チャットGPTへの質問力

「A.I.(人口頭脳)」が話題になって久しいけれど、それがどんなものなのか?について、あんがいと誤解がある。

誰もが想像するのは、かつてのSF映画に登場する、ウルトラ優れたコンピューターで、たいがいが、人間と直接会話する設定になっていて、たいがいが人間を支配している状態を、人間側のレジスタンスでこれを破壊し、人間による世界を取り戻すという話になっている。

そこで、たとえば、「SF映画で人間がコンピューターから実権を取り戻すストーリーはどんなものか?」と、Chyat GPTを組み込んだ「Bing」に聞いてみた。

すると、回答の冒頭は以下の通りだ。
「人間がコンピューターから実権を取り戻すストーリーは、SF映画の定番のテーマの一つですね。
そんなSF映画の中から、おすすめの作品をいくつかご紹介します。」として、5つの作品が簡単な内容解説をつけて紹介された。

そして、以下の文章で結ばれている。
「以上が私が選んだおすすめ作品です。どれも人間とコンピューター(A.I.)との関係や対立を描いており、興味深い内容だと思います」。

ここであらためて、「Chyat GPT」の定義を確認すれば、まず用語として、「Chat Generative Pre-trained Trensformer」のことである。
かんたんにいえば「自発的学習して、アウトプットを生成するA.I.との雑談)」という意味になる。

それで何がいまさかんに話題になったことの根拠かといえば、「GPT-4」になったことを発端としている。

「GPT-3」が、小学生並みという評価だったのに、4になって、大学生に成長した、といわれるほどになって、より実用的になったのだ。
これを東大の副学長は、「ルビコン川をこえた可能性」とも表現している。

いよいよ、本格的なA.I.時代が到来し、人類は引き返すことができなくなった、ということだろう。

問いかけの文字数の制約、という点で、2500字から一桁増えて、25000字になっただけでなく、また、文章だけでなく、音声や画像をマルチにつかった方法でも、文章としてアウトプットすることができるように大進化したのである。

あたかも、「検索エンジン」が機能拡大したようにおもうひともいるだろうが、ぜんぜんちがうし、「自動翻訳」でもない。

これは、開発言語が英語だから、より英語の方がパフォーマンスが高いというけど、日本語にも対応しているので、日本人がそのままつかえる、「回答生成機」なのである。

だから、検索エンジンや自動翻訳機のようにもつかえるけど、それだけでは機能を十分に引き出しているとはいえない奥深さがあるのである。

すると、どうやったらこの利便性を十分に引き出せるのか?をかんがえたら、これを利用する人間側の「質問力」が、直接的に問われる、という問題がある。

A.I. についての誤解は前にも書いたが、それはA.I.自体の問題であったけれど、いざ「つかいこなす」となったら、ブーメランのように人間の能力が問われるのは、意外でもあり尤もでもある。

この『教科書が読めない子どもたち』は、すでに古典的名著といえるだろうが、A.I.も文章そのものを理解しているとはいえないことは、「GPT-4」になってもおなじなのである。
それこそが、A.I.のA.I.たるゆえんで、人間の脳にはとうてい追いつかない。

しかし、まさに著者が指摘しているように、人間側も「文章を理解できない」ようになってきたことが、大問題なのだ。
だから、A.I.に対して、的確な質問文を与えることができない。

インプットが不十分なら、アウトプットが不十分になるのは、当然だ。

すると、ルビコン川をこえてしまった人類には、初等教育から、すっかり設計をやり直さないといけないことが確実になった、といえる。

「お試し」なら無料でつかえるけれど、全機能をつかうなら「有料:サブスク」契約をしないといけないのも、「世の常」となって、一生涯課金される、という高コストな人生も強要されているにひとしい。

このことは、「税金」の概念すら変えるにちがいなく、その配分を業務にする「議会」の役割も、必然的に変わることになる。

人々は、なにを役所に期待するのか?さえも、A.I.に聞けば答えてくれるのである。

そこで、以下の質問をした。
「A.I.の普及によって税金の使い途と役所の機能は、将来どんなふうに変化するか?」

回答は以下のとおり(かなり長文なのでご参考に)。

こんにちは、これはBingです。

AIが普及したら税金の使い方と役所の機能はどのように変化するかという質問ですね。
残念ながら、私は未来を予測することはできませんが、現在のAIの状況や自治体におけるAIの活用事例をもとに、一般的な考え方をお伝えできます。

まず、AIとは何かということですが、総務省の「自治体におけるAI活用・導入ガイドブック」Ad1によると、「知的な機械、特に、知的なコンピュータプログラムを作る科学と技術」と説明されています。

AIは、ビッグデータから自ら知識を獲得する「機械学習」やその一つの手法である「ディープラーニング」などの技術の進歩により、人間の知覚や発話、認知や判断などの機能を模倣したり、超えたりすることが可能になっています。

次に、AIが普及した場合に税金の使い方や役所の機能がどのように変化するかということですが、これは一概には言えませんが、以下のような可能性が考えられます。

税金の使い方については、AIを活用することで行政業務の効率化や住民サービスの向上、地域課題の解決などが期待されます。例えば、「AIを活用した申請受付・審査支援システム」Ad1や「AIを活用した住民税の賦課修正業務の効率化実証」Ad1などがあります。

これらの取組は、行政手続きや税務処理を迅速かつ正確に行うことで、職員の負担軽減や住民へのサービス向上につながります。また、「AIを活用した児童虐待対応支援システム」Ad1や「AIを活用した介護予防」Ad1などは、社会的な課題に対してAIが有効な支援を提供することで、人間だけでは対応しきれない問題に取り組むことができます。これらの取組は、社会保障・福祉や社会資本整備などの分野で税金を有効に活用することにつながります。

役所の機能については、AIを活用することで行政サービスの多様化やデジタル化が進むと考えられます。例えば、「AIを活用した総合案内サービス」Ad1や「AIリアルタイム議事録」Ad1などがあります。

これらの取組は、住民からの問い合わせや情報提供を音声やテキストで自動的に行うことで、24時間365日対応可能なサービスを提供することができます。また、「AI-OCRによる行政文書の読取・データ化」Ad1や「AI活用に向けた民間事業者へのデータ提供」Ad1などは、紙媒体や非構造化データをデジタルデータに変換し、分析や共有を容易にすることで、行政データの有効活用を促進します。
これらの取組は、役所の業務プロセスや情報インフラの改善・強化につながります。

以上のように、AIが普及した場合に税金の使い方や役所の機能がどのように変化するかは具体的には分かりませんが、一般的な考え方としては、
AIは人間では難しいか不可能なことを可能にする技術である
AIは人間では時間やコストがかかることを効率的に行う技術である
AIは人間では気づきにくいことを発見する技術である

という点から、
AIは行政業務や住民サービスを高度化・多様化・デジタル化する
AIは社会保障・福祉や社会資本整備などの分野で税金を有効活用する
AIは地域課題や新たなニーズを解決・創出する
という可能性があると考えられます。

