病気になったら麦を食え

新聞記者のことを、「聞屋(ぶんや)」といって、あんまり感心しない職業人のイメージを庶民がもっていた時代は、いまよりもずっと健全だった。
「新聞屋」から「新」を略したところも、なかなかの意味深である。
ようは、人づてに聞いてきたことを文章にしてこれを「売る」から、「売文」稼業のことをいった。

これじゃあ格好が悪いので、テレビが『事件記者』という宣伝ドラマをつくって、「鉄は国家なり」とか「造船大国」の時代の、就職先にあぶれた学生を新聞社が胸を張って募集するきっかけにした。

なんだか高級な仕事にしたいから、記者になるとハイヤーで移動するのは、いまでもやっている。
社内で既得権化して、タクシーを使えともいえず、ましてや地下鉄をや。
新聞社の経営が傾いても、既得権はそのままに、他者(社)の既得権を批判するから、やっぱり「聞屋」なのである。

「貧乏人は麦を食え」

この「傑作」ともいえる新聞見出しの作文は、ときの大蔵大臣、のちの総理大臣となった池田勇人の発言を、みごとに切り取って造語した、まったく褒めてはいけないものが、独り歩きして有名なフレーズになって残っている。
池田はこんなことを言ってはいない。

このときの発言では、むしろ、自由主義経済を原則に経済発展させたいという文脈(まさに「新自由主義」の主張)こそが重要なのに、ぜんぜん伝わらない「罪」があるけど、だれもこれを「罰」っしないことが問題なのだ。
今日までの戦後政治家で、池田しか経済発展の基本を理解した者はいない。

ただし、池田の「所得倍増計画」は、総じて「ケインズ主義」となってしまって、本来のハイエク的思想が溶解してしまった。
これが、平成不況を通じていまのコロナ禍経済政策にもなっている。
まさに、わが国はケインズに殺されようとしているのである。

ケインズの経済政策は、国家が投資して経済をけん引する仕組みだから、じつは「社会主義に含まれる」のだ。
ケインズ自身、「不況時だけに使え」といった理論なのだけれども、いったんやったら止まらないのが役所の行動原理なのである。

さて、「麦」と言っても小麦ではなく「大麦」である。
スーパーの米コーナーに行けば、「もち麦」とか、「押麦」を売っている。レンジでチンすれば、すぐに食べられるパック入りの商品にも、「もち麦」や「大麦」を打ち出した商品が売れていて、ときに欠品すら見かける。

健康ブームといわれて何年経つか忘れたけれど、もはや「ブーム」ではなくて「生活常識」のひとつになった。
放送大学の科目にある「食と健康」のテキストには、冒頭、「野菜を食べたら健康にいい」という程度の知識を大学で学ぶのではない」とあって、そもそも「消化」とは何かから授業がはじまる。

いわれてみればその通りで、人間(生物)の体は、化学工場であるから、食材の栄養を分子レベルで吸収している。なので、分子をつくる原子の構造から授業はスタートする。
中学校の理科や高校の化学でやることを、放送大学は丁寧に復習することからやるのだ。

いまはふつうに「高校」というけれど、本来は「高等学校」だから「高等」なのである。けれども、「高等」なことがふつうになったので、なんだか大したことはないように思うのも人間だ。

だからといって、社会が高等になるものでもないのは、コロナ禍のマスク着用義務や自粛警察がそれを表している。
このひとたちはよほど、高等学校の化学など理系の科目をサボったか、教師の教え方が下手であったことの犠牲者なのだろうと思える。

ぜんぜん科学的でないし、むしろ科学を無視してただ情緒的に行動するからである。
たとえば、量り売りの酒類を扱うスーパーの店員は、ボトルにさした漏斗を浮かせて空気抜きをしないから、ゴボゴボこぼれて苦慮してしまう、とか。

外食や旅館の利用が激減して、経営者の悩みは尽きないけれど、資金が尽きたらおしまいである。
ならば、これまで以上に目的地として選ばれるかは、これまで以上に死活問題なのである。

上述のように、スーパーで売り切れ・欠品続出の「麦」とはなにか?
経験的にあるいは検診結果で、健康にいいことが「はっきりわかった」ひとたちがたくさんいる、ということである。
なのに、街の食堂や宿でこれを「提供しない」のは何故か?

江戸時代までの日本人で、糖尿病を発症するのは為政者しかいなかった。
平安時代の全盛期、藤原道長の病状も記録にある。
けれども、いわゆる一般人たちは、麦入りの米なら「上等」、半々なら「中等」、それ以上麦なら「下等」、米なしで他の雑穀混合なら「等外」という等級づけで、何等がいちばん多かったのか?

白米100%ということはほとんどないからこれは、上等の上をいく等外である。
人口の8割がいた、農家は「下等」かその下の「等外」が常識だった。
米を作っても、作り手はこれを自家消費したりはしない。残すのは、来年の種籾だけがふつうであった。

池田の発言は、1950年12月7日の参議院予算委員会でのもので、日本人が歴史上はじめて皆で米を食べ出して、米価が高騰していた時代背景がある。

「麦食」に先祖帰りすると、わたしたちのDNAが良き反応をするようになっている。

詫びない宿の残念

滅多にないけど、たまに「当たり」があるクジとおなじで、「まいった感」たっぷりの宿に遭遇することがある。
結論を先にいえば、二度と利用しないという決心をすることになるので、改善のためになる文句すらいわずに退散するのが一番いい。ただ、このブログの読者には、「事例研究」として情報提供したい。

山梨県のとある市にある宿である。
この街には来春に、初めてとなる大手ビジネスホテル・チェーンの開業が報道されていて、実際に建設途中の建物を見ることができる。
なぜにこの街に進出するのかをかんがえれば、宿泊施設の空白地帯だからであろう。

かくいうわたしも、この街にこれまで宿泊したことがなかったのは、数少ない施設のため、ほとんど予約がとれないからである。
いってみれば、競争がない状態ともいえる。
これまで通過を余儀なくされたひとたちの需要を見込んだから進出をきめたはずである。

