「不滅」という概念

漢字表記のそのままに、滅びない、という意味である。

「滅びる」とは、絶えてなくなる、という意味だから、「不滅」には、永遠に継続する、というポジティブな意味も含まれる。
企業活動でいう、いわゆる、「ゴーイング・コンサーン:継続性の原則」も、一種の「不滅」を前提としている。

わたしの好きな映画、『不滅の恋 ベートーヴェン』(1994年)では、恋が不滅なのか、ベートーヴェンの生き様とそこから生まれた音楽が不滅なのかが掛けあわさって、「音楽」に至っては、サー・ゲオルグ・ショルティがロンドン交響楽団とサウンドトラック全曲をこの映画のために録音した豪華さもある。

音楽は作曲家の思想を表現したものだ、という説明をベートーヴェンに言わせるセリフは、そこにすでに「不滅」のタネが仕込まれている。
されど、並み以下もふくめた作曲家の楽曲全部が「不滅」になるわけでもない。

あの大バッハでさえも、歴史に埋もれて、メンデルスゾーンによる復活演奏がなかったら、いまごろどうなっているものか?
この復活演奏会の聴衆たちは、バッハの音楽をすっかり忘れたひとたちだったから、メンデルスゾーンの技倆を信じて参集した「だけ」だったとかんがえるのが妥当なのだ。

そして、その見事な演奏をして、聴衆たちはバッハの「あたらしさ」に感涙したのである。
すると、バッハの音楽さえも、いったん途切れた、という事実に、われわれはもっと注目しないといけない。

インド発祥の仏教だって、その近くのイラン発祥で人類最古のゾロアスター教の影響を受けている。
それが日本に、「大乗仏教」として伝わったけど、最初に灯したのが、「不滅の法灯」で、その灯りの「火」をもって拝んだのである。

信長の比叡山焼き討ちによって、この不滅の法灯が絶えたかどうかは知らないけれど、オリンピックの聖火のように、なにか別のものに移して保持したことも十分にかんがえられる。

前回の東京オリンピックの聖火も、いまだに灯されていて、そのための燃料を絶やさないように管理しているひとがいらっしゃる。
つまり、いったんつけた火を絶やさないことでの「不滅」とは、まことに「人為的」な行為なのである。

すると、人類=人間とは何者か?ということを「定義」しようとすると、「火を扱える動物」となる。
これが、「物理的な火」だけでなく、心のなかにも「灯す」ものがあるのが「人間」となって、他の動物を圧倒するのである。

そして、「心のなかに灯すもの」のことを、「精神」といって、「さまざまな思想を統括する」から、もはや他の動物の能力を完全に凌駕する。
この「精神」が、他の人間にも共鳴して、それが社会的な精神になると、また宗教に回帰して、それを「たましい:魂」と呼ぶのである。

すると、「魂」は世代を超える。
世代を超えるとは、時間を超えることになって、「不滅」となる可能性がでてくる。

モーツァルトやベートーヴェン本人が、いかほどに自分の作曲した音楽が、人類に共感されて、それが、「不滅」になると思って意識していたのか?
おそらくは、そんな意識はうすくて、自分のなかでの一番を「更新する」ことしかかんがえていなかったのではないか?

当時の「宮廷」における、作曲家の立場は、料理人=シェフの配下にあった。

それは、音楽とは、貴族たちの食事の「BGM」だったからである。
室内楽こそがそれで、それから大編成を要する楽曲に移行したけど、「作曲家=芸術家」という職業が社会的認知をされていたわけではなかった。

むしろ、「パトロン」という、スポンサーがいる時代の作曲家こそが芸術家になれたので、パトロンが絶滅した現代では、成功している作曲家も絶滅危惧種になっている。

すると、不滅とは「結果」であって、「原因」ではない。

しかし、人間は、自分の目の前にあるものを「不滅」だと認識する、「癖」があるから、それがおそろしく「流動的」で「うつろうもの」だと気づいたときに「愕然」とするのである。

そもそも社会そのものが、固定的だったむかしとちがって、流動的になってきたので、その「愕然」なるショックに「慣れる」ことが、ニヒリズム(虚無主義)を呼んだ。

すべては「虚無」である、とすれば、なにがあっても動じない。
けれども、それが自己の存在も否定するようになると、「漠然とした不安」になって、とうとう自殺するひとがでてくる。

いま、わが国が「先進国」といえるかどうかは疑問だらけになったけど、一応「OECDの加盟国」としてかんがえれば、「若者の死因」でわが国だけ、「自殺」がトップになっている。

この不幸の原因は、ニヒリズムの蔓延だとおもわれる。

すると、それはもう、「システム」の問題なのである。

 

上記2冊は、「日本」が先進国だったときの話だけれど、このシステムが世界に蔓延したのが、いま、である。
ならば、これは、「不滅か?」を問えば、そんな結果は用意されてはいない。

おおくの人間を不幸にして、一部が幸福になるシステムを、不滅にしたいとするひとたちがいる「だけ」なのである。
よって、「多勢に無勢」の多勢にこそ、チャンスがやってきている。

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