ひとの先行指標は学校

景気判断には「先行指標」と「遅行指標」がつかわれる.ずいぶんまえから有名な「先行指標」は,「エチレンの生産高」だ.石油からつくられるエチレンは,すべてのプラスチック類の原料である.現代生活にプラスチックは欠かせない.その原料の生産高がふえるのは,なにも勝手に工場がつくっているからではなく,「発注」があるからだ.最終製品の工場に部品在庫がなくなれば,当然に部品メーカーに発注する.その部品メーカーの在庫がなくなれば,さらにその先のメーカーに発注する,という連鎖で,最終的な発注はエチレン工場になる.「売れる」という「予測」があるから「発注」するのだから,エチレンの増産は,その後すべてのプラスチック類が増産になることを示し,それらが「売れる」を前提としているから景気の「先行指標」となる.「売れない」が前提になれば,エチレンの発注が減るから生産も減る.

「遅行指標」というのは,景気の上昇や下降がおきているときの念押しをする指標である.これには,「ホテルの宴会需要」がつかわれる.景気がよくなって自社の利益がかなりいい感じになると,ホテルで宴会をしたくなる.逆に,景気の潮目が変わると,先に予約したホテルの宴会をキャンセルしたくなる.だから,いつでもホテルの「実績」は景気の反応として遅れてやってくる,それで景気の状態の念押しができるのだ.もっといえば,ホテルの宴会ビジネスの本質は,経済の「フロー」によってきまるということだ.

20歳を基準にかんがえる

高校卒業生と大学卒業生の中間にあたる20歳を目安にすれば,人材に関してだいたいの傾向がつかめる.

ひとの先行指標として,もっとも早いのは,「出生数」である.わが国の出生数は,昨年「初めて」100万人を下回った98万1千人だった.だから,いまから19年後,今年1歳になった子たちは全員が20歳になる.つまり,19年後ぐらいの就職者の上限が決まるという意味での先行指標である.

これを,小学校,中学校,高校,大学と順にすればよい.小学校5年生が10歳なので,10年後に20歳になる.中学3年生なら5年後に20歳.高校2年生で3年後.大学1年なら,ほとんどジャストである.

人数だけではないが

すでに「少子化」しているから,「化」をとってもさしつかえないのではないかとおもう.まずは,地元就労圏内の学校における,上述の人数がどうなっているのか?を調べることからはじめたい.おそらく,全国どのエリアでも,おどろくほど数がいないことがわかるだろう.そう,まずは「おどろく」ことが重要なのだ.正しい現状認識が,すべての「企画」や「計画」の出発点になるからだ.

この「数字」は,子どもの数である.将来の労働力の「供給量」がわかる.すると,事業者側の「需要」はどうなのか?どのくらい「足らない」のかという問題になる.

誰にもコントロールできない「経済原則」がある.それは,「『需要』と『供給』によって価格が決まる」という原則だ.旺盛な需要に対して供給が極端にすくなければ,その「商品価格」は確実に「上昇」する.

労働者の「労働」も「商品」である.ふつう,労働の「質」によって「価格」がかわる.高学歴=高収入に見えたのも,労働の「質」が評価されていたからだ.しかし,圧倒的に供給量がなくなれば,まずは「数の確保」が優先される.そのうえで,「質」が問われるようになるだろうから,どちらにしても「賃金」は上昇することになる.

大学が倒産するという「先行指標」の陰で

このところ「大学」の話題が豊富だ.文科省の許認可権限の大きさが問題にならず,政治家との関係の方が重視されている.それでも,倒産する大学はこんご増加するのは確実である.

まだおおくの「親」が気づいていないが,高学歴=高収入という単純式の時代はおわった.「職人」という高収入の道があるのだ.これには,プログラマーも含まれるだろう.

2012年から,中学校の技術家庭科で,「プログラムによる計測・制御」が必修になっているし,数学において「統計」が全面実施されているのをご存じだろうか?その1年前,2011年から,小学校の算数で「統計」が教育されている.また,高校では2013年から「統計」教育がはじまった.わが国で,「統計」を教えるのは,なんと30年ぶりなのだ.

だから,先生もしらない.これで生徒たちは大丈夫なのか?とおもうが,この子たちはそろそろ20歳の「お年頃」になる.

プログラミングと統計をかじった人材が,あなたの会社にも入社してくる.

罪な「水戸黄門」

18世紀中旬の宝暦年間の実録小説『水戸黄門仁徳録』を起源として,その約百年後の幕末に『水戸黄門漫遊記』ができたというから,おおざっぱに300年ほども日本人に親しまれていることになる.

だから,「水戸黄門」と,さらに古い「忠臣蔵」の世界観は,かなり根深く日本人のアイデンティティーに影響をあたえているはずである.

しかし,これらの作品は,「講談」や「芝居」であって,現実からはずいぶんかけはなれたはなしになっている.作りばなしと現実が同じになってしまうというのが,国民という集団(以前なら「民族」という)規模でおきているとすると,これは「冗談」ではすまない.

悪代官と悪家老しかでてこない

しょせん「勧善懲悪」なのだから,いちいちほじくらなくてもいいではないか.とおもいつつも,悪代官がいても,悪いのは将軍家ではない.悪い家老がいても,悪いのは殿様ではない.という構造が気になるのだ.つまり,体制批判はあってはならない,という約束が,物語の背景である江戸時代の価値感をこえて,現代に倒錯して伝染しているなら,これはこれで「事件」だからだ.

まして,「水戸黄門」を江戸時代の価値感にとどめたら,幕閣でもない御三家の元藩主が,封建時代の真っ盛りにとある藩の内情を勝手に探って,その家臣らを手討ちにするという設定は,まったくありえないファンタジーである.

