善政競争を阻害する「ふるさと納税」

西川一誠氏という、当時現職の福井県知事が「提唱」して、2006年から約2年の議論を経て、2008年にできたのが、「ふるさと納税」制度である。
内閣でいうと、第三次小泉純一郎、第一次安倍晋三、福田康夫という面々の時代だ。

よくある話だから目立たないけど、西川一誠氏は、元自治官僚だ。
「自治省」とは、よくもはばかりなく命名したものだと「感心」するのは、みごとな「ダブルスタンダード」の用語だからである。
本当は、「自治」をさせない、という意味だ。

都道府県や市町村といった、自治体を、国家の「下請け」にするための事務を取り扱う役所だからである。
いまよりはずっと「正直」だった、明治のひとは、「内務省」と名づけたのだった。

それでもって、「欺瞞に満ちた」自民党は、橋本龍太郎という自己中に、どうしてか「郵政省」と「自治省」を合併させて、「総務省」なる得体の知れない役所を作らせて、その「功績」が将来にわたって崇められるようになると、だれかがおだてたにちがいない。

巨大化して、はなから「複雑怪奇」だった役人の世界が、「魑魅魍魎」になったのは、組織で言えば「内閣府」という、もっと得体の知れない役所を作るのに、総務省を「当て馬にした」のではあるまいか?と疑う。

それはそうと、敗戦まであった「内務省」は、「キング・オブ・役所」といわれた存在であった。
戦後の、「大蔵省=財務省」とは、「格がちう」別次元の権力があった。
すなわち、「一番」が解体されて、「二番手」が、「一番」に昇格したようにもみえる。

しかし、GHQが破壊しなかったのは、「役人の人事」であったから、見た目とはちがって、内実はなんら変化しておらず、たとえば、「事務次官会議」の議長は、「自治事務次官経験者」の伝統から「総務事務次官経験者」で変わらない、「内閣官房副長官」となって、いまに至っている。

つまるところ、旧内務省からしか、事務方の「最高峰」、内閣官房副長官になれないのは、総務事務次官経験者というOBが、昇格してさらに、内閣府を牛耳っているといえるのである。

よって、わが国の国家公務員で、エリート中のエリートとは、ほんとうは「内務⇒自治⇒(自治系)総務官僚(元郵政ではない)」なのである。
すると、橋本龍太郎内閣の「省庁再編」における、隠された意図とは「内務省の復活」だったともいえる。

これを画策した官僚は誰だったのか?

ところで、GHQとは、わが国を二度と欧米列強(白人)に歯向かわせないための弱体化、を目的とした組織であったので、かれらが「やったこと」と「やらなかったこと」は、目的合理的に「イコール」の関係にある。

すなわち、内務省を「解体した」ことと、官僚体制に指一本も「触れなかった」ことは、イコールなのだ。

それで、官僚体制が(GHQが目論んだとおりに)とうとうわが国を破壊して、修復不可能地点を越えたのが「平成時代の後期」だったといえる。
だから、事実上の「内務省復活」とは、反GHQというベクトルではなくて、官僚体制による「日本破壊の加速化」を意味するのだ。

このことの「兵器」が、「ふるさと納税」なのである。

およそ、自由圏では、「移動の自由」が保障されている。
たとえば、国家並みの権限がある、アメリカの「州」であっても、合衆国憲法(連邦憲法)と、州憲法の二重制があって、州憲法は連邦憲法に従うことでの「平衡」が確保されている。

だから、ふつうの国なら、「国境を越える」ことと同義の「州境を越える」にも、パスポートを必要としない「国内」という自由が与えられている。
生活の上での「諸制度」が、州によってぜんぜんちがうし、「税制」もちがう「のに」だ。

それで、アメリカ製のシミュレーションゲーム『Sim City』では、政府に不満を持つ住民が増えると、人口が減る、という設計になっているので、プレイヤーたる「市長」は、人口と税収の確保のため、住民の不満足表示に敏感にならざるを得ない。

もしこれが、「対戦型」となったら、市長同士で、「善政競争」に応じなければならなくなる。
たとえば、「減税合戦」となったり、だ。

実際に、バイデン政権になってからのこの1年で、アメリカの「州間移動」が注目されて、一方的な住民の「脱出」がはじまった。

たとえば、オレゴン州から、隣接するアイダホ州やネバダ州へという流れができて、最近では、カリフォルニア州やニューヨーク州からの「脱出」で、テキサス州やフロリダ州への移入が「万人単位」で増加していることが確認されている。

さてそれで、「ふるさと納税」の危険は、自分の住まう自治体の税収を減らしてしまうのが、「返納品の損得」という、「変な善政競争」になったこと「だけ」ではない。

最重要なのは、「本来の善政競争」の余裕となる「原資」を、自分が住まう自治体から「奪う」ことなのである。
すると、この「税制」の本当の目的はなにか?を問えば、「全国平準化」という、田中角栄が主張した「日本列島改造論」の「税制版」であることがわかる。

つまり、全国どこも同じで特徴がないことを「至高」とする、社会主義そのものの実現だ。
「旧社会主義圏」だった、東欧を旅すれば、歴史的建造物以外の「同じ」を実感できる。

それが、「平等の実現」だという、価値観は、まったくの「機械論」なのである。

「ふるさと納税」が「ふるさとを破壊」する。
よくもこんなことを「自慢する」元知事がいて、それを「本」にもしたものだ。

「支離滅裂」を、読解しながら「読む」とよい。
ただし、随所にそれがある。
福井県人は、このようにして欺されたけど、それが「税制」となって、日本国民も「被害者」になったのである。

大統領令13848の延長

前政権の行政令(大統領令)を、就任初日からことごとく否定して、1日で50本を越える大量の大統領令にサインしたバイデン氏であったが、昨年、1本の大統領令を「延長」していたことがわかった。
それが、なんだか「変」で、理由が不明なので書いておく。

2018年9月12日に、トランプ大統領が発した、選挙における外国勢力の介入を調査し、罰するための「大統領令」のことである。

ちなみに、気のはやいひとが、「大統領令」はなんでも発出できる「独裁」を可能とするので、トランプは独裁者だ、という「論」をいうひとがいるけれど、ぜんぜんちがう。
それなら、歴代大統領はみな独裁者になる。

わが国よりずっとはっきりした「三権分立」があるのがアメリカ合衆国だから、完全に機能しているかは「別」として、立法機関の「連邦上・下院議会」が決めた法に従って、その範囲での行政権を行使するのが「大統領の職務」である。

だから、本件の大統領令にも、まず「根拠法」が列挙されて、それらに基づいていることを前提としている。
大統領が「俺が法律だ」ということに、制度上もなっていないばかりか、あんがいと大統領権限は小さいのだ。

気のはやいひとが、「勘違い」してしまうのは、わが国の「議院内閣制」とぜんぜんちがうから、ということもあるけれど、それよりも、日本国民を「麻痺」させているのが、「法案」を行政府がつくることにある。

立法府である、「衆・参両院」が決めた法に、内閣以下の全省庁、それに都道府県・市町村、もちろん国民も従わないといけないのに、立法府に提出されて「審議」される法案自体が、行政府が書いたものという、おどろくほどの「矛盾」に、「慣らされて」しまっているのが、日本国民なのである。

