生活をよくする政策がない

日本人の不幸のひとつが、「政治の貧困」だったけど、「米ソ冷戦」という、かえって「安定」の世界秩序があったおかげで発展してきたから、「政治の貧困」はあるけれど、それが「決定的なことではない」という、世にも珍しい国民性が完成した。

しかし、日本経済の衰退で、国民生活がその所得の低下から貧困化している現実を無視した、なんだか「金満」なままにいられる「政治の貧困」が、いよいよ「痛みを伴う」状態になってきた。

これは、碩学故小室直樹氏が指摘した、日本復活の条件にもなっていることで、日本国民は政治=政府によって痛めつけられるほどに、「目が覚める」だろう、と。

もちろん、なかには「別」なひともいて、それがまた伝統的な「共産主義・全体主義」のいう「甘言」なのである。

日本に伝わった「大乗仏教」は、アジアの「小乗仏教」をバカにする傾向があるけれど、「お経」そのものが、「漢字表記」されたサンスクリット語のままなので、なにをいっているのかわからない。

チベット仏教では、『死者の書』を葬儀に使うことになっていて、これが、チベット語だから、それこそ死者に呼びかけて「人間への生まれ変わり」を補助する宗教的合理性がある。

けっして「畜生」やらにまちがって生まれ変わってはいけない信仰から、僧侶がきちんと人間になるための「手引き」をしてくれることがありがたいのである。

つまり、日本だと死者はいきなりサンスクリット語を理解するように扱われるけど、チベットでは自国語で説明・援助をしてくれる。

これが、宗教を否定し禁止もする「共産主義・全体主義」の宗教利用に応用されて、「甘言」となり、ひとびとを共産主義・全体主義の親派にさせて、革命を成し遂げようとする大目的のための巨大な「方便」になったのである。

方法論として、宗教を真似た、というわけである。

けれども、日本人が厄介なのは、徳川家康がつくらせた「檀家制度」が、明治になっても続いていまに至っている。
なので、自家の菩提寺がどんな宗派なのか?とか、どんな「教え」なのか?とかを詳細にしる必要がなくなった。

葬式で聞くお経の意味すら、遺族はしらない。

「一向宗(真宗)」があまりにも強い抵抗(一向一揆)をしたので、いかに封じ込めるか?の為政者にとって最善の策が、檀家制度だった。
つまるところ、これで日本人の宗教心を封じ込めたのだったが、封じ込められ続けているうちに、それが「ふつう」になったのである。

一向宗ですら、東西の「本願寺」に分裂して、それが「ふつう」になったのだから、ほかは推して知るべしなのだ。

さては、明治の大発明は、「日本教」だった。

うっかり忘れてしまうけど、「明治時代」の国家大目標は、なんといっても「不平等条約撤廃」という「悲願」であった。
ために、「近代国家の建設」が「文明開化」にもなったのである。

ヨーロッパの文明を近代文明と規定して、ヨーロッパ型国家体制を近代国家と規定した。
その矛盾は、わが国の相対的にも絶対的にもあった「文明的高度さ」を、自ら投げ捨てる必要があったことにある。

高みにあった文明を、低みにある文明にあわせるという悲劇的努力のはじまりだ。

しかかしてその理由は、圧倒的な科学技術の差だったし、ヨーロッパの植民地支配による富の蓄積だった。
「歯が立たない」の一言である。

ゆえに、わが国だけがヨーロッパ植民地にならずに、「独立」していた、というのは「方便」で、実質的に「不平等条約」によって、宗主国が特定できない「集団支配地」としての立場に置かれたのである。

この意味で、「日英同盟」とは、集団支配者の「筆頭」が英国だと特定された、という意味になるし、「不平等条約撤廃」とは、その方がヨーロッパ集団支配の「役に立つ」という意味でもある。

そんなこんなで、わが国がなんとかなったのは、周辺のアジア諸国がどこもかしこも「途上国」だったから、日本はすごいの自家撞着的方便、が国民に通じたことだった。

しかしながら、とうとう水戸黄門の歌のように、「後から来たのに追いつかれ」て、抜きさられてしまったいまがある。
もはや、わが国の現状は、「中進国」なのだ。

これは、バブル経済の発生と崩壊以降、政府がその無能ぶりを発揮して、「金満大国」が前提になっていることにある。
リーマン・ショックのあかつきには、ときの麻生太郎氏が、なんとアメリカに「日本方式の金融政策を教えてあげる」といって、胸を張ったものだった。

このことの「噴飯」は、日本の金融システムが誰によってコントロールされているかもしらない「阿呆」が、堂々と言い放つ絶望だったのである。

さてそれで、「盛夏」が終わり、電気代の請求書が届いた。

アッと驚くその額は、エネルギー不足を自作自演したヨーロッパの悲惨ほどではないけれど、昨年比ざっと5割増しという目も醒める表示であった。

昨今、「電力ひっ迫」という、「恐怖政治」が行われた。
東日本大震災後にやった、「計画停電」の「無意味」すら報道されないので、自分で調べない国民は欺されつづけている。
事実は、ぜんぜん「停電」の要はなく、恐怖政治のための「計画」だけはあったのだ。

さては今夏の電力ひっ迫も、IAEAからしたらまったく「?」の国内政策なのだった。

わが国の電力需要が、工場の外国移転と衰退で、2010年と2020年の比較では、なんと12%も減っているのである。
これを「埋める」べく、電気自動車への転換をいっているなら、余計なお世話なのだ。

いかに国民生活を楽にさせるか?ではなくて、政府の都合だけの政策になっていることに、「痛み」を実感するようになったのである。

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