ところが,この「ファンタジー」が,おそるべき視聴率をたたきだして,世界最長のテレビドラマになった.これは,ファンタジーを圧倒的な国民が支持した証拠である.

世界に誇るわが国の「サブカルチャー」を,どういうわけか勘違いした役所がまたぞろお節介を焼いて,「クールジャパン戦略」なるもので大赤字を計上してしているが,アニメやコスプレ,人気アーティストの活躍のキーワード「ジャパニーズ・ファンタジー」のタネは,「水戸黄門」と「忠臣蔵」ではないか.

「押し込め」こそがお家のため

「忠臣蔵」では,史実としても物語のきっかけをつくった張本人がお殿様だが,討ち入りまでのドラマでは陰がうすい.「水戸黄門」では,登場するお殿様は,おなじく陰がうすいとはいえ,たいがい「暗愚」ということになっている.だから家老一味に実権を簒奪されているのだが,これに気づかず優雅にくらしている.これはこれで,体のいい「押し込め」である.

大名家の「藩主押し込め」は,かなり一般的だったようだ.ひどくなると,強制的に隠居させられて,座敷牢に押し込められたというから,本人の人生は悲惨のきわみである.ようは,「家」がつづけばよいのだ.もしもの疑いをご公儀から受けたらば,最悪はお取り潰しである.そうすれば,家臣一同もそろって失業=浪人の身におちる.太平の世に,戦闘集団である武士をあらたに採用する他家はないから,その恐怖は現代の企業倒産の比ではあるまい.

企業存続だけに汲々とする経営者と家臣団

江戸時代の大名家とおなじく,お家の存続=企業の存続,となると,その従業員である家臣団は,社長である殿様の意向を無視しだす.現場業務に精通しているという自負が,素人社長の介入をゆるさないからだ.これは,代々続く個人事業的企業でも,明治以来の名門大企業でも,似たようなことがおこる.

現代日本企業では,「社長押し込め」がおきている.

企業組織をどのように統治するのか?ということは,案外日本企業の苦手とする分野になった.バブル経済期の絶頂をさかいに,近年は「日本的経済システム」におおきな疑問が生まれてしまった.バブル絶頂前までは,「企業一家」としての「浪花節」が社内で通用していた.だから,理不尽なことも,社員感情のコントロールでうまく「ガス抜き」ができた.社内旅行や社員運動会などの各種行事が,それに色を添えたのだ.

「水戸黄門」の放送が終了したのは2011年.昨今,とんと浪花節は通用しなくなった.今年は,「忘年会がある会社はブラック」という話題まで出現した.

組織運営には,心理学がかかせない.急激に変化する人心を把握する心理学とは,企業哲学である.中国で,「稲盛ブーム」がいっこうに冷めない.京セラの稲盛哲学が,体制をこえて指示される理由を,日本人があらためてかんがえるのも来年につながる準備になるだろう.

「労組」という安全弁

「宿命のライバル」がいるひとは幸せである.ライバルと認める存在が,自身に適度な緊張をあたえてくれる.それで,自分の成長が促進されるからだ.だから,突然,ライバルが目のまえから消えてしまうと,自分のいくべき方向がわからなくなって,混乱し,低迷してしまうことがよくある.そういう意味で,ライバルは互いに鏡のような存在である.「よきライバルこそよき友」といわれるのは,このようなことからだ.それは,また,よきライバルをもったことがあるひとにしかわからない.

経営者の役割をだれがチェックするのか?

企業活動のなかでかんがえると,経営者の鏡になるのは従業員である.よき経営者が経営する企業には,よき従業員があつまってくる.ところが,よき従業員たちだったものが,悪しき経営者のもとでは不良化することがあるからだ.あたりまえだが,従業員も経営者も,ひと,である.だから,会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になる.

しょせんは「仮のすがた」なのだ.

とすれば,世の中は演劇でできている.だれしもが「仮のすがた」をよそおって生きている.たまたま割り振られた役柄を演じていることになる.ここで,ちょっとした意志をもって,もっといい役回りがほしい,として自分から行動したひとは,それなりの役が回ってくるが,ハッピーエンドになるか悲劇的な結末になるかは,「運命」が左右することもある.

「運命」を「神の御業」とかんがえるひとと,「運命」は「コントロールするもの」とかんがえるひと,いや,「運命」には「だまって流される」のをよしとするひとと,演じてによってシナリオがことなるのが,実際の演劇とのちがいだ.しかも,これらのかんがえが,同じ演じての人生のなかで,コロコロとかわる可能性もある.だから,すべてのひとは,すさまじく無限大の選択可能性のなかから,シナリオを絞って生きている.

たまたま割り振られた役柄として,経営者の役をこなすひとには,だれが演出するのか?といえば,ふつうは「株主」とこたえたいところだが,「ものを言う株主」が注目されるわが国では,「ものを言わない株主」のほうがふつうだ.事業に失敗して「再生」モードになった企業のばあいが,スポンサーという他人に演出をゆだねることになる.

ところが,このスポンサー役を公務員が引き受けることがある.「支援」という大義名分をもって,政府が介入するのだ.もっとわからないのは,カネを出さないのに口だけ出すばあいだ.「監督官庁」というものがいる.不祥事をおこした企業のトップが,役所にいって頭をさげる.国民の目からみれば,「監督不行き届き」で罰せられるべきは「監督官庁」のほうである.しかし,「監督官庁」の役人が怒ったような顔で,おまえらのおかげで仕事がふえた,どうしてくれるのだ!という気分を演じている.仕事をしている振りを演じてきたから,それが「振り」だったとバレることに怒っているのだ.笑止,である.