しかして、決定前には現地調査というのを必ずおこなうのが大手である。大きな投資を伴うから、取締役会だけでなく株主にも妥当性の説明義務がある。
果たして、この宿も調査対象になったはずである。そして、まちがいなく「敵にあらず」という結論を出したのは、実際に進出を決めたからである。

蛇足ながら、「調査」とは、実際に企画担当者が利用することをいう。規定のチェックシートもあるはずだ。
それには、建物・施設・設備といったハード面と、人的サービスについてのソフト面とがあって、内部評価するのである。

全国に400店舗以上を運営する大手にあっては、いつもながらの「調査」であるから、かなりお役所的で機械的な調査になっている可能性が高い。
なぜなら、そうでないと一定の基準による評価ができないからである。
だから、この場合の機械的というのは、目的合理的な「いい意味」である。

それで、当該の家族経営による宿に話をもどすと、おそらく大手の進出について、こちら側も「脅威」に感じていないはずである。それは、街の中心にあるという「立地」の有利に変わりはないからであるけれど、悲劇的な「鈍感」さも理由に挙げることができる。

今回、不可能が可能になって予約できたのは、コロナのおかげでもある。
旅行日程上、この地の滞在がポイントになったのでダメ元覚悟で予約の電話をした。
「電話」なのは、いまどきHP上で予約ができないし、ネットの旅行代理店とも契約していない。部屋数が6室しかないためであろう。

トラブル自体は単純で、夫婦での旅なのに、チェックインを終えて部屋に入ればシングル・ルームだった、ということである。
ベッドだけでなく、スリッパからタオルまで「シングル」なので、早速にフロントに電話した。この対応が、「クジに当たった」のである。

ご予約時にシングルと確かにおっしゃいました。

と、フロントの女性は啖呵を切ったが、予約の電話は初老の男性とおぼしきひとだった。なぜに、ここまでいい切れる自信があるのか?理解に苦しむ。それにチェックインでは、夫婦で荷物を持っていたでしょうと伝えると、想像を超えた返答がきた。

お一人様は帰られるのかと思った、と。

しかし、これでは寝むことができないので困ると伝えたら、エキストラベッドを入れるので待ってくれという。
いつまで経っても来ないので、再びフロントに電話すると、同じ女性が忙しいので行けないからもう少し待っていてという。

しかも、素泊まりなので夕食に部屋を出る「はず」だから、そんなに急ぐこともないでしょう?と。
いいえ、当方は部屋から出る予定はない。
地元の「名物」を買い込んで、部屋飲み、をしようという魂胆だからだ。

結局、チェックインしてから1時間後にベットを運んできた。
準備ができたら、帰りがけ、ようやく「お待たせしました」とは口にしたものの、同時に、追加料金がかかるという。ここは、狐の宿か?

しかも、孫の小学低学年とおもう女の子が爺じと一緒にやってきて、「まだなの?早く行こうよ」といっている。爺じはこちらに笑顔で「すみません」といったから、こいつが予約電話の犯人だと確信した。
奇しくも親子三代がやってきたわけだ。

呆れてものがいえないけれど、これは関東人の典型で、関西人なら黙っていないだろう。

室内のライティングテーブルには、山梨県知事の顔写真入りご挨拶文があった。
「感染すな」といいたいのか、「ようこそ」といいたいのかが不明な不思議な文面である。さすがは元財務官僚。お役所言葉が上手である。

どういういきさつでこんなものが部屋にあるのかしらないけれど、どうして県知事のメッセージを読まねばならぬのか?こういう「介入」を許すから、客が優先という発想も失われるのだろう。

なんだかこのひとたちの未来が暗くて気の毒になった。

そっちの技術の日産か?

神奈川県の県央にある厚木市と伊勢原市の境界に、日産テクニカルセンターがある。東名高速道路を東京から下って、厚木インターを通過し、新しくできた伊勢原ジャンクションの手前右手の山側にそびえる白い巨塔群がそれだ。すぐ近くには、先進技術開発センターもある。

わが国の自動車産業の歴史をいまさら語ってもせんないけれど、トヨタが豊田市にあるのか、トヨタがあるから豊田市なのかはいわないものの、「地元密着」の企業であることに変わりはなく、社業の拡大がそのまま「県」を超えて中京圏の経済を支えている。

対する日産は、プリンス自動車との合併「など」、あんがい通産省などに主導権を握られてきたからか、神奈川県に主な事業所があるのに神奈川県民があんまり「地元」を意識していない不思議がある。つい最近まで、本社が銀座にあって、横浜市がやっとこさ誘致して横浜駅の横に移転はしたけど。

ずいぶん前に物故した父が現役だったころ、いよいよ自家用車を購入するにあたって、神奈川県民なんだから日産車を買おう、と突然のようにいい出した。「インターネット」という言葉すらない時代だから、いろいろパンフレットを取り寄せてくわしく検討した結果、愛知県の自動車を買うことになったのは、とき既にして「欲しいクルマがない」というがっかりからの無力感が漂う中での決断だった。

「技術の日産」は、「人とクルマの未来をつくる」会社の相手ではなかったのだ。

自動車(メカ)にくわしいことを自負していた父は、パンフレットの写真よりもスペック表をみて比較検討をしていたから、それだけならば日産車に遜色はないどころか、トヨタ車を凌駕した。ところが、総合評価となると、スペックだけでは決められない。ようはファミリーカーとしての用途を考え出したら「完成度」がちがうのである。

このことを、消費者は知っている。

ゴーン氏が再建の旗手として呼ばれたときに、日産役員に「クルマ好き」が一人もいないといきなりボヤいてみせたのが印象的である。自身、テストコースに赴き、楽しそうに試験車両に乗り込んで運転してみせる場面は、「まさか」というほどリアルな「クルマ好き」ぶりだった。

自分が「こんなクルマに乗りたい」ではなくて、ただ「こんなクルマなら売れるだろう」になっている会社なら、それはやっぱり売れないのだと訴えていた。そんなゴーン氏に裏切られたとしても、ゴーン氏の「真実」はここにある。それが、たとえ「虚偽」であってもだ。

