トランプ氏にノーベル平和賞を

ノーベル賞のなかでも「平和賞」というのは、「経済学賞」とおなじくらい不思議な賞である。

そもそも、経済学賞はノーベル財団が認めていないから、「ノーベル賞」といっていいのかさえも怪しいのだけども、正式名称の「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といわれることはめったになく、強引に略しているのである。

平和賞は、ノーベルの遺言にあるので、経済学賞ほどのあやしさではないはずだけど、「科学」というノーベル賞の基本からかなりの距離があることは否めない。
それに、(一応経済学賞もいれて)6部門のうちこの平和賞だけ、選考はスウェーデンではなくて、ノルウェー・ノーベル委員会になっている。

これは、1905年まで、スウェーデンとノルウェーが「同君連合」として、おなじ王様の国だった名残でもある。最初の授賞式は1901年だった。
まぁ、事情もさまざまな各賞で、そこに受賞という名誉が「ある」のだから一般人が文句をいってもはじまらない。

コロナ禍、日本のお盆の時期に欧州歴訪した中国の外相が、香港の自由を求める活動家に、もしやノーベル平和賞を差し出すのではないかと懸念して、ノルウェー政府を恫喝してしまったのがニュースになった。
こういうことが、「嫌われる」ことに気づかないことが、相手から本気で嫌われる原因になる。

どういう神経か?と。

もはや、ヨーロッパは話題のベラルーシを除いて、すべてが自由と民主主義の国ばかりになったので、この恫喝のニュースは全ヨーロッパを敵に回す「嫌われる努力」となったし、旧社会主義国の国民にかつての自国の記憶を鮮明に蘇らせる効果ばかりとなった。

なので、「ヨーロッパ最後の独裁者」といわれるベラルーシ大統領に対抗する大規模デモに、周辺国民の支援にも熱がはいっているのは、完全に「反面教師」に対する反抗心の表れとしての「効果」にもなってしまったのだ。

なお、ここでいうヨーロッパにロシアは含まないので念のため。
ちなみに、ベラルーシの「ベラ」とは、直接的には「白」を意味するけど、深いところで現地では「南」のことである。「ルーシ」はロシアが訛ったから、直訳で「白ロシア」、現地の感覚では「南ロシア」をいう。

むかしいってた「白系ロシア」は白人が多いという意味に捉えたひとがいたけれど、そうではない。
ただし、ファッション界のモデルが国家資格になっている国なので、ファッション系でいう「美人大国」であることは間違いない。

中国の外相をここまで追い詰めたのは誰だっけ?ということは脇に置いて、最近驚愕したニュースは、イスラエルとUAEの国交樹立のニュースであった。

UAEとは、アラブ首長国連邦のことで、アラビア半島南東に位置する、7つの首長がいる小国の連邦である。
「アラブ」がつくから、アラビア語を話してイスラム教を信仰しているひとたちの国だ。

地図を見ないといけないのは、7つも国が集まった理由を知るためにも必須だからである。
いまでも「アラブ連盟」は健在で、21カ国が加盟(シリアは資格停止中)していて、本部はエジプトのカイロである。

イスラエルに対抗して「アラブの大義」が声高にいわれたけれど、アラブ各国が集合した「アラブ連合」は、かつてエジプトのナセル大統領が提唱し、実験はしたもののうまく実現していない。
部族社会が歴史的本筋なので、一本化できないのである。

そんなアラブのなかにあって、UAEの結束があるのは、対岸の国を見ればわかる。「ペルシャ湾」に面しているから、イランが目先にあるのである。
ここで、敵の敵は味方という論理が成り立つ。
ならば、もっと前にイスラエルと国交を結べばよかったじゃないか、というわけにはいかない。

その理由が、アラビア半島の大石油産油国、サウジアラビアの存在である。
けれども、いまだってサウジアラビアはある。

では、なにが変化したのか?
アメリカの中東からの撤退という「流れ」なのである。
これは、トランプ政権になって鮮明になった。
彼の票田は、シェールオイル事業者だから、石油価格の適度な維持が重要なのである。

すると、サウジにとって、アメリカの撤退とは、イランとイスラエルとの二方面作戦を強いられることになる。
トランプ氏の婿殿は、バリバリのユダヤ人(=ユダヤ教徒)だから、政権が発足してすぐに、イスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移転させた。

戦後のなかで、アメリカ大使館との距離がある日本大使館は、戦前の一等国の名残であった。なので、戦後の日本大使館は、アメリカ大使館のご近所に必ずある。
これが、イスラエルで破られている。日本大使館は、いまだテル・アビブにあるのだ。戦後日本の、覚悟のなさの象徴ともいえる。

じっさいに、中東和平はトランプ政権になって進展している。
半世紀前の中東戦争によるイスラエルの占領地を「固定させる」という提案は、時間経過の中で、アラブ側にも同意できる環境となっている。

中東の従来秩序を破壊したら、和平が見えてきた。

誰のために?
国家のメンツではなくて、そこに住んでいるひとのために。
これを徹底追求したら、中東と、ヨーロッパ、それに東アジアで、平和の鐘が鳴りそうなのだ。

これは、あたらしい名誉革命なのである。

国家による天気の独占

9月になったら、なんだかすごい台風がやって来ている。
番号でいえば10号、名前でいえばハイシェンのことである。

ずいぶん前にテレビの気象情報で「天気図」を観なくなったと書いた。
わが国は、気象庁という役所が天気を仕切っている。
「気象予報士」という「士業」は、この役所の「岡っ引き」である。

岡っ引きだから、正規職員の下に位置する。
気象庁の正規職員には、「技官」と「事務官」がいるのは、わが国の役所だからどこでも同じだ。
たとえば、厚生労働省なら、医師免許を持っている「技官」と、一般職公務員試験の「上級、中級、初級」に受かった事務官、という構造と同じである。

それでもって、役人になって出世するのは上級職の事務官ということになっている。
これを一般に「官僚」とか「キャリア」呼んでいて、初級なら「官吏(かんり)」という。
地方公務員なら「吏員(りいん)」という言いかたもあった。

技術職の専門家を、「技官」とするから、気象庁なら「予報官」とは「技官」のことをいう。
予報官は予報をすることが仕事だから、他のことはしないし、しては「いけない」ことになっている。

