「入れ子型」になっていないか?

「入れ子」で有名なのは、ロシアの伝統とされている人形の「マトリョーシカ」で、木でつくられた人形の胴体に人形がはいっていて、さらにまたその胴体に、という具合になっているものだ。

しかし、マトリョーシカにはオリジナルがあって、それが箱根の「ろくろ細工」だ。
こちらは「七福神」をテーマにしていて、ろくろで削り出すことから命名されている。

神奈川県の小田原や箱根には、天下の険でしられるように山がちかいばかりか、箱根は山の中だから、木材をつかった伝統工芸品がたくさんあるのだが、有名なのは箱根の「寄せ木細工」ばかりで、その他があまりしられていないのは残念だ。

ロシアといえば、民俗風習においても日本との共通性があって、たとえば「干支」がある。
あなたはなにどしうまれですか?うし年です。
日本の十二支でいう動物とロシアの十二支の動物は完全一致している。

それに、極東ロシアの学校では、第二外国語には日本語の選択肢もあって、英語のつぎに人気だというし、かつての「シベリア出兵」の影響から、醤油がふつうの調味料になっている。

ウラジオストックのイタリア料理店には、ぜんぶのテーブルにみなれた醤油差しがあったのが不思議で、おもわず質問したら「醤油がないのは変でしょ?」とのことだった。
でも、ピザパイに醤油をかけているひとは、やっぱりみなかった。

あんがい近いのに、なんにもしらないことがある。

すぐとなりのお国では、わが国との防衛情報の協定をどうするか?
「破棄」を表明して、あと数日で期限が切れる。
おどろいたのがアメリカで、14日は国防長官と統合議長というツートップが最終説得をこころみることになっている。

日本の「貿易管理強化」の撤廃を条件にするという「無理」をいいだしたのは、「交渉」ではなく「協定廃棄の理由」にしたいのだろう。
そもそも「貿易管理強化」は、重要物資の「横流し疑惑」が原因だが、この「疑惑」についての具体的反論はいまだにない。

しかし、「募集工」を「徴用工」だとしてだした判決や、「友軍」のはずの自衛隊機にレーダー照射するなどの、一連の「暴挙」にたいする日本側からの「報復」が貿易管理強化だということになって、それが日本製品の不買運動に発展したのは、わが国での報道のとおりである。

つまり、日本人のおおくは、以上の経緯から相手国政府の理不尽と、相手国国民の行動に、不信感をもつにいたっている。
もはや「レッドチーム」確定なのか?とも。

このことは、彼の国のYouTuberたちも承知していて、母国語で動画をつくると削除されるため、日本語での動画で自国を「おかしい」といって啓蒙しようとしているから、日本人視聴者からは「けなげ」という評価にもなっているけど、自国のほうからは「脅迫」されている。

ところで、前に紹介した『反日種族主義』は、YouTubeにおける動画のシリーズだったが、奇しくも14日が、日本語翻訳版書籍の発売日である。

本国でもベストセラーになったというが、残念ながら保守系の野党第一党にして、この書籍については「批判的」で、けっして「同調」していないことに、より深刻な「種族主義」がみてとれる皮肉がある。
もちろん、著者たちの「受難」はすでにはじまっている。

おそらく、日本では、ことしもっとも読まれる本になるのではないか?
これには、「我が意を得たい」という欲求が日本人側にあるからで、反日のひとたちの「情弱」ぶりと政治のポピュリズムを「哀れむ」ことになるのだろう。

しかしながら、視点の地図をさらに上からみるように引いてみれば、東アジアがみえてきて、もっと引いてみれば地球儀がみえてくる。
すると、日本列島の場所は、あらためて「まずい位置」にあることが確認できる。

アメリカと中国とロシア、それに朝鮮半島は、わが国とどういう位置関係にあるものか?
中国とロシア、それに朝鮮半島の「近さ」にくらべて、アメリカの「遠さ」は、わが国だって「レッドチーム」にはいる合理性を示していないか?

香港のデモにかんして、13日のニュースは、香港の大学に学ぶ中国人学生と、台湾人学生がそれぞれ本国へ帰るために政府が交通手段を用意したと報じた。
つまり、「逃げろ」ということの意味はなにか?

太平洋をはさんで米中が対立するなか、わが国頭上を通り越しての「空中戦」になっている。
米中経済戦争は、はたして「経済だけ」なのか?と問えば、米国議会における「香港支援法」にも、わが国は政官民すべて無関心だ。

台湾の総統選挙は来年の1月11日だからもう二ヶ月ない。
アメリカ大統領選挙は、11月3日。
中国国家主席を「国賓」として迎えるのは、桜の季節だという。

それで、首相の桜を観る会があっさり中止されたのだろうとおもえば、野党が騒いだからではないはずだがいかがか?
「贅沢は敵だ」と、戦時中のフレーズを野党がいう滑稽がある。

しかして、総統選挙後の台湾の人びとは日本の態度をどうかんじるのか?
わが国政府は、台湾を無視していることあきらかだ。

変なのは、この時期の「国賓」あつかいに、アメリカ大統領も、国務省も国防省もノーコメントなのである。

われわれが、アメリカから「哀れ」まれているかもしれない。
香港人も、台湾人も「反日」になるように仕向ける「愚」。
世界は、日本の「裏切り」を確信するだろう。

これを隠蔽するために「侍」や「武士道」ということばで飾る「オリンピック」は、愚民たちへのサーカス=娯楽提供にすぎない。

自民党政権は、「レッドチーム」の本性をむきだしにした。
そして、これに代わる政党が存在しない「哀れ」もある。
安倍首相を敵視する左派とは、近親憎悪をしているだけだ。

