「オバマ・ゲート」の報道

アメリカでいま大騒ぎなのは、伝染病のことよりも「オバマ・ゲート」になっているそうな。

「ゲート」がつく事件といえば、もう半世紀も前の「ウォーターゲート事件」がはじまりである。
当時のニクソン大統領が、再選を目指し圧勝した選挙で、敵対する民主党本部(ウォーターゲート・ビル内)に盗聴器を設置しようとしていたことが「大統領辞任」にまで発展した「大事件」である。

盗聴未遂だった当初、ニクソン大統領は「自身の関与を否定」したものの、その後、「しっていた」ということがわかってしまった。
大統領が嘘をついた、という一点で、アメリカ史上初の「辞任」という事態になったのだった。

これを機に、「疑惑」のことを「ゲート」をつけて報道されるようになったのである。
それで、今回の「オバマ・ゲート」とは、前大統領への「疑惑」という政治スキャンダルのことをいう。

どういうことが疑われているのか?というと、二期をつとめたオバマ氏の後任をえらぶ選挙で、まだ現職中のオバマ氏がFBIや国家情報局などの国家部局をつかって、敵対する共和党のトランプ候補をおとしめるよう指示していたのではないか?という「疑惑」である。

これは、トランプ氏が当選を決めて、「次期大統領」になってもつづけていて、さらにトランプ氏が大統領に就任直後からはじまった「ロシア・ゲート(疑惑)」もその一環であるという。
そして、これら一連の仕掛けに、いま民主党の大統領候補になった、当時のバイデン副大統領の名前もくわわっている。

つまり、かの「ウォーターゲート事件」と構造がそっくりで、かつ、より大規模な「正副大統領の犯罪」が、今度は民主党の側で問われているのである。
だから、大騒ぎにならないほうがおかしい。

民主党を支持する側は、根も葉もない「陰謀論」だとしてのキャンペーンを張っている。
それはそうで、根も葉も「ある」のだとしたら、政治的に即死級の問題だ。

そんなわけで、共和党の方は慎重で、かつ、確実な証拠をもって対処する方針だという。
熱狂はないが、パズルのピース集めが進んでいる。

アメリカ合衆国連邦政府の「行政」は、当局者たちの言動について「証拠を残す」ことも、「行政事務」として行われている。
わが国の国家行政で、これが揺らいだのは、財務省理財局の文書改ざん問題や、文部科学省の省内文書疑惑など、近年、その信頼は「信頼」とはいえなくなっている。

外資系の金融機関に勤務したわたしの経験でも、すべての社内でのやり取りは、リーマン・ショック前の当時では「メール」がつかわれていた。
隣席者との決めごとも、「メール」にしないといけない。

これは、社内サーバーの管理が徹底しているので、そのやり取りの記録がすべて残される、という、「証拠」をつくるためであった。
なので、ときたま、こんなやり取りでは「不十分です」という研修を、現物の文書をつかっておこなう、という「見せしめ」ともいえることをしていた。

今回の疑惑調査で、オバマ政権最後の日、大統領補佐官が「自分宛」にメールを発信していることが発覚した。
それは、この補佐官が出席した、大統領執務室内でのミーティング「議事録」をじぶんで書いたものであった。

つまりは、自身の無実の「アリバイ」をわざと政府サーバーに残すためではないか?
この直後、新政権が発足したから、この大統領補佐官も「官職」をうしなっている。
これと同時に、政府メールアドレスは無効となり、政府支給の端末も回収されるのは、日本のサラリーマンだっておなじだ。

支持者と政党組織ががっちりしている、アメリカ民主党は、いつだって大統領選挙を最初から有利のまま、「逃げ切る」のが勝利の方程式になっている。
対する共和党は、「途中逆転」が勝利の方程式である。

現職のトランプ氏再選が、州別調査で危ぶまれているから、これから夏と秋にかけての選挙終盤で、どんな「逆転」の「弾」をくりだすのか?は、想定内だったが、まさかの「オバマ・ゲート」とは、ということになっている。

前にも書いたが、波状攻撃として、「教育省廃止」が繰り出されるかも興味深い。

さては、極左の民主党候補と政策軸が一致する、わが安倍政権の、さらに「極」をいくわがマスコミは、書いたところで「陰謀論」がやっとだとして、「報道しない自由」を謳歌するのだろう。

「格差社会」とは、収入の差をいうのではない。
「情報の差」から「つくられるもの」なのである。

そして、情報格差を利用する政府は、情報弱者という国民を「痛めつける」ことで、その「やさしさ」をアピールするのだ。
スターリンや毛沢東がなにをしたか?
「自粛警察」こそが、紅衛兵の「造反有理」の実践だ。

「STAY HOME」のカードを掲げて、自分は街を闊歩する。

「9月入学」も「6月レジ袋の有料化」も、ただの風邪への過剰反応も、国民を痛めつけることによる、政府のマウンティング行動なのだ。
これを、放送利権を絶対化したいマスコミが追従している。

わが国で「オバマ・ゲート」は、リトマス紙になった。

夫婦げんかと自助論

国際結婚だから、ということ以外にも、夫婦のことは夫婦にしかわからない。
むかしから、「犬も食わない」といわれるのは、いまどきなら犬にも失礼だ。

本人がタレントという人気商売であるから、根ほり葉ほり聞き出されることも「仕事のうち」なのかもしれないけれど、コロナばかりのワイドショーに、絶好の話題を提供したことだけは事実である。

だからなんなんだ?

と白けて観れば、テレビの電波のムダ、観ている電気のムダに時間のムダもくわわって、なんら「ためになる」こともない。

わが国では「自粛」で、外国では「逮捕もともなう強制」だったことをいいことに、今後はわが国でも「外国とおなじ」にしたいとかんがえるむきもあんがい多数いる。
つまり、みずから望んで「不自由になりたい」という願望があるということだ。

果たして、わが国における「コロナ禍」は、病気としてみた場合、そんなに強烈な被害があったわけではない。
無論、お亡くなりになった方には無念だろうし、ご愁傷さまというしかないが、死因がほんとうに「コロナだけ」というひとがどのくらいいたのか?