労働組合という役割

べつに不祥事だけではないが,ふだんから経営をチェックできるのは企業内にあっては,「労働組合」だけだ.ところが,残念なことに「労働組合」が特定の政治活動に没頭しすぎたために,労働者からも忌み嫌われるようになって,組織率は低下するばかりである.労働者も会社をはなれて家に帰れば,それぞれが一介の家庭人になることをわすれてしまった.

それで,おおくの企業内に「コンプライアンス室」ができたのだ,と疑っている.もちろん,表向きの経緯はちがう.しかし,監査役が役に立たないのを承知で,「コンプライアンス室」をつくるのは,まさに屋上屋を架すことではないか.ほんらいは,労働組合に期待できる機能だ.「コンプライアンス室」ができた企業は,それなりの規模か法的なしばりがある金融系の会社だ.一般にいう大企業のばあいは,伝統的に労働組合があって,さらに「コンプライアンス室」もあるだろう.すると,組織内のよからぬ情報は,労働組合ではなく「コンプライアンス室」にむかう流れになるから,さらに労働組合の位置づけがあまくなるはずだ.

経営者と労働者は,それぞれ目的がちがう.しかし,資本論やらに脳ミソをおかされたままだと,そのちがいの本質がみえなくなる.とくに,日本の経営者は,エリートとして資本論の教育をしらずにうけてきた歴史があるから,勘違いの度合いは格段にちがう.すなわち,「経営者=資本家」という勘違いだ.だから,社員から経営者に「昇格」したとたんに,「俺の会社」になってしまう.歴代の「先輩たち」もそうしてきたから,本人にはなんの疑問もないだろう.草葉の陰でマルクスが笑っている.

「所有」と「占有」の区別がつかないのは,近代社会の成人としてかなり深刻な精神病理である.他人から借りた本を返さない文化も,この病理からなる.他人の所有物を借りてきて占有すると,いつの間にか自分のものになってしまうから,返却しなくても気にとめない.つまり,占有状態がつづくと所有に変化するのだ.これは,貞永式目(御成敗式目)にある土地占有が所有に変化する期間を20年と定めた文化である.じっさい,21世紀のわが国の民法でも,これは変更されていない.

経営者は,企業に「利益をもたらす」ための諸策を立案・実行する役割がある.一方,労働者は,自分の「労働力」を売ることで,その対価である賃金を得る役割がある.たんなる宗教書である資本論を無視すれば,経営者と労働者は,労働力の売買という点において対等である.

だから、賃金交渉こそが労働組合の本分だ.その「賃金」の源泉は「付加価値の創造」にある.なんとなれば,付加価値に人件費は含まれるからだ.すると,経営者の利益を出すという目標と,労働者の正当な対価としての賃金の受け取りとは,「付加価値」という一点でかさなるのだ.要するに,おなじ船に乗っているということだ.そして,それは同床異夢でもないことに注意したい.

経営者が上述の勘違いをあらため,労働組合が特定の政治活動から本分に回帰すると,双方にとっての「安全弁」になる.これこそが,生産性向上のための基盤である.付加価値を人数で割ったモノが生産性だからだ.「働き方改革」とは「働かせ方改革」でもある.

経営者と労働者は宿命のライバルであって,ほんらい「敵」ではない

旅館には労使協議会があっていい

「労使」といっても団体交渉でもなく,労働組合を相手にするものではない.経営者と従業員代表(過半数を代表する)による協議である.労働組合ではないので,争議権はないが,時間外労働に関する「36協定」などの労使協定を結ぶことができる.この仕組みを広義の経営参加の場にすることも一案である.

支払はどうなっている?

現金決済が基本の日本は,すでに中国からの旅行客からバカにされているらしい.東欧,なかでもポーランドが同様にすさまじいいきおいで電子決済が普及している.現金払いよりも,各種カード払いが歓迎される.各種というのは,クレジットカード,デビットカードなどのことで,使えないのは日本独自のFelicaである交通系「スイカ」などだ.

日本の「スイカ」が処理するスピードが「速すぎる」ので,世界標準になっていないという問題は,来日する外国人客への対応と,海外でも便利に利用したいという日本人の要求とが交錯する難問だ.「スイカ」すごいだろ!というはなしではない.

消費者の購入決済におけるキャッシュレス化

人手不足の時代,日本のメガバンクが敢行する大リストラで,地銀やその他金融機関から,合計すると万人単位の人材が世の中に供給されることになりそうだ.例によって,銀行さんは主な取引先に,ひとの受け入れを要請するのだろうが,キャッシュレス社会をつくるための要員になってほしいものだ.

現金が決済につかわれる国としては,わが国が先進国では一番になっている.冒頭のポーランドのように,旧社会主義国だった東欧では,西欧よりもキャッシュレス化進んでいる.これは,中国と同様に,一種の「ワープ」で,セキュリティ強化接触型端末の全面普及を達成した西欧よりもあとからやってきた国々が,最新のオールマイティ非接触型端末を導入したためにおきた現象である.

固定電話網を百年かけて全国につくった日本が,ほとんど固定電話網が未発達の中国に,携帯・無線電話で抜かれたはなしとおなじである.

社会体制がうまく転換できなかったロシアでは,信用と安全のために,現金主義がつづいている.だから,現金決済主義の世界二大国は,日本とロシアになった.

AIとの関係

こんごなくなる職業に,銀行員の窓口職員があった.ほかに,会計士や税理士も候補になっていた.AIとの親和性がよい,ということだろう.税法の通達類も全部データ・ベース化すれば,あとは機械がやってくれるという算段だ.だから、お金の流れがデジタル化されると,これまでの人的ミスもなくなる.経理まわりの要員削減効果は,すごいことになるだろう.

