キリスト教国化のクリスマス

戦勝国は敗戦国に対して、どこまでの権限が許されるのか?という問題は、敗戦国は「拒否できない」という状況から、「無限大」にエスカレートすることがある。

「国」同士という対等の関係でいえば、「一線を越える」ことは互いのメリットにならないので、やってはならない、という伝統的なヨーロッパでのルールにも抵触する。

なぜならば、狭い地域に多くの国や民族がいるヨーロッパの歴史が、血にまみれたもので、今日の勝者が明日の敗者になりかねない、という切実があったからだった。
それが、「ラグビー」における「ノーサイド」という概念にもなった。

時の権力者が、自分の権力を誇示するために作曲依頼したので、「祝典」としての意味をもつ、ベルディのオペラ『アイーダ』でも、アイーダの父で敗戦し捕虜となったエチオピア王が、自軍兵士達の命乞いに同様の「論」を訴えて熱唱するシーンがある。

ちなみに、この時の権力者とは、オスマン帝国のエジプト総督にして、国内ではムハンマド・アリー朝の5代目君主、イスマーイール・パシャのことである。

そんなわけだから、軍人同士は「明日は我が身」という立場を心得ていたものだけれど、GHQという存在は、これを無視して、敗戦国に対する「過去にない報復」を実行した。
それが、「占領時代」の出来事で、いまに続いているのだった。

だから、わが国は、明治維新で歪んで、敗戦で歪んだのだけれども、「通奏低音」的な伝統もあるから、三重構造で別々の音楽を奏でる「変な」国になっている。
もう偶然でしか「和音」もできない、それが今の状態だ。

アメリカ軍にはない「階級」の元帥を称号としていたマッカーサーは、米軍では「大将」だけど、フィリピン軍からもらった元帥を自称した。
民主主義のアメリカは、軍人をコントロールしないはずはないので、本当の「最高司令官」は、大統領である。

それに、「連合軍」なので、「連合国対日理事会」(米英ソ中の4ヵ国、ただし、「英」には、オーストラリア、ニュージーランド、インドを含むし、「中」とは中華民国で、中華人民共和国はまだ成立していない)があって、マッカーサーの意向から「諮問機関」に降格されたとはいえ、うるさい存在だったのである。

つまるところ、GHQは一枚岩ではぜんぜんなかったけど、内部での「抗争」をマッカーサーが抑えたのを、あたかも「日本のため」という欺瞞で覆い隠すという巧妙さも日本人なら意識しないといけない。
彼の本音は、アメリカの独り占めのためであって、それは大統領を目指す自分のためだった。

上述のように、武人としての「お互い様」を振り捨てて、あらゆる分野で「日本解体」を画策したから、端的にいえばおぞましいほどの国際法違反を実施した、いわば「不法集団」がGHQの真の姿である。

猫が瀕死のネズミをいたぶり殺すようなことを正当化するために、「屁」がつこうが何がつこうが、徹底的に「宣伝」しまくったので、「12歳児」の日本人は、コロッと欺されるひとが続出した。

さまざまな「解体」のなかでの、「宗教」を本稿では扱う。

日本人の宗教観で、もっともいわれている欺瞞は、「無宗教」というナンセンス話である。
じつは、日本人は世界に類をみない「カルト好き」の民族なのだ。

すなわち、自分の役に立つ「神」を信じる、という本質を持っている。
だから、自分に禍をもたらすかもしれない「唯一絶対神」を信仰しない。
この見事な「ご都合主義」は、「先祖崇拝」からやってくる。
いわゆる「背後霊」というやつだ。

両親や祖父母を中心とした、ご先祖様の霊が、自分を護ってくれている。

ここから、全ての「神仏からイエス様」まで、ぜんぶが「自分のため」にあると考えているのが、日本人なのである。
だから、その都度、「効きそうな」場所に行って「祈願」する。
受験なら天神様、安産なら水天宮、葬式仏教もこの延長だ。

こんな日本人をキリスト教徒に改造しようと、まじめに取り組んだのもGHQだ。
その手順の最初に「神道指令」をだした。
これが日本人には「廃仏毀釈」の逆に見えたのである。

それでもって、神棚がある「道場」がある稽古場(アメリカ人には「ジム」)をやめさせようと、剣道などの武道を禁止した。
武道は戦争のためだから、という理由は、GHQの「屁」がつく理屈で、本音は「神道の解体」だったのである。

次の手は、宣教師を大量移入(3000人超)させたし、「物量戦」として、聖書をホテルに無料配布したのである。
このときの「屁」がつく理屈は、自殺を考える宿泊客が聖書を読んで思いとどまるかもしれない、であった。

客室での自殺を迷惑として、この理屈を「真に受けた」ホテル経営者は、積極的に聖書を客室に設置したのである。
それでもって、客室備品のなかでも「自由に持ち去る」ことができるようにもなったのは、十分な在庫を無料で貰えるからである。

アメリカ人は、聖書を読めば、キリスト教に改宗すると信じて疑わず、今日もホテルに聖書があるのだ。
日本人は、論語を1000年読んでも「儒教徒」にはならなかったものを。

そんなわけで、最後の手が、クリスマスだった。
「本場」以上に飾り付けて、街中に聖歌が流れ、ケーキとプレゼントで浮かれるけれど、「何のお祝いか?」を気にする日本人がいないのである。

すべては、自分のため、という原則がなんら変化しない。
それは、マッカーサーが言うとおり、「12歳児」の知能だからか?
いや、それが日本人なのである。

メリークリスマス。

石油生成プランクトンの発見

神奈川県は横須賀にある、「国立研究開発法人 海洋研究開発機構」が、先週13日、北極海で採取した植物プランクトンに、石油を生成する「藻類」を世界で初めて発見したと発表した。

そもそも「石油」とは、主成分が「炭化水素」の物質のことをいう。
太古の昔の植物や動物の「死骸」が、地下にあって圧力や地熱によって変質したもの、という考えが主流だったけれど、樺太で見つかる油田の「新しさ」が不明だった。

ぜんぜん「太古」とはいえないのである。
もしや、今回発見されたプランクトンが原因の油田かもしれない。
「光合成」によって、炭化水素を作り出すのだ。

しかも、このプランクトンは、「飽和炭化水素」を造るという特色がある。
「炭素」には、電子を介した「共有結合」のための「手」が4本あって、2本が隣の炭素と、あとの2本が1本ずつ水素と結合して、ムダがない。
単結合だけを、「飽和」という。