別の病気があって、体力が減衰したところに打撃を受けたのが死因だとすれば、あえていうなら、末期癌のひとがピストルで撃たれたようなものでもある。
わたしの母も、脳梗塞の治療中、院内感染が直接原因となって死去してしまったのは、体力の減衰が著しかったからである。

つまり、「自粛」ができる国が、あえて「強制」を要するのか?と問えば、外国は、「自粛」ができないから「強制」なのであることに気づくわけだ。
それが、ウィルス被害の深刻度としてみたときに、「自粛」の国が軽く、「強制」の国が重いという結果にもなっている。

欧米の悲惨と比したときのわが国の「成功」が、しっくりこないのは、もっと筋道だった「台湾の成功」があるからだ。
これは、「SARS」の反省ができた国と、放置した国とのちがいであって、かなり「テクニカル」な準備が効いたかそうでなかったかに分類したほうがよいとかんがえる。

すなわち、わが国の被害が比較的すくないのは、わが国の国民の「日常的精神」が高かったからで、わが国の政府の「対策」が素晴らしかったということではなし、むしろ、「非科学」、「恣意的行為」が為政者やマスコミに目立ったことは、記憶にとめておきたい。

ただし、国民を絶賛できないことも確かで、上述の、「非科学」、「恣意的行為」に対しての批判もすくなったことがあげられる。
すなわち、このことが、「同調圧力」となって、「自粛警察」をつくったのである。

つまり、残念だが「一部に歪んでいる精神」が認められた。

これは、どこからやってくるものか?
日本人には、「歪んだ精神」がふつうにあるのか?それとも、一部のひとたち「だけ」の特徴なのか?
いや、これこそが「近代」の精神なのだろうか?

なぜこのような問いをするのか?といえば、人間は考える葦だからである。
人間行動は、他の動物とちがって、「かんがえる」ことをともなって「行動」する。だから、かんがえの根本にある「精神」が、ここ一番のときに運命を決するほどの重要性をもつのである。

わたしは、日本人と日本社会に自然発生する、「同調圧力」の根本にある「精神」が気になるのだ。

つまり、欧米社会には、「同調圧力」があまり出てこないゆえに「政府の強制」が必要なのであって、わが国では、政府の強制以前に「同調圧力」という「強制」が「自粛」に添加されているとかんがえられるのだ。
すると、こんな国民性の国で、政府に「強制」があたえられると、いったいどんなことになるのか?

まったくもって、おぞましいことになると想像できる。

ポスト・コロナ禍の議論にある、政府への「強制」の付与は、憲法違反という法理だけではなく、日本人の倫理から見直さないと、たいへん危険なことだとかんがえるのである。

そんなわけで、サミュエル・スマイルズの『自助論』を、いま、読むべきではないかと思えてならない。

せっかく政府がひとり10万円をくれるというから、夫婦でiPadを購入して、アップルペンシルでメモ書きをしながら読み進めるのもよかろうときめた。
電子書籍の読み方に、とっくに革命がおきている。

冒頭の「事件」は、日本人の夫人がDV被害者となっている。
なんなら、ふたりでiPadを購入して、『自助論』の読書メモを交互に読み合わせてみたらいかがだろうか?

とは、余計なお世話か?

しかして、メモの共有も、あるはふたりミーティングも、それぞれが端末を持っていれば、かんたんにできる時代なのである。

あぁ、「交換日記」がなつかしい。
固定電話と公衆電話しかない時代がうらめしい。

これも、コロナウィルスのお陰でわかった「現実」なのである。
ただし、高額な高速回線契約あってこそ、ではあるけれど。

あたらしい日常のアブノーマル

さいきんでは、政治用語に英語らしきモノが入り込むという、「流行」がある。
「ニュー・ノーマル」なのか?「あたらしい日常」なのか?
今年の「流行語大賞」に、どこまでランクインするかわからないが、ようは以前とはちがうという意味だから、「アブノーマル」をさす。

日本の学校でならう「歴史」の授業で、「歴史とは何か?」とか、「歴史を学ぶ意義」とかをならうことがない。
いきなり、「事件史」となって、年代暗記を強制される。

もちろん、「歴史の連続性」についても、ほとんど解説されないのは、戦前・戦中と戦後の「断絶」が「ほしい」からである。。

いまは刑務所に囚人としている、朴槿恵前大統領の名言に、「歴史を忘れた民族に未来はない」があった。このひとやこの国、あるいはその周辺国などからいわれるのか?という、「どの口でいう」はさておき、文言自体に文句はない。

その意味で、わが国も、そして、わが国の周辺国も、けっこう意図的に「歴史を忘れた民族」ばかりがあつまっている。
そんなわけで、どちらさまも「歴史的少子」という「共通点」をもっていて、「未来はない」ようなことになっている。

ウィルスのばあいは、「再生産数」で「1.0」を下回って「0.7」も下回ると、感染者が増えない、と判断されて待機命令を解除する「国際的常識」がある。ひとりの感染者がうつす相手が、ゼロコンマ状態になれば、どんどん減っていくからである。

人口のばあいは、「特殊出生率」といって、「2.1」を上回らないと人口はふえず、「1台」になったら人口は減るのは、男女ふたりから出生するからで、ネズミ算とおなじである。

世界で特殊出生率が最低なのは、「1」以下の「0.9」になった韓国だ。
だから、人口減少分野における、最先端はわが国ではない。
次が、台湾で、その次にわが国がランクインする。
中国の数字は、「よくわからない」ので、「欄外」だが、かなり「低い」ことは確実である。

すなわち、「未来がない」国々が、東アジアに集中している。
なお、「北」は、「飢饉」という別の理由が喫緊の問題になっている。

「人口」というのは、社会のボリュームを示すから、需要の大きさにもなる。
人口がふえるのに、「需要」に「供給」と「所得」が追いつかなければ、待っているのは「貧困」になる。物価が高騰するからである。

アジアや南米、それにアフリカの「貧困」は、このパターンだ。

一方、人口が減れば、「需要」も減るから、供給がおなじなら「デフレ」になる。
わが国周辺諸国は、今後「デフレ」の問題に直面することになっている。

しかし、人口が減る前からデフレになったわが国は、別の理由、「内外格差」のダムが決壊したからである。これに、金融政策で対応するというトンチンカンをずっとやっている。
これからは、人口減少のデフレも加算されるので、トンチンカンも加算される可能性が高い。