結局のところ、コマーシャルに「技術の日産」が復活して、やっぱり売れないクルマの量産メーカーに戻ってしまった。ゴーン氏がいないからではなくて、彼が指摘した「哲学の欠如」についての反省と、ないならつくる気概の欠如が元に戻らせたのだとしか考えられない。とかく、エリートを自称するひとたちは、愚かしい発想と行動をする。

これは、自分で考えることを実行するのがエリートなのに、他人が考えたことと混同してしまうことに原因がある。つまり、他人が敷設してくれたレールの上を走っているだけのものを、あたかもぜんぶ自分の功績だと思い込むから、はたとレールが途切れたとたんに転覆してしまうのだ。それなのに、転覆するまで気づかないで「自分は偉いのだ」と思っているひとたちがあんがいたくさんいることを示している。

『半沢直樹』の世界は、リアルではないけれど、このことを強調して描いている。

その原作者、池井戸潤氏の自動車会社を扱った小説『空飛ぶタイヤ』も、既にいくつもの映像作品化がされている。この作品は、三菱自動車の大型トラックの脱輪事故をきっかけにしたもので、「リコール隠し」という企業犯罪の顛末も描いたことで「社会派小説」と呼ばれている。

企業犯罪の「根」というものには、「企業文化=社風」がある。

そんな会社と日産が提携したのは、どんな意図があったのか?検査不正との兼ね合いもあるかもしれない。けれども、「三菱」というブランドの魅力もあったに違いない。ただ、わたしには、上述した「哲学の欠如」という社風の一致、すなわち、社運を左右する両社のエリート同士の悪い意味での気脈が通じたからではあるまいか?と疑わせるのである。

小田急「伊勢原駅」には、橋上駅の階段途中に伊勢原市観光協会の売店があって、ここには人気の名物「柿の種」が販売されている。「米菓のあられ」が柿の種の格好をしているからのネーミングになったのだけれど、あの大きさの「あられ」で、ぜんぜん柿の種とちがう形態でも「柿の種」と呼ぶことがある。

それが、「新型 カキノタネ」と銘打った、日産自動車の名車たちを型抜きした「カキノタネ」なのである。果たしてこの技術的根拠は、日産のデザイナーが23種類のカキノタネのフォルムとパッケージを担当しただけでなく、型抜きのための金型も、日産総合研究所の技術者が最新技術を駆使て作った、とある。まさに、日産テクニカルセンターの底力があっての「カキノタネ」なのである。

その見事な金型が、このカキノタネのパンフレットに堂々と載っている。

なるほどの「技術の日産」なのである。

「カタルシス」のカタルシス

「カタルシス」とは、例によって古代ギリシャの大天才、アリストテレスが『詩論』のなかの『悲劇論』で説明した、「浄化」のことである。
ギリシャ悲劇を観た観客には、心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで「精神を浄化する効果」があると書いている。

ちなみに、『詩論』にあったはずの『喜劇論』は残されていない。
でも、きっとアリストテレスはこう書いた「はず」と伝承されているのが、「笑いにこそ真実がある」である。
有名な、「赤信号みんなで渡れば怖くない」を思いだせば、アリストテレスの偉大さがわかるというものだ。

この書いた「はず」だというエピソードを、思い切り膨らませたのが、イタリア、ボローニャ大学の「記号論」の世界的権威、ウンベルト・エーコ教授が書いた世界のベストセラー小説が『薔薇の名前』(1990年、東京創元社)であった。

ちなみに、この小説には、教授の専門分野「記号論」が折り込まれている。
ガイドブックとして、やや安易のきらいはあるし、番組を観る必要もないけれど一読すると理解が深まるので下はお勧めである。

劇を観て「スッキリ」したい。
確かに観劇の「事前期待値」としてありうるものだ。
ならば、作り手は、どこで観客にスッキリして「もらう」のかを計算して作品作りに励むことになる。

これがそれなりの料金をとる商業演劇の「商業」たるゆえんであるから、商業が蔓延した現代にあっては、観客がよろこぶ「スッキリ」ばかりになる。
そんなわけで、「勧善懲悪」という形式が生まれるのだ。

前に、『水戸黄門』について書いた。
さらに、TBS → 毎日新聞 → 反日 → プロパガンダ、と妄想を膨らませれば、国民へのファンタジーの刷りこみで、いまの「偽パンデミック」という効果がでたともいえよう。

劇などをテレビで視聴するのが悪いといっているのではない。
作り手の意図を読みとることが大切だといいたいのである。

そこで、視聴者離れが深刻というテレビ界にあって、救世主的な視聴率を稼いでいるのが、『半沢直樹』である。
このドラマには、「カタルシス」があるという「評」がある。
悪玉がいじめ抜いたはずの善玉に、最後は「土下座」する。

なんだかわからないけど、いまどき「土下座」とは。
「勧善懲悪」といえば「時代劇」が一世を風靡したものだが、画像の解像度が細かくなってしまい、セットの大道具がぜんぜん本物にみえないし、アップで写る俳優の顔に、カツラの境界が気になってしかたない。

だからなのかしらないけれど、現代劇での「勧善懲悪」にシフトした。
もっとも、プロレスにおいての「勧善懲悪」は、プロレスの歴史そのものだから、現代劇での「勧善懲悪」は、大本にプロレスがあるのかもしれない。
この意味でも、時代劇の陰はうすい。

泰明期のプロレスは、なんといっても「戦後」という時代背景がないと語れない。
文字どおりの「死闘」の相手だったアメリカ人=白人のレスラーが、とにかく「反則」を繰り返す。その手口は、噛みついて血だらけになったり、隠し持った武器をつかってやっぱり日本人レスラーを血だらけにした。

ここまでされても、最後は日本人レスラーの正々堂々とした「技」が効いて、相手が「ギブアップ」する。
まさに、敗戦の意趣返しとしての「カタルシス」があった。
すなわち、日本社会の「ガス抜き」であった。

しかし、血縁でつながる「梨園」からの出演者を、主たる「悪役」に配置した『半沢直樹』は、現代劇を歌舞伎という時代劇の最高峰で彩っている。
香川照之(九代目市川中車)と、四代目市川猿之助は従兄弟同士でしられるから、その背景にある家系というドラマも、観るひとの頭にはインプットされている。