アメリカ合衆国には、「議員立法」しかない。
わが国は、「政府立法=内閣立法」がほとんどで、議員立法は「珍しい」という状態になっている。

なお、わが国だって「(三権分立の)制度上」は、議員立法を旨とする「建前」があるので、「衆・参両院それぞれに法制局」があって、議員からの法案作成補助をもっぱらの業務とする部署があるし、「国会図書館」にいる「調査員」も、議員の法案作成に寄与すべく設置されている。

わが国最大かつ、すべての出版物を納入しないといけない「法」がある、国立図書館が、「国会図書館」なのは、国権の最高機関たる「立法府の議員立法」のためだからである。

それらが、なんだか「ムダ」になっているのは、前に書いたように、わが国最大与党の自民党が、「シンクタンク」の役割を、「官僚組織に依存」している「構造」に原因がある。

もちろん、この構造を、本来の行政府に戻す、ということがわが国存続のための最重要事項なのだけど、ほぼ「できっこない」のは、この構造が「利権」を生みだして、わが国の「政(界)、官(界)、産(業界)、学(術界)」を完全支配しているからである。

さてそれで、大統領令の話である。
当然に、当初、トランプ大統領が発した理由は、「2年後」の2020年大統領選挙を意識したものだった。

選挙後、「不正問題」を調査するために、国家情報長官の「報告」を前提とするが、なんだか「曖昧」になってしまって、この大統領令は「不発」に終わった感があった。

その理由が、オバマ氏が拡大再編した、アメリカ合衆国における「高級官僚制度」(SES:これを「DS」ディープステートという)で、超エリート官僚たちが、「報告執筆」の「非協力」をしたと、当時のラトクリフ長官が述べている。

結局、トランプ氏はホワイトハウスを去っていったけど、この大統領令は、「いつまで有効なのか」といえば、3年経った昨年の、9月11日で終了、というはずだった。

ところが、ホワイトハウスのHPに、昨年9月7日付けという「期限の直前」で、「継続のお知らせ」があったのである。
オリジナルとちがう部分は、「外国勢力による選挙への介入は現在までのところ確認されていない」が含められていることだが、なんとそのまま「1年間延長」をしたのだ。

これは一体どういうことか?
今年11月の中間選挙「前」に期限になる。

2年の延長ならわかるけど、どんな意味があるのか?
「アリバイ」か?
それとも、今年の9月になったら、「再延長」するのか?
だったら、最初から2年にしないのはどうして?

ちなみに、この書類には、バイデン氏の名前はあるけど、署名はない。
さらに、バイデン氏の名前の前に「肩書き」がない。
トランプ大統領が発出したときは、ホワイトハウス内で撮影したとみられる「写真」も公開されて、サインした書類を掲げて笑っていた。

はたして、「本物」なのか?
まさかホワイトハウスのHPが、何者かに乗っ取られている?
あるいは、ボケてしまったバイデン氏は、自分がなににサインしているのかほんとうにわからないのか?

などなど。

本物なら、誰がサインさせたのか?
「天に唾する」ことになるのかと、妙な期待がふくらんだけど、1年じゃあ、とため息が出るのであった。

悲惨な「五公五民」

江戸時代の「五公五民」は、悲惨な重税だったと習う。

いまと違って、江戸時代は(同時期の産業革命前のヨーロッパもそうだが)、農業国だった。
人口構成の8割が農民で、この比率はそのまま明治に引き継がれた。
なお、武士と商人の人口比が、両者の中で相殺できるのは、金銭欠乏で商人から「苗字」と引き換えに金を得たからである。

江戸が天下の中心になったとき、地方から大量の人口流入があったことは知られている。
すると、農民がやってきた、としかあり得ない。
そしてそのひとたちは、都市計画に基づいた土木工事から建設工事の人足として働いたのである。

また、男性ばかりだったというから、「一代限り」という条件が自動的についていた。
いつの時代も、どんな国でも、労働供給の「源」は、農村なのである。

一口に「農民」と言っても、土地を所有する自作農と、小作人では話がちがう。
この「小作人」を指して、日本的「農奴」だという学説が「定説」になっている。

本稿では、このこと自体を議論しない。
元は、イエズス会の宣教師による「発見」であったけど。
それに、なんでもヨーロッパの歴史に日本の歴史を「おっかぶせる」ことの「安易」もあるけど。

「農奴」とは、「封建制」のロシアやヨーロッパの農民を指している。
このひとたちは、土地に縛りつけられていて、もしも土地所有の移転があったら、農奴も漏れなくついてきたのだ。
それで、身体だけの「奴隷」とは、区別する。

大震災以来「絆(きずな)」が、日本人の精神的支柱になったかのような「スローガン」が街にあふれたけど、同じ字に「し」をつけると、「絆し(ほだし)」になって、番犬のように首輪につながれている状態になる。

「社畜」とは、このことか?

ひるがえって、GHQがやった「農地解放」とは、「農奴解放」だったともいえる。
「先祖代々の土地」が、都会のひとには宅地になったけど、「出自」についてはむかしからの地元の住民が、今でも厳しく区別している。

あそこの「家」は、~だから、とか、やたら詳しいのだ。

これを、ぜんぜんわからなく「した」のが、ペストで全滅したヨーロッパの「村」で、生き残って「流民」のようになったひとたちが、家ごと、農地ごと住みついてしまった「歴史」があるから、ずっとむかしからここに住んでいるという「歴史」をつくった「歴史」がある。

徳川家康の有名な言葉に、「百姓は生かさず殺さず」がある。

どんな計算で、「五公五民=税率50%」としたのか?は、さておいて、これは「ひどい」と学校で繰り返し(小中高と3回)習うのである。
それに、「用語」として試験に出るから覚えるのは、あくまで「五公五民」であって、「税率50%」とは習わない。

ついでに、「六公四民」とかという、もっとひどい事例も先生は説明してくれる。

農民は、基本的に「米」という「現物」で納付しないといけなかった。
米は、作物であり、食糧である。
収量の半分が税ならば、残り半分が自由になるかと言えばそうではない。
その中から、来年植えるための「種」を確保しないといけないからだ。

すると、自分たちで食べる分はその残りか?
そうではなくて、これから生活必需品の購入代を捻出しないといけない。
大方のものは自作したり村内で物々交換したりするけれど、「どうしても」は必ずある。

そうやって、米を作りながら米を滅多に食べられない、ということになった。
部品を作りながら、その部品は「作るだけ」ということができる遠因かと思われる。

実は、日本人のほとんどは、米を食べてはいなかったのである。

米をふつうに食べていたのは、人口にすればわずかな比率のひとたちである。
こんななかで、「豪農」がいたのは、「網元」と同じ構造があったからである。

たとえば、捕虜収容所で、収容されたひとたちから「リーダー」を指名して、このひとたちに「監視」させるのが、支配者にはもっとも「効率がいい」方法なのだ。

さてそれで、いまは、「国民負担率」というものがある。
これは、税負担だけでなく、あらゆる「公共」への負担を足し込んで、平均収入と割り算したものだ。
「所得税」の計算方式とはちがうので注意したい。

「財務省のHP」にもあるけれど、「公共」に含まれないNHK受信料とかの「公共料金」があるし、「財政赤字を加えると」という、プロパガンダも表記している。
「財政赤字」は政府の負担であって、国民には「資産」だ。