つまり、あたらしい日常は、「デフレ時代」という「平成時代」をつうじて、とっくにやってきている。
昭和60年代生まれから、それ以前の世代がしっている「好景気」を体感した国民は「いない」ので、いま30代半ばから若い世代と、その上の世代との感覚の違いは「決定的」なのだ。

すると、「バブル入社組」が50歳代に突入したいま、「景気回復」をいうときにイメージする「景気」とは、いったいなんのことをいうのか?
古い世代には「バブル前」の「昭和の好景気」にちがいないが、すでに「中堅」以下の若い世代には、「ちょっと、よくわかんない」が本音だろう。

現象としてこのことと似ているのが、わが国のウィルス「再生産数」の扱いである。
3月中旬(緊急事態宣言が出る前)に、「0.5」を下回っていた(上回ったことがない)から、国際常識とはかけ離れて、どうして日本が「緊急事態」なのかわからない、という問題がある。

まるで、「ファッション」の世界時流に乗り遅れまいとしただけだから、「けなげ」といえばけなげだが、発想が幼稚で単純である。

昨日、地方の39県で、緊急事態が「解除」されたが、例によって、意味不明の指標である「感染者数」がつかわれている。「専門家会議」は、週での新規感染者、人口10万人あたり0.5人を目安にするいう。

ウィルスによる感染症である、インフルエンザの場合は、「患者数」だ。
感染者数は計り知れない。それで週での新規患者数が40万人を超えて「注意報」、100万人を超えて「警報」をだしているのは、死者が1万人を超えるからだった。今回、「患者数」が発表されないのは、だれかに都合が悪いからにちがいない。

かくも「特別扱い」のコロナとは、社会が「アブノーマル」になったからである。

「社会不安」が政府の存在価値を高める一方、「将来不安」になって、少子を加速させる。

「歴史は哲学である」ということを忘れた民族は、滅亡する。
2千年続いたからといって、ただ続くことなどどこにも根拠はない。

哲学とは、人生を生きる意義である。

私たち日本人の哲学とはなんなのか?
他人ではなく、自分でかんがえることが必要となったのも、戦後価値では、「アブノーマル」なのである。

米国カジノ事業者撤退の衝撃

一兆円以上を投資する景気のいい話だった。

ラスベガスを本拠に置く世界最大のカジノ事業者、サンズが13日、突如日本への進出計画を撤回した。
「新型コロナウイルス禍」は「関係ない」とだけ発表し、「理由」の詳細は明らかにしていないと報道されている。

しかし、理由は容易に予想できる。
「投資額」に見合った「回収が困難」だと、判断したにちがいないからだ。
それは、日本政府が突きつけた「ライセンス期間」が10年では、不可能ということだ。

一般に、欧米投資家がかんがえる「投資期間」とは、長くて5年である。
しかし、一兆円の投資を計画する「IR」の建設期間は、はやくて5年かかる。
この間、収益は発生しないから、かれらにとっては「マイナス5年」という投資回収計算における設定をせざるを得ない。

すると、10年というライセンス設定では、「実質5年で回収」という条件に見えるのだろう。

日本政府との水面下での交渉において、ライセンス期間の「見直しもある」という政府側の発言が、より一層の「不信」を招いたともいわれているのは、「長くなる」ということよりも、恣意的に政府が介入することを「リスク」とみなしたにちがいないからである。

だったら、最初から「期限を見直す」として、契約上の期限を設定し直すべきだと主張するのが当然だからである。
しかし、日本政府はこれができない。
こういう「恣意的なやり方」が、役人支配の「セオリー」だからである。

すると、ここからわかるのは、「政府の計画」における、「事業者の利益」についての設定が、事実上なかった、ということである。
これぞ、「武士の商法」。
優秀な役人は、優秀なビジネスマンになりえないという法則そのものの証明である。

もちろん、撤退の理由はこれだけではないはずで、もっとも大きなリスクとは、上述の「政府の恣意的なやり方」だろう。
すなわち、事前に決めたことが決めたことにならない、ということだ。
これでは、「契約」にならない。

わが国における「契約」は、世界標準の「契約」とはちがうのだ。
その端的な例は、日本におけるたいがいの契約書の最終条項にいれる「双方が誠意をもって話し合うこととする」に象徴される。
つまり、この「条文だけ」しか、決めごとがないのである。

べつのいい方をすれば、この「条文」が、契約書全部の「エッセンス」になっている。
だから、さまざまな条文に書いた決めごとを、たとえ契約者のどちらかが破っても「誠意をもって話し合う」ことになる。

この話し合いの結果が「不調」になったとき「だけ」、裁判になるのだ。
「誠意がない」からである。
クレーマーがいう「誠意を見せろ」につながる概念で、わが国が「契約社会」ではないことを示す例になるのである。

欧米人との契約書には、「誠意をもって話し合う」という概念そのものが「ない」から、事細かく双方の権利義務が記述される。
どちらかが、この権利義務を怠る事実があれば、即裁判になるのはこのためだ。

もちろん、裁判所だって、日本のばあいは「よく話し合った結果ですか?」を前提とするのに対して、あちらは、条文の記述と事実の判断をする「だけ」だ。

この「文化の差」が、カジノで出た。

元気に手を挙げていた横浜市は、市長が「驚きはない」と、ポーカーフェースを決め込んだから、なかなかの「ギャンブラー」である。
それに、今回のことが、他の候補となる事業者にも影響をあたえるか?との質問に「想像もできない」とこたえている。

この市長は、大手民間事業会社の役員経験者との触れこみだったが、「女性枠」という性別における「優遇」でなっちゃったのではないか?とおもわざるをえない。
女性管理職比率とかを「目標値」にする不思議が優先される国ゆえの「利得者」のひとりなのかもしれない。

そして、国の「ポチ」として、あくまでもお国が目指すIRをやる、というのも、「やめられない」という先の大戦の状態に近似している。

今後、活発化が予想されるのは中国の業者の動向だ。
こちらの文化は、わが国の契約の概念よりも欧米から遠い。
アフリカなどの国々を、借金漬けにしてコントロールするように、より「やくざ」に近いのは、近代ではなく近代以前の中世社会だからである。

世界最大の中華街といわれた横浜中華街も、この三十年で大変貌し、あたらしく大陸からやってきたひとたちの店が過半になった。
その意味で、あちらからのIR事業者こそ、地元中華街と連携する地域メリットがある、とかなんとかいって、横浜市民や日本人の資産を吸い上げるマシンを、自虐的に誘致することになるのだろう。

役人栄えて国滅ぶ。

コロナ禍による日本経済の打撃は、フローだけでなくストックにも及ぶこと確実で、アメリカのカジノ事業者は、わが国に吸い上げるべき資産がない、と判断した。
つまり、貧乏国だというレッテルを貼られたことが「衝撃」なのだ。

さては、横浜市議会議員のみなさんは、どんな活動をするものか?
市民にわかりやすい状況になってきてはいる。

アドバンテージは大丈夫?

突如でてきた「9月入学」というはなし。
全国知事の半数以上が「賛成」という報道があるけど、大丈夫なのか?

いったい、現役の知事たちで、海外留学経験者は、言いだしっぺの都知事のほかに何人いるのか?
この際、学歴詐称疑惑は横にしても、いまの「3月卒業」は、留学するには「アドバンテージ」になっていなかったか?と質問したい。

なぜかといえば、アメリカを例にすると、留学先の学校は、日本語で授業をしてくれるはずもないから、まずは「英語力試験」を受けないといけないのだ。
国内でよほど英語ができたひとだって、「大学の授業」という高等英語を理解できないと、本人だけでなくクラスの迷惑にもなる。

だから、ふつうは「英語力予科」にはいって、授業に出ることができるレベルの試験に合格しないといけない。そうでなければ、9月からの「本科」を受講することがゆるされず、その学校での留学そのものを断念せざるをえなくなるのだ。

それで、英語以外の学力ではじゅうぶん入学ができるのに、まずは語学専門学校にいくことを推奨される。
せっかくの「留学ビザ」があるのだから、半年で間に合わなかったひとは、もう一年を「予科」ですごすことになる。

ということは、かなりの英語力があってはじめて、9月からの新入生になれるし、この間の半年間は、それでなくても多忙になる。
生活の立ち上げに、外国ならではの「手間」がかかるのは、地方から東京の学校にいくのとはわけがちがうからである。

たとえば、自動車。
アメリカ留学なら、自動車がないと買い物にもいけない。
部屋を選ぶのだって、自動車がないと不動産屋にもいけない。
つまり、通学できない。

そのために、免許がいるが、日本の高校生で自動車運転免許をもっているひとはすくないから、現地で取得しないといけない。
すると、いかに日本ほど厳密ではないとしても、ちゃんと手続きしないといけない。

つまり、たとえ予科で一発合格しても、あれこれと、やることがたくさんあるのだ。
これを「横移動感覚」の欧米人と一緒にして、一ヶ月程度でやれというのは「酷」ではないか?

まさか、わが国の知事たちは、こんなこともしらない、なんてことはないとおもうが、「世界標準だから」という一番多い賛成理由をきくにつけ、なんだか心配になるのである。

日本標準でなにがいけないのか?

もちろん、外国からの留学生だって、4月入学というのは、上記のはなしがズレて起きることだから、アドバンテージを与えることになっている。

すると、知事たちが無知でないとすれば、かれらの得意の「嫌がらせ」か?

どういうわけか、この件でも企業側の反応が鈍い。
企業の採用スケジュールがどうなるのか?は、変更時の一回だけで済むはなしではないだろう。
ということは、ドキドキしながら「静観」を決め込んだということか?

少子という現象がわかっているのに、大学設立認可をバンバン出した文部科学省がやり玉に挙げられて、いざというときになって、なにがなんでも獣医学部はつくらせないことになった。

文部科学省という「行政当局」は、申請書類が整っていれば、バンバン認可を出さねばならぬ。
少子という現象がわかっているのに、申請するのは、申請した側の責任だからで、どうして役所がその経営責任まで負わされるのか?

そんな「役所依存」をふだんからしているので、上から目線で「不要不急のことはするな」と国民にはいって、じぶんたちは「不要不急のことばかりする」ようになるのである。
こういうのを「どさくさに紛れる」とはいうけれど、国民の自業自得でもある。

「自由」という立場からすれば、他人から自分の行動を「不要不急」といわれて批難される筋合いはない。
まして、為政者からいわれるのは不本意である。この「精神」が、日本人からなくなった。

明治には、このような世相を風刺した、みごとなジャーナリストがいたものだが、「言論の自由」を逆手にとって、一般人をあおりまくるのが「ジャーナリズム」だと勘違いしているのが「ふつう」になって、残念なことに国民がそんな記事や報道を信じているのだ。

宮武外骨を描くのに、最高の作家が書いてくれた。
その、赤瀬川原平も、もういない。
彼のあまたある傑作でも、『新解さんの謎』は、辞書をつかってここまで笑わせるものかと感心した。

日本語をならう外国人は、この本をどう評価するのか?ぜひともきいてみたい。
果たして、外国の辞書で、「新解国語辞典」に匹敵する辞書はあるものか?

ご存じの方には、教えを請いたい。

「内外価格差」の存在は、「貿易論」でいえばチャンスである。
わが国の大学授業料は、たいへんお安くなっている。
ということは?

やっぱりここでも、「国家戦略」として、学校制度をかんがえないとまちがえるのである。

「ばっきん」ガム宮殿

「チューインガム」は、チューインガムの木からとれた「基剤」に甘い味をつけて、これを口内で噛むことで味わう菓子である。
いまでは、合成樹脂であるビニールが基剤になっている。
レジ袋撲滅運動には熱心だが、ガム撲滅運動は誰もしない。

噛むと頭がよくなる、というから、きっとレジ袋の有料化をうれしく思うひとは、ガムをたくさん噛んで、脳にビニールが行き渡った方もおおくいるにちがいない。

お菓子といえば「食べる」ものなので、子どものとき、味がなくなったらはき出すとはおもわずに、飲み込んでしまう経験を誰でもしたことがあるだろう。
のちに、ガムのような食感なのに、だんだん溶けてなくなる「飴菓子」も登場して、戸惑ったことがある。