半沢直樹はいないけど、半沢と敵対する奴はたくさん実在する、とはかつての同僚でいまでいうメガバンク出身者たちの複数の「証言」である。

このドラマのカタルシスには、土下座の他にもう一つ、事件後の部下への、みごとな「スピーチ」がある。
まさに、精神が浄化されるのだ。

すると、もっとおそるべき「第3のカタルシス」が隠されていることにも気づかされるのだ。
それは、この劇中、主人公の半沢以外、誰も「マネジメント」のセオリーをしらないで偉くなったり、中堅社員でいることだ。

しかしながら、上の「証言」から推察するに、このことが「劇中」すなわちおとぎ話の中の設定なのではなく、現実の大手金融機関やその他の企業にもいえるということである。
これぞ、おそるべきことだ。

「マネジメント」をしらずにマネジメントしている。ゆえに、ハラスメントが絶えない。

すなわち、『半沢直樹』とは、背景に実世界(実話)がある。

さらなる驚きは、2350年前のアリストテレスの言葉が、現代にもそのまま通じるということである。
すると、『半沢直樹』とは、「悲劇」に分類すべき「劇」なのである。

まさに、カタルシス。

予算が余ったから金券配布

偽ウィルスによる作られた病気の恐怖から、社会が過剰反応してどんどん異様な世界に変容している。

国内のこの原因には、「無責任」があると書いた。その「無責任」を推進して社会破壊を目論んでいるのが無責任なマスコミである。

誰も自分の店舗から「感染者」を出したくない。しかし、この「感染者」とは、PCR検査という極めてセンシティブで、かつ、時間の経過とともに「感度アップ」させてさらなる「陽性者を量産する」ように仕組まれているものに、まさに「機械的」に依存して、とうとう医師の診断よりも「信頼できる」という異常になっている。

これが、「無症患者」という変な患者も量産しているのである。PCR陽性が、そのまま感染者と判断されて、症状がなければ自動的に「無症患者」にしてしまい、二週間も隔離されるのだ。しかも、PCR陽性者の数ばかりを報道して、それから何人が発症し、何人が重篤化したのかをいわない。

これを煽り、あるいは「煽動」といわずになんというのか。破防法が適用されない理由を知りたい。

ひとはふつう症状があって医療機関に出向く。我慢強いひとは、よほどの症状でないと診察を受けないこともある。それでも、治ってしまえばそれでいいのである。医師という専門職は、症状を訴える患者の話を聞いて、いろいろな可能性の中から病気を特定するし、「念のため」検査をして可能性の確率的適合性を確認するのである。

そのために、医学生は他の学部以上に猛勉強させられる。診断=治療方針確立のため、人類が発見してきた「病気」を確率的適合性という膨大な情報からの抽出をできるようにしないと、一人前の医師としての「診断」ができないからである。それで、オックスフォード大学の研究で、AIが普及しても、医師は生き残る職業になっている。

だから、診断して病気を特定するのは専門職として医師の仕事で最も重要な「初期判断業務」なのである。これを、PCR検査の結果が優先されるという異常が、日常になってしまった。このことを「医療崩壊」というのだと書いた。

つまり、論理的に「無症患者」という者はあり得ない。けれども、「保菌者」としての可能性がほんの少しでもあるから、「無症患者」という概念が広がって、とうとう医師会すら「異常」といえずに、「診断」という最重要業務とその責任を放棄した。「医療崩壊」を医師会がとっくに認めた社会に我々は住んでいるのだ。

これは、プロっフェッショナルが愚民社会に負けたことを意味する。もう、心の底から根拠があろうがなかろうが、誰もが新型ウィルスの存在を「信じて」しまった。すなわち、「宗教化」したのである。

そんなわけで、われわれの社会が、ウィルス禍を克服するには、現代の「宗教改革」が必要なのだけれども、日本人は無宗教だと、これも宣伝されてきた無謀を「信じて」いるので、宗教がどんなものかを日本人は知らない。にもかかわらず、世界最強の「日本教」という宗教の信者なのである。

つまり、おそろしく不真面目でありながら、「信じる」ことを疑わない信者たちなのである。

自治体というおよそ宗教とは別世界でいなければならないひとたちも、日本教の信者であることに変わりはないので、その行動様式も「信者」としての類型に含まれる。精霊流しや花火大会がいかほどの宗教性を持つものであっても、「観光資源」という「思い込み」をするだけで、立派な予算がつく。

いったんついた予算は、必ず消化しなければならないのは日本の役所の役所たるゆえんだから、それが国家予算であれ地方予算であれ、役人の義務感は予算消化こそが正義に変容する。「Go Toキャンペーン」が止まらないのは、この理由しかない。大きなイベントを計画していた自治体にとっての「Go To」とは、中止したイベント予算をどうやって使い切るかになっている。

それで、自治体内限定の商品券という「金券」を、宿泊した宿を通じて配布するアイデアを考えついたのは、神奈川県県央の中核都市である厚木市だ。夫婦で2泊したら、10000円分の金券をもらった。翌日から有効とのことなので、宿泊料金に5000円を充てることができた。

厚木市民にはなんだか申し訳ない気分だけど、きっと市民が同意しているとも限らないから、まぁいいかと、やっぱり無責任が伝染するのである。

外国製ワクチン6000万人分確保

一体全体どういうことなのか?

「コッホの4原則」が無視された今回の「偽パンデミック」の正体が、とうとう出現した。
アメリカの巨大製薬会社が開発中の「ワクチン」を、日本政府は6000万人分確保するという。

希望者に接種させるのだろうか?
それとも、強制を伴うのだろうか?
費用はいくらで、国がどれほどの面倒をみるのか?
それで、終わってみれば「増税」をするのだろうか?

ちなみに、ほんとうに「効く」のだろうか?

