個人商店は資本主義に不適応か?

「商店街」が衰退するのはなぜか?
そして、数々の商店街「振興策」が失敗するのもなぜか?

ひと言でいえば、マネジメントの方法をしらないからである。

行政の支援とは、道路や看板、あるいは、アーケードの整備などが中心で、地元の地域振興商品券をつくったところで、かんじんの商店街では消費されず、大手スーパーで利用されるだけだ。

こんなこと、わかっているのにやめられないのは、なにかしないと役所の「評判を落とす」からである。
それに、地元選出の議員からも、「なにかやれ」とせがまれるので、なんでもいいから実行しておくだけのことである。

つまり、「効果」がなくても、「ある」としてやる。
なにもやらないよりは「まし」だからだし、どうせ使うのは他人のカネの税金だ。
こうして、アリバイづくりに精を出して、責任を商店主の「才のなさ」とする。

それに、議員だって表面上はどうあれ、全員が商店街の振興をもとめているわけでもない。
住民の立場にたてば、「ムダ」はやめてほしいから、商店街の振興は「ムダな抵抗」になるし、別の商工業者からすれば、自分たちの業界を支援してほしい。

こんな乞食根性で、ぜんぶ「中途半端」になって、どれもが「ムダ」になるのが、行政による「経済支援政策」の運命なのである。

アメリカの共和党では、経済は民間の好きにさせるのが一番で、行政は民間が活動しやすいようにすること「だけ」を政策とする。
おなじアメリカでも民主党は、わが国の与党と似ていて、行政が経済に介入したがる。

なので、政権交代によって、経済が自由になったり、行政が介入したりするから、けっきょく、わが国のように、「いつも介入している」わけではない。
「筋トレ」のごとく、「緊張と弛緩」を繰り返しているのである。

これが、アメリカの強さをつくっている。

けれども、重要なのは、アメリカ人のなかでもエリートは、マネジメントをかならず学ぶようにさせられている。
だから、マネジメントができないエリートは存在しない。

MBA(Master of Business Administration)の本質はここにあるのだけれど、これを、「経営学修士」としか訳せないところに、さいきんの漢字表記の限界がある。
「漢籍の素養」があった、明治人ならなんと「翻訳」したのだろうか?
センスがないけど、直訳すれば「事業運営専門士」になる。

日本では、学業が優秀だと自動的にエリートとされるが、マネジメントを学ぶチャンスがどこにもないのである。
せいぜい「生徒会」や「部活」の運営で「体感」させられるけど、教師にビジネス経験がないから、「マネジメント視点」からの指導はしないしできないのだ。

そして、このことの「欠点」や「やばさ」についての重要性が、日本社会に認識されていない。

その典型が、たまたま個人経営者が集合している、商店街で顕在化しているのである。
つまり、商店街の店主の学歴が低いわけでも、やる気がないわけでもない。

どうやったらいいのか?の基本をしらないのである。
それは、自分の商売の専門知識をいうのではない。
むしろ、家でいえば土地の上に造る「基礎」そのものにあたる。
「基礎」がないのに、商売をしてもうまくいかないのは、当然なのである。

それが「マネジメント」である。

町工場から身を立てた、という物語も、八百屋から身を立てた、という物語も、たまたまそのひとに「マネジメント能力」があった、ということになっている。
そして、それは、21世紀になっても「個人の資質」として捉えられる「だけ」のままなのだ。

「商才」は、「才能」という意味である。

ならば、天才教育をしないのか?ということになる。
音楽とか美術とか、あるいは舞踊とかといった「芸術分野」でよくある「英才教育」は、4歳とか5歳といった時期からはじめるのが常識とされているのに、「商才」については放置されている。

いやむしろ、明治に破たんが相次いだ「武士の商法」のように、高潔なる支配層は、「カネを求めてあきない(商)」に専念することを「卑しんだ」伝統から、わが国を支配する公務員達は、子供の時分から「勉学」に励まされる。

では何を勉学しているのか?といえば、学校教育における「科目」の勉学に集中させられて、それ以外には時間を割くことを許されない。
「遊び盛り」の同級生を指して、親は、「将来見返してやれ」と言って鞭打つから、おとなになって「弱者」に鞭打つことに「痛み」を感じない。

そんなわけで、「マネジメント」という分野を学んだことがないひとたちが「エリート」といわれるようになって、こうした「人材」を大量生産してきたのが、「大学」という場所である。

研究と教育の両方を課せられる、大学教員は、研究と称した「論文」の生産に精を出すことになる。
これが、学者としての「評価」ということになっているから、「学位」だけでなく論文がない学者は学者世界でいじめにあう。

一方、時間は24時間/日しかないので、教育を重視したら論文は書けない。
今どきの「授業の準備」には、驚くほどの時間を要するのである。
それが、対面とリモートになって、手間が二倍になった。

そんなわけで、「ビジネス」を人生経験で知らない役人と学者が、商店街振興に口出しをするようになったのは、カネを使う、そのカネを貰う、という「だけ」で、やったつもりになるからだ。

商店街の商店主が資本主義を知らないのではなくて、資本主義を忘れさせる努力を、役人と結託したビジネスを知らない「経営学者」が指導・命令するから、商店街が衰退する。

こうして、わざと商店街を衰退させるのは、「大店法」の対象となる、資本主義的な大型ショッピングセンターを「支援」したいからなのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください