「政策」をかんがえるひと

現代は「民主主義の危機」の時代、となった。

近代の民主主義は、自由主義とセットになって機能する。
何度でもしつこく書くが、自由主義の自由とは、他人から命令されない自由を指して、自分勝手の自由をいうのではない。

民主主義と自由主義が不可欠なのは、資本主義社会という「経済体制=ひとが喰っていく(=稼ぐ)ための体制」のために必須となるからだという。
しかし、われわれは、資本主義とはなにか?についての「定義」をいえない。

マルクスは、資本主義は矛盾に満ちているから、歴史の発展と共に社会主義に進化すると「断言=予言」した。
この矛盾に満ちているから、ということが、「悪」だとしたし、ついには共産主義社会になると「根拠なく」予言したのだった。

しかして一方、アメリカ人が聖書の次に読んでいるという、日本では不思議と「無名」な、国民作家、アイン・ランドは、資本主義の成立には「道徳」が必要だとして、人類は一度も資本主義が成立するほどの「高い道徳性をもった社会」をつくったことがないから、資本主義は「未完」で「未来のシステム」だと主張した。

ならば、いまはどんな時代なのか?
それは大塚久雄がいう、「前資本:前期資本」という、ふつうは「中世」の経済システムを指すときの定義を、若干発展させた「だけ」の時代なのではないか?といえるのである。

つまり、人間社会を「そのまま」にして、「科学」と「技術」が先に進化してしまった。
よって、人間が「置いてきぼり」になっているのである。

マルクスはこれを、「疎外」だと、鋭く指摘した。
この「一点だけ」が、マルクス理論の「正解」だから、なかなか廃れない妖艶さをもっている。

けれども、マルクスの根本的かつ致命的エラーは、この「置いてきぼり」状態の社会を「矛盾に満ちた資本主義」だと、早とちりしたことだ。
勉強脳に犯された、ヒューマニズムの善男善女が、やっぱり「早とちり」して、人生をムダにする残念の原因となったのである。

さらに、マルクスの「家系」は、あの陰謀論の巣窟、ロスチャイルド家に直でつながる。
すなわち、貧困にあえいだ「苦学のひと」ではなくて、いまよりずっと身分制がはっきりした社会における、「富裕層」かつ「エリート層」の意図的成果なのである。

社会不安が社会的大儲けのタネになる。

すると、「ご本家筋」からしたら、マルクスとは、「マッチポンプ」の「マッチ」にあたる役割をした、ということになる。

さてそれで、民主主義の政治体制における政策は、だれがかんがえるのか?ということになると、「国民」しかいない。
これを忘れさせて、あるいは覚え込ませない「努力」がされて、国民は自分以外の他人に依頼することが、あたかも合理的だと思いこませられるのである。

誰に?
国民を支配したいひとたちに、である。

さて、アイン・ランドがいう「(完成された)資本主義」が、「うまくいく条件」が、むかしは整っていた。
・いまより高い道徳が国民にあったこと
・いまより公平・公正さの重視が政府にあったこと

どちらも、いまは、カネによって堕落させられて、中世の支配者が「武力」でしたようなことを、「財力」でされることになったのである。

では、うまくいった「むかし」とはいつのことなのか?
日本なら江戸は元禄時代(「近世」という)の繁栄をいう。
少なくとも、いまよりずっと「高い道徳」がふつうにあった
支配者の武家は、公平・公正さに注力した。

なので、山本七平が「発見」した、「資本主義の精神」があったのだ。

すると、アジアで唯一、欧米的近代化に成功したのが日本だ、ということは間違っていて、世界で唯一、資本主義を完成させたのが日本人だった、のではないのか?

それが、明治の開国によって、未完の資本主義である欧米から「破壊」され「平準化(山を崩して谷を埋める)」された、とかんがえることができる。
これを、欧米の「科学」と「技術」だけが進んでいたことが目くらましとなって、日本人が遅れていると、「勘違い」したといえるのである。

そして、その勘違いは深刻な状況にまで浸透して今に至る。

欧米の哲学が日本ではしっくりこなかった理由も、日本の方が「高み」にあったからであるとかんがえると、さいきんになって欧米の哲学が「通用する」日本になったのは、完成させた資本主義が破壊されたよりも、もっと深いところで、「日本が破壊されている」ためだともいえるのである。

この状態を復活させる転換点となる、「底入れ」はあるのか?
あるいは、「底割れ」して、二度と回復できない遙か彼方まで落ちるのか?
いま、その「正念場」にあることは、まちがいない。

すると、誰がこれをかんがえて実行する「救世主」となるのか?
ここに、「国民主権」という「超難易度」の壁がある。
つまり、民主主義社会とは、国民が救世主にならざるをえないのである。

だれかひとりの「よい権力者」が出現すれば、すべてが解決する。
これこそが、悪魔(メフィストフェレス)の「甘言」なのである。

日本人が、歴史的に「(大)統領制」を採用せずに、つまり、絶対権力者を置かず、「絶対権威者」を置いた知恵の、他民族にはありえないほどの「すごさ」とは、古来、とっくのとうに国民主権だったことを示すのである。

わが国に原生林がほとんどない、という事実は、「縄文人」が山の隅々まで「植林」していたことがわかってきた。
このすさまじき手間をかけたエネルギーの源泉は、自然との共生にほかならない。

日本人は、山に植林して、植生を人工林に改造しながら、自然崇拝してきたのだ。
欧米がいうSDGsの胡散臭さは、日本人だからわかる「臭気・腐臭」なのである。

日本企業における「ボトムアップ型」だって、古来の国民主権の発露だ。
すると、きわめて日本的という、企業内労働組合の存在意義は、古来の国民主権による発想がつくらせた、世界には独自システムなのであると気づく。

ならば、日本人が完成させた資本主義との相性がよい、といえるのである。
それを、欧米の未完の資本主義にあわせることが、「努力」になって、組織率の減衰がとまらない原因ではないのか?

すると、労働組合における「民主主義」こそが、政策をかんがえるひとなって、企業経営に成果をもたらすはずである。
「勘違いのマルクス」に影響される勘違いを、やめること、が「秘訣」なのである。

底入れは、できる、のである。

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