いったいどんなコロナウィルスを対象にしているものか?
世の中には、数万から数百万、数えたひとがだれもいない、たくさんの種類のコロナウィルスが存在している。

どうして種類の数を勘定しないのか?
研究価値があるとは思われていなかったからである。
あまりにも「ふつう」すぎて、とっくに人類と共存しているからである。

こうした分母不明のなか、人体に悪影響を与えるとして研究されてきたコロナウィルスはたったの「4種類」である。
「SARS」と「MERS」のほかに、あと2種類しかない。
だから、今回問題のウィルスが、「新型」といえるのかもよくわかっていない。

それに、まさかだが、自分の身体がどのくらい細菌やウィルスやカビや原虫などに汚染されているかをしらないのか?
歯周病予防の歯磨きのCMを思いだせば、無菌のひとなど存在しない。
それでも簡単に病気にならない仕組みを、みんな持っているのだ。

むしろ、極度に汚染をおそれれば、「潔癖性」という立派な病気になるのも人間なのだ。
つまり、ふつうのひとは、自分がものすごく汚染されていることを意識しないで暮らしている。これが、ふつうの生活なのである。

もちろん、「コッホの4原則」はいまだに無視されたままだから、ワクチンだといっても、ならば素のウィルスは何だ?と質問して、だれも答えられるものではないだろう。
「遺伝子操作」でつくるワクチンの材料のウィルスはなんなんだ?

これぞ、巨大利権である。

しかも、「コッホの4原則」にあてはまる、「SARS」にも「MERS」にも「ワクチンがない」のは、強毒すぎて流行が止まるから開発しても儲からないのである。
強毒すぎるとは、ウィルスにとって宿主である罹患したひとが死んでしまうので、隔離策によって収束するからである。

そんなわけで今回は、効くか効かないか?ではなくて、「ワクチン」があって、それが「開発できた」ということでいいのである。
なんだかわからないけど、みんながワクチンを接種して幸せな気分になれればいいじゃないか。

以下、『ファウスト』風に。
(メフィストフェレスの一人舞台)
おかね?
かかりますよ。
でも、安心はタダでは買えませんよ。
危険な後期高齢者を優先に、ワクチンを接種して差し上げましょう。

えっ?ワクチンが危険じゃないかって?
大丈夫です。国が安全だといっているんですから。
それに後期高齢者なんだから、いずれにせよ先は長くありません。

でもあなた、「風邪」で死にたくなかったんでしょ?
だったら、さっさとワクチンを接種してしまいましょうね。
もしかしたら、一生死なないですみますよ。

データ?
取りますよ。
それが医学の進歩ってもんです。
えっ?まるで実験動物じゃないかって?

なにをいまさら。
人生の終わりになって、そんなことまで心配するなんておかしいですよ。
はっきりいえば、そのとおり人体実験です。
でも、それで、若いひとたちの役にたてるじゃありませんか?
このまま死んだって、なんの役にも立たないんだから、いいじゃありませんか。世のため人のための立派な人生です。

それだから、後期高齢者は無料なんですよ。
あなた、これまでの長い人生経験でわからないんですか?
世の中、タダほど高いものはないんですよ。
こんなこともわからないで長生きだけしてちゃダメですね。

この病気の正体はなにかって?
「新型コロナウイルス」というやつですよ。
これだけ世の中が大騒ぎしていて、わからないんですか?
えっ?ほんとうのことをしりたいですか?

それは、ワクチンを接種してからコッソリ教えてあげますよ。
さぁさぁ。
しのごといわず、さっさと腕をだしてください。
えーと、アルコール消毒でアレルギーはないですね?

はい、終わりです。
つぎのかた~。
えっ?コッソリ教えろ?
ああ、忘れてましたよ。

じつはね、論文という紙の上に書かれたウィルスで、だれもみたことがないんですよ。
えっ?じゃあいまのワクチンってなんだ?
コッソリですよ。誰にもいっちゃいけませんよ。約束ですよ。

(小さい声で)生食です。
えっ?聞こえない?
生理食塩水ですよ。点滴でつかうあれ。
みなさん、これで安心だって喜んでいますから、ナイショですよ。

ぼったくり?
やめてくださいよ。そんな、人聞きの悪い。
まるでわたしが悪魔みたいじゃないですかぁ。
高料金にするから、みなさん安心するんですよ。

最初からありもしない病気に怯えちゃったんで、こうするしか収拾がつかないんですよ。
怯えさせたのは誰だってですか?
そりゃぁ、ねぇ。おカネがいっぱい儲かるひとたちですよ。

おっと、そんなに興奮しないでください。
偽情報を信じたひとたちがいけないんですよ。
欺すより欺される方が悪い、って昔からいうじゃありませんか。
こういっちゃ何ですけど、あなたも欺された口でしょ?

日がな一日、地上波なんか観ているからですよ。
いまどき、テレビで正しいことなんか誰がいうものですか?
それを、すっかり信用して欺されて。
バカですね。

でも、ものすごい全地球レベルの集団詐欺事件ですね。
何年かしたら、また起きますね。

原因ですか?
やっぱり、科学軽視じゃないですか?

ほら、ダイオキシンとか。
ほんとうは無害のものを、猛毒とかいっちゃって。
温暖化もそうだし、レジ袋の有料化も。

欺されるひとって、何度でも欺されるんですよね。
経済詐欺事件だって、被害者の会ができるたびにおなじメンバーなんですから。
すこしは反省して、理科の勉強をした方が人生の役に立ちますよ。

はい、つぎのかた~。
(ここで、メフィストフェレス、ため息をつく)。

東京のピエロ

千代田区長が、東京の中心で「変」を叫んだはずなのに、あっさり「敗北宣言」となる「お詫び」を発表した。

地方議会における「変」は、昨年5月、札幌市議会での「慣例」を破った臨時議長が「土下座」したことがあった。
「池に落ちた負け犬は、さらに棒で叩く」という大陸系のことわざに、日本人なら違和感があるはずなのに、この通り結局「議会除名」ということで一件落着したことがある。

状況は札幌の例より悪いから、こんどは東京で大陸系のことわざが効いて、区長がどうやって失職するのかに興味がうつることになる。
いわば、他人の不幸を要求する、悪魔的な快感がほしい、という期待感である。

この意味で、札幌も東京も、みごとな「国際都市」である。

もちろん、ことの発端が、区長の区内マンション購入にあたっての「抽選外」という特別が行われた背景に、容積率の割り増しに貢献したという疑惑があるから、区長には最初から筋が悪い話なのである。
それで、100条委員会が議会にできて、「偽証」も問題になった。