ロンドンには有名な「バッキンガム宮殿」がある。
国王の住まいだが、はじめはバッキンガム公が建てたものを、王が買い取ったという歴史がある。

「ガム」がつくからといって、お菓子の「Gum」ではなく、Buckinghamの「-ham」とは「村」の意味がある地名となる。
噛んで含めて説明すれば、こういうことだ。

たまたま発音がおなじだから、日本語の「ばっきん」とかさなる。
ばい菌ではなくて「罰金」である。
ばい菌もつきまとうが、罰金もつきまとうという共通点がある。

日本人からほとんど退化した、英米型「自由主義」思想の立場からすれば、「税金」とは「罰金」であるとストレートにイメージするのが当然だとされている。

日本人のおおくは、税金を、払いたくはないが仕方がない、とおもってはいるが、まさか政府からの「罰金」とはおもっていない。
これが、「本家本元」のひとたちからすると、信じがたい「退化」にみえる。

では、念のため、罰金として税金を書き出してみよう。

・稼いだら罰金;所得税、法人税、地方税
・事業をしたら罰金;事業税
・事業所を持ったら罰金;事業所税
・持ち家に住んだら罰金;固定資産税
・買い物したら罰金;消費税
・タバコを吸ったら罰金;たばこ税
・酒を飲んだら罰金;酒税
・車を買ったら罰金;自動車税
・ガソリン燃やしたら罰金;ガソリン税、軽油税
・紙に金額書いたら罰金;印紙税
・金品を他人にあげたら罰金;贈与税
・死んだら罰金;相続税

ちなみに、一度課税されたのに再び課税するのを「二重課税」といって、近代国家では「しない」ことが決まりになっている。
わが国は近代国家ではないので、けっこう二重課税されているけど、従順な国民は文句をいって政治家に撤廃させるようなこともしない。

・「酒税」や「ガソリン税」などに対する「消費税」がやばい。
・所得税を払った後に購入したモノや、貯めたおカネに、贈与税や相続税がかかるのもやばい。

コロナ禍という社会情勢から、「リーマン級が来たら(見直す)」といっていた消費税の減税問題がくすぶりだした。

けれども、例によって「税率」ばかりが議論されている。

10%を8%にもどすとか、ならば軽減税率制度はどうするのとか、いや5%だとか0%、最後に「廃止」とか。

これは、政治家だから、政治の議論をしているので、消費税の議論をしているとはおもえない。
なぜなら、消費税には上述の二重課税問題もあるし、もうひとつ重要な、「課税標準額」があるからだ。

最初の3%だったとき、税率はそのままに、「大増税」されたことがある。
それは、「益税」ともいわれた、小さな商売をしている商店の課税標準額を、大幅に「さげた」ことで実施したのだ。

「売上」金額がすくないなら、一定の金額までなら「納税を免除する」、この金額を下げたことで、納税事業者が大幅にふえた。
つまり、消費税法に触らずに、大増税を実現した政府があった。
この施策で、全国の零細個人商店が廃業したのである。

すなわち、老夫婦がちんまりと小売店をやっていてはいけないから、罰金をとるという意味になった。
交通が不便な集落にとって、生活ができなくなるという意味での社会問題を、政府がつくる。

商店主の自由と、その地域住民の自由を奪う。

こうして、なんとか自立をはかっていたひとたちの生活を追いこんで、高齢者施設に収容することが手厚い「福祉」ということになった。

ねっちょりとして、ベタベタするガムでできた宮殿。
それが「日本政府」である。
国民には、罰金を課すことしかしない。
だから、「ばっきん」ガム宮殿、なのである。

これを維持するには、警察国家になるしかない。
あろうことか、「自粛警察」という「体制派」が出現した。
まことに、政府に都合がいい。

その政府は、諮問委員会という得たいのしれない組織に、経済の専門家というひとまでどうやってかしらないが加えることで、あらゆる問題に、このひとたちのいうことを聞くようになってしまった。

諮問委員会とは、どんな法的根拠があるのか?
いったい誰が、この政府の政策責任者なのかさえ、不明になった国だから、内閣も溶解したのである。

これが、「長期政権」の素顔だ。つまり、「虚無」。

政府がつかえるカネを減らすと、住みよい国になる。
だから、減税こそが国民の主権のしるしなのだ。

ただ、なんとなく動いているだけだから、だれにも止められない。
コントローラー不在のリモート国になってしまった。

なまけ方がちがう

日本人の本質は、「なまけ者」である。
こういうと、そんなことはない、世界で一番の働き者が日本人だというひとがたくさんいるだろう。

けれども、日本むかしばなしを思いだせば、たいがい「なまけ者」がでてくる。
これを戒めるはなしがたくさんある、ということは、やっぱり「なまけ者」がたくさんいたのである。

コンサルタントで唯一人、本物の神社の「神様」になったのは、小田原城内にある二宮神社の二宮尊徳(金次郎)である。

戦国の雄の一角をなした、小田原の北条家は早雲を初代にして、わずか五代で滅亡したが、関八州240万石の大大名だったことは確かである。

秀吉の小田原征伐のあと、江戸に本拠をおいた徳川家にとって、箱根をおさえる役割と旧北条の後始末もあって、大久保忠世(徳川16神将のひとりで、弟にはあの「大久保彦左衛門」がいる)が、小田原城主となった。

その後、転封国替えとなったが、ふたたび初代城主の忠世から老中職にある大久保家が下総佐倉藩から小田原城主となり明治までつづく。
老中をはじめとした幕府の重職を歴代が務めた家格のため、藩財政は窮乏し、そこに金次郎活躍の土台があった。

幕末から明治の「すごいひとたち」は、下級武士とはいえ、あんがい上司に認められて活躍の舞台を与えられるパターンがある。
二宮金次郎は、身分制があるなかでの「農民」であって、下級どころか武士ではない。

かれは、縁あって小田原藩家老の家事手伝いとして奉公にあがる。
藩財政が傾いているから、家老の家も経済的に傾いているのは当然だった。

あろうことか、金次郎は、この家の家計を再建してしまい、これが家老の目をひいて、なんと、この家老がみずから金次郎を殿様に紹介し、殿様が藩財政の再建を金次郎に依頼することにまでになったのだ。

いかに藩主からの依頼といっても、納得しないのは藩士たちだ。
もちろん、わたしたちは、この「コンサルタント案件」を見事に成し遂げたことをしっているが、「当時」の時代背景から、それがいかほどの困難を伴ったかは、並ではないことぐらいは理解できる。

それで、信頼を得た金次郎は、藩主の親戚筋まで紹介されて、千葉県佐倉市の陣屋における開墾の逸話が「なまけ」を見ぬく例になっている。
やる気のないひとは、たくさんいたのである。

この時代の主たる産業は、いうまでもなく「農業」だった。
幕末=明治初期のわが国は、農業従事者が人口の8割以上だった。
だから、金次郎が時代の「先端技術」を農業に投入して成功させ、これをもって彼を、「篤農家」というのは間違ってはいないが、不満が残る。

もし、いまの時代だったら、果たして金次郎はどうしたのか?