してはいけないことを決めるのは、事務官だ。
庁内事務を取り仕切るのが、キャリアの事務官である。
なので、予報官が予報に使う「生データ」とか、予報の詳細とかのうち、国民に発表する内容を決めるのも、「事務官」である。

役所では、ひとりの事務官がずっと同じ席にいるのではなく、だいたい二年ばかしで異動する。それでもって、「キャリアを積む」から、「キャリア」という。

だから、役所に40年も勤めると、20人ほどの「キャリア」が異動でやってきてはいなくなる。
やることが決まっている欧米的な行政機関なら、ほとんどやることがない「席」であれば削減される。

けれども、お役人の数に応じて「席をつくる」のがわが国の役所なので、やることがなくても「席」はある。
人間とは不思議なもので、二年の辛抱がなかなかできない。
それで、なにかと仕事を作って、なんだか「システマティック」にしてしまうのだ。

それは、「キャリア」がふつうに優秀だからで、自分が在籍した証を残したくなる。
そんなわけで、国民に役に立とうが立つまいが関係なく、役人の中の価値観だけで、業務が変化するのである。

たとえば、警察のキャリア事務官がいいだしたらしい、自動車ヘッドライトをハイビームにするような「指導」がある。
道路交通法のいつの時代の条文かしらないが、「法にある」という理由から、これをやったら、勘違いしたドライバーが何が何でもハイビームにして危険なほどにまぶしかったりすることになった。

すると、これをやめてもとにもどす指導をするのではなくて、自動車メーカーに自動点灯して自動調整できるヘッドライトを義務化させようというのだから、どうかしている。
高いコストを払わされる国民へのイジメになった。

そんなわけで、気象庁も、気象予報士という岡っ引きが発表できる範囲を決めたから、どのチャンネルの気象予報士を観ても、同じことしかいわないくなった。
国民にはこの程度の情報で十分だと、キャリア事務官が決めている。

それで、各局とも気象予報士は、若くて清楚な女性ばかりになったのだ。

ところが、天気情報の大元である観測網のデータを独占しているのも気象庁だから、気象予報士が得た情報とおなじものしか発表もしない。
まさに、気象庁が「大本営化」しているのである。

これは現代の異常ではなくて、わが国の役人の行動原理が戦前と変わっていないからである。

ならば世界はどうなっているのか?
ヨーロッパには中期予報センター(「ECMWF」)という機関があって、世界一の数値予報精度を誇っている。
ちゃんと台風10号だって予報しているのである。

そんな遠くのひとたちが出す予報なんて、という方には、ハワイのアメリカ太平洋艦隊が発表している天気予報は、かなり充実している。
「軍」の運用にかかわるからだけれども、米軍はぜんぜん「機密」にしておらず、データもなにも一般公開しているのである。

理由が不明であっても「隠す」のが日本の役所である。
こうすれば、なんだか自分たちがコントロールしている気になるからだろう。
それが、相手が天気でもだ。

気象現象をコントロールできるとかんがえることの倒錯は、国民の税金で賄われている、という感覚の欠如がさせるとしかいいようがない。
要するに、天気までもが、民主主義かそうでないかの指標になるのだ。

なるほど、だから「命を守るためにはやめの避難」といって、責任回避をするのだ。

隣の大国の体制を嗤えない、じゅうぶんに恥ずかしい話である。
誰であっても、あたらしい総理大臣に期待できない理由がこれなのだ。
与党と役人がつくってきたシステムだからである。

気象庁も解体して民営化した方がいい。

宗教国家の無宗教

この話の主語は、「わが国は」というよりも「わが国民は」が適切だ。
日本人は世界最強レベルの宗教性をもっているのに、ほとんどのひとが自分は「無宗教」だとおもっている。
なので、外国の入国審査で「悪魔扱い」されることがある。

「無宗教」とは、「信仰告白」の逆なので、神の反対にいる「悪魔」か、「共産主義者」と判断される。
もっとも、悪魔だって「悪魔信仰」というものがあるし、共産主義もルンペンだったマルクスが自分のユダヤ教を焼き直してつくった「新興宗教」であるので、宗教から抜けることができない。

だから、「無宗教」というのは、じつはたいへんな状態であることを告白していることになって、上述の論法からすれば「人間ではない」と人間が口にしていることになる。
すると、宗教をもっているひとからすれば、本物の「悪魔」ということになる。

こうして、よくて入国拒否。
悪いと逮捕・監禁されて、あげくに(強制)国外退去処分を受けることになる。

こんな処分を受けるとどうなるか?
こうした説明を誰もしないので、なんだか大変なことになったぐらいにしか思わないひとがいる。
それはそれで、おめでたいのだけれども、どうなるかがわかると「しまった」になるのは確実だから、やっぱりしらないと損をする。

パスポートの番号は、新しくなるたびに変更されて、いつでも最新の番号が発番されるようになっている。
だから、パスポート番号だけで管理していたなら、なかなか気づかないんじゃないか?と甘いかんがえをすることがある。

外国旅行が珍しかった時代は、飛行機も発明されていないので船での移動だった。これはその国にとって、外国人が珍しい、ということでもあるので、顔を見ればたちまち正体がわかることもある。
でも、ヨーロッパのように、狭い地域にたくさんの国があって、似たような人種なら、おいそれと外国人だとわからない。

だから、当たって砕ける作戦になるので、身分証を携行していないと大変なことになった時代があった。
いまは、ほとんどの国でパスポートに埋め込まれた電子チップの情報を読み込む。

それで、一度(強制)国外退去処分を受けたら、一生その国に入国できない。
一生なので、こうした処分を受けないに越したことはない。
安易に「無宗教」とこたえて、処分されることがいまでもあるのだ。

わたしは、「仏教徒:ブッディスト」と答えるようにしている。
およそ世界の国で、仏教徒を拒否する国はない。

ならば、仏教徒は他人に害を与えないのか?といえばそうでもない。
仏教徒によるテロだって、暴動だってある。
ただし、仏教は内面を重視するので、外面も重視する他宗教からすればいくぶん温和なことになっている。