議会がこれを「刑事告発議決」したので、追いつめられた区長は、議会を解散させたのだった。
首長による議会解散は、不信任決議をされたときに限られる。
でも区長は、刑事告発議決=不信任議決と解釈したのだ。

地方を仕切る、元内務省・元自治省・現総務省は、刑事告発議決≠不信任議決として、区長の解散宣言を無効と解釈し、区選挙管理委員会、それに総務大臣も追認した。
そこで、東京地裁に判断を仰いだが、地裁も無効としたので「お詫び」となった。

どうして高裁に持ち込まなかったのか?
なんなら最高裁までいったっていい。

いやいや、そんな事をすれば、千代田区の行政が滞る、という意見はあるだろう。
ならば、なにが滞るのか?
おそらく、千代田区の行政は盤石なのである。

懸念されるのは、コロナ対策補助金の区民への一律12万円支給という無意味であろう。(横浜市民が余計なお世話だけれど)
区長は春先に、区としての支給はしないと表明していたのに、この件かなにかしらないが、急に「やる」といいだしただけである。

そんなわけで、「区長の暴挙」一色なのである。

あまのじゃくを自称する筆者としては、あえて異議を唱えたい。
札幌のときもそうだったけど、変な「慣習」がまかり通っていないか?という疑問がある。
昔からの美点を「伝統」というけれど、汚点は「因習」というのである。

「慣習」には、「慣性」という意味もあって、物理でいう「慣性の法則」が、人間社会にもあるということでもある。
「惰性」といってもよい。
ただ昔から、という理由だけで、ダラダラとそれを続ける。

今回の件は、刑事告発議決=不信任議決といえるかいえないか?に注目したいのである。
議会が首長を刑事告発するということは、どういうことか?
首長が刑事被告人になるということである。

もちろん、「推定無罪」の原則があるはずだから、有罪が確定するまでは市民のひとりである。
しかし、わが国にはとんでもない「因習」があって、「逮捕歴」だけでも子孫に迷惑が及ぶことがある。

それに、わが国の刑事裁判における有罪率は、99%なのだ。
つまり、検察が起訴したらほとんど有罪になる。
すると、起訴された段階で「推定無罪」の原則だってあやしくなるのだ。
そんな検察の人事に、政治が介入してはいけないと、タレントを含めた有名人が運動したのは、人治を押して民主主義を信用しないと主張したも同然だった。

議会が調べて、首長を刑事告発を決めたなら、検察はどうするのか?
検察が調べて、やっぱり首長を起訴するなら、ほぼほぼ首長の有罪も決まる。そうなったら、辞職しかないから、首長にとっては「不信任議決」とおなじ意味になる。

一方、検察が調べて、議会とちがう不起訴とするなら、議会の責任は重大だ。
すると、「詫び」ではすまない、第二波がやってくる。
「刑事告発議決」があるからである。

はたして、検察は起訴するのか?

それにしても、まどろっこしいのは、刑事告発するならするで、議会は強く辞職を促すことをしないのか?
区民の側は、リコールをいい出さないのか?

疲弊しているのである。

誰かがやるだろう。
他人まかせと慣性の法則で、どうでもいいのだ。
その、どうでもいい地盤の上だから、こういう区長が区長でいられるのである。

東京のまん中がこれだから、どこもかしこも推して知るべし。

ニュースがない日はニュースをつくる

以前に「ニュースがない日のニュース」について書いたから、本稿は久しぶりの続編である。

新聞だろうがテレビやラジオのニュースだろうが、枠が決まっている。
新聞なら「紙面」という面積の枠に記事で埋めなければならないし、放送なら「時間枠」のなかに埋め込む必要がある。
伝統的な、記事をアナウンサーが読み上げるニュース番組ならば、適切な読み上げスピードが文字数に換算されて、原稿が書かれることになっている。
だから、時間内に収まるようになっている。

直近の、世界中の出来事をニュースは対象にしている。
「直近」でないと、「New」でなくなるので、古い話は「ニュース解説」という別枠になる。
とにかく直近の「New」な話題をいくつも集めて、新聞や放送番組にするから複数形の「s」をつけて「ニュース」としている。英語だと「ズ」になるから和製英語でもある。

通信網が広がって、通信手段もインターネットが主になったので、世界は格段に話題が「豊富」になったはずである。
それなのに、「情報弱者」(略して「情弱」)が発生するのはどうしたことか?

ふつう、情弱なひとたちは、インターネットにアクセスすらできないとおもわれているけれど、スマホ全盛の世の中である。
かなりの強い意志がなければ、いまどき「ガラケー」を使いつづけることもできないから、情弱なひとほどスマホもハイエンド機種だったりする。

ケータイ・ショップの店員さんのいわれるままに契約するからだ。

問題なのは、使い方がわからないのだ。
もちろん、この中には、かかってきた電話の受け方も含まれるけど、疑問が湧かないから、検索エンジンをつかわない。
こうして、日がな一日、新聞や地上波の放送を観ていれば、ちゃんと情弱にしてくれる。

けれども、そもそも疑問が湧かないという特性があるので、それで困らないし、新聞とテレビのニュースはちゃんと観ているから、自分が情弱とは思いもしない。
だから、他人から「情弱」といわれると、やけに腹を立てるのである。

プライドはある。

ふつう、毎朝配達される新聞をみていたら、ニュースの中身に濃淡の波があることに気がつくものだ。
今日は読み応えのある記事がたくさんあるとか、ないとか。
それで、ない日はどうかといえば、たいがいがどーでもいい記事や話題で「枠」が埋めてあることに気づく。

前々から仕込んでいる「ストック」もあるけれど、昨今は「製作した」という記事が紛れ込んでいる。
一歩まちがうと「捏(ねつ)造」ということになりかねない。
すると、読者がこれを「読み込む」必要があるのだ。

ある特定の思想信条による「編集」は、人間が記事にするのだから仕方がないことである。
それに、「編集」に「作文」まで含まれるので、なにもかんがえずにただ「読んだり」「視聴」していると、そのうちに「洗脳」されてしまう危険もある。