その合理的な発想から、IT企業の先駆者になっていたのではないか?と思うからだ。

おなじ結果を出すなら、楽な方法がよい。

このときの「楽な方法」とは、なまけ者の農民を見ぬき、叱りつけたこととはぜんぜんちがう「なまけ方」の追求であって、それは、「合理」からしかうまれないものだ。

たとえば、料理。
プロの料理人としての「腕」とはなにか?
大きなフライパンを振って、いちどに大量のチャーハンが作れることが特殊な技だとすれば、いまでもそのとおりである。

ところが、コンクリート・ミキサーのような形をした、チャーハン専用釜が開発されたら、できあがりがおなじようで、誰にでもつくれるものになったとすれば、さてどう評価すべきか?

これは、日本蕎麦の世界で一回あった。
大正期、機械製麺が普及する前、珍しさもあって、「手打ち」ではない「機械打ち」がハイカラで「うまい」とされたのである。
その後、「手打ち」が「うまい」の時代が続いているから、果たしてどっちなのか?

結局は、「粉」の品質ということで落ち着いている。

そんなわけで、世界の工場になった大国の報道で、「日本製スマホが世界から相手にされないワケ」という記事がでた。
かれらの分析は適確で、日本の技術はいまだに世界最先端なのに、「利用者の利便性追求」ではなくて、「作り手の都合を優先させた」からだという。

まったくそのとおりである。

利用者の不便を便利にさせるから、ほしくなる。
それが、自分たちの売りたいものを作るから、売れない。
金次郎とて、おなじことを指摘している。

「コロナウィルス」しか分析できない「検査」でふえた「感染者」のうち、何人が「新型」で、何人が「旧型」だったかの区別のはなしがないなか、「コロナ倒産」がいわれだした。

このうち何件が「あるべき倒産」で、何件が「本当のコロナ禍」だったのか?の区別がつかない。
倒産は気の毒なことながら、「区別できない」状態で騒いだら、なにがなんだかわからない。

二宮金次郎なら、きっちり区分して、その対策を練るにちがいない。
200年前の日本人ができたことが、できなくなっている。

科学だけでなく理性も負けた

「科学が社会に負けた」といわれたのは、「ダイオキシン」が発端だった。

この連日の「誤報」で、いまだに焚き火も焼き芋もできなくなった。
しかし、人間にとっての「無毒」は、太古からのことをおもえば、簡単なことだった。
それでも、ダイオキシンによる実験をやってみて、人間の「被害」で唯一認められたのは、「ニキビができる」ことだけだった。

それがわかって以来、テレビは一切報道しないから、いまの若者は「ダイオキシン」という言葉すらしらない。
つづいて「フクシマ」が起きた。

それまでの放射線被ばく規制が、1ミリシーベルト/年だったものが、20ミリシーベルト/年(長期的には1ミリシーベルト/年を最終的に目指す)になったことでいわれた。突如20倍に緩んだのだ。
かっこ内の目標がいつなのかは、わからない。

なにが問題なのか?といえば、事故があって変わった、ということだ。
それまで「厳守」とされてきたことが、あっさりと切り替わって、放射線の専門家たちが、こぞって「健康に問題ない」といったから、なんだったのだ?になったのである。

しかも、放射能漏れ事故が発生するたびに、地元には巨額の補償金が渡されていたので、マスコミも容赦なく報道していた。
「マッチポンプ」というかたちでの、グルだったのではないか?

今回の「はやりやまい」は、感染症という自然現象における「恐怖」を背景に、やっぱり従来から「厳守」されてきたものが、あっさり変更された。
それが、従来の「患者数」から「感染者数」への発表の変化で、しかも、従来の「週累計発表」から「毎日発表」ということも同時に変更された。

週累計にしていたのは、土日の扱いを平準化するためであった。
保健所にあつまる、地元診療所からのデータが、土日休みの影響を受けるからである。
なので、今回の報道でも、毎週末の数字は土日の影響をもろに受けた数字が発表されていた。

もちろん、インフルエンザのばあいは、新規の「患者数」が注意報で40万人/週、警報で100万人/週という「万人単位」が、今回は「人」単位にも変更されたが、患者数ではなく感染者数であるから、まったく比較できない。

生物には、免疫システムが用意されている。
「患者数」ではなく「感染者数」を報じることの問題は、あたかもこの報道に毎日接していると、「感染そのものがいけないこと」に感じてしまうことにある。

つまり、「無菌状態」が「理想」になってしまうのだ。
これでは、生物としての人間は、地球上の環境で生きていけない。
「免疫システム」の否定になってしまう。

したがって、ウィルスや細菌に感染することは、免疫力を高めるうえでは、重要な体験になる。
「免疫力」として、ギリギリの闘いをやって勝った経験(=抗体ができる)は、その後何十年も有効になるからである。

「ワクチン」だって、わざと感染させることで、体内に抗体をつくり、本物の病気にならないようにするためのものだ。
つまり、ワクチン接種とは、感染者になることをいう。
感染者数で一喜一憂することの「愚」とは、このことだ。

わたしの幼稚園時代、「はしか」や「水疱瘡」で臨時休園になったことがあったし、その後、小学校低学年のときも同様のことがあった。
それで、わたしは、「はしか」と「おたふく風邪」を発症しないでいまに至っている。

友達からうつされるまえに、幼稚園や学校が休みになってしまったのだ。

あとになって、発症しなかった子どもの母親たちは、子どもの将来にえらく不安になって、休園や休校を怨んだものだ。
逆に、ちゃんと発症した子どもの親は、よくぞ感染してきたと、喜んでいた。