そんな中途半端な数字だけど、「信頼ある」財務省が発表している「国民負担率」は以下のとおり。
令和元年度(実績)    44.4%
令和2年度(実績見込み) 46.1%
令和3年度(見通し)   44.3%

気がつけば、もう既に我が国は、「五公五民」の世の中になっている。

高齢化と出生数の減少は、「福祉」を支える若者層の激減もあって、その統計的将来予測は、「七公三民」という驚愕の数字を算出している。
財務省が、「財政赤字込み」にしているのは、いただけないけど、
令和2年度(実績見込み) 66.5%

おおむね、上段の「七公三民の予測」と合致する。

これでまともな生活ができるのか?
ただ、ここでいう「まとも」とは、昭和末期の「ふつう」を指す。

もしや、二度と「昭和のふつう」に戻れないかもしれない。
可処分所得が、せっかく稼いだ内の3割しかないまでに減ると、およそ経済をささえる「消費」を、したくともできない。
サラリーマンなら、容赦なく7割が自動引落で「源泉徴収」されてしまう。

政府には、奴隷制社会の理想的境地だ。

国民は、江戸時代の農民負担がうらやましいことになる。

観光は「産業連鎖」の頂点

「食物連鎖」の頂点に君臨する、のは百獣の王「ライオン(肉食動物)」だと習う。

むかし、テレビで散々やっていた「大自然もの」(もちろん今でもやっているらしいけど)は、各社が独自製作のものと外国から買ってくるものと、いろいろあった。
その中で、重要なフレーズが、「人間が食物連鎖を壊している」だった。
悪いのはぜんぶ「人間」だから、これが嵩じて「機械に人間が殺される」というS Fがたくさんできた。
それでか知らないけれど、ウィルスを利用して人間の虐殺を実行する人間が出てきたのは、ただの「金持ち」ではなくて、「良心」だということになったのである。

まぁ、とりあえずこないだ書いた、英国の弁護士が、首相以下をI C C(国際刑事裁判所)に提訴して、受理された件がそれである。

今回の話は、昨日書いた「観光立国はあり得ない」ことの補足だ。
それが、「産業連鎖」の頂点に君臨するのは「観光業=人的サービス業」である、ということだ。

ライオンをはじめとする、肉食動物「しか」いない状態になったら、野生の動物界は成り立たない。
これと同じで、すべての産業からの恩恵を受ける、「観光業=人的サービス業」だけでは、産業界が成り立たないのである。
だから、結論をはじめに言えば、重要なのは「産業の裾野」だと言いたいのである。

これは、「六次産業」という概念を意味する。
「産業分類」のことである。
食糧や食料に深く関するのは、第一次産業たる「農林水産業」である。
文明の利器を生産しているのは、第二次産業の「鉱工業」だ。

「鉱工業」に「鉱」の字があるのは、材料を「鉱山」とかの「資源」に求めるからである。
また、その「資源」を採取するにも、「工業力」の賜物である機器がないといけない。

我が国は、明治のむかしから資源がない国とされてきたけど、たとえば、世界最大だった「佐渡金山」を江戸時代だけで掘り尽くしてしまった。
それに、「国際海洋法」ができて、「領海」と「排他的経済水域」を足せば、極東の小国どころか、世界6位の面積となるのである。
もっと言えば、メルカトル図法の「歪み」を修正するソフトを用いて、たとえばヨーロッパ大陸に日本地図を移動させたら、実は我が国の「巨大さ」、逆に言えばヨーロッパ(旧大陸)の「狭さ」が確認できるというものだ。

つまり、「小さい」「狭い」国土だという思い込みを、子供のときから刷り込まれている。
これは、一種の「危機感」を煽って、「努力せよ」というポジティブな発想ならまだ良いけれど、卑下するようなことになったら現実逃避になってしまう。

小さくて狭い、という思い込みが、海洋資源を放置して、本来の国際取り決めである、「資源管理義務」まで放ったらかしにしているのである。
それで、思い出したように「南鳥島の水没阻止」とか、外国船による勝手な資源採取を問題にする。
前提となる常識が、ズレているから、そのときそのときの「都度、都度」になるのは、「法治」の概念からしたら異常なのである。

そんなわけで、一次産業と二次産業は、分かりやすい「分類」となっている。
逆に、第三次産業が分かりにくいのは、第一次産業と第二次産業「以外」という、荒っぽい分類だから、第三次産業「自体」のせいではない。
どうしてこうなったかは簡単で、今でこそ「三次産業」と言われる「産業」が、産業分類を作るときに「産業」とは言えないレベルだったから、「その他」になっただけである。

ところが、今や「先進国」の産業構造は、就労者の6割、産出価値の「7割」を、第三次産業が担っている。
それで、もっとも効率よく稼いでいる「金融」と「I T」を除いて、「人的サービス産業」と再分類している。
そして我が国では、国際比較でのその生産性の低さ、が問題視されているのである。

一次産業+二次産業+三次産業=六次産業 これを「掛け算」にしてもいい。どちらにしても、「全産業に君臨する」という意味は、「六次産業」ということでもわかる。

しかし、よくよく考えれば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物の生産性は「高い」のか?
草食動物の数を適正化させる、という意味での「生産性」という意味だ。
基本的に「大自然」というときの「自然」は「放置」の意味だから、人間の価値観である「生産性」はあてはまらないけど、「かわいそう」だからと言って草食動物しかいないのも、「自然破壊」になるだろう。

すると、ライオンのような観光産業を持ち上げるのは、「百獣の王」と同じで、「産業の王」といえばそれでいい、としか意味はない。
けだし、ライオン自身がそんなことを「思考する」能力を持ち合わせてはいないだろうけど。

結果的に、「票が欲しい」というだけになるのは、就業者がたくさんいるからだ。
観光業を「補助金漬け」にするのは、公的「買収」だといえるし、業界ごと網掛けされた「奴隷化」ともいえる。

これが、「観光立国」の正体なのである。

魚が目的ではない沼津観光

この期に及んで菅前首相が、「観光で地方創生を!」との世迷い言をネット番組で発言していて、これを、「持ち上げる」ひとがいる。

ホテルに就職してから独立してもずっと、この方面に携わってきたから何度も言うけど、「観光立国」というのは、「うそ」である。
もっといえば、日本人は「観光では喰えない」のだ。

それが証拠は、世界最大の「観光立国=スイス」とか「フランス」の、主要産業は、ぜんぜん「観光業」ではない。
あの、ピラミッドがあるエジプトだって、主要産業は「観光」ではなくて、「農業」なのだ。

いってみれば、「観光」は、オマケの「追加分」にすぎない。

だから、オマケに依存するように仕向けるのは、まったくの「愚策」だし、けっして国民を豊にしない。「国富」の話と観光は、まったく別のことである。

にもかかわらず、わが国が衰退をはじめると「反比例」して、それまでなにもしていなかった政府が、「観光局」を「観光庁」にして、どんどん予算を増加している。
それで、観光業が栄えたかといえば、単なる「インバウンドの効果」でしかなかったので、やっぱり「衰退」を加速させている。

ところが、他人の成果を「盗む」ことに長けている役人は、「インバウンドの成果」すら、自らの「手柄」として、さらなる「予算どり」の根拠として、権限の拡大と同じ意味の「天下り先の確保」をしっかりやって、本当の「成果」には興味を示さないのである。