何のことはない、「入れ子型」なのであって、隣国国民を「哀れむ」ばあいではないのだ。

わが国はゆっくりと、しかし、確実に「レッドチーム」に向かっている。
残念なことに、香港のデモが「騒乱」になって、軍が投入されてはじめて「国賓招待」のキャンセルができる状況になっているのだ。

日本人は、この意味をしっかりかんがえるべきである。

FAXがほしい

電話機についているのがFAXなのか、FAXに電話機がついているのか?
通信手段として、固定電話とセットになるFAXは、前世紀の遺物、と世界的に評価されるなか、どっこいわが国ではいまだ「現役」だ。

もうずいぶん前になるが、ヨーロッパのとある先進国にある、とある先端企業は、自社の技術がとあるアジアの国に盗まれていることに気がついた。
どこから、設計図が漏れたのか?を社内の極秘調査チームがさぐったら、ネットからだったことが判明した。

この企業でのこの「事件」は、ネットの脆弱性を世界に知らしめたものだった。
それで、どういう対策をとったのか?といえば、いそぐばあいはFAX、そうでなければ郵便ということになった。

どちらさまも「サイバー空間」における「情報争奪」に熱心なので、アナログ回線における通信が、かえって安全だという皮肉である。

ましてや、郵便とは?
かつての冷戦期、郵便物を開封して撮影し、再度封をするスパイ小説や映画のようなことは、じっさいにはもっと巧妙にやっていた。
その筋のプロでもわからないようにする「職人技術」があったのだ。

ところが、冷戦の終了とインターネットの普及という新技術の登場に、これらの職人たちがお払い箱になってしまって、郵便における安全性が急に復活したという事情が説明されてもいた。

前にふれた映画『オーケストラ』(2009年、フランス)は、かつての「ボリショイ交響楽団」の仲間たちでつくるコンサートを成功させる物語だった。

ロートルのひとたちがドタバタしながらなんとかする、というはなしだが、諜報の世界のロートルのひとたちがドタバタしながら、重要な郵便物を盗み見る、なんて映画ができてもおかしくない。
なにせ、もはや後継者がいない、からである。

いまや、固定電話契約は、個人の信用を証明するような「機能」になってしまった。
固定電話番号をもっていることは、「家がある」という意味になるからである。

しかし、ひとり暮らしならずとも、携帯電話があれば固定電話はひつようない。
それで、NTT東西あわせると1997年をピークに「7割以上」も減って1,700万件ほどになってしまったから、年間800億円以上の赤字事業になっている。

ざっくりいえば、毎年150万件の契約解除が発生していることになる。

国家は国民から合法的に掠奪する。

むかし電話を引くときに強制購入させられた「電話債権」とは、いわゆる「電話加入権」のことだが、これが「価値をうしなった」のは、2006年に提訴された損害賠償裁判で、控訴審でも請求棄却が確定したことがきめてになった。

わが国に「三権分立が存在しない」ことの証拠にもなった。
裁判所は、行政府を擁護するために存在しているからだ。
よって、企業にはこの債権価値について「無形固定資産」としての「簿価」をどうするのか?という問題となり、「時価会計」による「減損」するしかないという理不尽も発生している。

客室数に応じて、それなりの契約回線数をもっているホテルや旅館には、想定外の災難なことであったが、これに「業界」が「沈黙」したのも「椿事」ではある。
よく「しつけられた」ものだ。

「パソコン通信」がはじまる前、文書はFAXで送受信する、ことになっていた。
いまだに「パソコンがない」ときに、FAXをつかうのは、「情弱」だけが理由ではない。

コンビニにも、複合機としてのFAXがあるのは、通信手段としての選択肢を確保しているからだろう。

けれども、さいきんは「パソコンがあっても」FAXをつかうことがある。
これは、「PCファクス送受信」という機能があるからで、この機能つきFAX機を介せば、パソコンから直接FAXの送受信ができる。

電子メールに文書を添付させるために、パスワードをかける方法がビジネスの場面でつかわれることが「常識」とさえいわれているが、専門家は「無意味」と批判的である。
サイバー空間をつかうから、悪意があれば盗まれる。

ならば、メール添付ではなくFAX送信してしまうことを通知すれば、手間はおなじでありながら、じつはよほど「セキュア」なのである。
相手も、この機能があるFAX機を介せば、紙に印刷して受信するひつようもない。

わが家のFAXには、メモリーカードを介してパソコンに文書を取りこんだり、返信文書をパソコンでつくってメモリーカードに保存すればFAX送信できる機能があったのだが、このところその機能がつかえなくなった。

どうしてなのかいろいろしらべたら、メーカーのHPに、この機能を提供する独自アプリが「最新のOSに対応しておりません」とあった。
ご丁寧に「この情報は役に立ちましたか?」という選択肢まであるのは、ありえない「ムダ」だ。

要はつかえない、と宣言しているのに、役に立つもない。
最新のOSにいつ対応するから待て、ならまだしも、たんなるユーザの「切り捨て」であるし、製品特性として宣伝し販売した責任の放棄である。

わが国を代表する「経営の神様」とまで崇拝された創業者の、「ユーザを大切にする精神」の微塵もない。大赤字に転落したのは、新興国の猛追が原因ではなく、経営者の身から出た錆である。

仕方がないので、コメント欄に「別のメーカーのFAXを購入することにした」と記入したのは、故人へのリスペクトからである。
そうでなければ無言でいなくなる。改善のためのヒントをあたえるような殊勝なことはしてあげない。

こういう状況をどこかで見聞きしたことがあるとかんがえたら、地震がおきてマンションの建築構造に手抜きがあるのがわかっても、施工者や販売者が逃げ回るすがたに似ていることに気がついた。

無責任な企業には、しっかりした制裁をあたえることが必要で、それをするのは政府ではなく、市場でなければならない。
ただし、わざと倒産して逃げる道もあるから、倒産前と後の両方に、逃げられない道をつくるのは政府の役割だ。

