人間を信用しないシステム

人間は間違いを犯す動物なので、「ヒューマン・エラーを防止する」ための方策を考えるとき、「人間を信用しないシステム」を基本思想にする。
そのために、やたら機械的になることは否めない。
それで、その機械的な手順を「面倒くさい」と考えるのが、また人間なので、決められた手順を無視して事故を起こすのも人間となる。

すると、人間に「面倒くさい」と思わせないか、思っても「別の抑止力」が働いて、手順どおりの行動を選択させるということまであらかじめ考えておかないといけない、ということになる。

面倒くさいと思わせない方法には、「追い込み漁」のように、そうしなければいけない状態に追い込む方法がある。
たとえば、食品工場での「衛生エリア」へ踏み入れるとき、消毒液の浅いプールを数歩だけ歩いて超えるほどの長さを確保することがある。

こうして、靴を消毒しないとエリア内に入れないようにして、さらに、エリア内専用の靴に履き替えることも義務化すれば、小学校以来の「上履き」を玄関の下駄箱エリアで履き替えた「訓練」の有り難さがわかる。

もっとも、消毒液のプールも放置すれば、消毒効果が落ちて汚染されるので、こちらを自動的に廃棄し、新しい消毒液の注入をすればよいことになる。
新しい消毒液のタンクが空だと意味がないので、これも自動点検できるようにする。

こうして、「連鎖の体系」ができるのだ。

だから、どこかの機能が不全になると、「体系全体」が不全になる可能性も高くなる。
それで、その体系を維持するためのチェックが必要になる、ということがあって、どこまでも続く感じがする。

一方で、「別の抑止力」で効果的なのが、「教育・訓練」である。
この場合、「教育⇒訓練」という意味であって、「教育」と「訓練」といった切り離した話ではないし、「⇒」のように順番がある。
よくやる方法が、「座学⇒実地訓練」だ。

座学の場面では、とくに「必要性」の「納得」が重要で、ただやったという「アリバイ」はどうでもいい。
その手順を必要とするのは、どういうことで、どういった危険に見舞われるのかということの「納得」だ。

1999年だから、「前世紀」(もうおおむかしになる)、JCO東海事業所で、「臨界事故」が起きた。
有名な、濃縮ウランを「バケツ」で搬入するということで、妙に有名になった「事故」だった。

「核」を扱う専門の会社での事故は、なんだか難しい装置やら配管とかのひび割れか?とかと想像したものが、「バケツ」から取りだした液を漏斗でパイプに入れるという、驚くほどの「手作業」だったから「驚いた」のである。

そして、そのこと「だけ」が「ニュース」になった。

このニュースの受け手にも、重大な問題があったのは、「臨界」がどういう状態をいうのかをわからなかったことである。
それは、重度の被ばくをした当の作業に従事したひとたちも知らなかったにちがいない。

でなければ、濃縮ウランをバケツに入れる指示を出したひとに、おそろしく噛みつくにちがいない。
ならば、バケツでやれといったひとも、「臨界」をしらなかったことになる。

すると、ここでは「無知の連鎖」が起きていたのだ。

しかも、マニュアル化されていた。
監督官庁にとって「幸い」だったのは、その「マニュアル」を見ていなかった、という間抜けさが、知らぬ存ぜぬを通すことができたからである。
その後の、自動車会社による30年間もの「検査不正」と、よく似ている。

省庁は、縦割りだけれど、仕組みは「横の連携」がとれている。

そんなわけで、悪いのは「会社」という「当然」のことになって、誰かが辞任すればよいことになる。
でも、死者まで出たので、会社の責任は軽いはずはない。それを動かしているひとたちの責任は、なんだか軽いのである。

こんなことから、無責任がはびこる。

4度目の緊急事態宣言が、だんだんと「政治ショー」の本質を露わにしてきた。
たまたま、都議選の間は、感染者数が少なかったのだ、と、ウィルスが「意思」を持っているようでもある。

オリンピックはやるけど、花火大会はやらない。

これも、人間を信用しないシステムとして一貫性がある。

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