旅行業とかホテル・旅館などを主たる就職先としてきた、大学の「観光学部」とかの卒業生は、すっかり採用がなくなったから入学希望者が減るかと思いきや、あんがいと「健闘している」のは、政府が予算をたれ流す「地方創生」の名の下にある「地域活性化事業法人」への就職が人気になっているからである。

この「カネ蔓」に目をつけて、大手旅行会社が「コンサル」とか、「アドバイザー」として、従業員を派遣して、高額な人件費負担を減らす努力をしていたら、とうとう「専門事業」として「本業の転換」をさせると発表した有名旅行会社まで登場した。

政府観光庁の「下請け」になるというのが、果たして「事業転換」といえるのかは怪しいけれど、社会主義体制下にあっては、ありえる「経営判断」であるし、これを「株主」が反対しているという話を聞かない。

もちろん、観光庁からの天下りをたっぷり採用することが、事業基盤の強化につながる一番重要な「政策」となることは想定の範囲にある。

そんなわけで、何度もいうけど、政府の予算がある限り、という「持続可能」な事業となって、表向きに大学生の新規採用もあるだろうとの「予測」から、高校卒業前に進学先を決めている、ということだろう。すると、本人の希望もしかりだけれど、「親」(いまは「保護者」という)の「意向」もないはずはないから、一家の方針として、という意味もある。

世の中を「泳ぐ」ということを推奨する両親という「おとな」の影響が、多分にあるという証拠なので、これが我が国の「社会主義化」を促進させる原動力なのだった。

さて、旅行会社の経営が傾いたのは、コロナによる旅行需要の激減があったのは承知しているけれど、その「前」から危ぶまれていたことを忘れては議論にならない。ホテルや旅館の経営者たちも「しかり」なのは、自分達の商売の「本質」を考えたことがない、という共通があることだ。

このことは、「深刻」な問題だけど、誰も気づいていない。

驚くことに、例えば旅行会社は、いまだに自分達は「旅行商品を売っている」と思い込んでいる。もちろん、宿泊事業者は、「部屋を売っている」と思い込んでいるのだ。

この目線で「しかない」ことを一切反省しないから、どんなアドバイスも役に立たないで、どこの観光地も発展しないのである。

ちゃんとした旅行をしたい消費者は、旅行会社で「旅行商品なんて買っていない」からである。もちろん、ちゃんとした消費者は、ホテルや旅館の「部屋を買っている」なんてことはない。

このタイプの旅行希望者は、旅行会社で「圧倒的な情報」を買っていたのだし、ホテルや旅館だって、「利用目的」に応じた選択をしている。

それを旅行会社が提供しなくなったので、本当は「困っている」のだけれども、「大手」ほど、どこも解決の手を差し伸べてはくれないのだ。

「人件費コストに見合わない」というのが、もっともらしい理由なのに、社内で「A B C(Activity Based Costing)]とかを導入したという話も聞いたことがない。

そんな状態でどうやって「人件費コストを営業成果」と比較評価しているのか?

わかる「はず」がないなのに、あたかも知っている「ふり」をして、社員と株主ともども「誤魔化している」のである。だから、社員と株主は「誤魔化されている」ことになる。

しかし、一方で、なんとなく生きている圧倒的多数のひとは、「条件反射」という繰り返し訓練をさせられているから、例えば「沼津」に旅行に出たら、「魚を食う」ということが頭から離れない。もちろんこれが「焼津」とか、はたまた「三浦」でも、漁港ならどこでもいい。

「生ウニ」に「イクラ」や「サーモン」がどっさり乗った「どんぶり」が人気らしいけど、沼津は北海道にあるのではない。ましてや、「人気」だというサーモンは、寄生虫が必ずいて天然ものなら決して「生食」はできないから、「養殖もの」を好んで食すという頓珍漢をやっているのに、これを不思議に思う消費者が少数派になっている。

氷点下の寒風ふきすさぶ中に、天然ものの鮭を何日もさらして「ルイベ」を作ったのは、寄生虫を凍結・殺虫させて「安全に食べる」ための工夫であった。

さては、沼津グルメは、「魚」とは別ジャンルにあるのだ。

教えてあげない。

ギネス更新のトラックデモ

カナダ人の「お怒り」が、アメリカに「伝染」して、ヨーロッパにも、という具合になってきている。

『コンボイ』(1978年)は、「トラック」が集まってできる「船団」の意味だと知らなかったので、ポスターを観てもピンと来なかった。
「ふとしたことをきっかけに」という、ドラマの発端は、ストーリー展開で重要なことだろうけど、後からできた『ランボー』(1982年)の方が「先」にイメージ付けがされている。

この2作に共通の、理不尽な「保安官=権力」に対抗する、という意味では、「西部劇」とおなじなので、幸せだった日本人には単なる「娯楽」にしかみえない設定だったけど、不幸にも「権力の横暴」が見えてきた昨今、妙に「リアル」な「怒りの爆発」なのである。

やっぱり、「ふとしたことをきっかけに」トラックに「煽られる」恐怖を描いたのは、スティーブン・スピルバーグの『激突』(1971年)で、NBCが放送した『警部マクロード』(1970年~77年)役のデニス・ウィーバーが、こんな役をやっていたのかと、やっぱり「順番」が逆になっていた。

『激突』は、その後の『ジョーズ』(1975年)の「先行作品」とも言われていたけど、ちょっと「後出しじゃんけん」のような気もする。
1975年から79年という、意外に短い期間に10作もできた『トラック野郎』シリーズは、やっぱり日本が「幸せな時代」を描いていて、もう決して戻らないから、妙にノスタルジックになれる作品集になってしまった。

   

23日に西海岸のバンクーバーあたりからはじまった、トラックの抗議デモは、東海岸側の首都オタワを目指す、「大陸横断」超長距離の「旅」となっている。
その距離は、約4000㎞超。
鹿児島から稚内までの「往復」よりも遠い。

それで、カナダのトラックデモは、『Freedom Convoy』という名前がついて、参加する台数がどんどん増えた。
5万台を超えて、「パレード」の総延長は70㎞になり、沿道で応援するひとは140万人に達したという。

過去の車列のギネス記録は、エジプトでの7㎞ほどだったので、一気に10倍の「記録」になったけど、アメリカ側からも続々と「参加」していから、どこまで伸びるかわからない。

いまは「冬」で、関東地方も寒いけど、カナダではマイナス20℃~30℃がふつうだから、「沿道で応援」というのは「ふつうじゃない」ことだといえる。
それに、参加するドライバーたちを援助するための「基金」もできて、毎日約1億円が集まっている。

当初、マスコミは「無視」を決め込んでいたけれど、あんまりにも巨大化して、とうとう無視できなくなった。
それで、こんなことになった「理由」の「矮小化」というプロパガンダを開始している。

それは、「ワクチン義務化への反対」という「だけ」の理由説明である。
「トラック運転手」という、職業に対する「差別」もにじみ出ている。
低学歴で高度な仕事に就けない、あらぶれ男たちの「我が儘」だということにしているのだ。

「事実」は、ぜんぜんちがう。
特に「冬期」のカナダは、新鮮な野菜の9割も、南側のアメリカに依存しているから、陸路でかならず「国境を越える」ことが必須となる。
それでもって、「8割」のドライバーは、とっくに「接種済み」だった。