そんなわけで、いまのところ町内会の連絡にしかつかわないけど、あたらしいFAX機を購入しないと、面倒なことになっている。

紅葉の河口湖に行ってきた

秋の紅葉シーズンである。
さりげなく、どこかに行こうということになって、途中河口湖に行ってきた。
河口湖の観光関係者に申し訳ないが、ぜんぜん目的地ではなかった。

この湖にやってくるは何年ぶりだろうかと、かんがえてもはっきり記憶にないのだが、だいたい10年ぶりぐらいだとおもう。
その前も10年ぶりぐらいだとおもうから、10年周期で訪問している。

そんなわけで、印象にのこる記憶があまりない。
前回は、湖畔の美術館をめぐる、という目的があったから、美術館のことは記憶しているが、それ以外はないし、その前の訪問は理由すら忘れてしまった。

富士山に傘がかぶるように雲がかかっていた。
もしや天気がわるくなるかも、とおもったら案の定。
しばらくして雷をともなう激しい雨になったが、それは東富士に移動したときだから、現地がどうだったかはわからない。

湖畔にはたくさんの外国人がいた。
東南アジア系のひとびとは、団体ツアーなのだろう。
うれしそうに御山と湖を背景に記念写真にいそしんでいたすがたが、なんだか半世紀近く前の家族旅行を思いださせる。

ちょうど、「紅葉まつり」開催中とのことで、現地にいって気がついたのは、たくさんの屋台とひとだかりに後からコンビニでみたポスターだった。
わざわざ混雑のばしょに行くのが面倒なので、このエリアは通過したから、なにが?どんな?祭りだったかはさっぱりだ。

このあたり、興味がないと徹底的になってしまうのは、これまでの経験則による。

ポスターには、しっかり「富士河口湖町観光課」と記載があるから、とたんに事前期待値はマイナスになった。
イベントがどうして「猿まわし」と「ジャズ」なのか?
きっと「猿の脳」でかんがえたのだろう。

そして何よりも、「無料」という料金設定が、「発想の貧しさ」の象徴なのだ。
行政が主催になると、「儲けてはいけない」ということに自動的になるから、「やりたいこと」ではなくて「低予算でできること」になってしまう。

わが国にはどうも「無料信仰」がある。

「無料」だから、サービス品質がひくくても誰からも文句をいわれない。
この「ノー・リスク」こそが、役所のねらい、なのだ。
たとえわずかでも「有料」にしたとたん、利用者からのクレームをいわれる「可能性」が生まれるのを極端にきらうからだ。

じつは、この「可能性」こそが重要なのだ。
クレームを受けないようにするにはどうしたらよいのか?
それには、きっちりとした「計画」と「準備」それに、当日の「現場体制」を構築しなければならない。

それで、やっと「有料」にできるし、客の満足もたかまるものだからだ。

しかし、客側もこれまでの人生で、「有料」の祭りなんて経験がないし、無料の、サービスとはいえないサービスになれている。
このばあいの「サービス」とは「奉仕」の意味だが、「奉仕以下」のサービスになれているから、無料があたりまえなのである。

ここで、もう一方の主催者をおもいだすと、たいがいが「観光協会」なる民間団体が存在している。
つまり、こちらが「有料」のチャンスをもっているはずなのだが、予算を自治体に依存しているため、なにもできないのだ。

ほんらいなら、無料と有料の「棲み分け」は可能なのに。

けっきょくのところ、なにをもって祭りが「成功」したのか「失敗」したのかがわからないから、集客した人数という指標しかない。
儲けてはいけないから、指標が「売上」にならないのである。

梅棹忠夫先生はかつて1970年に、観光業を「掠奪産業」と呼んでいたが、なにをかくそう、観光課が地元民の税金を「ドブに棄てている」。
そして半世紀を経ても相も変わらず、観光地にやってきたひとびとから、価値のないものを買わせることでの「掠奪」がおこなわれているのである。

つまり、掠奪のための計画をたてて、実行しているのが「実態」となるようになっている。ノー・リスクはすなわち、自動的に「ノー・リターン」になるからである。
「投入した資源の見返りが、ない」ものを役所用語で「事業」というのだ。

これは、なにも河口湖だけのはなしではなく、全国津々浦々でやっていることなのだ。

これをもって「観光立国」とは笑止である。
せめて「山賊の国」と自己批判もできない脆弱ぶりは、行政依存のみじめがさせる。

しかし、もっともみじめなのは、そんなことに気もとめず、「楽しい」とかんじるように訓練された観光客のほうである。
ということで、じぶんがみじめになってきたから、湖畔の散策と地元野菜を買って、30分ほどの滞在で立ち去ることにした。

帰路の山中湖畔は、日曜日の混雑が「うそのよう」な閑散だ。
しかし、日曜日の混雑が「うそ」で、平日のこの閑散がほんとうなのだろう。
別荘地の合間を抜けつつ、管理費用があたまをよぎれば、「ああ欲しくない」と、またまたいけないかんがえがうかぶ。

富士山が湖面にうつる美のポテンシャルを、関係者が努力して「減価」させるのは「マンガ文化」でもわらえない。
河口湖も山中湖も、おそらくわが家の「目的地」になることはないだろう。
ぜんぜん残念でないのが、残念だ。

人間は「不可逆性」の動物である

人間の「不可逆性」とは、なにに対してか?と問えば、「知識に対してである」がこたえだ。

脳を損傷したり、発病したりしなければ、産まれてから学んだ数知れずの「知識」を忘れることができない動物なのである。
「知識」は、たんなる「記憶」ではない。
それなら、人間よりもっとすぐれた動物に「象」がいる。

