、「お客の利益を第 1とする」ことに明確に関連している。

なにせ、自分の利益を優先させることにおける、社会公共の福祉に貢献しないことの原因だからだし、そんな無価値をあたかも価値があると勘違いさせられて購入することの。一般人の資産の減少が、いまや「掠奪」とおなじになっているからである。

それが、ネット社会における、「無料」や「5%還元」と称して個人情報を盗みまくることの正当化だし、「有料」ならば、一生涯の料金負担から免れない、完全に第二の「租税」となっていることでわかるのである。

もちろん、民間企業の事業にみせて、じつは監督官庁の役人の天下りを基本とした癒着が世界的な仕組みとなっているから、行政の存在理由が「国民福祉のため」から完全乖離しても、民主主義だと言い張れるのである。

それでもって、あたかもいっときは、社会公共の福祉に貢献しない者が優位に富を得るだろうけど、これが蔓延したら、秩序の崩壊により、その「富」自体の価値もなくなって元の木阿弥になるのが、人類史の道理というものである。

これを、アダム・スミスは「神の手」といったのだ。

だからこうした者たちは、必ず滅亡する予定調和説となるのだが、困ったことに、一般人を巻き込むのである。

われわれ一般人は、早くからこうした不道徳な者たちから逃れないといけない。
そのために、まずは選挙に行って、手先となった政治家を当選させないことがはじめの一歩なのである。

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