構造図だと、ムカデのようにみえる。

胴体が炭素の結合で、対に出ている足にあたるのが水素である。
なお、頭やお尻にあたる場所にも、水素が1ずつ結合している。
これで、酸素などといった不純物がないために、燃焼させると、水素が外部の酸素と結合するから、高エネルギーを発するのである。

なので、炭素同士が二重結合(エチレン)したり三重結合(アセチレン)したりする「不飽和」とは分けるのだ。
また、酸素などといった不純物が結合しているものは、燃焼の邪魔になるから低エネルギーになって、上述したムカデの尾の先端(水素)の手前に酸素があるだけで、エタノールとなる。

ガソリンの燃焼力とエタノールの燃焼力が雲泥の差なのは、余分な酸素を内包しているからである。

さらに、このプランクトンが生成するのは、「ガソリン」と「重油」にあたる炭素数なのである。
炭素数が10個~15個までがガソリン、16~20が軽油、21~38が重油にあたる。

このプランクトンは、主に、10と11を生成することがわかった。
つまり、「ガソリン」を生成するから、あまりにも「画期的」な発見になったのだ。

太陽光パネルや水素といった、持続不可能ゆえに「金食い虫」とは違う。
パネルを作るときに要するエネルギーは、発電して回収するエネルギーの4倍もかかるし、交換後の廃棄処理をどうするのか?についての技術が確定していないから、ただ捨てるだけの環境破壊が容認されている。

つまり、いまは「作りっぱなし」のものを「持続可能」と言っている。

水素については、地球上に気体としての水素が持続的に存在できないのは、原子番号1番ゆえの「小ささ」から、地球の引力で保持できないからである。
水素を作るには、水を電気分解しないといけないけれど、その電気はどうやって発電するのか?

人工的に作った水素は、あらゆる物でつくった容器を通過して、宇宙へと飛んでいき、これを回収するすべを人類はもっていない。
永遠に地球からなくなるものを、やっぱり「持続可能」と呼んでいる。

そんな「インチキ」の数々からすれば、今回の「発見」は、人類史に残るほど重要なことだから、2021年最大のニュースだ。

さてそれで、このプランクトンが作りだしたガソリンを燃焼させても二酸化炭素は排出される。
けれども、「化石燃料とは違って」、もとが大気中の二酸化炭素を光合成によって体内に取り入れたのだから、燃焼させても「プラス・マイナス=ゼロ」だと説明されている。

だから、安心、だと。

ここで、「ずっこける」のである。
「化石燃料」だって、元は植物やらだったのだから、基本的に「プラスマイナス=ゼロ」である。

そもそも、今は「氷河期」で、地球の歴史でいうと「珍しい時期」にあたる。
前にも書いたが、「氷河期」の定義とは、地上のどこかに氷河がある、ということをもっていう。

南極大陸は言うに及ばず、ヒマラヤもスイス・アルプスしかりなのだ。
これらの氷河が、よしんば「溶ける」ことだって、地球の歴史では「ふつう」のことだから、なにが問題なのか?がわからない。

むしろ、たかだかの人間の歴史で以て、「あるはずの氷河がなくなること」へのノスタルジーではないのか?
それもそのはずで、人類は氷河期と共に発生して生存したきたから、ともいえる。

しかし、衣服をまとわない、植物や動物にとって、「寒い」ことはいいことではない。
だから、二酸化炭素濃度が10倍ほどもあった太古の時代の、温暖状態では、植物が巨大化し、それを餌とする恐竜も巨大化した。

その死骸が石油や石炭になったのである。

炭素こそが万能の物質メーカーなのである。
それをまた、「脱炭素」といっているのは、ただの「知識不足」か、「利権欲しさ」のどちらかか、その両方である。

北極海で発見されたとはいっても、太平洋にも大西洋にも棲息が確認されているのだから、人類の未来を支える「期待の星」だ。
核融合はエネルギー「だけ」だけど、このプランクトンは、プラスチックの原料にもなる「資源」なのである。

炭素バンザイ!

コロナは過越祭

旧約聖書モーゼ五書のなかの、「出エジプト記12章」にあるエピソードが「過越祭」のはじまりとされている。

2本の門柱の間をつなぐ「かもい」に、雄の子羊あるいはヤギの血を塗って備えた家の「初子」は助かるが、これをしなかった家の初子は人間でも家畜でも「撃つ」という神のお告げが、そのまま実行された、という話だ。

想像すれば、実に凄惨で残酷なことが本当に起こったというから、日本の神とはちがう。
そんな恐るべき神が、いう通りに用意した家を「過ぎ去って越して」行く。
以来、ユダヤ人(=ユダヤ教徒)に「過越祭」は、重要な「祭り」となったのである。

ときに、ユダヤ歴という「太陽太陰暦」では、正月14日からの1週間を祭りの期間としているので、現代の太陽暦では「春」の祭りとなっている。

なんとなく、日本の「節分」と似ている。
神を「鬼」に例えれば、ぴったりなのである。
しかも、2本の門柱の間に赤いかもいとは、なんだか「鳥居」のようなものを立てたことになる。

「日ユ(日本とユダヤ)同祖論」という怪しい論があるけれど、これはあんがいと「まじめな話」で、イスラエルでは公式に「失われたユダ族10部族」の行方を捜しに、わが国の遺跡などの調査を行っていた。

このところ、縄文人の遺伝子解析がはじまって、シュメール人との遺伝的つながりが確認された。
これまで出来なかったのは、「骨」しか発見されていなかったからで、新しくみつかった「歯髄」から採取したDNAが「決め手」となってきている。

「歯髄」とは、歯の神経のことで、歯科医がする「根治」でゴリゴリとやるのは、歯神経を除去するためである。
たまに、膿が破裂して、強烈な悪臭を発するのは、歯髄にある血管が腐敗したからだ。

よくも縄文人の「生肉」にちかい「歯髄」を見つけたものだけど、それゆえに信憑性は高いのである。
歴史好きならご存じの、不思議人類がシュメール人で、歴史上「突然登場」して、理由不明でいなくなったひとたちだ。

にもかかわらず、もちろん、有名な「シュメール文明」を築いていて、チグリス・ユーフラテス文明ともいわれる。
そこで発見されて解読もできた、「くさび形文字」の刻まれた粘土板は、その文明の高度な発達を示唆しているのでも有名だ。