象の脳は、一度記憶したことならけっして忘れない。
人気アプリ「エバーノート」のロゴが「象」なのは、このことを強調している。

象が人間のような文明をもっていないのは、「知識」と「記憶」が別物だからである。
もしかしたら象は人間のもつ文明をもちたくないのかもしれないが、「記憶」をつかって「思考」できなければ「文明」にはならない。

こまったことに、人間には「知識欲」というほどの「欲」まである。
「もっとしりたい」
「どうなっているのか?」、それがわかったときの満足感。
この「欲」こそが、文明をつくりだした「エンジン」なのである。

画期的な「発明」が、たとえそのときに売れなくても、いつかなにかに応用されるのは、発明品に内在する「知識」が発掘されて、世に出すひとがあらわれるからである。

人間がわすれ、うしなった「超古代文明」というロマンがロマンになるのは、不可逆性にたいするありうる仮説、たとえば天変地異や破滅的な戦争が原因だったとするからだ。
つまり、前提じたいが仮説になっている。

米ソ冷戦で世界が緊張していたときに製作された『猿の惑星』は、猿が日本人であるという正体のうわさはヨコに置いて、核戦争後の地球に帰還した宇宙飛行士の物語をもってシリーズがはじまった。

この物語における「人間」が、文明をもたないのはことばをもたないという前提になっていたからである。
ことばをもたない、とは、思考をもたないこととおなじだから、文明を構築することはできない。

だから、人間がことばをもっているかぎり、それが何語であろうが、重要な知見は翻訳されて「拡散」されることになるのは「エントロピー」なのだ。

どこのだれが、どんな知見からあたらしいことをおもいつくかはだれにも予想できない。
それは、おもいつく本人にすら予想もできないからだ。

おおくの「ひらめき」は、とつぜん脳裡に浮かぶものなのだ。
じんわりとやってくることはない。
それで、「ひらめき(Flash)」という。

ところが、ひらめきを体験したことがあるひとならわかるだろうけど、「ひらめく瞬間」までのあいだ、意識的でも無意識でも「なにかを『ずっと』かんがえている」ものだ。
べつにいえば、かんがえることが日常になっているような状態だ。

よくいわれるのが、散歩中とかランニング中とか、なにげなくからだをうごかしているときに、けっこう「ひらめく」から、「ひらめき」を欲しくなれば散歩するようになったりする。
じつは、このとき、あんがいなにもかんがえていないか、べつのことをかんがえていることがおおい。

そんなわけで、職場のデスクにじっとしていて「ひらめいた」経験はあまりない。

仕事上のアイデアを求めるときほど、職場からいなくなったものだ。
こまったことに、こうしたことを経験したことがないひとが上司になったとき、職場からいなくなるこをとがめられた。

前の職場では、デスクにじっとしていることをとがめられたから、おなじ会社でもちがうことがある。
自分で職務遂行をまじめに履行するなら、やっぱり職場のデスクにじっとしていても変化がないから、とがめられようがそれは無視した。

すると、やっぱり「ひらめく」のである。

しかし、問題はひらめいたあとなのだ。
これを「企画にする」というステップをふまなければならない。

知識の不可逆性は、とうぜん提案相手にもあるから、以前のままでははじまらない。
いかに「進化」を強調するかになるのだが、自社内での進化のみならず世間の進化にも対応しなければ、へたをすれば「退化」になる。

そこで「ベンチマーク」が大切なのだ。
ただしき競合相手(ライバル)の選定である。
自社と同等なライバルは、スポーツにおけるライバルとも似ていて、相手がいるから頑張れるのだ。

そうしてみると、米ソ冷戦時代の双方が互いに頑張ることができたけど、ソ連が脱落してライバルがいなくなったら、アメリカも弱体化してしまった。

わが国は、バブル経済でアメリカを追い抜いたとおもったら、こんなものかと慢心してこころが緩んだら、思考する脳までゆるんでそのまま凋落している。

ライバルのはずがなかった中国には、とっくに抜きさられてもう追いつかない。
巨大になった彼の国の崩壊を望むのは、防波堤もないのに大津波を望むような愚論である。

ほんとうは「不可逆性」がはたらくはずなのだが、どういうわけか「カネにならない」ことばかりに投資して、凍死しそうなのはかつての同盟国ドイツとおなじであるから、べつくちをみつけないといけない。

さてどこか?
よきライバルがみつからない。

ここにいたっての「不可逆性」は、「絶対値」で思考するしかないという知恵である。

だれかに「依存」すればよい、という時代には二度ともどれないのである。

つくりかた映像の凄み

「国立研究開発法人 科学技術振興機構」というながい名前の組織が、『THE MAKING:サイエンス チャンネル』という番組で、わたしたちの生活に身近な、さまざまな「モノ」がどうやってつくられているのかを映像だけで紹介している。

ぜんぶで300本以上の「作品」数になっているが、HPではなぜか記念すべき1号の表示がなく、2号の「マヨネーズのできるまで」(1998年)から紹介している。

徹底的に、「工場見学」だけに特化した番組で、BGMだけ、ナレーションはなし、テロップに読み仮名がついて説明するだけだから、対象は小学生を意識しているのだろうけど、おとながみいってしまう内容になっている。

それぞれがだいたい15分程度でまとめられているので、ついうっかり観ていると、一時間があっという間に経過する。
いまどき、ニュースをふくめて時間のムダでしかない地上波放送を観るのなら、よほど教育的だといえるが、製作からの時間経過がやや気になるところだ。

YouTubeでは、どうしたことかランダムに映るので、つぎはなにか?という意外性もあって、一杯やりながらの家内とのひとときは、もっぱらこのシリーズを「観賞」している。