おとなになって、「はしか」と「おたふく風邪」の流行があると、外出したくないばかりか、子どもに近づくのもこわかったのは、今回の流行病どころではない。

驚くことに、わが国の国民は、科学リテラシーが退化して、感染そのものを忌み嫌うようになってしまった。
とんだ「間抜け」である。
原因は、情報リテラシーの欠如、すなわち、「情報弱者(情弱)」にあるのだろう。

たとえスマホを所持していても、玉石混淆の検索結果から、適確な情報を得ることができないために、結果、地上波のテレビしか情報源がない。
しかも、よく観ていて習慣化までしているのが、「ワイドショー」になっている。

今回の流行病は、フクシマの再来のごとく、全放送局が「役に立たない」ばかりか、根拠のない報道という「毒」を流しつづけた。
これで、視聴者の頭脳が冒されるという二次被害が発生している。

それで、他県ナンバーの自家用車をみつけると、嫌がらせのためのあおり運転をすることが「正義」になってしまうという「倒錯」が発生している。
「自粛」のときに、他県にやってくるとは「けしからん」から、あおって「出て行け」とメッセージを送るのが「正しい行為」となったのだ。

通常なら「嫌がらせ」にすぎないものが、「正義」となる。

それで、一部の自治体が連携し、「広域ステッカー」をつくって、これを県境をまたぐ対象地域の全戸に配布するという。
「圏域証」といって、「生活圏を共有しています」と書いてある。

こうすれば、他県ナンバーの自動車でも「あおられる心配はない」ということなのだろう。
つまり、このステッカーをつけていない自動車は「あおっていい」という意味なのだ。

近代は、「理性」によってつくられてきたが、その「理性」が、「社会」に負けた、わかりやすい事例である。
さてもわが国は、近代を捨てて、中世の混沌に逆流をはじめてしまった。

5月8日、「PCR検査」の相談規制を緩め、検査対象者を増やすのは、感染者を増やすという「意図」しかない。
これで、自粛延長の根拠としたいのがよくわかる。
さほどに、自粛延長の根拠が「ない」のである。

「患者数」をいわない政府の専門家とはなにか?
「退院者数」をいわせる政治家も何者か?

日本政府にも、とっくに「理性」はうしなわれている。

マスクで殺人事件

わが国では「ありえない」事件ではある。

アメリカで、ショッピングセンターにやってきた女性客が、マスク着用を「していなかった」ため、警備員が入口で注意したところ、引き返した客の亭主がこの警備員に、「よくも俺の女房に恥をかかせたな」といって、その友人がピストルで警備員を射殺してしまったのだ。

この一部始終を、防犯カメラがとらえていた。
まことに、おそろしい事件だ。

たかが「マスク」が、こんなことになったのは、他人から強要されることへの拒否反応である。
もちろん、重罪をおかした犯人たちを擁護するつもりは毛頭ないが、「動悸」はこれだろうとおもう。

事件は、ミシガン州で発生した。
ミシガン州はどういう州かといえば、中西部の五大湖地域なので、自動車の街としてしられ、近年では「破産した」ことでも有名になった「デトロイト市」がある。

また、ラストベルト(Rust Belt)といわれる地域で、Rustとは「錆」のこと、すなわち「錆びついた古い工業地帯」という意味である。ニューヨークにまでつづく帯状の工業地帯をいうが、大統領選挙における重要地域となっているのは、人口のおおさにも起因する。

今年は、その大統領選挙の年だ。

アメリカ合衆国は、「青い州」と「赤い州」がある。
「青」は民主党、「赤」は共和党を象徴している。
共産主義の「赤」ではなく、その真逆であるのがアメリカらしい。

アメリカ全土でみると、アメリカ人は民主党支持者が多数を占める国だ。
しかし、大統領選挙は、選挙人を選ぶ方式ながら、得票数ではなく選挙人の「総取り」がルールなので、支持者数がすくない共和党からでも大統領が誕生するのである。

民主党は、日本でいう「リベラル派」のことを指すが、あちらで「リベラル」とは、「リバタリアン(自由主義者)=共和党支持」のことになるから表現として真逆になる。
つまり、わが国で「左派=リベラル」という表現が、まったく矛盾した用語として通用するので、なんだか変なことになるのである。

民主党員ではないのに、民主党の大統領候補をえらぶ今回の「予備選挙」も前回同様に最後までがんばった、サンダース上院議員は、アメリカでは「極左」と呼ばれるように、いろんな「無償」を政策として繰り出している。

高齢なるサンダース氏の最大支持層が、大学生を中心にした若者であるのは、大学授業料の「無償化」が大受けしているからである。
日本の大学授業料は、文部科学省の助成金のおかげで、「無償化」まではいっていないが、すでにアメリカと比較すれば、比較にならないほどの「安価」にて提供されている。

しかも、日本には私立高校の授業料を「無償化」するという政策まであるから、アメリカ人にとってわが国は、とっくに「極左」が支配する国になっている。
もちろん、「オバマ・ケア」という、ゆるゆるの国民皆保険制度だって、トランプ政権発足後すぐに破棄されたから、アメリカには日本的「社会保障」が存在しない。

そんなわけで、わが国に尺度をおけば、アメリカの左派=民主党のなかからもはみ出す「極左」のサンダース氏より、もっと左がわが国「与党」という位置にあることを、すくなくても日本人はしっておくべきである。

40年前のかつて、イギリス保守党のサッチャー・共和党のレーガン両巨頭コンビに、中曽根康弘氏が「仲間」としてからんだけれど、なんだか「違和感」があったのは、日本で「タカ派」といわれた中曽根氏すら「左派」にみえたからである。つまり、「ニセモノ」だ。

いま、共和党トランプ氏と安倍氏をみても、なんだかかみ合わないのは、やっぱり日本で「保守=右派」とみられる安倍氏が、ぜんぜん「保守」ではなくて、アメリカ的には「極左」に位置することの違和感であろう。

さて事件がおきた、ミシガン州は、現在の州知事が「民主党」なのである。
近年は、ずっと「共和党」の知事だったが、民主党が奪還したばかりだ。

アメリカ合衆国を表記する漢字は、「州」なのか「衆」なのか?
建国の理念からすれば「衆」だけど、統治の実際からすれば「州」であって、「合州国」の方がしっくりくるのは、「連邦制」であるからだ。