「都市伝説」のような話だけれど、これが、わが国の古代遺跡でみつかる解読不能という文字との共通点をいうひとが出てきて、「カタカナ」との関係も議論されている。
なにせ、「血が繋がる」相手だからである。

ちなみに、「エデンの園」の考古学的存在も確定していて、それがシュメール文明の地にあったことは、もはや「定説」であるから、縄文人(日本人)とユダヤ人との「同祖論」も、荒唐無稽とはいえない。
現代日本人の血も、半分が縄文人のDNAを持っていることがわかっているので、嘘みたいだがシュメール人と「血縁」にあるのだ。

日本の縄文人が航海技術に優れていたこともわかっていて、中部太平洋の島々だけでなく、南米の遺跡からも「縄文式土器」が発見されている。
だとすると、ロマンを膨らませれば、縄文人がシュメール人になった、ということだって、「ありえる」ということになる。

さすれば、赤い鳥居の「稲荷神社」と「過越祭」とは、いったいどんな関係か?ということだって、まじめに考えてもバチはあたらないだろう。

さてそれで、過越祭は、第三者の命じるルールを理屈なく盲目的に従った者が生きのびて、疑ったり従わなかった者の「初子」は何者かに殺されるという、究極の選択の話ともとれるのである。

それで、長男を失ったエジプト王は、奴隷の王となったモーゼを討伐すべく自ら軍を率いて紅海に達したところ、海が割れている中に突撃して全滅の憂き目を見るのである。

まさに、「新型コロナ」による、政府の命令が「過越祭」と同じ構造になっている。
しかし、聖書の話と違うのは、「神」の役回りが「政府」になっていることである。

だからこそ、うさんくさい、のである。
それなら、聖書を熟読しているはずの欧米人が、このうさんくさい政府が創った物語に、まっ先に気づきそうなのに、どうしてそうならないのか?
かえって、詳しいだけに、物語の「恐怖」が迫ってくるのかもしれない。

ならば、日本人が小さな赤い鳥居を玄関先にぶら下げて、これを「コロナ除け」としたならば、たちまちにして誰も罹患しない、という「奇跡」が起きて、世界に「鳥居」を輸出することになるかもしれぬ。

はなから2年が経過しても、病原体としての新型コロナウィルスの存在が確認されていない(確認した研究論文がない)、という「事実」をもってすれば、鳥居の効力を無意味とも、おまじない、ともいえない、世界的詐欺事件を「撃つ」ということになるはずなのだ。

この際、「過越祭」を日本からはじめるがよい。
冬至を過ぎて、これから日が長くなる。

ライバルの「日経連」がなつかしい

「日経連」とは、日本経営者団体連盟の略称で、労働問題を専門的に扱う経営者団体のことだ。
昭和23年(1948年)に発足し、平成14年(2002年)に、経団連と統合して「消滅」した。

スポーツやら芸術でも「競技(芸術なら「コンクール」とか「オーディション」)の世界では、だいたい「同世代」にライバルがいて、いつもその相手と対戦を強いられるという「宿命」がある。

「現役」だと、最初は「憎き敵」ということになるけれど、互いに研鑽を積んで「一流」というレベルに達すると、ふしぎと「尊敬」の念が発生する。
自分の辛い努力を相手もやっていることに気づくからだろう。

それから、対戦相手となっても、「勝負」は別として、「楽しむ」という感覚が生まれ、たいていは「生涯の友」になるものだ。
それが、実際の交流はなくとも、「心の交流」という自意識になるのは、自分の価値を確認する方法にもなるからである。

だから、突然、ライバルがいなくなると、大きく心が乱れて、自分の心が折れてしまうことがある。
そうやって、「目標物」を見失うと、あたかも自分自身の目標を失った感じがするものだ。

それが、「かけがえのないライバル」という表現になる。

これは、一種の「ベンチマーク」なのである。
しかし、一心不乱に目標を設定して、「勝利」を目指してきたなら、もはや冷静ではなくなる。

こうしたことは、人間の心理の中に形成されるので、なにもスポーツとかの分野に限定されることではない。
むしろ、企業活動における「ライバル企業」という存在が、社内での共通認識となれば、社をあげて対抗することに異論はなくなる。

だから、これを、「煽る」経営トップが出てくるのも、そうしないと内部組織から突き上げを喰らう畏れがあるからだ。
「うちの社長はお公家さんか?」とかと批判されて、むき出しの敵意を示さないことに不満が出てきたりする。

そんな状態で、一度でも業績でライバルに負けたりしたら、それこそ「トップの責任」が、社内から問われて、統治能力を喪失してしまえば、株主の意向とは関係なく、「辞任」という事態にまでなるのである。
「人心一新」という言葉をつかうのは、このことだ。

気分一新も、景気も、「気」の字があるのは、どれもが「心理」が人間を支配しているからで、「その気」にならないと、ひとは「本気」を出さない。

さてそれで、日経連が出来た「時期」をみると、一つのメッセージがそこにある。
つまり、「占領期」という事実に、「裏」を感じさせるメッセージがあるということだ。

日本を完全支配していたGHQという組織目標は、当初「日本弱体化」の一点に尽きる。
また、アメリカ本国における「長大」ともいえる民主党政権によって、あろうことかわが国の「社会主義化」が実施された。

なるほど、社会主義国になれば、間違いなく国力を失うから、日本弱体化という目的に合致する、もっとも合理的方法ではある。
しかし、もしや「憧れ」の実践という一石二鳥だったかもしれないので、話がややこしくなるのである。

さらに、朝鮮戦争という「神風」によって、あるいは、アメリカ本国の共和党への政権交代で、「不沈空母化」という大方針転換があったから、一概に「占領期」を単純に評価することはできない。
もちろんここに、マッカーサー自身が共和党から大統領候補になるという「野望」も展開する複雑さがあった。

すると、共和党のマッカーサーをトップにしてはいるけれど、配下の将軍や佐官たち(管理職)が民主党左派だったから、GHQなる組織は、より一層なんなのか?が見えにくいのである。
だから、「歴史的偽装」という見方も出来る。

公職追放という荒技で、日本を支えた経営者を追い払ったのも、マネジメント能力に劣るひとたちを「昇格」させて、弱体化を図ったのだけれど、同時に労働組合とストライキを容認して、企業内部からの弱体化も図るという周到さをやってのけた。