キャッシュレス社会にAIが組みこまれると,企業から経理部を消し去ることになる.現金を扱うことがなくなると,現金輸送のしごとも,そのための警備もいらない.お店では,元金管理も必要なくなる.売上金を預けていた,夜間金庫もいらない.当然だが,キャッシュディスペンサーもいらないから,銀行店舗の面積や,CDだけの出張所もいらない.

どうしたってキャッシュフロー経営になる

こうなると,社内の各種伝票も電子化しなければならない.そうなれば,必然的に日次決算が可能になる.問題は「決算書」の書式だ.税務用と会社決算用,それに会社経営用の決算書ができるだろう.なににせよ,経営情報でもっとも重要なキャッシュフローが明確になる.

つまり,この世の中から「どんぶり勘定」がなくなる.大雑把な「どんぶり勘定」ができなくなるといった方が正しい.ということは,だれでも経営者になれる可能性がある.

すると,大企業は大企業の形態を維持する必要がなくなる.小さな会社に分けて,事業をどんどん分業化したら,これまで取引のなかった会社とも分業化した単位でビジネスができるようになる.

リカードの比較優位が企業間の競争になる

以上の推論は,水平分業のことである.世界ですでに起きている,水平分業に日本企業が追いついているとは思えないが,いずれ水平化しなければならなくなる.

ところで,これは製造業のはなしでおわらない.人的サービス業のなかでも,おこりえることだ.飲食店フランチャイズが,変容する可能性もあるし,ホテルや旅館の「部門」が分業・分社化する可能性もある.取引が電子化されて集計も自動になれば,得意分野における事業化は,リカードのいう「比較優位」の原則で,おおきなビジネスになるからだ.すると,従来型のやり方からにじみ出るムダな経営資源が,すんなり活用できることになる.

黒字倒産しそうな社長が叫ぶ「あすの支払はどうなっている?」が,死語になる.

タクシーはどうなっている?

ポーランドの公共交通機関のはなしを先日のブログで書いた(「むかしの方が便利だったこともある」).しりあいから「タクシーはどうなっている?」と質問された.せっかくなので,記述しておこう.

「組合」経営だった

ポーランドのタクシーは,個人事業主が集合した「組合が会社」になっている.ドライバーライセンスは認可制だ.そこで,個々のドライバーは,自分のキャリアを示して,好きな会社に応募することからスタートする.おもに採用審査では,その人物の「評判」をみるそうだ.とくに重要なのは,お客様からの「評価」で,会社ごとに管理されている情報が,業界内には「公表」されるという.

社会主義体制からの転換期の社会混乱は,この業界にも影響して,メーターを無視したり,遠回りをしたり,脅迫まがいの行為があったりと,安心して利用できない時期があったという.それで,売上が激減し,業界として存続の危機におちいった.

困り果てたまじめなドライバーたちが集まって,組合をつくり,会社のようにした.電話予約の窓口を一本化して,同じデザインのマークを車両に表示した.なによりも,利用客からのコメント情報を収集して,クレームやトラブルをデータ・ベース化したのが効いた.これによって,評判の悪いドライバーが特定できたから,組合除名という制裁が可能になった.はじめは,ある組合を除名された不良ドライバーも,別の組合に移籍することでタクシー運転手として仕事を継続できたが,だんだんと,組合間の競争がはげしくなってくると,不良ドライバーの所業が組合会社全体の「信用」に影響がでるから,業界として不良ドライバー追放キャンペーンがおこなわれるようになった.当然だが,これに利用者が賛同して,それまで以上の情報が寄せられるようになり,とうとう不良ドライバーは業界から追放されつくして皆無になった.内部では,はげしい罵倒のやりとりがあったという.

このような仕組みができたので,タクシー・ドライバーは同じ地域内なら,ほとんど「転職」の必要性がなくなった.組合内部の会議では,常にサービス向上が議論されていて,どうやったら自分たちの「組合」がお客様から指名されるようになるかを追求しているという.これぞ,正しい「競争」である.

完全出来高制になった

社会主義時代のタクシーは,当然に国家が統制していた.競争がないかわりに,賃金も低かった.サービスという概念が希薄で,乗車地点から目的地まで行く,だけだから,急ぎの用がないなら一般人はめったに利用しなかったときく.

これが,個人事業主の集合体になったから,収入は出来高制である.無線配車係が気を配るのも,公平性の維持だという.お客様がリクエストした地点にもっとも近い車がGPSでわかるようになって,だいぶ楽になった.また,運転手は降車精算のさいに「車番」記載のカードをくれる.自分を指名してください,という意味だ.忘れ物やクレームにも使えるから,自信のカードでもある.指名があっても,営業中のばあいは別の運転手が配車される.事務所に帰ると「今日,あなたのお客さんを乗せたよ」と情報交換するのも仲間の礼儀だ.

チップがいらない

ポーランドのタクシー料金には,「サービス料」が含まれている.だからチップがいらない.おどろいたのは,チップを拒否されたときだ.「表示料金どおりですよ」と笑顔でいわれたときには,一瞬わからなくなった.それで,「カード」を要求したら,「次回も待ってます」といって渡してくれた.この街で,タクシーに乗るならこの運転手さんに決めた.

「おもてなし」を「仕組み」に換えたよい例だ.

「ゆでがえる」状態からの脱出はできるか?

こどもは残酷なことをして,学習することもある.こどもが「自然とたわむれる」というのは,だいたい昆虫や小動物を捕獲して,最後は殺してしまうことをいう.カブトムシ,クワガタ,セミ,バッタ,コオロギ,スズムシを捕獲しても,幼虫から育て成虫までにすることはほとんどない.これらの昆虫は,標本キットでピン留めし,保存するのがせいぜいだろう.コンクリートばかりの都会では,ずいぶん前から珍しくなったのはカエルだ.アマガエルやトノサマガエルは,昔のこどもの身近にいた小動物のひとつだ.