すなわち、「州」とはいえども「国扱い」だから、州ごとに憲法もあるし「州兵」という軍も保持している。よって、「州」によって税制もちがう。
だから、州知事というのは、わが国の都道府県知事が到底及ばない、大統領的な権限を有していることもしっていないといけない。

いま、民主党知事の州はどこも、強制をともなう「自宅待機」を打ち出しているので、ミシガン州だってもれなくその政策が実行された、という社会的条件がある。
そして、その「期間延長」が議論された4月30日には、「反対」の住民たちが議会にライフルを持ちこんで「抗議」しても、知事は「知事令」に署名したのだ。

ちなみに、議事堂にライフルを持ちこめるのは、合衆国憲法修正条項に、銃保持の権利が保障されているからである。
とはいえ、むやみに発砲してよいことにはならない。

そんな中での、「事件発生」なのである。
だから、単純な殺人事件ではなく、みようによってはおそろしく政治的なのである。

なお、イリノイ州やウィスコンシン州では外出規制に反対する共和党議員が規制の緩和・撤廃を求めて相次ぎ提訴しているから、ミシガン州でも提訴があるかもしれない。

殺人は、まったく許される行為ではないが、アメリカの議員たちは「働いている」のである。

営業妨害がだいすきです

終わりよければすべてよし。

とはぜんぜんならない。
終わってみれば、ただの空騒ぎだった、のだ。
しかし、みんなで浮かれて踊ったのではなくて、家にこもって「自粛」したいた、というおそまつだった。

今回の「流行病(はやりやまい)」は、つまるところ、「ふつうの風邪」だった。
わが国における「患者数」の割合は、1万人にひとりで、重症者は40万人にひとりだった。
重症にならなかった、ほとんどの患者のひとたちは、「よくある風邪の症状」で回復したのだ。

それで、なんの罪もない店舗の経営が行き詰まったのだから、まったく「やるせない」ことになっている。
山梨の女性の件だって、ヨーロッパ中世の「魔女狩り」そのもので、常軌を逸しているのは騒いでる側の方である。
『ペスト』は確かに恐るべき感染症だが、今回のはふつうの「風邪」だったからだ。

ところが、振り上げた拳を下ろすことができなくなった「政府」と、「政治家」は、謝るタイミングも失したから、さらに余計なことをやらせて、責任回避を図っている。

たとえば、スーパーマーケットを経済再生担当大臣が視察して、混雑を「密」だといって脅し、入店制限なりのさらなる嫌がらせを推進させる。
このひとは、今回の「感染メカニズム」を、いまだに理解できないのではなくて、あやまった理解を「強引にでも継続する」しかもう責任回避の方法がないのである。

ならば、さっさと辞任すべきだ。

しかし、おとぼけがたくさんいて、大阪府知事が自粛延長について政府依存の発言をしたら、頭脳がクリアなこの大臣は、「仕組みがわかっていないのではないか?」とのたまった。

首相の「緊急事態宣言」は、都道府県知事に権限を委譲するものだから、大臣の意見がただしい。
それで、府知事が「謝罪」することになるというハプニングまで起きた。

つまり、複雑な「法の趣旨」が理解できる大臣が、どうしたら「感染するのか?」を知らんぷりしているのである。

空気感染しないから、「密」なんて関係ないし、自分が咳をしていないならマスクの着用も必要ない。
レジの「膜」も意味不明だし、並ばせ方も「待ち行列理論」に合致しない。

重要なのは、買い物客には商品に触ったらそのままカゴに入れ、棚に戻さないことを「買い物マナー」にすべきだし、店外に消毒液を置いて使用を促すことが対処法として推奨すべきなのだ。
視察した大臣が、こうしたアドバイスをするのではなく、利用客という国民にこれまで以上の不便を強いるとは、お門違いもはなはだしい。

スーパーマーケット業界は、こぞって「抗議文」を突きつけるべきであるし、もっと強い「警告文」でもいいのではないか?
大臣のこれ以上の非合理的介入は、営業妨害に相当する、と。
そして、この警告を無視するなら、訴訟もありうるとすればなおよい。

送付先は、大臣本人と所属政党がのぞましい。

さてそれで、権限が委譲された知事たちの対応が乱れた。
温泉旅館などの自粛要請を解いても、特定の業界の自粛要請は解かない、という理不尽もおこなわれている。
その理由の、合理的説明がないのは、やはり「営業妨害」である。

これは、解かれた側にも営業妨害にあたるのは、どうしてこの業界だけが解かれたのか?についての合理的説明がないからで、利用客からすれば、自粛が解除になろうが「不信感」だけがつのるからである。

すると、わが国では、国も地方も行政が、「営業妨害」をすることが「トレンド」になっているのである。

もはや「自粛」ではなく「自虐」なのだ。

発生源の国がつく「うそ」は、自分たちに都合がよいようにするため、という原則から決してはずれない。
しかし、わが国は、自分たちを痛めつけるために「うそ」をつくのである。

そうすれば、痛いめにあったひとたちが、政府に尻尾を振って近づくからである。
もちろん、「犬」相手でもこうした方法でなつかせる手法はあるが、推奨されないのは「心の絆形成」ではないからである。

しかし、政府にとって、心の絆ではないことは、かえって都合がよい。
これを「絆し(ほだし)」というのだ。

「絆」という「字」には、「きずな」と「ほだし」の二面をあつかう意味がある。
「家族の絆」はなんだか温かいが、「DV一家から逃げられないのを絆し」ともいう。首輪でつながれた状態をいう。

政府と対峙してきた財界は、とっくに「絆されて」しまって、だれも政府にたてつかない。
しかし、今回の政府による「対策」は、あきらかに「失政」だし「圧政」のはじまりである。

伝統的な経済官庁も、営業妨害がだいすきなのだ。

そういう意味で、自粛がまだらに「崩壊」しているのは、結構なことである。
けれども、民間企業がこぞって政府に対峙しないと、やられてしまう恐怖が教訓となった。

なんと、わが国の経済活動で、最大の敵は、ライバル企業でもなんでもなく、「甘いことしかいわない」政府なのであった。

これがわかったことが、自粛をやった唯一の効果なのである。