ところが、昇格したひとたちがあまりにも「稚拙」なので、「経営者よ正しく強かれ」というスローガンをもって日経連を造ったのは、社会混乱が本物の革命を誘発する可能性にまで高まったからでもあった。

この当時の労組とのやり取りを見ると、幼児的ケンカを売っているのは経営側に見ることができる。

それでもって、日経連が、労組と対峙することになって、労組は日経連を論破する努力をするが、ことごとく「論破」されたのは労組の側であった。
ここに、分かりやすい「ライバル」関係ができたのだ。

しかしながら、いよいよわが国の「世界の工場」という役割を終えるために、日経連を消滅させたら、とうとう労組まで弱体化してしまった。
じつはライバルを失ったのは「経営者」の方で、それが「著しい劣化」となって、わが国の経済力は「落ち続ける」ということになったのである。

だから、労働組合の活動が「付加価値生産性」を向上させるために経営者と対峙するという、「新しい」活動しか、もはやわが国経済の復活を望めないところにまでなっている。
劣化した経営者を、労組が付加価値生産性向上で追いつめる、という構図だ。

実際、これしか、賃金を増やす方法がない、というところまできている。

すなわち、労働組合が「社会主義を棄てる」ということが、唯一の解決策になったのである。

これに、洗脳されっぱなしの経営者と労働組合の双方が気がつかない悲劇がある。

個人商店は資本主義に不適応か?

「商店街」が衰退するのはなぜか?
そして、数々の商店街「振興策」が失敗するのもなぜか?

ひと言でいえば、マネジメントの方法をしらないからである。

行政の支援とは、道路や看板、あるいは、アーケードの整備などが中心で、地元の地域振興商品券をつくったところで、かんじんの商店街では消費されず、大手スーパーで利用されるだけだ。

こんなこと、わかっているのにやめられないのは、なにかしないと役所の「評判を落とす」からである。
それに、地元選出の議員からも、「なにかやれ」とせがまれるので、なんでもいいから実行しておくだけのことである。

つまり、「効果」がなくても、「ある」としてやる。
なにもやらないよりは「まし」だからだし、どうせ使うのは他人のカネの税金だ。
こうして、アリバイづくりに精を出して、責任を商店主の「才のなさ」とする。

それに、議員だって表面上はどうあれ、全員が商店街の振興をもとめているわけでもない。
住民の立場にたてば、「ムダ」はやめてほしいから、商店街の振興は「ムダな抵抗」になるし、別の商工業者からすれば、自分たちの業界を支援してほしい。

こんな乞食根性で、ぜんぶ「中途半端」になって、どれもが「ムダ」になるのが、行政による「経済支援政策」の運命なのである。

アメリカの共和党では、経済は民間の好きにさせるのが一番で、行政は民間が活動しやすいようにすること「だけ」を政策とする。
おなじアメリカでも民主党は、わが国の与党と似ていて、行政が経済に介入したがる。

なので、政権交代によって、経済が自由になったり、行政が介入したりするから、けっきょく、わが国のように、「いつも介入している」わけではない。
「筋トレ」のごとく、「緊張と弛緩」を繰り返しているのである。

これが、アメリカの強さをつくっている。

けれども、重要なのは、アメリカ人のなかでもエリートは、マネジメントをかならず学ぶようにさせられている。
だから、マネジメントができないエリートは存在しない。

MBA(Master of Business Administration)の本質はここにあるのだけれど、これを、「経営学修士」としか訳せないところに、さいきんの漢字表記の限界がある。
「漢籍の素養」があった、明治人ならなんと「翻訳」したのだろうか?
センスがないけど、直訳すれば「事業運営専門士」になる。

日本では、学業が優秀だと自動的にエリートとされるが、マネジメントを学ぶチャンスがどこにもないのである。
せいぜい「生徒会」や「部活」の運営で「体感」させられるけど、教師にビジネス経験がないから、「マネジメント視点」からの指導はしないしできないのだ。

そして、このことの「欠点」や「やばさ」についての重要性が、日本社会に認識されていない。

その典型が、たまたま個人経営者が集合している、商店街で顕在化しているのである。
つまり、商店街の店主の学歴が低いわけでも、やる気がないわけでもない。

どうやったらいいのか?の基本をしらないのである。
それは、自分の商売の専門知識をいうのではない。
むしろ、家でいえば土地の上に造る「基礎」そのものにあたる。
「基礎」がないのに、商売をしてもうまくいかないのは、当然なのである。

それが「マネジメント」である。

町工場から身を立てた、という物語も、八百屋から身を立てた、という物語も、たまたまそのひとに「マネジメント能力」があった、ということになっている。
そして、それは、21世紀になっても「個人の資質」として捉えられる「だけ」のままなのだ。

「商才」は、「才能」という意味である。

ならば、天才教育をしないのか?ということになる。
音楽とか美術とか、あるいは舞踊とかといった「芸術分野」でよくある「英才教育」は、4歳とか5歳といった時期からはじめるのが常識とされているのに、「商才」については放置されている。

いやむしろ、明治に破たんが相次いだ「武士の商法」のように、高潔なる支配層は、「カネを求めてあきない(商)」に専念することを「卑しんだ」伝統から、わが国を支配する公務員達は、子供の時分から「勉学」に励まされる。

では何を勉学しているのか?といえば、学校教育における「科目」の勉学に集中させられて、それ以外には時間を割くことを許されない。
「遊び盛り」の同級生を指して、親は、「将来見返してやれ」と言って鞭打つから、おとなになって「弱者」に鞭打つことに「痛み」を感じない。

そんなわけで、「マネジメント」という分野を学んだことがないひとたちが「エリート」といわれるようになって、こうした「人材」を大量生産してきたのが、「大学」という場所である。

研究と教育の両方を課せられる、大学教員は、研究と称した「論文」の生産に精を出すことになる。
これが、学者としての「評価」ということになっているから、「学位」だけでなく論文がない学者は学者世界でいじめにあう。

一方、時間は24時間/日しかないので、教育を重視したら論文は書けない。
今どきの「授業の準備」には、驚くほどの時間を要するのである。
それが、対面とリモートになって、手間が二倍になった。

そんなわけで、「ビジネス」を人生経験で知らない役人と学者が、商店街振興に口出しをするようになったのは、カネを使う、そのカネを貰う、という「だけ」で、やったつもりになるからだ。

商店街の商店主が資本主義を知らないのではなくて、資本主義を忘れさせる努力を、役人と結託したビジネスを知らない「経営学者」が指導・命令するから、商店街が衰退する。

こうして、わざと商店街を衰退させるのは、「大店法」の対象となる、資本主義的な大型ショッピングセンターを「支援」したいからなのである。

「ポスト・資本主義」って?