でも、ほんとうは、日本人は「日本教徒」という特殊な宗教の信者なのだ。
この宗教は、信仰告白を必要としないし、入信するにも日本国内で生まれて育つと、ほとんど無意識に自動的に信者になるようにできている。
だからじつは、世界最強レベルの宗教なのである。

これは、「日本人の定義」にかかわる問題なのだけど、日本人はなにをもって日本人というか?について、おどろくほどに無頓着なのである。
むかし、リーダーズダイジェストの別冊で、世界の人の定義集という辞書のような本があって、これを引くとあっさりしていた。

日本人:日本国内で生まれて日本国籍があり、日本語を話す人。
と記憶している。
外国で生まれたら日本語を話そうが話すまいが、両親のどちらかが日本人なら「日系人」といい、まったくの外国人で日本語を話しても日本人とはいわない。

ユダヤ人だと、ユダヤ教を信仰している人。つまり、人種も国籍も問わない。
アラブ人だと、アラビア語を話してイスラム教を信仰している人をいう。
なので、アラビア語を話すけど、キリスト教を信仰しているならアラブ人とはいわない。
イランは、イスラム教を信仰しているけれど、ペルシャ語を話すのでアラブ人ではない。

というように、けっこう言語と宗教が「人」を決めるのである。

日本人の本当の定義は、上述に「日本教の信仰」が加わるけれど、日本人のほとんどだれも「日本教の信者」とおもっていないので、「定義」として書き出すことができないうらみがある。

日本教の真髄は、「穢れ」、「言霊」、「禊ぎ」が三点セットになっている。これには、「怨霊」からのがれる効果も含む。
これらは、「精神世界」で物質世界での理屈では説明できないために、「えんがちょ」も派生してくる。

そんなわけで、コロナ禍における「差別的」な社会現象が、日本教の宗派内における「穢れ」として起きている。感染とは穢れなのだ。
そして、なんと「禊ぎ」が、政府の用意するわけのわからないワクチンに変容してしまった。

だから、「ワクチン拒否」をだれもいえない状態が次にやってくる。

ならば、誰かが「コロナの怨霊」となって、祟りではなくただの風邪だというしかない。

「我こそはコロナの怨霊~。なにがワクチンだと~。馬鹿者たちめ。ただの風邪に怯えおってに~」こそが、唯一の解決法なのである。

相模川を越えられない

横浜市民があんまり意識しないことで有名な神奈川県は、律令時代からの相模国と武蔵国を中心に成り立っている。
これに、三浦が付随していて三多摩(西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡)もあった。
半島の三浦はいまでも神奈川県だが三多摩は「東京府」に移管されてしまったので、歴史に興味が薄い「都下の都民」にはなんのことかわからないだろう。

ざっくり簡単にいえば、東京市を形成していたいまの23区以外は神奈川県だったのだ。
隣接する町田市はもちろん、吉祥寺がある武蔵野市だって神奈川県だった。
これを決めたのが、明治4年に神奈川県知事になった陸奥宗光だ。

分割の原因は、多摩川と玉川上水の「水利権のもつれ」に「自由民権運動」がくっついて、「官選」だった当時の神奈川県知事が面倒になって、「あっち行け」といったことにあった。時は明治26年。

驚いた三多摩では、神奈川県に留まりたい運動を必死(結構過激)にやったくらいだから、ひとの心のうつろいというものはわからない。
養蚕農家を中心に絹製品を横浜港からの輸出で稼ぐには、神奈川県にいたほうが有利だとかんがえたのだ。

今どき、よほど都政が狂えば別だが、この地域で神奈川県復帰運動なんてだれも興味がないだろう。
もちろん、県政がちゃんとしていることが条件だけど、こちらも危ない。

日本が重化学工業で近代化して、欧米列強とならぶ「一等国」になるまでも、なってからも、絶対的に稼いで支えたのが「線維産業」だった。
八王子と横浜港を直結していた、JR横浜線が敷設された理由がここにある。

桜木町(初代横浜)駅前の日本丸横にある鉄橋が、ワールドポーターズまでの近道になっているけど、ここにある線路こそ、まさに「それ」なのだ。
むかしはその先の、赤レンガ倉庫までつながっていた。

多摩川はいまでも神奈川県と東京都の境をなす。
いまは「京浜工業地帯」というよりも、大東京の外郭をなすようになったから、ひとと物の移動のために、それなりの数の橋梁がつくられている。

鉄道も海側から、京浜急行、JR京浜東北線、JR東海道線、JR横須賀線、東急東横線、小田急線の六路線があって、これに相鉄線が相乗りしている。さらに貨物専用線だってあって、通勤時には「ライナー列車」も運行されている。

道路は、有料で湾岸線、横羽線、第三京浜、東名高速の四本がある。
一般道にも橋梁はたくさんあるけど、それなにりボトルネックが発生するのは、日常でもある。
「橋」が周辺移動の集中をうながすからである。

さて、相模川はどうなっているのか?
鉄道は、やはり海側からいえば、JR東海道線、小田急線の二本となる。
間に一応、東海道新幹線があるけれど。
道路だと、有料で新東名、東名高速、圏央道相模原愛川ICの三本となるけど、渡河して対岸に向かうという感覚からは離れる。

一般道は、河口の国道134号線湘南(トラスコ)大橋(上下4車線)、国道1号馬入橋(上下2車線)、湘南銀河大橋(上下4車線)、神川橋(上下2車線)、戸沢橋(上下2車線)、相模大橋(上下2車線)、あゆみ橋(上下2車線)、国道246号新相模大橋(上下4車線)、座架依橋(上下2車線)、昭和橋(上下2車線)、国道129号(上下4車線)、高田橋(上下2車線)、小倉橋(交互)、新小倉橋(上下4車線)をもって城山ダムにいたる。

ダムまで全部で14本の橋がかかる。
神奈川県は、この本数で「県」となっているわけだ。
問題なのは数もしかりではあるが、橋と橋の間隔に距離があるため、かんたんに迂回できないし、車線数が少ない。

ちなみに、厚木市中心にかかる相模大橋とあゆみ橋の間隔はすぐ横にあるけど、あゆみ橋の上流で相模川は中津川と合流する。
ために、その先の国道246号まで、一般道に橋はなく、さらに上流をたどれば、ダムまで6本しかないのである。

