施政方針演説の「怪」

17日、岸田文雄首相の初となる、施政方針演説があった。
その後の、野党「代表質問」のグダグダは、相変わらずなので実は内閣を援護射撃していることになっている。

国会「演説」が、演説だったのはずいぶん昔になるかもしれない。
ラジオもテレビもなかった時代には、「生」で演説を聴く、という当たり前があったので、「原稿の棒読み」なんて絶対に許されなかった。

むしろ、政治家たるもの、演説で聴衆の引きつけができなくては、そもそも選挙に勝てない。
どういう「訓練」を受けるのか知らないけれど、初出馬で初当選して大統領になったトランプ氏には、当選前の「一般人」の夫人と愛娘の「演説」が、実に「お見事」なのだから、プロの政治家も一目置くことになるのである。

「話芸」というジャンルでいえば、落語、講談、漫才といったバリエーションがあるわが国では、「演説」というジャンルも生まれて、それが、学生には「雄弁会」という倶楽部で「弁舌」と「論理」を鍛えることになったのである。

だから、「雄弁会OB」たちが後に政治家になるというパターンができたけれども、「しがらみ」のせいで、ぜんぜん「雄弁」な演説ができないばかりか「意味不明」になって、なんだかなぁを後輩たちに見せつけた。

こんな「劣化」を自分はしないと、心に誓って政治家になっても、やっぱり「しがらみ」に負けて、なんだかなぁに「感染」してしまう。
それで、とにかく出世すればいい、という安易が論理に優るようになっている。

衆・参の「両院制」という高度な議会制をとる、わが国は、年初にはじまる「通常国会」冒頭で、首相が向こう一年間の「政府方針」を表明するのが、「施政方針演説」だ。
臨時国会や特別国会での首相演説は、「所信表明演説」といって区別する。

「両院」なので、同じ内容の演説を2回行う。
両院議員が参集する方式で1回としないのが、なんだか「権威主義的」なのだ。
まぁ、両院議員の数が多すぎて「一堂に会せない」ということもあるかもしれない。

国会議事堂は、昭和11年に完成したけど、この年は第19回衆議院選挙があった。
このときの議員定数は、466人。
現在は、465人なので、数は変わらないが、いまのように年齢がくれば自動的に選挙権を与えられる「普通選挙ではなかった」ので注意がいる。

選挙制度がぜんぜんちがうけど、もしや、国会議事堂の「キャパ」が議員数の、優先的制約条件になっている?

そんなわけで、2回、きっかり同じことを言うために、「原稿」を「読む」ことが演説となった。
つまり、「音読」ができないといけないのである。
それでも読み違いがあって、「議事録」に残るとこまるから、読み終えた「原稿」を速記者に手渡すのである。

企業とかの「議事録」とちがって、国会やら地方議会の議事録は、テープレコーダーがない時代からのものだから、誰が何を言ったのか、について淡々と書き記す。
かいつまんで「編集」してはいけない。

しかも、国会は「国権の最高機関」にして「唯一の立法府」なのだという「建前」があるので、ここでの「発言」には、法的な意味がある。
マスコミが「あげ足を取る」のは、ここに根拠があるのだ。

だれが原稿を書いているのかは知らないけれど、読み間違えないように1回は読んで、難しい字には「ルビ」を振ったりするだろうから、内容の理解は別としても、「文責」は首相にあるのは当然だ。
もちろん、「内容の理解」だって、している「はず」だということになる。

だから、本人が理解しているかしていないかは、もう問われない。

しかして、何を言っているのか不可思議な箇所が随所にある。
冒頭からの新型コロナ対策は、前提としての病気の実情を相変わらず無視している。
北野武がいう「ふつうの風邪」発言に、「勇気ある」という評価がつくことに政府の「強権」を嫌う「国民の声・本音」がある。

しかも、「水増し」指示している死亡者数といった「統計の不適切」をどうするのかに言及はなかった。

「新しい資本主義」は、首相の経済ブレーンが何者かを「自己紹介」したようなもので、それは、「資本主義」という左派用語をそのまま用いたことで確認できる。
自由経済のわが国首相なら、正しくは、「産業資本主義」を指さなければならない。

当然に、「新自由主義」の定義すら、左派が都合よくいうものであって、この点、「新自由主義」を常識とする世界とは別に、国家が分配する「社会主義国」として生きていく、という「歴史的表明」になった。

新しい資本主義だから、経済安全保障が重要なのではなく、どんな体制であれ「国」として、経済分野でも安全保障を重視するのは当たり前すぎる。
むしろ、軍事的な安全保障の前提として、もっとも重要な国家課題だ。
この認識が薄すぎることの表明は、外国政府が「安堵」したことだろう。

それで、社会主義をやるから、科学技術やイノベーションも、政府主導だというのは、「筋が通っている」けど、それこそが「衰退」を加速させる。
スターリンの「5ヵ年計画」が用語として登場した。

国家・政府が仕切る経済だから、賃上げもしろ、と企業にいうのは「アベノミクス」と新味はない。
ただし、「労働力の流動化」を入れたのは、新しい。
人の能力を、「スキルだけ」に求めるという、デカルト的「機械化」が、「人への投資」なのだというから、日本的見地からならどうかしている。

「国家公務員試験」を通ること、という感覚そのままだ。

そしてこれを、「非財務情報」として企業に「開示させる」という。
民間が「唯一の」価値産出分野だということを知らない、官僚が書いた原稿だとバレるのだ。

それにしても、演説内にもある「歴史的スケールでの経済社会変革」という、「にっぽん社会主義人民共和国」にしたいと宣言した、おびっくりな「施政方針演説」であった。

世界最大の「邪悪な民間団体」、『ダボス会議』が、あたかも公的機関のごとく登場したのにも、唖然とする。

この「ぶっ飛んだ演説」に、既存野党のツッコミに迫力がないのは、野党の野望を飲み込んだからである。
みえない「大政翼賛会」になっている。

それで、身内の自民党からの「代表質問」が、なんだか「健全野党」のような、的を射る内容で、内閣を右往左往させてしまった。
首相からしたら、「敵は内にいる」ことを実感したことだろう。

なお、岸田氏は「ひっそり」と、つまり、「発表なく」広島県日中友好協会の会長職を辞していて、後任は同じく広島の従兄弟、宮沢洋一自民党税調会長になっている。

自民党は「本気で」この内閣を支えるのか?

だんだんと、方向が定まるのだろう。

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