カエルにたばこを吸わせると,息を吐くことをせずにどんどんお腹がふくらんでいき,最後は破裂してしまう.そして,煙がもっこり立ち上がるのがおもしろいと,つぎつぎにカエルを捕まえては「実験」する.これが高じると,つぎは「ゆでがえる」実験となる.熱湯の鍋にカエルを放り込むと,ものすごい筋力で飛び上がって逃げてゆく.ところが,水の状態から鍋に入れて火をつけると,途中,じつに心地よさそうに顔も手足も弛緩するのだ.まるで笑顔で,「いい湯だな」を彷彿とさせるほどの無気力状態になる.そして,このままの姿でゆであがってしまう.ちなみに,以上の実験はすべて屋外でのことだ.

企業組織のゆでがえる状態とは

いわゆる弛緩した組織を指す.そして,こうした組織は居心地がいい.なんとなく仕事をしているから,残業がおおい.けれど,残業代がもらえるから,はやく帰るよりずっといい.弛緩しているのは筋肉だけでなく精神もだから,自己研鑽のための勉強をする気もない.では,管理職はどうかというと,職場間のすりあわせに時間がそがれる.「調整」することが仕事であって,「新しいこと」はできるだけやらない.「調整」がよりハードになるから,それはとにかく面倒くさい.仕事のやり方や人員に関することになると,労働組合との交渉まである.一番お気軽なのは役員である.誰もいない執務室で,たとえマンガをながめていても,もはや誰からもおとがめはない.部長職以下の部下が面倒な相談を持ち込んでも,それっぽいことを言えばそれですむ.プロジェクト会議の席で「失敗は許されない」とむずかしい顔をしてすごみを効かせれば,全員がごもっともとうなずくばかりである.そして,上級職の役員にだけ気をつかえばよい.自分の「上」にはあと何人いる,と指折り勘定する毎日だ.

社内でなにが起きているかに興味がない

組織の中枢がそんなわけだから,末梢は退化する.それはまるで糖尿病の合併症のように,毒によって組織の末端神経が消滅するにひとしい.だから,「現場」では,ときに通常ではあり得ないようなトラブルが発生する.それは,企業の命運を左右するような事態にまで発展することがある.

報告を受けた中枢部は,きっと「何をやっているんだ!」と叫ぶだろう.そして,その事象が発生した部署の担当役員以下による「犯人捜し」がはじまるのだ.「原因」追求ではないことに注意したい.あくまでも,特定人物を探索するのである.もし末端の犯人が特定できなければ,その上司が処分の対象になるから,必ず犯人をみつけだす.そして,その人物は組織から追放され,一件落着である.すなわち,本質的になにが問題なのか?ということに最初から興味がないのだ.あるのは,「秩序の維持」という名分にかくされた「支配の維持」である.

以上は,かつてソ連・東欧圏で日常的に起きていたことだ.まさか,読者は,最近の「日本企業のことかな?」と感じたかも知れない.そう,日本企業は企業ごと社会主義国化しているのだ.すると,これら企業を「指導・監督」する役所は,差し詰め「コミンテルン」ということになる.

第三者委員会とは,経営の放棄である

不祥事が発生すると,いつの頃からか日本企業は「第三者委員会」という組織を立ち上げて,「原因調査」することになった.よくこんなことで株主が納得するものかと,そちらにも呆れる.「第三者委員会」に招集される,全国的知名度の有名弁護士や,経済学者,評論家は,無料で調査してくれるのだろうか?この委員会の活動そのものが,経営ではないか?すると,株主は二重にコスト負担しているのだ.すでに株主は企業のオーナーではなく,単なる株価相場の変動による利益を得るだけの存在になった.「経営責任」を追求する振りをしているのは,その企業とは関係のない,まさに「第三者」であるマスコミである.ただし,このときの「第三者」とは権限のない「外野」のことである.

だれが経営しているのか?

日本の大企業を経営しているのは,「廊下トンビ」をしている中間管理職である.彼らが決裁書を作成して,ハンコをもらってあるく.国の官僚機構とそっくりなのだ.大企業では,「決裁書」がなければ意志決定ができない.すべては「決裁書」に集約されるから,どんな内容を書くのかで決まってしまう.役員会はとっくに「閣議」とおなじく形骸化してしまった.それで,「社外役員」というアイデアをおもいついた.社内昇格者ばかりだから,外の風にも触れようという魂胆だった.しかし,企業を実質的に経営しているのは,中間管理職だから,外部から数人を呼んだところで何も変わらない.

「規制強化」の意味

日本国を実質的に経営しているのは官僚という役人だ.不祥事を起こした企業にはそれなりの危機感はあろうが,役人に危機感を期待すること自体がムリというものだ.古今東西,役人が危機感をもつと,国民には悲劇的な結末が待っている.役人の危機感とは,現状がこわれることのみである.つまり,役人が言う「改革」とは,現状強化の意味であるから,民間人がかんがえる「改革」の意味とは真逆だということを意識的に覚えなくてはならない.そこで,不祥事が発生した場合の予防対応として役人がでてくると,かならず「火事場ぶとり」となって,負担するのは国民になる.すこし前なら,汚染米偽装事件がそうだった.流通する米の伝票をチェックする,という壮大な予防策に,いったいいくらの予算と人員がついたことか.このとき増員された人員は,潜在的失業者とかんがえてよい.このコストを,国民は米価で負担させられている.しかし,役人は「受益者負担」とうそぶくのだ.