もちろんだが、宮ヶ瀬ダムにつながる中津川も渡らないといけないはずだが、こちらは丹沢山塊の縁にあたるので、主な道路は国道412号しかない。

そんなわけで、じつは神奈川県は地理的に分断されている。
西岸の平塚市、厚木市と東岸(茅ヶ崎市、寒川町、海老名市)を結ぶ一般道の橋は、河口から246号まで、8本しかないばかりか上下4車線の橋はたったの3本なのである。

また、気候も分かれていて、たとえば冬場、丹沢降ろしが相模川で水分を得るため、丹沢に近い西側よりも東に影響して、あんがい雪を降らせる。
東京に向かう東名高速で、相模川をわたったとたんの大雪で、わずな距離の海老名サービスエリアにさえたどり着けないことがある。

厚木の住民が、対岸の海老名は寒いといって震えるのには根拠があるのだ。

ダムによって水量を制御しているとはいっても、ダム上流で豪雨となれば放流を余儀なくされる。
ために、相模川の河川敷を狭めることはできない。
いまでも、たった一回の台風で風景がかわるのである。

これに、都市計画が追いつかず、橋と接続するための道路がつくれない。
両岸とも、堤防の外はすっかり住宅地になっている。

人間がいう「発展」を妨げるのは、自然の地形と人間の営みとの双方なのである。
移動の不自由が、どれほどの損失をつくっているのか?

専門家に聞いてみたい。

国民の知る権利と知らせない義務

2年がかりのアメリカ大統領選挙とちがって、わが国は急づくりで、しかも決め方が決まっていないので、どうやって決めるかから決めないといけない。

これは、政権党の自民党が近代政党ではないことが原因だ。
近代政党の条件は、1.綱領、2.組織、3.議員、の三点セットがあることだけど、「あるだけ」ではいけなくて、順番における重みが重要なのだと書いた。

「あるだけ」なら、わが国最大政党で戦後のほとんどの期間を政権与党でいる党だって「近代政党」になってしまう。
それで、政治学者の皆さんは、わが国最大政党を近代政党だと定義している不思議があって、学術補助金に目がくらんだ「文系」の典型と疑うのだ。

基本的な定義が、ちがった基盤でおこなわれれば、その先の議論の果ては、あり得ないほどトンチンカンになる。
姿勢制御が苦手な宇宙ロケットが、数センチ向きを間違って発射されたらそれだけで目的の方向を失うことになりかねないのとおなじだ。

たとえば、いちばん近い政権交代は、1回の選挙で生まれた鳩山政権だったが、その後、管・野田とぜんぶで三人で政権をたらい回しした。
このときの「民主党」には、そもそも1.綱領、が「なかった」のだ。これを、野党になった自民党がしつこく批判していた。

そんなわけで、これから分裂した立憲民主党と国民民主党には、それぞれ「綱領がある」から、有権者としては、1回でもいいからチェックすべきものなのである。
もちろん、自民党のもしかりである。

こうしてみれば、どの政党も、国家が資源(ほぼおカネ)を国民に分配するという「社会主義」を目指しているので、「ちがいは国防」という構造になっている。

国が存在してこその「国家」だから、わが国のばあいは、ここでも順番がちがっている。
政権政党がどこになろうが、「国防」は同じでなければ困る。
困るのは、もちろん国民である。

わが国の「政権選択」とは、なんと「国防方針の選択」を意味するのである。
積極的に国防をしようという政党から、いまだに専守防衛という幻想的言葉遊びを貫こうという政党、あるいは、政権を奪取した場合に日米安保条約を破棄し、国防軍を創設して自主防衛するという党まである。

これは、「入れ子型」にもなっているから、巨大な自民党の内部でも「国防方針」を異にするひとたちが「派閥」を形成している。
「海洋」をふくめると、極東の小さな島国から一転して、世界第6位の巨大な国に変身するのがわが国である。隣の大陸国家より、はるかに面積が広いのだ。

だから、島嶼防衛というのは必然的な国家の仕事になる。

この現実をみれば、どうしたら「政権選択」が「国防方針の選択」になるのか?
残念ながら、この一点だけで、ぜんぜん近代国家ではない。
むしろ、周辺国に領土的野心という妙な気を起こさせる誘惑を与えるから、平和を乱す迷惑をさらなる周辺国にばらまいているのである。

しかも、縮尺を現実にあわせれば、もともとわが国は極東の小さな島国ではなく、けっこう大きな国なのである。
いちばんいいのは、地球儀をみることだ。
それで、ヨーロッパと比べたら、わが国は驚くほど「でかい」のである。

さてそれで、2.組織、に目をやると、政党だって組織なのだから、組織での決めごとには議論が必要で、最後は投票行動となる。
それは、人事もおなじだし、むしろ政党という組織では、営利企業とちがって、人事こそが政治となる。

だから、政党内でさまざまな「選挙」が行われるのが近代政党の近代政党たるゆえんになる。
このとき、おカネで買収することが優先される組織では、内外からの批判に耐えられない。

すなわち、「議論」もしかりだが、ふだんからの「マネジメント」ができるかできないかが「人柄」として現れるのが「選挙」での投票結果になる。
しかも、選挙で投票権を持つのは、党員というひとたちになるのは当然である。

もちろん、党員だって、自腹で党費を支払っているひとたちであって、その前提として綱領への賛同がある。
議員から頼まれて、名簿掲載としてだけの党員になる、ということではないし、党費を支払うのも議員であってはならない。これこそ「買収」になるからだ。

しかも、党員は党員同士から立候補者を選ぶ。
そのためには、党内で「予備選挙」をして、その勝者が立候補する。
予備選挙での敗者は、党員として勝者の選挙を手伝うことだって、当然とされるのが「組織」の行動原理である。

こんなルールが、事前に決まっている。
その都度、ルールを変えるということはあり得ない。

わが国に、こうした制度すら存在しないのは、国民の知る権利を国民が行使しないからでもあるけれど、なんだか知らせないことを義務だとかんがえているひとたちがいる。

損をするのはいつだって国民だから、もうすこし賢くなる努力をした方がいい。
そのためには、まず、テレビを観ないことからはじめよう。

「デマ」との闘い

世紀のデマ。

これが、「コロナ禍」の真相である。
しかし、おおくのひとが聞く耳を持たなくなっている。
デマであろうがなかろうが、「安心」を最優先させる思想が、日本人の心を支配するからである。

一方、5月にボチボチはじまってはいたが、今月1日から大規模化したドイツ・ベルリンで発生した「反コロナ対策デモ」が止まらない。
一昨日の29日には、3万8000人が参加し、そのうち暴徒化した300人が逮捕されたとBBCが伝えている。

暴徒と化すのは感心できないけれど、政府による「規制に反発する」という態度は、「自由の侵害」という基準からすれば当然である。
かつての「同盟国」ドイツ人は、どのような思想で戦後を生きてきたのかがわかるデモでもあるのだ。

すると、反対に、日本人はどのような思想で戦後を生きてきたのか?
「自由と民主主義」という用語が、なんだかむなしかったのは、「空っぽだった」からだと確認できることになった。
むしろ、いま、日本人は自由と民主主義を「無視する」ことを、あたらしい日常といっていないか?