あんがいとふつうに使われている「用語」には、略されたものがふつうになって「正規」の表現が忘れられてしまうことがある。

たとえば、「生産性」という用語がある。
これが、「政府の産業政策」になったら、「残業の削減」に落ち着いた。
もちろん、「残業代」は「割り増し」なので、経営者には「高くつく」ということだから、「産業を優先させる」という戦前からの方針を貫いた。

働くひとは誰だって、本当な残業なんかしたくない。
はやく家に帰って、職業人ではない自分になりたい。
けれども、正規の賃金がどんどん安くなったから、残業でもしないと生活ができないのだ。

たとえば、先進国の集団として、アメリカ地域(北米)と、日本に対抗してできたEUは、日本型社会主義をもっと尖鋭化させてとりいれた「EU委員会」という官僚組織が運営していて、「EU議会」は名ばかりの「参考」程度にするというやり方だ。

こんな無茶な方法でも、この30年の「成長」で、約1.5倍の経済規模になった。
なので、べき乗根(幾何平均)を計算すると、30√1.5≒1.0136となって、年平均で1.36%の成長だったことがわかる。

ちなみに、手許に関数電卓がなくても、「べき乗根 計算」と検索すれば、「計算サイト」が出てくる時代になっている。
もちろん、スマホ用の無料「関数電卓アプリ」はたくさんある。

さて、わが国は経済成長が「横ばい」という「世界で唯一」を30年間も続けているので、この意味は「インフレ分のマイナス成長」ということになる。
この「マイナス成長」を止められないのは、政府による間違った「成長戦略」があるのが理由なのだが、相変わらず政府による「成長戦略」を望んでいるから、貧乏になるのである。

つまり、政府の成長戦略とは、国民を貧乏にする戦略なのだけれども、実は正確に書けば、「政府自身の成長戦略」なのである。
すなわち、政府は「肥る」が、国民は「困窮する」という戦略である。
この場合、「継続は力なり」とはならず、「継続してはならない」になる。

そうやって慣れてきたら、残業をすることが「前提」となる。
つまり、残業代を稼ぐのが生活の維持に欠かせなくなって、これが、「ワーカホリック」という常識をつくった。
すると、残業をしないひとが「異常」に見えるのである。

もちろん、「ワーカホリック」とは、「仕事中毒」のことだから、異常者が過半を占めると民主主義では、「正常者」が異常者になる。
このことが、「新しい世の中」の本質的な構造であって、政府の戦略がこれを創っているのである。

それが「矛盾」が、「国家統計」という、現代社会の「基盤」を狂わせる「力学」になる。
もちろん、正確な統計データがある、というのは、「近代国家」の証であるから、国家統計が正確でない、というのは、近代国家に「まだなっていない」か「やめた:脱落した」ことの証となる。

厚労省データ改竄が問題になって、今度は国土交通省のデータが改竄だけでなく証拠となる過去データが削除されていることが見つかった。
あろうことか、自公連立政権が発足して以来、ずっと国土交通大臣ポストは公明党の独占だったので、いつもとはちがって、公明党が釈明しないといけない立場になっている。

べつに公明党を擁護するものではないけれど、だれも何も言わないでいるものに、「気象庁」(国土交通省の外局)だって、気象データの「廃棄」をしている。
それは、「アメダス」が出来てからとそれ以前とに分けて、「それ以前」のデータを廃棄したことだ。

興味深いのは、「それ以前のデータ」は、「農水省管轄」だから、気象庁が捨てても、農水省には「ある」にちがいない。
「農林漁業」のための気象データのことである。

これにも、やっぱり「政府が肥え」て、「国民が困窮する」というプログラムが前提にあって、ゆえにありもしない「地球環境問題」に大規模予算をつけることができるのである。

それを、放送法に違反してもNHKに「歴史的」とか「観測以来初」とかという、「アメダスができてから」を省略した「表現の自由」をやらせて、国民の脳を冒していても、監督官庁の総務省は無反応なのである。
つまり、政府の戦略なのだから、総務省の意向をNHKが放送しているにすぎない。

そんなわけで、公明党を批判することがこれまで「ためらわれていた」のは、その支持母体の影響力の大きさ故だった。
70年代に、あからさまな批判をした言論人の著作は、ことごとく「廃された」のは、誰でもしっている理由からである。

ところが、「少子」と「高齢化」で、この支持基盤が弛んできた。
おなじマーケット層の共産党も、まったく同じ理由から困っているのは、高齢者層しか支持者がいない、ということだ。

人口統計上では、時間の問題、になる。
だから、人口統計の偽造はしない。

政権維持「しか」脳理にない自民党という得体の知れない集団は、いつどのようなタイミングで公明党を「切る」のか?ということになってきて、「上策」は、おそらく「自滅」したかのようにするのだろう。

そうやって、親中べったりの「維新」と、旧同盟系の民社党が名変した「国民民主」とで連立すれば、あたかも「保守の取り込み」に見せることができるし、トヨタ系などの労組も同時に取り込める。

これが、「新しい資本主義」をいう、日本版「ポスト・資本主義」という話のお粗末である。

国語辞典の「廃語集」が欲しい

「辞書の三省堂」が、『新明解』に続いて『三省堂国語辞典』も新版(どちらも「8版」)を出した。

「国語」なので、「新語」が注目されがちだけど、基本は「紙の出版物」という制約があるから、一度採用した「新語」も、時が経てば「経年劣化」することがある。

この場合、古い言葉ほど残るのは、「経年に耐えた」という「古典」的意味合いが出てくる。
それで、「見出し」はそのままでも、「解説」が変われば、それはそれで「新語」のようなものである。

それに、「新版」が出た途端に「旧版」は、書店の棚から引き上げられて、「古書」扱いになってしまうのだ。
すると、どこがどう「変わったのか?」ということが、気になるのである。

書店には、「サンプル」として、「ここ」という付箋がついていて、そのページを開ければ、さらに「マーカー」や「メモ」で、「違い」や「新しさ」をアッピールするのだけれど、それだけ、を扱ったものがない。
もちろん、「廃語」となった言葉を見つけることはできない。