自動車会社によるひと世代以上前からの,「完成検査の不正問題」は,輸出において問題になっていない.欧米諸国が訴追を含めて制裁しようとしているのは,素材メーカーによる製品品質データの改ざん問題の方である.かくも長期にわたって,自動車の完成検査「不正」に気づかなかった役所の怠慢をほおかぶりして,これ見よがしに騒ぎ立て,リコールまでさせたのだ.このリコールによる数百億円にわたる損害も,最終的には消費者が負担するしかないものだ.それなのに,今後の対応としてきちんと検査をさせるための方策を実行するとは,狂気の沙汰だ.国内の消費者だけが,ムダな費用を永久に負担させられる.輸出向けは,相手国が完成検査など要求しないのでその分安くなるだろう.これで「ダンピング」呼ばわりされたら,メーカーは立つ瀬ない.国交省は検査をさせて,経産省がやめさせるのか?マッチ・ポンプとはこのことだ.いったい,誰のための役所なのか?まさに,役人の都合でいかようにもなる事例である.こんなはなしを,「大臣」が胸を張って発表するさまは,愚かさを絵に描いたような姿である.自分がこないだの選挙で当選したことも忘れてしまっているのだろう.有権者は,次回の選挙での投票行動を考えなおさなければならないが,どうも怪しい.こうして,ゆでがえるの有権者がゆでがえるの代議士を産む.

国も,企業も,中間管理職に犯されている.それを阻止する,政治家も経営者もいない.

国民も,自分がゆでがえる状態であることに気づいていない.

むかしの方が便利だったこともある

日々世の中は進歩している,とかんがえるひとは多いのだろうが,どっこいそうでもないことがある.

都心部で自家用車を持っていないひとはおおい.地方ならひとが住める金額でも,月契約の駐車場代に足らないからだ.それにカーシェアリングもすすんできだ.そもそも,都心部はどこに行くにでも交通の便がいい.最近では,低床の路面電車が見直されて,地方都市の顔としての新設も議論されている.

トロリーバスの絶滅

わたしが棲む横浜には,路面電車もトロリーバスもあった.東京には,荒川線が残っているから路面電車はあるが,トロリーバスはなくなった.黒四ダム観光の足だったトロリーバスも廃止されるというから,この国からトロリーバスは絶滅する.

ハイブリット車や水素自動車,さらにEVと,「環境にやさしい」とされる乗り物がもてはやされる時代に,どうしてトロリーバスは絶滅するのだろうか?一昨年訪問した,ブルガリアやルーマニアといった,かつての社会主義圏の国では,いまだ運行はしていたが,それでも廃止路線が多いようで,ずいぶんトロリー架線が撤去されずに放置されていた.一部では,切れた架線が道路に垂れ下がっていたが,電気はきていないのだろう.その横で,街路樹の枝も垂れ下がっていたから,整備予算が枯渇したと考えられる.

将来ディーゼル車の販売ができなくなるというヨーロッパで,トロリーバスはどういった位置づけなのか興味深い.本当は,「環境にやさしい」ということが優先ではなく,単純に「産業優先」なのではないかと疑いたくなる.もっとも,電気をつくるのに主に石油やガスを燃やしているから,電気が「完全にクリーン」であると考えるわけにはいかない.まして.原子力は「クリーン」どころではなかった.しかし,ハイブリッドや水素を用いる方法よりは,「環境にやさしい」のではないか.EVも,しょせんは発電所の電気を必要とする.

何年も前のことだが,ギリシャのアテネには何度か行ったことがある.いまでもこの街にはトロリーバスが走っている.路面電車もそうだが,「電車」に分類されるトロリーバスは,はじめて訪れる観光客にもやさしい乗り物だ.路線や停留所を間違えても,終点までいけば必ず戻ってくるはずだし,循環路線もある.地上を走るから,車窓からの景色も楽しめる.

横浜のトロリーバスは,開業が1959年,廃止が1972年だったから,わずか13年足らずの営業運転だった.東京オリンピックによる三ツ沢競技場への足という設置理由が,懐かしくもあり新しくもあり.廃止理由は,市電の廃止による変電設備の撤去と,バス車体交換の購入値段が,ふつうのバスの三倍程度もするということだった.ふしぎなもので,トロリーバスばかりに乗っていたわたしには,ふつうのバスが珍しかった.

市内の交通量増大で,渋滞のもとになったとの判断も廃止理由だ.市電が渋滞のもと,ならまだわかるが,「バス」でもあるトロリーバスが,渋滞のもとだという指摘は子どもにも解せない説明だった.それに,市電の利用者にとっては,渋滞していても,電車が接近すると自動車の方が線路をよけて走ったので,バスよりはやく移動できたから,自動車の増大をにくんだ.だから,これらはそれらしい廃止説明ではあるが,開業前に気づかなかったのか?と今さらにして思うことだ.「オリンピック」という特異なイベントによる大盤振る舞いだとすれば,それから60年たってもおなじことをしているから,残念ながら当時を嗤うことはできない.

むかし市内交通は一体だった

「横浜市営」という経営形態が望ましいかの議論はおいて,路面電車,トロリーバス,ふつうのバス路線は,「乗り換え券」をもらうとその日何度でも乗り換えて,目的地に最初の料金だけで行けた.民間のバス会社でも,自社路線であれば「乗り換え」ができたと思う.これができたのは,車掌さんがいたからだ.おおきながま口カバンに,路線図の切符があって,それに特殊なハサミで穴をあけてくれるのが楽しかった.ワンマン運転になって車掌が廃止されると,「乗り換え」ができなくなった.交通量の増大で路面電車やトロリーバスが廃止されることよりも,「乗り換え」廃止が不評だった.乗り継ぎ乗り継ぎで目的地に行っていたひとには,路線毎のその都度料金支払制度への変更は,ものすごい負担増だったからだ.ぼったくりのような料金変更に絶望したひとを,マイカー所有へ追い込んだ.それで,また自動車の数が増えた.これは.都市交通政策としていかがなものだったのか?まるで,自動車会社のためにしたような政策である.料金支払が電子化されたいまの時代に,これができないのはなぜか?