という回答だった。

病院の輸出ができない

日本人が当たり前とおもっている、「公的健康保険制度=国民皆保険制度」の、おカネの面での良し悪しは、「政府財政負担の強烈さ」をもって、やんわりと問題視されている程度のことになっている。

なぜに「やんわりと」なのか?を問い直せば、だれしもが、「医療費の保険からの補填」を求めるからで、勤め人なら、収入の多寡に応じて給料から天引きされる「医療費」では足りなくて、消費税から補填されることも「賛成」することに疑問がないからである。

なにしろ、わが国最大の労組、「連合」すら、税と社会保障の一体化に納得したことだった。

なので、いったい「保険」にいくら掛けているのか?ということも不明になって、医療機関での支払時だけ、割引を受けてよろこんでいる。

「確定申告」をふつうにさせない、「源泉徴収制度」が、わが国で導入されたのは、昭和15年のことで、「国家総動員法」の成立による、国家総動員体制=戦時体制の重要な基盤となったのである。

つまり、日本人は、昭和14年までは、収入のあるもの全員が確定申告をしていたのだった。

ゆえに、税金の使い途における論争がさかんだった。
それがまた、国会論戦になって、都会の勤め人をターゲットにしながら三菱財閥が背景にあった、民政党と、地方地主とそのほかの財閥が背景の政友会とに分かれて、「二大政党制」ができたけど、結果は衆知のズブズブであった。

それだから、税負担の痛みをしっている国民は、軍に過剰なる期待をして、大コケしたのである。
所詮は、国家依存にちがいはなかったのだけど、戦後も懲りずに続けているのは、GHQにも都合がいいからだった。

いまは、税負担(社会保障費を含む源泉徴収で)の痛みが、勤め人には緩い(まるで「麻酔」のごとく)ので、かえって「乞食=国民皆保険」にさせられている。

ちょっと計算すればわかるけど、自分が負担している保険料より、命に別状のない疾病での医療機関で割り引かれた合計は、だいたいにおいて少ないから、「とられっぱなし」なのである。
それでも、老化して「大病したら」という将来不安から、いつかは「回収できる」と信じて、だまって徴収されている。

この意味で、とっくに「税」に同化しているのである。
それでもって、可処分所得が強制的に減らされて、経済的自由が侵害されているとかんがえる日本人は、皆無という驚きがある。

もちろん、経済的自由の侵害とは、憲法第13条に違反する。

しかしながら、前にも書いたように、公的健康保険制度の「公的」ゆえの大問題は、「保険点数」という、医療費計算のための、「料金表=メニュー」にすべて従うということにある。
「保険適用」される医療行為であれば、ぜんぶが、このメニュー表による「行為」なのだ。

もしも、「特別な医療行為」を受けたいなら、「自由診療」を選択しないといけないけれど、いったん自由診療を受けようものなら、「報復」として、もう「保険診療」に戻れない。

もちろん、保険診療を管轄している、厚生労働省からすれば、自分たちが認可していない「薬」とか、「治療法」をもってするのが、「自由診療」だから、あたかも自由診療は「胡散臭いもの」として、プロパガンダしている。

国民の選択の自由を阻害するから、このことの問題は、「自由診療」のなかでの的確な情報を、国民に提供されない、という理不尽もある。
よって、「ぼったくり」のような被害にあっても、これを無視するのが、いまの日本政府の邪悪なのである。

逆に、「名医」の存在も、国民にはわからない。

そんなわけで、わが国の、ほとんどの医療機関は、「保険診療しか」やっていない。
つまり、完全国内ローカルなのである。

だから、「医療ツーリズム」なる、外国人の患者受け入れが、「これからのツーリズムの一分野になる」というのは、かなり「独善的」なプロパガンダなのである。

唯一、「ツーリズム」というなら、入院してしまう患者本人ではなくて、「付き添い」で来日する家族とかが泊まるホテルとか、息抜きで訪問する観光地をもっていうから、なんだかショボいのだ。

単純に、外国人の患者は、「健康保険が適用されない全額自己負担だけ」が、日本人患者とのちがいでしかない。
三割負担ではなくて、十割負担、ということだ。

ついでに書けば、「医療通訳」という専門職があって、外国人に外国語で病状を説明できない医師や看護師のための「通訳」を、患者負担で雇わないと、日本の医療機関は受け入れもしない。
そこまでしても、日本の医療機関でないとダメだ、というのはどういうことか?

外国人の患者やその家族、あるいは当該国の担当医が、日本での治療をどこまで推奨するのか?にかかっていることになる。

ところが、国民皆保険という、社会主義制度を実施ている国は、ヨーロッパ(ドイツ、フランス、イギリスや北欧)にあって、さいきんでは経済状況が深刻なイギリスの「医療崩壊」が、話題になっている。

たとえば、風邪で診察を受けたくとも、3ヶ月待ち、とか。

原則、自由診療しかないアメリカが、やっぱり「治療するなら行きたい」とおもうのではないか?
これは、「留学生」としての医学生受け入れについてもいえて、優秀な医師の養成は、やっぱりアメリカになっているからである。

日本政府は、観光政策を、「数量から単価」に変更したけど、単価がとれないのが、わが国の医療機関だから、「輸出」もできないのである。

そのうち、アメリカの医療機関が、「自由診療」をひっさげて、これ見よがしにやってきたら、富裕層はこぞってそちらを受診するのだろう。
そのとき、アジアの富裕層もようやく、来日するのか?

それとも、自国にもアメリカの医療機関ができて、日本は用なしになるのだろうか?
そうなると、南国の気候のいい場所が、日本人富裕層高齢者たちの、終の棲家になるのだろう。

DXはセキュリティなしに構築できない

昨今、江戸幕府より強圧に国民に君臨するようになった日本政府が、何かに取り憑かれたように、カタカナあるいは英語らしき用語をもって、政策プランを表現している。
その典型が、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」とか、「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」なのである。

冒頭、江戸幕府より強圧と書いたのは、江戸幕府や各藩のひとたちの身分が、武士であったことでの矜持があって、これをヨーロッパの騎士に例えたら、「ノーブレスオブリージュ」があったことを前提にしているためだ。

日本語でなら、「武士道」だけれども、中身はぜんぜん別物である。

本物の武士が新政府の官吏となったものの、その後の世代の官吏養成を、昌平坂学問所の跡地につくった、総合大学としての「東京大学」のエリート育成が、全国規模での需要から、「帝国大学」に変更したことが、悪い意味の平準化となったのでる。

さらに戦後の、「新制大学(制度)」は、これを「大学」と称してよいものか?
「university:ユニバーシティ」を、単に「大学」と翻訳して違和感があるのは、その根本的ちがいを本能的に感じるからだ。

ネット情報の玉石混交には、誰もが頼りにしている、『ウィッキペディア』にもあって、あんがと信用おけない。
なので、面倒でも他の情報源も探ることが望ましい。

それで、「東京大学」を検索すれば、東京大学のHPとウィッキペディアの二つが現れるけれど、残念ながらどちらも正確な解説表記をしていない。
その共通に、あたかも歴史的な継続性があるという「誤解」を読者に与えるからである。

じつは、東京大学の歴史は、断絶と分断の歴史なのである。
たまたま、場所がおなじ、ということだけだったものだから、あたかも「名称変更」という軽い解釈が一般になされてしまっている。

東大ファンの皆様にはお気の毒だが、組織について見識があるひとならすぐさま理解できる。
明治政府がやった、この場所にあった学校の「廃止」と「新設」こそ、「別物」としての事実を隠せない。

そんなわけで、官吏養成という、あたかもフランスの「国立行政学院(ENA:エナ)」の機能が中心にあるようで、そうでもない、中途半端な「学術」の殿堂が東大なのだ。
なお、「エナ」は、日本でいう大学院大学だから、東大の学部ともちがう。

ちなみに、「エナ」は、この卒業生マクロン氏への批判がこうじて、彼が廃止(=廃校)を決定し、2022年に、「国立公務学院」が新設される茶番があった。

どちらさまも所詮は、この程度、なのである。

我が国に話を戻せば、国家公務員として国家を仕切るためには、キャリア資格を得ないといけないけれど、20代前半の一回だけの試験に合格すれば、その後の一生を国家組織が面倒を見てくれる構造になっている。
子供時分から、受験戦争にさらされて、いい学校=いい会社、という安定収入を目指すことの原点に、国家公務員のキャリア職が君臨している。

現実の競争にさらされる、民間企業では、とっくに偏差値エリートに関しては、疑いの目で見ることができているから、旧態依然というのは、もう公務員の世界だけになっている。

しかし、我が国の「国のかたち」が、どんどんと共産主義に向かって、公務員天国を当然とする社会になった。
これを推進する力学とは、自民党や公明党をはじめとする、既存政党に投票する国民の意向がそうさせている。
補助金が欲しい、とか、保護が欲しい、あれもこれもおカネをもらえることをよしとする、乞食根性の刷り込みが、国家公務員と為政者の都合にいいのだ。

アベノミクスとは、国家が「分配」する、まさに共産主義・計画経済の集大成で、岸田氏はより強力な共産化(これを「新しい資本主義」とダブスタ表現する)を目指す急先鋒なのだ。

そんなふうに、公僕たる公務員をまちがった方向へ育てて、深刻な勘違いをさせたのは、飼い主たる国民の失敗なのである。
まったくもって、ペットの犬に生活の主導権を握られた飼い主の多さと一致しているのではないか?

残念ながら、殺処分がゼロにならないのは、そんな情けない飼い主がとる、最後の手段だからである。
しかして、人間界では、公僕たちに国民が殺処分されている。

ロボットが人間を支配する、伝統的SFの世界とは、公僕に支配されることで、すでに片足は達成しているのである。
それで、これを両足にして完成させよう、というのが、DX狙いなのである。

ところが、デジタルの世界には、二つの脆弱性がある。

一つは、SFならたいがいのヒーローが見つけ出して滅ぼすのが、ロボットを作った邪悪な存在にある。
DXなら、プログラミングをした人間がこれにあたる。
もう一つは、ネット上でのセキュリティに脆弱性があることだ。

前者は、構造物にあたるし、後者は、土地にあたる。

だれだって、軟弱な土地に家を建てたくないように、ネット・セキュリティの脆弱性とは、致命的なのである。
つまり、DXは、この脆弱性を無視して、超高層ビルを杭もなしで建てようという無謀なのだ。

見えない杭を多数打ち込むことは、基礎工事として最重要だけれども、もちろん建築コストになって跳ね返る。
ネット・セキュリティの脆弱性を阻止するためのセキュリティ投資は、一体全体いくら必要なのか?

この費用も、全額が国民(企業負担分は結果的に価格転嫁される)負担になることは、国民としてしっていていい。

国連の指示に反する昆布専門店

化学調味料のことは、「うまみ調味料」といわないと、放送コードにひっかかる時代になった。

元来、日本における「放送コード」は、GHQが策定したものを押しつけられたものだ。
この話の構造は、「日本国憲法」とおなじで、本来ならば主権回復後に、「独自」に戻すのが、独立国というものだ。

しかし、日本占領は、根本から「国柄を変える」というコンセプトで実施された本当は、「征服」だったために、「主権回復」の方が「ウソ=建前」になってしまった。

だから、征服はずっと続いている、とかんがえた方が妥当なので、憲法も放送コードも変えるばかりか「あってなきがごとき」無視やら、改悪が行われるのは、ぜんぶ征服者におもねた結果しか、一般人には見えてこないのである。

念のため、放送法では、放送事業者は、「番組基準」を策定・公表しないといけない、と第五条にあるけれど、一般人でこれを見たことがあるひとを見たことがない。

もちろん、この法律の管轄は、旧郵政省・現総務省ではあるものの、天下り先が放送各社であるために、役人は役人で、放送事業者におもねることになっている。

ちなみに、NHK以外の放送事業者を、まとめて「民放:民間放送」と呼ぶけれど、敗戦してGHQの征服を受けるまでのNHKは、唯一の「民放」だった。

敗戦国の政体やら文化まで含めて、強制的に国柄を変えるというのは、いまでも「戦時国際法違反」の大問題だけど、これを、「民主主義の押しつけ」という妙ないい方で、敗戦利得者たちの利得に、当時の保守言論人が敗戦したのである。

これは、当然といえば当然で、GHQにとって当時の保守言論人こそが「残存敵兵力」と同様な存在であったからである。

ために、NHKを国家の配下に置くために、あからさまな「国営放送」ではなくて、なんだかつかみ所がない「鵺:ぬえ」のような、「公共放送」と位置付ける、天才がいた。

「今太閤」と呼ばれて、上り調子だった田中角栄がやった、世界に類のない、新聞社の子会社としてのテレビ局としたのは、「聞屋」も放送コードの影響下に置くという意味での、GHQ的言論統制を推進したことで、その「上り調子」を加速させたとかんがえれば、彼ひとりで出世したのではないことがぼんやりでもみえてくる。

その後、首相の座を射止め、頂点を極めたかにみえたけど、なぜに「ロッキード事件」となって、失脚の憂き目をみたかは、世界史的目線で再度見つめるひつようがある。
角栄裁判の筆頭弁護士が、最高裁長官経験者だったのも、「日米の立場」のちがいの象徴でもあった。

そんなわけで、何度も書くが、GHQの本質はアメリカ民主党であって、そのアメリカ民主党の本質は、軍産複合体であった。
しかし、この軍産複合体のコアをなすのは、単なる「武器製造業」や「武器商人」だけでなく、「金融」やら「製薬」やらの、大企業や大富豪がつくる、「クラブ」になっている。

その代表的政治家や役人が、バイデン政権のメンバーでウクライナ戦争をやって儲けることに恥はない。

アメリカが挑発し、ロシアが乗った、の「ロシア」を「日本」に置換すれば、80年前の状況とおなじことが見えてくるけど、アメリカ民主党に征服され彼らの靴を舐めることを恥じなくなった日本人は、ロシアに敵意を持つばかりなのである。

この司令部が、「世界経済フォーラム」(その上に極秘の「ビルダーバーグ倶楽部」がある)という入れ子状態の邪悪な集団で、そのHPをみれば、あからさまに何をしたいか?何を仕掛けるか?について、公表しているのである。

日本の放送事業者が、放送法を無視して、ぜんぜん放送コードを一般に公表しないのとはわけがちがう。

この、余裕とも、傲慢ともとれるのは、もはや敵が存在しないことの自信のあらわれだろう。

このひとたちは、人口を減少させないと地球環境が悪化して、彼らの子孫に悪影響するという「信仰」に取り憑かれているから、かなりの「カルト集団」だ。

それで、「いかに地上の人口を削減するか?」のための施策を、まじめに論議して実行している。

その目標は、当面10億人の削減、と、ちゃんと数値目標まで掲げているのは、見た目、優れた経営者ばかりだからだ。

これが、「昆虫食」の推奨となって、国連さえもこれに従っている。

どうして虫を食べることができるのか?
長い歴史で安全が確認されている種類ではない、たとえば「コオロギ」はほんとうに安全なのか?