政府の失敗をいろいろ指摘しているひとたちはたくさんいる。たとえば、国境封鎖が遅れたとか。
けれども、第一に、政府は失敗するものだという「前提」がある。このことを忘れて、コロナ対策だけを間違えているというのは間違いである。
いつものことの「一部」にすぎないのである。

一連のコロナ対策で、このブログで指摘している政府の失敗は、緊急事態宣言を出して、終息宣言を出したら「元に戻る」とかんがえたことだ。
すなわち、法律の定めによって、巨大な権限を首相=政府から、各都道府県知事に「委譲」したのが緊急事態宣言だったけど、終息宣言をしてもその権限が元に戻る「ことはない」ことを予測できなかったことにある。

これは、地方の反乱なのである。反乱の予測ができない中央の傲慢さ。
いわば、廃藩置県以来の、中央集権国家における地方政府たる都道府県が、「藩」に戻るという現象を起こしてしまったのだ。
このことの重要さがいわれていない。

たとえば、中央政界を仕切るのは、圧倒的多数の与党である。
本人がこの与党の党員であったり、与党が支持・支援して当選した知事たちが、天領のお代官さまでいるのでもなく、ちゃっかり政府に対抗している。
その筆頭が都知事であるけど、だれもこれをとがめない。

その原因は、自由と民主主義を前提とする「法治の建て付け」が、もともと空虚だったからである。
さらに、わが国最大の政権与党が、「近代政党ではない」という大欠陥を露呈していても、国民がこの欠陥にぜんぜん気づかない。

さらにこれを気づかせないように、このタイミングで辞任表明した首相は、この一点だけで、歴代最高の総理大臣であるのは確かである。
政権与党の最大の欠陥を身体を張って、とにかく隠蔽することに成功させた功績は、与党にとっては100年に一人の逸材であったといえるからである。

ただし、このほかは、長期政権だったということ以外、ほとんど功績がないという特徴がある。それは、後継者がいないということでもわかる。
トップの責任には、後継者づくりがあるからだ。
わが国を長期衰退させたのを、功績と評価する外国はあるだろうけど。

都道府県知事は、内閣総理大臣と「ちがって」、住民による直接選挙で選ばれるから、「おらがお国の大将=藩主」になりえる。
これを、中央政府による、さまざまな「規制」と「制約」によってつなぎとめていたのもを、緊急事態宣言で中央政府が自らこの糸を断ち切ってしまったのだ。求心力ではなくて、遠心力となったから、物理法則である。

西洋風にいえば、「パンドラの箱」を政府が自分で開けたのだ。
パンドラの箱とは、全知全能のゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱のことで、これを開けたために不幸が飛びだしたが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという話だ。

ギリシャ神話ならすぐさま閉じて「希望が残った」けれど、日本政府はなにもしないから、とうとう希望も失せた。
知事たちの反乱に、政府は為す術をもたなかったのではなくて、上述の「建て付け」が狂って、締めようにも締まらなくなったということだろう。

すなわち、自由と民主主義でもないのに、それを装って「法治国家」だと言い張ってはいたものの、とうとう戦後のバラックづくりの建物が、ちょいと一本木材を抜いてみたら、音をたてて崩壊してしまったようなものである。

さらに、まちがったリスク管理もある。
いつの間にか日本人は、「リスクは避けるもの」がこうじて「リスクは絶対に回避するもの」になった。この「回避」には、「逃避」という意味もある。
だから、徹底的にリスクを嫌う。

しかし、リスクあっての「利益」であるから、リスクはあくまで「コントロール」すべきものなのである。
コントロール(制御)するのは人間だから、ひとが主体になってリスクに立ち向かう、というイメージになる。

リスクに立ち向かうことができなくなったのは、バブル崩壊による「ショック」(精神病理)による。
これは、「心的外傷後ストレス障害」であるので、30年前に罹患した病気が治癒しないばかりか悪化しているのである。

さらに、75年前の敗戦・占領というショックからも立ち直っていないから、日本人の心の傷による病は、年輪のように重なっている。

以上のように、一見複雑そうにみえるけど、あんがい解きほぐしてみれば、めちゃくちゃ複雑でもない。

コロナ禍とは、こうした日本人がつくる「社会が生みだした心の病」なのである。
だから、感染症の専門家が正しい情報を提供しても通用しないし、政府の専門家会議のトップが「収束に向かっている」と発言しても、知事という医学の素人が平気で否定できて、そんな知事たちの支持率が高いのである。

こうしてみれば、精神医学か社会心理学の専門家による「教導」が必要なのだけど、それがまたデマだと目も当てられない。
ならば、原点に立ち返って、「自由と民主主義」の本質を確認するという態度が、どうしても必要なのである。

ドイツでのデモが、それを教えてくれているのだ。
ただし、この報道にも「極右」という用語が埋め込まれているから、報道を装った誘導に注意したい。

コロナ「崩壊」のシナリオ

なんだかわからない8月の「夏休み」も終わって、来週には9月になる。
いつもの年なら、『誰もいない海』(1967年)の歌詞の通り、黄昏の秋がはじまるだけなのだが、「働きてが誰もいない」状態になりそうな、嫌な予感だけが迫ってきている。

いまさらだけど、わが国経済はとっくに「内需型」に変換されている。
かつての「輸出依存型」ではないので、「貿易黒字」が溜まりすぎてアメリカから叱られることもなくなった。そのかわり、「貿易赤字」というはめになっている。