いまでも市内交通を一体に運用している国

「時間料金」というやり方がある.ポーランドでは,市内交通は時間制の料金だ.20分,60分,半日,一日,と四種類の切符が売られている.券売機は停留所や駅(窓口でも買える)にあり,支払方法は現金,デビットカード,クレジットカードで,接触方式,非接触方式,どちらも利用可能のすぐれものだ.購入した切符は,車内に打刻機があって,これに差し込むと「チン」という音がして日付と時刻が刻印される.20分券なら,この時点から20分間有効となる.検札係に切符なしや時間オーバーがばれると,容赦なく4,000円ほどの罰則金をはらわなければならない.印刷が読めなくなるから,二重打刻も禁止である.制服着用の長距離列車とちがって,市内交通の検札係は私服にバッジをつけて身分をあらわすから,遠目ではだれだかわからない.だから,それなりの緊張感があって「不正」は少ないそうだ.発車寸前に打刻する人がいたのは人情というものだ.ちなみに,降車時の手続きはないから,無事時間切れとなった切符は,そのまま捨てればよい.購入しても,打刻さえしなければ切符はずっと有効なので,ふつうはまとめ買いして財布にいれるようだ.ハイテク機械を乗り物に一台ずつ設置するより,アナログな打刻機の方を設置するのは合理的だ.

遅延したらどうするのだ?という日本人なら気になる議論もあまりないようだ.鉄道が遅延するのは,長距離幹線がおおい.都市近郊路線の電車は,案外しっかりしており,せいぜい数分程度の誤差がふつうだから,目くじらを立てるほどではない.バスなら渋滞によっての遅れは運転手がわかっているから,時間オーバーの対象ではない.よい意味でアバウトなのだ.これがコストをさげている.別の意味で,人間を信じるシステムになっている.

便利だから利用するという原理

日本の都市部にかぎらず,伝統ある国のもともとの都市計画はモータリゼーションを想定しなかったから,どこも渋滞や駐車場の不足に悩んでいる.それで,公共施設には公共交通機関をつかうように案内される.日本では異様な人数の案内係が配置されるが,なんのためにここにいるのかわからないことがある.このひとたちの人件費も,知らないところで負担させられている.近年では,工事現場の案内も過剰である.

ひとは便利だから利用するのだ.近距離の都市交通システムは,わかりやすくてリーズナブルな料金であることが重要で,さらにいえば,だれのためのものかということが最も重要だ.

目的合理性について考えると,外国のやり方が参考になることも,むかしのやり方が参考になることもある.

ベンチャー企業が「実績」を問われる

ベンチャー企業というのは,これなら世の中に役立つかもしれない,といった技術やサービスを主軸にした,新しい事業コンセプトの企業だ.だれだって,そんな会社を新規に立ち上げたら,「実績」などない.

審美眼ならぬ審ビ眼

日本の大企業のおおくは,ベンチャー企業が売り込みにいっても,ほぼ相手にされない.そもそもどの部署に連絡すればよいのかすら不明である.これは,大企業の側も,自分たちがどんなことを必要としているかをまとめていないから,内部でもわからない.それにくわえ,そんなこまったことを大企業の内部で「内製」すべきなのか,外からの「購入」をすべきなのかが決まっていない.解決のためのスピードとコストを天秤にかけたとき,おおむねコストを重視するのだ.これは,「時は金なり」という資本主義の基本概念が希薄であることを示している.こんなことを何十年もやってきたから,社内の人材で「審ビ眼」を鍛えたことがなくなる.「審ビ眼」の「ビ」とは,ビジネスのことだ.

外資系が「審ビ眼」を重視する背景

「いいものはいい」という目で見ることは,あたりまえのことだ.ここで,外資系をベタ褒めするつもりはないが,「審ビ眼」をつかって判断するということには,それなりの「リスク」を伴う.じつは,この「リスク」への根本的な思想が日本企業と外資はことなる.

日本が高度成長していた時代の映像作品といえば,底抜けに明るいクレージー・キャッツの「無責任シリーズ」だろう.その前の,森繁久彌の「社長シリーズ」でもよい.「笑いの中に真実がある」といったのは,アリストテレスといわれているが,まさにこれら「喜劇」のなかの日本企業は「リスク」をあまり気にしていない.それが,低成長時代になると「リスク」をおそれるようになった.いつの間にか,日本企業の常識は,「リスクは避けるモノ」となってしまった.

外資系ではよく,ボーナス査定の基準として以下のようにいわれている.「このままでは,今期の業績が悪化するかもしれない,という状況で」1.果敢に挑戦し,業績を良好に改善できた,2.果敢に挑戦し,業績を前年並みにできた,3.果敢に挑戦したが,業績は予想よりかなり悪化した,4.これまでどおりとして,業績は予想どおり悪化した.

4.番以外は全員ボーナス支給の対象になる.3.番は,業績を予想より悪化させてしまったのだから,日本企業的には「余計なことをした」としてバツである.しかし,外資では,「果敢に挑戦した」ことを評価するのだ.逆に,4.番は,日本企業的には「仕方ない」として,評価するだろう.もっといえば,そんな部署の責任者になった「不運」を哀れみ,自分でなくてよかっとも考える.前任者や前々任者(すでに昇格している先輩や同僚)がやってきたやり方を変えたら,先輩たちへの当てつけになって失礼になると考えるのだ.ところが,外資では「解雇」の対象になる.「これまでどおり」のことしかしないなら,そのひとの存在理由がないからだ.つまり,「これまでどおり」に対する評価が,真逆になるのだ.