どうやってつくられているのか?という全体の流れも興味があるけど、対象物を振動させたり落としたり、その工程における「アイデア」に感心するのである。

どうしてこんな方法をおもいついたのか?
という説明は一切ない。
ただひたすら、製造工程の順番に映像もながれていく。

それで、意外な工程で「人手」や「人力」をかけているのを観ると、その「手間」の理由をかってにかんがえることになる。
日がな一日、この単純作業をすることのモチベーションはなにか?とか、余計なことまで想像してしまうが、現場ではおそらく「余計」ではないだろう。

安価で手に入る日常品が、かくも人間の手間をかけているのかという場面では、家内とふたり、ただただ驚嘆することしきりなのである。

もっと値段を高くしてもいいのに。

ましてや、食品工場ともなると、複雑な機械がでてくるたびに、気になるのが「清掃の手間」である。
おそらく、製造終了後の後片付けにおける細部までの清掃に、驚くほど面倒な労力をかける努力がはらわれているはずだ。

製品を大量に製造するための合理的機構と、衛生保持のための作業とに、放置すれば絶望的な断絶だってあるにちがいない。
このときの「メンテ」にかける手間が、製造の簡易さをうわまわれば、たちまち「合理的機構」の合理性がうしなわれる。

すると、設計者はどんな工夫をこらしているのか?
あるいは、現場ではどんなうまい方法をおもいついたのか?
そしてそれが、どのように設計者にフィードバックされて、新製品になっているのか?

じつに気になるところである。

すると、設計のための予備知識と、フィードバックが交互にやってくることがわかる。
これが、「スマイル・カーブ」の発想につながる。

スマイル・カーブとは、横軸に設計から製造をへてフィードバックされるまでの「工程」をおいて、「価値」を縦軸にしたグラフを書いたときにあらわれる、人間が笑った口元(「U」より開いた)のような曲線になるために命名されたものだ。

工業が、単純に「大量生産」をめざしていた時代、さいわいにも世界は「物不足」という時代でもあったから、「大量消費」ということがかさなって、なんでもいいから作れば売れる、ということが成立していた。

このときは、「設計」→「製造」→「フィードバック」などの各工程が生む「価値」を同格あつかいできるほどだった。
だから、スマイル・カーブはぜんぜん「スマイル」ではなくて横棒一本(「-」)のグラフになっていた。

社内でも「同格」だから、経営トップは社内各部署の「平等」を旨として決済することがもっとも重要だったし、自身の保身にもなったのだ。

ところが、あまねくモノが世の中に浸透すると、こんどは「機能」と「品質」の時代になる。
さらに、製造方法がデジタル化して、コンピューターによる機械コントロールが可能になると、適切な製造立地が途上国に移転した。

こうして、本国では「設計」と消費者からの「フィードバック」に価値がたかまって、「製造」そのものが生みだす価値が「相対的」に低下したから「スマイル・カーブ」になったのである。

さてそれで、わが国はどんなふうに産業を進化させるのか?
これをかんがえるひとたちが、「公務員だ」という倒錯が常識になってしまっている。

「有職故実=前例主義」に基盤をおく「しかない」公務員こそが、日本経済の進展をことごとく邪魔しているのに、なにをかんがえているのだろうか?
ソ連末期、ダメな経済立て直しに国家の介入を強化したら自滅したことを忘れたか、覚えてすらいないのだろう。

金融の世界だって、国内最優秀者たちをあつめて金融庁の役人にとってかわれば、わが国の金融界は世界的になれる、という幻想をまじめにかたるひとまでいる。
そんなことをするよりも、規制官庁を廃止して「自由化」一発で済むはなしである。

前世紀のおわりにできた『THE MAKING:サイエンス チャンネル』の「凄み」とは、この意味における国家介入の「絶望」を、ひたすら追求している「国立」の組織があるということなのだ。

日本語能力証明書の「偽造」

「資格」というのは信用をもってなりたつので、信用が毀損されることは「資格認定する側」からすれば死活問題である。

しかし、昨今、日本ではたらくことを希望する外国人には、日本語能力試験の認定書が「偽造」であっても欲しいという、つよい需要があるというから、これはこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、「認定書」へのつよい需要のことをさす。
それで、偽造した書類をつくって商売にしているのが、どうやら中国らしいから、これもこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、需要があるところに目ざとく供給して商売にするということである。
これぞ「ビジネス」の鉄則であるからだ。

報道によると、偽造証明書を購入して逮捕・起訴されたひとの公判で、フェイスブックで偽造業者をみつけた、ということがわかった。
このときの言語が何語だったのか不明だが、もし日本語だったらたいした情報収集力であるし、中国の業者側もどうやって記述したのか?

自動翻訳だったのだろうか?
つかまったひとたちの東南アジア各国語での「販売」だとしても、それはそれで「手間」がかかっているはずだが、代金は1万円だったというから、はたしてこの金額で海外発送までして儲かるものか?

もちろん、この「代金1万円」をどうやって支払ったのか?という問題もある。
銀行からの送金なら、1万円の送金にそぐわない高額の手数料が請求されるから、おそらく別の方法だろう。

偽造側も日本円で支払われたものを、どうやって中国で受け取るのか?
まさかクレジットカードということもなかろう。

残念ながら、記事からはわからない。
わが国を代表する「経済紙」にしてこのていたらくである。
「経済」に特化できないなら、社名から「経済」を削除するか、いさぎよく看板をおろすべきだろう。

自国公用語の言語の能力が在留資格の取得に重要な意味をもつのは、世界的には共通事項だ。
英語が極端に苦手な日本では、とくに日本語がつうじないとはなしにならない。

それで、日本人の英語力を高めることよりも、日本にきてはたらきたい外国人の日本語力を高めるほうが手っ取り早いという具合になっている。

この日本人にとっての都合のよさは、残念ながら外国人にとっても重要で、雇用主の日本人と意思の疎通ができないと、たいへん残念なことがおきると予想できるからである。

ところが、こまったことに、日本語が世界的に難易度が高い言語のひとつとされている。
それは、日本語のルーツがいまだに不明なように、どの言語体系にも属さない「独自」さと「複雑」さから指摘されていることだ。