産業構造が、「サービス化」して、鉱工業従事者の3倍以上がサービス産業に就労している。その割合は、就労者の7割にもおよぶ。
ここから、金融とIT系という「稼ぎ頭」を除くと、ざっと6割のひとが「人的サービス業」に従事している。

昨年19年度の就労人口は、5660万人(役員除く)なので、念のため役員も入れれば、大まかに6000万人が「働くひと」の総数なのである。
すると、6000万人×6割=3600万人が人的サービス業にいる。

人的サービス業とは、旅行・交通・宿泊・飲食・理美容・医療・小売・流通といった、接客をともなう業態をさす。

3月にはじまった雇用調整助成金のコロナ対策は、半年間を前提としていたから、9月で期限がやってくる。
これを「伸ばす」動きはあるが、「永久」ということはあり得ないので、いつかは終わりがくる。

すると、いきなり「倒産」にはならなくても、「雇用調整」=「解雇」が大量に始まると予想できるのだ。

もし、半分なら1800万人、その半分で900万人が失業するかもしれない。
一気にこれだけの数は、大袈裟ではなくて「雇用の崩壊」を意味するのである。

まさに「未曾有」の状態で、あり得ないほどの「社会秩序の崩壊」にもなりかねない。
失業保険があっても、就職先がみつかるはずもない。
それが、利用者激減のコロナ禍によるからである。

職を失っても、あらたに別の職に就くことができれば、とりあえずなんとかなる。
しかし、いるはずの利用者が「いなくなった」のがコロナ禍なのだから、あらたに職がみつけることは困難だろう。

すると、日本人が戦後連綿として作り上げ来た、社会システムとしての「中間層」に巨大な穴があくことになるのである。

「観光客」とは、人類史でみれば、産業革命による労働者のことを指す。
その労働者が、職を失ってしまえば「観光客」もいなくなる。
「Go TO」どころではないのである。
しかし、だからといって「観光業」だけにショックがくるということでもない。

「産業連関」という「つながり」をかんがえれば、すべての産業に影響するのは、予想される失業者数が「巨大」だからである。
自動車も住宅も、購入層がいなくなればどうなるのか?
金融機関は、パニック的な「貸し剥がし」をする可能性が高い。

9月から2ヶ月後の今年の11月には、世界史的投票が世界の二箇所で行われる。
第一は、アメリカ合衆国大統領選挙で、第二は、スイスの国民投票である。
スイスの国民投票は、年に数回行われるので、これ自体は珍しくもない。

ただ、11月に予定されているのは、世界にとって極めて重要な選択なのだ。
それは、「人権蹂躙する国に、スイス企業はつき合うか否か?」を問う国民投票だからである。

もし、この投票結果で、「スイス企業はつき合ってはいけない」となったとき、スイス企業であるスイス銀行は、わが国の隣の大国支配者たちの「口座を閉鎖」するかもしれないのだ。
その額は、「1200兆円」ともいわれている。ゼロは二個でまちがいない。

そんなわけで、わが国の外では、大きなことが決められる時期が重なっている。
しかし、わが国の中で、コロナ禍を収束させる動きがないなら、つまり、これまでの延長でしかないなら、自己崩壊をはじめる運命が迫ってきているのである。

マスコミは、国民への「洗脳」をどう解くのか?

ありもしない「病」を、政府だって地方政府だって、どう始末をつけるのか?が問われているのに、病があるという前提に立つのは、「ワクチン」という利権のためか?

いまこそ、人的産業に従事するひとたちは、職をかけて戦わないと、黙って職を失う崖っぷちにいるのだ。
「貸し剥がし」がはじまれば、役員だって失業する。
会社がなくなるからである。

冒頭の数字に役員も含めたのはこのためだ。

つまり、「産業」がなくなる可能性がある。
だから、「未曾有」なのである。

こうした事態に、官僚支配の政府は無力である。
「未曾有」な事態に、官僚は対処できない。
それが「官僚」だからである。

いよいよ、自分でかんがえて行動することが求められている。
これは、「訓練」ではない。

「締付け」しか効かない金融政策

「異次元の金融緩和」という、「異次元」な発言をしてから何年経とうが、わが国の経済は成長しないし、デフレだって止まらない。
インフレ目標「2%」は、絶望的に達成見込みがたっていない。

マネジメントの鉄則「科学的アプローチ」という基本にあてて、第二段階の「事実をつかむ」と最終第六段階の「確かめる」からすれば、異次元の金融緩和は「効かない」ということになる。

このことは、アベノミクスが実行されてすぐの、かなり前から野口悠紀雄氏が指摘している。
当時の政府経済顧問をつとめた、浜田宏一イェール大学名誉教授の提唱だったことも暗に批判していた。

その浜田氏もとうとう「変節」の発言をしたけれど、いったん決まった「政策方針」は滅多なことで「変更されない」のが、わが国の官僚体制だから、鳴り物入りで日銀総裁になった黒田財務官は、2年でデフレ退治するといってはみたが、史上最長政権とおなじ時間をかけても達成できていない。

むかしなら、これだけの時間をかけずとも、日銀批判がかまびすしいことになりそうなものだけど、いまだにこれだけの時間をかけても日銀批判がメジャーにならないのはなぜなのだろう?

もしかしたら、恐ろしい「経済オンチ」ばかりが政権周辺にいて、それが国会に及んでいるし、マスコミにも浸透しているからではないのか?

