終末の人工「ブラックホール」

世の中にはたくさんの「終末論」が言われている。
ほとんどが、伝統的「宗教」からの「終末論」で、その宗教とは、『聖書』を元にする、ユダヤ、キリスト、イスラムの「最後の審判」と「復活」の思想を根拠にしている。

世界が終末を迎えると、天使が吹くトランペットの音を合図に、過去の死者たち全員が、全知全能の神による「最後の審判」を受けて、「天国」に行くものたちが「復活」し、そうでない「地獄」に行くものは「業火に焼かれる」ことになっている。

だから、これらの宗教では、「死んだら必ず天国に行く」ことはないし、この世で善行を積んでも天国へのパスポートを神からもらえる確実性もない。
仏教のこの世での「修行」と「輪廻転生」の考えが混じり込んだ日本人の、宗教的ご都合主義をあてるのは間違いだ。

「中間」がない「二択」、というのも忘れがちな重要事だ。
ただし、選択するのは神であって、自分は「まないたの上の鯉」同然だ。
この意味で、「ゾンビ」はあり得ない。
元は西アフリカの「ブードゥー教」で、『聖書』とは縁もゆかりもない。

なので、『聖書』の宗教を信じるひとたちには、絶対に「火葬」はあり得ない。
「復活」のしようもないばかりか、全員を最初から「焼いてしまう」のはあんまりだ、という考えがあるからだ。

そこで、絶対的必須要件が「土葬」なのである。
ちなみに、人類最古の経典宗教、ゾロアスター教は「鳥葬」だ。
中東アラブやらの地域なら、その乾燥した気候によって衛生問題は回避できるけど、そうでない地域ではそれなりに問題になる。

ヨーロッパの料理に使われるハーブのひとつ、「ローズマリー」には、独特の芳香があるけれど、この植物があちらの「墓地」によく植えてあるのも、「臭い消し」の効果からだという。
だから、プレゼントとして、ローズマリーのタネやら苗を他人に贈るのは、立ち止まって考えた方がいい、ということになる。

日本だと、「彼岸花」がこれにあたる。
ただ、彼岸花は「球根」から生えるので、毒抜きをすると「緊急食料」になる。

縄文時代から食されていた、「栃の実」を食べるための工程は、おどろくほどの手間の連続で、なかでも「あく抜き」は流水で1週間という時間も要する。
なので、地方の山間部に行くとある、素朴な「栃餅(とちもち)」は、いまどきの家庭で拾った実から簡単に作れるようなものではない。

すると、縄文人がこの実を食べられるように「する」のに、いったいどんな時間と工夫を要したのか?
なんだか、必死さが伝わってきて、おそらくその食べるための完成した方法は、あっという間に伝わったのではないか?

これが、「栃の木」がある地方に共通の「お土産」となっている。
「どこでも見かける」のに、そんなことに想いを馳せてしまうから、ついうっかり買ってしまう自分がいるのは、縄文の血なのか?

『2001年宇宙の旅』のように、一気に時代を「現代」に飛べば、「物質のなり立ち」の研究から、スイスとフランスの国境をまたいで作られた、ドーナツ型の加速装置(LHC:Large Hadron Collider)がある。
作ったのは、ヨーロッパ共同原子核研究機構(CERN, セルン研究所)だ。

地下100mをくり抜いて、山手線とほぼおなじ距離のトンネルがそれだ。
ここでの「実験」で、陽子と陽子を光速近くまで加速して衝突させたら、「素粒子」が飛び出す、という成果があった。

「理論」を「実験」で確認したのである。

けれども、人間の探究心は「無限大」なので、その次、その次、ということに終わりはない。
終わるとすれば、物理学の最終目標、「統一理論」が完成したときになる。

「統一理論」が完成すれば、「宇宙のすべてが解明される」というけれど、本当なのか?
また新しい「謎」が出てくることはないのか?と疑ってしまう。

それでもって、「危険な実験」だとして、「裁判」で中止を求める訴訟も起きているのは、「人工ブラックホール」をつくる実験のことである。
この件は、故ホーキング博士も「懸念」を表明していて、その危険性に言及していたのである。

「光」を含めたすべての物質を吸い込んで、いったん吸い込まれたら二度と出てこられないのが「ブラックホール」なので、「極小」といえども、いったん生成したらどうなるのか?

博士いわく、周辺の物質を吸い込んで、「成長」してしまったら、「地球」すら吸い込んでしまうかもしれないし、「太陽系」すらも吸い込まれる可能性がある、と。
もちろん、「極小」だから問題はない、という議論もある。

だから、やってみないとわからない、「実験」なのである。

つまり、やってみないとわからない、ものに、「やるかやらないか」を裁判所が裁くという事態になっているのは、「科学者同士で決められない」からである。

すると、いったいどんな「法律」が適用されるのか?「以前」の問題として、「科学者の良心」が浮かび上がって、決められないのは「危険を顧みない」一途なので、「マッド・サイエンス」の境界にある。
「未知」ゆえに「知りたい=実験をやってみたい」という欲求との葛藤ともいえるけど。

しかるに、「人類」どころか地球という「天体」も終末を迎える可能性がある問題が、こんな「極小議論」でいいのか?が問題にならない不思議がある。

それは、「知らない」、「知らせられていない」という、もっと別の大問題がそうさせている。

少なくとも、地球環境論議なるものが「吹っ飛ぶ」実験の「可否」なのだ。

世の中には、「取り返しの付かないこと」があるけれど、この実験の「最悪の事態」とは、人間の「神経回路」よりも速く、自身を構成するすべての物質がばらばらになって、ブラックホールに吸い込まれるから、それは「一瞬」のことである。

神経の電気信号が脳に届く前に、脳の物質が崩壊するので「痛くない」ということ「だけ」が唯一の「救い」である。

その後のことは、観察者が存在しない。

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