外国人に日本語をおしえて45年になる、日本語教育の先生にきいたはなしで驚いたのは、メソッドとしてはじめに「日本語文法」を半年間でおしえきる、ということだった。

それで、はじめて日本語をならう外国人に「理解できるのか?」と質問したら、「才能です」という回答だった。
先生は、たいへん優しいひとで、難解だが半年でマスターできないなら、別の道をえらばせたほうが本人のためだとおっしゃった。

ずるずると、若い本人の貴重な人生の時間を浪費させることは、教育者としてできない、と。
何年も、何回も、似たようなパターンを経験されて導き出した、きっぱりとした決心だ。

もちろん、何年も何回も、似たようなパターンで生徒がつまずく箇所も熟知しているから、年々と教授法も進化させているのだと先生はいう。
こんなに、外国人にわかりやすく工夫できるのは、先生が外国語の達人でもあるからだ。

イヤミでないのは、生徒のことをリスペクトしているからである。
「日本語だけ」が能力ではない。
才能を見切ったら、別のチャンスを見つけさせることも教師の役目だという。

そんなわけで、先生のもとで卒業できるのは入学者のわずか20%。
しかし、その20%のひとたちが、これぞという日本語力で人生を切り開いている。
これぞ、教師と生徒の並々ならぬ双方の努力の成果なのだ。

だから、先生は、日本における教育の「甘さ」を、厳しく指摘している。
安易な教師に安易な生徒ということではない。
先生からいわせれば、安易な教師でよしとする安易な社会だということだ。

製造物には製造物責任のための「PL保険」があるが、学校には製造物責任がないことをいいことに、安易をもってよしとする。

はたして、日本にきてはたらきたいという外国人に、丁寧かつ見切りをつけさせるような、経過責任のあるぶ厚い日本語教育をしているのだろうか?と問えば、寡聞にして聞いたことがない。

日本における英語教育とおなじに、生徒ができないのは教え方の無様を無視して「本人のせい」という、結果責任だけをおしつければ、うっかり「偽造」の発注もするだろう。

人手不足に悩む経営者も、外国の他人の子どもを酷使するのではなくて、その子の人生を預かるという気概なくして、継続的に応募もしてくれなくなるのだ。

せっかく日本にやってきて、「逮捕」され「起訴」されたら、国外退去にならずとも、日本人だって履歴書の提出がはばかれる。

外国人であろうが若者の夢をうばい、犯罪者を製造する国になってしまうことの反省だってあっていい。

これではまったく、日本における『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだが、ぜんぜん救いがないから、もっと深刻で悲惨なのである。

分裂するアメリカの恐怖

アメリカが「思想」で分断されてきている。
もはや「民主党」は社会主義をむきだしにして、かつてソ連と対峙した時代にはかんがえられない、自身の「ソ連化」を批判する者はいない。

一方の「共和党」は、「反グローバリズム」のトランプ政権によって、「金融資本主義」が押さえつけられ、製造業への回帰という一見「古風」な政策が推進されている。

どちらの側も、少数の富豪による「国富」をこえた「独占的支配」に対抗しているのである。
つまり、アメリカの矛盾は、あきらかに「富の分配」における不公平感是正に対する「手段」になって表面化している。

しかし、「手段の選択」には「思想」という要素が不可欠だから、「資本主義の必然的矛盾」だという、典型的かつ古典的な社会主義・共産主義思想にたてば、民主党の主張になることも「必然」なので、目指すは「ソ連化」になる。

対して、共和党は「資本主義」自体の問題ではなくて、「資本主義の運用の問題」という枠を設けているのである。
なかでも、金融資本家による支配について、つまり端的にいえば「ウォール街つぶし」こそが手段となっている。

この思想対立が、来年の大統領選挙にむけて熾烈化するのは必至だ。

かつて、「ソ連」を誕生させたのは、じつは金融資本家たちによる「支援」だったことは、歴史的事実としてしられている。
見返りは「隠れ蓑」という「場の提供」だった。

歴史は繰り返す。

いま、トランプ政権つぶしに奔走しているのは、弾圧の対象になっている金融資本家たちなのはあきらかで、かれらが民主党にかけより、アメリカの「ソ連化」を推進しているのである。
これを隠蔽するための「手段」が、民主党の中国批判なのである。

すると、かつての「中ソ対立」が、民主党によってすでにおこなわれていることになる。

さらに、不可思議なのがいま渦中の「トランプ弾劾」だ。
いわゆる「ウクライナ疑惑」のことだが、そもそも論でいえば、いちばんあやしいのは「バイデン元副大統領とその息子」による「ウクライナ『利権』」である。

民主党の次期大統領候補として、世論で最有力視されているのが「バイデン元副大統領」なのだから、問題をトランプにすり替えているようにみせながら、じつは民主党内における「バイデン失脚工作」ではないのか?ともかんがえられる。

候補者を選ぶという、わが国には存在しない方法の「予備選挙」で、党の代表者を決めるのだから、「本戦」まではえらく長丁場なのがアメリカ大統領選挙だ。
今回は、民主党内に「極左」の立候補予定者がいることに注目したい。

つまり、世論におもねることなく、党の思想によって候補者を選ぶなら、とっくに「バイデン」は本命ではない、ともいえる。
だから、ウクライナ疑惑は、バイデン降ろしの役に立つし、トランプ批判の世論も期待できるから、一石二鳥なのだ。