それには、「食品化学」と「食品工業」の融合がある。

つまり、「味」と「香り」を、人工的につければ、「タンパク質:プロテイン」ならなんでもいい、という、浅はかな「栄養学」の発想なのである。
ならば、石油タンパクがとっくに食品になっているけど、それでは人口は削減できないのか?

こんな酷い話を、すばらしい新技術とか、意外とおいしい、とかと放送したり記事にしているのも、こうした事業者がとっくに買収されているからで、巨額な広告費収入に負けたからだ。

それで、だれも観ない、読まない、となれば、いよいよ「国営化」という本丸が登場して、言論は国家のコントロール下におさまることも、計画的な想定済みになっているのである。

となると、「昆布」とか「カツオ節」といった、「天然調味料」は、世界経済フォーラムからしたら、天敵になる。
大阪の真面目な昆布屋が取り組む、アンチ・化学調味料こそ、国連からいわせたら、いまや、「反社」といわれかねない。

ところが、全国的にどこも無能な教育委員会は、こうしたものを使わずに、化学調味料だらけの昆虫食を子供の給食に採用している。

これぞ、見事な利権構造のあらわれで、それがまた、親の経済力を削ぐための、国民貧乏化政策を30年以上も続けている理由と一致する。

給食費が払えない。

しかして、その教育委員会を設置させたのが、GHQであった。
いまやこの委員会に、委員長は存在せず、公務員(教員と市区町村の役人(都道府県からの出向者も含む))の事務局を「教育長」が仕切っていて、市長も議会も口を出せない「治外法権」がある。

だからこそ、岡山県備前市のように、マイナンバーカードを一家で作れば、給食費を支給します、という支離滅裂が「正義」になるのである。

奈良を観光する困難 その2

前回の続き。

「壬申の乱 奈良エリアマップ」のような、「観光コース」を紹介したのは画期であろう。
けれども、順番通りに巡ると行ったり来たりするために、観光の移動効率をかんがえると、どうしても公共交通機関では面倒になる。
それがまた、自家用車の「必要」となって、狭い道が渋滞する。

レンタカー人気もおなじ理由だ。

路が狭いのは、徒歩や馬での移動をもってよしとした歴史背景が、今度はムリに拡幅しなかったことでこうなった。
逆に、開港150年という、ついこないだに埋めたてられた新地にすぎない横浜を想えば、関東大震災や空襲で焼けたチャンスを活かせずに、また都市計画も間に合わなくて勝手に家が建って、街が膨張したことになったことからすれば、まだ、「計画的」なのである。

とはいえ、現代的にいわざるをえないのは、観光事業者がこの難問を解決する唯一の存在だということだ。
しかし、そんな「存在理由」を、どこまでまじめに意識しているのか?が不明の業界のままなのだ。

それに、「奈良・京都」というけれど、現代奈良の観光中心地は、ぜんぜん「都」があった場所ではない。
ときの国家が建てた、総国分寺としての東大寺に、興福寺、春日大社という藤原氏の寺と神社がつくった、「巨大な寺町」なのだ。
この寺勢力を、徳川幕府も無視できずに、「奉行所」を置いた。
これがいまの、奈良女子大学になっている。

正式には、「南都奉行所」で、奉行職は幕府「遠国(おんごく)奉行」の系統にあって、首座は「長崎奉行」だった。
幕府直轄領(御料:幕領:天領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務(行政・司法:裁判・寺社の管理)をとりあつかった。
それで、「旧奈良監獄」も近くにある。

ここは、明治4年に奉行所内に「奈良監獄」ができて、1909年に完工していまの場所に移転した。
戦後の1946年に、「奈良少年刑務所」となって、2017年に廃庁した。
2017年に「重要文化財」に指定されたけど、例によって、日本建築学会も「要望書」をだしている。

同時に、法務省は「運営権売却」先として、外資系ソラーレホテルアンドリゾーツ(米国再生ファンド「ローンスター」配下)が組んだコンソーシアムに決まって、ホテルになることが決まった。
ソラーレが撤退して、星野リゾートがこのコンソーシアムに参加している。
高級ホテルとしての開業は、いまのところ2025年の見込みだ。

奈良にはこれといった高級宿泊施設が、奈良ホテル以外に「ない」ことから、富裕層が泊まらないにはじまって、富裕層が来ないになった。
その富裕層のおおくは京都に泊まるのが、「定番」だというけれど、世界レベルの超富裕層は、そもそも日本に来ないという大問題がある。
行政が介入して、「民主主義」をいうから、それが、「共産主義」に転換されて、なんでも「平等」を旨とした「格安」が嗜好されるからである。

そんなわけで、「奈良」という僧侶と商人の街が、廃都平城京の奈良でもあって、もう公家もいなかった。

近鉄奈良駅ロータリーの、「小西さくら通り」商店街を抜けると、三井住友銀行奈良支店のある「三条通」にでる。
これを横切って直進すると左手すぐに、「勇人神社」の小さな祠があって、ここに、この路がかつての「街道」で両脇に、「豪商」が建ち並んでいたとの案内板がある。

この情報を意識しながら歩くと、いまはむかしを彷彿とさせるのは、「駐車場」としてみえてくる。
中でも、「奈良市立第一小学校」だった、いまの「椿井(つばい)小学校」は、1876年(明治9年)に、椿井町の酒造「菊屋長左衛門」の屋敷跡とあるから、その繁栄ぶりがみえてくる。

すると、なぜに商家がかくも没落したのか?という疑問の方が、いまの全国における地方の衰退にも結びつく疑問になる。

一方で、ならば奈良中心部の繁栄を支えているのは、いまだ「寺社」という結論になる。
その象徴が、東大寺・興福寺・春日大社といいたいところだが、じつは「元興寺」なのである。
いまや町歩きで人気の、「奈良町」は、そのほぼ全域がこの寺院の敷地だった。
それがわかる大地図が、無料開放されている「ならまち格子の家」にある。