「8割」という数字は、彼らの常識ではありえないほど「高い」のだ。
日本人の「潔癖症的全体主義」をあてはめてはいけない。
そこに、カナダ・アメリカの双方が「義務化」ということを言い出して、未接種者には国境での2週間の隔離を決めた。

温度管理ができないから、荷台の野菜が凍って傷む。
運送業の職業倫理に照らして、加えて「自由」の概念にも照らして、いい加減にしろと、「堪忍袋の緒が切れた」のだ。

なんども説明するけれど、「自由主義」の「自由の概念」とは、「他人から命令されない」という意味の自由のことで、自由放任・好き勝手ができる、という意味ではない。
自由の「本場」では、このちがいを誰もが知っている「常識」だ。

残念ながら、日本では、自由放任・好き勝手、という意味が「上」をいく常識がある。
彼らが諸手を挙げて「自由を叫ぶとき」と、日本人が「自由を主張するとき」の、意味がぜんぜんちがうことは、特に意識すべきことだ。

自分たちの仲間への「攻撃」という意味もあるけど、両国の「左派=社会主義」政府の強権的な理不尽に「ぶち切れた」というのが本当の「理由」なのである。
だから、一般人の共感を得て「沿道」にひとが集まって、自分の財布から寄付をしているのである。

これに「共感」して、アメリカからもカナダに向かうトラック野郎がいるのは、そういう意味で、マスコミの説明のような「浅はか」ではない。
そして、ヨーロッパにも「伝染」しようとしている。

「イケメン」だけど独裁的傾向がある、首相のトルドーは、自身が「感染」したとして、「家族みんな」で秘密の場所に「自主隔離」して、行方がわからないから、「濃厚接触」はどうするのかも適当になっている。

けれども、オタワへの「橋」の一部を「封鎖」する、という「姑息」をやって、周辺住民に不便を強いる「強権」も発動している。
英国の女王陛下の代理人たる、「カナダ総督」が、伝家の宝刀を抜いて「トルドー解任」をするのでは?という「噂」があるのは、国民の「期待」があるからだ。

いまさら「まんぼう」をやる、日本政府には、「保身」しかないことがわかるし、あおれば儲かることを知ったマスコミの「強欲」が、ギネス更新のトラックデモを伝えない理由がここにある。

ロシアには媚びないのか?

ロシアが「ソ連」だったころは、「媚びる」ひとがたくさんいて、おかけでロシア語教室で食べていけるひとも多かった。

国名を「ロシア」に戻したときに、前政権時代の秘密文書が、いきなりオープンになって、「スパイの噂」があったひとたちの疑いが晴れて、詳細に「スパイだった」ことが晒された。

なかでも有名人は、向坂逸郎というひとで、日本社会党の理論的指導者とも言われていた。
なお、秘密文書で「最高度のスパイ」と指定されていたのに、一切語らず世を去った、瀬島龍三というひともいる。

向坂はいかにも「頭の良さそうな」老人風情で、共産社会の理想像を真顔で語っていた。
ただし、共産党のえらいひとのように、「豪邸住まい」という共通がある。

突然だが、向坂の「ソ連には、売春がありません」という話が、理想社会の「象徴」だったのは、特に敗戦後の貧しかった日本では、戦災で夫や親を失った女性がはじめる、よくある「個人事業」だったからで、顧客は貧しい日本人ではなく、「強いドル」を持っていた米軍将兵であった。

横須賀を皮切りに、特に横浜で「活躍」した、「メリーさん」は、日本が豊かになるにつれ、日本人でお世話になった紳士も多かったというけれど、「士官」以上しか相手にせず、日本人でも背広にネクタイを着用していないと断るという「ドレスコード」設定の気高さも「伝説」となったのである。

それが象徴は、昭和22年のヒット曲、『星の流れに』だった。
作詞、清水みのる、作曲、利根一郎、歌は菊池章子。
この「悲劇」を題材にしたのが、ブームとなった森村誠一の『人間の証明』で、映画は松田優作の出世作でもあった。

  

確かに、向坂が言うように、ソ連には、「公娼」は存在しない。
しかし、「私娼」はたくさんいて、衛生管理もままならないため、外国人が持ち込む「ペニシリン」が、闇取引されるほどの需要だった。
「AIDS」という病気がなかった時代のことである。

社会主義・共産主義の「建前上」、存在しない商売の結果としての治療とか、予防に必需品だからといっても、「正規」での入手が困難だったのである。
けれども、当時、モスクワなどに駐在していた外国人(日本人も)なら、公然の秘密、いや、常識だったろう。

実際に、企業は「経費」で、これらの薬品を購入して、駐在員に渡していた、と聞いたことがある。

だから、向坂の発言は、駐在経験のあるひとには、「お笑い草」であったけど、思想に染まったひとたちは、向坂を持ち上げても、決して「嘘つき」とは呼ばなかったという、お笑い草がある。

これに「輪」をかけたのが、戦前に活躍していた女優の岡田嘉子であった。
恋多きこの女優は、演出家で共産主義者の杉本良吉と、シベリアからソ連に「亡命」したけれど、昭和42年に日本のテレビに突如出演し、その後の昭和47年に美濃部亮吉都知事らの「運動」で帰国した。

まことに、都民は「まとも」な人物を都知事に選ばない、という習性がある。

長く杉本は、なぜか「英雄的な獄中死」とされていたけど、岡田の証言で、すぐさま銃殺されていたことがわかった。
イタリア共産党創設者のグラムシならば、資本主義政権下の獄中死としてまだ意味があるけど、共産党政権下の獄中死とは、「スパイ」を疑われて荒っぽく始末された、という意味だ。

彼女が生き残ったのは、当局から極秘任務をおびていたからという。
実際に、戦後、モスクワ放送の日本語アナウンサーをやって、プロパガンダを仕掛ける側にいた。

こんなふうに、なんだか暗い話になるのが、旧ソ連だけれども、それが「共産国」というものだから、仕方がない。
兄弟国として「蜜月」だったけど、中ソが激しい「仲違い」をしたのは、左翼界隈でかならず起きる「内ゲバ」の拡大版にすぎない。

「内ゲバ」が発生するメカニズムは、思想的な観念でしかないのが「共産主義」という「宗教」だからで、活動家は、かならず自分の「思想=理論」が正しい、という主張をもって、けっして譲らない。
今様で「1ミリも」譲らないのは、譲れば「全否定」されて、下手をすれば命がないからである。

それで、この体制には「自由剥奪」という「刑罰」がある。

岡田嘉子も、10年の自由剥奪を言い渡されたというけれど、幸いにも3年ほどで出てこられた。
だが、人格がどこまで「破壊」されたかはよくわからない。
一般人なら、3ヶ月で発狂するというのは、ソルジェニーツィン氏の言葉であった。

この「邪悪」は、どこからやってくるのか?と問えば、それは、「共産主義思想そのもの」にあるから、ソ連のこうした「現実」は、思想の賜物である。

しかしながら、人間を欲望で支配する、という、「より邪悪」な発想は、素朴なロシア人ではなくて、「酒池肉林」をリアルに実行したことのある中国人ならではの壮大すぎる歴史と民族的趣味からやってきた。

そんなわけで、ソ連に「媚びる」のとはちがって、格段に「うまみ」があるのが、中国に媚びることで生まれたのは、意識的にそうさせて「役に立つ白痴」をコントロールしているからである。

だから、いま、ロシアやプーチンを「悪者」扱いにするのである。

こうしたなか、昨29日、サントリーホールでのコンサートに久しぶりに行ってきた。
アマチュアオーケストラとはいえども、けっして侮れない「東京グリーン交響楽団」の年2回ある定期演奏会の本年初回だ。

今回の演目は、なぜかすべてロシア人作曲家(ボロディン、カバレフスキー、チャイコフスキー)という「選曲の妙」を感じながら、「農奴」の土臭くて、ロシア的過剰な装飾のサウンドに浸ってきた。

「スキー」が付くのはポーランド貴族の系統だとわかるのだけど、ボロディンとチャイコフスキーは、革命前ロシア帝国時代、カバレフスキーは、ソ連時代の作曲家だから、当局の指導のもとに作曲したのである。
どんな「政治的解釈での要求」にこたえたのだろうか?