リスクをどうするか?が左右する

「リスクは避けるモノ」から,「リスクは『何があっても』避けるモノ」という,絶対化がおきている日本企業は,なんでも「純化」させてしまう日本人のDNAからきている発想方法だろう.これにたいして外資は「リスクはコントロールするモノ」という発想だ.これは,ある意味「アバウト」なかんがえ方だ.

人生に「正解」がないのは,やり直しがきかないから,時間をもどして,選択肢ごとに試してから「正解」を確認することができない.だから,つねにその場その場においての「最適」を選択するしかない.ところが,このときの「最適」が,経済学者がいう「(金額で示される)効用の最適」とはかぎらない.ひとの生活における「効用」には,「他利(他人のためになる利益)」をあえて選択することによる「信用を得る」という「効用」があるからだ.これは,企業活動においても同じである.いかなる企業といえども,「正解」に近づくことしかできないが,その「正解」が那辺に存在するのかさえ,じつは誰にもわからない.

だから、いま「リスク」に見えることが,じつは「セーフティ」なのかもしれない.すると,「リスクはとるモノ」となり,コントロールの対象となる.こうした,企業の思想的転換があってベンチャーが生きる基盤ができる.これを忘れて,「ベンチャー企業支援」という補助をしても,お金のムダであるばかりか,「政府に依存」させてベンチャー起業家の人生を翻弄させてしまうだろう.日本は冷酷な国である.

「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.

経営に失敗する常識

「経済学」に詳しいと

経営に失敗する経営者には,よく勉強したひとがおおい.その典型的な勉強分野が,「経済学」である.ところが,この経済学,さすがにマルクスは影を潜めたが,日本ではいまだにケインズを中心とする混合経済の近代経済学が一般的だ.それをいまでは,「主流派経済学」と呼ぶ.これは,政府が中心となって,様々な「景気対策」などの「経済政策」を行うことをあたりまえとしているもので,いろいろな分野での「補助金」も,政府の「政策」が根拠になっている.つまり,政府がなにかしてくれる,という他人まかせの社会をつくる.だから,自社の業績は経済状況に左右されると発想し,それを政府に改善して欲しいと願うようになる.新聞などの「世論調査」で,いつも大きなウェートを占めるのは政府による「経済対策」や「景気対策」になることでもわかる.

しかし,現実には,いかにして他社より自社が選ばれるかという「競争」がおこなわれているのであって,経営者は,その競争に負けない方策をかんがえるのが仕事である.ここに,政府のでる出番はないのだが,とかく政府は経済に介入したがり,「補助金」とかを渡すかわりに,政府の言うことをきかせるように仕向けるのだ.安易にお金の支給を受けようものなら,後々まで規制をかけられて,しらないうちに自由な経営ができなくなる.

困ったことに,主流派経済学の学者も,その学者から熱心に学んだ官僚も,経済界のえらい人も,「消費」についてすら現実からはなれた発想をしている.ひとくちに「消費」といっても,生活必需品を購入する消費と,不要不急「競争」がおこなわれていての贅沢品を購入する消費とでは意味がちがう.贅沢品は「奢侈品」として役人が分類すると課税されてしまうから,さらに別の意味もある.
教科書どおりの通り一遍な主流派経済学者は,消費の金額的側面,つまり統計データしかみない.「効用」という言葉が経済学にもあるが,ほとんど無視するのが主流派経済学という「学問」の特徴である.マーケティング情報として消費をみるときは,事前期待と事後の満足度の一致具合が興味の対象になる.購入前の「欲しい!」という想いと,購入後の「買ってよかった」とか「失敗した」とかの感じ方のギャップの大小のことである.つきつめれば,消費者がお金を払うとき,『製品やサービスの「期待価値」を買っている』といえるのである.
マーケティング論における大家,セオドア・レビットによれば,経済学者はまったくわかっていない,と嘆くポイントだ.たとえば,パンとダイヤモンドの消費をかんがえるとき,経済学者は,パンはパンとして,ダイヤモンドはダイヤモンドとしての価値しかみないから,それぞれの消費データを分析しようとする.物理学者や化学者は,どちらも「炭素」からできているので,同じ素材の物質にみえる.マーケッターは,パンを購入するときの期待価値,ダイヤモンドを購入する時の期待価値,という「期待価値」という同じ目線でみつめるのだ.ここに,決定的なちがいが生まれる.

消費者をみないで消費データしかみない

経済学者と同様に,失敗する経営者にとっての消費データとは「売上高」のことである.全社でいくら,部門別でいくら,子会社ごとにいくら,というように「売上高」を塊としてみる.そして,これを「損益計算書」という「計算書」としてまとめられた数字の「表」しかみない.部下や責任者からの報告も,この表の「仕訳ルール」(おおくは「税法」による)によってできた「経費科目」によってなされる.比較の対象は,今期と前期,あるいは前々期からの伸びや縮小の率や額である.

これは,「数字ごっこ」である.

この程度の「分析」から,将来を決定するとして,なにをきめることができるのだろうか?日本企業は「決められない」ことに特徴があると揶揄されて久しいが,それは本当である.しかし,「決められない」ことの理由の分析すらできていない.答は簡単なのである.「数字ごっこ」をしていることが原因の大きな要因なのだ.過去の「損益計算書」という書類には,「将来を決めるための情報がない」から,どんなにほじくっても,「決められない」のは当然だ.

決めるための情報は,消費者の選択行動分析である.

とっくにコンビニ業界がそれを証明している.自社にお金を払ってくれる唯一の層は「消費者」である。これは、たとえ「B to B」でも同様である。最終的なユーザーである「消費者」こそが真の負担をする唯一の存在である。自社の製品・サービスの「期待価値」をいかに高めるのか?そもそも,現状の「期待価値」をどう評価するのか?主流派経済学の知識ではわからないことなのだ.