その奈良町界隈を歩いてみれば、数多くの廃屋があって、どこか異様な雰囲気もあるけれど、これを再建して「カフェ」にするなら、それはそれで、「活性化」というのだろう。

しかして、奈良公園を中心にした「エリア」の駐車場は、驚くほどの料金である。
平日と週末・祝日の料金差は3倍。
管理人がいて料金表示看板を人手で出しているところでは、自動車のナンバーをみて料金看板を差し替える、あからさまもあるという。

梅棹先生が指摘した、観光事業者(この場合は、観光客を相手にする駐車場経営者)による、「掠奪」は、中世の経済体制、「前資本」そのものだともいえるのである。

これが、寺社に依存して「ぶら下がっている」ことの意味である。

有名観光地なら、全国どこにでもあることで、青森の「ねぶた祭」における、ホテルが設定した駐車料金の高額が話題になったこともあった。

すると、衰退と駐車場料金には、なんらかの相関関係があるかもしれない。

たんなる、需要と供給の原則ではない。
狭隘な路がおおい歴史地区の生活者のための駐車場経営と、観光客のための駐車場経営は、なんだかなぁのちがいがあるのだった。

食育と昆虫食で虐待する

なんでも「無料」にしたがって、それがなんだか「善政」のように宣伝するのは、『共産党宣言』にあるセオリーだと前に書いた。

わが国の政党は、『共産党宣言』の定義にしたがえば、ほぼ「全党」が、名前を変えても「共産党」なのである。
これがまた、自民党、公明党も当てはまるから、手に負えなくなって、日本国民の選択肢はなくなった。

あの「ワクチン」という、よくわからない「注射薬」は、もともと「人口減少を目的としたもの」だと、噂されていたけれど、だんだんとその「効果」が実証されてきて、まだ少数といえども、「禁止措置」をとる、国やアメリカの州があらわれだしたのは、エビデンスに基づいた判断となっている。

わが国における過去の、「薬害」や「公害」は、おおよそ「発症」から3年ほどが経過すると、社会的認知がはじまっていた。
これら過去の例での社会もすでに、「情報化社会」ともいわれていたけれど、それはだいたい、ラジオとテレビの時代であった。

インターネットの時代になったのに、やっぱり3年ほどを要する「鈍感さ」があるのは何故なのか?
しっかり社会学やら、社会心理学の専門家に分析してもらいたいものだ。

敗戦後の食糧事情は厳しく、食うや食わず、だったことはよくしられていることのはずだけど、まともな近代史を教えない、という政策が功を奏して、あんがいと「現代っ子」たちは、自分の祖父母が生きのびてきた食の苦労をしらないし、祖父母もこれを積極的に語らなくなって久しい。

数年前、白昼の電車の中で男子高校生たちが、日本がアメリカと戦争をしたといった友人の一言に、「なにそれ?それでどっちが勝ったの?」と真顔で質問していたのを目の当たりにしたことがある。
アメリカが勝って日本が負けた、という答えに、「ええっー!マジ?アメリカと戦ったんだ?かっちょえー!」に、どうしようもない「教育の失敗」をみた。

しかし、わたしの時代には、「欠食児童」がふつうにいたし、「青鼻」を垂らしてセーターがテカテカになっていた同級生もいた。
なので、小学校では「給食の時間」が、毎日の楽しみだったことになっていたのである。

残念ながら、わたしは給食が大嫌いで、小学校の卒業文集でも、毎日の給食の辛い時間について書き残している。
なかでも、「脱脂粉乳」には格別の「不味さ」という思い出があって、おとなになってあれが、アメリカでは「ブタのエサ」だったことをしって、「さもありなん」とおもったものだ。

けれども不思議と、おとなたちからブタのエサを食べさせられていたこと自体には深い恨みはない。
子供とは、そんな動物なのである。

だから、「フクシマ」での事故で、さまざまな情報隠蔽(たとえば、各地の放射線量データの不開示とか)が、政府によって平然と行われたことの恨みとか、それによる、「風評被害」とか、あるいは、風評被害からの脱却のためにした、「地産地消」とかで、地元産を食べさせられたフクシマとかの子供たちにも、それがどんなおとなの事情からのことかを知る由もなかっただろう。

世界経済フォーラムが推奨をはじめたから、まず「危険では?」と疑って差し支えのないことのひとつが、「昆虫食」だ。

今年の1月にあった、スイス・ダボスでの定例会議も、世界から数千人の参加者たちが、地球温暖化阻止を標榜しながら、プライベート・ジェットでやってきて、会議中はそれぞれの専用自動車にエンジンをかけたまま待機させることをやって批判されても意に返さない。

この「エリート意識=特権階級の自覚」は、現代の「貴族たち」を自己演出してはばからない傲慢さにあふれている。
だから、一般人には栄養があるから昆虫を食べろといって、自分たちはビーフ・ステーキを食べるといってもぜんぜん恥じない。

それで、このひとたちから広告費をたっぷり得る既存マスコミは、こぞって「昆虫食キャンペーン」を張り込んで、情弱な一般人を騙す、いつもの手をつかうのである。
いつものように騙された感覚すらない情弱な一般人は、それが「トレンド」だというバカな流行に自分だけがよるならまだしも、子供への給食にすることも「栄養価が高い」などといって歓んだりする。

パンデミック前の、いまからしたら少しは「まとも」だった日本政府は、内閣府にある、食品安全委員会がそのホームページで、「昆虫食の安全性への問題」(2018年時点で)を指摘している。

しかし、邪悪な世界経済フォーラムのお膝元であるヨーロッパは、すっかりカネでやられているから、おなじ「昆虫食の安全性」について、「問題なし」(2022年5月時点)という「論」をもって最新としている。

いまやアジアを代表する、「先進国」になったシンガポールの「昆虫食の安全性」は、あくまでも「慎重」(2022年10月時点)なのが初々しいのである。
ヨーロッパの「安全」見解にも、自動的に首を縦に振ることはない。

もうアジアを代表する先進国でもない、むしろ途上国へと突き進んでいるわが国は、少しはシンガポール人の根性を持ったらどうかとおもうほどなのだ。

なお、日本人はイナゴは食うがコオロギは食さなかった。
「毒」があると、むかしからしられていたからである。

アジアの先進国だった、むかしの日本人の的確さを、すっかり退化した現代日本人は、すでに学校給食でコオロギ由来の昆虫食を採用しているのである。

なぜにコオロギが食用となれるのか?