全部で10曲の組曲『道化師』の第2曲『ギャロップ』は、小学校の運動会でかかる「定番」の3大音楽のひとつだから、日本人もソ連共産党の指導を受けたと同然なのだ。
ちなみに、他の2曲とは、オッフェンバック『天国と地獄』、ハチャトリアン『剣の舞』である。

もちろん、ハチャトリアンもソ連の作曲家だ。
これを、子供の脳に埋めこむことを、文部省がやったことは記憶していていい。

そんなわけで、ウクライナ情勢で、プーチンのロシアを「悪者」にして、「邪悪」な戦争を仕掛けているのは、残念ながら「産軍複合体」とお仲間の、民主党政権と共和党主流派なので、「うまみのない」ロシアに媚びる者がいなくなったのであった。

「音楽に国境はない」けれど、だから利用するという「邪悪」は、経済力がずっとある国で、より進化していると思いながら、熱演を聴いていた。

一曲目の『歌劇イーゴリ公序曲』の出だし、弦楽器の「枯れた感じ」が、なんだかウィーンフィルを彷彿とさせたけど、だんだんと「澄んで」しまった。
個人練習が音量的に困難な金管楽器も、その響かたがプログラムの進行に沿うように「向上」したのは、集中力のなせる技だろう。

その意味で、どこで練習するのかわからない、ティンパニの「切れ味」が秀逸で、見事な「思い切りのよさ」があったのは、演奏者が女性だったからかもしれない。

やっぱり生で聴くコンサートっていいものですね。

「祝?」国家警察の誕生

今年度発足予定の、「サイバー警察部隊」は、「国家管轄」の特別部隊になるという。
すなわち、戦後初の「国家警察」の誕生である。

わが国を代表する「日本経済新聞」での報道記事の「初見」は、昨年の6月24日「朝刊」で、翌25日には、「社説」でも扱っていて、基本的に「歓迎」の主張をしていた。
そして、昨28日夕刊に、「いよいよ」という記事がでた。

社説の「主張」が、もっともなのは、従来の「縦割り」体制の不備と、被害実態の把握が出来ないこと、それに、被害企業が「公表しないこと」を挙げていることだ。
もちろん、「諸外国の事例」は、はなから国境の概念が希薄な「サイバー上」のことだから、「国家警察」が扱うという事実もある。

国境の概念がないから「国家警察」というのは、なんだかよくわからないけど、「地方警察」では間に合わない、ということしか「それらしい」理由はない。

警察組織がややこしいのは、階級と所属が合致しないことによる。
最高の階級は、所属組織としては、「東京都警察」にあたる「警視庁」のトップである「警視総監」だ。
しかし、東京の治安に関する「最高責任者」は、「都知事」なのである。

これは、その他の各道府県もおなじで、道府県知事の下に道府県警察本部長がいる「建て付け」だからだ。
なぜなら、各都道府県警察の「予算」は、それぞれの各都道府県の管轄だからである。

それで、警視総監の上に、「警察庁長官」というひとをつくって、このひとが「警察庁」のトップとして、「管区警察局」とか、各都道府県警察の「連絡役」ということになっている。

上から見ると複雑だから、下の「採用」という目線でいけば、各都道府県警察の直接採用か、国家採用かで分かれる。
もちろん、各都道府県警察採用なら、いわゆる「地方公務員」のなかに分類されるし、国家採用なら、当然に「国家公務員」だ。

一般職の公務員と同様に、「上・中・初」の三段で別々に採用が行われるが、都道府県警察採用では、「上」がない。
ただし、「術科(柔道・剣道)」という枠での「中・初」がある。
「上」は、いわゆるキャリア、「中」は一般大卒、「初」は高卒だ。

つまり、「警察官僚」とは、キャリア採用の国家公務員を指す。

なお、国家採用の「中と初」は、「皇宮警察」に配属となることがある。
警察庁直轄なのだ。

すると、都道府県警察の直接採用者たちは、おおむね「警視」あるいは「警視正」までで定年退職となる。
警察署長、あるいは本部の部長級である。
それより「上」が、国家採用の「上」のひとたちで占めることになっている。

ちなみに、警視正の「上」は、警視長、その「上」が警視監、その「上」が警視総監である。

東京の警視庁を除いて、残りの「警察本部長」は、たいがいが「警視監」の階級だけど、警察庁「本庁」の役職的には、「課長級」である。
なにしろ警視総監を除くと、「支店長」が46人いるので、長官が出席する全国本部長会議は、「ロの字型」にずらーっと並ぶ。

これは、「日本銀行」の「支店長会議」とおなじだ。

なので、警察庁の「部長級」とか「局長級」の凄みは、県警本部長が雑魚になることで理解できる。
「本庁(本社)」には、「警視監」がうじゃうじゃいるのである。

だから、『踊る大捜査線』の織田裕二演じる「青島クン」と、柳葉敏郎演じる「室井審議官」との関係とか、デフォルメし過ぎではあるけれど、北村総一朗以下「スリーアミーゴス」は、まんざらではない話なのである。

とはいえ、キャリア官僚の世界は、なんでもあり、なので、「他省庁との人事交流」という名目とかで、「出向者」の受け入れや「差し出し」もやっているけど、地方の「中」から国家への「出向」もある。

都道府県警察採用の警察官が、警察庁や内閣情報調査室に「出向」するし、「在外公館」の警備担当書記官は、警察庁から外務省への「出向」なのだ。
ただし、国際慣例上、「軍」(自衛隊)からの「駐在武官」は、直接派遣されるので、外務省への出向という「オブラート」での在外勤務ではない。

それでもって、キャリアなら、「本部長」とか、そのほかの役職が、たとえば、財務省とか外務省とかという、ぜんぜんちがう「畑」のひとがいきなりやってくることも珍しくない。

これで「業務が廻る」のは、「組織だから」であるけれど、そこが「官僚」という「テクノクラート」の仲間うちの世界なのだ。
わからないことは、若い警察キャリア官僚が、そっと教えてくれるから、支障がない。

むしろ、いいなりで「個性を出さない」努力をすれば、無事任期をまっとうして、出身省庁に帰れるし、それが、また「キャリア」となっていく。

そんなわけで、エライひとは山ほどいるから、「部隊」として実動するのは誰なのか?という問題になる。
「本庁」に設置の「サイバー警察局」には240人、そしてなぜか「関東管区警察局だけ」に設置の「サイバー特別捜査隊」には200人体制とするようである。

こんな「人材」がどこにいたのか?
とりあえず、自衛隊のサイバー部隊から出向させるのかしらん?

