「傾聴する」議会の品位

「耳」と「目」だけでなく、「心」を傾けて真摯な姿勢で相手の話を聴くコミュニケーションの「技法」のことを、「傾聴」という。

「技法」なので、じつは「訓練」がいる。
望ましい「訓練の時期」とは、初等教育にあたる7歳から中等教育の期間であろう。

自分の意見をいうときに、相手が集中して聞いてくれない「態度」をとれば、話し手へのマナー違反だけでなく、聞き手としてもマナー違反を問われる。

話し手と聞き手は、常に「入れ替わる」のが、「会話」や「議論」というものなので、このような状態になると、「会話が成りたたない」ことになる。
すなわち、コミュニケーションが成立しない。

これが、「言論の府」でのことであれば、なおさらだ。

話し手が言いっぱなし、聞き手は話を聞かない、という「一方通行」ではなくて、その聞き手が話し手になったときに、前の話し手は聞き手になって同じことをするので、「双方向」での「ダメ」となるのだ。

2020年、トランプ氏への最初の弾劾裁判で、下院が可決(弾劾起訴すること)して、弾劾裁判所となる上院での、トランプ側弁護団(Pam Bondi:2010年~19年のフロリダ州司法長官)が述べた演説を、アメリカ公共放送(PBS:Public Broadcasting Service, 1970年創立)が、YouTubeにアーカイブしている。

これを、Harano Times Official Channel が日本語訳と解説を付けて配信している。
なお、約30分にわたる「演説の全部」についても別途翻訳付きで公開している。

まさに、アメリカ人が、「傾聴している」のである。

歴史は、この弾劾裁判が否決されて、大統領弾劾は不成立となったことを知っている。
しかし、ここでの「弁護」が、「いま起きている」ウクライナ戦争の重大な欺瞞も暴いているから、改めて注目されているのである。

しかも、このときの「弾劾裁判」時点では、ハンター・バイデン氏の「パソコン問題」は「なかった」けれども、「反トランプ・キャンペーン」を推進してきたアメリカ大手メディアさえもが、このパソコンを「本物」だと認定してきているのも「いま」なのである。

そして昨年11月30日に発刊されて、「全米ベストセラー」になっているのが、『Laptop from Hell』(地獄からのパソコン)だ。
ちなみに、表紙のハンター氏がくわえているのは、「タバコではない」と、虚ろな目線を観るひとがみたら「一目瞭然」らしい。

いまのところ、「日本語版」の出版予定が「ない」のも、われわれが生きている「言語空間」の偏向ぶりと、国内ジャーナリズムの衰退を象徴している。

別の言い方をすれば、「洋書が読める」外国語能力があるひとと、そうでないひととの「情報格差」ができることの「深刻」は、なんでも訳してやろうと、手当たり次第「日本語化」をしていたむかしよりもずっと「まずい」のである。

これを、生まれて以来、岩里政男として日本語空間で育った李登輝氏が、その著作で、自宅書庫にある日本語の蔵書で世界のことがわかるから、よほどのこと以外わざわざ英語の本を読まなくても済むし、ましてや中国語の書籍をや、と書いている。

しかして一方、当時の日本人の初等教育は、「漢籍」の「素読」による、基本的な教養の強要が「常識」だった。
これは、ユダヤ人が子供にする、『タルムード』の暗誦や、イスラム教徒が子供にする『コーラン』の暗誦と似ている。

「そのとき」意味がわからなくとも、おとなになるまでの時間で、自然に意味を解するようになっていくのが「人間」だということを知っているのだ。
そして、一生忘れない。
幼児期に刻まれる、深い記憶の効果は、一生ものだからである。

それで、むかしの日本人は、堂々と「和魂洋才」を言って、「洋物文化」との「共存」を意図して、実際に実行できたのだった。
いまは、「和魂」がわからなくなって、「洋才」だけになったのである。

さて、Pam Bondi女史の演説のわかりやすさは、誰を対象に想定して構築されたものかも、一目瞭然だ。

第一義的には、弾劾裁判官たる連邦上院議員たちである。
それは彼女が演壇に向かいながら発する「セネター(Senator:上院議員)」の一言でわかる。

しかしながら、彼らひとりひとりの後には、万人単位の、彼らに投票した有権者たちがいる。
だから女史がする、この演説の相手となる聞き手とは、アメリカ国民なのである。

このことを熟知している、上院議員は、たとえ対立する検察官の立場(民主党)でも、「傾聴する」態度を示すしかない。
それがまた、民主党支持者への「余裕のアッピール」となるからでもある。
もちろん、共和党支持者もそんな事情を知っている。

かんたんにいえば、「ヤジ」をもって、相手の言論を封じようとする行為は、「暴力」なのである。

すると、「銃社会」のアメリカは、「正義」であれば相手に銃口を向けて撃ってよいとする「前」に、まずは「傾聴する」という態度をとることがわかる。

いまのわが国で、最初からヤジという銃弾を相手にたたき込むことをしているのとは、様子がちがうのである。

とうとう、「洋魂洋才」になったからだろう。

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