やや疑問があることでも、堂々と繰り返しインプットされると、ふつうなら、簡単に洗脳されて、こんどはそれとはちがう記事に反感を持つようになるのである。理性ではなく感情になる。
あんがい人間は単純なのである。

だから、報道機関の読者や視聴者に対する誠実性とは、自分たちの立ち位置を明確にすることになる。
これを隠して、あたかも「真実」を伝えているなら、それはもう「宣伝(プロパガンダ)」にすぎない。

そんなものを、購入させられる読者や視聴者は、なんだか可哀想を超えて滑稽である。
すいている電車で、新聞を広げているひとが、酷暑の中マスクをしている傾向が強いのは、「わたしは情弱です」という看板をつけて歩いているように思えてならない。

「公正中立」なんてあり得ないのだ。

けれども、いつの頃からか、「公正中立」の看板を高々と掲げながら、ほんとうは自分たちの政治信条に基づいた記事を生産して、これを「すき間」に埋め込みだした。
批判を受けたら、反省どころか「報道しない自由」という、どこかの国の強弁を真似て開き直ってしまうのだ。

報道機関が自分から「報道しない自由」をいったら、それは「自主検閲」を宣言したもおなじである。

戦時中、物資がないから紙もインクもない。
それで、軍の検閲で「発禁」を命じられたら経費負担に耐えられない。
でも、日本軍という役所の検閲は、いまとおなじ役所仕事だから、その文字が印刷されなければいい。これで、白枠の伏せ字になって、読者は穴埋め問題にして楽しんだ。

でもやっぱり、かっこ悪いので、自主検閲をして軍がよろこぶ記事を量産したという歴史がある。
占領軍はもっと巧妙で、はなから記事に真実を求めない。
求めたのは占領政策に合致した記事=作文だから、やっぱり自主検閲をしてこれをクリアした。完璧なプロパガンダになったのだ。

読者はどこにも穴埋め問題がないから、そのうち洗脳されいくのである。

そんなわけで、新聞と地上波放送のニュースはみないことにしている。
それでも、困ったことに、困ったことがない。

日本はいつまで日本でいられるのか?

8月10日は、台湾と香港でそれぞれ歴史的なことが起きていた。
どちらも「人為」なので、人間の意志がはたらいている。

台湾では、台湾が日本でなくなって以来初めての、アメリカ政府高官(閣僚級)が訪問した。
この訪問には、2018年3月にとっくにできていた「台湾旅行法」がはじめて適用されている。

官僚=政府が法案を立案して、これを国会でほぼ原案通り承認する、というスタイルのわが国とちがって、アメリカでは上院だろうが下院だろうが、議員が法案を立案してこれを議会でたっぷり審議し、決まったことを法律として政府に実行を命令するのがアメリカだ。

だから、トランプ政権はようやく議会の命令にしたがったことになる。
なんだか悠長な法律名だが、政府高官は台湾に行け、という命令なのである。
日本の狂った報道だと、まるでトランプ政権が無茶ぶりしているような印象操作をするけれど、やれと命じているのは議会なのである。

ほんとうに流行の原因ウィルスが存在するかしないかに関わりなく、ここは「あることにして」でも台湾を訪問したのは、台湾も以前はそうだったWHOのオブザーバーにさえ反対して議論に参加させない国があるからだ。
WHOとは別の保健機関創設を模索しはじめたアメリカとしては、まったくの「政治案件」なのである。

じっさい、WHOは、国際連合の下部機関ということになってはいるけど、運営予算の大半が、各国政府拠出「ではなく」て、民間製薬会社などからの寄付金によっている。
つまるところ、利権の巣窟なのである。

だから、原因ウィルスの存在についての疑問には一切触れず、マリス博士の「感染症の診断にPCR検査を使ってはいけない」という警告も無視して、流行のはじめから「ワクチン開発」に巨額の投資が行われた。

いまだにウィルスを分離・特定したことがないのに、どうしてワクチンが開発できるのか?
しかも、このワクチンとは人類の初めてが詰まっている「RNA型」、いわゆる遺伝子操作をした注射を打つのである。

遺伝子操作をした小麦や大豆すら嫌って、味噌や醤油にだって「遺伝子操作していない」のを用いているのに、注射するか?
だれがどんな安全性に保障をしてくれるものか、さっぱりわからない。

あのビル・ゲイツ氏も、このタイミングを計ってなのか、ツイッター投稿して、最新のキットでPCR検査をやれとアメリカ政府を脇からあおっている。
あたかも、対象になるウィルスが実存するみたいな発言だ。
このひとの名前が付く財団は、医療・薬品系の事実上の投資会社状態であることに注意したい。

そんなわけで、いつも嫌がらせをする国は、この訪問に怒り心頭、例によっての骨髄反応をして批難声明を発表したけど、予定通りのことなので慌てるひとはいない。
むしろ、訪問前に、武力行使をほのめかしていたから、どうするのだろう?
武力行使したら大変なことになるし、しなくても大変なことになる。
だれも彼らの脅しに屈しなくなるからである。

ただし、わが国は除く。

ありもしないウィルスに怯え、全国知事会がお盆帰省をするなという骨髄反応なのだから、「万が一」でも武力行使されたら、「腰が抜けて坐り小便しちゃう」※だろう。
※古今亭志ん生の伝説の名演『火焔太鼓』のセリフ

同じ日、その台湾海峡の向こう岸の香港では、重要人物たちがあいついで逮捕された。
この度できた、新法が適用されたというけれど、「法の不遡及」という一大原則を無視している。

果たして、わが国の法律家たちは、ぜんぜん反応しないのはなぜだろう?

案の定、わが国が「懸念を表明」したことに、「内政干渉」だと反論したという。
さあ、わが国の法曹会は、一体どうする?
憲法学者はなんとする?