この「弾劾問題」は、以上のようにみれば、アメリカの分裂の深刻さが鮮明になることから、どんな結論になるのかによって、今後の世界史がきまるほどの威力がある。

われわれにとっても、「対岸の火事」ではすまされない。
おそらく、来年のアメリカ大統領選挙は、かつてないアメリカ社会の決定的分裂を世界にさらしながら、その余波が、われわれにとっては、「余波」どころではない「強烈な圧力」となってくるにちがいない。

それは、社会主義を達成したがゆえに「衰退確実」なわが国が、社会主義を棄ててプリミティブな資本主義を追求しながら、政治的には「帝国主義」むきだしの中国陣営に向かうのか?それとも、本家「ソ連」をめざす民主党政権のアメリカか、あるいは、古風な資本主義の共和党政権のアメリカかの選択を迫られるからである。

これは、どれをとっても「ベストがない」から、悪魔の選択にならざるをえない。

すくなくても、自民党安倍政権は、中国陣営に向かう選択を、現時点でしているから、アメリカ大統領選挙による「強烈な圧力」がくるまえに決着させておこうという魂胆なのだろう。

経済は中国に、防衛はアメリカにという「コウモリ君」になると決めた、という意味である。
なるほど、それで、香港問題にも台湾問題にも一切の発言をしない「無関心」でいられるのだ。

衰退がとまらないわが国は、どうやら世界第三位の地位から不況のドイツに抜かれて第四位になったようだ。
たった1ランクのダウンではない、とまらない落ち込みのスピードアップのはじまりにすぎない。

「コウモリ君」がどんな運命になるのかは、児童のほうがしっている。

トランプ政権は、中国と経済戦争をおこなっているというけれど、これには上述のように民主党も乗っているから事実上の「新冷戦」だ。
なのに、同盟国のわが国が「裏切っている」けどなにもいわないのはなぜか?

ふつうにかんがえれば「泳がしている」のか、あるいは、「呆れている」のかのどちらかで、「泳がしている」のなら「鉄槌」が、「呆れている」なら「絶交」がやってくる。

このままでは、どうにもならない不幸がわが国にやってくる。
最悪をかんがえないわるい癖がわが国エリートの伝統だから、そのときにどんな「パニック」を見せつけられても、国民の不幸が改善されることはない。

戦争の世紀だった20世紀よりも、真綿でくびをしめられる悲惨な世紀になりそうな気配がぷんぷんしている。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。

まさかの電波障害か相性か?

講演につかうプレゼンテーション用品として、主たる必需品はもはやパソコンという時代になったが、そのパソコンでつくったプレゼン画像の強調をする「指示棒」も、ずいぶん前からレーザー光線ポインターになってきてもいる。

ポインターには赤色レーザーと緑色レーザーの二種類が主流で、くわえて青色もあるけど、見やすい緑色レーザーが人気である。
ただし、発光機構が複雑になるため、緑色レーザーのポインターは高価で、かつ電池の消耗がはやいのが玉に瑕である。

とはいえ、やはり参加者にみやすいことが重要だから、わたしは緑色レーザーのポインターを愛用している。
なかでも、パソコンのプレゼンテーション・ソフトのページ送りなどを、ポインターで操作できる機能つきのものは、パソコンのボタン操作などを必要としないので重宝してきた。

先日、あたらしいパソコンのデビューもかねた講演で、このレーザーポインターが作動しないで困った。
自宅で実験したときにはいつものように作動したので安心したが、本番での突然の不調は、かつて電池切れの一回ぐらいで経験がない。

乾電池を買いに走ったことは前に書いた。
以来、乾電池の予備はカバンにかならず常備しているのだが、今回の不調は乾電池ではない。
新品だし、本体の電池表示も正常レベルだからだ。

どうしても作動しないので、この講演ではレーザー光線ポインター単体の機能だけで乗り切った。
「故障」の文字が頭をよぎるが、どうにも割り切れず帰宅した。

それで、これまでの古いパソコンで操作をこころみると、なんの問題もなく従来どおり作動する。
つまり、「故障」ではない。
ではなんなのか?

いろいろ調べたら、あたらしいパソコンにはUSB端子が3カ所あって、ぜんぶ「3.1規格」であり、左側が「タイプA」ひとつ、右側が「タイプC(サンダーボルト対応)」が二つとなっていて、もしかするとこれら端子からの「電波障害」ではないのか?という疑いがあることがわかった。

ネットでの対処方法に、ズバリ決定打がないのも不思議だが、さいしょに自宅で実験したときに作動した理由も不明だ。
しかし、この「事件」のあと、自宅でも作動しなくなった。

デジタル製品だから、条件がおなじならおなじことがおきるものだとかんがえると、さいしょに自宅で作動したことがとにかく腑に落ちない。

それにしても、ネットでこんなに「USB3.0」端子の電波障害が話題になっていることをしらなかった。
普及はしているが、旧「USB2.0」規格の端子と新「USB3.0」端子が混在したパソコンがいまでも販売されているのは、データ通信速度をひつようとしない、レーザー光線ポインターなどの機器に影響をあたえないためのメーカー「配慮」だとすれば腑に落ちる。

ポインターで操作できる機能は、2.4MHzの電波をつかってポインター端末とパソコンをつないでいる。
ところが、「USB3.0」端子や、この端子に接続した機器から、2.4MHzの電波帯にちかい有害電波(ノイズ)が発生しているのだと解説されているのだ。

さいきんのレーザー光線ポインターで、パソコンを操作できる機能つきでは、本体収納のUSBアンテナをつかわなくても、ブルートゥース接続もできる「デュアル接続」をうたう機種もあるが、ブルートゥースだって2.4MHzの電波帯なのだから意味があるのか?

ならばメーカーは「USB3.0」端子からのノイズについて明示すべきだし、対処法についての情報も事前に公開しなければ、消費者への「配慮」とはいえないのではないか?