「8版」にもなると、新語と廃語の「変遷」を特集した「読み物」としての「中身公開」があってもよさそうだ。
『新明解』と『三省堂国語辞典』を合作した「変遷版」を出して欲しい。
その言葉や解説の変遷が、「版表記」でわかれば「年」でもわかる。

ちなみに、『新明解国語辞典』の初版は、1972年。
『三省堂国語辞典』は、もっと古くて、1960年だ。
すなわち、わが国絶頂期に出版された「辞書」なのである。

この二つの辞書の違いは、『新明解』が、ストイックに言葉の意味を追及しているので、ある程度の「年齢=人生経験」を積んだおとな向けの「読んで味わう」タイプに対して、『三省堂』は、クールな「歯切れ」のよさが特徴だ。

辞書本体でも悩ましいのが、紙版と電子版ではあるけれど、紙版の「大きな辞書」も食指が動く。
されど、持ちだし携行には向かないから、電子版と悩むのである。

けれども、「変遷版」なら、電子版でもいい。
「読み物」になると思うからである。
それに、「近代史」の資料にもなる。
「世相」がわかるからである。

さて、「辞書」をつかうという場面では、学校の授業ということもあった。
重い辞書をカバンに入れて、持ち歩いてはいたけれど、めったに「授業中」に引くことはなかった。
つまり、「ときたま」引かされた。

予算が豊富な、たとえば、国立大学(元来の「師範学校」)付属の国立小学校(ここの生徒は「実験台」なのだけど)では、クラス人数分の辞書があって、これを教師がワゴンで教室まで持ってきて、授業でつかう、という技を見せることもある。

しかし、令和の時代になって、「GIGAスクール」という構想が、文部科学省の下で練られている。
先ずは、学校内をLANと高速回線(「ローカル5G]も)でネット接続して、クラウドを活用するという。

これで、端末のパソコンが「Chromebook」になっている。

理由はおそらく単純で、「使用」に際しての教師の負担がほとんどないからだと推測する。
最初から「クラウド利用:Google Drive」に接続することを前提としたマシンなので、マシン自体が高スペックである必要はないし、ネット接続も「Google任せ」で済むからだ。

これが、「Windows」や「MacOS]だとそうはいかない。
個人情報を含めて、セキュリティ管理が厳密な「パーソナル・コンピュータ」だから、端末と利用する個人(生徒や教師)を特定しないといけない。
他人のをちょっと借用、というわけにはいかないのだ。

それで、生徒用には「学習ツール」として、無料で「Google」が提供するアプリを使うようにしているし、教師用には「校務」のためのグループウエアなどを使うように「強制」しているはずである。

そうやって、遠隔・オンライン教育の実施という名目の他に、「文理分断の脱却」ということも、「目指すべき」と発信しているのである。

さてそれで、本音は、「Society 5.0」を生きる子ども達、という前提がある。
経産省がいうこの「構想」に、格下(全省庁で最下位)の文科省が従って、「子育て」をしようというのである。

そんなわけで、三省堂の電子辞書群も、サブスクリプション契約になっていて、「卒業後」も使用契約が継続できる、という「特典」が強調されている。

それでみると、学校生活の中で「新版」が出版されると、自動的にその分は無料で新版に移行するということが、「メリット」になっている。
はたしてこれが、「教育的」なのか?と考えると、小学生でも高学年や中学、高校生が相手なら、むしろ「変遷」が「付録」されると、より教育的で、契約メリットのような気がする。

それにしても、辞書をパソコン端末で引く、ということが「Society 5.0」ということなのか?と思うと、いよいよ学校教育も「民営化」するべし、と考えたくなる。
それは、紙版と電子辞書の「教育効果」という点で、周辺が読める「紙」の有利さがあるからである。

とにかく国家の役割と依存の関係を整理しないと、わが国の衰退は止まらないことだけは、「確か」なのである。

密かなブーム「逃げるが勝ち」

この間、わが家も愛車のタイヤを悩んだ末に交換したら、意外な「履き心地」がわかってきた。

「静粛性」は優秀だけど、「燃費」はイマイチというパンフレット通りで、クラス最高級タイヤとの価格差は、走行距離30,000㎞として、仮に燃費1Lの違い、ガソリン150円で計算したら、微妙な「総額」になるのである。
もちろん、ガソリン価格が大きな要因だけど、体感する「燃費差」にこれだけの違いはあると確信するから、バカにならない。

要は、初期投資として高額でも、燃費の効率性でその価格差自体が逆転する可能性だってある、ということが改めてわかった。
ならば、素直に、クラス最高級タイヤを選んでも、「高い」ということにはならないどころか、却って「安く付く」可能性まである。

すると、この「クラス最高級タイヤ」とは、まさに「高性能」ということで、数万円をケチったことにいまさら「失敗」の予感をもっている。
あえて書くまでもないけれど、見送ったクラス最高級タイヤとは、ブリジストン製のものである。

新車に装着してあったのも、ブリジストン製だったから、性能を「同じ」として、気づいたのが「燃費」だったのである。
ただし、タイヤ専門店の説明によると、同じメーカーの同じブランドでも、新車に装着されるのは一般販売されているものとは「違う」というから、ややこしいのだ。

もちろん、タイヤの溝がなくなってきて、交換時期がきているのだから、新しいタイヤにしないといけないし、むかしのCMにあった「タイヤは命を乗せている」最重要部品だから、「安ければいい」という選択はない。

選んだ別メーカーの「静粛性」に関しては、概ね満足だから、「静かさ」を買って消費しているのである。
それ故に、新製品の「クラス最高級タイヤ」だったらどうなのか?が気になるのである。

さりげないタイヤではあるが、その製造にあたっては、とてつもないノウハウが投入されている。
ゴムの材質はもちろん、溝の形状だって、どれほどの苦心があるものか?