それは、見事な「化学的食品添加物」との「混合食品」としたからである。

港町「横浜遊郭」というカジノ

18日、横浜税関で「長谷川總哲コレクション 税関百五十周年記念錦絵展 特別講演会」があったので出かけてきた。
ちなみに、コレクション所有者で講演者の、長谷川總哲先生は、わたしの恩師である。

60年も横浜に住んでいて、「横浜税関」の館内に入るのも初めてであった。
建物は、今様の「保存建築」で、見た目は旧来の建築を保存しているが、内実は近代(高層)建築になっているという、例のやつである。

東京駅丸の内口は、大がかりな再現がされたのはよかったけれど、たとえば、おなじ丸の内にある、「日本工業倶楽部会館」とか、その先お堀に面した、「東京銀行協会ビルヂング」とか、とにかく古いビルを保存するといって、なんだかなぁ、の無様を「保存」と呼んでいる。

そのまた、恥ずかしい典型が、「歌舞伎座」で、ナショナル・シアターに匹敵する建物が、あんなことになったのは、建築基準法やら税法、はては都市計画やらに、「保存」という概念がないからだ。
これはもう、役人のセンスの問題ではなくて、国会や地方議会が寝ていることに起因する。

街並みごと「復元する」技術は、ポーランドが世界一ではないのかと思うのは、古都クラクフ以外、ほぼ全国の都市が完全破壊されたのを、ありえな正確さで復元した実績をみればわかる。
ワルシャワのそれは、門扉の「錆び」までも復元しているのである。

そんなわけで、税関の旧館3階には、かつてマッカーサーも執務したという、「税関長室」や「大会議室」がそのまま保存されていて、見学できた。
「占領軍」というけれど、「征服者」がいた部屋を有り難がる気分はよくわからないけれど、角部屋の意味は、港を一望できるメリットがあるのはよくわかった。

横浜には、いわゆる「三塔」と呼ばれる「塔」があって、トランプの絵札に模して、キングが神奈川県庁、クイーンが横浜税関、ジャックが横浜市開港記念会館(現在「保存改修工事」中)がある。

そのクイーンの塔の撮影スポットだと三階の窓に案内があった。

浮世絵の技法をもって、写真に相当させたのが、「錦絵」である。
なので、風景だけでなく、珍しい外国人の仕草の一瞬を捉えるようなものもあるのは、「販売戦略」でもあった。

ときに、「横浜」というのは、ほとんどが陸地がない場所で、いま「市中心部」という場所はほとんどが埋め立て地である。
なので、その埋め立ての変遷をしっていないと、どこの絵なのかがわからない。

たとえば、歌川広重の有名な、『東海道五十三次』における、「神奈川宿」は、断崖の急な坂道に家並みが描かれているけど、この崖の下に広がる海は、いまの横浜駅のあたりになる。
開港場と新橋を結んだ鉄道は、『千と千尋の神隠し』にあった、水上鉄道のようなありさまで、海の中を蒸気機関車が走っていたのだ。

じっさいに、幕府とアメリカが結んだ、『日米和親条約』(1854年)からはじまる、わが国の「開国」で、1858年に結んだ『日米修好通商条約』によって「神奈川」の開港が決定した。
この「神奈川」が、いつの間にかに「横浜(村)」になったので、相手国からクレームがはいったのである。

この港は、「神奈川じゃない」と。
ちなみに、いま京浜急行の、「神奈川駅」から青木橋の跨線橋を渡って山側にある、「本覚寺」が最初のアメリカ領事館だった。

JRと京浜急行が走る跨線橋の下は、切り取られた地でアメリカ領事館からは、さぞや港が遠くに見えたことだろう。
それで幕府は、神奈川奉行所を移転させて、「神奈川」には「横浜も含む」ということにした。

横浜税関の位置は、開港以来1回も変わっていない。
ここから海に突き出た、赤レンガ倉庫は、もとは税関の保税倉庫だった。
要は、横浜税関こそ、「港の付け根」に位置していたのである。

それでオランダ領事から、「遊郭」の要請があった。
船乗りにとって、「陸に上がる(上陸)こと」の意味は、いろいろある。

なので、いまの「横浜スタジアム」がある、「横浜公園」を埋めたてた地域を囲って、「港崎遊郭」を建設し、外国人用と日本人用とに内部でも区画したという。
その威容を誇る錦絵が展示されていた。

これはあたかも、「カジノ」なのだ。

かつて東横線高島町駅があったあたりから、京浜急行戸部駅、それに桜木町駅の三角地帯に、火事で横浜遊郭が移転した。
元の地は、横浜公園になって、あらたに「高島遊郭」となって、最大の「岩亀楼」の名残が、「岩亀稲荷」として残っている。

ここも火災で遊郭がいまの「大通公園」にある、伊勢佐木警察署あたりに移転した。
それで、岩亀楼の遊女たちの療養所としての機能がそのまま病院になっている。
移転したのは、「永真遊廓街」で、いまはラブホテル街だ。

いちおう、「カジノ反対」を公約したひとが市長になったので、話はなくなったかのようだけど、港町である限り、ついて回る問題ともいえるのだ。

それにしても、外国政府からの「公式要請」だったことに、時代を感じざるをえない。

日本開国とアメリカの世界戦略

カナダに移住した渡辺惣樹氏といえば、第31代アメリカ大統領ハーバート・フーバー(任期1929~33)の渾身の回顧録を邦訳した、大著『裏切られた自由』(草思社、2017年)でしられるが、当時は職業歴史家でも大学教授でもなく、ビジネスマンの「趣味」仕事だったことが新鮮だった。

フーバーそのひとは、その任期のはじめに大恐慌に遭遇し、当時の新古典派経済学に従ったらコントロールできなくなったとして、「無能のひと」レッテルが一般的になったのも、プロパガンダだった。

けっして親日家ではないが、一般人としての成功は尋常な人物ではない「偉人」なのだ。
その人物の「公正さ」が、人類史に残る、「工業規格」を創設した功績でわかる。

 

この大著の解説本として、さらに、『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社、2017年)があって、日本との関係をコンパクトに、かつ、あくまでフーバー前大統領目線で書かれているから、いわゆる「戦後史観」とは一線を画すばかりか、いまにつながるアメリカ共和党目線(=トランプ派:プロテスタント福音派)という意外がある。

視線というのは重要で、よく、「複眼的」に観よ、とむかしの上司からうるさくいわれたものである。

これは、旅館の女将がいう、「お客様の立場にたって」ということとおなじで、自分からの「見えるものだけ」を追いかけると、たいがい間違えることの教訓にもなっている。

このことをしる好例に、アート・バックウォルド著、『だれがコロンブスを発見したか』(文藝春秋、1980年)がある。
なお、バックウォルド氏は、1982年のピューリッツァー賞受賞者だ。

バックウォルド氏の余談として、1988年にパラマウント映画が製作した、エディ・マーフィ主演の映画『星の王子 ニューヨークへ行く』が、彼の脚本を盗作したとして訴訟を起こし、勝訴している。

我々は、ついぞうっかり、新大陸を発見したのはコロンブスだと思いこんでいる。

しかし、その大陸の陸地から、コロンブス一行を発見したひとたちがいたことに注意をはらわない方が、よほどのうっかりなのである。
しかも、このひとたちにとっては、それが人類史における、「1492年10月12日」だということさえも、意味がないことだった。

とはいえ、わたしは、いまアメリカで盛んらしい、極左民主党がいう、「批判的人種理論(Critical Race Theory:CRT)」には与しない。

これは、あんがいとGHQが仕掛けて成功したものを、大宅壮一が皮肉を込めてうまく表現した、「一億総懺悔」とよく似ていて、日本での成功に味をしめた民主党はとうとう、自国での「破壊活動」に邁進しているようにみえるからである。