アメリカ人は、あんまり優秀ではない、といってなんだかバカにする傾向がわが国にはあるけれど、当たっているときと外れているときとがある。
アメリカという国の複雑さは、万華鏡のようなもので、ちょっと角度をかえるとぜんぜんちがう模様になることを意識しないといけない。

『サイエンス』という有名雑誌を発行しているのは、「アメリカ科学振興協会」で、この協会が1989年に発表した『すべてのアメリカ人のための科学』という文書がある。
ちゃんと日本語版もあってPDFをダウンロードできるから、「日本人のため」と読み替えるといいだろう。

世界の文明圏で、学生を「文系」と「理系」にわけることをしているのは、わが国しかないし、それで学生の就職募集もやっている。
テクノロジーを基礎として文明生活をしているのだから、日本的にいえば「文理」を教育の基本方針にするのが「ふつう」なのである。

このわが国「だけ」ということで、わが国が目を見張る成功しているのなら文句はないし、ならば世界がこれを真似るはずである。
しかし、そんな真似をする国や地域もないのは、この30年間で経済成長しないどころか衰退しているのが、わが国「だけ」だからである。

すると、冷静にかんがえれば、世界はわが国のやり方を、「反面教師」としているにちがいない、ということしか浮かばない。
だから、テレビの「日本スゴイだろ」という自画自賛番組は、世界からの視線を国民に気づかせないためのプロパガンダであるといえる。

さて、金融緩和政策について、上述の野口氏は「糸で押すようなもの」と表現していた。
対して、金融締付けは、「糸で引っぱるもの」というから、わかりやすい。

アメリカの態度が一変した原因をつくったのは、ウィルスをばらまいたというだけでなく、「国内」といっている異民族の区域での凄まじい人権弾圧とか、香港でのことだから、「おいおい、なにしてるんだ」という立場がでてきて、それが「敵の特定」ということになった。

こうしたいきさつを時系列化すれば、議会と現政権は、科学的アプローチという基本を守っているのである。
さすれば、日本人なら、80年前にわが国がやられた方法と、どこがどうちがうのか?をかんがえることが必要になる。

状況と価値観のちがい、ということが大きな変数になっていることに注目すると、わが国は「同盟国だから」アメリカを支持するしかないとかんがんえる以前に、なにがどうなってこうなったかということに注視すべきだろう。
原因があって結果となる。これが「因果関係」というものだ。

しかし、なんだかわが国の財界は、「果因」という逆文字の熟語を発明したらしい。
これは、「埋没原価(費用)」の間違った判断がされている、ということがあってのことだろう。

大きな投資をした国があって、そこから「撤退」するには、過去の投資を「棄てる」覚悟が求められて、その覚悟ができない経営者ばかりがわが国の企業だということなのだ。
しかし、経営者だけが問題ではなく、株主が理解できないかもしれない、という不安こそ、経営者のこうした判断を助長しているとかんがえるべきだろう。

さて、アメリカ人は科学的に、議会で法律を制定し、これを政権が実行する。
人権弾圧に関わった個人と家族の資産を凍結するならまだしも、こうした人々を顧客に持つ金融機関にも制裁をすると決めたのだ。

その方法は、「ドル決済の禁止」である。

彼の国の金融機関のおおどころのほとんどが、この「締付け」の対象となる。
つまり、わが国企業も事業における「決済」ができなくなるのに、どうして新規投資をしようとするのか?

これこそが、株主が注目すべきことだろう。

温泉を殺す公共の温泉

温泉宿の温泉しらず。

よくいわれる皮肉である。
だけれども、図星でもあるから耳が痛い向きもいるだろう。
耳が痛いのは、図星をいわれたストレスがそうさせる。
だから、気がつかないひとには何もストレスを与えない。

これは、天然資源でもある「自慢の温泉」なのに、泉質もなにも研究しないで放置している状態をいう。
この温泉の特徴はなんですか?と質問されて、「美人の湯です」と答えるなら、どうして美人の湯なのかの根拠ぐらい識っておけといいたくなることがある。

ちゃんとした温泉ならば、更衣室あたりに必ず、「温泉成分表」やら「加水」や「加温」の有無を表示している。
けれども、温泉成分表の見方とか、それがどんな意味なのかを説明した掲示がひとつもないのも特徴になっている。

じっさいに、主人や女将あるいは、「湯守」がどこまで自家の温泉についての知識があるのか?

「湯守」の代表的な仕事は、温度管理である。
天然温泉なら、こまめに温度管理をしないと、「熱くて入れない」とか「ぬるくて入れない」といったクレームになる。
小さな宿なら、バルブの開け閉め具合でこれを調整する。

バルブのわずかな動きで温度がかわるから、専門家としての「湯守」が仕事として成立するのである。
客の到着時間にあわせて、ぴったりの温度にするには、経験だけでなく統計データの処理ということも業務のうちにある。緻密なノートが彼らの「宝」なのだ。

いまの風呂の温度、いまの源泉の温度、いまの気温と予報、露天なら風速や風向き、そしてあわせたい時刻までの時間があって、いわゆる「多変量解析」をする。
それでもって、はじめてバルブをさわるのだ。あとは、「勘」である。

温浴施設となると、機械がこれをやってくれる。
しかし、どんな温度設定にするのかは、あんがい経営方針で決めるのである。
「ぬるい」と客が浴槽に滞留して、新規入浴客があぶれてしまう。

すると、客一人の動きを「粒」に見立てれば、「流体力学」のモデルのようなイメージなって、もっともスムーズなコントロールができる。
けれども、あんまり温度調節だけに依存すると、常連客が嫌がるから、全体の流れを読むことが重要なのである。

「民営の強み」はここにある。

だが、この国はソ連型の社会主義国なので、「官営」の温泉施設がたくさんある。
官営の特徴は、利益をださない工夫を「建前」に、儲けたいという「本音」を「隠す」ことにある。

むかしは、「民業圧迫」といって、さまざまな業界が「抵抗」した。
その大本が、経団連だったのだけれど、すっかりソ連型の「補助金欲しさ」に目がくらんで、「乞食の総本山」に転落した。
そんなわけで、商工会議所とか青年会議所とか、さまざまな業界団体も、みんなで乞食になる努力をしたのである。

利益をだしていないから、民業圧迫ではない、という言い分は、施設従業員(=役人が支配人とかをしている)の給料が高額だからである。でも、施設管理者となるひとたちの委託料をケチるから、赤字にならないようにしている。

それでも赤字になるのは、施設に魅力がないからである。

建設費には異様なおカネをかけられるのは、その自治体の上位団体から補助金がでるからで、「もらわないと損をする」という、やっぱり「乞食の発想」をするからである。
立派な建物=稼げる施設、にはならない。

むしろ、建設費をたいそうかける分、ランニングコストも跳ね上がるようにできている。
だから、建物とうってちがって、内部の貧困がかえって目立つのである。
それで、仕方がないから、役所がつくった意味不明のポスターをあちこちの壁に貼って、高価な内装も台無しにしてしまう。