けれども、「どんな法律」で検挙の根拠にするのかということが、あんがいと「灯台もと暗し」なのではないのか?
なぜなら、「警察法改正」という「手段」をもって、「捜査権限を持つ」ことの根拠としているからである。

法務省(=検察)が所管する、「刑法改正」ではない。
それに、さんざんに「スパイ防止法」の制定を言っても、いっこうに立法の議論にならない。

根っこをたどれば、おのずと「憲法」の話に行きついて、例によっていつもの野党たちは、審議に応じない、という戦術をとって、なぜか「絶対安定多数」の自民党が、これを、「認める」ということをやっている。

実は「55年体制」のままなのである。

つい先日は、「スパイ防止法」がダメなら、「ハニトラ防止法」を制定せよという、笑えない提案をした評論家がいた。
両者とも、反対するひとたちは、「おなじ理由」が思い浮かぶから、なかなか「スパイス」が効いたものではあった。

どちらにせよ、「特別高等警察(特高)」と「憲兵」の苦い想い出があるひとたちが「絶滅」したので、このへんで「国家警察」をつくるには、それなりのタイミングである。
ただし、捜査分野が拡大すること必定なので、「特別高等警察」と「憲兵」の歴史を紐解くことぐらいはしたほうがよさそうだ。

なお、戦後の占領期における「軍の解体」と、「警察の再編」をGHQはセットで実行した。
アメリカ軍の意向で「日本警察」は生まれて、さらに、軍に対抗した日本監視のためにCIAがつくったのが「東京地検特捜部(=法務省)」であったことは、脳の中にあっていい。

要は、アメリカの「縦割り」が日本に持ち込まれたのである。

この「矛盾」をいまだに解消できないばかりか、ずっと「上塗り」をしているので、なんだかわからないことになるのだ。
「サイバー」といえども、他国からの「攻撃」ならば、「軍」の管轄で「防御」と「反撃」となるのが、「諸外国のふつう」だけど、そうはいかないからこうなった。

そもそも「インターネット」は、アメリカ軍が開発して、「その一部」を民間に「解放」したことがはじまりだ。

とはいえ、いろんな「理由」をつくって、関東管区警察局から全国の管区に広げるのが当然なのは、国内犯なら、関東以外でやればいいからだ。
でも、「警察法改正」で「捜査」をしても、どうやって「起訴」するのか?
外国にいる外国人をどうやって逮捕して、どうやって日本の裁判にかけるのか?

むしろ、検察にサイバー捜査隊をつくらないことの不思議があるのは、GHQ(軍)とCIA(国家安全保障)の対立を、いまだに引き摺っているからなのかと疑う。

「特定野党」は、この「改正」にどう対応するのか?はかんたんに予想できるけど、暗いご時世になること確実である。
それは、なんだかよくわからないけど、「別分野」で理由をつくれば、「国家警察」を編成できる、という「前例」ができたことは、確か、だからである。

社会主義国を目指す、と明言した首相方針に従えば、「警察国家」になるというのは、「セット」だ。

だからどんどん「警察国家」になっていく。
そのための、「憲法改正」は、間違いなく「改悪」なのである。

施政方針演説の「怪」

17日、岸田文雄首相の初となる、施政方針演説があった。
その後の、野党「代表質問」のグダグダは、相変わらずなので実は内閣を援護射撃していることになっている。

国会「演説」が、演説だったのはずいぶん昔になるかもしれない。
ラジオもテレビもなかった時代には、「生」で演説を聴く、という当たり前があったので、「原稿の棒読み」なんて絶対に許されなかった。

むしろ、政治家たるもの、演説で聴衆の引きつけができなくては、そもそも選挙に勝てない。
どういう「訓練」を受けるのか知らないけれど、初出馬で初当選して大統領になったトランプ氏には、当選前の「一般人」の夫人と愛娘の「演説」が、実に「お見事」なのだから、プロの政治家も一目置くことになるのである。

「話芸」というジャンルでいえば、落語、講談、漫才といったバリエーションがあるわが国では、「演説」というジャンルも生まれて、それが、学生には「雄弁会」という倶楽部で「弁舌」と「論理」を鍛えることになったのである。

だから、「雄弁会OB」たちが後に政治家になるというパターンができたけれども、「しがらみ」のせいで、ぜんぜん「雄弁」な演説ができないばかりか「意味不明」になって、なんだかなぁを後輩たちに見せつけた。

こんな「劣化」を自分はしないと、心に誓って政治家になっても、やっぱり「しがらみ」に負けて、なんだかなぁに「感染」してしまう。
それで、とにかく出世すればいい、という安易が論理に優るようになっている。

衆・参の「両院制」という高度な議会制をとる、わが国は、年初にはじまる「通常国会」冒頭で、首相が向こう一年間の「政府方針」を表明するのが、「施政方針演説」だ。
臨時国会や特別国会での首相演説は、「所信表明演説」といって区別する。

「両院」なので、同じ内容の演説を2回行う。
両院議員が参集する方式で1回としないのが、なんだか「権威主義的」なのだ。
まぁ、両院議員の数が多すぎて「一堂に会せない」ということもあるかもしれない。

国会議事堂は、昭和11年に完成したけど、この年は第19回衆議院選挙があった。
このときの議員定数は、466人。
現在は、465人なので、数は変わらないが、いまのように年齢がくれば自動的に選挙権を与えられる「普通選挙ではなかった」ので注意がいる。

選挙制度がぜんぜんちがうけど、もしや、国会議事堂の「キャパ」が議員数の、優先的制約条件になっている?

そんなわけで、2回、きっかり同じことを言うために、「原稿」を「読む」ことが演説となった。
つまり、「音読」ができないといけないのである。
それでも読み違いがあって、「議事録」に残るとこまるから、読み終えた「原稿」を速記者に手渡すのである。

企業とかの「議事録」とちがって、国会やら地方議会の議事録は、テープレコーダーがない時代からのものだから、誰が何を言ったのか、について淡々と書き記す。
かいつまんで「編集」してはいけない。

しかも、国会は「国権の最高機関」にして「唯一の立法府」なのだという「建前」があるので、ここでの「発言」には、法的な意味がある。
マスコミが「あげ足を取る」のは、ここに根拠があるのだ。

だれが原稿を書いているのかは知らないけれど、読み間違えないように1回は読んで、難しい字には「ルビ」を振ったりするだろうから、内容の理解は別としても、「文責」は首相にあるのは当然だ。
もちろん、「内容の理解」だって、している「はず」だということになる。

だから、本人が理解しているかしていないかは、もう問われない。

しかして、何を言っているのか不可思議な箇所が随所にある。
冒頭からの新型コロナ対策は、前提としての病気の実情を相変わらず無視している。
北野武がいう「ふつうの風邪」発言に、「勇気ある」という評価がつくことに政府の「強権」を嫌う「国民の声・本音」がある。

しかも、「水増し」指示している死亡者数といった「統計の不適切」をどうするのかに言及はなかった。

「新しい資本主義」は、首相の経済ブレーンが何者かを「自己紹介」したようなもので、それは、「資本主義」という左派用語をそのまま用いたことで確認できる。
自由経済のわが国首相なら、正しくは、「産業資本主義」を指さなければならない。