そんなわけで、渡辺惣樹氏の『日本開国-アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』(草思社、2009年)を読んだ。

「黒船来航」は、我々日本人が、あたかもコロンブスを発見した側になって「常識」としているものを、本書はしっかりと日本・アメリカ双方から、しかも奥深く解説している「複眼」になっている。

細かなエピソードが、どんどん連結していくさまは、むかしテレビで観た、『フリーウェイ・クラッシュ!(THE GREAT AMERICAN TRAFFIC JAM)』を思い出させてくれた。
たしか、1980年頃の作品だとおもう。

ドラマは、高速道路での100台もの「玉突き事故」になるのだけれど、それぞれのクルマにはそれぞれの人生を乗せていて、とあるきっかけで、全員が巻きこまれる物語は、社会現象そのものだった。
このそれぞれの人生を、それぞれ表現してから、クライマックスの「事故」に至る見せ方に、納得したものだ。

「黒船来航」も、日米双方だけでなく、長崎の出島の利権をできるだけ長く維持したいオランダや、世界を完全征服したい英国の弱点となる、太平洋の覇権を、新興国アメリカが出しぬくといったダイナミックな話に、わが国はコップの中の争いをやっていた。

カナダに住まう渡辺氏が、いまの日本を観察したら、当時とおなじパターンにみえるのだろう。

さて、この時代の英国は、大西洋とインド洋を支配して、アヘン戦争で東シナ海までやって来ている。

これには、ナポレオンのフランスがオランダを征服した(1810年)ので、亡命オランダ政府はその植民地を英国に管理委託し、ナポレオン没落後に独立を回復(ウィーン議定書:1815年)すると、英国は「管理手数料」として、シンガポールやセイロン(現スリランカ)などを得ていたことも、その後の英国艦隊による、「日本開国」(薩英戦争と馬関戦争)への大きな伏線になっているのだ。

また一方、長崎の出島は、世界で唯一、オランダ国旗が降ろされない特別な場所となっていた。
幕府はオランダが独立を失ったことを知らなかった、ということになっているけど、ちょっと怪しい。
知らんぷりしていたのではないか?日本人もあんがいと狡猾なのだ。

ちなみに、オランダ政府は2020年1月1日より、公式国号としての「オランダ:Holland」を使用せず、すべて、「the Netherlands」として各国に通達したが、日本語表記において「オランダ王国」を正式とした異例を許したのは、「出島」の特別功績なのだった。

アメリカは「西部開拓」で太平洋に目が向いて、英国が先にちょっかいを出したハワイ王国を攻略し、「太平洋ハイウェイ構想」で、上海に目が向いて、その中継地に日本があった。

大陸横断鉄道と、その後の電信が、太平洋をはさんだニューヨーク=上海の連絡を、インド洋経由の、ロンドン=上海よりも「圧倒的に高速」だったからである。

この意味するところは、アメリカ産業界のロビー活動も含め、強力に推進したのがやっぱり民主党なのである。
ペリーも、民主党支持を表明する海軍軍人だった。

英国は香港を、アメリカは日本を、中国(当時は清国)進出の、橋頭堡にしたかった。

それで、日清・日露は、日本を彼らが利用した、彼らにとってはいつもの、「代理戦争」であったのに、第一次大戦で「出る杭」となった日本が、第二次大戦で「叩かれた」のである。

これを、日本人はいまだに、「国内問題」として「単眼」で観ているから、英米やらからコケにされるのである。

アメリカのこの視点は、いまだに変わっていない。
納得の歴史(ヒストリー)は、人間たちが織りなす、それぞれの思惑で作られるのである。

パッヘルベルのカノン専門

一発屋ではないはずなのに、一発屋扱いされてしまっているのが、生涯で一曲だけ書いた『カノン(形式の曲)』が大当たりしたパッヘルベルである。
このひとの他の作品を聴きたくても、なかなか見つけられない商業主義がある。

大バッハには、生涯で一曲だけの『パッサカリア』があるけど、その他の有名作品で、この曲は無名ではないけどその他大勢に入ってしまう。
そのバッハに、「大」がつくのは、「フーガ(形式の曲)」の大家であったことも、作品の多くが傑作であったことと併せてのことだ。

いわゆる主題が「繰り返す」ことでは、「カノン」と「フーガ」は似たようなものだけど、カノンが「連続して繰り返す」のに対して、フーガは「変幻自在の変奏」をする違いがある。
このことが、圧倒的にフーガの作曲難易度を高めて、その構造は、ひとつのバロック建築物のような複雑さで構築される。

なので、聞き手にも、音で構造が「見える」ような荘厳さとなる。

バッハ以降で、フーガの大家といえば、ヴェートーベンの『第九』が思い出される。
有名な第4楽章の合唱の合間にある、器楽フーガの完成度は素晴らしいに尽きる。
これを、映像と合わせたのが、『不滅の恋 ヴェートーベン』(1994年)だ。

残念ながら、この映画における「設定」は、いまでは学術的に否定されている。
ついでに書くと、ヴェートーベンの交響曲の頂点は、無題の「7番」だとおもっている。
とくに、第1楽章の終わりが、9番にも引用されている手法だからだ。

パーソナルな生活になったからだか、どうだか、気づけばステレオ・コンポがないのがわが家である。
サウンドバーを設置したけど、すっかりレンタルビデオも観なくなったので、音響設備があってない状態になっている。

ブルートゥース・イヤホンをつかって、スマホやipadにダウンロードした曲を聴くことさえも、「たまに」になっている。
歩きながら両耳をふさいでいられる鈍感さはないし、やっぱり危ない。
せいぜい電車の中だけのことになっているけど、その電車にまとまった時間をかけて乗らなくなった。

ただ、ノイズキャンセリング機能があるイヤホンだと、無演奏・無音状態でも耳栓の効果は期待できるから、公共の場所で読書などをするときには重宝する。

子供の時分から、「ながら勉強」とかという、「ながら聞き」が流行って、なんだか社会問題になっていた。
受験生が、深夜のラジオ放送を聞きながら勉強している、というのが、わたしはぜんぜん理解できなくて、同級生が「ふつうだよ」といっていたのを、すごい能力だとおもっていた。

プチ・聖徳太子のような気がしたのである。

教科書を見ながら、ラジオの話や音楽を聞くというのは、漢字で書けば「聴く」ではない「聞く」の方なのだろうけど、どういう技を駆使したらできるのか?いまだにわからない。
当然だが、テレビを観ながら本を読むこともできない。

なので、喫茶店とかのBGMならまだしも、同時に両立させることをどうしているのか?とおもうのである。
その意味で、「イージーリスニング」だって、集中して聴くことはあっても、「ながら」は困難だ。

一世を風靡した、ポール・モーリアとかも、ちゃんとした大ホールでの来日公演に、観客は行儀よく聴き入っていたものだ。
ラフな格好のひとはわずかで、せめてスーツを着て会場に足を運んだものだった。