このセンスの無さは、あんがい「景観」を台無しにする感覚と同じだから、できるだけこの手の施設は使わない努力をしている。
しかし、最近は出自を明かさない、広義の「偽装」が行われていて、公共の温泉とは気づかせない施設がある。それで、うっかり利用してしまうのだ。

もちろん、入口周りで気づくのだが、はるばるやって来た勢いで、そのまま入館券を購入すれば、まことに役所の窓口と同じなのである。

温泉好きにとって、最悪なのが「循環式」である。

浴室などにある「この温泉の特徴とその説明」によれば、日量600立米を超える豊富な湧出量を自慢しているはずなのに、湯船から湯が溢れていないなら循環式である。
そっと湯の匂いを嗅げば、塩素臭がする。

「事故防止」が最優先なのだ。

なので、浴室の清掃もおろそかになる。
消毒しているから、安心だ。

有限の天然資源である温泉をこんな扱いにしておきながら、必ずどこかに「サステイナブル」をうたったポスターを館内にみつけることができる。
こうした分裂症状を、ぜんぜん分裂と思わないのは、ほんものの病気である。

全国の自治体に、直営の天然温泉施設は作らせても運営させてもならない。
ゆえに、いまある施設は、早急に民間払い下げを実施させ、入札候補者がいないなら閉鎖すべきである。

同じ地域にある民営の温泉施設では、「あそこは汚いし湯もよくないから行かない」と、常連さんが湯船の中で問わず語りに話してくれた。

正解である。

絶望的な温泉宿の破産

2年も前に「絶望的な温泉宿」というタイトルで書いた宿が、こないだ破産したというニュースがあった。
まるで、コロナ禍の被害のような書き方ではあったけど、ぜんぜんちがう。

振りかえれば、2年も営業していたのが凄みとも思えるのである。

倒産や破産など、残念な事態が発生するのは、やっぱり経営に失敗しているのである。
このごく一般的な状況からの破綻は、いつでも起こり得るので、コロナ禍にあっても発生している。その意味で、本当のコロナ禍が原因の経営破綻は、これからの秋口から発生するとかんがえられる。

つまり、この秋前の破綻とは、一般的な経営の失敗によることが原因になっているとかんがえられる。
ただし、早く見切りをつけた場合の「店じまい」はまた別の判断によるものだから、これを「破綻」とはいわない。

「秋口から」という理由は、雇用調整助成金の期限があるからだ。
コロナ発生の春から始まった制度で、半年間が当初の助成期間だったから、「秋」が問題になるのである。
いきなり破綻せずとも、雇用の終了すなわち「解雇」が大量に発生することが予想できる。

わが国でほとんど不可能な正規雇用のひとの「解雇」ではあるけれど、事業継続が困難となったことが「解雇事由」となれば話は別である。
これを「会社都合」という。

逆にいえば本人が犯罪を犯した以外、事業継続が困難でないなら、解雇はできないと考えるのが妥当である。
すると、従業員側は、自社の経営情報を普段から知っていないと、ある日突然、解雇されることがあるということになる。

この意味で、経営者の経営情報開示義務は、株主だけでは済まないのだが、わが国ではあんがい重要視されていない。
個人経営の株式会社の場合、株主総会でさえも「書類だけ」というのがふつうである。

公認会計士による会計監査を経るのではなくて、税理士がつくる決算をもとに、税理士がそのまま「総会議事録」を書いて、それに株主が押印すれば便宜的に総会をやったことになる。

こうした会社の場合、決算書すら本当の株主だって見ていないかもしれないのだから、ましてや従業員に開示するという手間をかけることはまずないといえる。
それに、「36協定」ですら締結していないのが「ふつう」だから、従業員から経営情報の開示要求をすることもないのは、「従業員代表」も選出していないからである。

このように考えると、この国の労働問題は、その実態として「労務問題」にもならないレベルなのである。
そうすると、労働組合が存在するということは、こうした企業で働くひとたちにとっては、まったく想像も及ばない「別次元」のことになるのである。

想像も及ばないから、自分たちで労働組合を設立しようとかんがえることもない。なので行動もしない。
もちろん、会社側=経営者は、自社に労働組合が設立されることを「よしとしない」という常識がある。

これには、思想的に怪しい労働組合がたくさんあって、「活動家」が事業の妨害行為をするかもしれいと畏れるからである。
こうして、まったく「労働三法」どころか、「労働基準法」による「保護」すら得ることがないでいても、痛いとも痒いともおもわないひとたちがたくさんいるのである。

労務問題であれば、社会保険労務士という「士業」があるけれど、雇い主はほとんどの場合、経営者になる。
ならば例えば、「社会保険士」と「労務士」とに分けて、経営者は社会保険士を、労働者は労務士を雇う方法をかんがえてはいかがか。

あるいは、労働基準監督官の定年退官者を労務士として登録し、労働者保護のための活動をさせるべきであろう。
当面の目標は、すべての事業所に「36協定」を締結させることである。

つまり、働くひとへの2大義務を課すことが重要なのだ。
・経営情報の開示
・36協定

これは、上述のように経営者には「痛い」と思われるだろうけど、倒産させないための「保険」でもあるのだ。
なんとなれば、従業員の働きの「質」こそが、その企業のパフォーマンスを決定するからである。

経営との一体感を持つための、「最低限」がこの2大義務であろう。

だから、法制化すべきである。
法は、最低限のルールであるからだ。
これに、「任意」として加えれば、働きの「質の向上」すなわち、目的合理的な労働による「付加価値の向上」のことになる。

優良企業は、自然と「付加価値の向上」に常に取り組んでいる。
仕事内容の分析を通じて、改善を怠らないのはこのためだ。
残念な企業は、こうした努力をいっさいしない。
「やり方」をしらないだけでなく、「動機」すらないのである。

だからこれが、倒産の理由なのだ。
2大義務を課すと、従業員側からチェックが入るけれども、それが経営者の「動機」になったり、従業員からの付加価値の向上「提案」になったりする可能性がある。

資金を提供する金融機関だって、2大義務の項目がなければ融資できないとなれば、審査も簡単になってスピードアップする。

融資が受けられないかもしれないなら、経営者は「やるしかない」だろう。