そんなわけで、わたしのあたらしいパソコンには「USB3.1」のタイプA端子はひとつしかなく、レーザー光線ポインターもUSBのタイプA型になるから、直接端子に接続するのではなく、有害電波をシールドするケーブルの先に接続するのが「対処法」のようである。

しかも、そのケーブル長は有害電波の出力と距離との関係から、1m以上が推奨との情報をえたので、まずはケーブルを購入することにした。
電波の減衰は、距離の2乗に反比例するからである。

すると、こんどはシールドされたケーブルの選定が必要になる。
これだって目視してわかるものではないから、それとなく説明を読まなければならないし、残念ながら、100均で購入できるものではなく、ちゃんと電気屋さんにいかないと売っていないのだ。

それは、いわゆる「USB3.0対応(準拠)標準延長ケーブル」と商品表示されているものだった。
今回のトラブル一連の調査で、この表示の意味が理解できた。

ノイズが出る「USB3.0」のために、ケーブルの両端子とケーブル自体にも電波シールドをほどこした延長ケーブル、という商品である。

ここまでやっても「作動しない」から、とうとうメーカーに問い合わせれば、「パソコンとの相性です」が回答であった。

ウィンドウズ・パソコンなんてどれもおなじ、なのではない。

膨大な「組合せ」になると、その違いが不明になるということだ。

これこそ「AIの出番」かとおもうが、どうやって「学習」させるのかをかんがえたら、やっぱり「不可能」だろうから、「AI社会の怪しさ」しかみえてこないという顛末である。

「大局」をみずに「戦略」とは?

「軍事用語」をこの国ではどう扱うのか?
といえば、そもそも「軍事」をおしえる一般大学での授業がないし、「情報学科」はあっても「インテリジェンス」をおしえる学科もない。

「情報」といえばなぜか「コンピューター」や「IT系」ということになっている。
つまり、「ミクロ」のはなしばかりなのである。

ところが、「経済学部」や「経済学科」になると、「マクロ」が先行して「ミクロ」が軽視される傾向がある。
「マクロ経済」とは、国家単位で経済をみる学問で、「ミクロ経済」とは、一企業単位で経済をみる学問だ。

しかし、学問分野という「ミクロ」をやめてしまえば、学生がとる授業の幅はあんがいひろく、「歴史」だってある。
しかしながら、「俯瞰する」という態度がないから、専門となるとたちまち「ミクロ」になるのである。

「囲碁」や「将棋」というゲームは、ちいさな盤面内ではあるが、勝利のために「俯瞰する」という態度をひつようとするので、教養人や指導者にこのまれる。
「頭の体操」になるからだ。

ここでいう「頭の体操」とは、細かい手をかんがえること「ではなく」大局を思考する、すなわち「戦略」をかんがえることを意味する。

ビジネスにおいても「戦略」ということばは多用されるけれど、「戦略」とはなにか?を定義づけてつかっているひとはすくないものだ。
それで、「戦術」との区別が混乱するのである。

「戦」という字が共通なので、「戦略」も「戦術」も、どちらも元は「軍事用語」であるし、軍事用語として当然ながら「現役」である。

「戦略:strategy」、「戦術:tactics」。

物騒だが「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいに鈍感なのは、日本人いがいは未開人かもしれない。
すくなくても「核兵器」はいけないもの、という「観念」のもと、「戦略」だろうが「戦術」だろうがおなじく「いけない」という「条件反射」になってしまう。

問いの、「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいなにか?にこたえずに、「いけないもの」というのでは、採点すらできない。

ソ連がバンザイして終結した冷戦は、アメリカが仕掛けた「宇宙兵器」ともいわれているが、西ヨーロッパに配備した「中距離弾道ミサイル」が、じっさいにトドメを刺したのである。

これはなにか?をしらないヨーロッパ人はいないが、「中距離弾道ミサイル」とは「戦術核兵器」のことである。
これらのミサイルを、大量に配置するという「戦略」を、「ヨーロッパ核戦略」という。

有史以来、人類は「パワー」をもって相手を凌駕してきた。
だから、「パワーポリティクス」というのは、「本音」のことをいうのだが、あまりにも「露骨」なので、さいきんは「きれい事」を表明することで「本音」をかくすことが「常識」になっている。

だから、相手の「きれい事」を聴いて、それを信じるということほど「危険」で「愚か」なことはない。

たとえば、昨日は、東京オリンピックのマラソンや競歩の競技が札幌開催にきまった、というニュースがあった。
このニュースは、酷暑の中東でのレースが失敗におわったことで準備されていたことではないのか?
すなわち、「最悪」をかんがえるということの「戦略思考の放棄」が、現代日本人の指導層に「ふつう」にあることが、露骨にあらわれた「ニュース」なのであって、開催地の変更が「ニュース」なのではない。

また、米国在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏による、オバマ大統領の氷のような思考と態度だって、日本人がしらないことだらけだ。
オバマ氏は、核兵器の1兆ドルをこえる大増産を指示しながら来日し、広島であろうことか「核廃絶」を訴えた。
これに日本人はこぞって「感動」したのである。
こんな茶番があるものか。「ナイーブな日本人」ではすまないバカにされようなのだ。

世界の大局をみる習慣がないことで、国民が「大恥」をかかされていることすら気づかない。
また、わが国マスコミは、視聴者に世界の大局を報じる気がない。
島国のなかで、ちまちま幸せにいればそれでいい。

これは、ヘンテコな一国平和主義である。

国籍が何人であろうが、腹黒いのが世界の常識であることを前提にすれば、「大局観」を得るための情報のとり方がある。
戦略は、その結果えられる思考展開のことだ。

腹黒い世の中で、戦略がなければ滅亡する。
個人も、企業も、国家も、これから逃れることはできない。

さぁどうする?が突きつけられている。