「夜会服」(タキシードやイブニングドレス)を着る機会は、すっかり消滅した。

どんなに高級といわれるホテルにだって、もうドレスコードがない国になって久しい。

「平等」が行き着いた先なのである。

だから、ドレスコードがある国やらのホテルで、夕食をとろうものなら入店を断られるふつうがあるのだけど、これに立腹する日本人観光客がいるから、現地の日本人にも嫌われる。
ふだんから着用しないので、いざというとき着こなしもできずに、却って貧相になる。

そんな世相のなかで、パッヘルベルのカノン専門サイト見つけた。

たいてい「長尺」で、1時間以上、延々と「カノン」が演奏されている。
器楽のオーソドックスから、ハードロックまで、さまざまな「カノン」が、選べるのだ。

おそらく、「聴き入る」のではなく、「ながら」のためにあるのか?
歩きながら、電車に乗りながら、も含まれる。

それはそれで、脳波が「安らぎモード」になれば、御の字である。
すると、これは一種の「聴く薬」という意味になる。

論文として、『音楽刺激による生体反応に関する生理・心理学的研究』をみつけた。

この論文では、さまざまな曲での研究にも言及している。
すると、「雅楽」や「民謡」ではどうなのか?
あるいは、どうして「カノン」なのか?といったことも気になる。

さらにいえば、日本人はどうしてバイオリンや二胡のような、弓でこすって音を出す楽器を発明しないで、連続音が出せない琴や三味線に留まったのか?

そういえば、むかし『キンカン素人民謡名人戦』(フジテレビ、1961年~93年)があって、祖父が必ず観ていたので一緒に観ていた。
おかげで、あのCM、「キンカン塗ってまた塗って」の歌の方がかえって耳について離れないし、必ず収録会場にいた、民謡好きのキンカン堂創業者の嬉しそうな姿が忘れられない。

もう民謡を耳にする機会も減った。
もしや、民族に心地よい音を消すための、「カノン」ということもあるやもしれぬ。

味な自宅レストランの精神

オーベルジュ(Auberge:旅籠)のことである。

いまは、「旅館」とかというけれど、国による歴史の違いは、この分野でも侮れない。

日本の場合、徳川家康から整備をはじめた、「五街道」(完成順に、東海道、日光街道、奥州街道、中仙道、甲州街道)には、その前の織田信長による「関所撤廃」による物流整備の実績がある。

たとえば、後世の『水戸黄門漫遊記』のネタにもなっている、鎌倉幕府の第五代執権、北條時頼をモデルにした観阿弥・世阿弥作といわれる能の名作、『鉢木(はちのき)』では、宿がないので通りがかった家に世話になったときのエピソードとして有名だ。

この家は、とくだん料理を提供するものでもないし、ひとを泊めるのを生業にしているのでもない。
しかし、「おもてなし」の精神があった。
人を見たら強盗と思えという、ヨーロッパ人の精神とは別次元なのである。

実際、はるか昔は、ほぼ全員が農民とその関連の職にあったから、土地から移動しない。
縄文時代の遺跡からずっと、わが国では「虐殺」をやった痕跡が一カ所でもみつかっていない。

移動を要したのは、「防人」とかの軍事と、「納税」のための荷車だったし、都からの連絡と役人の着任・離任だった。
ただし、縄文人はとてつもない距離を移動して、南米大陸の遺跡でも縄文土器が発見されている。
土の成分分析から、日本製だと判明した。

それでもって、後世、豪族(暴れ者)上がりの大名などが勝手に関所をもうけて通行税を徴収したし、山の峠道には山賊がいた。
貨幣経済の発達で様相が変わったのである。

日本よりはるかに進んでいると信じられている、ヨーロッパは、もっと苛酷な旅行移動であった。
小国がひしめいていたからだ。

ヨーロッパ大陸は、あんがいと狭いのだ。

逆にいうと、島国日本の大きさが、あんがいと巨大で、緯度の違いがメルカトル図法で勘違いを生んでいる。

そんなヨーロッパのフランスで、先進国イタリア(フィレンツェの大富豪メディチ家)から王家に嫁入りしたときに、はじめて、フォークやナイフ・スプーンといったカトラリーを持ち込んだ。
それまでは、「手づかみ」であったのだ。

ちなみに、英国王家にカトラリーが伝わるのは、もっと後のことだ。
なので、シェイクスピア劇の食事のシーンにおける時代考証では、王家の皆さんも豪快に手づかみで食べている。

手づかみで食べるインド人をバカにしたひとたちだけど、ほんのすこし前までは、英国人といえども手づかみで、しかも、インド人のように左手を使わないということもなかった。

それでもって、風呂にも入らないし、トイレもないから、街中が臭かった。
ゆえに、香水に需要が生まれた。

人間の三大欲求のひとつ、「食欲」には、生理的なものと、味覚的なものがある。

生理的な食欲は、必要栄養素が不足したときに現れるし、そうでないと、身体に不調という状態が現れて、周辺が病状に気づくものだ。
現代人の栄養失調として、ミネラル不足があって、これが脳の活動を異常にしている。

老若男女を問わず、「キレる」ことの原因のひとつだ、と。
脳内物質の制御をしているのが、ミネラルだからである。
「バカッター」とかの遠因ともかんがえられる。

味覚的なものは、当然に、「美味い、不味い」となる。

「嗅覚」は当然として、「視覚」からの見た目、とか、「触覚」からの口当たりや温度という要素もあるから、あんがいと「美味い、不味い」は複雑で、調理の難しさになっている。

わが家から電車で行けるけど、ふつうの住宅街にあるオーベルジュを友人らと訪れた。
もう20年以上もやっている、というご主人は、元インターハイのテニス選手だったという。
しかし、料理が大好きで、ために、テニスを辞めたという。

いまは、自宅で昼・夜、それぞれ1組限定で食事を提供している。

そのボリュームと高品質に、久しぶりに「舌鼓を打」ってきた。
しかも、「茶の湯」の精神にあふれているから、様々なもてなしの工夫があって、とても気持いい。

子供時分からの夢だった、ひとに自分の料理を提供して、おカネを得るということの喜びは、人生の充実なのがよくわかる。
それは、起業して生業にした「出版業」にはない、直接購入者の反応が確認できることの喜びなのだという。

まるで、「日高屋」でしられる、ハイディ日高の創業者、神田正氏の言葉とそっくりだ。
様々な職業に就いたけど、納得できない理由を、中華料理店で発見した。
自分が頑張った分が、そのままおカネになることの納得感。

こんなプリミティブな感覚を持っているひとが、いまさらに羨ましい。
そして、自分にだけでなく他人にも幸せを分けたいという精神は、まったくもって茶の湯なのだ。

戦闘を生業とする、戦国大名たちが、茶の湯にはまり込んだのは、一体全体、ヨーロッパ人には理解できないだろうけど、いまの日本人にも理解が困難になっているかもしれない。

夜はエンドレス営業なので、帰れなくなった県外・市外からのお客様に、泊っていただくために民泊の許可も得たというから、オーベルジュの誕生そのものだ。

わたしたちは、県外・市外のお客にあたらないので、宿泊はできないうらみがあるけど、常連になりたい「お店」であった。