乗用車には1台で4本が絶対に必要だから、自動車の時代を見越して「タイヤ」を作ると決めたメーカーの「先見性」は、見事だといえる。
自動車メーカーは、いまだに自社でタイヤまで生産していないのは、まさにリカードのいう分業の有利さを証明している。

日本はもとより、世界のトップランナーにあるのは、ブリジストンであるけれど、今年は中国の工場を閉鎖していた。

「計画経済」なのに、国勢調査をやったことがないというのはどういうことかわからないけど、ソ連の「グラスノスチ(情報公開)」ができなかったように、政府がいうあらゆる「数字」の信憑性がないというのも、「お国柄」である。

しかし、「共産主義」は「奴隷制」を伴うので、「身分確定」をして社会が安定モードに入るという特徴がある。
支配者階層(党員:約1億人)と、一般人(技能層:約4億人)と、奴隷(その他:約8億人)である。

彼の国の「総人口」が巨大なので、自由圏から見たら「13億人市場」に見えるけど、西側の高品質製品の購買層とは、支配者階層と一般人までしかいない。
最大人数になる奴隷層は、徹底的に身分を固定(永久)する制度だから、未来永劫、体制が続く限り購買層にはなり得ないのだ。

つまり、多く見積もって「5億人市場」なのである。

それが、「飽和状態」になった。
しかも、党の権力闘争で、相手派閥の系統にある産業いじめという政策が堂々と採用されていて、なんとこれを「批判」する記事が、つい先日、「人民日報」に掲載されて話題になっている。

そんななかでの、ブリジストン工場の撤退とは、いったいどんな「市場分析」をしたのか聞いてみたいけど、ブリジストンの「プレスリリース」には、中南米に工場投資をすると説明があるだけだ。
ちなみに、対象市場は北米で、対象車種は「EV」だという。

その「EV」の「電池工場」を撤退させて、フランス本国に帰ると、シトロエンが発表した。
EV(電気自動車)は、いまのところ「電池」に充電しないと走れないことになっているから、これも「市場分析」の結果だろう。

一方、世界のトヨタは、EVへの全面移行をするらしいけど、「電池式」と「受電式」との二種類が考えられる。
受電式とは、宇宙での「発電衛星」等からのマイクロ波を屋根に受電して走行するという方式で、貴重資源を要する充電池をつかわない。

電磁波による健康問題は横にして、これを、どこで作って実用化するのか?という問題がある。
もちろん、「地球環境」も抜きにすれば、現状の内燃機関がもっとも効率的なので、「経済に優しい」ことは無視した話である。

そんなわけで、日本企業だけでなく欧州企業の撤退も密かなブームになっているけれど、留まる企業は投資を増やすという「二極化」になっている。
こうしたことに、敏感なのは「株式市場」になるのだが、わが国の株式市場は、日銀が買い支えるという社会主義で、上海市場のように「恣意的」なのだ。

だから、やっぱり日本企業でも「ニューヨーク市場」を見ないとわからないことになっている。
東京や大阪で「国際金融センター」になる、とは、「たわごと」あるいは臨終前の「うわごと」に過ぎないのである。

賃上げとフランケンシュタイン

政策立案に役人の言う事しか聞かないから、トンチンカンな政策しか出てこない。
これはなにも岸田政権だからではなくて、アベノミクスなるインチキも同じだから、自民党に中身がないということだけがわかるのである。

その中身のなさが、絶望的な「無知」とか、「無教養」によっているので、期待のしようもない。
まことに、国民にとっては、こんな政府を持つことの不幸としか言いようがない。

もちろん、それは「まともな代わりが皆無だ」という結論に尽きる。

ちょっと前のむかしなら、賃上げしない民間に業を煮やせば、「公務員給与」を上げたりして牽制したけど、いまどきそんなことをしたら、若いひとがみんな公務員になりたがって、民間企業に就職したがらなくなる「困った」がある。

むかしなら、若者がたくさんいたから、公務員からあぶれてもそれなりの人員数は採れたけど、いまは公務員が肥大化したので、民間に回る分がいなくなる懸念があるから、財界に叱られてしまうのである。

世にいう「限界集落」の町内会だって、人口がたんまりいる集落の町内会と「同じ数以上」の役員が必要なのは、大英帝国海軍の艦船がナチスに沈められても、海軍工廠の必要人員が増えたことと似たような話になるのである。
たとえば、夜回りの回数を増やさないと空き家ばかりで放火の危険性があるから、とか。

それに、「賃上げ」の話が、大元の「生産性」の話に転換したのはいいけれど、そのまま「残業削減」の政策になって終わってしまった。
しかしながら、これはこれで「よかった」のは、所詮、政府が民間に賃上げを要求するという本末転倒を「寸止め」できたからである。

ソ連時代に、共産党が企業に賃上げを命令するのと同じだから、自民党はソ連共産党と発想を同じくしている。
唯一の違いは、企業経営者をシベリヤ送りにしない「だけ」だ。

それで、命令をきかない経営者を追放したら、もっと無能な「党に従うだけ」の人物たちが経営者になったので、もっと業績が上がらない「悪循環」になった。
ラッキーなことは、「党の指導者」の高齢化が顕著になって、責任を「死んだから」という理由で押しつけることができた。

社会の前提が、「全能の党はいつでもなんでも正しい」だから、これを否定したら、「終わり」なのである。
わが国では、「党」を「官僚」に置換すれば、同じ理屈ができる。

そうやって何人も死亡して交代していたら、とうとう「若い」ゴルバチョフが選ばれた。
困り果てたゴルバチョフは、窮余の策で「改革」を言わざるを得なかった。
それが、「ペレストロイカ(再構築)」になったのである。

この再構築での、合い言葉が「グラスノスチ(情報公開)」になったのは、国家統計からなにからなにまで、たとえば、「在庫情報」も、全部が「党の指導下」で責任回避の「うそっぱち」だったからであった。

つまり、「本当はどうなっている?」という意味の社会運動なのだ。

企業は粉飾決算が当たり前だったけど、粉飾決算をしないといけない理由が、「党の命令」と同義になっていた。
企業を「指導する党幹部」の責任を回避するには、粉飾決算をするしかないという、単純な原理である。

結局のところ、「グラスノスチ」が、ソ連を死に追いやった。
「うそ」と「本当」の区別がつかない社会になったからである。
誰もが疑心暗鬼となって、社会そのものが維持できなくなったのである。

興味深いことに、盤石と信じられていた国家体制の「崩壊=死」とは、仏教的「転生=再生」という、最大のチャンスが訪れたことを意味した。
それで、「喜々として」アメリカはノーベル賞学者を含む経済専門家たちの大デリゲーションをモスクワに派遣して、「資本主義経済」への転生を助けるつもりだった。

ところが、アメリカ人も「うっかり」していて、「資本主義」とはどんな「思想」なのかを教えずに、「金融制度」や「会社制度」といった「応用」ばかりを教えたのである。

それで、ロシアはとうとう「マフィア経済」という最悪のシステムになってしまったのである。
早い話が、人間になりそこねた「人造人間」のような、ヨーロッパ的なら『フランケンシュタイン』のような経済体制を創ってしまった。

今様の「恐怖:ホラー」というよりも、どこか物悲しいこの物語は、メアリー・シェリーという女性作家が書いたからだろうか?