当然に、「新自由主義」の定義すら、左派が都合よくいうものであって、この点、「新自由主義」を常識とする世界とは別に、国家が分配する「社会主義国」として生きていく、という「歴史的表明」になった。

新しい資本主義だから、経済安全保障が重要なのではなく、どんな体制であれ「国」として、経済分野でも安全保障を重視するのは当たり前すぎる。
むしろ、軍事的な安全保障の前提として、もっとも重要な国家課題だ。
この認識が薄すぎることの表明は、外国政府が「安堵」したことだろう。

それで、社会主義をやるから、科学技術やイノベーションも、政府主導だというのは、「筋が通っている」けど、それこそが「衰退」を加速させる。
スターリンの「5ヵ年計画」が用語として登場した。

国家・政府が仕切る経済だから、賃上げもしろ、と企業にいうのは「アベノミクス」と新味はない。
ただし、「労働力の流動化」を入れたのは、新しい。
人の能力を、「スキルだけ」に求めるという、デカルト的「機械化」が、「人への投資」なのだというから、日本的見地からならどうかしている。

「国家公務員試験」を通ること、という感覚そのままだ。

そしてこれを、「非財務情報」として企業に「開示させる」という。
民間が「唯一の」価値産出分野だということを知らない、官僚が書いた原稿だとバレるのだ。

それにしても、演説内にもある「歴史的スケールでの経済社会変革」という、「にっぽん社会主義人民共和国」にしたいと宣言した、おびっくりな「施政方針演説」であった。

世界最大の「邪悪な民間団体」、『ダボス会議』が、あたかも公的機関のごとく登場したのにも、唖然とする。

この「ぶっ飛んだ演説」に、既存野党のツッコミに迫力がないのは、野党の野望を飲み込んだからである。
みえない「大政翼賛会」になっている。

それで、身内の自民党からの「代表質問」が、なんだか「健全野党」のような、的を射る内容で、内閣を右往左往させてしまった。
首相からしたら、「敵は内にいる」ことを実感したことだろう。

なお、岸田氏は「ひっそり」と、つまり、「発表なく」広島県日中友好協会の会長職を辞していて、後任は同じく広島の従兄弟、宮沢洋一自民党税調会長になっている。

自民党は「本気で」この内閣を支えるのか?

だんだんと、方向が定まるのだろう。

本格的搾取の「パリ協定」

マルクスがいう「搾取」をもって、「資本主義」は「悪」だと批判するひとたちが、本格的搾取を用意している「パリ協定」を批判しないのはなぜか?

この、本格的搾取の仕組みに気がついたトランプ大統領が、協定からの即時脱退と、国内で準備中の「政府グリーン・ファンド」も中止したのは、「愛国的」であったと評価するのは、インド系のシバ博士であった。

1997年12月に締結された、「京都議定書」に「京都」がついたのは、誘致したとはいえ、「たまたま」京都で国際会議をやったからである。
正確には「気候変動に関する国際連合(連合国)枠組条約の京都議定書」という。※( )内は筆者

時の日本政府は、第二次橋本龍太郎内閣であった。

橋本龍太郎といえば、「ハニートラップ」の噂が、死去後に「鮮明」になってきた御仁で、我が国の「花街」では、「最も嫌われた男」としての異名もあった。
「面倒を見ない」ということである。

その意味では、8年ほど遡る「宇野宗佑内閣」が、記録的「超短期」で終わった情けない理由を思い出す。
宇野氏が懇意だった「芸者から刺された」のと似たような話である。

簡単にいえば「せこい」に尽きる。

宇野氏のとき、「花街のルールにあるまじき」として、関係を暴露した芸者が一部から非難された。
「夜の話は昼に持ち込まない秘め事」だというルールである。

しかし、これを「破戒」するほどの理不尽な「せこさ」が、とうとう芸者をして語らせるまで追い込んだのだから、やっぱり「情けない」を通りこして「醜聞」となったのである。

プロから刺される、という前代未聞の「退陣劇」となったのは、一般人を「政治不信」の頂点に追いやったから、その意味で宇野氏は我が国政治史における特異な「汚点」を残した政治家であった。

橋本氏は、言わずと知れた「経世会のプリンス」と呼ばれてはいたけれど、呼んでいたのは「マスコミ」だから、その意図は「逆神」的だ。
すなわち「こんなヤツ」という意味だったろう。
なぜなら、花街どころか自身の「派閥」でさえ、まったく面倒を見ないことで有名だったからである。

こうした「自己中の権化」のようなひとは、たまにいる。

これが、マスコミの意図と結合すると、ヘンテコなキャンペーンが堂々と展開されるものだ。
それが、京都でやるから日本がどんなに不利となっても「破談」にさせてはならない、というハチャメチャな論理だった。

「協定の論理」が、自国に不利なら、そんなものは「蹴る」のが、国益保護という「政治判断」になるものだ。
ここでいう「国益」とは、「国民の利益」の略である。

これをしなかった橋本氏のようなキャラを首相に選んだ日本人の悲劇の始まりである。

そんなわけで、まるでイエス・キリストが、全人類の「原罪」を背負って処刑されたように、我が国が「たった一国」で温暖化対策を背負うことになったのである。
しかし、世界で誰ひとりとして、「日本」を崇めるものはいない。

日本という「カモ」に、京都という「ネギ」を背負わせただけなのであった。

それから20年の時を経て、2016年に、もっと過激な「パリ協定」が締結された。
端的にいえば、この協定は、全世界に「炭素税」を課す仕組みなのである。

2030年、「炭素クレジット」なる「債券」を各国は購入しないといけない取り決めだ。
もちろん、その債券を購入する費用は、各国の「税収」だからあまねく国民が負担することになる。

では、一体「発行元」は誰なのか?

「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)」なる「学術」組織となっている。
しかし、これには各国政府以外の「出資者」がいるのである。
それは、個人なら、アル・ゴア氏、ブッシュ家、それに「商品先物市場」関係者、グローバル・エリート、自称科学者、といった人たちなのだ。

あたかも、WHOの「予算」がたったの2者で半分(ビルゲイツ財団30%、中国20%)になったかのごとくである。

すなわち、莫大なカネが、2030年にこの機構に流入することが「約束されている」のである。
さらに、2030年に大量販売されると、その後「炭素クレジット」は、商品先物市場での自由取引債券となる「仕組み」なのだ。

これを、ウィキリークス(WikiLeaks)が、関係者のメールから暴いたのだ。
「出資者たち」が、絶対にしかも圧倒的な額を「儲ける」ことができるようになっている。

その規模は、数百から数千兆円規模になる。

「盗人に追い銭」となるのが、各国政府がつくる「グリーン・ファンド」で、アメリカだけで10兆円規模を予定している。
このファンドは、反対者を「パリ協定参加」への合意に向かわせるためのバラマキのためにある。

それは、「環境運動」や「環境アドバイザー」といったNGO組織を通じて支払われることになっている。
つまり、これらの組織は「中抜き」することを前提にしているのである。
もちろん、マスコミもその「恩恵」に期待している。

これが、「環境ビジネス」の本質だ。
どこにも「地球」に関する話は出てこない。

仕組みは、コロナ対策とそっくりで、かつてない「邪悪」な「詐欺」が準備されているのである。
だから、以上の「仕組み」を解説するものは、冒頭のシバ博士以外いないのだった。