法の不遡及について、事後法が適用されたのは、「東京裁判」での「戦犯」例がある。
なるほど、事後法でも差し支えないという論理はここにあるのだろう。
けれども、わが国だって、独立したあかつきに、さっそくこれらを無効とする国会決議が、議員からの発案で全会一致でなされているのだ。

でも、これもいいたくない、触れたくないのがわが国の法曹会だ。

そんなわけで、東京から飛行機で数時間の距離にある二つの地域での出来事は、ぜんぜん他人事ではない。

未来の日本が、いまの香港なのである。

さてそれで、日本はいつまで日本でいられるのか?
「亡国」するなら、なるべくなら自分が死んでからにしてほしい。
でも、それじゃ子孫たちはどうなるのか?
いまのままなら、見殺しである。

なにか平和的な方法で、一矢報いるものはないか?
そういえば、8月9日が本来ならばオリンピックの閉会式だった。
この際、原因ウィルスの存在が「あったこと」にして、来年も再来年もオリンピックを諦めるというのはどうか?

来年の夏にあきらめれば、年明け早々の冬の大会もできない。
風邪が流行るのは、やっぱり冬だ。

それなら、ダラダラとPCR検査をやって、その辺にふつうにあるコロナウィルスが付着・感染したことにすれば、発病しない患者がたくさんできる。(いまもだが)
これを理由にすれば、世界に貢献できるかもしれない。

ついでに、オリンピックも永久にやめれば、ムダな投資をさせられる国もなくなる。なんなら、ギリシャで毎年やればいい。

消極的方法だろうが、意思をもって行うことを日本人もやらないと、気がついたら日本国がなくなっている。

絶大な金融制裁の効果

特定の組織と、その組織にいる個人を相手におこなうという「金融制裁」とは、歴史的なスタンダードになりつつある。
つまり、これまでは「やってなかった」から歴史的なのだけれども、いったんこれをやったら、その後は「ふつう」になる、という意味である。

これまで「やってなかった」のは、国家どうしのことは、国家と国家のレベルという対象に対称性があったからである。
けれども、この対称性についてコンニャクのように効かない国家が相手の場合どうするのか?

近代は、国民国家という概念が常識となっている。
これは、国民が国家の主人だという考えを基本にしている。
しかし、国民が国家の主人ではなくて、一部の国民による支配体制ができている、となると話がちがう。

それが本稿冒頭の、組織と組織の構成員を指すのである。

たとえば、わが国の場合は、政府と役人が主にこれにあたる。
けれども、これに与党や与党の議員も含まれて、さらに、マスコミ各社とその社員というひとたちもいる。
ある意味、与党に対してまったく無力な野党も、与党を援護しているようなものだから、仲間である。

いまさらだけど、これをカレル・ヴァン・ウォルフレンが、『日本/権力構造の謎』で、「中心がない」と指摘している。

 

まぁ、中心がないという指摘は、なんとなくわかる。
誰が首相をやっても、なんにも変わらない。
だったら、誰でもいいくせに、長期政権のいまの首相に代わるものがいない、という不思議なことになっている。

なんにせよ、わが国は、いわゆる近代国家としての国民国家ではないことは明確だから、いわゆる近代国家ではないのである。
それを、いわゆる近代国家だと国民みんなで思い込んでいるから、いつでも何度でも欺されるのだ。

それで、なぜかまた矛先を、政府だったり政治家だったりに向けるから、肝心の、いわゆる近代国家ではない、という肝にいつまでたってもたどりつかない。
要は、国民が阿呆なのである。

しかし、それでもなんとかなってきたのは、二度とアメリカに逆らわさせないという占領政策が効いて、これを自ら70年もやってきたから、いまや単なる神経反射になってしまった。
従順な羊たちを、アメリカの牧師さんたちが率いているのである。

ところが、なにを勘違いしたのか、従順な羊のようだった面積だけは大きな国が、突如自分たちは狼だったと思い込んで、ロシアの後釜としての世界タイトルマッチに乗り出した。
もしや、西側マスコミのおだてにまんまと乗ってしまったごとくである。

ふつうのリングとちがうのは、はいているパンツの色、つまり挑戦者が赤いことだけでなく、場外乱闘をチャンピオンが想定していることだった。
情報戦と軍事力のパンチで自信満々リングにあがった挑戦者だったが、近代総力戦に経験豊富なチャンピオンを舐めていた節がある。

チャンピオンは、挑戦者の情報戦のパンチを作れなくする、サプライチェーンマネジメントを実行したのを皮切りに、とりあえず空母を2隻挑戦者の喉元に突きつけつつ、わが国の島嶼防衛にもバックアップを開始した。
でもこれらは、挑戦者とリング上での試合風景でしかない。

国際基軸通貨の発行元という自分の最大の強みを、チャンピオンは熟知している。
およそ世界の金融機関で、アメリカドルを取り扱えないなら、ほとんど相手にされないのが、この世のグローバル経済である。

すなわち、金融機関として国際決済機能をどうかんがえるか?ということなのだけれど、そんなもんなくなったら店をたたむしか選択肢はない。
チャンピオンのセコンドをやっているイギリスは、阿片戦争で香港を得たけれど、それで大儲けした銀行がHSBCだった。

H:香港、S:上海なので、むかしは「香港上海銀行」といっていた。
なんと、香港の騒動で、この銀行は挑戦者側のセコンドに就任したのだ。
いま、チャンピオンとチャンピオンのセコンドが、トイレの裏に呼びつけてボコボコにしているところだろう。

突如、マイクを握ったチャンピオンがひとりでリングにあがって、挑戦者の背後にいる組織とその構成員もボコボコにしてやると雄叫びをあげて、名指しした。
家族も含めた入国禁止・出国命令もあるけれど、なんといっても銀行口座の凍結が痛いだろう。

香港の行政長官は、「あたしには関係ない」とリング脇から嘲りながら野次ったけれど、チャンピオンはにやりと歯をみせて、イギリスにある彼女の夫と子ども二人の口座を凍結するはずだ。チャンピオンのセコンドが親指を立ててうなずいている。

ついでながら、チャンピオンはヨーロッパ・アルプスの国にも連絡して、ボコボコにされたくなかったらわかっているよな?といったら、先ずはスイスの外務大臣が「おまかせあれ」と返答した。
もうすぐ、スイス銀行が5000ほどある構成員の口座を凍結するだろう。

予想される金額は、数百兆円?
いやもっとあるはずだというから、はんぱない。
このおカネは、国家から盗んだものだ。

くわばら、くわばら。