そんなわけで、「物悲しくもある」のが、女性的になった現代日本で、トヨタ労組が自民党を支持するという「異変」も、自民党とは何者か?を素直に考えれば、単なる社会主義政党で政権党なのだから、むしろ他の労組がなぜ自民党を支持すると表明しないかが不思議になったのである。

これは、見た目で同じ「ソ連型」ではあるけれど、オリジナルのソ連は党からの命令によってであったけど、日本の場合は「状況が命令する」という順番違いで、労組から率先して党が支持されるのだから、本質的には「日本型」の方が、より理想的な社会主義になっている。

一方で、腐っても鯛のアメリカでは、トランプ政権の置き土産である、「空前の減税」が功を奏して、史上空前の「法人税が増収」となった。
政府が企業活動のお邪魔をしないようにしたら、それが「増収」になるという事実を提示した。

10万円の給付で、全国民を乞食化させる日本政府とは、真逆なのだ。
なぜなら、それが将来の「増税」になること確実だからである。

賃金を増やした分税金が控除されるからといって、喜んで決める経営者なんていないのは、福祉国家という社会主義のために、企業の社会保障負担が増えてしまって「相殺」されるからである。

政府が自分で創った「仕組み」を、コントロールすることができなくなったのだ。

フランケンシュタインのように。
ただ、恐怖を感じるのは国民なのだという「ホラー」になったのである。

昔の音韻復元の威力

「比較言語学」の成果のことである。
これまで、「文字情報」として「古典」を見ていたものが、「音韻」として耳からの情報になって再現されて、それが一般人のもとにもネットでわかる時代がきている。

とりあえず、「minerva scientia」さんが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年~1814年)の会話部分を「音読」している。
当時の「江戸庶民」の会話が、見事に再現されているのだ。

これをまた、専門家として、「はちあ Hachia」さんが取り上げて、どうして当時の発音がわかるのか?について、言語学的に解説してくれているから、より深くしることができる。

視聴者からの多くのコメントに、「聞いたことがある」、「懐かしい」という書き込みがあるのは、たかが「二か三、多くて四世代前」のひとが実際に話していた「音」の記憶である。

幸か不幸か、こうした「記憶」があるのは、もう還暦近くの世代以上でないといけなくなった。
すなわち、「高度経済成長の最中」が、絶滅の最後にあたると考えられる。
この時点で子供なら、祖父母は明治中期の生まれとなるはずだ。

すると、この時点での子供の親にとっての祖父母は、明治初期の生まれになって、幕末以前の生活を引き摺っていたと容易に想像がつく。
「激動の時代」ではあるけれど、電話もテレビもインターネットもない時代の激動は、いまとはぜんぜん意味がちがう。

少なくとも、こうした片鱗は「現代物」の映画に記録されている。

小津安二郎を代表に、数々の「名作」にある登場人物たちの会話に、ふつうのひとたちの「話し言葉」がそのまま残されている。
映画だから、その会話が、「所作」とともに記録されていて、現代生活の「退化」、「荒廃」がわかるのである。

ついこの間まで言われていた、「はしたない」という注意喚起の言い方だって、すっかりなくなった。
それこそ、「所作」と「言語」が一致していたことの証拠であった。

これらのことをよく考えれば、「滑落」というイメージが湧いてくる。
これを「物理運動」とすると、高いところから低いところへと「墜ちていく」という意味なので、対象が物体ではなくて「文化」であっても、通じるところが注目点になる。

つまり、「高い文化」から墜ちて、「低い文化」になった、ということだ。

すると、幕末から明治初期にわが国を訪れた、「白人」が書き残した数々の「日本絶賛・礼賛」の文章とは、「欧米」という低い文化から見たわが国の高い文化を言っていることがわかる。

ところが、「科学」と「技術」で、だいぶ「遅れ」をとっているということ「だけ」で、わが国の文化全てが「低い文化」だと思いこんだことが、160年の経過と「努力」によって、自ら進んでほんとうに「低い文化」におとしめたのであった。

   

上左は、トロイの遺跡を発見する前のシュリーマンが、幕末の日本を訪れたことを書いていて、「我々(ヨーロッパ人)の知らない文明国」と言っている。
中の上下巻は、英国夫人にして旅行家のイザベラ・バードの旅行記で、右は大森貝塚を発見した米国人モース博士の日本滞在記である。

これらに共通するモチーフは、物質的な話ではない、「日本文化の高さ」なのである。

しかし、我々は努力して、物質的な「豊かさ」を追及するあまり、「拝金主義」という欧米文明の野蛮さを「先進的」と思いこんでしまった。
それでもって、「自己破壊」を続けていたら、とうとう「自分が何者なのか?」が分からなくなってしまったのである。

これぞ、開国以来一貫した、日本人の精神病理となった。

さては時間を巻き戻すことは不可能なので、いかなる手法でこの精神病理を克服するのか?という問題が、将来の日本人の「幸福」あるいは「不幸」を決定的に決めてしまうことになる、と理解できる。

江戸言葉に話を戻すと、幕藩体制という「分散型体制」で、「地方」も独立した国だったから、「お国言葉」という文化遺産もある。
すでに、小学生をして、「お国言葉」の理解が困難になっているから、自分が「遣い手」になるのは、最後のチャンス状態になっている。

しかも、現代の10代は、ほとんどテレビも観ない、ということなので、いまさら地方局は、お国言葉での放送をせよと命じたところで効果は薄い。
ならば、都道府県につくった国立大学の入試における「国語」には、「お国言葉」で出題するようにしたらいかがかとも思うのである。

人間は言葉によって制御される動物だから、「初めに言葉ありき」は正しい。

しかして、バベルの塔建設で神の怒りを買って、言語を乱されたという人類にあって、日本語だけが世界で別系統という不思議もあれば、古代シュメール語との共通をいう説もある。

日本文明発祥の不思議は尽きないけれど、日本文明が尽きようとしている。